【vol.229】小島ゆかり『はるかなる虹』短歌研究社
全身の感覚はどんなふうなのか生まれ変はつて毛蟹の場合
はるかへとおもひをさそひ冬の日の岬のやうに老犬ねむる
冬陽澄む川原に会ひし少年と老人おなじ人かもしれず
無風なるゆふべは奇(あや)し灰白(はひじろ)のさくらは犀のやうにしづけし
黄の花はおもひでこぼれやすきはな連翹といひ山吹といひ
二、三人はみでてはまたもどる列りッくりッくとランドセルゆく
ふるさとの家の合鍵もうどこも開かぬ古き鍵ひとつ持つ
雷鳴のとどろく夜をスプーンに舌触れて金のスープを飲めり
オンライン会議終はればしんとひとり生身(なまみ)の桃を猛然と食む
秋風はつまさきに沁み ふるさとの家へ燐寸をとりに行きたし
はばからず冷蔵庫にも話しかけ愉しくもあるかゆるむ身体
死を報(しら)すこゑはあるのか夕靄にかうーかうーと鴨は呼び合ふ
火のやうなもみぢの下を 最後かもしれない 母の手をとりて行く
ちぎれたるこころのごとし冬晴れにわが干す母のしろい靴下
〈よみがへり日和〉と言はん冬の陽のさんさんとけふ父に会ひたし
石垣にすきま見えねどしるしるととかげ出で入るこことむかうを
猛暑日の刃物重たく腫れ物のやうな完熟トマトを切りぬ
みづからの噓に追ひつめられて泣くこどものなかのまひまひつぶろ
パスワード、覚えてません。面倒な世の中のめんだうな人われ
巻き尺のびゆんと戻れば手のなかにカンブリア紀の巻貝ひとつ
おもはないことも大切たらちねをおもへばかなしみにまつしぐら
知らぬ間に世はすりかはり小綬鶏がChat Chat GPT(チャットチャットジーピーティー)と鳴く
死んだ子の星点滅すクリスマスのくじは六枚、引くのは五人
第十六歌集。2020年の終わり~2024年の初めまでの468首。オノマトペ、小動物、身体感覚、時空移動、ユーモアetc.どのページをめくっても、確立された小島ゆかりの文体が息づいている。それにしてもずいぶん〈老〉が多くなったような…。〈古〉も。