雑 司 ヶ 谷 鼠 山 感 應 寺

雑司ヶ谷鼠山感應寺

雑司ヶ谷鼠山感應寺概要:2011/05/20補正、2011/08/26補正

◇雑司ヶ谷鼠山感應寺は天保5年(1834)に徳川将軍家から再興(新寺建立)の沙汰が下されるも、
8年後の天保12年突如廃寺・取潰を命ぜられ、建物は廃棄・更地となるという極めて特異な寺院であった。
 ※建立場所は安藤対馬守下屋敷の場所であり、下屋敷は鼠山感應寺建立のため下し置かれるという。
 (現在の目白4〜5丁目、西池袋・雑司ヶ谷旭出付近である。)

 鼠山感応寺についての通常の「解説」では、再興(新寺建立)されたつまり建立された伽藍は五重塔を含む大伽藍であったという。
以上が事実であれば、江戸末期に豪奢な塔が建立され、それはどのような塔であったのであろうかと期待が膨らむ。
しかし残念ながら、同時代資料(「天保雑記」や「櫨楓」)では、五重塔が建立された形跡は全く見られない。
 これはどうしたことであろうか。
 確かに、五重塔を含む大伽藍が再興(新寺建立)感應寺で企図されたのは事実である。これらの堂塔は本寺である池上本門寺の「建立願い」に予定されていたのである。
つまり「建立願い」にある堂塔がそのまま建立され鼠山感應寺の伽藍になったというように一人歩きし、鼠山感應寺は五重塔を含む大伽藍が建立されたという通常の解説が流布するようになったものと考えられるのである。
 同時代の諸記録を見る限り、残念ながら鼠山感應寺においては、五重塔は建立されはしなかった。しかし建立された本堂などは 、その造営がいわば将軍家の普請であったゆえに、大堂であり当時の贅を尽くした豪奢なものであったと推定される。
それは、記録や不完全ながら残る若干の遺構(身延山祖師堂)や古写真 (池上本門寺鼓楼/鼠山感応寺鼓楼を移建したもの)などからその片鱗を窺うことができる。

そもそも谷中感應寺は元禄11年(1698)いわゆる悲田宗禁制によりに東叡山 (天台宗)預けとなって以来、度々日蓮宗帰宗の訴えがなされるも、全て不首尾に終るという経緯がある。
天保4年(1833)谷中感応寺の本寺であった池上本門寺の日萬は、改めて、谷中感応寺の日蓮宗帰宗を画策し、寺社奉行に帰宗の願いを提出する。時の将軍は徳川家斉であった。

一方では以下のような説も流布する。
下総中山法華経寺智泉院日啓は娘お美代(専行院・中野美代)を大奥の中臈に上げ、徳川家斉の“お手付き中臈”となる。
日啓はお美代を通じ、幕閣(林肥後守、美濃部筑前守、中野播磨守ら)を動かし・将軍家斉に取り入り、感應寺を再び日蓮宗に改宗する再興運動を起こす。これは成就しなかったが、結果的には鼠山感應寺の新寺建立という結末となる。
日啓の感應寺建立の大義名分は谷中感應寺の再興というものであったが、富籤という巨大な利権を巡る思惑があったとも取沙汰される。
 ※お美代の出自及び出仕に当っての養親には諸説がある。(「天保年間に於ける鼠山感応寺の興廃」)
 ※「雑司が谷感応寺の性格と地域住民」では以下のように述べられるが、妥当な見解であろう。
「感応寺廃寺が命ぜられた当日、中山法華経寺寺中智泉院が支配する徳岡八幡社別当守玄院日啓、智泉院日尚らが「密通女犯」の廉で処罰される。(感應寺廃寺と日啓らの処罰は天保の改革の一環であることは事実であろうが)智泉院と感應寺との係りを示す証拠はみられないし、地元民の間でも感應寺の僧と大奥との邪な関係があって廃寺に追い込まれたという見方は存在しない。破戒僧たる日啓が感應寺と深い結びつきがあって、感應寺が破却となったのではないことを明確にしておく必要があろう。」
「将軍家斉の頽廃政治を物語るもの」として「大奥の女性と感應寺僧侶との密通即ち『長持の生人形』の噂」がある。その唯一の典拠は大谷木忠醇(醇堂)の「灯前一睡夢」の一節である。しかし醇堂この話は基本的に醇堂の祖父からの聞書であり、全幅の信用を置けるものではない。
ところが、この話は三田村鳶魚の著書(「稼ぐ御殿女中」)に取上げられることとなり、家斉時代の大奥の腐敗を示す材料としてあまねく知られるようになる。

今般の帰宗願いについて、将軍家斉と幕閣及び大奥などの大勢は感應寺の日蓮宗帰宗を容認する方向であったと推測され、東叡山(上野寛永寺・輪王寺宮)に対して帰宗についての下問が下される。
下問に対し、輪王寺宮は谷中感應寺は東叡山の鬼門であるとの抵抗を示し、日蓮宗への帰宗は実現せず、その代替としての布石であろうか、長耀山感應寺の護国山天王寺への改号が命ぜられ、さらに新に一寺の建立の沙汰が下る。

天保6年安藤対馬守下屋敷2万8600余坪が下賜され、ここに名跡を継いだ長曜山感応寺の造営が開始される。
天保7年伽藍竣工、20棟を越える堂塔が建立される。本堂、鼓楼、庫裡、客殿、鎮守堂、惣門、源性院、大乗院、一如庵などが建立されると記録には残る。
惣門前には料理屋、茶屋、酒屋、飯屋、蕎麦屋などの門前町が形成され、将軍家及び大奥・御三家・三卿や各大名家が参詣し、特に大奥の女中が頻繁に訪れ、様々な憶測や噂が飛び交ったと云う。

天保12年、家斉死後、老中水野忠邦は、「今般思召これ有り候に付、廃寺仰せ付けられ云々」と、本山池上本門寺へ感應寺の破却を命ずる。
日啓は遠島(牢死する)、係累は日本橋晒や押込、お美代は追放(明治5年没)という処分であったが、大奥の乱脈は不問のままの処分であった。さらに大奥に通じていたとされる鼠山感應寺住持日詮や寺僧も不問と云う結末であった。

