Toppage Critic 談話室(BBS) 図書室 リンク Emigrant

「日本近代史における沖縄の位置」
(72.3初出/『遠山茂樹著作集 第4巻 日本近代史論』岩波書店1992.7)


遠山 茂樹


5 日本近代史における沖縄の位置



 沖縄史の研究は、研究者の姿勢が問いただされる歴史的課題である。課題そのものの中に、問いただしを迫るものがある。その点では、問題の性格はそれぞれ異なるが、朝鮮史の問題、被差別部落史の問題と共通している。沖縄県の歴史は、青森県の歴史と同列ではない。たんなる地方史ではない。ということは、その課題を歴史考察の視点にすえることによって、新しい視野がひらかれる、つまり見えなかったものが見えてくるということ、その新しい視野がその研究者の歴史観の質にふかくかかわることだということである。言葉をかえれば、これまで沖縄史の研究を忘却あるいは軽視してきた本土の歴史研究者の歴史観の質が問いただされているのである。
 私は、このようなことをいう資格をもっていない。1951年の歴研大会が「歴史における民族の問題」を共通テーマとし、私が日本のナショナリズムを報告したが、それには沖縄をとりあげなかった。なぜとりあげることができなかったのか。私の民族についてのとらえ方、民族の問題をとらえる姿勢そのものの中に、根本的な欠陥があったためであることは、疑いない。それは私個人の問題にとどまらず、当時の日本のマルクス主義史学、あるいは歴研の学風の問題につながることであろう。「民族の問題」を提起したのは、48年以降のアメリカの占領政策の反動化、50年の朝鮮戦争の勃発とアメリカおよび日本政府の“単独講和”企図に反対し、民族の独立と民主主義・平和の確保をめざす、そのような日本人民の政治課題を歴史学の立場から追求しようとしたものであった。それにもかかわらず、沖縄がアメリカのアジア政策の中で占める位置について、沖縄の軍事支配が恒久化されようとすることについて、そしてそれにたいし沖縄県民が祖国復帰の運動をはじめたことについて、その歴史的解明が、私の報告でも、大会での討論でも、欠落していた。当時沖縄についての情報が極度に不足していたという事情だけで弁解できることではない。私あるいは私たちの歴史のとらえ方に何か本質的な弱点があったのではないか、この点をこのシンポジウムでぜひ討論していただきたい。
 そうでないと、沖縄の歴史は、沖縄の研究者にまかせ放しという事態は、一向改まらないだろう。沖縄の“返還”が政治問題化しているから、沖縄の歴史を云々する、それも沖縄の研究者の成果をあわてて借りて、一時のカンパニヤの体裁をつくる、それでは駄目である。見えるべきものを見ることができえない本土の歴史研究の盲点を克服することにはならない。一体沖縄をとりあげることで、新しく何が見えてくるのか、沖縄を視角の一つの柱とすることが、どういう意味で、日本人の歴史研究にとって不可欠であるのか、まず本土の研究は、このことを明らかにする必要にせまられている。それが本土の研究者が今日はたさなければならない社会的責任である。
 しかし私の報告は、私が駄目だといった域を出るものではない。沖縄の研究者の最近のすぐれた諸成果、とくに『沖縄県史』に学び、これを紹介する程度を出ないものであることをおわびする。今後歴研や歴科協の集団の力で、のりこえていただくための、たたき台として、私の報告を討議してほしい。



 1879(明治12)年の“琉球処分”にあらわれた明治国家の性格を考えてみたい。注意すべき第一の点は、“琉球処分”が74年の征台の役の跡始末として強行されたということ、その征台の役は、士族対策としての征韓論の代替物であったということである。したがって、“琉球処分”も征韓論ないし征台の役と共通する性格を多分にもっていた。
