京都六条本圀寺々中(坊舎・塔頭)

京都六条本圀寺々中(坊舎・塔頭)

大光山本圀寺・本文        六条の地に於ける終竟の本圀寺

2008/03/20追加
○「本圀寺小誌」光山学院/編、光山学院:出版、大正8年 より
 塔中諸院:
初め京都移転の時は百箇院あり、天文法乱後再興の時又百箇院あり。然るに天明大火後再興せしは半数に達せず現今にては25箇院となれり。

2010/12/19追加:
○「花洛羽津根」清水換書堂、文久3年(1863) より
 大光山本圀寺塔中:
勧持院(又大法寺といふ)、松林院(又天雲寺といふ)、戒善院(又妙階寺といふ)、持珠院(又宝国寺といふ)
一音院、 智光院、玉雲院、本栖院、円竜院、英鏡院、智了院、信正院、一妙院、了光院、高岸院、常証院、宝珠院、堅利院、善竜院、本喜院、本実院、知妙院、本妙院、林昌院、玉明院、玉昌院、詮量院、松陽院、吉祥院、信行院、了円院、教蔵院、万慶院、久成院、多門院、法雲院、正善院、本行院、大慈院、円乗院、瑞雲院、円行院、真妙院、真蔵院、了覚院、本立院、十如院、立正院 48ヶ院
花洛の末寺には、洛東吉田村檀林妙惠山善正寺<日蓮宗檀林・東山壇林>など多数あり。

2009/05/22追加:
天明8年(1788)の大火以前の本圀寺坊舎配置図:【寛政3年(1791)本圀寺境内廻り内地坪数諸建物間数坪数書附図】
本図<寛政3年本圀寺境内図:寛政3年(1791)境内図 >は、天明8年(1788)の大火以前の景観とされる。
 ※「洛中本圀寺の子院(塔頭)の構成について」櫻井敏雄、長池秀崇、青柳慶賢
   (「日本建築学会近畿支部研究報告集・計画系」Vol41、2001 所収)より転載


     ○覚院は了覚院、○利院は堅利院であろう。

2012/01/21追加:
清浄院(加藤清正・正室清浄院及び寺中「清浄院」)
○『続・加藤清正「妻子」の研究』水野勝之・福田正秀、ブイツーソリューション、2012 より
 上図によれば、本圀寺境内北西側、境内南北中央通路に接する寳珠院の裏側、「露地を入った所」に寺中「清浄院」がある。
この「清淨院」こそが、加藤家改易後に清淨院が京都で20余年の余生を過ごしたところではないだろうか。
まさに、その位置は、清浄院が「人目を避けてひっそりと隠棲していた」ように見える。
 ※正室・清浄院は清正逝去から46年後の、忠廣改易から数えて24年後の明暦2年(1656)本圀寺にて逝去と記録される。
 ※清浄院は六条本圀寺に清正と並んで埋葬される。
  その後の本圀寺加藤家廟所の
瑤林院(八十姫)による整備などの変遷は六条本圀寺の清正廟の項を参照

 本書第2部、第1章関宿加藤家文書、7.忠廣娘赦免願い訴状 では以下のように述べられる。
明暦元年(1655)と推定される江戸町奉行宛の加藤肥後守(忠廣)家来(加藤兵庫、田寺勝兵衛)の訴状が残る。
 「・・・(加藤・田寺両名は)肥後守庄内え遣わされ候とき、雑物(調度・什宝など)下し置かれ候・・、両名へ預かり申し付けられ、京都本国寺に罷り在り候、・・・・(忠廣逝去し、その娘<亀姫>がただ一人上州沼田に在る)・・・・・
肥後守老母、水野日向守殿妹・清浄院と申し候老尼、並びに恵光院と申す肥後守親類の老尼、今に堅固に京都に罷り在り候、・・・(忠廣娘<亀姫>の配所からの赦免を成し)・・右の老尼共の内え下し置き候様に・・願い奉り候・・・・・・」
  ※忠廣生母は側室玉目氏正應院であるが、公式には正室清浄院とされる。
 以上から、慶長11年(1611)の清正逝去から45年の後及び寛永9年(1632)の忠廣改易から23年の後も、清正正室・忠廣母清浄院は京都にて堅固(健在)であったことが知れる。(清浄院は翌年の明暦2年・1656本圀寺にて逝去)
そして忠廣雑物(調度・什宝など)は家来の両名により六条本圀寺で管理されていたことも知れる。
 「清浄院は忠廣改易後、一度は備後福山(兄の水野勝成城主)に移るも、やがて京都六条本圀寺へ移り住み、清正の供養に尽したようである。」
 つまり老尼・清浄院の本圀寺の居住地は上図の寺中「清浄院」であることは容易に推測され、またそのように断定しても大過はないであろう。
なお、家来の両名などが住まいした所は諸史料(本書に詳述される)より、本圀寺門前町であると知れる。
この門前町は上図では西側大宮通りおよび北側松原通りに接する所に示される「門前町家」として示される。
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 2024/05/20追加:
 ※近世初頭の大檀越であった加藤清正及及びその妻子についての最新の研究は次の3著(受贈図書中)に詳しい。
  ○『加藤清正「妻子」の研究』水野勝之・福田正秀、ブイツーソリューション、2007
  ○『続・加藤清正「妻子」の研究』水野勝之・福田正秀、ブイツーソリューション、2012
  ○「加藤清正と忠廣」福田正秀、ブイツーソリューション、2019
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※清浄院逝去後の寺中「清浄院」の消息は不明であるが、天明の大火(天明8年・1788)以降の塔頭図および諸記録には、管見ではあるが、その名を見出すことは出来ない。
要するに、清浄院逝去後、ほどなく廃絶したのであろうか、あるいは天明8年まで存続していたとしても「大火」で類焼し、そのまま再興されず廃絶したのであろうか。