鼠山感應寺の興亡:2011/05/20補正

参考文献:
「天保雑記」内閣文庫所藏
「江戸城大奥女性の代参について--鼠山感応寺の事例を中心に」望月 真澄(「身延論叢(5)」、 2000 所収)
「天保年間における鼠山感応寺の興廃」宮崎英修(「大崎學報 100巻」日蓮宗大學林同窓會、1953 所収)
「旧感応寺境内遺跡(徳川ドーミトリー西館部分)発掘調査報告」旧感応寺境内遺跡発掘調査団(「金鯱叢書 第22輯」1995 所収)
 ※この平成5年度の発掘調査では特に顕著な雑司ヶ谷感應寺遺構の出土があったわけではない。
2011/05/20追加:
「御取立感應寺記」承教寺文書(「大田区史(資料編)寺社1」1981 所収)
「東京市史稿 遊園篇 第3」昭和5年、「東京市史稿 市街篇 第37」昭和16年、「東京市史稿 市街篇 第38」昭和18年何れも東京市編
2011/08/26追加:
「天保年間に於ける鼠山感応寺の興廃」菊池勇夫(「生活と文化 豊島区郷土資料館研究紀要第1号」昭和60年 所収)

元禄4年(1691)

悲田新受が停止される。池上本門寺末谷中感應寺、小湊誕生寺、碑文谷法華寺などが連座する。
  →谷中長耀山感應寺小湊誕生寺

元禄11年(1698)

谷中感應寺、住持は遠島、天台宗に改宗を命ぜらる。
  →谷中長耀山感應寺

元禄12年(1699)

天台宗東叡山輪王寺宮は、叡山は鞍馬山が鬼門の守りとなっているのに因み、感應寺をこれに充てんと企図、毘沙門天を祀り勤行を修せしむ。 (「江戸城大奥女性の代参について」)(「天保雑記」)

天保4年(1833)

谷中感應寺、護国山天王寺と改号される。(「江戸城大奥女性の代参について」)

10月:池上本門寺・比企谷妙本寺48世日萬、感應寺の日蓮宗帰宗を企図し、改めて、感應寺再興(帰宗)願いを寺社奉行(脇坂中務大輔安董)へ提出する。 (「天保年間に於ける鼠山感応寺の興廃」) (「天保雑記」)

12月:老中松平和泉守、東叡山に対し元禄11年御預けになった感應寺に(日蓮宗)帰宗せしむべき意向を執頭眞學院に伝え、可否を下問する。
寺社奉行脇坂安董も同様の指示をするも、東叡山は鬼門の守りゆえ、大いに差し障りがあると回答(拒絶)す。(「天保雑記」)
以上の事態えを受け、寺社奉行は帰宗の叶わぬことは致し方ないが、「感應寺号御差支有之候に付、准后(将軍家斉)思召を以て、何と成共唱替候様」との申し渡しとなる。(「天保雑記」)

天保雑記・感應寺唱替:左図拡大図:
 谷中感應寺は護国山天王寺と唱替(改号)となる。

 碑文谷法華寺事円融寺
 千駄ヶ谷寂光寺事境妙寺
 三田大乗寺事永隆寺
 同所中道寺事実相寺
 麻布正谷寺事観行寺も改号となる。

ここに谷中感應寺、碑文谷法華寺などの寺号は廃絶す。

12月:執政水野出羽守へ(一寺建立の)台命が下達される。(「江戸城大奥女性の代参について」)
12月:池上に対して「別段之以思召・・・一寺御取立被成下候・・・」との告がある。

天保5年(1834)

一寺建立の台命を受け、池上本門寺は
寺所2萬8千坪余、堂宇、釈迦堂・祖師堂・経蔵・五重塔・鎮守堂・宝蔵・鐘楼・鼓楼・山門・総門・中門・本坊向客殿・玄関・書院・庫裏・住持居間・文庫蔵・雑蔵・番所・塔中10軒の取建の願文を提出す。 (「江戸城大奥女性の代参について」)
 

天保雑記・普請願諸堂社: 左図拡大図:
池上本門寺より普請する堂塔の願いが提出される。
 ※未2月とは天保5年2月

祖師堂(14間×10間)、客殿(10間×12間)、位牌堂、釈迦堂、鼓楼(4間四方)、鐘楼、仁王門、鎮守社、五重塔、経蔵、土蔵、玄塀、書院、小庫蔵、庫裏、惣門の堂舎塔の名称がある。
 

5月:安藤対馬守雑司ヶ谷下屋敷28、642坪余(東220間、西20間、南269間、北290間)下賜す。(「天保年間に於ける鼠山感応寺の興廃」)
 ○天保雑記・感應寺地處:下屋敷坪数の記載がある。

<参考>
新規に感應寺が建立されたのは豊島郡雑司ヶ谷であり、この地は近世初頭には徳川将軍家の御鷹場であり、家康以下家光・家綱までしばしば鷹狩が行われた。おそらくこの地雑司ヶ谷も御鷹場として使用されたと推測される。
寛文期を過ぎる頃から、この付近は譜代大名安藤氏の下屋敷となる。
「延宝年中(1673-)之形」図では安藤但馬守下屋敷とある。
天和3年(1683)安藤但馬守下屋敷の東半分が公収され、以下のような感應寺境内を形成する三角形に近い形となる。
 ○安藤対馬守雑司ヶ谷下屋敷図:天和3年(1683):(「旧感応寺境内遺跡発掘調査報告」)
   ※四角に斜線部は発掘調査部分

9月:安藤家下屋敷を拝領す。(「江戸城大奥女性の代参について」)

天保6年(1835)

2月:感應寺再興池上末となり、寺格は大坊(池上)并両触頭(朗惺寺・承教寺)と同格となる。(「天保雑記」)
池上日萬は住持を決定しようと試みるも難渋、当面は兼住し、後年(天保7年)中延法蓮寺日詮が晋山する。(「天保年間に於ける鼠山感応寺の興廃」)

