甲 斐 北 口 本 宮 ・ 駿 河 富 士 山 本 宮 ・ 駿 河 富 士 新 宮

甲斐北口本宮・駿河富士山本宮・駿河富士新宮

甲斐北口本宮浅間社(三重塔もしくは宝塔・・・退転)

2010/12/12追加:
問題の所在:
北口本宮仁王門跡に「富士吉田市教育委員会」の設置した説明板がある。
この説明板には「近世には五重塔、鐘楼、護摩堂、仁王門などの堂塔があったが、これ等の堂塔は明治の神仏分離の処置で取り払われる」(要旨)とある。 → 北口本宮仁王門跡説明板
上記のうち、仁王門・護摩堂・鐘楼は文献で確認ができ、現に仁王門は礎石を完存する。
しかし、五重塔については全く文献(記録・絵図など)で確認ができない。
北口本宮五重塔の存在の有無:
北口本宮に五重塔があったことについての確証が得られないので、説明板設置者である富士吉田市教委に照会、以下の回答を得る。
 「説明板設置の原稿は三重塔である。理由は不明ながら、出来上がりは五重塔となっている。」
以上のような回答であり、おそらく「誤植」のような類であろうと推測されるも、無責任極まりないものであった。

なお、三重塔があったという根拠は直下に掲載の「大正4年編纂「社誌」記事」 と云う。

北口本宮三重塔
北口本宮「社誌」大正4年編纂、北口本宮蔵:(2010/12/12追加)

大正4年編纂「社誌」記事:左図拡大図

一 三重塔
 高凡一丈餘宏大ナル臺石(石ノ玉垣附ニテ登山門ノ西側ニ現存ス)ノ上ニ建ツ
 江戸矢嶋講社ノ寄附
 慶應年中神主小佐野ト御師田辺ト協議ノ上賣却セリト傳フ

以上によれば三重塔は高さは凡そ1丈(約3m)、登山門の西側にあり、石の玉垣を付設した宏大な臺石の上に建つ。臺石は現存する。 塔は売却される。


富士山明細図:江戸末期:(2010/12/12追加)
 社殿は左から東宮・本殿・西宮と並ぶが、西宮のすぐ右に石階があり、その石階を上った鳥居が登山門である。

富士山明細図:左図拡大図 :図録「富士山明細図」所収

登山門の西(右)に塔婆らしき構造物が描かれる。
この構造物が大正4年編纂の「社誌」で云う「三重塔」であろうと推測される。
描かれた大きさは凡そ1丈(3m)に相応しい大きさであろう。
但し、塔婆の形式は三重塔ではなく、宝塔の形式の塔のように見える。
塔婆は基壇上に建ち、一重塔で身舎は円形、屋根は方形、相輪様なものを載せる。この形式は明らかに「宝塔」である。
この塔婆の建築材であるが、描き方を見ると基壇の石と構造物は色が変って描かれ、木造として描いたようにも見える。(絵は稚拙ではあるが)
しかし、塔の大きさから判断すれば、木造ではなく石造類である可能性が高いと思われる。
なぜなら、この高さ・規模での屋外木造塔を建立する例をまず見ないからである。

冨士山北口本宮冨士嶽神社境内全図:明治25年12月:(2010/12/12追加)

冨士山北口本宮冨士嶽神社境内全図
冨士山北口本宮冨士嶽神社境内(部分図):左図拡大・拡張図:
              →北口本宮 冨士浅間神社のページより転載

西ノ宮の西(右)に登山門(鳥居)があり、さらに西(右)に「宝塔」跡が描かれる。
石の玉垣(?)に囲まれた基壇(3段)に燈籠と思われるものがある。
この基壇が「宝塔」の基壇であろうか。

登山門付近現況:(2010/12/12追加)

登山門付近現況:左図拡大図 :写真は某氏ご提供

登山門右手に石の玉垣があり、その中には石積基壇があり、その上には現在「行者」像が建てられると云う。(未見)
この基壇こそが大正4年編纂「社誌」で云う「三重塔」(実は宝塔形式の塔)の基壇(臺石)であろう。

2010/12/12追加:「図録 描かれた富士の信仰世界」富士吉田市歴史民俗博物館編、1993 より転載
 浅間神社絵図:甲斐国志草稿本、文化3年(1806)頃
 浅間神社絵図(部分図):同上
図版が小さく裁然とはしないが、登山門は描かれるが、その右に「宝塔」が描かれているようには見えない。

2010/12/12追加:「図録 描かれた富士の信仰世界」富士吉田市歴史民俗博物館編、1993 より転載
 富士山神宮並麓八海略絵図A:木版彩色、江戸末期、富士吉田市蔵
図版が小さいが、登山門は描かれるが、その右には何も描かれていない。
 富士山神宮並麓八海略絵図B:木版画、江戸末期、個人蔵
図版が小さいが、登山門とその右には燈籠と思しきものが描かれる。

