尾  張  日  比  津  の  題  目  碑

尾張日比津の題目碑(法界碑、題目宝塔、題目塔、題目石)

参考文献:
○「日比津の宝塔様」近藤みなみ/溝口常俊(「古地図で楽しむ なごや今昔」溝口常俊編、風媒社、2014 所収)
○Webサイト:「中村区日比津町(旧、日比津村)の近隣に建つ「宝塔」

以下は全て未見:後日を期す。

題目碑の概要
「日比津の宝塔様」では次の11基の題目碑が「宝塔様の分布(2012年)」として地図上に位置が示されている。
また、「宝塔様屋敷図」として、その平面図が示されている。(ただし、乾屋敷と道下の2基の屋敷図の掲載はない。)

◎日比津題目碑所在地図
日比津題目碑所在地図:左図拡大図

北東方向から南西方向にかけて、示せば、次のようである。
 1)池口(東向)  :塩池町2-10-7
 2)北の切(南向) :日比津町1-7(小社)秋葉社
 3)中の切(南向) :日比津町1-4、 → 本ページでは、中の切ではなく、3)東の切(南向)として取り扱う。
 4)中の切(東向) :日比津町2-9(秋葉社)
 5)栗山(南向)  :日比津町1-16-17(小社)
 6)松葉屋敷(南向):日比津町2-10-10(秋葉社)
 7)乾屋敷(南向):(日比津町3-6-9付近)・・・・・・・・所在確認ができず。
 8)西の切(東向) :日比津町3-12-5
 9)南の切(西向) :日比津町4-5-21(小社)秋葉社
 10)新屋敷(東向) :豊幡町82<旧日比津村である。>
 11)道下    :(大秋町2-68付近)・・・・・・・・・・・所在確認できず。なお、道下は元来日比津村ではないと思われる。 
  の11基である。

問題は7)乾屋敷 と 11)道下 である。
この2基については、Web上ではその所在が確認できない。
即ち、現在GoogleStreetViewで探す限り、その住所附近で、題目碑を発見することができない。
さらに、この2基については、「宝塔様屋敷図」から欠落している。
つまり、Webサイト:「中村区日比津町(旧、日比津村)の近隣に建つ「宝塔」」で云うように「乾屋敷と道下に関して敷地図が記載されておらず2011年のストリートビューでも確認できないので廃止されているかもしれない。」ということである可能性が強い。
もう一つの問題は
3)中の切(南向) と 4)中の切(東向)とは「中の切」という名称が重複している。
別に、重複していても一向にかまわないのであるが、資料の整理上、ややこしいので、「3)中の切」は「3)東の切」と名称を変更してこのページでは取り扱うこととする。
(※)「3)中の切」のある場所は、明らかに近代に区画整理した街区とは異質の屈曲した道路の走る旧日比津村集落の東端に位置すると思われるため、「東の切」が適切と思われる。
 但し、現地で、二カ所が「中の切」として呼称されているのであれば、訂正するのに吝かではない。

では、これらの題目碑は何時頃設置されたのであろうか。
Webサイト:「中村区日比津町(旧、日比津村)の近隣に建つ「宝塔」」に建立年代順の一覧があるので、それを転載する。
 (この年代の典拠については不明。)
他の資料による建立順。
2)北の切(南向) :文化9年(1812年)12月
7)乾屋敷(南向) :文政3年(1830年)9月・・・所在未確認ではあるが、年紀は判明している。
9)南の切(西向) :天保2年(1831年)7月
1)池口(東向)  :天保2年(1831年)7月
8)西の切(東向) :天保3年(1832年)2月
5)栗山(南向)  :天保3年(1832年)2月
3)東の切(南向) :天保4年(1833年)10月・・・中の切(南向)
4)中の切(東向) :弘化4年(1847年)10月・・・中の切2(東向)
6)松葉屋敷(南向):弘化4年(1847年)12月
10)新屋敷(東向) :明治12年(1879年)5月12日
 (※)11)道下は除外
殆どは幕末の設置で、1基のみが明治初期である。