天保6未年5月地築:「天保雑記」:下図拡大図
  本堂建地基壇がなった許の時期と思われる。

7月:本堂建立す。(「江戸城大奥女性の代参について」)

10月:作事奉行は神尾山城守元孝を充て、本堂は幕府作事とし、その他の諸堂は10ヶ国勧化を許可する。
10ヶ国とは武蔵、上総、下総、常陸、近江、美濃、尾張、摂津、備前、肥後とする触が出される。(「天保年間に於ける鼠山感応寺の興廃」)
 ○天保雑記・感應寺建立の触
   「天保六年十月廿四日の触
       武蔵・上総・下総・常陸・近江・美濃・尾張・摂津・備前・肥後
    右雑司谷感應寺御取立被仰出一侯二付 本堂御建立被成下
    其餘諸堂舎建立為助成御府内武家方 萬石以上以下家中迄 
    且寺社在町并右十ヶ國、當未年ヨリ来ル酉年迄三ヶ年之間勧化御免被成下侯。
    志之輩ハ物之多少ニヨラス可致寄進侯。御料ハ御代官 奉行有之處ハ其奉行 支配有之面々ニハ其支配 私領ハ領主・地頭
    寺社領ハ向寄御代官領主地頭エ動物取集メ向々ヨリ来酉十二月迄脇坂中務大輔へ可差出者也」

12月:本堂落慶。(「天保年間に於ける鼠山感応寺の興廃」)

天保7年(1836)

正月:地祭修行す。(「江戸城大奥女性の代参について」)

12月:28間四面の本堂、鐘楼、惣門、諸房悉く完成、入仏式が挙行される。(「天保年間に於ける鼠山感応寺の興廃」)
 ※五重塔については完成したのかどうかの情報はない。
  従って、五重塔の造立の成否は不明とするしかない。

この年の感應寺への参詣(代参):奉納・祈祷・回向の施物は耳目を驚かせるものがあり。
尾張中納言斉温(家斉46子)、一橋民部卿(田安斉礼の養君)

天保8年(1837)

○「雑司谷長耀山感應寺妙華院境内三百二十五分一地図
  ※秋田十七郎義一の量地作図、天保8年常圓寺に寄進される。常圓寺蔵。(「東京市史稿 市街篇第三十八」所収)
  ※入手図版の状態が不鮮明であり、図版の詳細が良く分からない部分がある。
  ※5011/05/20画像入替

この年の感應寺への参詣(代参):奉納・祈祷・回向の施物は耳目を驚かせるものがあり。
参詣:尾張中納言斉温(家斉46子)、清水内卿(家斉48子)

天保9年(1838)

7月:開堂供養厳修す。(「江戸城大奥女性の代参について」)

この年の感應寺への参詣(代参):奉納・祈祷・回向の施物は耳目を驚かせるものがあるのは同様。
松平越前守(家斉49子)、松平讃岐守嫡子、松平兵部大輔(家斉52子)、松平弾正大弼、田安中納言斉壮(家斉29子)、清水宮内卿、田安一位斉匡(家斉舎弟)

天保10年

この年の感應寺への参詣(代参):奉納・祈祷・回向の施物は耳目を驚かせるものがあるのは同様。
松平三河守奥方(三河守は家斉37子)、右大将家祥(家斉7子)、松平安芸守姫(安芸守は家斉42息女の婿)、一橋民部卿、田安右衛門督(家斉甥、一位斉匡子)、田安一位斉匡

天保11年

この年の感應寺への参詣(代参):奉納・祈祷・回向の施物は耳目を驚かせるものがあるのは同様。
水戸黄門公女隠居、松平三河守女隠居、松平弾正大弼息女、松平弾正大弼父子、田安一位斉匡、一橋民部卿、田安右衛門督君

天保12年(1841)

この年の感應寺への参詣(代参):奉納・祈祷・回向の施物は耳目を驚かせるものがあるのは同様。
姫路侍従忠学(酒井雅楽頭・家斉44息女の婿)、有馬玄蕃頭

正月:将軍家斉薨去、老中水野忠邦の天保の改革の矢継ぎ早に諸法令が下される。

10月:鼠山感應寺は取り潰しとされ、池上に命が下る。(「天保年間に於ける鼠山感応寺の興廃」)

天保雑記・雑司谷感應寺棄却: 左図拡大図
「右雑司谷感應寺儀、
先達テー寺御取立被成下ナレトモ今般思召有之ニ付 廃寺被仰付寺領被召上、
且堂社取毀之儀ハ小普請方ニテ取払、御払代金、本門寺エ被下候間、其旨相心得、
感應寺エ被下置御朱印之儀ハ早々可指上。
尤感應寺當住ハ別段御構無之間一宗之内相應之寺院エ住職イタス儀ハ勝手次第ニ相心得、水尊其外什物類ハ本應寺エ引渡遣間其旨可存、右之通中渡趣、証文申付ル
     触頭承教寺  朗惺寺」

※廃寺・取壊の理由は「思召有之」と云うだけで具体的には触れられない。

※堂舎の取壊しは入札で行われ、市ヶ谷の越前屋が300両で落札、10月から着手と記録される。(「旧感応寺境内遺跡発掘調査報告」)

天保12年10月廃絶時の感應寺境内図:(「旧感応寺境内遺跡発掘調査報告」)

廃絶時感應寺境内図:左図拡大図
 ※「櫨楓」の図に基づき菊池勇夫氏が作成と云う。
 ※「櫨楓」は金子十徳:雑司ヶ谷法明寺蔵と云うも未見。この資料の性格が不明。
 ※図中、本堂南に「御定塔」とあるも、「定塔」とは不明、あるいは「宝塔」ということであろうか。
 ※本堂西側の「有徳院(8代徳川吉宗)様御旧跡」とは、鷹狩再興に務めた吉宗が鷹狩の途中安藤邸に立ち寄ったという諸記録に対応するものと思われる。

智泉院日啓は女犯として遠島、日尚は三日晒などの処置が下される。
 ことの真相は闇の中であるが、西丸(家斉とその側用人)の奥向と本丸(家慶と忠邦)の奥向との権力闘争、日蓮宗感應寺偏重に対する幕府香華所である東叡山(寛永寺)三縁山(増上寺)の反発などの力が及んだものであろう。
なお西丸お美代は押込、老女の多くが禁固・宿下りに処せられる。(「天保年間に於ける鼠山感応寺の興廃」)