 士族の反政府的動向を外にそらすという対内政略から出た侵略政策を合理づける大義名分をもっぱら万国公法と世界の大勢においたことは、征韓論・征台の役に見られた特色だが、このことは、また“琉球処分”でも顕著に見られた。日本政府が、沖縄の日清両属関係を否定した論理は「両属の体なるものは、世界の道理に於て為す可らざるものにして、之を措て問はざるときは、我が独立国たる体面を毀損し、万国公法上に於て大に障碍を来すことあり」(『明治文化資料叢書』第4巻157頁)「今や皇政一新万機親制の世となり、万国と交際益密なるに当ては、其独立国たるの本旨を達するには、世界の条理万国の公法等に照らして其権利を全ふせざれば、国其国を成ざるなり。然れば当藩の如き我が国の版図たるものにして、他邦に臣事せしめ両属の体たらしむるは、国権の立ざる最も大なるものにして、速に之を改めざれば、世界の輿論に対し其答弁の条理なし」(同上書121頁)というにあった。
 我は万国公法に依拠し、世界の条理、世界の公論に立ち、我は開化の国、彼は野蛮の国、こうした論理から朝鮮・中国にたいする蔑視意識を早くも71年前後に政府当局者がもち、この蔑視意識を楯に、対朝鮮、対中国外交において強圧的態度をとったのだが(拙稿「明治初年の外交意識」『横浜市立大学論叢』13―2、3)、沖縄にいたしても、同じことであった。ここから世界の大勢を知らざる固陋なる者という、沖縄住民への露骨な蔑視が示される。「何分海中の孤島、是迄鹿児島・清国へ致往来候までにて、是迚も御来致候者共、人別に並し候得ば、百人の一人に不過、兼ての聞見狭く一小島を以自ら足れりと致候気味有之、一体温柔遅鈍の資質、曾て激発卓越之者無之、偏固狭少旧法を致墨守候風俗」(明治6年伊地知貞馨復命書、『日本外交文書』6巻386頁)と。10年前の本土がどうであったか、伊地知は忘れていたかのようである。
 わが国の独立の権、日本政府の体面から、沖縄が版図たることを明らかにせねばならないと強調する。“琉球処分”の立役者、松田道之は、琉球王室に独立国の権とは何かを、こう説得する。「凡そ世界の中、林列して国を成すに、其独立して万国と対峙し、内治自主の権、物権上の権、万国平行の権等の諸権を十分有するものあり、他の一国に隷属して此諸権を十分有する事を得ざるものあり。此諸権を有すると有せざるとは、其国を成すと成ざるとの大義に関係し、万国皆な争て自ら講究論議する所なり」と。その上で、松田は「我が国は則ち独立対峙するものにして此諸権を十分有するものなり」といい、もし琉球藩の清国への隷属をみとめれば、内治自主の権をそこなうこととなるから、万国公法上断じて不可だと結論した(前掲『明治文化資料叢書』136頁)。たしかに沖縄県設置は、日本の民族的統一、松田の言葉を借りれば、国家独立の権の行使だといえるだろう。そして独立権、すなわち国権を守るためと称して、征韓論が主張され、征台の役が実行された。問題は、国権がいかなる内容において、誰にたいして主張されたかである。松田はいう、わが国は独立の権、すなわち内治自主の権、物権上の権、万国平行の権を「十分」有していると。日本が安政不平等条約下にあることを、事アジア外交に関するかぎり、意識してはいない。だから71年の日清修好条規の交渉では、原案としてわが方が提示したものは、中国側に不平等であった清国・プロシヤ条約を模したものであり、清国から異論が出ると、事もなく撤回してしまったのである。
 日清修好条規交渉にせよ、“琉球処分”にせよ、そこに示された日本政府当局者の外交意識は、きわめて特異なものである。アジア諸国にたいする優越意識、「国歩の開化」への自負意識、「字内の大勢」へのよりかかりの意識、それが抵抗もなく自覚もなく、おのずと、だからぬけぬけと出てくるのである。文明開化意識、国家独立意識、軍国主義意識は、わかちがたく混然と融合しているのである。