京羽二重巻4(宝永版)より
本圀寺・役者
円龍院 勧持院 真如院 仙壽院★ 玉龍院★ 寂妙院★ 吉祥院★ 教蔵院★ 知足院★  とある。


2011/08/21追加:
○日蓮宗本末一覧(明治3年11月作成、寺社掛、太政官達により京都府寺社掛が作成) より
 本圀寺塔中:
檀林求法院、勧持院、松林院、持珠院、戒善院、本妙院、智妙院、英鏡院、円乗院、心行院、本実院、瑞雲院、本喜院、真如院、円龍院、詮量院、一妙院、本立院、智了院、智光院、多聞院、松陽院、久成院、吉祥院、了円院、常證院、本栖院、了光院の29ヶ院が存在する。
信正院、玉明院、林昌院は無住寺籍のみ。

2009/05/22追加:
明治4年の本圀寺坊舎配置図:明治4年「寺地画図」
 ※「洛中本圀寺の子院(塔頭)の構成について」櫻井敏雄、長池秀崇、青柳慶賢
  (「日本建築学会近畿支部研究報告集・計画系」Vol41、2001 所収)より転載

寺地画図:明治3年5月、上地令の準備として、京都府が作成を命じたもので、この命は寺社地を管理すべきものという太政官達を受けたものである。
上記のように本図は明治3年頃の提出命令によるものであり、従って天明の大火後、順次再建・復興した明治初頭の本圀寺の様子を描くものである。
本堂と五重塔は天明の焼失後再興されず、本堂跡・五重塔跡として描かれる。
また檀林(求法院)がかなり広い区画を占拠していることが分かるが、「寺地画圖」には具体的な配置は全く示されない。

2014/08/15追加:
本圀寺「寺地画圖」原本:

本図の南辺の了圓院・心行院の下附近は虫食があり、一部文字が判読できない。
了圓院南に役人部屋がありその東側は■蔵院跡とある。役人部屋の西側2区画には文字の書入れはない。
戒善院に南には■■院跡とあり、その院跡の南は持珠院である。

なお、本圀寺の「寺地画圖」は本図の「六条本圀寺」、「諸堂地所」、「方丈」の3圖から構成される。
 六条本圀寺寺地画圖
 六条本圀寺寺地画圖(文字入):左図拡大図
 本圀寺諸堂画圖
 本圀寺方丈画圖


明治末頃の推定本圀寺塔頭配置図(大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編  を参考にして推定作図)


2011/08/21追加:
京都市明細図:昭和2年頃、「大日本聯合火災保険協会」が作成、昭和26年頃まで加筆・修正がなされる。
 京都市明細図本圀寺:下図拡大図
この図の五条通りとその南側一帯(信正院が中央にある)の色付けされていない部分は戦時中に建物疎開と称し、取壊された部分である。明治維新前には当然本圀寺の境内であった部分である。

英鏡院、円乗院、旧真如院、常證院、一妙院、多聞院、信正院、本栖院(心行院跡)、戒善院などの位置とその存在を知ることができる。眞如院が明徳高校の拡張で旧地を離れ寳珠院跡に移転したのは昭和24年と云う。

