最近訪問した塔婆・ご提供画像(2012/07/21〜2013/04/21)

過去の訪問塔婆履歴

2013/04/21 備前大瀧山福生寺三重塔 再訪 →大瀧山福生寺
備前真光寺三重塔 再訪 →備前真光寺
2013/04/09 山城清水寺子安塔 再訪 →山城清水寺子安塔など
山城清閑寺 再訪 →山城清閑寺、附:本法寺末寺鳥辺野本壽寺、附:鳥辺野通妙寺(妙見菩薩/妙見信仰中)
山城知恩院多宝塔 再訪 →山城知恩院
六条本圀寺塔頭 再訪 →六条本圀寺塔頭
2013/02/17
「O」氏撮影画像
常陸楽法寺多宝塔  →雨引山多宝塔
2013/03/09
同上
附録:常陸大杉明神  →常陸下君山廃寺中の参考項目にあり
2013/03/21
同上
下野西明寺三重塔  →下野西明寺
常陸鳳台院五重塔  →常陸鳳台院
2013/03/23
同上
日光山/東照大権現  →日光山/東照大権現
2013/04/01
2013/04/12
同上
武蔵三学院三重塔  →武蔵三学院
2013/04/13
同上
武蔵長徳寺三重塔  →武蔵長徳寺
2013/03/17 備中玉島羽黒権現 再訪 →出羽羽黒大権現
備中遍照院三重塔 再訪 →備中遍照院三重塔/附:医王寺多宝小塔
2013/02/09
「X」氏撮影画像
高藤権現三重塔初重1
高藤権現三重塔初重2
高藤権現三重塔初重3
高藤権現三重塔初重4
高藤権現三重塔初重5
下野茂木高藤権現三重塔初重:三重塔初重が現存する。室町期の建立と推定されるも、現在は腐朽寸前の状態である。
建築時期は永禄年間(1558-70)と推定される。
 ※その根拠は現地説明板(下に掲載)にある通りで、残存する木鼻も室町期の特徴を示す。
「X」氏情報:一辺は約3.8m(中央間は約1.6m、両脇間は約1.1m)、逆連弁高欄付きの縁を廻らす。組物は三手先、木鼻付き。中備は現存してはいないが、中央間に蟇股の痕跡が認められる。
基本的に和様であるが、腰部は長押ではなく貫(腰貫)を用いる。写真でみる限り長押を用いた形跡は見られないため、当初から腰には貫(腰貫)を用いたものであろう。
軒は現在一軒で平行繁垂木となるも、一軒であるのは近世の改造と推定される。
内部には四天柱と来迎壁を残す。
○高藤権現三重塔
現地の説明板(平成2年茂木町教育委員会)には以下のように説く。(要旨)
荒橿神社三重塔(現阿弥陀堂):
この三重塔(現理阿弥詑堂)の創建については、桔梗城が完成した元弘3年(1333)戦勝祈願のために「三階堂阿弥陀堂」を建立したという説があるが、それを確認できる資料的な裏付けは全くない。
昭和63年阿弥陀堂詳細調査を行う。その結果、最も重要な上層の組上げ工法から、細部の様式に至るまで、下野西明寺三重塔(天文12年/1543)との共通点が多く、時期的な近さが感じられる。
さらに、本塔は全体として簡略化された部分が目立つことなどから、西明寺三重塔より若干時期が新しい可能性が強い。それを裏付けるものとして、阿弥陀堂に安置されていた阿弥陀像の体内に残された墨書に永禄7年(1564)銘があること等から、この阿弥陀堂の創建は永禄年間(1558-70)と推定しても良いであろう。
 高藤権現三重塔復原図
○「荒橿神社」(高藤権現)の由緒
高藤権現は現在は荒橿神社と称する。
栃木県神社庁のサイトや現地の「由緒書」では以下のように云う。
「平城天皇の御宇大同元年九月九日茂木桔梗城主の鬼門除社として城の丑寅の方字高藤山上に創祀された地方著名の古社である。延喜五年醍醐天皇の勅撰により延喜式に其の名を載せられ式内社として下野十二社の一つに数えられ茂木領主細川家の崇敬殊の外篤く享保六年茂木領主細川長門守工費を寄進本殿を造営された。明治4年には茂木藩社となり、昭和十一年より県社に昇格郷土の守護神として崇敬の的である。」
 ご覧のように意味不明であり、かつ国家神道丸出しの噴飯ものの由緒である。
茂木桔梗城の築城は元亨3年(1333)云われ、何れにせよ中世のことであり、その鬼門除として古代である大同元年に創建されしかも延喜式内社であるとはどういうことなのであろうか。
真相は高藤権現は茂木桔梗城の築城の頃(中世)に創建され、「高藤権禅」と称したということであろう。そしてその証として、少々時代は下るが、今に永禄年中の建立と推定される三重塔初重が残存するのである。
要するに延喜式内「荒樫神社」とは何の関係も無いのである。廃絶した延喜式内社を中世・近世の現存する著名な社に付会して式内社と強弁改竄するのは、近世後期や明治初頭の国学者や復古神道家の常套手段であるのは、今更説明を要しない。
 「明治4年に藩社、昭和11年には県社に昇格」とは「郷土の守護神として崇敬の的」となったのではなく、国家神道の序列に組入れられ、国策である天皇教宣布と大東亜戦争に加担したということなのである。
 ※延喜式内「荒樫神社」は所謂「論社」である。
国家神道では茂木荒橿神社に付会するが、真岡大前神社相殿に合祀と云う異論もある。また、真岡にも荒橿神社が存在する。(真岡のこの神社はよく分からない。)
 ※三重塔(阿弥陀堂)の存在から、本地堂(神宮寺/社僧/別当など)の存在が推測されるも、Web情報は皆無である。今後究明の必要がある。
--------------------------------------------------------------------
2013/04/11追加:
ブログ:益子・茂木の旅行記(ブログ)>568 朽ち果てる三重塔「荒橿(あらかし)神社 三重塔」
修復を呼びかける記事がある。「
だれか直す方々は居ませんか?宮大工見習いの高校生・専門学校の方々修理してはいかがでしょう?」と。全く同感である。
○塔残欠であったが近年修復された塔
 近江金剛輪寺三重塔(中世・国重文)は3重目を失い、腐朽寸前であったが、昭和53年に失われていた3重目も復原して復元工事完了。修理総工費1億6780万円。国の重文ということもあったにせよ三重塔は古の姿と想定される姿に修復される。
○塔残欠であったが近年取壊された塔
 出雲千手院多宝塔残欠(明治の建立・未完・腐朽寸前)は2006年取壊され、今は現地は更地となる。(一部の残材(組物)が美作玉泉寺本堂に転用されたものと思われる。)明治以降の建築とはいえ、残念な結果とある。
 近江新善光寺三重塔(明治の建立・腐朽寸前)は無住となり、ついに昭和58年破毀される。現地は保育園となり塔阯を忍ぶものは何もない。
○塔残欠であるが保存の図られている古塔
 大和安楽寺三重塔初重(鎌倉以前)、旧富貴寺羅漢堂(法隆寺) (平安期か?)、
 大和不退寺多宝塔(鎌倉期)、旧長弓寺三重塔初層(鎌倉期か)、
 尾張祐福寺多宝塔(室町中期以前)、河内観心寺三重塔初重(文明年間)、
 尾張明眼院多宝塔(慶安2年(1649))、陸奥聖寿寺五重塔初重(文化年中)、
 丹後縁城寺多宝塔初重(天保年中)、大和円成寺多宝塔(建築年代不詳)
2013/03/14 再興最勝金剛院
東福寺
→再興最勝金剛院(東福寺寺中)・・・京洛平安期の塔婆/法性寺
三聖寺愛染堂小宝塔・万寿寺・東福寺>東福寺伽藍の項
2013/04/04 植田邸法隆寺五重塔11
植田邸法隆寺五重塔12
植田邸法隆寺五重塔13
植田邸法隆寺五重塔14
植田邸法隆寺五重塔15
植田邸法隆寺五重塔16
植田邸法隆寺五重塔17
植田邸法隆寺五重塔18
城陽市寺田/植田邸法隆寺五重塔模型
2012年完成。
スケールは約1/20。初重一辺37cm、総高135cm。(読売新聞記事では高さ約1.5m、屋根約50cmとある。おそらく総高は土台<基壇>込みであろう。)
4年前に企図し、Webや写真情報を元にした設計図を作成、2012/03より組立に入ると云う。
使用材料は主として杉材・竹(屋根丸瓦)・竹ひご(釘の代用)である。
出来る限り法隆寺塔婆を忠実に模すように作成される。
 植田邸法隆寺五重塔19    植田邸法隆寺五重塔20    植田邸法隆寺五重塔21
 植田邸法隆寺五重塔22    植田邸法隆寺五重塔23
山城若王社 再訪 →山城若王社
2013/02/23 石清水八幡宮遺構  →石清水八幡宮:八幡市立松花堂庭園(泉坊 客殿、高坊寺門)
山城足立寺公園 再訪 →足立寺復原遺構、豊蔵坊信海墓 →石清水八幡宮(豊蔵坊信海墓・八幡宮阿弥陀堂)
2013/02/21 大和蓮長寺  →大本山本圀寺>六条門流本圀寺末寺>5)大和蓮長寺の項
南都興福寺 再訪
 →大和興福寺(三重塔、五重塔、その他堂宇、子院遺構、大乗院庭園、平城飛鳥瑜伽大権現)
南都元興寺 再訪
 →大和元興寺(大和元興寺、元興寺極楽坊、元興寺小塔院)
2013/03/10 肥後十連寺心礎11
肥後十連寺心礎12