 注意すべき第二点は、第一点とかかわることだが、政府当局者に沖縄住民との同胞意識が弱かったことである。72年の左院の「琉球国接待併其国を処置するのは議」は、琉球を「属国」の扱いとし、藩号を除き、かつ国王を華族とせず琉球王の宣下あるべきを結論したが、その理由は、皇族・華族・士族の称謂は、国内人のための名目であり「琉球国主は乃ち琉球の人類にして、国内の人類と同一には混看すべからず」というにあった(前掲書9頁)。こうした沖縄と本土とを区別する考え方は、征台の役後は、背後におしやられ、沖縄は日本の領土であり、内地の制度と同一にすべきだという主張が表向き支配した。しかしこの場合も、地理的・人種的・言語的・文化的に同一民族だというのではなかった。「地理也、人種也、風俗也、言語也、皆な我国のものにして、天然隷属の義ある」というにあった(前掲書157頁)。すなわち地理・人種・風俗・言語の共通性は、国家権力ないし首長への隷属・帰属を証拠だてる要素としてとりあげられていた。沖縄住民は、藩王への臣属を媒介として、天皇への臣たることが強調された。「藩王は天皇陛下の臣にして且藩屏の任あれば、其人民を統撫するの任を天皇陛下より受けたる者にて、其人民も天皇陛下に対しては即ち所謂大君とし事ゆるの義あり」「其権義を以て論ずれば、固より君臣なれば、一国にして両国に事へ、即ち一人にして二君に事ふることを得可らず。然れば何れか一方に属せざる可らず」(前掲書97・157頁)。
 日本の統一国家の形成は、人民の国民的連帯と国民的結集の成熱の上に行われたものではなかった。まず何よりも権力の統一の実現であり、権力の「藩屏」たる華族と官僚の組織化であった。領土と国民とは天皇の土地「王土」、天皇の民「王民」と見なされる、つまり天皇への隷属化として、はじめて国家の構成要素たる位置をみとめられたのである。沖縄の日本への帰属が、二君に仕えざる義として主張された所以であった。福沢諭吉のいう「政府ありて国民(ネーション)なし」の実状が典型的に示されていた。
 沖縄住民との同一民族意識の欠如は、“琉球処分”から5カ月後の、いわゆる分島問題において端的にあらわれた。(この外交経過について、くわしくは藤村道生「琉球分島交渉と対アジア政策の転換」『歴史学研究』373号を見ていただきたい)。沖縄帰属問題の調停を斡旋したアメリカ前大統領グラントの申出に応じて、日本は、宮古・八重山両島の中国への割讓を提案した。宮古島島民の台湾での遭難が征台の役をおこす口実であったし、その口実を実行することが“琉球処分”の理由とされた。「昨年征台の挙より清国談判の結局に至る迄、不容易国家の御大事に及候も、畢竟琉球人民の為に起り候事にあらずや」と「莫大の恩義」を押し売りした(前掲書88頁)。その宮古・八重山を割讓するという。政府特使竹添進一郎は李鴻章にこう申出た。――沖縄の分割は「大に国体に関し闔国の与論も必ず贅然なるべし。然るに我国は断然此に出て好意を表せんとす」。沖縄を犠牲にし、「好意」を表明して、何を求めようというのか。外務卿井上馨は太政大臣にあて、「互讓の報酬」として「我が商民をして西洋の各商と清国に於て同一の権利を得せしむる事を允許するを望まんとす」と。日清修好条規の改訂によって、最恵国条款を加え、これによって欧米諸国並みの特権の獲得をもくろんだ。こうした意図は、71年の日清修好条規締結交渉当時からあり、それは朝鮮支配の政策と関連していた。すなわち中国が朝鮮にたいし宗主権をもつと主張するのに対抗するため、日本は万国公法の適用を理由に、中国にたいし欧米並の地位をえ、これを根拠に中国の宗主権を排除して朝鮮の支配権を手にしようとしていたのである。当時駐日公使何如璋は李鴻章にあてた書翰で、日本は琉球を滅せば、必ず朝鮮に行くであろう、そうなれば台湾・澎湖島も危ないと警告したが(『沖縄県史』2、138頁)、“琉球処分”と、朝鮮支配とは、ふかい関連をもって終始したのであった。



 次に沖縄の“本土化”と日本帝国義形成との関係を考えてみたい。