2010/06/19追加:
「北口本宮富士浅間神社境内空間の変遷過程」串田優子、伊藤裕久(「日本建築学会計画系論文集 第604号」2006年 所収) より
○「八葉九尊図」延宝8年(1680)、正福寺蔵
 八葉九尊図(部分図):富士山頂に九尊が描かれる。北口本宮付近の部分図。
富士山2合目の上浅間に対し、北口本宮付近を下浅間と呼ぶ。よし田の町から北口本宮に参道があり、橋・仁王堂を経る。大鳥居・あらはゝき(随身門)・拝殿・本堂(本殿)が一直線に並ぶ。右横にはすわ大明神がある。
境内にはかね(鐘楼)がある。近世初頭の境内を示す。
 2010/09/30追加:

八葉九尊図(全図)

八葉九尊図(全図);左図拡大図:
「富士山」富士山世界文化遺産登録推進静岡・山梨両県合同会議・富士山を世界遺産にする国民会議、小学館2009 より

明治7年児戯に類する富士山中の地名が改変される。
山頂の八葉などの
文殊ヶ岳が三島ヶ岳、釈迦ノ割石が割石、薬師ヶ岳が久須志岳、釈迦ヶ岳が志良山岳(白山岳)、阿弥陀ヶ久保が片瀬戸、観音ヶ岳が伊豆岳、勢至ヶ久保が荒巻、大日堂が浅間宮などと改変される。

 

2010/12/12追加:
以上、大正4年編纂の「社誌」以外に三重塔に触れたものはない。
また、目に触れる上記の各種絵図中に三重塔を明確に描いたものは皆無である。唯一富士山明細図に宝塔形式と思われる塔婆が描かれるだけである。
従って、現段階では、北口本宮に木造三重塔あるいは木造宝塔があった可能性は低いものと判断せざるを得ない。

北口本宮現況

以下の写真は2010/05/30撮影であるが、夕刻でしかも天候は黒雲に蔽われた小雨の中で撮影、それ故何れも不鮮明である。
甲斐北口本宮参道:正面は随身門、この途中に仁王門礎石が残る。
○北口本宮仁王門跡:正面3間、側面2間の礎石を残す。側面1丈8尺(5,5m)軒高6間(11m)と伝える。中央間礎石は方形の切石、両外側礎石は自然石を用いる。
 北口本宮仁王門跡1      同        2      同        3
   同        4      同        5      同        6
○近世の姿になったのは、享保から元文年中、富士講(江戸小伝馬町)行者・村上光清が私財を投じ、拝殿・手水舎・神楽殿・随心門などを建立(再興)したことによる。
現在以下の社殿を残す。
東宮本殿:重文、一間社流造、永禄4年(1561)武田信玄が浅間本社として造営する。その後文禄3年(1594)、元和元年(1615)、慶安2年(1649)、延宝六年(1678)に修理、享保19年(1734)村上光清による修理がある。 先々代の本殿と云う。
   同     東宮1       同     東宮2       同     東宮3
西宮本殿:重文、一間社流造、文禄3年(1594)谷村城主浅野氏重により本殿として建立される。元和9年(1615)の本殿建立により現在地に移され西の宮となる。その後享保19年、村上光清により大修復が行なわれる。
   同     西宮1       同     西宮2       同     西宮3
本殿:重文、元和元年(1615)、谷村城主鳥居成次が現在の本殿を建立する。
   同     本殿1       同     本殿2
御水舎:延享3年(1746)建立。
   同    御水舎1       同    御水舎2
   同    随身門1       同    随身門2       同  福地八幡社
 ※現存する建物は何れも近世関東風の意匠を身に纏う建物の典型を示し、これ等の傾向から仁王門なども近世関東風建物の典型であったであろうと類推される。

北口本宮略歴

浅間明神勧請以前には当地の産土神諏訪明神があったと云う。現在諏訪明神は摂社として現存する。

○「浅間神社境内指図」大玉屋(旧諏訪神職家)蔵:元禄期の作成と推定される。
 浅間神社境内指図
境内に鐘楼堂(2間4尺6寸5分×2間2尺1寸)と護摩堂(3間×3間、3間4尺4寸5分×3間2尺9寸)がある。
基本的には秋元氏の造営になるものであろう。
この後、江戸中期に村上光清による大規模改修が行われる。近世初期の基本配置を守りながら、本殿は後方に移動、随身門は大規模化するなど、現在の社殿構成となる。
 ※護摩堂は鶴島村法性寺持、仁王門は下吉田月江寺持。
○北口本宮社殿立平面図
 北口本宮社殿立平面図:上から東宮・西宮・本殿
○大規模改修以降の境内景観
 上に掲載の「北口本宮三重塔」の項の各絵図を参照願いたい。
2010/09/30追加:
 明治2年仁王門の仁王像は首を切落され、獄門体で曝される。
  (以下いずれも萱沼徳政家文書)(富士吉田市史 資料編 6 所収)
月江寺役僧文機らは「仁王尊切倒し・・・罪人之御仕置体之所業ニいたし候」下手人5人の実名を上げて下吉田村役所に「吟味」の願いを提出する。そのときの「捨札」と思われる文書もある。
 「   印渡(ママ)無宿
                      仁王
                     已弐拾五歳
   此者儀
 皇国渡海以来・・・皇地を穢し・・・人民を惑わし・・・・
 焼捨可致之所御神恵を以斬首之上日連台ニおいて獄門ニ行者也」