肥後十連寺心礎13
肥後十連寺心礎14
肥後十連寺心礎15
肥後十連寺心礎16
肥後十連寺心礎17
肥後十連寺心礎18
肥後十連寺心礎19
○Webサイト:「十連寺跡の礎石」 に当廃寺の情報と心礎写真の掲載がある。
七城町の水次地区東部にある畑の土手に、地域住民から「いぼだらさん」とよばれる石がある。これは十連寺の心礎で、長径125cm高さ60cmの花崗岩の中央に直径39cm、深さ10cmほどの円孔がある。
○「水前寺廃寺の塔礎石群」小林久雄、松本雅明、三島格(「熊本史学」第十二号、昭和32年 所収)の注に記載資料 より:
   大きさは3尺5寸×2尺5寸、径1尺3寸深さ3寸の刳り込みを有す。
○「肥後国誌」には、「近傍ノ畑ヲ掘レハ布目瓦ノ欠多ク出ル」とあり、昭和40年の発掘調査でも多くの瓦(奈良中期)の出土を見る。この心礎は開墾により、元の場所から今の場所に移動する。ほかの礎石は全て散逸する。
なお十蓮寺は法起寺式の伽藍と推測される。
 肥後十蓮寺心礎
○2013/03/10撮影:
地元では「いぼだらさん」と云えば、通用する。(十連寺と云っても通用しない。)
昭和40年に発掘調査が行われ、法起寺式伽藍配置であると推定されるに至る。心礎は今の場所より東約20mの地点で出土し、農地整理で現在地に移転と云う。寺域は低い岡の中腹にあり、南に向かって緩く勾配する地点に位置する。
心礎実測値:大きさは90×90cm、径38×8cmの円孔を穿つ、但し、心礎は土手に埋め込まれているので、正確な大さは不明。
肥後十連寺塔跡:写真中央付近が塔心礎出土地点か。
肥後中村廃寺心礎11
肥後中村廃寺心礎12
肥後中村廃寺心礎13
肥後中村廃寺心礎14
肥後中村廃寺心礎15
肥後中村廃寺心礎16
肥後中村廃寺心礎17
肥後中村廃寺心礎18
奈良期の寺跡とされる。
2011/02/13追加:
○サイト:「kizaの考古学歩けおろじすと」 に当廃寺の情報と心礎写真の掲載がある。
詳しい調査暦はない。熊野権現境内に心礎はある。心礎は疣観音・疣神様として祀られる。
心礎石は楕円形の花崗岩の自然石で、大きさは169p×110pを測り、中央に径42pで深さ6pの枘孔がある。周囲から瓦を出土する。
 肥後中村廃寺心礎1     肥後中村廃寺心礎2
○2013/03/10撮影:
心礎実測値:大きさは150×約110×高さ約60、円孔は径42×6cmを測る。
中村熊野権現社:鳥居を入り、向かって右に置かれた心礎が写る。
稲佐廃寺復原塔跡1
稲佐廃寺復原塔跡2
稲佐廃寺復原塔跡3
稲佐廃寺復原塔跡4
稲佐廃寺復原塔跡5
稲佐廃寺復原塔跡6
稲佐廃寺心礎11
稲佐廃寺心礎12
稲佐廃寺心礎13
稲佐廃寺心礎14
稲佐廃寺心礎15
稲佐廃寺心礎16
稲佐廃寺心礎17
稲佐廃寺心礎18
稲佐廃寺金堂跡1
稲佐廃寺金堂跡2
稲佐廃寺金堂跡3
稲佐廃寺中門跡
稲佐廃寺本殿下礎石1
稲佐廃寺本殿下礎石2
稲佐廃寺本殿下礎石3
熊野権現正面石階
稲佐廃寺散布布目瓦1
稲佐廃寺散布布目瓦2
○「日本の木造塔跡」:
熊野神社境内に塔、金堂(礎石を全部残す・5間×4間)、講堂跡などを残す。
心礎は1.7m×1m、径55×5cmの円穴を穿つ。塔一辺は6.3m。四天柱礎、側柱礎は自然石。
昭和26年の調査により講堂、塔、金堂(5間×3間)、中門等の位置や塔心礎が判明、法起寺式伽藍配置とされる。
出土した瓦・礎石などから、奈良期から平安期を通じて存続した寺院と推定される。
2008/08/14追加:
○「天武・持統朝の寺院経営」: 肥後稲佐廃寺伽藍配置図
2011/02/13追加:2012/04/28情報追加:
○「稲佐廃寺の伽藍配置」松本雅明、高野啓一(「熊本史学」第50号記念特集号、昭和52年 所収)
当廃寺の調査は昭和28年田辺哲夫「稲佐廃寺址調査報告」として本格的に報告される。
昭和46年再調査および塔の復元などを実施する。本稿はこの調査の概要である。
塔阯には心礎及び北東の礎石1個を残すが、塔の復元を試みる。心礎は長径1.75m短径1.05mの花崗岩で、中央に径55cm深さ6cmの枘穴を穿つ。枘孔から37cmを隔てて同心円状の幅10cm深さ3cmの全体の1/6程度の溝がある。火災により他の面は剥落したのであろう。
北東の礎石(75×50cm)は椎の樹の巨根によって、動かされている。
塔の復元は礎石抜取り穴を探すことから着手する。その結果が「稲佐廃寺塔跡実測図・復原図」中の「礎石抜取址」である。礎石抜取は城郭に転用のためであり、後には熊野社に転用される。
中央間・脇間とも柱間は6尺3寸(190cmあるいは192cm)で間違いないであろう。塔一辺は5.5m。
以上のことから、塔付近に散乱する礎石を、それぞれの形状と抜き取り穴の形状に合わせて土抗に復元する。ただし、北東の礎石は椎の巨木の根のため動かすことが出来ずそのままにし、北東隅の礎石も椎の巨木の根があり、そのため小振の礎石を置く。
その結果が「稲佐廃寺塔跡実測図・復原図」中の「礎石復元図」である。礎石は塔付近、鳥居(中門)付近、金堂東側にある礎石を用い、本殿下にある浮石は取り出せなかったので、用いてはいない。
講堂の基壇の南端は本殿の下にあり、本殿下には多くの礎石が寄せ集められているが、小数の礎石は原位置を保つも、多くは動かされている。浮石(本殿礎石としては使用されていない石)も多くある。結論だけ云えば、講堂基壇は60尺×40尺、建物規模は48尺×28尺(6間×4間)と想定される。
講堂址のほか金堂跡、中門跡も確認され、最終的に以下のような伽藍が復元される。
 稲佐廃寺伽藍復原図
○2013/03/10撮影:
心礎実測値:おおきさは170×100cm、径54×7cmの円穴を彫る。1/6程度残る溝の径は凡そ100cmを測る。
廃寺跡は丘上にあり、廃寺跡に後世祀られた熊野権現正面石階は急勾配である。
塔阯、金堂跡、中門付近には多くの古瓦の散布を見る。
水前寺廃寺塔跡1
水前寺廃寺塔跡2
  :右端礎石が心礎
水前寺廃寺塔跡3
  :写る礎石が心礎
水前寺廃寺塔跡4
水前寺廃寺心礎1
水前寺廃寺心礎2
水前寺廃寺心礎3
水前寺廃寺心礎4
水前寺廃寺心礎5
水前寺廃寺心礎6
水前寺廃寺塔礎石1
水前寺廃寺塔礎石2
水前寺廃寺塔礎石3
水前寺成趣園入口の西、出水神社と玄宅寺の間のボウリング場入口にある。
出土瓦から平安中期の塔跡とされる。心礎のほか礎石4個を残す。基壇は版築の跡が認められる。
2011/02/13追加:
○「水前寺廃寺跡第1次調査区」(「熊本市埋蔵文化財発掘調査報告集」−平成11・12年度、熊本県教委、平成13年
 水前寺廃寺塔礎石実測図
○「水前寺廃寺の塔礎石群」小林久雄、松本雅明、三島格(「熊本史学」第十二号、昭和32年 所収):2012/04/28情報追加:
禅宗玄宅寺の南竹薮及び墓地と出水神社間(今の観光センターの北)にある。正確には永井千代雄氏邸(今はなし?)内に昭和32年4月28日午後、塔の礎石群を発見する。(著者3名と松本貞子)邸内竹薮中に心礎と礎石4個と布目瓦の散布が見い出されたのである。
塔基壇は竹薮に埋まり、10年ほど前に永井氏がその上土を削ったときに現れたもので、それまでは全く注意が払われなかったのであろう。
 玄宅寺に礎石と思われるもの8個(庭に6、墓石1、寺の礎石1)、永井邸庭石に約32個の礎石がありその内大型の塔の礎石と推定されるものが8個、また塔跡東側に数個の転落礎石があり埋められたというから、ほぼ塔の礎石は現存すると思われる。
 礎石は全て安山岩の自然石で、心礎の大きさは143×146cm、径82cm程(高さ0.75cm)の柱座があり、中央に上径28cm・底径22.5cm深さ10.7cmの孔を彫る。
塔一辺5.28m(中央間7.19尺<2.24m>、両脇間5.08尺<1.52m>)を測る。なお基壇は版築ではなかろうか。
「肥後国誌」では「玄宅寺・・・豐州羅漢寺ノ前住伝室玄宅和尚、(細川)忠利君ニ従テ寛永9年当国ニ来ル。源公此処ニ一寺ヲ建テ、水前寺ト号シ、玄宅ヲ開山トシテ居シメ・・・」とあり、今の玄宅寺が水前寺の前身と云う。しかし、水前寺とは古からの伝承された寺名ではないだろうか。
であるならば、今般発見された塔阯は水前寺の塔跡であろうと思われる。
 なお玄宅寺は明治頃焼亡、その後は畑中の庵であったが、昭和6年に再建されると云う。
 水前寺廃寺塔跡実測図:祠は観音を祀る     水前寺廃寺塔跡礎石     水前寺廃寺塔心礎
2013/03/10撮影:
再発見当時とは違い、現在塔跡は熊本市街地・観光地にあり、整備された状態であることを予想をしていたが、放置され荒れるに任せる状態であり、この意味では予想外であった。地元では見向きもされない存在のようで、塔跡とか礎石などは観光と云う生業(銭儲け)の資源にはならないということであろうか。もっとも銭儲けの種にしてもらっては俗化するだけなので、今のままで十分とすべきであろう。
なお玄宅寺などに残るという礎石の確認は失念する。
肥後国分寺跡  →肥後国分寺
肥後宮寺廃寺心礎11
肥後宮寺廃寺心礎12
肥後宮寺廃寺心礎13
肥後宮寺廃寺心礎14
肥後宮寺廃寺心礎15
肥後宮寺廃寺心礎16
肥後宮寺廃寺心礎17
肥後宮寺廃寺心礎18
延命寺観音堂
延命寺観音堂内部
観音堂千手観音立像
観音堂阿弥陀如来立像
心礎はもとの宮寺村にあり、延命寺跡地にある。心礎は原位置を保つとされる。
当村にあった天台宗延命寺遥拝山妙智院は天平期行基の開基と云い、行基作千手観音を本尊とすると云う。
現在は僅かに観音堂1宇が残り、本尊千手観音立像、不動明王立像、毘沙門天立像、阿弥陀如来立像を祀る。
またさらに当地には天台宗善逝寺(現在は廃寺)もあったとされ、行基開基で、行基作本尊薬師如来及び脇侍・十二神将を祀ると云う。
勿論いずれも真偽は疑わしいが、いずれにしろ奈良期の寺院があったことが推測され、心礎のあった寺院は延命寺などに法灯が継がれたとも推測される。
出土瓦は奈良後期から平安前期のものとされる。
○2012/04/28追加:2003/12/28「X」氏ご提供画像
 肥後宮寺廃寺心礎1   同       2   同       3   同       4
○2012/04/28追加:
「水前寺廃寺の塔礎石群」小林久雄、松本雅明、三島格(「熊本史学」第十二号、昭和32年 所収)の注に記載資料 より:
 心礎の大きさは7尺5寸(227cm)×5尺2寸5分(159cm)、径1尺4寸5分(44cm)深さ1寸9分(6cm)の刳り込みを有す。
○2013/03/10撮影:
心礎実測値:大きさは210×150cm、径40×12cmの円孔を穿つも、この円孔は碗形の刳り込みであり、おそらく後世に彫り広げられたものと推定される。
観音堂には上述の諸仏その他が祀られるが、一見して近世のものと思われる。廃絶していた延命寺は寛文年中に快宣阿闍梨によって再興され、明治維新で廃寺と云うから、再興時の仏像であるのであろう。なお観音堂・心礎・墓地などはすぐ西にある宮寺熊野権現の所有(堂守談)と云うからあるいは区有(宮寺地区)財産で有るのかも知れない。また観音堂は隣の民家の住人が堂守を行う。
熊本花岡山仏舎利塔1
熊本花岡山仏舎利塔2
昭和28年落慶。日本山妙法寺仏舎利塔。藤井日達の建立。
なお花岡山は平安期から近世初期まで祇園社が鎮座し、祇園山と呼ばれたと云う。
この祇園社は承平4年(934)肥後国司藤原保昌が京都祇園社(牛頭天王)を飽託郡湯原(現二本木5丁目)に勧請したことに始まると云う。
承平7年(937)湯原から車屋敷(現二本木二丁目)に遷座する。
天元7年(979)朝日山(岡見山)に遷座、これに因み朝日山は祇園山と呼ばれるようになる。
(祇園山は明治になり招魂社建立に伴い花岡山と改称される。)
慶長10年(1605)加藤清正により復興、寛永9年(1632)細川氏により社殿造営がなされる。
正保4年(1647)二代藩主細川光尚により北岡(現在地)に遷される。
明治元年神仏分離の処置で北岡宮と改称、さらに同4年北岡神社と改称し、同5年には県社となり国家神道の下僕に成り下がる。
肥後池辺寺跡  →肥後池辺寺跡
肥後本妙寺 肥後本妙寺、塔頭常住院偽ニ層塔(納骨堂)、塔頭東光院三重小塔
 →肥後本妙寺
2013/03/09 肥後陣内廃寺心礎1
肥後陣内廃寺心礎2
肥後陣内廃寺心礎3
肥後陣内廃寺心礎4
肥後陣内廃寺心礎5
肥後陣内廃寺心礎6
肥後陣内廃寺心礎7
肥後陣内廃寺心礎8
陣内廃寺「疣ノ神」石碑
肥後陣内廃寺金堂跡
肥後陣内廃寺講堂跡
肥後陣内廃寺礎石1
肥後陣内廃寺礎石2
肥後陣内祇園社
○「幻の塔を求めて西東」:
一重円孔式、190×180×120cm、径52×25cm、原位置とされる。
○「日本の木造塔跡」:
現在寺跡には心礎を残すだけである。かっては全部地上に露出していたと云うも、現在は2/3ほど地中に埋まる。
大きさは1,8×1.5m、表面に径52cm深さ20cmの円穴を彫る。穴の周囲には半分は磨耗した柱座の造出しが微かにある 。その長径は57cm、高さ1.5cmである。法起寺式伽藍配置と推定され、心礎は砂岩製とされる。近くの八坂神社(祇園社)境内に側柱礎と思われる礎石5個を残す。
○「水前寺廃寺の塔礎石群」小林久雄、松本雅明、三島格(「熊本史学」第十二号、昭和32年 所収)の注に記載資料 より:
 大きさは6尺2寸×4尺9寸、径1尺7寸深さ7寸4分の刳り込みを有す。
2011/02/13追加:2013/03/11加筆:
○「陣内廃寺調査報告」(「城南町史」城南町史編纂委員会、昭和40年 所収)
 陣内廃寺塔跡発掘図:基壇は大幅に削平されており、原型を留める北辺から復原すると一辺13mの基壇が想定される。
 陣内廃寺心礎実測図:心礎は砂石で、長径1.9m短径1.8m高さ1.2m、表面に径48〜57cm深さ1.5cm (ママ)の円孔を穿つ。
 陣内廃寺塔礎石:付近の祇園に礎石が転用される。6個の礎石が図中の説明の通りである。
 陣内廃寺伽藍復原図:法起寺式伽藍配置が確認される。
金堂:礎石、基壇ともに削平されており詳細不明。
南大門:瓦の包含と地割から、間口38尺奥行き32尺の基壇が復原できる。
東僧坊:礎石、北側基壇端と考えられるカギ型石と基壇東外の瓦堆積が検出される。
○2013/03/09撮影:
心礎実測値:大きさは190×145cm、径52×深さは20cm内外。但し、円穴は後世、丸壺状に加工されたと思われ、底及び側面は球面状を呈する。表面には多数の盃状穴が穿たれる。
円形の造出があうとされるも、辛うじて判別できる状態であり、判然とはしない。
「疣の神」としての信仰があり(心礎傍らに「疣ノ神」の石碑がある)、その信仰は今も続くようで、円穴から、2枚の貨幣が出てくる。
 上述「陣内廃寺塔礎石」のうち、1、2は心礎付近にある、3の所在は探 すも不明、4は石垣・5は水辺とあるが、表者とも祇園社付近では見つけることが能わず、6も探しあてることができず。
肥後浄水寺塔跡1
肥後浄水寺塔跡2
肥後浄水寺塔跡3
肥後浄水寺塔跡4
浄水寺塔跡礎石01
浄水寺塔跡礎石02
浄水寺塔跡礎石03
浄水寺塔跡礎石04
浄水寺塔跡礎石05
浄水寺塔跡礎石06
浄水寺塔跡礎石07
浄水寺塔跡礎石08
浄水寺塔跡礎石09
浄水寺塔跡礎石10
浄水寺塔跡礎石11
浄水寺塔跡礎石12
○塔跡が残り、礎石13個(5,6個以外は動いていると云う)を残すと云う。心礎は残存しない。
奈良期末の創建とされ、天長5年(828)定額寺に指定される。
2011/02/13追加:
○「城南町史」城南町史編纂委員会、昭和40年
塔一辺5.3m、中央間2.1m、両脇間1.6mを測る。
 浄水寺塔跡礎石配置図
○2013/06/09撮影:
御手洗水源(「浄水寺の池」)は浄水寺のある台地の下にあり、今の2箇所の湧出口から湧出する。
 浄水寺の池1     浄水寺の池2
塔土壇は半壊し全貌を留めない。土壇斜面に塔礎石が散乱する。
燈籠竿石の台石は石製露盤と云う。肥後地方の特性であろうか甚だしい盃状穴が穿たれる。
露盤の実測値:一辺110cm高さ23cm(見える高さであるが、ほぼこの厚さであろう)。中央の穴は貫通しているかどうかは竿が差し込まれているため、確認することはできない。
 浄水寺塔露盤1  浄水寺塔露盤2  浄水寺塔露盤3  浄水寺塔露盤4  浄水寺塔露盤5
境内には有銘の多くの古碑を残す。稀有なことであろう。
 浄水寺南大門碑:延暦9年(790)銘「南大門碑(創建の碑)」
 浄水寺燈籠竿石1    浄水寺燈籠竿石2:延暦20年(801)銘「燈楼竿石」
 妙法経碑・浄水寺寺領碑
 浄水寺寺領碑:天長3年(826)銘「寺領碑」  浄水寺妙法経碑:康平7年(1064)の「如法経塔」
浄水寺跡には山王権現と薬師堂がある。(現在は国家神道によって改称されたことが露骨に分かる下郷神社と称し、国家神道序列の一つの村社であったと云う。)
薬師堂とは山王権現の本地堂であったのでろうか。堂内には薬師如来と個数は欠けるも、十二神将軍とその他の仏像を安置する。
 浄水寺薬師堂     浄水寺薬師如来     浄水寺十二神将など
肥後古保山廃寺心礎1
肥後古保山廃寺心礎2
肥後古保山廃寺心礎3
肥後古保山廃寺心礎4
肥後古保山廃寺心礎5
肥後古保山廃寺心礎6
肥後古保山廃寺心礎7
肥後古保山廃寺心礎8
肥後古保山廃寺心礎9
肥後古保山廃寺礎石
 