2014/08/15追加:
 京都市明細図本圀寺2:上図と同一のソースである。


2009年現在の本圀寺寺中配置:2009/05/22追加:
 六条の地には現在僅か15ケ院を残すのみとなる。

旧伽藍地・六条本圀寺の塔頭配置図:2001年の作成図

六条本圀寺旧地には16院の存在が確認できる。
詮量院(但し今堂宇は退転か)、了円院、勧持院、松陽院、林昌院、松林院、本妙院、本實院、智妙院、真如院、了光院、瑞雲院、久成院、一音院、智了院、智光院である。


京 都 六 条 本 圀 寺 寺 中 の 概 要

以下の大筋は大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編による。
  1)◇印の写真は2009/05/09撮影
  2)○印の図は「天明大火後の本圀寺再建」(『田中家文書』を基本史料として) 千木良礼子 より転載
     天明の大火による再建普請願書・・・田中家文書
  3)◎印の図は「洛中本圀寺の子院(塔頭)の構成について」櫻井敏雄、長池秀崇、青柳慶賢 より転載
     天文の法難の再興では子院は100ケ院、「寛政附図」寛政3年(1791)、天明の大火前では56ケ院、
     明治4年の「寺地画図」では30ケ院を数える。
  9)天明の大火は天明8年(1788)

・慶長年中諸堂を修め、元禄16年本堂を新築。其の頃寺門旺盛を極め、塔中は百一ヶ坊ありしと言う。
天明の大火で寺門悉く烏有に帰す。その後漸時旧観に復せしも、多宝塔(?)のみ再建に至らず。
明治維新で境内の幾分を上知・壇林求法院廃絶・多くの塔頭維持立たず、多くが合併廃絶した。 (「京都坊目誌」)

・「遺拾・都名所圖會」に記載される塔頭
多門院:鶴井(名水)あり。吉祥院:太閤部屋あり。持珠院:松蔭の井。
本圀寺壇林求法院:妙見堂・四観の松。宝珠院:七面明神社あり。
瑞雲院:金吾中納言秀秋の廟。
勧持院:福大明神社あり。
真如院:烏帽子岩・真如水・古井の尊像・弁財天社あり。
松永弾上久秀の塔:本圀寺墓所の北、南向きにあり。そもそも松永久秀は当寺の大壇那にして、北の方塔頭二十坊の寺地、また墓所の封境、あるいは石橋等、久秀寄附す。ゆゑに墓所はいまにおいてこの二十坊より支配す。

六条本圀寺塔頭概要

勧持院:四寺家の一つ。歴応元年日善上人上総安中に大法寺を建立。貞和元年日靜上人に従い入洛(油小路七条)。応仁元年兵火に罹り、明応中再興に及び本寺境内に移る。天文法華の乱で堺に避難。日助上人に従い帰洛。加藤清正を檀越として再建。天明の大火で類焼。その後再建。
福大明神社:祭神紀貫之の霊を祀る。
 ◇本興寺勧持院1   ◇本興寺勧持院2     2013/04/09撮影:本圀寺勧持院3
2009/06/09追加:
 ◎天明大火前勧持院平面:仏堂と庫裏の2棟を構える、妻入り。

戒善院:四寺家の一つ。仁王門前西南にあり。歴応元年日澄上人上総瀧山に妙階寺を建立。貞和元年日靜上人に従い入洛(四条綾小路)。応仁元年兵火に罹り、明応中再興に及び本寺境内に移る。天文法華の乱で堺に避難。日助上人に従い帰洛再興。天明の大火で類焼。その後再建。現在消息不明。
松永久秀は戒善院の檀徒であった。その由縁で、久秀京都屋敷を松永家菩提のために、墓地として寄進したという。現在の本圀寺墓地を云う。

松林院:四寺家の一つ。中門の北にあり。歴応元年日行上人下野浮田に天霊寺を建立。貞和元年日靜上人に従い入洛(五条坊門)。応仁元年兵火に罹り、明応中再興に及び本寺境内に移る。天文法華の乱で堺に避難。日助上人に従い帰洛再興。天明の大火で類焼。その後再建。
 ◇本圀寺松林院
2009/06/09追加:
 ◎天明大火後松林院平面:1棟を構え、1棟を左右に仏間と庫裏に別ける。