駿河富士山本宮(三重塔・・・退転)

富士山本宮浅間神社(浅間明神、富士社、富士浅間宮、本宮、富士浅間大菩薩、富士浅間大権現)
上古より富士山そのものを神として祀ったのが草創と思われる。社伝では大同元年(806)坂上田村麻呂が現在地に社殿を造営と云う。
富士山の神を浅間明神(浅間神)と称する。
 ※駿府浅間神社は当社から勧請し、新宮と称する。
久安6年(1149)末代(富士上人)富士山頂に大日寺を建立。以降浅間明神は富士浅間大菩薩と称され、本地は大日如来とされる。
 
近世には三重塔があったが、詳細は不詳。
近世の略歴として以下の情報がある。
天正18年(1590)豊臣秀吉、社領1070石を寄進。(祭礼料等380石、社人給・大宮司領412石、公文77石、案主34石、段所45石、別当以下供僧122石)
慶長9年(1604)徳川家康、現存する本殿・幣殿・拝殿・楼門など社殿30余棟を造営。
寛永18年(1642)徳川家光、朱印領1129石余を寄進。(大宮司富士氏867石余、公文富士氏80石余、案主富士氏44石余、別当寶幢院136石余)を寄進。
●「本宮及末社間數坪數書上寫」寛政2年(1790)では、神域15,560坪、社殿堂塔は以下があったと云う。
本社、拝殿、作合、玉垣、神供所、三之宮、七之宮、寶蔵、経蔵、日之宮、見目之堂、舞屋、神馬厩、楼門、廻廊、裏門、御炊屋、八幡社、飯酒王子、天照太神、弁財天堂普賢延命堂、天神、三寶荒神、牛頭天王摩利支天堂護摩堂、水屋明神、垢離屋、鐘楼堂帝釈天堂、八幡宮、追加水神、三重塔、水神、本地大日堂(木花之佐久夜毘賣命の本地は大日如来とされる)、弁財天堂、神橋、五大尊堂阿弥陀堂、輪橋、鳥居、鳥居
 ※多くの仏堂があり、神仏の習合した形態であったことが窺える。
近世の職制は大宮司を筆頭に、公文、案主など多くの神職・社家などから構成される。
別当は真言宗寶幢院、社僧7坊(清泰院、閼伽井坊、乗蓮坊、金蔵坊、法泉坊、蓮蔵坊、大圓坊)があった。また大宮司の支配に属する大蓮寺、薬米寺があった。
明治の神仏分離の処置で、別当寶幢院・7社僧・大蓮寺は復飾・改名、廃寺となる。
境内の仏堂(三重塔の消息は不明)は全て棄却、仏像・仏器も取除かれる。
境外の村山興法寺(村山三坊:辻之坊、大鏡坊、池西坊)に属する富士山頂大日堂は浅間神社(奥宮)などと改竄、薬師堂は久須志神社、登山道の雲霧不動は雲霧神社などと改竄。山頂の大日如来は大頂寺に遷座する。
神仏分離以降は例に漏れず、国策に従い、国家神道の道を歩く。
●慶長9年家康造営建築のうち、本殿・幣殿・拝殿・楼門が現存する。
本殿(重文) :浅間造りと称する二重の楼閣造、棟高45尺。初重は5間4面、2重は3間×2間の流造りで共に屋根檜皮葺。
2004/08/01撮影:
 富士山本宮本殿01    富士山本宮本殿02    富士山本宮本殿03
2010/05/29撮影:
 富士山本宮本殿1   富士山本宮本殿2   富士山本宮本殿3    富士山本宮本殿4    富士山本宮本殿5   富士山本宮本殿6
 富士山本宮拝殿1   富士山本宮拝殿2   富士山本宮拝殿3
 富士山本宮楼門1   富士山本宮楼門2
2020/05/22撮影:
 富士山・静岡駅より     富士山本宮楼門11     富士山本宮楼門12
 富士山本宮拝殿11     富士山本宮拝殿12     富士山本宮拝殿13
 富士山本宮本殿11     富士山本宮本殿12     富士山本宮本殿13
●護摩堂跡の発掘:
2008年発掘調査により湧玉池北側で護摩堂跡(寛文10年・1670の社殿配置図に基づくと云う。・・・この社殿配置図とは不詳)が確認される。但し、この発掘は報道関係のみに公開と云う。
 富士山本宮護摩堂跡:教育委員会発表写真
2010/06/19追加:
●「浅間大社における仏教的要素の変遷(浅間造の研究6)」建部恭宣(「日本建築学会東海支部研究報告集第381号」2000年 所収) より
△「大宮司別当公文案主連署造営見分願写(「見分願写」)」:(宝永5年(1708)の年紀がある)
では慶長9年(1604)の造営時、以下の14棟の仏堂が建立されたと記す。