○「日本の木造塔跡」:心礎は1.5×1.2mで、中央に径30×16cmの孔を穿ち、周囲には径67・深さ2cmの彫り込みがあり、半分は磨耗している。出土瓦から奈良期後半の創建とされる。
○「水前寺廃寺の塔礎石群」小林久雄、松本雅明、三島格(「熊本史学」第十二号、昭和32年 所収)の注に記載資料 より:
大きさは5尺3寸5分×4尺3分、径2尺2寸9分深さ7分と径1尺深さ5寸3分の二重の刳込を有す。
○天台宗霊雲寺と称し、 奈良期末(あるいは平安初期)の創建と推定される。室町末期に焼失、その後草堂として再興されるも、江戸初期に小西行長の兵火で焼失、廃寺となる。
付近から多数に出土した瓦は平安前期の布目瓦で、室町期の瓦は出土せず、従って室町末期か鎌倉初期に焼亡したものと思われる。
○2013/03/09撮影:
地元でも殆どその存在は知られないようである。古保山廃寺と云っても通用せず、むしろ霊雲寺と云えば、小数の人のみが知るようである。
心礎は個人邸の裏に置かれる。写真撮影にあたり、ブッシュの苅込、雨水の掻き出し、心礎の水掛けは家人の了解・協力を得て実施する。
心礎実測値:大きさは190×130cm、径31×深さ17cmの円孔を穿つ。円孔の周囲には柱穴があったと思われるも、磨耗であろうか1/3程度しか残らない。
なお、この石も疣神として信仰されているのであろうか、雨水の掻き出しで数枚の貨幣が出てくる。
心礎の脇には礎石と思われる石が1個残る。以前には数個の石があったと云う。
肥後興善寺廃寺心礎1
肥後興善寺廃寺心礎2
肥後興善寺廃寺心礎3
肥後興善寺廃寺心礎4
肥後興善寺廃寺心礎5
肥後興善寺廃寺心礎6
肥後興善寺廃寺心礎7
肥後興善寺廃寺心礎8
肥後興善寺廃寺心礎9
肥後興善寺廃寺中門跡
肥後興善寺廃寺金堂跡
一重円孔式心礎が現存する。167×89/90×62cm、孔の径38p、深さ15cm。
心礎は明言院境内にある。
明言院の前身は、敏達天皇12年(583)日羅の創建とする。大化の改新により八代郡寺となるが、天平の大災害で倒壊。
治承2年(1178)月山禅誉和尚を一世として、寺名を竜ケ峯山興善寺とした。その後衰退し廃寺。
正平7年(1352)懐良親王の祈願寺として興善寺跡に護国山顕孝寺を建立、大方恢和尚を一世として臨済宗となる。
以後顕興禅寺と改称、天正16年(1588)、小西行長の兵火により廃寺となる。仏像などは地元に伝世される。
万治2年(1659)真言宗明言院秀盛を一世として竜ケ峯山明言院として再興される。木造毘沙門天立像(重文・藤原)を伝える。
○「水前寺廃寺の塔礎石群」小林久雄、松本雅明、三島格(「熊本史学」第十二号、昭和32年 所収)の注に記載資料 より:
大きさは5尺2寸×2尺8寸、径1尺2寸5分深さ4寸8分の刳り込みを有す。
2011/02/13追加:
○昭和55年発掘調査資料 より
 興善寺廃寺伽藍復原図:発掘調査により、法記寺式伽藍配置と確認される。
2013/01/21追加:
○「九州の古瓦と寺院」九州歴史資料館、1974 より
 肥後興善寺心礎
○2013/03/09撮影
心礎実測値:大きさは150×95×高さ65cm、径39/38、深さ10/12cm の円孔を有す。円孔の底は水平ではなく、やや凹面となる。これは後世の加工と推定される。
肥後八代妙見  →肥後八代妙見
八代宗覚寺 加藤忠正廟所 →肥後本妙寺/肥後日蓮宗諸寺>中
肥後護神寺心礎1
肥後護神寺心礎2
肥後護神寺心礎3
肥後護神寺心礎4
肥後護神寺心礎5
肥後護神寺心礎6
肥後護神寺心礎7
肥後護神寺心礎9