持珠院:四寺家の一つ。
歴応元年(1338)日範上人伊豆船田に大教寺を建立。
貞和元年(1345)日靜上人に従い入洛(姉小路)。
応仁元年(1467)兵火に罹り、明応年中(1492-)再興に及び本寺境内に移る。
天文法華の乱で堺に避難。日助上人に従い帰洛再興。楠木正虎の菩提寺。
天明の大火で類焼。その後再建。
明治20年伊予の国に移転。
松陰井:持珠院にあり
2009/06/09追加:
 ◎天明大火前持珠院平面1:1棟を構え、1棟を左右に仏間と庫裏に別ける。妻入。
 ◎天明大火前持珠院平面2:同上。平入。・・・・但し、変面1と2の前後関係は不明
※伊予瀬戸町三机に持珠院と号する寺院がある。
山号:海森山、宗派:日蓮宗、本尊:一塔両尊士(釈迦牟尼世尊、法無辺行、浄行、安立行)の4菩薩、別名、「法華寺」ともいう。
明治15年(1882)、中尾城跡に建立される。(資料によっては、明治17年に設立されたと記すものもある。)
以上が概要で、おそらく本圀寺持珠院と思われる。
 ※京洛21本山の一つであった宝国寺(日善上人)は本圀寺塔頭持珠院に合併とされる。
  以上とすれば、宝国寺に連なる寺院であろう。
2012/10/24追加:
○寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
 明治15年、持珠院移転、海森山持珠院として愛媛県西宇和郡伊方町三机1032に現存。
2014/08/15追加:三机移転後写真
ページ「海森山 持珠院」 より転載
 旧本圀寺寺中持珠院:三机移転後

2012/01/21追加:
清浄院
寺中「清浄院」は上述「天明8年(1788)の大火以前の本圀寺坊舎配置図」に見える。
 →上述「天明8年(1788)の大火以前の本圀寺坊舎配置図」の項を参照。
清浄院は加藤清正正室、加藤忠廣母(生母ではない)であり、清正歿後・忠廣改易後も長く本圀寺に住する。
この清浄院住居が寺中「清浄院」であったと推定される。
 ※以上は『続・加藤清正「妻子」の研究』水野勝之・福田正秀、ブイツーソリューション、2012 によるものである。

円龍院:五条の角にあり。応永14年日傳上人の開基。天文法華の乱で堺に避難。日助上人に従い帰洛再興。庭園は加藤清正の築造。天明の大火で類焼。その後再建。維新後甚だしく荒廃。
2007/07/13追加:
「花洛林泉帖」碓井小三郎編、京都:芸艸堂、明43年 より
 本圀寺円龍院林泉:林泉の作者詳ならず或は云加藤清正の作と既に参百余年の春秋を経て奇岩恠石自ら錆苔に蒸され渓谷の景石の状市坊紅塵の中かかる佳境あるを感知せしむ唯惜しむらくは保存の方法の忽緒に附せることを
 (この図は本堂の東南隅よりななめに見る所なり)
2004/08/09追加:
「Yy」氏(愛知県在住)より下記情報を入手。
愛知県に移転現存すると思われる。
  1.所在地 愛知県海部郡美和町蜂須賀地内(蜂須賀小六正勝住居跡)
  2.当院は以前尼寺であった。(近年、法灯の継承があった)。
  3.本圀寺塔頭の一つであったが、院経営上の理由で現地に移転。
  4.日蓮宗を奉じ、七面天女を祀る。
    以上のことから、美和町に移転し現存するものと思われる。
2012/10/24追加:
○寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
 大正2年、圓龍院移転、宗照山圓龍院として愛知県あま市蜂須賀北本郷1289に現存。
2014/08/15追加:蜂須賀移転後写真
阿波藩主蜂須賀家菩提寺蓮華寺の南200mほどのところに円竜院があり、そこには「蜂須賀小六正勝公旧宅跡」という碑が立っているという。
ページ「美和町@代々の蜂須賀家の帰依も受けた古刹:蓮華寺」 より転載
 旧本圀寺寺中圓龍院1     旧本圀寺寺中圓龍院2:蜂須賀移転後
○2018/04/21蜂須賀圓龍院訪問・撮影:
記事並びに写真は尾張の日蓮宗諸寺中にあり。