経蔵(2間4面、6尺間)、三昧堂(3間4面、7尺間)、弁財天堂(1間4面、6尺間)、普賢延命堂(1間4面、7尺間)、摩利支天堂(1間4面、6尺間)、護摩堂(3間4面、7尺間)、鐘楼堂(2間4面、6尺間)、帝釈天堂(3間4面、6尺間)、三重ノ塔(1丈5尺四方)、御本地大日堂(3間4面、7尺間)、弁財天堂(1間4面、7尺間)、五大尊堂(3間4面、6尺間)、阿弥陀堂(2間4面、6尺間)、薬師堂(2間4面、6尺間)
△「寛文10年社頭絵図」:富士山本宮蔵
 寛文10年社頭絵図:図中に「寛文10年(1670)に寺社奉行に差し出したものの写し」と記され、「宝永5年(1708)6月の年紀」もある。なお「富知神社」と題されたほぼ同一内容の絵図も残ると云う。
この絵図には「見分願写」に記される慶長9年造営時の14棟の仏堂が全て描かれる。
 ※三重塔遺構は地上には全くないと思われるが、上記の絵図から、2棟あった弁財天堂のうちの1棟が、現在湧玉池の中之島にある厳島神社の位置にあったとすれば、三重塔はこの厳島神社の西側すぐ、現在の社務所の裏(東)側付近にあったものと思われる。
ところが
「見分願写」宝永5年(1708)では「寛文12年以降黄金一千両を拝領、本社以下17箇所の修理」が行われたと云い、仏堂は鐘楼堂のみが書上げられる。「廻廊3ヶ所、護摩堂、宝蔵、経蔵、三昧堂、神馬厩・・・など29箇所潰レ申候堂社・・・・」ともあり、鐘楼以外の仏堂は寛文9年以前に何等かの理由で潰レ(退転)していたと推測するしかない。
宝永4年には大地震があり、堂舎は倒壊、翌5年に「造営見分願」が出され、甲良豊前の見分を経て、金二千両を拝領し、修理が開始され、宝永7年(1710)に修理がなる。この宝永の修理で仏堂が修理・再興されたかどうかは不明である。
△「本社及末社間数坪数書上写」:寛政2年(1790)では
三昧堂と薬師堂以外の12棟が書上げられ、宝永の修復時かそれ以降に仏堂の再興が成ったものと推定される。なお普賢延命堂(3間4面)・摩利支天堂(3間4面)・弁財天堂2棟(何れも3間4面)に規模を拡大する。
△慶応4年神仏分離令
「・・・駿州富士山本宮浅間大神大別当宝幢院奉申上候、(今般王政御復古・・・)私儀も御趣意基キ、速ニ復飾仕、・・・又復飾之上者、寺院之号を相除、姓名を富士神一郎と相改度、此段御聞置被下置候様願上候、・・・」要するに別当(宝幢院)は廃寺、復飾して改名する。社頭の14棟の堂塔もまた棄却されたものと推測される。
明治6年には「境内阿弥陀堂・鐘楼取除、鐘楼跡へ社務所建築、梵鐘売却、社務所建築費用に充当」の記録があり、最後に阿弥陀堂・鐘楼が破壊撤去され、神仏分離が完成する。
2010/09/30追加:
富士参詣曼荼羅図:重文、富士山本宮蔵、狩野元信(印)、紙本着色、180×117cm、
狩野元信は文明8年(1476)? - 永禄2年(1559)
 富士参詣曼荼羅図:「富士山」富士山世界文化遺産登録推進静岡・山梨両県合同会議・その他1、小学館2009 より
最下段は三保の松原・清見寺、その上の段は富士山本宮・湧玉池、順次上に村山興法寺(村山三坊)、室堂、行者堂が描かれる。
 ※清見寺には三重塔が描かれる。
富士山頂には中央阿弥陀、右大日、左薬師の各如来が表される。
作成時期は元信の生存中の室町末期と推定され、徳川家康造営前の姿である。
富士本宮には三重塔は描かれていない。

富士曼荼羅図:

富士曼荼羅図
 富士曼荼羅図:左図拡大図:
静岡県立博物館蔵、江戸初期、紙本淡彩、131×67cm :
「富士山」富士山世界文化遺産登録推進静岡・山梨両県合同会議・富士山を世界遺産にする国民会議、小学館2009 より

山上には阿弥陀三尊の来迎が描かれ、 山下には富士山本宮の景観が粗かれる。
本殿はいわゆる浅間造の形式を採る。
本殿東に三重塔が描かれる。

富士参詣曼荼羅図・矢田原本;

富士参詣曼荼羅図・矢田原本
 富士参詣曼荼羅図 ・矢田原:左図拡大図:矢田原本、「神社古図集 続編」 より
大和矢田原第三農家組合蔵、江戸初頭の制作と推定される。
紙本着色、129×77cm。富士講本尊と伝える。

