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【vol.226】吉村実紀恵『バベル』短歌研究社

庇護の手をふりほどきわが見上げたる空の高みに雲雀うしなう

何をもて天与の性と和解せむ遂にいのちを産むことなくて

落ちてなお色ある花に壮年を過ぎたる心添わせむとすも

花束を抱えて帰る花束にふさわしき顔よそおいながら

みずからの色を忘るるまで浴びたし銀座アップルストアの白を

会社には行かぬ、行かれぬ君のため取り分ける〈シェフの気まぐれサラダ〉

うなだれて咲く水仙の首ほそし置かれた場所で咲けと言われて

気の抜けた炭酸水と答えおり愛でなければ何かと問われ

開閉をくり返すドアとおく見る〈無理なご乗車〉もはやせずとも

明日からはまた現実と言う人の今日はそれなら何であろうか


大学四年で短歌をはじめ、矢継ぎ早に二冊の歌集を出し、30歳でいったん歌の世界を離れたという作者。『バベル』は22年ぶりの第三歌集。子を持たず働く女性の複雑な心境に多く共感。

【vol.225】俵万智『アボカドの種』角川書店

人間かどうか機械に試されて人間として答えつづける

言葉から言葉つむがずテーブルにアボカドの種芽吹くのを待つ

「どんぶりで食べたい」というほめ言葉息子は今日も言ってくれたり

二人がけの席に二人で座るときどんな二人に見えるのだろう

色づいてはじめて気づく木のようにいつも静かにそこにいる人

「割烹着のように」着るよう渡された検査着うまい比喩だと思う

春だから、そんな理由があっていいミナ・ペルホネンのスカートを履く

心配をさせてくれない人だから救急箱のように見守る

宇宙から地球を見れば人類は集まることが好きな生き物

ちぐはぐなパッチワークを見るように五輪のニュース、コロナのニュース

三か月ぶりの病院に向かうとき同窓会のように化粧す

ダイソーの迷路に息子見つければイメージよりも大きかりけり

「はじまり」と「おわり」にそれぞれ一つずつ「り」がある男と女のように

第二志望迷う息子の傍らにおせちカタログ眺めておりぬ

簡潔にネタバレをするタイトルの「ジキルとハイドに恋した私」

ルーティンを増やしてごめん老母にはヤクルト1000がストレスになる

白い娘と黒い娘がおりましてどちらが出るか日替わりランチ


50代最後の375首を収めた第七歌集。NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」の4か月にわたる取材中に詠んだ50首が核になっている。番組を見たが、サブタイトル「平凡な日常は、油断ならない」の通り、生活の中にあるわずかな心の揺れを見逃さず、じっくりこだわって一首に昇華している。時代は変わっても、詠む素材が変わっても、作風は変わらないと改めて思う。一方、これらの作品は「俵万智」というクレジットが付いた上で評価されるものだとも思う。マネてもダメだろう。