智光院:永享5年日心上人開基。天文法華の乱で堺に避難。日助上人に従い帰洛再興。天明の大火で類焼。その後再建。
 ◇本圀寺智光院

智了院:永正元年日受上人開基。天明の大火で類焼。その後再建。
 ◇本圀寺智了院:現在は近代建築に造替される。

林昌院:享禄3年日實上人開基。天文法華の乱で堺に避難。日助上人に従い帰洛再興。天明の大火で類焼。その後再建。
 ◇本圀寺林昌院

真如院:天文4年日映上人開基。翌年天文法華の法難で堺に避難。日助上人に従い帰洛再興。
天明の大火で類焼。その後再建。庭園は足利義昭の命で作事。
昭和24年明徳高校の拡張により西の現在地(寳珠院跡)に移転する。
真如水:寺号この井より起る。
古井尊像:日蓮上人の影。坐像。永禄年中日乗上人八条大宮の古井から得たり。
弁財天社:円阿弥というもの、化人にこの尊像を授かり当院に納む。毎年正月元朝に白羽矢一筋忽然としてこの社に来る。
2007/07/13追加:
「花洛林泉帖」碓井小三郎編、京都:芸艸堂、明43年 より
 本圀寺真如院林泉:永禄11年(1369)足利義昭将軍に任し織田信長の為に授けられ本圀寺に宿す時に此地に作庭し茶事に耽る一日凶徒三好松永の徒来り攻む防戦して事なきを得たり其後足利氏滅亡せしも林泉は永く此院に伝はりて形体を崩さす今に保存せらる形状穏和にして幽玄の体あり小石を畳て流水に批准せるが如き意匠の優秀なるを認む郡下名苑中屈指のものとす庭中に瓜実灯篭烏帽子石呼子の手水鉢皆名品とす
 (此図は書院の南より全景の主要をうつせしものなり)
 ◇本圀寺真如院
2009/06/09追加:
 ○天明大火前真如院平面:7間半×9間半の規模で、西に2間×4間半の部屋が付設する。
 ○天明大火後真如院平面:寛政元年(1789)7間半×3間で、文化3年(1806)3間×2間半を増築。
 ○天保3年真如院平面:天保3年(1832)仮建物取払い、母屋8間半×3間で再建する。

多門院:天文法華の乱後7年日精上人泉州に創建す。日助上人に従い帰洛再興。天明の大火で類焼。その後再建。
現在消息不明。
鶴井:本圀寺本堂西にある亀井と一対の名水なり。

詮量院:天文法華の乱後8年日心上人泉州に創建す。日助上人に従い帰洛再興。天明の大火で類焼。その後再建。
 ◇本圀寺詮量院:現在は更地で、ガレージとなる。詮量院の消息は現在不明。連絡先は勧持院とある。
2013/04/09:
現在、旧地のガレージの一画に民家風な坊舎が建立されたようである。玄関に「詮量院」の扁額を掲げる。
 本圀寺詮量院

玉明院:明治4年詮量院に合併。

了光院:天文17年日助上人開基。天明の大火で類焼。その後再建。六条家の菩提寺。
 ◇本圀寺了光院

常證院:天文19年日助上人開基。天明の大火で類焼。その後再建。明徳高校位置にあったと云う。
現在消息不明。

松陽院:永禄元年日叡上人開基。天明の大火で類焼。その後再建。
 ◇本圀寺松陽院

良(了)円院:永禄3年日頼上人開基。天明の大火で類焼。その後再建。
 ◇本圀寺了円院:現在はRCのビルになる。      2013/04/09撮影:本圀寺了円院2

本實院:天正15年日善上人開基。天明の大火で類焼。その後再建。
 ◇本圀寺本實院     2013/04/09撮影:本圀寺本實院2     本圀寺本實院3
2009/06/09追加:
 ○本實院平面
  左から、天明大火前、大火後3ケ月後に仮設建物を再建、寛政4年再建(1棟妻入)、寛政9年(1797)増築の平面図。
      文化13年(1816)焼失した藥医門及び築地の普請願を提出。

本妙院:永禄15年日鋭上人開基。天明の大火で類焼。その後再建。
 ◇本圀寺本妙院     2013/04/09撮影:本圀寺本妙院2
2009/06/09追加:
 ○天明大火前本妙院平面:桁行7間梁間7間半、東側に式台と桁行6間梁間3間の下屋を付設、
                  棟角門内北に妙見社がある。
 ○天明大火後本妙院平面:天明8年仮設建物(桁行7間梁間3間)、文化14年(1817)2間四方の部屋を増築。
 ○文政13年本妙院平面:文政13年(1830)南北に増設、妙見社も何時しか再興されている。

