【vol.216】千葉優作『あるはなく』青磁社
「用意」から「ドン!」のあひだの永遠を生まれなかつたいのちがはしる
《こはれもの注意》の札を このところ海を見たがる君の背中に
思ひ出の手紙の墓となるだらう鳩サブレ―の黄なるカンカン
かなしみは言葉の先を尖らせて針の雨降るゆふぐれの街
真つすぐな胡瓜の並ぶスーパーにぼくのゐるべき場所はなかつた
ほんたうは僕が変はつたせゐなのに度が合つてないと言はれるめがね
けふもまた怒られてゐるぼくのため万能ぢやない葱を買ひたり
釘を打つときにイエスの掌(て)の見えてわれに冷たしゆふべの雨は
音もなく雨が降るなりほんたうにかなしいときのなみだのやうに
以前よりやさしくなつた庖丁がかぼちやをうまく切れないでゐる
二千年前からミロのヴィーナスがしづかに耐へてゐる幻肢痛
月光に濡れて窓辺に吊られゐし形状記憶喪失のシャツ
塔短歌会の作者の第一歌集。2015年~2021年の291首を収める。定型のリズムと詩情のある言葉、旧仮名で古典の要素も感じられるが、確かに現代の若者の姿がある。「万能ぢやない葱」「形状記憶喪失のシャツ」等の欠落感に読者として寄り添いたくなる。