【vol.224】大松達知『ばんじろう』六花書林

咲くためにこれまで生きた菜の花のなるべく咲いてない束を買う

レーズンになりゆくまでをひそやかな喜怒哀楽のあっただろうに

アンビギュアス、アンビヴァレント、アンビシャス、三人寄ればひとりとふたり

キリンビール飲んでたまさか思いおりキリン、キリングつまりは殺し

モルヒネと言えばなにかが救われてどこかが壊れゆくなりそっと

霜月のとある深夜の首都高を遺体の父はベルトされて行く

〈お父さんのお通夜〉とわれの口が言い耳が聞きたりよくわからない

なにゆえに母は言い切ったのだろう父は白木の棺が好きだと

深呼吸しながらシエラレオーネの山脈(シエラ)おもえば私語はしずまる

狂わせてしまったようだかんかんと飛び切り燗の加賀の〈加賀鳶〉

感情と感情的に違いありmumble bumbleぱぱんどぱぱん

死ぬまえにたべたいものをたべる日のようにしずかなチーズ牛丼

いますこし傷つけられるゆとりある夜を話してすこし傷つく

きっとあくびしているんだな手のひらをマスクの上にかざしたひとり

柿食えば「飲んでるとこに柿出すな」そう怒りたる父を憶えり

ひとりひとりレジに寄りゆき告解のごとしよ朝のセブン‐イレブン

食べたお皿もってきてねと妻が言うお皿は食べてないと子が言う

〈選べる〉は〈選ばなくてはならない〉でコーヒーブラック、ホットで先で

「5年おきで買い替えてゆくとしてですよ、先生はあと5、6回です。」

とんかつに添えられているひとやまの、いうなれば傷だらけのキャベツ

グンカンと呼ぶほかなくて呼んでいるいやな感じは食えば消えたり

見ることは祈ることとは違うけれど漕ぎつつ二秒見ている祠

標本木のような生徒のひとりふたり解き終わるまでちらちらと雲


歌人として、教師として、夫として、父として充実した時間を過ごす。一方、お父様の死や、挫折(めずらしく負の感情)もある第六歌集。言葉への興味、こだわりは一段と深まり、場面の切り取り方には独自性がありつつ一読納得できる。誰もが潜在意識下にある感情を言語化してくれているようだ。

【vol.223】富田睦子『声は霧雨』砂子屋書房

わがうちに金春色の壜がありあふれだすとき桜咲き初む

伸びし陽に長くのびたる影の手を下げるその手はもう繋がぬ手

ドクダミは黙って咲いてまなうらに白き小さき紋章(しるし)をのこす

芍薬の莟に「ゆらら」と名付ければ枯れたるときには泣かねばならぬ

うっそりとこころ離(さか)れば伝えざる言葉を夜の川に棄てにゆく

鯉の背のぬるぬるふくらむまなざしに互いの娘を褒め合う母ら

桜守さくらを見つめるまなざしで発表会を母ら見つめる

わが耳は自分で見えぬゆえにわが耳をいちばん知るひとがいる

冬空をだらりと脚をさげて飛ぶゴイサギのこころで座るスツール

今はまだ死ぬのが怖いヒレ肉を油に落とすすれすれの指

樹にありて地にありて常より美しく憎悪の炎のように紅葉

触れあわぬ合せ鏡にももいろのラナンキュラスは果てしなく咲く

春の虚空 されどさくらは咲きはじめ一枝を振りてたましいを招(よ)ぶ

目を覚ます夢をみている夢に似て緊急事態宣言解除

七月のおもたきまぶたを両の手で押さえるときの草むら、ほたる

開くとき用心せねば崩れくる押し入れがわが胸底にもある

生きめやも/生きざらめやも 熱の夜にふいに浮かび来どちら正しき


あとがきに「この時代を生きるごく普通の人間の生活が表れていますように」とあり、その目指すところは十分に達成されている。その上で、単なる日常詠に留まらず、詩に昇華できているのは、心情をあらわす比喩の素晴らしさによるものだと思う。同じ母らのまなざしでも「鯉の背のぬるぬるふくらむまなざし」と「桜守さくらを見つめるまなざし」のように、その違いが明らかである。2018年春~2021年秋までの381首を収めた第三歌集。充実期の歌集である。