本栖院:永禄19年日鋭上人開基。天明の大火で類焼。その後再建。
 2009/06/09追加:
  ◎天明大火前本栖院平面:1棟を構え、1棟を前後に仏間と庫裏に別ける。妻入。
近世には宝珠院南、善龍院北側にあり、明治初頭にもその位置にあった。
昭和2年の図では良円院西側(旧心行院跡)にあり、いつしかここに移転と推定される。
 ※心行院は明治37年豊後国へ移転と云う。
今次大戦の強制疎開(取壊)で信正院が取壊され、信正院を合併し、本栖信正院と称し、近年まで存在した。
その後、旧地を離れ伏見区小栗栖中山田町5−5に移転と思われる。
 ※小栗栖中山田町に信正山本栖寺(日蓮宗) と称する寺院があり、その山号寺号から本圀寺本栖信正院の移転したものであろう。なお隣接して京都桃山霊苑があり、これを経営する。この霊園は隣接するが、住所は深草大亀谷古御香町である。
2012/10/24追加:
○寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
 昭和年中、本栖院移転、信正山本栖寺(次々項参照)として京都府京都市伏見区小栗栖中山田町5−5に現存する。

信正院:慶長8年日求上人開基。天明の大火で類焼。その後再建。明徳高校位置にあった。
さらに、明徳高等女学校の開設で現在の五条通りに移転するも、戦時の強制疎開で本栖院と合併する。
合併後は本栖信正院と称し近年まで本栖院旧地にあったが、その本栖信正院も近年、伏見区に移転し信正山本栖寺(次項参照)となる。

2014/11/07撮影:
◇信正山本栖寺
 本栖寺山門     本栖寺本堂1     本栖寺本堂2     本栖寺庫裡     本栖寺堂宇     本栖寺鐘楼
 本栖寺妙見堂1
 本栖寺妙見堂2:開運堂の扁額を掲げ、開運妙見堂と称する。鎮宅北辰妙見大菩薩、鬼子母神、大黒福寿天を祀る。
 信正院妙見大菩薩石碑:表には「洛陽 廿八個所 大光山元檀林 鎮宅開運北辰妙見大菩薩 信正院」と刻し、裏面には「昭和4年12月」の年紀を刻する。
 ※以上から次のように推測される。
本圀寺求法院檀林には妙見堂(開基日重上人の開眼)があったことが知られる。 → 六条本圀寺求法院檀林
明治維新の廃壇後、妙見大菩薩は元檀林像として信正院に遷される。
大正10年明徳女学校開設というから、それより少し前に、明徳女学校のあったところにあった信正院は現在の五条通の位置に移転し、旧檀林妙見菩薩も同じく移転する。
昭和4年現在の五条通の位置にあった信正院に、この写真の「求法院 妙見石碑」が建立される。
昭和19年五条通の強制疎開が実施され、信正院は取り壊し、合併した本栖院に妙見菩薩及び「求法院 妙見石碑」が遷される。
昭和28年(と推定)本栖信正院は伏見に移転し、妙見菩薩及び「求法院 妙見石碑」も遷される。
 ※本栖信正院の伏見移転年の昭和28年が推定であるのは、現地に「信正山本栖寺沿革」碑が建てられて
 そこに年紀が刻まれているのであるが、その文字が小さくかつ浅いため明確には判読できないからである。
 「辛うじて」「昭和28年」と解読できる状態で、昭和28年というのは確信が持てないからである。
 ※一応、年紀は「昭和二十八年四月廿八日立教開宗の日」と解読する。
近年、妙見堂が新築され、現在のように(上記写真の)妙見堂及び「求法院 妙見石碑」が整備される。

英鏡院:慶長元年日泉上人開基。天明の大火で類焼。その後再建。
現在消息不明。以前は更地であったと記憶するが、現在跡地は下京変電所となる。
2009/06/09追加:
 ◎天明大火前英鏡院平面:1棟を構える。妻入。

