【vol.223】富田睦子『声は霧雨』砂子屋書房

わがうちに金春色の壜がありあふれだすとき桜咲き初む

伸びし陽に長くのびたる影の手を下げるその手はもう繋がぬ手

ドクダミは黙って咲いてまなうらに白き小さき紋章(しるし)をのこす

芍薬の莟に「ゆらら」と名付ければ枯れたるときには泣かねばならぬ

うっそりとこころ離(さか)れば伝えざる言葉を夜の川に棄てにゆく

鯉の背のぬるぬるふくらむまなざしに互いの娘を褒め合う母ら

桜守さくらを見つめるまなざしで発表会を母ら見つめる

わが耳は自分で見えぬゆえにわが耳をいちばん知るひとがいる

冬空をだらりと脚をさげて飛ぶゴイサギのこころで座るスツール

今はまだ死ぬのが怖いヒレ肉を油に落とすすれすれの指

樹にありて地にありて常より美しく憎悪の炎のように紅葉

触れあわぬ合せ鏡にももいろのラナンキュラスは果てしなく咲く

春の虚空 されどさくらは咲きはじめ一枝を振りてたましいを招(よ)ぶ

目を覚ます夢をみている夢に似て緊急事態宣言解除

七月のおもたきまぶたを両の手で押さえるときの草むら、ほたる

開くとき用心せねば崩れくる押し入れがわが胸底にもある

生きめやも/生きざらめやも 熱の夜にふいに浮かび来どちら正しき


あとがきに「この時代を生きるごく普通の人間の生活が表れていますように」とあり、その目指すところは十分に達成されている。その上で、単なる日常詠に留まらず、詩に昇華できているのは、心情をあらわす比喩の素晴らしさによるものだと思う。同じ母らのまなざしでも「鯉の背のぬるぬるふくらむまなざし」と「桜守さくらを見つめるまなざし」のように、その違いが明らかである。2018年春~2021年秋までの381首を収めた第三歌集。充実期の歌集である。

2024年01月02日