で、このWikipediaの記事に邪馬台国の位置についての記載があります。
これ技術者視点でみると明らかに変です。Wikipediaの魏志倭人伝の記載を整理するとこんな感じです。
・帯方郡?(この記事の別の説明からスタートは恐らくここ)から狗邪韓國まで海岸水行七千余里
・對海國(対馬)まで渡海千余里
・一大國まで渡海千余里
・末盧國まで渡海千余里
・伊都國まで陸行五百里
・奴國まで百里
・不彌國まで百里
・投馬國まで水行二十日
・邪馬台国まで水行十日陸行一月
お分かり頂けただろうか(^^!。
帯方郡から不彌國までの距離単位は「里」を使ってます。ところがそこから先は距離単位を「日」と「月」を使ってます。
技術者の視点で見ると、仕様記述の際の単位の不統一は御法度です。原則として、やってはいけない部類に入ります。なので、この単位が変わった事が目についてしまいます。で、大和説、九州説はまさにこの解釈を巡って、紛糾しています。。。ダメな仕様書で設計すると、不具合や混乱の元になりますが、同じことが歴史解釈を巡っても起きていたわけですね(^^!。
単位が変わった理由は単純に距離が分からなくなったか、解釈が間違っているかのどちらかですね。推測ですが、九州北部までは当時の中国の大型船で渡海していたのだろうと思います。
三国志時代であり、赤壁の戦いにもそこそこ大きな船が登場していますし。中国側には、沿海付近の海図らしきドキュメントかそれに代わる目安があっただろう事も想像がつきます。つまり距離はこれらの情報から読み取ったと考えるほうが自然です。その地図らしき情報には不彌國まで記載されていたのでしょう。
なので、不彌國以降は距離が分からず時間になったのだろうと思います。もし、北九州までは当時の中国の大型船を使っていたとするのなら、不彌國以降の水行とは、別の手段となった可能性が高いです。当時の日本の技術が分からないですが、ハシケのような手漕ぎ船だった気がします(^^!。さらに言えば、水行と書く場合、海だけではなく川も含んでいたでしょう。
陸行一月は長いですね。。。当時の日本の陸行ってどうだったのだろう?
当時は、宿が整理されているとは思えないし、道は各集落と集落を繋ぐものだったとすると、目的地までのまっすぐな道は無かったと考える方が自然です。平たんな場所が少なく、山道や山を迂回するための道なども沢山あったろうと思います。さらには橋もほとんど無かったとすると、川で足止めをくったり迂回する道だった可能性もあります。
当時の邪馬台国では、国同士が争った記述がある事から敵対する国の国境を迂回する必要があったかもしれません。さらには、天候の理由などで足止めがあったのかな?
歩行かつ、荷物を運ぶために牛か馬を使ったとして、歩いたとして、1日せいぜい20Kmくらいまででしょう。それも天候に左右されて晴れた日に移動ともなると、時期により可動日数が変わります。船の都合で台風が来る前に北九州への移動となると、春先にでたら、この陸行は梅雨にあたる可能性もありますね。
陸行の実態は20日程度と見た方がよいかな。もっと短かったかもしれません。1日の陸行を20Km平均として最大で400Kmくらいでしょうか。昔は直線の道がなく、山、川の迂回、天候による足止めがあったとすると、九州内部で行くにしても、これはありそうな距離ですね。直線距離で10Km進むのに、迂回して40Kmも歩くという換算だと、だいたい直線で100Kmですね。
とすると、九州の中心部か、九州南部かの、どちらかかななぁ。。陸行の記述から山の迂回ルートとか考えると九州の中心部あたりになりそうな気がします。
ちょっと思ったのは、帯方郡から邪馬台国までの旅が投馬國まで水行二十日、そこから邪馬台国まで水行十日陸行一月としているのではないかという事ですね。「南至投馬國水行二十日(wikipediaより引用)」と書いているのでそれは無いかな。。投馬國から単位が変わっているとすると、これもあり得ますね。。その場合でも、結局、陸行1か月をどう考えるか?という分析は必要になりますね。
(2018/3/25 記)
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