 “琉球処分”にあたって、日本政府は、沖縄民衆を琉球王朝の苛政から解放することを旗印とし、民衆が“新政”を希望していることを大義名分とした。それにもかかわらず、政府の沖縄県政の方針は、日清戦争の時まで旧慣温存政策*で一貫した。すなわち支配層の特権を容認し維持することで、彼らの反日的動向を慰撫しようとしたもので、県知事西村捨三の言葉を借りれば「非常特別の優待」「徳政」であった。それは79年の松田道之宛の内務卿伊藤博文の書翰に「小子の愚考には、雖小邦、廃王政は実に臣子之情不忍処ある者をたる推察し」とあるように(『明治文化資料叢書』4、214頁)、天皇―藩王―人民の君臣関係にもっぱら頼って統治する明治国家の性格に由来することであり、また本土における自由民権運動への対抗のための君主制護持の意図の反映もあったであろう。だがより直接的には、壬午事変、甲申事変を契機とする朝鮮支配の強化策、そのための中国との戦争を目標とする軍国主義の増大と結びついていたことであった。そして20年にわたる旧慣温存政策が、本土と沖縄の差別、沖縄の後進を増幅固定化したのである。
 それならば、日清戦争以降の沖縄県政の改革、いわば“本土化”が何を契機としたかといえば、第一には、1893(明治26)年の宮古農民の人頭税廃止運動の昂揚に代表されるような、県民大衆の苛政改革の要求であった。しかし第二には、これにたいする本土政界の受けとめ方、つまり日本軍国主義確立における沖縄の軍事的位置の認識であった。宮古住民の請願を受けて、94年――日清戦争勃発の年――貴族院は「沖縄県政改革建議」を可決するが、これを説明して曾我祐準は「我が東洋の関門といふべき処なれば、もし今日東洋に時変あらば、沖縄に要塞を設くる必要なきにあらず。これ実に諸君の熟考を請ふ点なり」と説き、「懐かざるの民は使用すべからず、心服せざるの民は戦時に役するに足らぬ」とのべた。
 したがって県政改革が徴兵令の施行から地租改正の実施へという順序で行われたのは、当然であった。まず日清戦争後、日露戦争をめざしての“臥薪嘗胆”の中で、九州の人口寡少による兵員不足を補うため、98(明治31)年徴兵令が施行された。徴兵の実施にあたって、たちまち障害となったのは、やはり宮古・八重山の人頭税であった。兵役に服する者の人頭税は、他の家族が代わって負担せねばならず、あまりに過重な負担のために「従来の産業を維持すること能はざる者の徴集を免除する特例」を設けざるをえなかった。
 かくて人頭税廃止をふくむ地租改正、すなわち土地整理事業の実施は不可避となった。この事業は99年にはじまり、1903(明治36)年――日露戦争開始の前年―― 終了した。この地租改正は、日清戦争後の大軍拡のための増税を中核とする、いわゆる“戦後経営”の一環として行われたことによって、本土のそれに比し、一段と苛酷なものとして実現した。第一は、九州各県に比較して、不当に高い地租が決定されたことである。「沖縄県の税制を改正せば、将来国庫の収入を減ずることなきやとは、一の問題たるべし。然ども事実斯かることなしと信ず」との前提に立ち、「1日23銭の生活費を以て足り、甘藷を常食とする人民に対しては莫大な恩沢と謂はざるべからず」という蔑視意識に立つ、押しつけの地価査定によって、「勿驚、仰天する勿れ、腰をぬかす勿れ、卒倒する勿れ、沖縄県はその収穫高の4割2分5厘といふものを国庫及び地方に納めてゐる」「世界中で一番憐れむ可き民である」(『琉球新報』)という苛重さとなった(『沖縄県史』2、323・338・356頁)。
 それに加えて、新地租の決定に追いかけて、日露戦争中の戦時特別税がかぶさったが、とくに沖縄農民にとって打撃となったのは、沖縄県酒類出港税と砂糖消費税の増徴であり、1907年の県民納付の国税総額は、地租改正前の1901年の3倍ちかくにはねあがった。当局者は、他府県の地租改正当時は、国庫収入中に地租がしめる割合は大きかったが、現在は3分の1をしめるにすぎず、本県の租額数万円の増減が財政の生命にかかわらぬことは明らかだと宮古・八重山島民の公開質問に答えた(『沖縄県史』16、444頁)。しかし実状は逆で、軍拡財政は、些少の減税すら不可能とし、98年には政府が多年の懸案とした地租増徴案が議会を通過した。前述したように、沖縄県土地整理法が公布されたのは、その翌年である。いってみれば、“戦後経営”と戦争経済のしわよせが集中する形で、沖縄の地租改正は実施されたのであった。