最下段は田子の浦、その上に富士山本宮(家康造営の浅間造の社殿と思われる)・湧玉池、その右上に禊の滝、その脇に三重塔が描かれる。
禊の滝とは不明であり、また位置としては少々辻褄が合わないが、ここに描かれた三重塔が近世の本宮三重塔であろうか。
山頂には阿弥陀三尊来迎図が描かれる。

 ※矢田原第三農家組合:奈良市矢田原町

2015/03/05追加:
「日本の美術72 古絵図」難波田徹編、至文堂、昭和47年 より
 富士参詣曼荼羅図・2:富士山本宮蔵
狩野元信本と構図は同一で左下には清見寺塔婆が描かれるも、三重塔が多宝塔形式で描かれる。

2010/12/12追加:
○「富士の研究 2」浅間神社社務所編、名著出版、昭和48年 より
江戸期の境内:
境内の景観を伝える文書は寛文10年(1670)に寺社奉行に提出した「寛文10年社頭絵図」が最も古とされ、この絵図は慶長の造営の面影をほぼ伝えると評価 される。
 寛文10年社頭絵図2:左図拡大図・・・・・・・寛文10年社頭絵図・・・これは前に掲載画像
この絵図には以下が描かれる。
南方は表口で、一の鳥居、二の鳥居があり、鑑池と輪橋がある。ニの鳥居の左右に薬師堂・阿弥陀堂がある。参道正面に楼門がある。
楼門から左右に廻廊が延びる。門内には舞台(神楽殿)、拝殿、本殿(二階造の楼閣)、末社、神馬屋、御饌殿、三之宮、七之宮、若御前社などがあり、廻廊西北隅に宝蔵、東北隅に経蔵(推定)がある。
廻廊外にはなお20有余の堂塔がある。東に湧玉池(御手洗池)が湧出し、水源には水尾社(水尾明神)があり、社の南に垢離屋(身滌屋)を置く。御手洗橋と神幸橋の間に二小島があり、水神社・弁財天社を祀る。弁財天社の川東には五大堂がある。
廻廊と川の間に三重塔、塔北に大日堂、西に追加明神・八幡堂・帝釈堂、帝釈堂北に鐘楼が建つ。
本殿後には飯酒王子・伊勢・厳島。やや登りて普賢延命堂がある。
湧玉池北には天神社・天王社・荒神・摩利支天社、摩利支天社東北に護摩堂がある。
廻廊西には御炊殿・三昧堂がある。

・享保18年(1733)「富嶽の記」中谷顧山著 では
・・・社僧20院あり・・・・
三重塔の記述はない。また「境内略図」が付属すると云うも図の掲載が無く詳細は不明。
従って、三重塔の有無は不明であるが、おそらく無かった可能性が高いと思われる。
・「駿河国新風土記」は天保期の社の様子を述べる。
社殿の他・・・湧玉池の北岸高き所に大日堂(本地堂)、池中の弁財天社・・・、別当宝幢院は池の後にあり、・・・宮の左右に大宮司、案王、公文、鍵取、供僧あまたの宅あり
とあり、三重塔の言及はない。(三重塔は既に退転していたものと思われる。)
・文久年中の「駿河志料」では
神殿、拝殿、舞台、廻廊、楼門、御供所、末社(三之宮、七之宮、日之宮、太神宮、弁天、天神社、荒神社、水尾明神、追加明神、八幡、水神社、摩利支天社)、諸堂(本地堂、護摩堂、鐘楼)その他の付帯施設の記載がある。
しかし、ここにも三重塔の記載がなく、確実に失われていたものと思われる。
社僧の組織:
近世、別当宝幢院、配下の供僧7坊と大蓮寺の一院・七坊・一寺で組織される。
宝幢院は高野山宝性院末、136石余の朱印を受け、その内76石余を自ら領し、残り59石余を7坊に配する。
7坊は清泰坊(13石余)、閼伽井坊(5石余)、蓮蔵坊(7石余)、法泉坊(5石余)、乗蓮坊(13石余)、金蔵坊(5石余)、大円坊(7石余)であった。大蓮寺は1石余を大宮司から給せられる。
明治2年には全員復飾し、富士神一郎(別当)、清泰大次郎、閼伽井劒三朗、蓮蔵秀次郎、金蔵六郎、大円直四郎、法泉新作、浄蓮竹四郎、大蓮徳三の名が知られる。
なお、近世の別当と大宮司の力関係はほぼ同格とされ、別当はついに大宮司を凌駕する力を持ち得なかったとされる。

