藍上雄のガラクタ箱

マリーの部屋(Mary's Room)

 1982年、フランク・ジャクソン氏が提示した哲学的思考実験についてです。(思考実験内容は、wikipediaより抜粋)

 白黒の部屋で生まれ育ったマリーという女性がいる。マリーはこの部屋から一歩も出た事がない、つまりマリーは生まれてこのかた色というものを見た事がない。しかしマリーは白黒の本を読んで様々な事を覚え白黒テレビを通して世界中の出来事を学んでいる。

 マリーは視覚の神経生理学について世界一線レベル専門知識を持っている。光の特性、眼球の構造、網膜の仕組み、視神経や視覚野のつながり、どういう時に人が「赤い」という言葉を使うのか、「青い」という言葉を使うのか、等、マリーは視覚に関する物理的事実をすべて知っている。

 さて、彼女が、この白黒の部屋から解放されたらいったいどうなるだろうか。生れて初めて色を見たマリーは何か新しい事を学ぶだろうか?仮にマリーが何か新しい事を知るとしたら、定義より、それは物理的事実ではない。その場合 唯物論(物理主義)は偽である。


 「マリーの部屋」という題材に興味を覚えて、個人的に考えている事をまとめてみました、白黒の部屋から、天然色の外へ出るという環境の変化に対して、「順応」(「彼女自身の持っている知識」と「彼女の置かれている環境」をすり合わせるという過程)が必要だと思います。もし、クオリアが発生するとすれば、見たものを認識する前でなければならないと考えます。「感じる」事は、「認識する」事とよく似ていますが、「認識する」事よりも、不正確である事は、間違いない事だと思います。生き物である以上、「認識する」よりも、「感じる」事で判断した方が、より早く「自分或いは、自分達のとって 有益と成る(又は、不利益を被らないような。)判断」をする事が出来るので、そうした、判断回路が備わったのかも知れません。(物理主義的な考えですね。) もう一つの考え方ですが、「正確に認識」するための「動機付け」と成る事も確かなようです。(この場合も、自分或いは、自分達の有益と成る事(又は、不利益を被らないような事。)を優先しているものと思います。

 もう少し考えを砕いて説明すると、色というものを、初めて見る訳ですから、目にした色が、何色であるかは、すぐには判別することが不可能だと思います。しかし、実際には、「色を感じている事」は事実であり、これが、問題提起されている「新たに知る事の出来た事実」であったとして、「学ぶ」という事が「意識の基」に行われなければならない事だとすると、「色を感じると言う体験」は「新しい事を学んだ事」であるとするには、矛盾が生じると考えます。少なくとも「身の危険を感じた」動物が、その危険が何であるか知らなくともその防御策(例えば、逃げる)を講じることは、「学ぶ」という事ではないと考えます。この時点では、既知の知識を再確認しただけだと思います。

 例えば、「赤い色」の中でも、特に「好きな(嫌いな)赤」と言う色が見つかったとすると、これはクオリアと呼べるかもしれません、この事は、自分、或いは自分達にとって快い事(不快な事。)を選別しているので意識的な事だと考えられます。このような事は、「色を感じる」という体験無くしては、現れない事象かも知れません。しかし、「色」が「快い(不快)」というのは、物理的に区別できない事でなので。「唯物論(物理主義)は偽である。」事が説明できると思います。

 生物にとって体験的な刺激は受動的(意識の外で処理されている)事の方が多いと考えられます、割と高等な生物は、能動的に「快い状態」を作る事(体験における学習もこのの範囲に含めて…。但しマリーさんは優秀な学者さんなので体験による学習という事は有り得ないかもしれませんね。)が、可能ですが、これは限られた範囲と時間内で起こる事なので、物理学全体からみると、些細な事に思えます。イメージとして、増大する、エントリピーに対する光合成の様な物に思えます。