11月:鼓楼取壊し、祖師像池上へ退座、日詮池上檀林照栄院へ退身。(「天保年間に於ける鼠山感応寺の興廃」)

天保13年(1842)

正月本堂取壊し、材木は比企谷に引渡し願い、願いは聞き届けられ、手当て金500両を賜り、本堂取壊される。(「天保年間に於ける鼠山感応寺の興廃」)

天保14年(1843)

天保14年感應寺跡: この絵図は「天保雑記」に所収か)  ※四角に斜線部は発掘調査部分
  天保13年廃寺跡の東南部11500余坪は丹波園部藩小出伊勢守の下屋敷として与えられる。
  その他は武家屋敷や天保改革により市井居住の修験の強制移住に伴う当山修験や羽黒修験の受領地となる。
  この構図は多少の異同はあるも明治維新まで続く。(「旧感応寺境内遺跡発掘調査報告」)

明治5年

鼠山感應寺日蓮像について、筑土八幡町・筑土前町・牛込白銀町の三ヶ所地主から以下の主旨の訴訟が東京府に出される。
上記三ヶ町は御一新後急速に寂れ、生活の困窮が増す。それ故池上本門寺にある鼠山日蓮像を当所に安置したい。さすれば多くの参詣人が集い、活計となるであろうから是非仁恵を賜りたい。<池上本門寺の副書あり。>(池上本門寺文書「大田区史(資料編)寺社1」1981 所収))
 ※この顛末については明らかにする資料がなく不明。

明治13年

明治13年感應寺跡: 国土地理院2万分一迅速測図  ※四角に斜線部は発掘調査部分
  小出氏下屋敷跡に2棟、羽黒修験屋敷跡に4棟の家屋が残るほかは茶畠・畑・雑木林に変貌したことが分かる。
  (「旧感応寺境内遺跡発掘調査報告」)

2011/05/20追加:
「櫨楓」に記録される感應寺

「櫨楓」は現在法明寺蔵であるが、法明寺蔵となったのは古いことではない。本書は天地の2巻あったと思われるも、現在では天の巻は伝わらず「地の巻」のみ伝わる。篇述年及び篇者は明記されないが、本書「鬼子母神出現所」の記事から、天保の末年頃、名主戸張平左衛門苗竪が 篇述したことは確かであるとされる。
 ※「櫨楓」は「新編若葉の梢」海老澤了之介著、新編若葉の梢刊行会、昭和33年(1958)の附録 もしくは
  「江戸西北郊郷土誌資料」新編若葉の梢刊行会、昭和33年(1958) に所収

○雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図:
  雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図
本図は「新編若葉の梢」(海老澤了之介著、昭和33年)から転載、但し「新編若葉の梢」に所収の図は金子直徳著「若葉の梢」寛政年中(1789-1801)刊行から「再写」したものと思われる。
本図の左端中程に「鼠塚・安藤・鼠山」とあり、安藤(屋敷)が鼠山感應寺の寺地となる。付近には雑司ヶ谷鬼子母神・法明寺などが描かれる。
 →雑司ヶ谷法明寺

「櫨楓」では以下の建築記録がある。
○御本堂:
表間8丈8尺7寸(26.9m)、奥行8丈1尺1寸7分(24.6m)、その周囲には椽を廻らす。惣朱塗。影向柱惣金。・・・・・何れも極彩色。
天保7年正月始め、同12月皆出来、御引渡、入仏遷座。棟札2枚残存。
 宮殿:
 ・・・金銀を鏤め・・・
 本尊:日蓮上人坐像、両脇;日朗上人坐像・日萬上人坐像、・・・三像とも今池上常宣坊に安置之あり。
  天保12年10月廃寺感應寺建物図
  鼠山感應寺本堂平面図
○本坊客殿:
南向、桁行8間半、梁間6間半、向拝3間半に9尺、・・・・天保7年7月地形始め
 客殿:当時比企谷妙本寺客殿と成。瓦葺。・・・・ 玄関も同断、瓦葺。・・・
  鼠山感應寺客殿平面図
 庫裏:右同断、瓦葺。天保7年7月取掛り。
 居間:今は池上常宣坊庫裏と成る。天保11年2月始め、同5月出来、之は田安一位様御嫡男御逝去、御住居を当山に御納め・・・
 台所:茅葺・・・
 米蔵:今池上常宣坊物置と成。・・・
  鼠山感應寺庫裏居間など     感應寺庫裏二階
○庫裏:
本家6間梁に、桁行15間、前に1間廂、裏に4尺5寸椽側、・・・天保7年11月皆出来、・・・
○玄関:
敷台2間半に1間、・・・・天保8年12月限出来上り、・・・
○惣門:
東面、・・・・此の惣門額共、今池上南谷檀林の惣門と成。・・天保9年閏4月・・建つる所なり。
  感應寺惣門・額
○鼓楼:
御本堂前にあり。地の間正面大さ1丈4尺8寸8分(4.5m)、槻白木造。屋根赤銅瓦。彫物花鳥、組物扇、タルキ妻1丈2尺2寸5分。・・・
・・・・天保10年7月手斧始、翌年8月皆出来、・・・其後廃地にて今池上祖師堂前へ引移再建、・・・・
○地主稲荷社:・・・・  ○弁天社:・・・・  ○水屋:・・・・  ○張番所:・・・・  ○石手水鉢:・・・・  ○台香炉:・・・・
  感應寺本堂前張番所
○開山塔:・・・日萬上人廟所也。・・・
○御宝塔:文恭院(徳川家斉)様御書写題目塚。御本堂より20間余南の方へ双。東面。掉石、1丈2尺・・・ 玉垣、9尺四方、上下2段の台石があり下段台石は5尺四方・・・・・
○塔中流源山源性院:
当山の一老院家、・・天保10年建立、開山は本坊日詮上人、・・・
・・・この客殿は今池上常宣坊へ引移、庫裏は同所東の坊へ引。
  院家源性院平面図
○塔中最経山大乗院:
・・・開山は日詮上人、・・天保12年2月建立・・・
  塔中大乗院平面図
○塔中本學山一如庵:
  塔中一如庵平面図
○山内建家惣棟数:
23棟、門前町屋を合て29棟、鋳物師仮小屋3棟合て都合32棟
○(天保12年廃寺後)12月比企谷妙本寺庫裏・客殿など焼失、当山の庫裏・客殿等は、かの方へ引移・・・・
11月日詮上人池上檀林照栄院へ退身あり。