 沖縄の地租改正の特徴の第二は、広大な官有地が設定されたことで、官有地は総面積の半分近くを占め、沖縄の全面積の40パーセントをしめる杣山は官有地とされ、農民は生活資源の供給を奪われることとなった。本土府県の林野改租の場合、官有が民有にたいする割合は、5倍以上が青森、3倍−5倍が宮城・秋田、1−3倍が岩手・埼玉・長野・熊本、これらが高い例であるが、沖縄では実に9倍に達している。杣山がなぜ官有とされたか、農商務省山林局の役人が「其原因何れに在るや明瞭ならずと雖ども、蓋し行政上の方便に出でたるものなるべきか」(「沖縄県森林視察復命書」『沖縄県史』21、762頁)とのべているようなあいまいな理由、「行政上の方便」であったが、99年の「国有土地森林原野下戻法」と関係があったのではあるまいか。この法律は官地編入林野についての農民の民有引戻の申請が激増する趨勢にたいし、これを打切ることを主眼としたものであり、この官有林(国有林)確保政策の確立を背景に、沖縄での杣山の官有林化が強化されたのであろう。
 私の報告は、沖縄の地租改正が、法令の上では他府県のそれを踏襲したものであるが、その意義は、本土の地租改正とはちがって、日本帝国主義を早熟的に形成せしめる物的土台の構築の役割をはたした“戦後経営”および戦争経済の一環として行われたことを指摘するに止った。討論していただきたいことは、以上の問題の検討もさることながら、沖縄の地租改正の視点をくみいれた場合、1900年前後の日本経済の考察について、何が新しく見えてくるか、いかなる再検討の問題がそこから出てくるかという点である。



 次に沖縄の“本土化”の第二の問題として、衆議院議員選挙法の適用について考えてみたい。謝花昇らが国政参加を要求する運動のため、沖縄クラブを結成し、『沖縄時論』を発行したのは、土地整理事業のはじまった99年であった。政府も徴兵の義務を強制したかぎり、国政参加の権利をみとめざるをえなかった。折から初の政党内閣を出現せしめた政治情勢も幸いして、1900年衆議院議員選挙法改正案が議会で可決されたが、これは宮古・八重山を除外し、かつ「施行の期日は勅令を以て定む」と施行期日を無期延期とするものであった。宮古・八重山がなぜ除外されたか、離島で不便だという理由にならぬ理由以外にはない。「地租については那覇首里といふ主なる土地は地租を納めて居りません(中略)。宮古島は人頭税ござゐまして、殆んど平均に男女共に負担してゐる。其中士族は免除せられてゐると云ふ訳で、現在の所は選挙法を施行すると、出来た所が不公平な結果になると思ひます」と政府委員は議会で説明したが、これは地租改正がすんでいないことを口実に実施を延期する材料とはなっても、両島を除外する理由とはならない。要するに、先島にたいする本島の差別観、士族の民衆への差別観という沖縄内部の差別を逆用して、沖縄住民の国政参加権をできるだけ制限し、できるだけ延期しようという政府の企図のあらわれに他ならなかった。
 選挙法の実施は、土地整理事業が終わってのちも、9年間も放棄され、1912(大正元)年に至ってはじめて実現を見、宮古・八重山住民に通用されたのは、さらに7年おくれて、1919年であった。時すでに、普通選挙の実施が官僚勢力によってすら容認されはじめるようになる段階であった。なぜかくも不当におくらされたのか、政府側のこれという口実も見出すことはできない。特別県制・特別町村制(特別制の名における地方自治制の差別的制限が附されていたとはいえ)が実施されたのは1908年、その翌年には、県会議員選挙が行われていたのである。
 実施の条件が整っても、政府は施行を渋り引延した。時に本土では普通選挙を要求する声が逐年たかまり、1906年には最初のミ揚を迎え、11年には普選法案は衆議院を通過した。しかし貴族院では拒否され、こののちかえって政界を反動化し、政党も法案提出を党議で禁じるに至った。政府および政党首脳は、一面で社会主義運動への融和的役割をみとめながら、他面で社会主義勢力進出の道が開かれることを嫌悪した。沖縄にたいする措置も、それが本土の普選運動を刺激することをおそれたためではあるまいか。