【vol.222】福士りか『大空のコントラバス』柊書房

御包(おくる)みから顔のぞかせる児(こ)のやうに中一男子詰め襟高し

受胎告知ほどにあらねどパーキンソン病の告知のわけのわからなさ

病院から帰る頃には病人となつてしまつて歩幅の狭さ

津軽弁「空骨(からぼね)病み」とふ地ビールを飲めばゆるゆる空骨が病む

いいいるか ららららいおん きききりん弾む名前を持ちたし秋は

羽はもう水を弾かず残年をかぞへて中学主任退きたり

「ドーナツは穴があるからゼロカロリー」どこか政治の理屈に通ず

グランドにひびく歓声そのこゑの真中に立てば夏空ふかし

床も壁も白く塗りたる化粧室出でむとすれば見失ふドア

投薬と運動のほか治療法なければ歩く 歩くために歩く

オオデマリ、コデマリ揺らす夏の風さみしいときは一緒に揺れる

この雪はいつまで続く空深くコントラバスの鈍き音する

何をするにしても名前を問はれればいつしか名前は記号のかるさ

さみしいと言へばさみしくなるこころ鷺はひつそり片足で佇つ

クリスタルのペーパーウエイト置く窓辺 ひかりは虹を虹は希望を

恥の多い人生の終はることなきか『人間失格』二〇九刷

はつゆきは〈歓〉をふぶきは〈憂〉を連れ津軽野づらを白く染めたり

散る花ありつぼむ花ありつなぐ手のぬくみが今のかけがへのなさ


教師の歌、雪国の歌、ほのかな相聞に加え、難病までも福士さんの詩の世界へ昇華し見せてくれる。2018年~2023年の400首を収めた第五歌集。福士りかの歌は次の章へ移ったのだと感じた。

【vol.221】後藤由紀恵『遠く呼ぶ声』典々堂

蛇口はた床や言葉の少しずつゆるむ家にてちちははと暮らす

まだ少しこころ残して東京に降るはつゆきのニュース見ており

路地に咲くほたるぶくろの鈴なりのひとつひとつに入れるかなしみ

すべらかな幹として立つ青年のそのまま口を開かずにいよ

性別を持つ淋しさよ実の落ちぬ銀杏並木を見上げておりぬ

お悔やみをメールに述べてなにとなく壁にむかいて正座をしたり

風のふね木のふね水のふねとなる女のからだ夜を浮かびぬ

育ちよき方を兄(え)として朝ごとに水を遣りつつ弟(おと)を励ます

陽の当たる場所から咲いて散ってゆくその正しさにさくらよさくら

浸されて色を変えゆくひとひらの白布のように春の心は

どこへでも行けるからだは雛の日の陽ざしの中を職場へとゆく

契約社員(けいやく)も育児休業(いくきゆう)取れると改正を誇らしげに告ぐ天からの声

声ならぬ声は火となりわが喉の金の小鳥を焼き尽くすまで

スカートの裾をゆらして百合のごと人を待ちたる季節のありき

くらやみをほのかに照らす希望とはこんなかたちとデコポンを見る


第三歌集。2013年~2021年の481首を収める。まず韻律の美しさに魅了される。韻律がないがしろにされがちな現代短歌において、重要なことのように思う。歌集全体にしんとした淋しさが漂う。まだ真冬ではない、少し寒くなりかけた初秋のイメージだ。

【vol.220】濱松哲朗『翅ある人の音楽』典々堂

どうせこれも捨てられるつて知つてゐてそれでも揃へてかへす割り箸

ぶれぶれの写真に残るよろこびが削除の指を遠ざけてをり

冒険の途中のやうな顔つきでホットドックを立ち食ひしよう

耳で聴く風景ならば雪原は最弱音のシンバルだらう

白鳥を焼くをとこゐて私にもすすめてくれるやはらかい部分

よく死ぬと知つてゐて読む小説に不意に咲き乱れる沈丁花

ここだけがやけに明るく人生の急所としてのサービスエリア

またひとりここからゐなくなる春の通用口にならぶ置き傘

非正規で生きのびながら窓といふ窓を時をり磨いたりする

心身を病みてうしなふ職あればわれに値引きのパンやさしけれ

夢を持つためにも金の要ることを水のにほひに切花の朽つ

あいつの分も生きてやらうと云ふ声に不意に溺れたやうな気がして

ゴム印の角欠けをればうつらざる番地のうへに風のさまよふ

偶然を運命と言ひ張りながらおまへが俺のぬかるみに来る

エレベーターごとゐなくなる物語われに起こらず十階へ着く

匂ひからこはれはじめて桃の実をしづかに啜る夜の流しに


抑圧や諦念を抱えつつ、しかし柔らかい。世界は薄暗いが、そこには小さな灯がある。そんな印象の一冊。現代の生きづらさを丁寧に歌に昇華している。1988年生まれ、「塔」所属の第一歌集。2014年(26歳)~2021年(33歳)の420首を収める。