2023/04/30追加:
再び鼠山感應寺の興亡について
○「江戸城大奥女性の代参について〜鼠山感応寺の事例を中心に〜」望月真澄(「身延論叢 通号5」2000-03-25 所収) より

1)大奥女性と日蓮宗とのスキャンダル
 大奥女性と日蓮宗との関係は”谷中感応寺事件”・”谷中延命院事件”・”智泉院事件”といった艶色事件で語られてきた側面も強い。
以上の3事件の概要は次の通りである。
 大谷木醇堂「灯前一睡夢」に「世上にて延命院の事績を喋々すれども、この智泉院、感応寺の不埒、不始末、不届に比すれば日潤、柳全が罪悪はいわゆる大倉の梯米に過ぎず」とあるように、延命院事件は大奥の女中と破戒僧日潤の桃色事件として、智泉院事件は中山法華経寺内の智泉院を将軍家の菩提寺とし、感応寺事件は、新たに一寺を建立して、これを将軍家の菩提寺にしようと企てた事件といわれている。
(本論文にはないが、各事件に注釈をつければ、次のとおりである。)
 ※智泉院事件:
中山法華経寺智泉院住職日啓は家斉側室お美代の方の実父であった。
日啓はまず娘お美代を、家斉の側近である旗本中野清茂を通じて、大奥に奉公させ、さらにお手付きとなることに成功する(日啓の画策と云われる)。
寵愛を受けたお美代は家斉にいわば「おねだり」をし、中山法華経寺を祈祷所、智泉院を「御用取次」とすることに成功する。
加えて、目啓ら(日尚・日量)は御祈祷・代参などの名目で、大奥の御年寄・御中臈・御客会釈といった上級女中を中山に受け入れ、利害の一致した彼女らは行列をなしたという。智泉院では若い僧侶が彼女らを饗応し、「宮女の陰門を飽くまで坊主にふるまひし」のような行為があったという。
天保12年、家斉の死後、老中水野忠邦は寺社奉行阿部正弘に命じ、智泉院を手入れする。
日啓を加えた数人が召し捕られ、遠島申しつけられるも、日啓は獄死する。大奥の上層部は御咎めなしであった。
なお、日啓が鼠山感応寺の住職となり、大奥女中と僧侶らが密通していたのも同寺といわれたことから、かつてはこの件を「感応寺事件」と呼んでいたが、日啓が感應寺住職になったことはなく、鼠山感應寺の取壊しと中山智泉院の手入れが同じ時期であったので、感應寺事件と智泉院事件とが混同されたもの、この2つの事件は別のものである。
 ※延命院事件
寛政8年(1796)日暮里の日蓮宗延命院の住職に、日潤(一説には日道)が晋山する。当時30歳前半、大変な男前といい、戸市中の女たちが、日道を目当てに日参するほどであるという。
延命院は徳川家光の側室・お楽の方が帰依し、そのお陰で嫡男・竹千代(家綱)を授かったという。そのことが一層の評判を生む。
しかしながら、日道を慕う多くの女たちの中に江戸城奥女中が混じり、しかも男女の情を交わしているという噂が駆け巡るようになる。
当然、この時代、建前では僧侶の女犯は禁止である、取締も厳しいものがあった。
つまり、奥女中が頻繁に通う将軍家と縁深い名刹の住職が破戒僧だという話であり、幕府としても放置するわけにはいかない事態となる。
時の寺社奉行は播磨龍野藩主脇坂淡路守安董(やすただ)であり、正義漢であった。
大奥はいわば「聖域」であったため、そこで脇坂は家臣の娘を囮にして、延命院に通わせ、日道と情交に及ばせ、決定的な証拠を掴む。
ついに、脇坂は手勢80人を率いて延命院に踏み込み、日道・納所坊主柳全ほか数人の僧と20人ほどの女を一網打尽にしたと云う。(「延命院実記 谷中騒動」明治18年刊)
捕縛された女は大奥部屋方下女、尾張徳川家女中、一橋家奥女中などが判明している。(彼女らは「永之押込」とされる)
主犯格の日道は享和3年7月29日、斬罪。
※※延命院:寶珠山と号す。京都妙顕寺末、莚師法縁。
慶安元年(1648)創建、開山は慧照院日長、開基檀越は徳川家綱の乳母三沢局、堂宇などは全て大奥から寄進を受ける。慶安4年徳川家の永代祈願所となる。

2)鼠山感応寺の顛末
 鼠山感応寺の成立と展開については、宮崎英修が既に論究しており、感応寺の取立てから破却に至るまでの経過について関係史料を紹介し、分析している。(「天保年間における鼠山感応寺の興廃」(「大崎学報」100号所収))
 まず、事の発端となる谷中感應寺についてであるが、寺門静軒は「江戸繁盛記」の中で、谷中感応寺・湯島天神・目黒不動を「大江戸の三富」と呼び、千両取の富突で天下に知られていた寺院であったとしている。中老僧日源を開山とし、江戸時代初期には池上本門寺の末寺であったが、元禄年間に不受不施を主張して元禄12年(1699)に天台宗に改宗させられた寺院である。その後、天保4年(1833)に護国山天王寺と改称される。
 次いで、鼠山感應寺については、成立に至る過程について、金子十徳が記した「櫨楓」という史料を用いて概観してみる。同史料から感応寺の成立に関する記載事項をピックアップし、年譜形式にして紹介する。