肥後悟慎寺山門
肥後悟慎寺本堂
○「日本の木造塔跡」:
禅宗悟慎寺の傍らにある。悟慎寺左手の坂道の上に懐良親王の墓があり、その前の林の中にある、
心礎は1.2×1,1mで、径25/24×4cmの孔があり、周囲には径55cm深さ1cmの彫り込みがある(半分は磨耗)。
平安末期の妙見中宮護神寺のものと云われている。
○「水前寺廃寺の塔礎石群」小林久雄、松本雅明、三島格(「熊本史学」第十二号、昭和32年 所収)の注に記載資料 より:
 大きさは4尺4寸×3尺8寸4分、径1尺8寸深さ5分と径8寸4分深さ1寸5分の二重の刳り込みを有す。
○2013/03/09撮影:
 護神寺(中宮山と号す、天台宗)は永歴元年(1160)妙見中宮創建と同時に中宮神宮寺として創建されたと推定される。寺域から平安後期の布目瓦が出土という。 →肥後八代妙見
現在残る塔心礎はこの時の伽藍の塔心礎である蓋然性が高いと思われる。
 悟真寺(中宮山と号す、現在曹洞宗)は元中7年(1390)征西大将軍良成親王の命により、肥後守菊池武朝が征西大将軍懐良親王の菩提寺として、現在の懐良親王陵と称する場所に創建すると伝える。悟真寺の寺号は懐良親王の法名「悟真大禅定門」に因むという。
 但し、忠臣菊池何某が征西将軍何某の菩提寺を建立などと云うのはまず間違いなく国家神道によって美化された物語であろうから、そのまま鵜呑みにする訳にはいかない。おそらくは、悟真寺とは当時は衰微していた護神寺 を新しく再興したものかあるいは護神寺を換骨奪胎して悟真寺としたものであろう。
その後、小西氏により破却に遭い、慶長7年(1602)加藤清正の時、現在地に再興されると云い、寛永9年には加藤正方が寺領寄進、延宝5年(1677)には細川氏より30石寄進 があったと云う。
明治20年本堂改築、大正10年御霊殿(後醍醐帝・霊照院禅定尼の霊碑を安置、伊藤忠太設計・・・未見)を建立。
繰り返すが、護神寺は妙見中宮に関係するもので、元来は国家神道によって美化された南朝の「悟真寺」の創建物語とは関係のないものなのであろう。 ましてや心礎は悟真寺以前の護神寺に属するものと推定もされるのである。従って、心礎の名称を「悟真寺心礎」とするのは不適切であり、「護神寺心礎」とすべきであろう。
 現地の木標には「昭和15年境内の整地作業が行われ心礎が発見される。心礎は二重円孔式であり、大きさは142×108×53cm、外穴は径54/58cm深さ1.8cm、内孔は径36.5cm深さ5cm、内孔は舎利孔である。(※舎利孔か枘孔なのかは不明であろう。)」(大意)とある。
 ※総じて、南朝の美しくも悲しい譚は、「親王の墓は各地に伝説があったが、明治11年宮内省の調査で、八代郡宮地村(現八代市)の墓地を親王の墓とし、翌々年八代城本丸跡に親王を祀る八代宮が創立された。」「昭和3年には鹿児島県谷山市(現・鹿児島市)に懐良親王を祭神とする谷山神社が建立された。」などの引用で、その胡散臭さは十分証明できるであろう。
現地の木標にある「昭和15年の境内の整地」とは、まるで実態のない御陵を拡張荘厳するために、護神寺の遺構を破壊したということであるのであろうか。資料がないので分からないが、もしそうであるならば、八代妙見をアメノミナカヌシに改竄したのに並ぶ国家神道の蛮行であろう。
 肥後護神寺跡:中央が明治11年に付会した懐良親王 御陵であり、おそらくは素性の怪しい御陵の「整備」のため、完全に中宮山護神寺跡は破壊されていると思われる。右譚中央に写る白い木標の位置に心礎がある。
肥後推定神蔵寺心礎1
肥後推定神蔵寺心礎2
肥後推定神蔵寺心礎3
肥後推定神蔵寺心礎4
肥後推定神蔵寺心礎5