【vol.219】吉川宏志『雪の偶然』現代短歌社

鶫(つぐみ)とは鳴かざる鳥と書かれおり殺されるときは鳴くのだろうか

ゆうぐれの鳥啼く下に墓石の文字を読みおり文字とは傷だ

『野火』のあと字幕が宙を昇りゆくそのほとんどは死者を演じき

スーダンに運ばれてゆく隊員は印鑑を捺し拭いしならむ

裸木をくぐりぬけゆく雪が見ゆ あやつらるるごとく自由のごとく

紙の白さ、雪のしろさは異なるを折々に窓ながめつつ読む

冬の朝受験に向かう娘なり秒針のある時計を貸しぬ

コーヒーの碗をかちりと皿に置く共謀罪の生まれゆく夜に

橋ができてもう川幅は変わらない風に巻かれる橋を渡りぬ

もう息は帰ってこないのに口をこんなに大きくあけて、母さん

ずっと離れて暮らした母は死ののちも離れたままで 綿虫が飛ぶ

隣室に「おんしゃ」「おんしゃ」と面接の練習しつつ籠もる娘は

指を誘うかたちに葡萄置かれあり少し眠って目覚めた夜の

(        )の中にウイルスがいるかもしれず焼き尽くしたり

牛と豚混じるミンチが真っ白いパックに粘りつくのを剥がす

慰安所の扉に続く列がある 水溜まりを避けて途切れたる列

二十六年過ぎてしまいぬ大根を擂りつつ二人暮らしにもどる

この海を見るのは最後でないはずと思いて去りぬ五十二歳(ごじゅうに)の旅は

氷雨降る 人をあきらめさせるため〈偶然〉という言葉使いぬ

縦の空に黒き煙はのぼりゆくスマホに撮りしをスマホに見たり

焼け跡を歩きて溶ける靴底の臭いは想像できる できるか

キーウに居る我をおもえり眼鏡がまず砕けて見えぬ銃口に向く


第九歌集。社会詠、時事詠が多い。印鑑を押し拭う仕草や、水溜まりを避けて途切れた列など、その細部の描写により想像の世界であってもリアリティが増す。また、疑問形も多く、読者はふと考えさせられる。母への挽歌や巣立ってゆく子供達、変容する家族の姿を詠む家族詠は味わいが増す。