 しかしそれだけではなかったであろう。日露戦争後にはかえって、沖縄の“本土化”への政府の熱意が、全体として後退したようである。そう判断して良いかどうか、そうだとすれば、その理由は何か、沖縄史の研究者の見解をうかがいたい。
 台湾統治が安定するにつれて、沖縄のもつ軍事的また産業上の位置が相対的に低められた。沖縄はかつて曾我祐準が議会で演説したような南方国防線の第一線ではなくなり、台湾と本土との交通の中継地としての意味しかもたなくなった。他方で台湾糖業の保護開発が軌道にのるのは、1902年の台湾糖業奨励規則の公布と臨時台湾糖務局の開局であり、同じ年政府・財界の絶大な援助のもとに台湾製糖会社が操業を開始してのち、内地資本の進出はめざましく、1910(明治43)年には内地市場への台湾糖供給量は外国糖輸入量をしのぐに至った。これにたいし台湾領有以前は原料糖の主要供給地であった沖縄糖業の開発は、いちじるしく立ちおくれた。その第一の理由は1901年から実施された砂糖消費税賦課によって、産地売買価格の引下げを余儀なくされたことにあった。第二の理由は、糖業改良のための政府補助金の差別的貧しさにあった。鹿児島県では1902年から5ヵ年計画で奄美諸島糖業改良事業をはじめ、政府は年額50,000円の補助金をあたえた。これに比し、沖縄県も1901年と翌年政府に糖業改良費の補助を申請したが許可されず、1906年になって、ようやく政府も腰をあげ、糖業改良事務局を設置し、委託製糖と各種奨励事業を行わせたが、近代的機械製糖業の実現を見ることなく、1912年廃止された(『近代日本糖業史』上巻参照)。台湾糖業への手厚い保護奨励策と対照的に、あまりにも沖縄糖業はなおざりにされ、手おくれの保護であった。
 沖縄植民地論ともいうべき南洋道問題がおこったのは、こうした時期であった。1908(明治41)年、台湾と琉球諸島をあわせて南洋道を設置し、北海道に対抗して大いに開拓をはかろうという意見が貴衆両院でおこり、そのなかには前沖縄県知事奈良原繁が入っていたことが県民をひどく刺激したという事件である(『沖縄県史』16、1031頁)。この計画が出てきた経緯はわからないが、『琉球新報』がえた情報によれば「中央政府が持余して居る沖縄県を台湾総督府の管轄に移して、内地の負担を軽くしたなら、せめてもの母国への奉公になるであろう」というのであった(『沖縄県史』16、1026頁)。この情報の根拠も明らかではない。しかし県民は、政府や県の役人の口吻から、荷厄介視されていたのを知っていたのだろう。しかし実際は、植民地にも劣る待遇であった。南洋道設置計画に県民が抗議した際、沖縄の独立会計論が論じられた。沖縄から納める国税300万円をもって経営するなら、帝国の模範地方たらしむるも難きにあらずという主張だが、いかに政府補助が僅少であるかを反論した意見であった。この沖縄独立会計論は、1904年の台湾の独立会計制の採用に対抗する意味をもっていた。台湾でも領有初期には補助金が多額にのぼるため売却論さえ唱えられたが、99年総督府は独立財政をめざし財政20年計画をたて、予定より早く本国一般会計の補助金を辞退して独立会計制をとることができた。この成功をもたらした財源は、阿片・食塩・樟脳の専売制の実施によってであった。かくて台湾を見習え、こうした声が南洋道問題となったにちがいない。