村山興法寺三坊
○「駿河國富士山繪圖」村山興法寺三坊、推定江戸末期 より
富士山別當表口/村山興法寺三坊蔵板 とある。
 駿河國富士山繪圖     駿河國富士山繪圖・部分図
本繪圖の中央に描かれるのが村山興法寺(浅間・大日・大棟梁)と三坊(大鏡坊・池西坊・辻之坊)である。
その興法寺の西南に大宮の浅間(本宮)・大宮司・別當がある。
 (その浅間本宮の東方に小泉久遠寺、本宮の北方に北山本門寺・五重塔が描かれ、北山本門寺の西方に上野大石寺・五重塔、大石寺の南に上野妙蓮寺、妙蓮寺のさらに南方に西山本門寺が描かれる。いわゆる富士五山である。)
なお、村山興法寺三坊の概要は次の通りである。
 富士山村山口登山道の要所にある。
起源は富士山を神体とする、古くから祀られるいわゆる浅間社の一つであったと思われる。
中世には天台僧末代上人(富士上人、大棟梁権現)が修験の拠点として堂舎・坊舎を構え、修験の富士山興法寺とする。
中世末期から近世には駿河の国主今川氏が崇敬し、天下を掌握した豊臣秀吉、徳川氏も寺領を寄進する。また武家や公家からの信仰も集め、加えて修験者が全国から蝟集し、その隆盛は富士山本宮と比肩してといわれる。
富士山興法寺には諸坊(7坊という)があったが、その内大鏡坊・池西坊・辻之坊は村山三坊と称され、興法寺の別當で興法寺を管理しかつ村山口富士登山道の管理も行うという。
宝永年中の宝永大噴火により、興法寺の堂舎は全壊し、村山登山道も破壊され、村山登山道が廃れるきっかけとなる。
明治初頭の神仏分離・修験の廃止令により、興法寺は解体、諸坊は廃され、浅間社は村山浅間社となり、大棟梁権現は廃され、法寺本堂である大日堂のみ存続する。


駿河富士新宮(三重塔・・・退転)

賎機山の麓に鎮座し、現在は神部神社、富士新宮、大歳御租神社の三社を総称して静岡浅間神社と称すると云う。
富士新宮は延喜元年(901)醍醐天皇の勅願により、「富士山本宮」(富士宮市)を勧請して、「冨士新宮」として成立したと伝える。
祭神は富士浅間大菩薩(国家神道では木之花咲耶姫命と云うらしい)とする。
神部神社は平安期以降駿河国惣社と云い、大歳御租神社は元々奈吾屋(なごや)大明神と称した産土神と云う。各々の祭神は大己貴、大歳御租と云う。 何れも延喜式にその名があると云うも付会でなければ幸いである。
鎌倉期に富士新宮・惣社・奈吾屋社の一体化が進み、国分寺・建穂寺・久能寺などが供僧となる。室町末期には3社を合わせて駿府浅間宮と称するようになる。
○「駿府浅間社中繪圖」
 駿府浅間社中繪圖」(天正頃、浅間神社蔵):西の神池の畔に三重塔がある。
図中に「天正14年9月14日権現様御建立之御宮加様ニ出来仕候」とあり、家康による天正年中の造営された様子を描いたものと推定される。尤も後世の写本である可能性が高いとも云われる。 (注)
  (注)後世の写本としても、おそらく徳川家康の天正の造営の社殿・堂舎を表すものであろう。
寛永11年(1634)徳川家光によって寛永の造営がなされる。
○寛文10年社頭絵図
 寛文10年社頭絵図」(寛文 10年<1670>、浅間神社蔵)本殿・拝殿・麓山神社・百段などは、ほぼ現在の規模と位置であると思われるが、
この絵図には北側に薬師堂・虚空蔵・神宮寺・護摩堂、北東隅に詞利帝堂、中央に鐘楼・経蔵、南東に池辺の三重塔が描かれる。
図の一隅に、「此御宮破損之御訴談申上候ニ付寛文10年6月20日 於江戸寺社奉行・・・・・指上申候社中絵図之写」とある。(注)
おそらく寛永の造営の社殿・堂舎がほぼ寛文年中までほぼ完全に伝えられ、全盛期の浅間権現の全容を示す絵図であろう。
   →寛文10年社頭絵図2・・・下に掲載、こちらの画像の方が鮮明である。
○延宝元年御修復被仰付候絵図
 延宝元年御修復被仰付候絵図:(注)、 但し不鮮明
図題の後に、「但朱之丸御修復相残候印」とあり、寛文10年(1670)の修理願い出の後、3年後の延宝元年(1673)の途中の進捗状況を描いた絵図と分かる。 (注)
 ※この延宝の絵図には寛文10年絵図にある三重塔はない。このことは、三重塔は既に何等の事情で寛文10年までには退転し、その後は建立されなかったことを 示すものと思われる。
○寛政3年(1791)社頭絵図
 寛政3年社頭絵図:(注)、 但し不鮮明
安永2年(1773)当社は近隣の火災によって類焼、ほぼ全ての建物を焼失、さらに再興途中の天明8年(1788)に再び類焼し、仮本殿なども悉く焼失、この再興願に添付された絵図が本図である。 (注)
享和3年(1803)再建が許可され、文化元年(1804)から慶応元年(1865)まで、再度造営が行われる。費用は10万両といわれる。
この時に造営された社殿が現存社殿である。
 ※寛政3年絵図には三重塔の姿はない。おそらく、三重塔は寛文10年までに退転かあるいは安永2年の火災で焼失し、その後は再建されなかったものと推測される。
なお、文化10年(1813)の「浅間総社御社中御絵図面」にもその姿はない。
○2010/06/19追加:
 (注):「静岡浅間神社拝殿の建築形式(浅間造の研究9)」建部恭宣(「日本建築学会東海支部研究報告集第41号」2003年 所収) より
○富士新宮三重塔跡
 駿河浅間神社三重塔推定地:ほぼ当時の位置の神池の名残りらしき池は現存するも、塔跡を偲ばせるものは地上には何も残らない。
  三重塔は写真中央・橋の左手付近?にあったと推定される。
○現在では文化年中以降に造営された以下の社殿24棟が重文指定と云う。
神部神社浅間神社本殿(文化10年、比翼三間社流造)、中門(2棟)、拝殿(文化11年)、透塀(3棟)、舞殿(文政3年)、楼門(文化13年)、回廊(2棟)、総門、大歳御祖神社本殿(天保7年)、中門、透塀、境内社麓山神社本殿(天保5年)、中門、透塀、拝殿、
八千戈神社本殿(入母屋造銅瓦葺、元の摩利支天社で、徳川家康念持仏摩利支天を祀る、明治の神仏分離に際し摩利支天像と金印は大岩臨斎寺に遷される)、中門、透塀(2棟)、
境内社少彦名神社本殿(元神宮司薬師社と称したと云う、仏堂であった可能性がある、入母屋造銅瓦葺)。
仏堂の大部は、明治維新の神仏分離で破壊されたと思われる。
2003/08/23撮影:
 駿河浅間神社楼門1  駿河浅間神社楼門2  駿河浅間神社楼門3  駿河浅間神社舞殿など
 駿河浅間神社拝殿1  駿河浅間神社拝殿2  駿河浅間神社拝殿3
 駿河八千戈神社本殿
 麓山神社本殿1      麓山神社本殿2      麓山神社本殿3
  ※麓山神社はかっては山宮社と云われ、神部・浅間・大歳御祖の3社と同格に扱われていたと云う。
○2010/09/30追加:
近世の社領は惣社領200石余、新宮神主領471石余、惣社別当(天台宗惣持院・明治8年廃寺)192石余、社僧建穂寺480石余、社僧久能寺225石余、玄陽坊36石余・・などが寄進(朱印)される。