【vol.218】山田恵里『秋の助動詞』六花書林

「セカンドとサードの間」とヒント出し野球部員に読ませる「せうと」

子を抱くは子につかまりているごとし「子のいる我」に守られている

いくつもの口を開きて人生を吞みゆくごとし「癌」という文字

はね、止めを呑みこんでいるゴシック体文化を滅ぼす字体にあらん

挨拶もなしに逝きたりある朝(あした)父は固くて父は固くて

死は必然 生は偶然 なかぞらに圧倒的な死者のひしめく

寝返りを打ちて季節は春となり白き乳房を見せる木蓮

焼酎の海から外を眺めれば覗いて揺するおばさんがいる

とろとろと小(ち)さき心臓煮るごとく鍋のいちごは従順になる

形なきものが形をもつときに生(あ)るる優しさ初雪が降る

子の下宿フツーにきれいな部屋なれどキッチン磨く母というもの

反論は酒席で為され蓮根の天ぷらの穴の向こうが遠い

ランタンで区切られているデモ会場右は撮影不可なるエリア

「お母さん」と母に呼ばれぬ「お母さん」と母を呼べなくなった私が

だまし騙し開け閉めしていたファスナーが騙されなくて財布を出せぬ

引き出したアルミホイルを戻すごと訂正をせり昨日の授業


COCOONの仲間の歌集が次々と出て嬉しい。山田さんは、高校の国語教員であり、妻であり母であり子であり、さまざまな顔を見せてくれる。

【vol.217】菅原百合絵『たましひの薄衣』書肆侃侃房

魂を揺らす鞦韆(ふらここ)しづかなりサン・サーンスのスワンの眠り

ほぐれつつ咲く水中花ーゆつくりと死をひらきゆく水の手の見ゆ

会ふことと会はざることの境目に待つとふ不可思議の時間あり

たましひのまとふ薄衣(うすぎぬ)ほの白し天を舞ふときはつかたなびく

ノアのごと降りこめられてゐるゆふべcorps(からだ)をcorps(かばね)と訳し直しぬ

掬ふときなにかを掬ひのこすこと 〈ひかり〉と呼ぶと死ぬる蛍(ほうたる)

水差し(カラフ)より水注(つ)ぐ刹那なだれゆくたましひたちの歓びを見き

触れあへぬ間隔もちてたつ並木それぞれ違ふ影をおとして

スプーンの横にフォークを並べやり銀のしづかなつがひとなせり

ブラインド越しの光のずたずたに曝されてをりきみの午睡が

語源なるpassio(苦)の泉よりpassion(情念)の潮(うしほ)吹きだすまでをたどりつ

風吹きてゆらぐ水鏡(すいきやう) 夕さりを存在(エートル)灯るほどにひと恋ふ

「わたしの夫(モン・マリ)」と呼ぶときはつか胸に満つる木々みな芽ぐむ森のしづけさ


心の花の作者の第一歌集。印象をひとことで言うと「まったき」。旧仮名・文語であり、破綻がない。作者はフランス文学の研究者であり、フランス語と日本語をルビ等の表記の工夫により使い分けている。随所に水の気配がするのも特長。

【vol.216】千葉優作『あるはなく』青磁社

「用意」から「ドン!」のあひだの永遠を生まれなかつたいのちがはしる

《こはれもの注意》の札を このところ海を見たがる君の背中に

思ひ出の手紙の墓となるだらう鳩サブレ―の黄なるカンカン

かなしみは言葉の先を尖らせて針の雨降るゆふぐれの街

真つすぐな胡瓜の並ぶスーパーにぼくのゐるべき場所はなかつた

ほんたうは僕が変はつたせゐなのに度が合つてないと言はれるめがね

けふもまた怒られてゐるぼくのため万能ぢやない葱を買ひたり

釘を打つときにイエスの掌(て)の見えてわれに冷たしゆふべの雨は

音もなく雨が降るなりほんたうにかなしいときのなみだのやうに

以前よりやさしくなつた庖丁がかぼちやをうまく切れないでゐる

二千年前からミロのヴィーナスがしづかに耐へてゐる幻肢痛

月光に濡れて窓辺に吊られゐし形状記憶喪失のシャツ


塔短歌会の作者の第一歌集。2015年~2021年の291首を収める。定型のリズムと詩情のある言葉、旧仮名で古典の要素も感じられるが、確かに現代の若者の姿がある。「万能ぢやない葱」「形状記憶喪失のシャツ」等の欠落感に読者として寄り添いたくなる。