感応寺年表

天保4年(1833)
 10月
   池上本門寺・比企谷妙本寺両山48世日萬、感応寺の退転を嘆き、寺社奉行脇坂中務大輔忠薫へ再興を訴える。
   安藤家の下屋敷を召し上げ、新規に一寺建立の願いを出す。
 10月17日
   寺社奉行脇坂侯へ願文を捧げる。
 12月13日
   執政水野出羽守へ一寺建立の台命を伝える。
天保5年(1834)
 正月17日
   地所三万坪、堂宇は釈迦堂・祖師堂・経蔵・五重塔・鎮守堂・宝蔵・鐘楼・鼓楼・山門・総門・中門・本坊向客殿・玄関・書院・庫裏・住持居間・文庫蔵・雑蔵・番所・塔中十軒の御取建の願文を出す。
    ※鼠山感應寺の創建は天保5年、境内28、650坪、御朱印高30石、本山のまま弘法寺と同格で、池上本門寺支配となる。
    ※天保4年日萬は感應寺の退転を嘆き、寺社奉行脇坂に新たに再興の願いを出す。これが幕府に受け入れられ、長耀山邪感應寺の寺号が下し置かれ、取立となる。
    ※これについては、11代将軍家斉側室お美代の方(専行院)の肝いりがあったといわれる。
     地所は安藤津島守の下屋敷が召上げられ、本門寺に寄付した形が採られる。
     同年に水野出羽守に台命が伝えられ、翌5年にお取立となる。
 6月1日
   江戸城へ登城する。
 9月19日
   安藤家下屋敷地所を拝領する。
天保6年(1835)
 閏7月10日
   本堂が建立される。
    ※土木工事には、多くの日蓮宗徒や大奥の女性が勤労奉仕したことが伝えられる。
天保7年(1836)
 正月24日
   地祭修行する。
 12月12日
   本尊入仏供養が厳修される。
    ※本尊は宗祖日蓮大菩薩、読経坐像、施主は大奥女中衆、開眼は日萬
     左脇は大黒天秘仏、文恭院(徳川家斉)随身仏
     右脇は大阿闍梨日朗菩薩、念珠の坐像及び開山妙華院日萬上人像、自作
天保9年(1838)
 7月20〜27日
   開堂供養が厳修される。
天保12年(1841)
 11月9日
   御朱印を始め、代々尊牌・大黒天像・緋幕等を阿部伊勢守へ納める。
 11月13日
   鼓楼、取り壊される。
    ※感應寺は僅か6年で取壊しとなる。
    取壊し理由は家斉の逝去、老中水野忠邦の政策(天保の改革)、新興勢力をねたむ者の讒訴が挙げられる。
    ※本堂用材は一時比企谷妙本寺に置かれ、後に身延山本堂の一部として利用されたといわれる。(「身延山史」)
 11月17日
   祖師像、池上へ退座となる。
 11月21日
   日詮、池上檀林照栄院へ退身する。
 12月7日
   日詮、随身の僧残らず引払う。
天保13年(1852)
 正月
   本堂取壊され、材木を比企谷へ引き移したい願いを出す。
   お聞き済しの上、手当てとして金500両を給わり、取り壊される。
 2月29日
   本堂残らず取壊される。

  ※※大奥女性の代参の具体像については、本引用・参照では省略するので、原論文を参照願う。

天保6年(1835)に発願され、同11年(1840)には取り潰しになった感応寺であるが、史料的には天保9年(1838)から同11年(1842)にかけて大奥女性が代参したことが判明する。このことからいえることは、この間鼠山感應寺は江戸城大奥の祈祷所として君臨していたということである。
大奥女性は、奉納金や供物を奉納し、代参者の感応寺への出入りは毎月絶えなかった。
一般的に、江戸城大奥に仕えている女性にとって寺院への代参は城外に出る機会となったから、御台所や中臘の使いとして頻繁に神社仏閣に参詣したといわれている。
感応寺の場合も、御台所の代りとして大奥女性が代参したが、ただ参詣したばかりではなく、本人も祈祷や回向といった仏事を依頼し、感応寺の祖師や礼拝の対象となる仏像や本尊に祈りを捧げていたことは注目すべきことである。

なお、将軍家や将軍自身は菩提寺があり、天台宗・浄土宗の信仰が中心であった。
しかし、大奥女性の中には、念仏の信仰を持つものと題目の信仰を持つものとが二分しており、題目信仰に関しても、それぞれグループ単位で、城内で仰活動を行なっていたことが考えられるのである。

鼠山感應寺五重塔建立の可能性

上掲の天保雑記・普請願諸堂社(池上本門寺からの普請する堂塔の願い)では
祖師堂(14間×10間)、客殿(10間×12間)、位牌堂、釈迦堂、鼓楼(4間四方)、鐘楼、仁王門、鎮守社、五重塔、経蔵、土蔵、玄塀、書院、小庫蔵、庫裏、惣門の堂舎塔の名称があ り、別の記録では
釈迦堂・祖師堂・経蔵・五重塔・鎮守堂・宝蔵・鐘楼・鼓楼・山門・総門・中門・本坊向客殿・玄関・書院・庫裏・住持居間・文庫蔵・雑蔵・番所・塔中10軒の取建の願文となる。

果たして五重塔は建立されたのであろうか。

「櫨楓」では堂舎の沿革・仕様(上の項で概要を示す)は勿論、寄附・寄進の目録及び参詣者の逐次記録など詳細な情報がある。
以上の堂舎の沿革・仕様(拙ページには掲載しなかったが門前の町屋の平面図まである)
及び
天保12年10月廃寺感應寺建物図(「櫨楓」所収)によれば
建立されたのは、本堂・客殿・庫裏・玄関・居間などの付属建物・惣門・鼓楼・(梵鐘)・弁天社・張番所などの付属小屋・塔中3軒(源性院・大乗院・一如庵) などであり、五重塔はじめ釈迦堂・経蔵・宝蔵・鐘楼・山門・中門・塔中の大部などは建立されなかったと判断せざるを得ない。
(現下の結論は鼠山再興感應寺において構想された五重塔は、現実には建立されるに至らなかったということになる。)