智妙院:慶長3年日雄上人開基。天明の大火で類焼。その後再建。
 ◇本圀寺智妙院

久成院:慶長3年日理上人開基。天明の大火で類焼。その後再建。
 ◇本圀寺久成院     2013/04/09撮影:本圀寺久成院2     本圀寺久成院3

一音院:東総門内北側にあり。慶長3年日海上人(豊臣吉房、三好吉房、秀次の父・弥助)開基。
天明の大火で類焼。その後再建。現在は東総門内南に移転。
2006/06/05追加:「ほーむめいど あさひ 6 2006Vol.87」より
尾張乙ノ子村の弥助・とも(木下藤吉郎実姉)は3子をもうける。
 ○長男秀次:浅井方武将宮部継潤の養子、次いで四国三好康長の養子(父弥助は三好吉房を名乗る。)、さらに池田信輝の娘と縁組、天正13年近江八幡城主、同19年秀吉養子、関白に昇進、文禄4年謀反の嫌疑で切腹。
 ○次男秀勝:岐阜城主、朝鮮出陣中に病死(24歳)。
 ○三男秀保:大和中納言秀長の養子となる、文禄4年病気療養中に事故死(17歳)。
秀次謀反の嫌疑で、父三好吉房は四国配流、慶長3年秀吉没、吉房は放免され京に戻る。
慶長5年三好吉房は本圀寺山内に一音院を建立、子供たちの追善・読経三昧の余生を送る。
慶長17年吉房没。法名「建性院殿三位法印日海大居士」、本圀寺総墓地に墓所がある。
  三好吉房墓石:三位法印日海(三位法印三好一路常閑と号すると云う。)
「とも」は処刑された秀次の首級を埋葬し東山檀林善正寺を菩提所とし、自ら出家(瑞龍院日秀と称する。)し、法華宗瑞龍寺を創建、余生を送る。
一音院は堀川署拡張で、現在地に移転。
 ◇本圀寺一音院:現在は民家風な建物を構える。

一妙院:慶長5年日江上人開基。天明の大火で類焼。その後再建。
現在消息不明。あるいは長崎に移転との情報もある。
稲龍山一妙院(長崎県長崎市)と称すると云うも不詳(長崎県長崎市稲佐町19-1か?)。
2009/06/09追加:
 ◎天明大火後一妙院平面:1棟を構え、1棟を前後に仏間と庫裏に別ける。
2012/10/24追加:
○寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
 大正13年、一妙院移転、稲龍山一妙院として長崎県長崎市稲佐町19−1に現存、明治42年設立の大法結社が、大正13年一妙院の寺号を移転。

瑞雲院:慶長7年小早川秀秋菩提の為、日求上人開基。天明の大火で類焼。その後再建。
金吾中納言秀秋廟:秀秋は木下家定の五男、秀吉養子、小早川隆景の家督とす。慶長8年21歳にて早逝。
 ◇本圀寺瑞雲院1    ◇本圀寺瑞雲院2
2013/04/09撮影:
 本圀寺瑞雲院3     本圀寺瑞雲院4     本圀寺瑞雲院5     本圀寺瑞雲院6
2009/06/09追加:
 ○天明大火前瑞雲院平面:1棟を構える。妻入。
 ◎天明大火後瑞雲院平面:仏堂と庫裏の2棟を構える。 ・・・これは天明の大火後の仮設建物か?
 ○文化13年瑞雲院平面:文化13年(1816)仮設建物を取払い、客殿・庫裏の2棟から成る建築で再建。

本立院:岩上通五条北西にあり。正徳元年日運上人開基。天明の大火で類焼。その後再建。
幕末、明治初頭には本立院の存在は確認できるも、その後の消息は不明である。
2013/10/16追加:K.G氏情報により消息が判明。
 大正12年現愛媛県西宇和郡伊方町大浜611−2に移転し、日光山本立寺として現存する。
2014/08/15追加:大浜移転後写真
ページ「日光山 本立寺」 より転載
 旧本圀寺寺中本立院(本立寺) :大浜移転後
2014/11/12追加:
○Googleストリートビュー より
 本立寺

吉祥院:伯耆国へ移転。
太閤部屋:秀吉が木下藤吉郎の時代、この家に寓居し炊飯したという。
2009/06/09追加:
 ◎天明大火後吉祥院平面:1棟を構える。
2012/10/24追加:
○寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
 明治30年、吉祥院移転、妙栄山吉祥院として鳥取県米子市淀江町淀江946に現存する。
2014/08/15追加:淀江移転後写真
ページ「鳥取の道祖神たち」に吉祥院の写真掲載がある。(転載)
 旧本圀寺寺中吉祥院:淀江移転後
2017/07/25追加:
明治29年、京都大本山本圀寺塔頭役者、役宅坊である吉祥院を淀江信徒講中堂に移籍。
 →伯耆具足山妙本寺>寺跡移転と設立認可

心行院:明治37年豊後国へ移転。
現在、妙光山心行寺(大分県臼杵市)と称すると云うも不詳(大分県臼杵市野津町大字都原3563−2か?)。
2009/06/09追加:
天明の大火後、本圀寺役者として心行院の名がある。
2012/10/24追加:
○寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
 明治31年、心行院移転、妙光山心行寺として大分県臼杵市野津町都原3563−2に現存、明治21年設立の説教所が、明治31年心行院の寺号を移転、昭和10年妙光山心行寺と改称。
2014/11/12追加:
○Googleストリートビュー より
 心行寺正面     心行寺側面