2010/12/12追加:
○「国幣小社神部・浅間・大歳御祖神社誌」神部神社浅間神社大歳御祖神社社務所、昭和12年 より
天正7年(1579)の「浅間社領當納之積」では、
供僧13人(これが何を指すかは分からない)、惣持院、理覚院、宝蔵院、久能寺(院主ほか7院坊)、建穂衆(学頭ほか21院坊)などの所領が分かる。
天正7年社殿焼失、甲斐武田氏により社殿の造営が行われる。
慶長7年(1602)徳川家康により社領安堵、社殿造営(造営内容は不明)が行われる。
家光による朱印の概要は以下の通り。
新宮神主(471石余)、惣社神主(200石余)、・・・・浅間別当玄陽院(36石余)、惣社別当惣持院(109石余)、建穂寺21ヶ坊(408石余)、久能寺11ヶ坊(225石余)・・・
寛永18年(1641)徳川家光による社殿造営が竣工する。
 この造営の様子は「寛文10年社頭絵図」で窺うことが出来る。

 寛文10年社頭絵図2:左図拡大図

社殿などの配置は現在の配置とほぼ同一であるが、北側には薬師堂・虚空蔵堂・神宮寺・護摩堂が見え、東北隅には訶利帝堂、中央部に鐘楼・経蔵があり、南東の池辺に三重塔が建つ。

寛文10年(1670)社殿破損、延宝元年(1673)社殿修理、安永2年(1773)大歳御祖社を除く全てが類焼、ただちに仮殿が営まれるも、天明8年(1788)仮殿・大歳御祖社全てを焼失、再興は文化元年(1804)から慶応元年(1865)までかけて成される。
当時の建造物は
本社四社、拝殿3、末社棟数18社、仁王門、楼門2、廻廊2、御蔵、御供所4、鐘楼、護摩堂2などであった。
護摩堂2と鐘楼は明治2年神仏分離により取除き。
仁王門は今の総門(浅間・惣社総門)であろう。神仏分離の処置で、仁王像は臨済寺に遷され現存という。