題目碑の名称(地名)について

◇日比津について
2018/06/27追加:
○「尾張国地名考」津田正生、文化13年(1816) より
日比津(ひびつ)村 通清音 支村三 池口 山 新屋敷
土津(ひぢつ)の轉聲なるべし 古紀に土津とも泥津とも書有 往昔は土津中村は一郷なるべし【僧日潤曰】日比津村は極めて湿地の所なり 土津と呼も所自らにやあらん
○「尾張志」深田正韶撰、中尾義稲編、岡田啓編、天保15年(1844)序 より
巻之十五
栄の西南の方名古屋より一里西にありて日重ノ店あるひは則武ノ店といふ 當村定徳寺所蔵の御應永八年にかける古文書より愛智郡泥津(ひぢつ)とかけり 枝村三処ありて 新屋敷 山村 池口 といふ。
 「尾張志・日比津村
 ※日比津は元来、土津(ひぢつ)や泥津(ひぢつ)であり、ここからの転化という。
 また、江戸後期には新屋敷、山村、池口の枝村三処(支村三ヶ所)が成立していたようである。
2018/07/14追加:
○「日本歴史地名大系 23愛知県の地名」平凡社 より
日比津村:
寛文11年(1671)の家数163、人数875(「寛文覚書」)。徇行記によれば、田は71町1反余、畑40町7反余、概高2275石余。


次のように考察される。
(地誌類を参照せず、Web情報のみでの推測なので、誤認識があれば、訂正する。)

◇「北の切」「西の切」などの「切」について:
「切」は「きり」であり、「区切り」、「終わり」の意と思われる。
日比津村(集落)の北の区切り、西の終端、南の切り・・などの意味で「北の切」「西の切」などとされたのでないだろうか。
但し、これでは、「中の切」の説明がつかないのが難点ではある。
◇乾屋敷城:
南北朝期、大圓寺を含む北側一帯が乾屋敷城(日比津城)のあった所とされる。但し、遺構はない。
城主は野尻掃部と伝え、大円寺には野尻氏と伝えれる石塔二基が残り、一つは貞治4年(1365)、もう一つは応永17年(1410)の年号が刻まれているという。(この石塔は野尻掃部と野尻藤松の墓と伝えられるともいう。)
なお、北東側には家老野尻藤松の居城である栗山城があったという。
◇松葉屋敷:
南北朝期、この地を領した日比津城主野尻掃部の屋敷という。現在は大円寺に変わり、遺構は無い。
◇栗山城:
南北朝期、乾屋敷(日比津)城主野尻掃部の家老野尻藤松の居城とされる。現在は住宅に変わり、遺構はない。
あるいは、大円寺の北300m、日比津公園の南に定徳寺が在り、同区画の忠魂碑、諏訪コミュニティーセンター辺りが栗山城跡と思われるともいう。
2018/07/14追加:
○「日本歴史地名大系 23愛知県の地名」平凡社 より
日比津城:
天保村絵図では定徳寺の南側と大圓寺の北側に二カ所「城址」と記されている。
「寛文覚書」に古城跡(野尻藤松居城)と古城屋敷(野尻掃部居城)が記録される。
後者は大圓寺書上帳に「畑二段歩古屋敷長20間、横18間、三方藪」とあり、「日比津の乾屋敷」と記されている(「尾張志」)。
前者は「畑1段古長屋敷長17間4尺、横17間、外四方藪」で掃部の家老藤松の居城と伝える(「尾張志」)。

◇池口:
題目碑のある地番は「塩池町2-10-7」であるが、塩池町とは現代の合成地名で、字池口前、字池口西の「池」と字塩辛の「塩」を組み合わせたものという。附近にかっては「池」「低湿地」が存在したと強く示唆されるが、まさにこの地はその「池」の「口」であり、それが地名化したのであろう。
◇新屋敷:
新屋敷とは新しく開墾・造成した屋敷地をいい、新地・新町なども同義である。おそらくは日比津が元屋敷で幕末から明治初頭頃に新しく開墾・造成された地と推定される。元屋敷日比津と同じ慣習・風習・信仰なども移植されたものと推定される。
○「尾張明細図」内容年代:明治9年、出版:明治12年、作:小田切春江作、所蔵:国際日本文化研究センター より
 尾張明細図(日比津部分図):画像中央部の日比津の南西に「新ヤシキ」が描かれる。
 「新屋敷」は日比津の出村(出屋敷)として確かに存在したのである。
2018/06/27追加;
○「尾張明細図」江戸後期
 尾張明細図(江戸後期):画像中央部に日比津村と日比津村支村新屋敷と同じく支村池口が描かれる。
 正保図や元禄図では新屋敷や池口の支村は描かれず、日比津村のみである。これら支村は江戸後期に成立したのであろう。
なお、絵図ではなく地誌では、上に述べたように(◇日比津について>○「尾張国地名考」や○「尾張志」の項)
「尾張国地名考」では「支村三 池口 山 新屋敷」とあり、また「尾張志」では「枝村三処ありて 新屋敷 山村 池口 といふ。」という。
従って、池口及び新屋敷は日比津村の「支村」あるいは「枝村」という位置づけとなる。