円良院:明治32年豊後国へ移転。(円良院とは円乗院のことであろうか)
※円乗院と云う塔頭も記録されていて、
現在、長幸山円乗寺(大分県豊後大野市)と称すると云うも不詳(大分県豊後大野市大野町屋原1029か?)。
この現存寺院が円良院の後継なのか円乗院のそれなのかは不明(寺号からは円乗院と思われる)。
2012/10/24追加:
○寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
 明治40年、圓乗院移転、長幸山圓乗寺として大分県豊後大野市大野町屋原1029ニ現存、明治5年建立の布教所が、明40年圓乗院の寺号を移転し長幸山圓乗寺と改称。
2014/11/12追加:
○Googleストリートビュー より
 円乗寺門前:中央奥に写るのが堂宇であろう。向かって左は題目碑であろうか。
 円乗寺西側:カーブミラー奥、木立の奥に写るのは堂宇であろう。

了学院:小野寺丹女の墓のみを残す。
2006/12/05追加:「ほーむめいど あさひ」Vol.93 2006/12
「了覚院」とある。「丹」は赤穂義士小野寺十内の妻女であった。江戸城での刃傷時、小野寺十内は赤穂藩京都藩邸の留守居役であった。知行150石・役料70石。
討入り後は大石内蔵助らとともに細川越中守屋敷へお預け。元禄16年(1703)切腹。享年61。
同年、丹は了覚院で絶食(あるいは自刃)して自害するという。(病死説もあると云う。)
墓碑:梅心院妙薫日性信女(正面)、播州赤穂住小野寺十内藤原秀和妻 元禄16年癸未6月16日(側面)
墓は林昌院が管理する。現在は非公開。
 ◇丹女墓の碑(了覚院跡)
2013/04/09撮影:
 小野寺丹女墓
2013/01/30追加:「京都坊目誌」 より
(加藤清正と同族である)典厩父子(加藤右馬頭正方父子)の墓、了覚院址にあり。肥後国阿蘇の城代として武勇の人なり。
 ※加藤正方は法号を「了覚院殿浄信居士」と云う。

壇林求法院:方丈奥庭塀外(北)にあった。(即求法講院)
妙見堂:開基日重上人の開眼なり。一致派の学室、当国六檀林の一員なり。
四観松(しかんのまつ):求法院講堂の東南にあり。
 求法院檀林寺地画図:画像相当不鮮明:「近世日蓮宗飯高檀林の堂舎構成」 より
   ※参考:近世の法華宗檀林/六条本圀寺求法院檀林
天正11年(1583)本国寺16世日モフ開檀、日重が講授する。

宝珠院:
七面明神社:宝珠院にあり。
現在消息不明。

2009/06/09追加:
玉林院:
天明の大火の後廃絶か?。
 ◎天明大火前玉林院平面:1棟を構える。妻入。

2009/06/09追加:
本地院:
天明8年仮設建物(梁間4間半桁行3間+1間半下屋)普請、寛政2年(1790)2間四方の玄関増築、
文政3年(1820)桁行6間半梁間2間半の建物増築、弘化4年(1847)藥医門建立など。
江戸期末まで方丈の西(勧持院東面)に存在していたと思われるも、明治4年「寺地画図」にはその寺地の表示がない。

2009/06/09追加:
浄信院:
 ○浄信院平面図:天明大火前は桁行5間梁間5間半の建築であった。
       大火後長い間再建されなかったが、文政12年(1829)塔頭久世院の解体した古材で再建と云う、
       3間×3間の規模に大規模は増築が為されている。
天明の大火前は瑞雲院北に立地することは確認できるも、明治4年「寺地画図」にはその寺地の表示がない。
 ※なお久世院とはまったく不明。

2013/10/16追加:
等覺院
K.G氏より情報入手。:「日蓮宗等覺寺のページ がある。」
標記ページを要約:
栃木県那須塩原市高砂町5-41にあり。
元来は親園村(現大田原市)の一乗軒と称する草堂であったが、
文久年中(1861-63)創建、蓮珠院日長上人(第1世)、六条本圀寺塔頭で廃寺となっていた「紫雲山等覚院」の寺号移転を得る。
本寿院日淳上人(第3世)現在地に移転する。
 ※塔頭等覺院の名は現在のところ、六条本圀寺山内にその名を確認できず。
 ※日蓮宗等覺寺のページでは、等覺院は足利将軍家の帰依・外護によって成立という。
 従って足利将軍家の没落とともに衰微し、室町期には衰亡したものと思われる。

大光山本圀寺・本文       六条の地に於ける終竟の本圀寺
 


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