2020/04/27追加:
駿府城下の古地図に見る富士新宮
 駿府城下町絵図・全図:年代不詳、年紀は不明。
 駿府城下町絵図・富士新宮部分図:浅間新宮は「浅間」、「惣社」、「名古屋」、「山宮」、「摩利支天」に分けて描かれる。
新宮兵部、惣社宮内などの屋敷は社家であろう。
浅間別当玄陽院、惣社別当惣持院などのほか、新宮の南部などには社家・寺家と思われる屋敷が描かれるも、未確認である。
 駿府名勝一覧之図・全図:江戸・大和屋喜兵衛、江戸後期:この全図は久能山東照宮のページに掲載した図である。
 駿府名勝一覧之圖・富士新宮部分図:ここに見える新宮将監、新宮左京、惣社大藏などの屋敷は社家であろう。
浅間別当玄陽院、惣社別当惣持院などのほか、天台宗定光院、天台宗密蔵院、真言宗理光院などが描かれるが、これらは未確認であるが、寺家であろう。
 ※玄陽院は徳川家康の祈願所、大御所時代は天海が住持した。天海は惣持院にも出入する。
2020/03/07撮影
 駿府浅間宮総門1:重文     駿府浅間宮総門2     駿府浅間宮総門3
 駿府浅間宮神厩舎:重文
楼門は工事中で写真なし:2003/08/23撮影写真を上に掲載
 駿府浅間宮両社拝殿1:重文  駿府浅間宮両社拝殿2     駿府浅間宮両社拝殿3     駿府浅間宮両社拝殿4
 駿府浅間宮両社拝殿5      駿府浅間宮両社拝殿6     駿府浅間宮両社拝殿7     駿府浅間宮両社拝殿8
 駿府浅間宮両社廻廊1:重文  駿府浅間宮両社廻廊2     駿府浅間宮両社廻廊3
駿府浅間宮両社(富士新宮・惣社)本殿(重文)及び舞殿(重文)の写真はなし。
   →下に掲載
 奈吾屋大明神本殿1:重文     奈吾屋大明神本殿2
奈吾屋大明神神門・拝殿は本殿と同時代の建物があったが今次大戦で焼失し、戦後のRC建築となる。

摩利支天堂は徳川家康が合戦に常に奉持した念持仏である摩利支天を祀る。
明治の神仏分離の処置で摩利支天像は近くの臨済寺へ遷され、現存する。摩利支天堂の祭神は、何のことか全く分からないが、八千戈とされ、八千戈社と改号される。
明治9年玉鉾社なるものが駿府浅間宮両社の東の地に創始され、その祭神は荷田春満以下の国学の4悪人というから、明治の神仏分離の源流の4悪人はさぞかしご満悦のことであろう。
 摩利支天堂1:重文  摩利支天堂2     摩利支天堂3     摩利支天堂4     摩利支天堂5
 摩利支天堂6      摩利支天堂7     摩利支天堂8
 駿府浅間宮両社宝蔵:重文
 神宮寺薬師堂1:重文  神宮寺薬師堂2     神宮寺薬師堂3     神宮寺薬師堂4     神宮寺薬師堂5
 神宮寺薬師堂6      神宮寺薬師堂7     神宮寺薬師堂8
薬師堂には本尊薬師如来および十二神将を安置していたが、仏像は明治の神仏分離の処置により臨済寺に遷される。東照大権現の本地仏を祀っていたのであろう。記紀神話の少彦名を祭神に取り替え、少彦名社と改称する。
薬師堂は入母屋造 銅瓦葺の建築で、仏堂である。
明治9年復古神道の源流と思われる4悪人を祀る玉鉾社が近くに創始されたのは勝ち誇りの意味なのであろうか。
 駿府浅間宮百段石階
 駿府浅間宮山宮拝殿1:重文  駿府浅間宮山宮拝殿2     駿府浅間宮山宮拝殿3     駿府浅間宮山宮拝殿4
 駿府浅間宮山宮拝殿5      駿府浅間宮山宮拝殿6
 駿府浅間宮山宮本殿1:重文  駿府浅間宮山宮本殿2     駿府浅間宮山宮本殿3     駿府浅間宮山宮本殿4
 駿府浅間宮山宮本殿5:三間社 流造 瓦葺
玉鉾社なる最悪のものがある。
羽倉東麿(荷田春満)・岡部(賀茂)真渕・本居宣長・平田篤胤(国学の四悪人)を祀る。
明治9年創始される。復古神道の絶頂の頃であろう、この後国家神道に変質し、記紀神話を利用してどこかの馬の骨であった天皇は神とされ、絶対服従を強制され、結果は全国民を戦火に晒し、多くの人命を奪ったのである。これらの国家神道への先鞭をつけたという意味で国学の四大人とされる4名は4悪人というべきであろう。
2020/04/27追加:「文化財ガイドブック」及び各種Weサイトから画像を転載
 *印は「文化財ガイドブック」静岡市教委、平成12年 より
両社本殿つまり浅間社・惣社とも比翼三間社 流造 瓦葺きの建築で、三間社が2棟並び、屋根は一宇に見えるように融合して形態であろう。
 *駿府浅間宮両社本殿1     *駿府浅間宮両社本殿2     駿府浅間宮両社本殿3     駿府浅間宮両社本殿4
 駿府浅間宮両社舞殿
 *奈吾屋大明神本殿3:三間社 流造 瓦葺


2010/06/19作成:2020/08/29更新:ホームページ日本の塔婆