宮原三宮社境内
2011/07/19追加:神蔵寺については次のWeb情報がある。
○神蔵寺塔心礎:宮原下宮後、三神宮内、近世(あるいは中世)。
昭和34年、文化財保護委員により現在地から東30m地点で発見。発見場所及び礎石穴の大きさから神蔵寺の三重塔の心礎と推定。
○サイト「熊本の花所」:「氷川町 宮原三神宮の楠群」に心礎写真がある。(転載)
 ◇肥後神蔵寺塔心礎:大きさなどは不詳、写真では、表面は削平され柱穴と思われる円穴があり、その周囲には柱座とも思われる加工があるように見える。写真で見る限り古代寺院の塔心礎である可能性が強いものと思われる。
○宮原三宮社:社伝では、平治元年(1159)二条天皇の勅命により平重盛が平盛俊(前越中国司)に命じ、八代郡土北郷火村に社殿の造営を始め、応保元年(1161)落慶、社司に平重房(平盛俊弟・その子孫広松家が今日まで続く)を任命と伝える。
天正16年(1588)小西行長の兵乱で焼失、慶長6年(1602)加藤清正により再建、寛永年中以降肥後細川氏の庇護を受ける。
寛文元年(1661)社殿の修復、神蔵寺など六坊が建立され、八代宮地の妙見宮にならい、宮原妙見社と称する。
明治維新の神仏分離で、六坊は廃寺、祭神を国家神道の祭神、天照大神・国常立尊・神武天皇に変更し、社名を三神宮と改号するに至る。
宮原三宮社六坊:神蔵寺・閑光寺・西福寺・護平寺・光沢寺・浄国寺を云う、三宮社社僧。
○「肥後国史」八代郡野津手永宮原村三宮妙見社:
陣迹誌曰、応保元年八月越中前司平盛俊在国ノ時、妙見ヲ勧請シ祠ヲ立三宮妙見ト称ス。
平氏没落ノ後盛俊カ子越中次郎兵衛盛嗣、此社内ニ隠ル、後、都ニ上リ、又、但馬国ニ隠住シ郷民ト戦テ遂ニ討死ス。
○八代には妙見社が五社ある。
竹原妙見宮(現竹原神社)・宮地村白木社(八代妙見)・宮原村三宮妙見・植柳妙見・松崎村妙見
2012/08/30追加:
○神蔵寺心礎:形式・法量は「X」氏情報による。
心礎は二段凹式、大きさは168×130cm、中央に51×13cmの円孔を穿ち、更に中心点に4×2cmの小孔を穿つ。
 肥後神蔵寺心礎:2012/08/15「X」氏撮影
※小孔は写真では判然とはしないが、確かに円孔の中心点にあると云う。しかしごく浅いもので、舎利孔や枘孔とは思われず、良く分からない。
 肥後神蔵寺心礎小孔:4個の矢印に囲まれた部分が小孔である。(写真には明瞭には写らない):2012/08/15「X」氏撮影
※写真では円孔の周囲に柱座を造り出すように見えるが、確証はない。
※文化財保護の関係者は近世のものとするが、形式から古代塔婆の心礎である蓋然性が高いと思われる。宮原三宮社の社伝では三宮社は平安末期の創建と云い、また神宮寺も近世の建立と云われ、以上を信じかつ神蔵寺に塔婆が建立されたと云うことであれば、心礎は平安終末期〜近世のものと判断されるのであろう。しかし、形式上は平安終末期〜近世のものではありえない。
想像を逞しくすれば、未だ知られていない古代寺院があり、この寺院の心礎ではないだろうか。
○2013/03/09撮影:
心礎実測値:大きさは150×140cm、径51×12cmの円穴がある、中心をやや外し径3×深さ2 cmの円孔がある。小円孔は中心をやや外すこと、その形状が円筒ではなく球形であること、また舎利孔や枘孔では小さすぎることなどで、おそらくは後世の加工と推定される。柱座は特にない。
現地には、下記以外に三宮社六坊を偲ぶものは何もない。
 推定神蔵寺跡?:心礎は「東30m地点で発見」というから、この写真の付近が神蔵寺跡であろうか。
 宮原三宮社社務所:西には社務所があり、あるいは六坊のうちの一坊があったのかも知れないが、確証はない、
 宮原三宮社六地蔵:貞享2年(1685)三宮社に建立されるも、明治の神仏分離で西福寺に遷される。昭和59年元の三宮社に戻されると云う。
 神蔵寺梵鐘:延宝3年(1675)、「宮原妙見社」、黄檗僧鉄眼禅師(小川町出身)の刻銘があると云う。明治の神仏分離の処置で天台宗称讃寺 (八代市鏡町中島野添1303)に遷されると云う。<未見> なお、神蔵寺は八代妙見白木山神宮寺の住職を出すなどの関係があったと云う。
肥後目白不動香峰寺 納骨堂、鉄骨造か。総ニ階堂宇に相輪を載せたもので塔として評価できるものではない。(ニ層塔と評価は出来ない。)
 →九州諸国の擬塔婆形式納骨堂中にあり。
2013/02/09 菩提山正暦寺 再訪 →菩提山正暦寺
大和大安寺 再訪 →大和大安寺
大和塔の宮廃寺 再訪 →大和の塔跡
大和山村廃寺 再訪 →大和山村廃寺
2013/02/03 備中遍照寺 再訪 →備中遍照寺多宝塔
2013/02/
2011/03/11東日本大震災塔婆破損「O」氏ご提供情報
江戸浅草寺 五重塔宝珠部品落下、それに伴うと推定されるアルミ製瓦損傷、現在未修復。
  →江戸浅草寺
下総銚子円福寺 五重塔宝珠・竜車一体部品落下、現在は修復済。 →銚子円福寺
武蔵高幡不動金剛寺 五重塔宝珠・竜車一体部品落下、現在は全体を含め修復済。 →武蔵高幡不動金剛寺
下総芝山仁王尊観音教寺 三重塔伏鉢破断、現在は修復済。 →下総仁王尊観音教寺
2013/01/31 北野天神鐘楼 再訪:現祇園大雲院鐘楼 →山城北野天神
2013/01/10 山城清水寺/泰産寺 再訪 →山城清水寺三重塔/子安の塔
山城清閑寺  →山城清閑寺 古には宝塔があり。
2013/01/01 備中玉島圓乗院三重石塔 再訪 →塔婆参考の項目
2012/12/25 山城北白川滅苦寺跡碑
滅苦寺跡推定礎石1
滅苦寺跡推定礎石2
滅苦寺跡推定遺物

 →直下の山城北白川廃寺を参照
サイト:京 都 風 光>滅苦寺跡 には「滅苦寺跡」として、以下の解説(概要)がある。
 京都造形芸術大の北角(北白川通に面す・左京区一乗寺樋ノ口町)に「滅苦寺跡」の石標が立つ。
 北白川廃寺の跡は滅苦寺跡であると云う。また、粟田氏の氏寺粟田寺であったとも云う。
 あるいは、同区域に独立して存在した別の寺院であるとも云う。
 詳細は不明であるが、奈良前期もしくは白鳳期に創建され、鎌倉期まで存続したと云う。
 貞享3年(1686)「雍州府志」黒川道祐 では、寺は北白川将軍山の西麓にあったと云う。
 昭和9年(1934)周辺の発掘調査により、瓦、瓦積基壇が発見される。
 昭和49年(1974)昭和50年(1975)の発掘調査では、塔跡とみられる正方形の石積基壇が発見される。

しかし、以上の解説で「京都造形芸術大の北角に『滅苦寺跡』の石標が立つ。」、「雍州府志云々」という説明以外は全て「北白川廃寺」として知られている事象の解説と思われる。つまり、この碑は、地元で根強く残ると思われる「 この地に滅苦寺があった」と云う伝承を顕彰するものなのであろう。 そして言外に近年発見された北白川廃寺こそ「滅苦寺跡」に相応しいという思い入れを込めたものなのであろうと推測する。現時点では、具体性を帯びた「滅苦寺跡」の遺構としては北白川廃寺以外には見当たらないのが実情であろう。
 ここには礎石と思われる1個の石と数点の用途不明の石製品が置かれるが、これらが何であるかは不明である。
また、石碑には「滅苦寺跡」「田邊正直也」と刻まれるが、設置者と思われる田邊正直なる人物の情報は皆無で良く分からない。

山城北白川廃寺塔跡1
:中央奥が塔跡、西北より
山城北白川廃寺塔跡2
:写真中央が塔基壇
山城北白川廃寺塔跡3
:駐輪場付近が心礎位置
山城北白川廃寺塔跡4

北白川廃寺東方基壇跡
:北より撮影、南北道路左右の民家が東方基壇跡

在、京大総合博物館裏庭
東方基壇移設瓦積基壇1
東方基壇移設瓦積基壇2
東方基壇移設瓦積基壇3
東方基壇移設瓦積基壇4
東方基壇移設瓦積基壇5
東方基壇移設瓦積基壇6
東方基壇移設瓦積基壇7
:東方基壇西辺の一部を移建復原すると云う。2段の地覆石の上に半裁した平瓦を積み重ねる。28段が現存する。基壇上部は削平され、上端部の構造や礎石配列などは不明。
現在北白川廃寺跡は住宅の密集地となり、地上には何も見るべきものは無いが、以下の経過で、北白川廃寺の姿が明らかになりつつある。
○昭和9年(1634)の区画整理の時、東方基壇(金堂跡と推定)の瓦積基壇が発見され、大量の瓦が出土する。
 「北白川廃寺発掘調査現地説明会資料 2005/12/05」 より
  東方基壇発掘状況1:西北より撮影
  東方基壇発掘状況2:落下しているのは礎石であろう。
   原資料:「北白川廃寺」(「京都府史蹟名勝天然記念物調査報告 第19冊」 京都府
         昭和14年 所収)
  なおこの瓦積基壇の一部は京都大学総合博物館裏庭(館の東)に移転・復原展示される。
○昭和49年(1674)昭和50年(1975)東方基壇の西約80mの地点で、一辺13.6mの方形基壇が発見される。この遺構は心礎抜取穴を伴い、塔阯であることが確認される。 出土瓦などから、創建は白鳳期で、心礎は地上式と判断される。
発掘の結果、この塔の基壇化粧は乱石積基壇であるが、その内側は瓦積基壇であることが判明。つまり、塔基壇は一度改装され、平安前期で石積をし、南北階段を付加、一辺14mと基壇化粧が改装されたものと推定される。
 →平成7年(1995)の発掘でも同様のことが確認される。
 「平成7年度 京都市埋蔵文化財調査概要」京都市埋蔵文化財研究所、1997 より
  北白川廃寺塔跡全景
 出所失念:
  北白川廃寺塔跡全景2
 「北白川廃寺塔跡発掘調査現地説明会資料 1995/09/02」
  塔跡瓦積基壇南東部
  北白川廃寺塔跡発掘図
   原資料:「北白川廃寺塔跡第一次発掘調査概報」(「北白川廃寺塔跡発掘調査報告」北白川廃寺発掘調査団、1976 所収)
○昭和55年(1980)回廊とみられる柱列が発見される。
○平成17年(2004)回廊であることが確定される。
○この廃寺は地名から北白川廃寺と命名される。
 「北白川廃寺塔跡発掘調査現地説明会資料 1995/09/02」
  北白川廃寺遺構配置図
 「北白川廃寺発掘調査現地説明会資料 2005/12/05」 より
  北白川廃寺推定伽藍図
この廃寺の性格は、この地が古には粟田郷に属すことから、粟田氏の氏寺(粟田寺)とも推測される。
さらに、この廃寺は、本地区民の間では、将軍山城(北白川城、瓜生山城(、勝軍地蔵山城)の西に存在していたとされる「めっく寺」(「滅苦寺」)の跡という説が根強くあると云う。
 ※上項のように、現在当地北方に「滅苦寺跡」の石碑と若干の遺物と思われるものが保存されている。この地にあった廃寺を「滅苦寺跡」として顕彰する意図であろうと推測される。
 ※なお、「雍州府志」では、地元民は「目抉寺」と勘違いしており、その勘違いを真に受けた人物が、六波羅密のために自らの目を抉ったと言う逸話が紹介されていると云う。(「雍州府志」の本項を未見のため、文意は少々不明である。) さらに、「滅苦寺」は本来は「苦滅寺」であったとする資料もあると云う。<この項の文意の正確性は暫く留保>
 再度概括すれば、出土瓦から、この廃寺は奈良前期から平安期(もしくは鎌倉期)まで存続していたと推定される。
東方基壇(金堂と推定される)は高さ1.2m、東西36.1m×南北22.8mを測り、地方寺院として破格の規模を誇ると云う。
さらに西方約80mには方形の基壇と心礎抜取穴が発掘され、塔跡とほぼ断定される。
また東方基壇の西では廻廊跡が発掘され、この基壇は廻廊に囲まれると推定され、東に金堂院、西に塔と云う伽藍配置を採るものと推定される。これは東方基壇と塔の基壇の南縁がほぼ一直線上に並立してあり、同笵の軒丸瓦も発見されたことも、この伽藍配置の可能性を示唆するのであろう。
しかし、東西の基壇が離れすぎているので、これ等の基壇は並立する二つの寺院とする異説もある。
山城成願寺多宝塔 再訪 →山城成願寺
山城法金剛院 再訪 →山城法金剛院
山城御室仁和寺五重塔 再訪 →御室仁和寺
山城嵯峨大覚寺多宝塔 再訪 →明治以降の多宝塔中729を参照
山城嵯峨清涼寺
 (嵯峨釈迦堂)
再訪 →江戸前期の多宝塔中664を参照
山城嵯峨常寂光寺 再訪 →山城嵯峨常寂光寺
山城嵐山法輪寺多宝塔 再訪 →明治以降の多宝塔中712を参照
2012/12/07 河内滝畑光瀧寺 再訪 →河内光瀧寺多宝塔跡:多宝塔跡を推定
河内天野山金剛寺 再訪 →河内天野山金剛寺:多宝塔などは平成21年より9年間の予定で修理中のため見学できず。
富田林願成寺五重塔11
富田林願成寺五重塔12
富田林願成寺五重塔13
富田林願成寺五重塔14
富田林願成寺五重塔15
富田林願成寺五重塔16
富田林願成寺五重塔17
富田林願成寺五重塔18
富田林願成寺五重塔19
富田林願成寺五重塔20
富田林願成寺五重塔21
富田林願成寺五重塔22
富田林願成寺五重塔23
富田林願成寺五重塔24
富田林願成寺五重塔25
富田林願成寺五重塔26
富田林願成寺五重塔27
富田林願成寺五重塔28
富田林願成寺五重塔29
富田林願成寺五重塔30
富田林願成寺五重塔31
富田林願成寺五重塔32
富田林願成寺五重塔相輪
2011年竣工、2012年5月落慶。高さ37.27m。一辺は不明。
木造彩色、和様を用いる。伝統工法による建立と思われる。その他の詳細は不明。
屋根本瓦葺。相輪は青銅製鋳造、金箔貼。施工は大成建設。
確かに近年の作では稀に見る大型の本格的な木造塔婆である。
願昭寺は淨心山と号し、真言宗系の八宗兼学真修教大本山と称する。本尊木造目白不動。
Webでは信者の手作りという紹介もあるが、意味するところは不明。
○2011/11/03「X」氏撮影画像:
 富田林願成寺五重塔1     富田林願成寺五重塔2