【vol.215】有川知津子『ボトルシップ』本阿弥書店

凍て初むる湖面に月のひかり差す小鹿を誘ふごとくやさしく

あやとりの相手を待つてゐるごとし送電線をむすぶ鉄塔

ふるさとのあらたしき日のおほぞらよ何を隠してかくまで青し

うみかぜにひらき初めたる浜木綿のはなびらほそしつよし真白し

母の手に手をかさねたき衝動が冬のみかんのなかよりあふる

ぴんと飛ぶハマトビムシは〈磯のんぺ〉島を出づれば不思議な名なり

いとよりもいとよりに振る海塩(うなじほ)も振り手のわれもこの島の産

卓上にこほり枕の口金(くちがね)が置かれてありてむかしのごとし

椅子の人なにをカウントしてゐたかわが通るときカチャリと鳴らず

いのちからいのちいただくいのちです鯨供養を今年も終へる

小数点以下の気持ちをひきつれて星の林をゆくははきぼし

パックの中の苺にのこるはなびらは船に手をふる島のやうです

蝶なりしころの記憶が湧き出でてスティック糊がころんとうごく

ベルリラがパート練習してをりぬ空を見上げてたたくベルリラ

自然界には今はもう無い天然痘いまはもうない、自然界には

せりなづなすずなすずしろすずやかに小鈴鳴るなり祖母の待針


コスモス、COCOONの仲間、有川知津子さん待望の第一歌集。有川さんは長崎、五島列島の出身。意図的にそう編集してあるようだが、一冊を通して波音が通奏低音のように流れている。ゆっくりして懐かしい時間だ。

【vol.214】永田淳『光の鱗』朔出版

すみません火を貸してくれませんかのごとき気軽さに戦争前夜

寂しさのいろ持ち寄りて純白とならぬ桜を創りたまいき

川辺には川風吹けり同時には二つのことを悲しめざるに

盈ちるごと霧は岸辺を鎖しゆけり支笏湖の上にわれら浮きいて

没り際の山に大きく響きいん春の夕日の沈みゆく音

紅しとも蒼しとも見ゆ 高瀬川の桜は夜に浸されてゆく

伏せらるるカップの抱きいし小さき闇朝のわが手が展きていたり

ゆかざれば常に憧れ行きてまたさらに思ほゆ子規庵の玻璃

遅れ来し四人は釣りの仲間なりまだ思い出は誰も語らず

朧ろなる花の下道(したじ)のほの明かりすずろすずろと人の行き交う

夜は秋 禾をゆらして渡りくる風は生身の寂しさの中

軋みつつ日々は過ぎゆく風中のあかまんじゅしゃげしろまんじゅしゃげ

あるなしの四月の風にひかり曳き高きより降る芽鱗(がりん)数片

時折に光集むる一筋の繊きにたより降りてくる蜘蛛

翳を出て翳にもどりて飛ぶあきつ微温の風に翅脈ふるわせ


第四歌集。「塔」の選者となった2015年以降の445首を収める。前歌集では、叙景歌しか作らない時期があったと「あとがき」に書いていたが、お母様のご逝去等を受けて人が登場する歌も多くなった。本歌集の題材は実に豊富であるが、わたしはやはり叙景歌がいいように思う。

【vol.213】水原紫苑『快楽』短歌研究社

わたくしの溶けゆく空に星星の生老病死きらきらと在り

鏡持つ人類さびし 鳥、けもの、石、夕焼も鏡見よ 狂へ

くれなゐの萩に黄蝶がとまりけり神は死すともまなこ残らむ

自由人太陽は奴隷なる地球に命ず〈言葉をもちてわれに仕へよ〉

自転車に乗らずは宇宙にゆかれずと欺きたりしグラジオラスよ

萩の枝に四十雀乗り地球外生命のごとくゆれゐたりけり

流れ星とよばれたること限りなき幸ひとして大気圏に入る

黒妙(くろたへ)のたましひひとつ泛ばせてにんげんのごとく湯浴みせりけり

凶器幾つかばんに入れて上りゆくこの坂道は神のひたひか

井戸なりしわれより夢を汲みてゆく少年少女銀髪にして

自己愛の指輪外せばひかりけり夜(よる)と葡萄と山羊と帆船

消え残る雪のさびしさ汚れたる白は叫びと白鳥が言ふ

背後より死は迫りけりまひるまをかへり見すればかぎろひにけり

疲れたる天使はつばさ外しつつけむりぐさ吸ふ月光の中

透明のわたくしならむさよならと言ひしかば樹樹はふりむきにけり

くちびるのふるへいづるをわだつみゆとほく来たれるゆゑとおもひき


「宇宙を浮遊する魂の歌」そんな印象を持った一冊。魂は実に自在であり、姿かたちを変え、場所を変え、時空を行き来する。通底して宇宙への憧憬が感じられ、日常から非日常へ飛躍する壮大な世界観がある。言葉そのものが持つ力を活かし、怖くて美しい。