日比津の題目碑

日比津の題目碑(宝塔様)についての、建立背景あるいは目的また建立の主体や護持についての概要は「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年の「日比津教会」の項に記載される。
 よって、次のように「日比津教会」<尾張の諸寺中>から転載する。
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○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
日比津教会はもと村栗山光友庵と称し、創立は安政3年(1856)である。
その時期は、安政の大地震の直後で蔓延する疫病と飢饉、そして天災とで民衆は末法を意識した時期であった。
尾張藩士の太田妙也は一雨院日潤(日比津定徳寺25世、身延60世)によって得度、日潤に随行して身延山に入る。しかし嘉永6年(1853)日比津信徒の願いで身延山から下り、光友庵を建立し村民救済に献身する。太田一族は2世、3世と続き幕末に絶えたが万遍講が護持し、これが当教会の唱題行に集まる女人講の前身となる。
昭和45年日比津教会と公称する。
今日(昭和62年)でも、毎月講中の日には、辻々に建つ宝塔(題目碑)の前に結集して唱題が行われ、日比津に題目の絶える日はないといっても過言ではない。
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しかし、○「日比津の宝塔様」では
「定徳寺<尾張の諸寺中>の檀家の住民が月に一度宝塔様の前に集まり供養を行う。しかしながら、この供養も後継者不足と高齢化により継続困難となりつつあり、現在(2014年)では北の切・松葉屋敷・新屋敷の3ヶ所のみで行われているに過ぎないという。」
という。
 ※日比津教会は既に先住の尼僧が遷化して現在担任(住職)は定徳寺が兼ねているという。ただ、定徳寺の縁戚と思われる留守居の一家が住居し、無住というわけではない。

○「日比津の宝塔様」近藤みなみ/溝口常俊 より
 宝塔様敷地図


1)池口題目碑:中村区塩池町2丁目10−7

名古屋の神社>南無妙法蓮華経碑 より
土江神社(ひじえじんじゃ・塩池公園)東方向に100mほどのY字交差点角にある。
 ※塩池とは現代の合成地名であることは「題目碑の名称(地名)について」で示した通りである。
 日比津池口題目碑1:GoogleStreetView2014 より     日比津池口題目碑2:上記・南無妙法蓮華経碑 より
  正面(東)に南無妙法蓮華経。
  右(北)に南無日蓮大菩薩。
  裏側(西)に天保二年(1831年)辛卯秋七月 吉祥日造立之一雨潤 日比津卯池口妙緩同修者和南。
  左(南)に自佗倶安同歸常寂。

2)北の切題目碑:中村区日比津町1-7

名古屋の神社>南無妙法蓮華経碑 より
 ※上述の通り、北の切とは、近世日比津村(泥津集落)の北端に位置し、この地が集落と外界との北の切れ目であったのであろう。
定徳寺より東に50mほどにある。傍らに小祠があるが、詳細不詳。
 日比津北の切題目碑1:GoogleStreetView2014 より     日比津北の切題目碑2:上記・南無妙法蓮華経碑 より

3)東の切題目碑(※):中村区日比津町1-4
 
名古屋の神社>南無妙法蓮華経碑 より
秋葉社東。県道190号線 高道町6交差点の日比津交番西255mの場所。
南向き高台上にあり。
 日比津東の切題目碑1:GoogleStreetView2014 より     日比津東の切題目碑2:上記・南無妙法蓮華経碑 より
  正面は南無妙法蓮華経。
  左側(西)には五穀豊饒群機安寧。
  裏面(北)に天保四年(1833)癸巳冬十月造立。
  右側(東)に南無日蓮大菩薩。

4)中の切題目碑:中村区日比津町2-9

 日比津中の切題目碑1:GoogleStreetView2014 より、向かって左に写る切妻造で棟側に庇を付設した堂宇が秋葉社である。
  正面:南無妙法蓮華経
  左面:天長地久五穀成就
  右面:一天四皆回帰妙法
  裏面は不明であるが、おそらく弘化4年(1847)の年紀を刻むものと思われる。
  石柱:宗祖六百五十遠忌記念
石灯篭が2基あるが1対ではなく、別々のもので、他所(隣の秋葉社などから)から寄せ集めたものか。
右隣には秋葉社がある。堂宇はおそらく覆屋で集会所を兼ね、屋内に秋葉社の小祠が祀られるものと推測する。