 南洋道設置は結局沙汰止みとなった。しかし、異民族支配の植民地と、同一民族の居住する地域とを同じ行政区画に包括しようという意図が出たことは何を意味するのであろうか。日清戦争によって台湾を領有した時、台湾事務局委員原敬は、「甲 台湾を植民地即ち「コロニイ」の類と看做すこと、乙 台湾は内地と多少制度を異にするも之を植民地の類と看做さざること」の2案のいずれをとるかを決定されたいと提議した。乙案は「恰も独逸の「アルサスローレンヌ」に於けるが如く、又仏国の「アルゼリイ」に於けるが如く、台湾総督には相当の職権を授くべしと雖ども、台湾の制度は成るべく内地に近からしめ、遂に内地と区別なきに至らしむることを要す」と説明し、原は乙案を可とした(『秘書類纂台湾資料』32頁)。原が主張したのは、台湾総督の権限や台湾と列国との貿易の問題からであった。しかしこの背後には、「一視同仁」のイデオロギーのもとに異民族をも“皇民”化しようという、植民地支配についての特有な天皇制的理念があった。この植民地化か内地化かの意見対立は、1896年法律63号をもって、台湾総督に法律の効力を有する命令を、議会にかかわりなくみとめたことによって、憲法は台湾に適用するのかどうかという憲法論争にまで発展した。いわゆる63問題である。そして日露戦争後の1906年、法律31号をもって63号を恒久化することで決着がついた。すなわち台湾の人にたいしては憲法の臣民の権利義務条項が適用されないという原則が明らかとなった。すなわち台湾は内地と明らかに異なる法域とされたのである。こうして台湾は植民地として位置づけられたが、この措置は朝鮮を植民地化する場合の統治方式の前例を作る必要に促がされてのことであった。すなわち朝鮮の植民地化企図が台湾植民地化を明確にし、それとの対比において、沖縄の内地化が確定したといえよう(中村哲「植民地法」『日本近代法発達史』5、細川嘉六著『植民史』参照)。
 南洋道問題の核心は、この63問題の決着ののちに起ったことである。台湾内地延長主義論が根強く残っていたことを示すともに見られるが、実は台湾を内地化することにねらいがあったのではなく、沖縄を台湾と同一視する考えから生れたものであった。このことは、沖縄県民が敏感に見ぬいていた。県会議員当間重慎は、1910年那覇での政談演説会で、「本県は国税・徴兵等悉く他府県同様の義務を負担せるに拘らず、官辺の之を視る事、猶ほ植民地同然たるは、大に不都合と云ふ可し。抑も県下の自治制は各階級を通じて一種の特例ありて民権充分に認められず。之れ殖民思想の発現にして、殖民政策は成る可く人民を政治に容喙させぬが常例なり」と演説した(『沖縄県史』17、191頁)。地租改正後も選挙法が容易に施行されなかったことの隠された真因は、まさにここにあった。当間の見解は彼個人のものではなかった。1915年においてさえ、『琉球新報』の社説「県治の通弊」は、次のように指摘していた。「本県の県治上に於ける30余年間の通弊とも称すべきは、県民の為めに政治するにあらずして政治の為めに政治することなり。此の傾向は軍政的色彩を帯びたる置県当初より県制実施後の今日に至るまで、歴代の当局に之に見ざるはなし。琉球藩時代より置県の初めに於て政府が本県に臨みたる態度は、恰も朝鮮に臨むと同様にして、随つて県民を見ること鮮人と毫も異なる所なかりしものの如し。廃藩置県の当事に於て朝鮮・台湾が帝国の版図にありしならば、或る此等の諸領土と同列の制度を布くの方針を採りたるやも測り難し。本県民が同祖の民族たるにせよ、本県の歴史が大和民族と其の淵源を同ふするのせよ、政府が既に新附の民を以て本県を目する以上は、他府県と政治の軌道を異にするは余儀なき次第なり」(前掲書689頁)。この社説がいう以上に深刻な意味で、沖縄と朝鮮・台湾との構造的な関係が廃藩置県以来南洋道問題に至るまで一貫して存在していた。
 ところで『琉球新報』の論じた、県政が「政治の為に政治する」ことであったとは、何であったのか。本土政府の御都合次第の県政という意味であろう。その御都合の中に軍事的目的が大きな比重をしめていたことは前述した。南洋道問題もその例外ではなかったはずである。日露戦争後の中国東北および内蒙古への侵略、いわば北進論にむすびつく北海道開発に対抗する南洋道設置論が、華南アモイの利権獲得を中心とする南進論にかかわることであったことは、見やすい道理であった。いち早く義和団の変のおこった1900年、日本はアモイでの“排外運動”の勃発を機会に軍艦を派遣、陸戦隊を上陸させ、ついで台湾からの陸軍の増派を計画したが、英・独・米の反対によって占領計画の実施を中止した。