【vol.212】栗木京子『水惑星』雁書館

観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)

少しづつ逞しくなり少しづつ疎まれはじむ迷ひ仔猫は

トルソーの静寂を恋ふといふ君の傍辺(かたへ)に生ある我の坐らな

緑陰に入り来て蝶は噓ひとつつき来しごとく羽合はせたり

鶏卵を割りて五月の陽のもとへ死をひとつづつ流しだしたり

積む白に舞ひ立つ白を重ねつつ北の樹林に雪降り頻る

待つことを我は選びぬ夜の街に風と風との出会ふ音する

人にまぎれ回転扉押すやうに幸せにふと入りゆけぬか

灼き尽すまで幾たびも繰り返す火の屈伸を見つめてゐたり

難(かた)きこと語りて長く歩みしが疲るれば妻と夫に戻る

さりげなく疎遠になりてゆきたしと雨のホームにひとを見送る

いたみたる林檎の果肉そぎ落とす甘ゆることも武器のひとつか

脱ぎ捨てしドレスの長きファスナーが傷口のごと闇に光れり

花束をほどけば細き茎をもつ花のさびしく顔そむけ合ふ

幸せを見せびらかしに日曜の動物園に来て象を見る

いのちよりいのち産み継ぎ海原に水惑星(みづわくせい)の搏動を聴く


約40年前の歌集をCOCOON有志で読む。時代を加味して読む必要があるが、栗木は今で言うリケジョ。京都大学理学部在学中に「二十歳の譜」で角川短歌賞次席となる。その後、就職、結婚、出産と娘→妻→母という女の三体を経験する。それは不幸ではない。しかし幸せでもない。このジェンダーに対する問いは、今に通じるように思う。

【vol.211】中川佐和子『夏の天球儀』角川書店

雨夜(うや)にたつ枝垂れ桜は人間の孤独に増(ま)さる孤独を持てり

長くながくかかりて選ぶ夏帽子卒寿の母に気力のわきて

破水して生み落とさんとするまでの子の腰さする噓つきながら

さみしくはないと言い切るときにわくさみしさを知る娘の前に

みどりごはかぶせた帽子を投げ捨てて歩きはじめるそれでもいいよ

天球儀ながめておれば人間を小さく感ず夏の光に

コハクチョウが羽を休めに湖(うみ)に来るまでを思いて駅頭に立つ

ハロウィンの仮装の魔女の児が駆ける元より仮面のおとなの前を

散る気配なくて散りゆく桜ばな近づきたれば刃をもつごとし

蜘蛛の巣がジューンベリーの枝先にかかるくらいの嫌な感じだ

独り住まいの母の庭先どくだみがぎっしりと咲くあきらめるまで

蓮の葉の上を雨滴はころがるにどこかへ行ってしまおうと言う

一(いち)、二(にい)、三(ちやん)、四(ちい)、六(ろく)、八(はち)と声聞こえどこかへ散歩す五と七の数

冬の陽といえど海面(うなも)の反照をすればカモメは光の番人

母がわれにのこししもののさみしさよ硝子コップの二藍の色

鈴虫と閻魔蟋蟀(えんまこおろぎ)、言の葉の持つ迫力の差を思いたり


新しい命と死に向き合った時期。お孫さんの誕生とお母さまの逝去、また岡井隆さんを見送る。桜やコハクチョウ、ジューンベリー、どくだみ等々、自然とともに感情が動く。