○2012/12/23撮影:その他伽藍
 富田林願成寺本堂     富田林願成寺鐘楼1     富田林願成寺鐘楼2
 富田林願成寺堂宇     富田林願成寺開山堂

○サイト」:協同組合ウッディ 四万十 より転載
「木材納入、木工事一式 松原木材株式会社」、「野物材を含む構造材製材 株式会社大方官材」とある。
 願昭寺五重塔心柱
 心柱五重屋根裏以上:五重目の屋根裏以上の心柱と推定する。
 願昭寺五重塔五重軸組     願昭寺五重塔五重斗栱
河内明王寺多宝塔 再訪 →明治以降の多宝塔(753)
2012/12/12
「X」氏撮影画像
駿河代立寺多宝塔1
駿河代立寺多宝塔2
平成24年10月13日落慶。近江石山寺多宝塔を模すと云い、伝統様式総檜造り木造塔である。
高さ約15m(49尺5寸)、間口約5m(16尺3寸5分)、軒幅は約9.5m(31尺5寸)。
設計・施工は富士宮市下条の光建業。
代立寺は富士山と号する。寛永6年(1629)西山本門寺16世日映弟子日堯による開山と伝える。西山本門寺末。本堂、庫裏、位牌堂、山門、多宝塔などを備える。富士宮市小泉1917-1。
富士おさんぽ見聞録より:2012/11/25画像入替
塔には「夢合わせ祖師像」「板曼荼羅」を納める。何れも深澤山上行寺(西山本門寺末)で奉られていた什宝である。上行寺は明治初期に廃寺、檀徒は多く代立寺に移り、今般塔に納められた什宝は檀家の柴田氏たちが守ることになる。平成21年、柴田氏から祖師像と板曼荼羅を代立寺に奉納するとの申出がり、寺では多宝塔建立を決める。
 駿河代立寺多宝塔1     駿河代立寺多宝塔2
なお「夢合わせ祖師像」は以下ように説かれる。
 深澤山上行寺を建設中、開基の深澤夫妻は「伊豆国伊東より祖師像が参る」と夢にみた。同じころ、祖師像を奉っていた伊東の某の夢に日蓮が現れ、「大宮の上行寺という新寺に移りたい」と告げたため、某は祖師像を上行寺にとどけたという。この奇縁から「夢合わせ祖師像」と呼ばれる と云う。
○写真は2012/12/12「X」氏撮影画像
近江石山寺多宝塔をモデルとすると云う。木造総檜造。
尾張高徳院瑜祇塔1
尾張高徳院瑜祇塔2
2012/11/17現在:.瑜祇塔が建立中もしくはすでに竣工したものと推定される。
納骨堂として建立。設計図面は阿波薬王寺瑜祇塔を使用か。
高徳院は高野山真言宗。豊明市。
○写真は2012/12/12「X」氏撮影画像
RC造、高さ29m。
2012/12/02 出雲塔の村廃寺伝心礎1
出雲塔の村廃寺伝心礎2
出雲塔の村廃寺伝心礎3
出雲塔の村廃寺伝心礎4
出雲塔の村廃寺伝心礎5
出雲塔の村廃寺伝心礎6
出雲塔の村廃寺伝心礎7
○「幻の塔を求めて西東」:出枘式、200×145×55(見える高さ)cm、径62cm×8cm、奈良後期。
木次廃寺とも称する。出雲風土記の在斐伊郷中新造院に比定される。
 → 出雲風土記・教昊寺/新造院
2012/12/16追加:2012/12/02撮影(早朝)
○現地の説明板:塔の石の由来:天平の頃(730年頃)大領勝部臣虫麻呂、この地に新造院を建立す。出雲で一番大きな寺院であった。塔が建立され、その礎石は地中に埋まっていたが、明治の初め、地区の人が掘り出しこの地に設置する。
塔の石の発掘誌:当時、付近は一面の水田で、この塔の石は今の木次駅のプラットフォーム付近の水田中に僅かに鍬先が触れる程度の深さに埋まっていた。明治初年より、塔の村の病気故障のあるたび、祈祷師や老婆が「埋没せる由緒ある石の祟」、「新造院塔の石を取上げれば、祟は止む」などのお告げや夢告があり、そこで部落民の総意で石を掘り出し、当地に設置する。時は明治6年3月であった。
○埋没・発掘状況や遺構の状況が必ずしも明確ではなく、伝承のとおり奈良期の礎石としても、出枘式と云うやや珍しいかつ多少形の崩れた(磨耗した)礎石であり、俄かに心礎とは断定し難い礎石ではある。
しかし、大きさや明らかに出枘を造作しているなどから心礎である可能性は高いものと思われる。
 木次駅俯瞰:写真中央が駅プラットフォーム、写真右下やや中央よりに白く 写るのが現地説明板であり、ここに伝心礎が置かれる。上述のように伝心礎を掘り出した場所と伝える。
出雲天寺平廃寺 再探索 →出雲天寺平廃寺
出雲神門寺心礎 再訪 →出雲神門寺
備中恵重寺五重小塔11
備中恵重寺五重小塔12
備中恵重寺五重小塔13
備中恵重寺五重小塔14
備中恵重寺五重小塔15
備中恵重寺五重小塔16
備中恵重寺五重小塔17
備中恵重寺五重小塔18
備中恵重寺五重小塔19
備中恵重寺五重小塔20
備中恵重寺五重小塔21
「日本の五重塔総覧」より;
昭和27年建立。構造は鉄筋と云うも、外部は木造である。
組物は伝統的な木組みではなく簡素なものを用いる。
屋根銅板葺。(※近年?屋根はセメント製であったが本瓦葺に修し、朱塗りを施し・・・とあるが、朱塗りを施したのは五重塔であろうが、屋根の葺替は本堂などの話であろう。)
寺院は高野山真言宗、戦後の創建と思われ、塔婆は戦没者供養塔として建立。
 恵重寺五重小塔内部
寺号の「恵」は住職平川恵照の一字と塔施工の宮大工の一字を採ったものと云う。
住職は既に遷化し、その夫人が寺を守ると云う。
なお、南朝の年号である「正平12年」銘の石造延命地蔵菩薩立像を祀る。また付近には同形・同年紀の地藏菩薩3躯があると云う。
 備中恵重寺延命地藏
2012/12/01 出雲鰐淵寺 再訪 →出雲鰐淵寺
出雲日御碕社 推定多宝塔跡・推定三重塔跡 →出雲日御碕社三重塔・多宝塔
出雲杵築大社 ○寛文の神仏分離が行われた前後の杵築大社については但馬妙見三重塔のページを参照。
○「出雲大社由来略記」出雲大社社務所、平成15年版(昭和3年初版)を入手。
 昭和3年の初版で、最近情報も掲載し、現在も杵築大社で販売をしている書籍である。これは国家神道(相も変らず戦前型の記紀神話の宣教とこれも相も変らない戦前型の皇室崇拝)を無批判に宣伝する荒唐無稽な書物であるが、【「<出雲>という思想」原武史、講談社学術文庫1518、2001】で云ういわば「出雲というプライド」は何処に捨て去ったのであろうかという代物である。
要するにこの神社そのものの体質は戦前と何も変っていないということなのであろう。
○現下の杵築大社では以下の宝物館の3点と本殿の「ちゃん塗り」以外に特に見るべきものはない。
宝物館に
「但馬妙見三重塔」の模型(屋内木造模型・特別精巧な模型ではない。)
「紙本著色杵築大社近郷絵図」の模写
「杵築大社并神郷図」(重文・鎌倉中期)の模写 の展示がある。
但し館内は撮影禁止であり、従って写真はない。
現在本殿は平成の改修中である。従って本殿は本殿区画外から屋根を望遠できるだけである。
さる解説によれば、この本殿屋根の鬼板・千木・勝男木などを覆う銅板には、松ヤニ・エゴマ油・鉛・石灰を混ぜた「ちゃん塗り」と云う特別な塗料が使われていたことが判明、今般の修造ではそれを復原し約130年前の大屋根が復原されると云う。
2012/12/01撮影:
 「ちゃん塗り」本殿大屋根1    「ちゃん塗り」本殿大屋根2    「ちゃん塗り」本殿大屋根3
 杵築大社参道1      杵築大社参道2     杵築大社拝殿
  パンフレット「出雲大社周辺町歩き」より
     「ちゃん塗り」       本殿大屋根
  ※「チャン塗り」の例としては、武蔵歓喜院 (妻沼聖天)聖天堂がある。
なお大屋根の面性は約180坪であり、これを約64万枚の檜皮で覆うとも云う。軒先の厚さは約1mに及ぶ。
2012/11/15 山城松ヶ崎檀林 再訪 →山城松ヶ崎檀林
四条妙顕寺 再訪 →四条妙顕寺
京都妙覚寺 再訪 →京都妙覚寺
2012/11/10 備中黒崎妙立寺 備中黒崎妙立寺
2012/11/08 山城深草宝塔寺 再訪 →深草宝塔寺
2012/11/01 山城真正極楽寺 再訪(眞如堂) →江戸後期の三重塔388参照
2012/10/30 攝津能勢日蓮宗諸寺 能勢清正公堂、湧泉寺、能勢妙見
 →攝津能勢妙見山
攝津能勢七寶寺 金属製五重塔:平成18年建立
金属製宝塔:建立時期不明。
 →攝津七寳寺
攝津尼崎本興寺 再訪 →攝津尼崎本興寺
攝津尼崎大覚寺 2011/05/10追加:○「図説尼崎の歴史 上巻」尼崎市立地域研究史料館、2007 より
大覚寺は月峯山と号する。
「大覚寺縁起絵巻」では百済僧・日羅が聖徳太子の命により剣尾山(豊能郡能勢町)に月峰寺を創建するが、
推古13年(605)聖徳太子、百済の日羅上人に命じ長州(現在の大物)に剣尾山を遥拝する「燈炉堂」を建立するのが起源と云う。
建治元年(1275)琳海上人(東大寺円照上人の弟子、石清水八幡宮大乗院座主)尼崎に道場を開き、大覚寺に入寺する。
琳海上人は加茂社の別当も兼ね、長洲荘を支配し、港である尼崎の発展に寄与する。
嘉暦元年(1326)には大覚寺とは別の寺院によって維持されていた河尻(長洲)の「燈炉堂」維持が困難となり、その維持のため「燈炉堂」が 大覚寺に寄進される。
延文4年(1359)足利義詮が当寺に半年間在陣し、本覚寺城とも呼ばれるようになる。
元和3年(1617年)戸田氏の尼崎城築城に伴い、現在の寺町に移転する。
明治10年、火災焼失する。
○「大覺寺絵図」正和4年(1315)を蔵する。
  摂津尼崎大覺寺繪圖     大覺寺繪圖解読図
北側大物川には橋が架かり、湯屋・公方地(幕府役人詰め所)・市庭などが付属する。大覺寺には本堂・三重塔・僧坊・その他堂舎・子院などがあり繁栄した様子が描かれる。
○2012/10/30撮影
 尼崎大覚寺山門
 尼崎大覚寺本堂:本堂は昭和13年再建、RC造。右は能舞台(狂言堂)で近年の建立。
現在の太覚寺は当然寺町移転後であり、しかも明治10年の焼失後の再建であり、長洲時代の往時の姿を偲ぶ縁(よすが)もない。
攝津尼崎長遠寺 再訪 →攝津尼崎長遠寺
2012/09/15
「X」氏撮影画像
加賀十九堂山遺跡心礎
(加賀府南社所在伝心礎)
 →加賀府南社所在伝心礎<十九堂山遺跡心礎>
2012/09/29 出雲千手院多宝塔 再訪 →出雲千手院多宝塔
2006年取壊し、一部の残材(組物)が美作玉泉寺本堂に転用されたものと思われる。
出雲鰐淵寺 古には三重塔があった。 →出雲鰐淵寺
出雲天寺平廃寺 ○「X」氏情報:塔の土壇及び幾つかの礎石が残存すると云う。現況はかなりブッシュに覆われ分かり難い状況である。
 出雲天寺平廃寺塔跡:2008/10/17「X」氏撮影
2010/02/11追加:
○「出雲風土記」で云う「有河内郷中新造院」に比定される。 → 出雲風土記・教昊寺/新造院
標高200mの高さに位置する。大量の丸瓦・平瓦・軒丸瓦・軒平瓦・熨斗瓦・鴟尾などが出土する。
○「図説古代出雲と風土記世界」河出書房新社、1998 より
 天寺平廃寺地形測量図:塔及び金堂跡が示される。なお遺構を塔跡とする根拠は不明。
2012/09/29撮影:
阿宮公民館に「河内郷新造院」の案内標が建つ。
 「河内郷新造院」案内標
当日は下阿宮にあるとの情報だけで、廃寺跡を探す。
寺院住職(真言宗醍醐派延命寺)ほか数名に聞き取りを実施する。廃寺跡真南直下山麓の民家からは侵入道の教示を得る。異口同音に云うのは「近年は廃寺跡に行ったことはない。道はおそらく通れない状態であり、行けるかどうかは分からない・・・」というものであった。山中のブッシュ道には幾つかの分岐があり、位置の把握をしていなかった こともあり、当日は探索を断念する。
後日下記の位置情報を入手するので、後日を期す。
 天寺平廃寺位置図3:下記資料並びに「島根県遺跡地図」などを参照。
なお、地元では「天寺平」を「テンジンピラ」と発するようである。
2012/10/13追加:
○「島根県斐川町文化財所在地名一覧表(斐川町文化財調査報告:23)」 斐川町教育委員会、 2001 より
天寺平廃寺:基壇2、礎石、古瓦、塼 とある。
 天寺平廃寺位置図1:156番が天寺平廃寺である。
○「島根県斐川町遺跡分布調査報告書(斐川町文化財調査報告:10) 」斐川町教育委員会, 1992 より
「出雲風土記」で云う「河内郷新造院」は従来、出雲市上乗寺や同長者原廃寺が比定されていたが、昭和61年当廃寺が発見され、河内郷新造院は当廃寺であろうと俄かに注目された。
廃寺跡は標高200mの山頂に位置し65×45mの平坦部に2基の基壇と瓦溜りが確認できる。出土瓦は奈良後期から平安初期の年代を示す。
 天寺平廃寺位置図2:156番が天寺平廃寺である。
 天寺平廃寺遠望:↓部分に所在する。南から撮影。
2012/09/30 益田墓地公園
畜魂五重塔11
畜魂五重塔12
畜魂五重塔13
畜魂五重塔14
畜魂五重塔15
畜魂五重塔16
畜魂五重塔17
畜魂五重塔18
畜魂五重塔19
畜魂五重塔20
畜魂五重塔21
畜魂五重塔22
畜魂五重塔23
畜魂五重塔24
昭和60年(1985)建立、総高20.3m、RC造。
食肉となった家畜供養のための塔。畜魂五重塔と称する。
(有)大久保養鶏場社長大久保束氏が発起人となり、広く浄財を集め、約1億円の費用で建立と云う。

本塔は山城醍醐寺と大分大建寺深見五重塔と近似するとの解説がある。
設計施工業者は不明なるも、大分大建寺との類似ということから松井建設(株)の建造とも推測される。
 

 

 

 

石見下府廃寺塔跡1
石見下府廃寺塔跡2
石見下府廃寺塔跡3
石見下府廃寺心礎1
石見下府廃寺心礎2
石見下府廃寺心礎3
石見下府廃寺心礎4
石見下府廃寺心礎5
石見下府廃寺塔金堂跡
  :向かって右が金堂跡
石見下府廃寺金堂跡


 

 

 

 

 