このアモイ事件画策の立役者は、台湾総督児玉源太郎であり、この直後の孫文の恵州挙兵は、児玉の兵器援助の約束をあてにしてのことであった。その後政府の南進策はやや消極的となったが、日露戦争後にはもりかえし、1907年の日仏協商では、日本が福建省・満州・蒙古に勢力をもつことと、フランスが広東・広西・雲南に勢力をもつことを相互にみとめあった。福建省への侵略意図は保持し続けられていたのである。この日本側の企図をフランスが承認したのは、折から活発化したベトナム独立運動を抑圧する上での、日本の支持をえたかったからだということも、指摘しておく必要がある。当時日本に留学していたベトナム人学生の100名にも達し、これがフランスを刺激したのである。この日仏協商の翌年、つまり南洋道問題のおこった年、南方革命軍への武器密輸が中国政府の手で摘発されるという、第二辰丸事件がおこった。政府は軍艦派遣の威嚇をもって、辰丸の無条件釈放と損害賠償を強要して強引に解決した。これにたいし華南を中心に、はじめての組織的な対日ボイコット運動がおこった(菊池貴晴「第二辰丸事件の対日ボイコット」『歴史学研究』209号)。この武器密輸には政府・軍部が直接関係しておらず、日本側では、孫文と結ぶ民間浪人が動いたが、彼らが背後に間接にせよ、政府ないし軍部の意志がはたらいていたことは、1911年の辛亥革命の勃発にあたって、政府が、一方では清朝側への武器供給の方針を決めると同時に、他方では参謀本部の強い主張によって、革命軍への供給を黙認するに至った経緯からも推察できる。南洋道設置問題は、こうした情勢の中で生れたことであった。それは、日本の華南侵略と中国革命への介入意図を背景とする軍事基地としての台湾・沖縄の一体化計画という意味あいをもふくんでいたのであろう。
 要するに1900年前後の沖縄の“本土化”(微兵令・地租改正の実施、選挙法・府県制の適用)の意義は、次のように要約できると考える。
(1)たんに20数年おくれて、明治維新の諸変革が行われたというのではなく、日本帝国主義形成の一環として実現せしめられたのである。このことが、日清戦争までの旧慣温存政策と相まって、沖縄県民にたいする抑圧を一層苛酷たらしめ、その立ちおくれを固定化する結果を生んだ。
(2)逆に沖縄の“本土化”=“近代化”の実体を明らかにすることによって、日本帝国主義形成の特質、明治維新の諸変革と日本帝国主義形成との関連の特質を照射できる視点がえられるのではないか。
(3)沖縄と台湾・朝鮮・中国との間の世界史的な構造連関は、1879年の“琉球処分”以来一貫していた。この間、沖縄は、日本軍国主義の確立とその帝国主義への転化の犠牲に供されてきた。その存在価値は、もっぱら軍事的観点でのみ判断され、軍事的価値から台湾・朝鮮の植民地に準ずる位置に差別されてきた。その軍事的位置は、帝国主義段階において、いわゆる満蒙問題が太平洋問題(華南・東南アジア)と必然的に関連せしめられることにおいてみとめられてきた。沖縄の役割が日本帝国主義の脚光をあびて、沖縄振興15ヶ年計画がはじまるのは、満州事変が日中全面戦争に拡大されようとする1933年であり、北進の強化と同時に「南方の生命線」「南方の拠点」として、軍事的価値が上昇することによってであったことは、沖縄の近代史の特質を象徴することであった。
(附記)本稿は1971年11月27日一橋講堂で行われた歴史学研究会主催のシンポジウム“沖縄”での報告であるが、当日時間の関係で省略した部分を附加した。なお報告は、戦後史の問題点にも言及したが、その要点は拙稿「立ちかえるべき戦争責任」(『世界』46年10月号所収)の内容と重複するので、本稿では省いた。
〔『歴史学研究』382号、1972年3月。〕

*旧慣温存政策の通説的理解にたいして、その後安良城盛昭が批判的見解を明かにした(『新・沖縄史論』、1980年、沖縄タイムズ社、212頁)。


このページのトップにもどる

modoru