【vol.219】吉川宏志『雪の偶然』現代短歌社
鶫(つぐみ)とは鳴かざる鳥と書かれおり殺されるときは鳴くのだろうか
ゆうぐれの鳥啼く下に墓石の文字を読みおり文字とは傷だ
『野火』のあと字幕が宙を昇りゆくそのほとんどは死者を演じき
スーダンに運ばれてゆく隊員は印鑑を捺し拭いしならむ
裸木をくぐりぬけゆく雪が見ゆ あやつらるるごとく自由のごとく
紙の白さ、雪のしろさは異なるを折々に窓ながめつつ読む
冬の朝受験に向かう娘なり秒針のある時計を貸しぬ
コーヒーの碗をかちりと皿に置く共謀罪の生まれゆく夜に
橋ができてもう川幅は変わらない風に巻かれる橋を渡りぬ
もう息は帰ってこないのに口をこんなに大きくあけて、母さん
ずっと離れて暮らした母は死ののちも離れたままで 綿虫が飛ぶ
隣室に「おんしゃ」「おんしゃ」と面接の練習しつつ籠もる娘は
指を誘うかたちに葡萄置かれあり少し眠って目覚めた夜の
( )の中にウイルスがいるかもしれず焼き尽くしたり
牛と豚混じるミンチが真っ白いパックに粘りつくのを剥がす
慰安所の扉に続く列がある 水溜まりを避けて途切れたる列
二十六年過ぎてしまいぬ大根を擂りつつ二人暮らしにもどる
この海を見るのは最後でないはずと思いて去りぬ五十二歳(ごじゅうに)の旅は
氷雨降る 人をあきらめさせるため〈偶然〉という言葉使いぬ
縦の空に黒き煙はのぼりゆくスマホに撮りしをスマホに見たり
焼け跡を歩きて溶ける靴底の臭いは想像できる できるか
キーウに居る我をおもえり眼鏡がまず砕けて見えぬ銃口に向く
第九歌集。社会詠、時事詠が多い。印鑑を押し拭う仕草や、水溜まりを避けて途切れた列など、その細部の描写により想像の世界であってもリアリティが増す。また、疑問形も多く、読者はふと考えさせられる。母への挽歌や巣立ってゆく子供達、変容する家族の姿を詠む家族詠は味わいが増す。