ところで「天保12年10月廃地感應寺建物図」の本堂南に「御定塔」とあるが、これは一体何の構造物であろうか。
これについては直接の説明の記述はなく、「御定塔」とは不明である。
 考えられるのは「御定塔」とは「御宝塔」(五重塔)のことであろうかということであるが、
「櫨楓」では○御宝塔:文恭院(徳川家斉)様御書写題目塚。御本堂より20間余南の方へ双。東面。・・・との記載がある。
20間余と云う距離が多少大きいようにも思われるが、位置や東面という記載から、この「御宝塔」(題目塚)とするのが妥当であろう。
かなり大きな台石(5尺四方)上に建ち、9尺四方の玉垣に囲まれるということであるので、この「題目塚」を示すものであろう。
なにより、五重塔については全く施工記録や仕様などの記録がなく、これを五重塔と考える訳にはいかない。


感應寺遺構・遺物・関連情報

鼠山感應寺の処置は廃寺、本尊は池上本門寺、祖師像は鎌倉薬王寺へ遷座、伽藍の木材は比企ヶ谷妙本寺へ引渡される。
 ※比企谷妙本寺では祖師堂、客殿等を礎石とも引取ると云う。(日萬は比企谷・池上兼帯であった。)
2011/06/01追加:
「新編若葉の梢」海老澤了之介著、新編若葉の梢刊行会、昭和33年(1958) より
安藤対馬守下屋敷:
本尊その他は池上本門寺に移され、伽藍の用材は大部分、比企ヶ谷妙本寺の再建に使用されたが、本堂の用材はそのまま畳置かれていたが、明治10年身延山に運ばれ、祖師堂外陣経座の建築に使用された。
仁王門はそのまま雑司ヶ谷法明寺に移されたが、昭和20年戦災で焼失する。云々
 ◎「かたりべ 豊島区立郷土資料館だより 82号」2006年6月15日発行 より転載
  ◇雑司ヶ谷法明寺仁王門:鼠山感応寺仁王門;昭和10年頃法明寺参拝記念絵葉書(豊島区立郷土資料館蔵か):未だ再建に至らず。
    →雑司ヶ谷法明寺

◆比企谷妙本寺

妙本寺祖師堂(12間四方)は、天保年間日教(比企谷・池上47世)の建立による。祖師堂宮殿は鼠山感應寺の宮殿と伝えると云う。
 ※祖師堂は鼠山感應寺の木材で建立とも云うも、不明。
 ※現在の多くの建物が関東大震災(大正12年)後の再建というから、「櫨楓」で云う移建された客殿・庫裏などは現存しないと思われる。
  →比企谷妙本寺

◆池上本門寺鼓楼

鼓楼は池上本門寺に移築、昭和20年戦災にて焼失、その姿は写真に残る。

池上本門寺ページに2009/12/09掲載追加:
池上本門寺景観:年代は不詳であるが、明治頃の池上本門寺の景観と思われる。本堂・祖師堂が並列する。
 ※天保12年(1841)頃、取壊となった雑司谷感應寺鼓楼が移建され、仁王門の左右に鐘楼・鼓楼が並ぶ伽藍配置となる。
 池上本門寺景観
主題:Buddhist Temple of Ikegami.
説明:1. Sammon. 2. Ema-do. 3. Shoro. 4. Hondo. 5. Soshi-do. 6. Taho-to. 7. Rinzo. 8. Shoin. 9. Kyaku-den. 10. Hozo. 11. Daidokoro. 12. Chozu-bachi. 13. Koro. 14. The pagoda. 15. Stone lanternes presented as offerings.
(1.三門.2.絵馬堂.3.鐘楼.4.本堂.5.祖師堂.6.多宝塔.7.輪蔵.8.書院.9.客殿.10.宝蔵.11.台所.12.手水鉢.13.鼓楼.14.塔.15.奉納された石灯籠)
掲載書名:A handbook for travellers in Japan<日本での旅行者の手引(日本旅行案内)>著者:Chamberlain, Basil Hall, 1850-1935

2011/05/20追加:
 明治20年池上本門寺境内図:画像容量1.8MB
仁王門を入って右手に鼠山感應寺鼓楼がある。

2011/05/02追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より

明治中期の撮影と推定:池上本門寺蔵
 池上本門寺鼓楼:左図拡大図
鼓楼は雑司谷鼠山感応寺鼓楼として天保7年(1836)頃建立、 天保12年雑司谷感応寺廃寺取壊、鼓楼のみ直ちに池上に移建されたものと思われる。
昭和20年今次大戦の空襲で焼失。

写真左は大黒堂(日蓮上人作の大黒天を祀る)
写真右に写る層塔は寿福院逆修塔である。

 

明治6年撮影:「The Far East」より、池上本門寺蔵
 池上本門寺鼓楼・五重塔01
左端は水屋で、大黒堂はその陰になる。


明治中期の撮影と推定;長崎大学付属図書館蔵
 池上本門寺鼓楼・五重塔02:左図拡大図
右に人物が写るが、それとの比較でこの鼓楼が大建築であったと分かる。



池上本門寺ページに 2003/03/31追加:
 池上本門寺五重塔・鼓楼: 明治初頭の池上本門寺


池上本門寺ページに2006/07/22掲載追加:
「ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真、マーケーザ号の日本旅行」より

第2回目の日本旅行(明治15年10月から翌年1月末まで)の撮影
 ◎大本山池上本門寺:左図拡大図:
   前項の図と同一の構図であるが、本図の方が鮮明。

池上本門寺ページに2007/07/13掲載追加:
「日文研」より(明治初期の撮影と思われる。)

池上鼓楼・五重塔古写真1 :左図拡大図
池上鼓楼・五重塔古写真2

2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
 戦前祖師堂前:お会式、右手に水屋が写る。明治44年頃、国立国会図書館蔵
 戦前お会式:中央に水屋が写る。昭和6年(中央の立柱に年紀あり)、「宗祖六百五十年遠忌紀念写真帖」昭和6年 所収