5)栗山題目碑:中村区日比津町1-16

名古屋の神社>南無妙法蓮華経碑 より
定徳寺の南側にある。西南角に小社、その右側に倉庫、その右側に題目碑がある。
 日比津栗山題目碑1:GoogleStreetView2014 より     日比津栗山題目碑2:上記・南無妙法蓮華経碑 より
  天保3年(1382)の年紀がある。

6)松葉屋敷題目碑:中村区日比津町2-10-10

名古屋の神社>南無妙法蓮華経碑 より
県道200号線の中村公園北口交差点と豊臣小学校前交差点の中ほどより北295mの場所にある南向きの秋葉堂横にある。
日蓮宗妙聴寺の東門北75mにある。向かって左の堂宇は覆屋で、中に小祠があり秋葉社である。
 日比津松葉屋敷題目碑1:GoogleStreetView2014 より     日比津松葉屋敷題目碑2:上記・南無妙法蓮華経碑 より
  正面は南無妙法蓮華経。
  右側(東)に南無日蓮大菩薩。
  裏面(北)に天長地久五穀成就
   信〇彼〇〇定成〇(信傍彼此決定成仏?) 〇〇四年一〇冬十二月吉日 日潤上人〇〇〇家〇 當所妙〇受〇者立。
    ※日潤上人は定徳寺25世であり、天保8年(1837)身延山60世に晋山する。
    ※年紀は弘化4年(1847年)12月 という。
  左側(西)に南無七面大明神。
  常夜燈石碑がある。

7)乾屋敷(南向):(日比津町3-6-9付近)

   ・・・・・・・・所在確認ができず。

8)西の切題目碑:中村区日比津町3-12-5

名古屋の神社>南無妙法蓮華経碑 より
県道200号線 中村公園北口交差点北370mの場所に東向きに立つ。
 日比津西の切題目碑1:GoogleStreetView2014 より     日比津西の切題目碑2:上記・南無妙法蓮華経碑 より
  東向き正面に南無妙法蓮華経、台座石にも(経石塔の)三文字。
  右側(北) 南無日蓮大菩薩。
  左側(南) 天長地久五穀成就。
  裏面(西)に安政六年(1859)巳未参十日善禅日 真譲日融譲写 當村西之切同修者志。

9)南の切題目碑:日比津町4-5-21

名古屋の神社>南無妙法蓮華経碑 より
妙聴寺南南西100mほどにある。
三石碑が建つ。
中央の石碑は題目碑。
 日比津南の切題目碑1:GoogleStreetView2014 より     日比津南の切題目碑2:上記・南無妙法蓮華経碑 より
  正面に南無妙法蓮華経。
  右側(南)に南無日蓮大菩薩。
  左側(北)に自佗倶安同歸常寂。
  裏側(東)に天保二年(1831)辛卯秋七月 吉祥日建立之 日比津郵妙経同修者和南。
向かって左の石碑は南無妙法蓮華経奉修酬南無高祖日蓮大菩薩第七百遠忌報恩謝徳。
 右側に南無証明涌現多宝大善逝 如日月光明能除諸幽冥。
向かって右の石碑は宗祖立正大師六百五十遠忌とある。
なお、左側(北)にある白塗りの堂内に小祠(秋葉社)がある。

10)新屋敷題目碑:中村区豊幡町82

名古屋の神社>南無妙法蓮華経碑 より
中村公園北/名古屋競輪場東側 北86mのブロック角地にある東向きの南無妙法蓮華経碑。
県道200号線 中村公園北口交差点南117m。東側 石柱正面左に登り口。
 日比津新屋敷題目碑1:GoogleStreetView2014 より     日比津新屋敷題目碑2:上記・南無妙法蓮華経碑 より
  正面(東)に南無妙法蓮華経。
  右側(北)に南無日蓮大菩薩。
  裏側(西)に明治十二年(1879年)乙夘(己卯?)五月十三日 日凞謹書。
   ※日凞:定徳寺30世が真壽院日凞である。明治40年60歳にて寂というから、明治12年は32歳である。
   以上から日凞が真壽院であることはあり得るであろう。
   しかし、定徳寺歴代は次の通りであるから、少々理解できないこともある。
    28世日軌、29世真綱院日滄/明治29年寂、30世真壽院日凞/明治40年60歳寂、31世真融院日澄明治33年57歳寂
  左側(南)本結大縁寂光為土。
題目碑の右前に常燈明の石柱がある。またその後ろに「奉修宗祖日蓮大菩薩六百五拾遠忌報恩」の石柱がある。

11)道下題目碑 :(大秋町2-68付近)

   ・・・・・・・・所在確認ができず。


2017/06/24作成:2017/06/24更新:ホームページ日本の塔婆