◆身延山祖師堂

明治8年身延山大火、明治14年身延山祖師堂再興。
再建に当り、身延75世日鑑は比企ヶ谷妙本寺に懇請し、雑司ヶ谷感應寺から引き取っていた木材を譲り受け祖師堂を再建と云う。
その折、木材は由比ヶ浜から海路波木井川へ運搬されたと云う記録が比企谷妙本寺に残ると云う。

2004/0//01撮影:
 身延山祖師堂01

2010/05/29撮影
 身延山祖師堂02:左図拡大図
 身延山祖師堂03
 身延山祖師堂04
 身延山祖師堂05
 身延山祖師堂06

明治14年の再興にあたり、どの程度の感應寺材料が使用されたかは不明ながら、多少なりとも廃感應寺堂宇の雰囲気を漂わす建築であるのかも知れない。

2019/09/03追加:
○「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」石川修道(「現代宗教研究 第43号」2009.3 所収) より
 大奥の法華宗徒の女中連の協力により、11代将軍・家斉と中野美代の外護により雑司谷安藤下屋敷(目白四丁目・二万八六〇四坪)に新感応寺が建立され、池上本門寺48世日萬が開山となった。
 これが「鼠山感応寺」である。
この工事中、大奥の女中連が木材を担いで運んだと言い伝えられている。それだけ江戸城大奥の法華信仰は盛んであった。
この鼠山感応寺ものち廃寺にされ、木材は比企谷妙本寺に預けられる。明治八年の身延山大火により祖師堂を失った久遠寺は、明治十四年鼠山の木材で十六間×二十二間の身延棲神閣(祖師堂)が再建され現在に至る。

◆池上本門寺常仙坊(池上・中延法縁)

池上本門寺ページに2007/06/13掲載追加:
常仙院:天文18年(1549)本門寺9世東照院日純上人の隠棲所として開創、旧は「玉蔵坊」と称す。
 天保13年(1842)雑司谷感応寺の廃寺に当り、住持妙沾院日詮は感応寺の居間を縮小して移築し、当寺に隠棲したと伝える。
 今次大戦で南谷檀林山門と共に全焼する。
  池上常仙院: 本堂は変形三重塔風の様式を採る。RC造。あるいは屋上に一重塔を置く形式。
 2011/02/19撮影:
  △池上常仙院本堂1     △池上常仙院本堂2     △池上常仙院本堂3:左図拡大図

◆雑司谷感應寺祖師像

以下の諸説がある。
1)鎌倉大乗山薬王寺のサイトでは
 木造日蓮上人坐像
【寺伝】元鼠山感応寺奉安の祖師像
感応寺は池上本門寺第四十八世日萬上人の請により、将軍家斉公の代に幕府が施主となり雑司が谷鼠山に建立された・・・。
家斉公死去により廃寺取り壊しとなり、御尊像は本門寺・妙本寺を御渡られたのち御縁あって当山で感得奉安したものである。

 宗祖尊像
元鼠山感応寺奉安の祖像である。感応寺は、十一代将軍家斎の代に、池上本門寺四十八世日萬 上人の請により天保五年(1834)幕府が施主となり、雑司が谷鼠山に、雄大な規模の もとに壮美な大伽藍を建立した。然るに天保十二年(1841)家斎死去すると倶に 老中水野忠邦の大改革によって、感応寺は廃寺を命ぜられ、取りこわし一切が池上本門寺にさげ渡しとなった。後、尊像を牛込築土八幡の万昌院へ土地の人々の希望で祀ったが、大きな尊体で護持に困難をきたし、成子の常円寺に依頼して御移したとの説もあるが、再び本門寺へ返納されて比企ヶ谷妙本寺に材料と共に保存されていたのである。明治八年に身延山大火災により、焼失した祖師 堂建立にこの材料を寄進したが、尊像は妙本寺に残り 、縁あって当山で感得奉安したものである。乳首があり御口を開いている御尊像もめずらしい。 九十三糎。
と云う。
2011/11/15追加:
 鎌倉大乗山薬王寺祖師像 → 鎌倉扇ヶ谷薬王寺に現存する。

2)「天保年間における鼠山感応寺の興廃」宮崎英修(「大崎學報 100巻」日蓮宗大學林同窓會、1953 所収) では
 祖師像は池上に納まり、後柏木常圓寺に移ったが現今は鼠山感應寺絵図とともに八王子大法寺に移され、祖師像は別に南多摩郡由木村感應山日蓮堂に安置される。
と云う。
しかし、Web上では以上の確認が取れないのが実情である。

◆平成12年(2000)鼠山感應寺発掘調査:
豊島区教育委員会は「旧感応寺境内遺跡発掘調査」を実施、巨大な本堂の礎石が目白4丁目から出土すると云う。
 ※詳細情報未掌握
2011/05/18豊島区教育委員会のご教示は以下の通り。
「発掘調査報告書」は平成25年刊行予定で整理中、この他にも感応寺境内の調査を実施しているが、感応寺自体に係る遺構遺物の発見は今のところありません。

筑土感應寺

大乗山経王寺(歴史)のサイトでは以下のように説く。
 雑司谷感應寺廃絶の後、牛込市ヶ谷田町の日蓮宗信者、畳職人・太兵衛は、鼠山感応寺の再興を再三にわたり寺社奉行に願い出るも、その都度却下される。
文久3年(1863)悲憤した太兵衛は菩提寺牛込原町経王寺にて、「感応寺再建成就」の祈祷を上げ、切腹し自害するに至る。
寺社奉行は(衝撃的な事件であったのであろうか)感應寺の再建を許し、筑土感應寺が再建されるも、程なく廃寺となるという。
 ※筑土感應寺については情報がなく良く分からない。
2011/08/26追加:
「稼ぐ御殿女中」三田村鳶魚(「三田村鳶魚全集 28巻」 所収) より
 「畳屋太兵衛の殉教」の章:
「法華に凝り固まった正直な信者だった市ヶ谷町三丁目の畳屋太兵衛は、感應寺毀却以来、二十有余年に亙って、再建の上願を時々の寺社奉行に呈出し、一向に顧みられず、果ては狂人扱いされた。彼は意を決して文久3年正月20日、菩提所牛込町(今は若松町に転ずる)経王寺本堂の前で、職業用の畳包丁で屠腹した。」


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