石見安国寺全景
石見安国寺正面
石見安国寺山門
石見安国寺本堂
石見安国寺堂宇

上府八幡宮1
上府八幡宮2

一辺約9mの塔土壇を残す。
心礎(花崗岩製)の大きさは2.48m×1.42m、中央部分を方形に削平し、その中央に径82cm、深さ7cmの円柱孔を持ち、さらにその中央に径20cm、深さ 12cmの舎利孔を穿つ。柱礎も2個残存する。
また塔跡西に金堂跡の高まりも残るが、その他の伽藍の様子は全く不明である。
廃寺は下府川右岸の南向きの緩やかな傾斜地にあり、南面していたと思われるも、塔・金堂背後(北)には山塊が迫り、南も傾斜地であり、狭隘なこの地には大規模な伽藍の展開は無理と思われる。おそらくは、塔と金堂と門程度が並ぶだけの小規模なものであったと思われる。
○「日本の木造塔跡」:心礎の大きさは1.3×1.23mで、石一杯に方1.2m高さ1.8cmの造出を造り、その中に径82×5cmの穴を彫り、その中央に径20×10cmの孔を穿つ。さらに穴の底に舎利孔と並んで径6×3.9cmの小孔を穿つ。浅い放射状排水溝2本がある。
 ※記載される心礎の大きさは何かの錯誤であろう、また穴の底に舎利孔と並んである小孔とは何を指すのかは不明、小孔があるとは思われない。
なお、この廃寺は泰林寺跡とも伝承する。
 石見泰林寺心礎実測図:「佛教考古學論攷 四 佛塔編」 より
2010/02/11追加:
○「いにしえの島根 第六巻◆神々と仏の風景」島根県教育委員会、1996 より
 石見下府廃寺発掘調査:1989年の発掘で塔跡西側から石積基壇が発見される。
塔の基壇の一辺は約10m、塔の西側に建物跡を発掘、この建物は一辺約15mの正方形で金堂跡と推定される。寺域も約100m四方であったと推定される。
2011/10/28追加:
○「下府廃寺跡 平成元年度〜平成4年度市内遺跡発掘調査概報」浜田市教育委員会、1993 より
下府廃寺塔跡の発掘調査で、塔柱間2.4m分を確認。左記により、塔一辺は等間と仮定した場合7.2mとなる。
塔跡の地業は基壇よりひとまわり広い範囲に施され、基壇は地山を16cm掘り下げてから地山上20cmまで版築をおこないその上に一括で土を盛る。基壇外装は人頭大の石と瓦片を使用とある。
階段の幅は2mを測り、1段目の高さは30cm。3段程度の石段と推定される。
 下府廃寺寺域想定図     下府廃寺伽藍配置図     下府廃寺塔跡実測図1
 下府廃寺塔跡実測図2
2012/10/06追加:
○浜田市文化振興課情報:
塔は一辺13.2m四方の基壇上に一辺7.2mの塔初重面が復元でき、金堂は東西長15.2m、南北長推定13mの基壇の上に建てられる。指定地は壇状に削られた塔中心部であるが、上面には心礎と四天柱、側柱の礎石が各一個残される。花崗岩の心礎には方形の柱座が設けられ、その中央に直径86cm、深さ6cmの円柱孔があり、さらにその中央に直径21cm、深さ12cmの舎利孔を設ける。
2012/10/06追加:
○「文化遺産オンライン」のページ より
山麓ノ畑地ニアリ方約三十尺ノ土壇ノ上ニ心礎及四天柱礎、側柱礎各一個ヲ存ス。心礎ハ長徑七尺七寸、短徑四尺一寸ヲ有スル長方形ノ自然石ニシテ其表面一部分ヲ殘シテ略方形ニ削平シ中央ニ直徑二尺八寸深サ約三寸ノ圓柱孔アリ更ニ底面ノ中央ニ舍利奉安孔ヲ刻ス附近ニハ奈良朝ノ様式ヲ示セル遺瓦ヲ發見セリ 。
参考:この廃寺の数町東(上府)に石見安国寺および上府八幡宮がある。
○石見安国寺:元々は和銅年中(708-)に創建された福園寺の系譜を継ぐ。永久年中(1113-)天台宗に改宗、その後衰微するも、正和年中(1312-)益田氏により臨済宗として再興される。
貞和2年(1346)足利直義により石見国安国寺に制定される。(「足利直義御教書」)
○上府八幡宮:近世までは国府八幡宮、府中八幡宮と号する。永久年中国司である藤原定道が鎌倉鶴岡八幡宮を勧請して成立と云う。近世(寛文年中)には別当教蔵院(京都聖護院末)が支配する。
明治の神仏分離の処置で本寺仏・太般若経・梵鐘。鰐口などを撤去、安国寺などに移す。
現状はいかにも国家神道で権威づけたような悪趣味の本殿・社務所があるのみで、別当教蔵院の位置など全く不明であるが、強いて推測すれば、現在の社務所の場所にあったのであろうか。 境内からは全く仏教的要素を窺うことはできない。
石見国分寺塔跡11
石見国分寺塔跡12
石見国分寺塔跡13
石見国分寺塔跡14
石見国分寺塔跡15
石見国分寺塔跡16
石見国分寺塔跡礎石1
石見国分寺塔跡礎石2
石見国分寺塔跡礎石3
石見国分寺推定礎石
国分寺塔跡出土遺物
国分寺塔跡出土軒平瓦
国分寺塔跡出土軒丸瓦
石見国分寺出土瓦
国分寺出土塼
国分寺出土仏像
真宗金蔵寺
◎印は現地説明板を撮影
 
方2町の規模をもつ四天王寺式の伽藍であったと伝えられる。
現在は真宗金蔵寺の境内となり、門内に塔の土壇とその土壇に接する礎石と塔土壇とは遊離した若干の推定礎石を残すのみである。
また下に掲載の堀井三友の「国分寺址之研究」によれば、天保5年辛うじて残っていた国分寺薬師堂草堂が焼失、嘉永6年頃石見国分尼寺跡に遷寺して再興され、東光山国分寺と称すると云う。しかるに近年この国分尼寺跡の国分寺も退転し、礎石を残すのみの状態であると云う。(未見) つまりは完全に石見国分寺は廃絶する。
国府物語→石見国 より転載
 東光山国分寺廃屋1     東光山国分寺廃屋3:2005/05/20撮影画像と云う。
○島根県:歴史・観光・見所>浜田市観光>石見国分尼寺 より 転載
 東光山国分寺跡1     東光山国分寺跡2     東光山国分寺跡3
:撮影日時は不明であるが、上掲の2005/05/20の後に撮影したものであろう。
この地は石見国分尼寺跡でもある。
2009/09/14追加:
石見国分寺創建本尊残欠を発見との報道が一斉になされる。
 頭部は松か檜と推定される木製で、総高69.2cm、頭部の長さ42.6cm、幅26.6cmで、座高約120cmと推定される。
曖昧な形状と、焼け残った首の先端部に細かな塑土が残り、恐らく彫刻した後、さらに上から粘土を盛って仕上げる「木心塑像」の技法が使われたと推定される。これは奈良期・平安初頭の技法で ある。
仏像は2005年、石見国分寺から浜田市教委に寄贈されたもので、江戸期の火災で焼け、頭部のみが残ったとされ、石見国分寺の本尊薬師如来像と伝えられてきた像である。
 石見国分寺推定本尊残欠
◇因みに、「国分寺址之研究」堀井三友、堀井三友遺著刊行委員会編、昭和31年 <堀井三友は昭和17年歿>では以下のように記す。
江戸初期には石見国分寺は一農民の所有地に薬師如来の草堂を残すのみであった。寛文5年国分寺村に真宗金蔵寺が創立されるにあたり、旧国分寺址は買収され、薬師草堂も金蔵寺境内に残置された。薬師堂は横5間縦6間の地を占める。
天保5年国分寺薬師堂は火災焼失。よって寺地移転の義が起り、国分寺村尼御所(現在の曹洞宗東光山国分寺の地でありかつ石見国分尼寺址)に国分寺は遷寺することとなる。嘉永元年本寺龍雲寺によって発起され、同6年頃堂宇再興がなり、東光山国分寺となる。
 
※以上によれば、石見国分寺本尊は天保5年まで辛うじて伝えられ、同年の火災で焼失し、その残欠が伝えられたものと推定される。
2011/10/28追加:
「史跡石見国分寺跡・県史跡石見国分尼寺跡 平成14年度〜17年度市内遺跡発掘調査報告書」榊原博英、 浜田市教育委員会、2006 より
推定塔跡から基壇の地覆石と考えられる甎列を検出、さらに礎石は5個を検出し、その内西側の1個は原位置を留めると判明される。
以上などから、塔基壇は12〜14m四方、塔一辺は6〜8mmと推定されるに至る。
 石見国分寺塔阯実測図:昭和60年発掘調査
出雲清水寺 再訪 →出雲清水寺
出雲雲樹寺五重塔跡 ◆雲樹寺中興伽藍絵図
 雲樹寺中興伽藍絵図:瑞山中興図写:雲樹寺蔵、雲樹寺絵葉書より転載
本図の作成年代は不明であるが、中興図とあるので、天文年中の中興図であり、その後、近世になってから写されたものであろう。本絵図の左下部に五重塔が描かれる。
五重塔の履歴は詳らかではないが、中興図にあり、おそらく創建の伽藍整備が行われた室町初期に建立されたのであろう。その後塔は退転するも天文年中の中興の時、再建されたものであろう。あるいはこの中興図が実際の中興図ではなく、古の伽藍の姿を写したものであるならば、再興はされなかったとも考えられる。天文の中興で再興されたのであれば、文政3年までは存続した可能性は高いであろう。
 雲樹寺境内略図:雲樹寺絵葉書より転載 、図の中央付近に「塔阯」の案内がある。
◆雲樹寺五重塔跡
雲樹寺住職の談は以下のとおり。
塔跡と伝える場所が残存する。「塔有」(あるいは「塔在」か)と伝える場所が残る。ただし現地は開墾などで削平された可能性があり、今地上には遺構は何も残らない。 また発掘調査が実施されたことはない。従って地下に何かが残るのかどうかは分からない。
 以上であるが、具体的な場所を教えることは躊躇する。なぜらな、基本的に寺院としては、跡地・寺宝などの所在については不明確なままにして置きたい希望である。それは防犯上の理由である。
 かって雲居寺南方一帯の田畑、西方の宇賀荘小学校などの敷地は背後の山林を含め寺領であり、学校付近には塔頭があったと伝える。しかしこれらの土地は明治維新及び戦後に寺を離れ、現在、寺院としては囲いもない状態である。塔阯にも現在の伽藍のある場所から行くことは可能であるが、それは外部の人間はご遠慮願いたい。塔跡付近はいわば「荒れた状態」のままにして置きたいのが希望である。(寺院の境目としての機能を持たせるということであろう。)
 どうしても塔跡を見たいという熱心な希望であれば、外から行く方法を教えよう。小学校グランドに立ち、太銀杏の樹を探し、グランドからその樹を見て、その背後すぐが塔阯である。云々。
 雲樹寺地図      雲樹寺航空写真
何れも塔阯推定地を明示、この地図・航空写真で判断すれば、薬師堂背後は墓地?と思われ、通路があるように見える。この通路を上り、ブッシュを抜ければ、塔阯に至るように思われる。
 雲樹寺五重塔跡1     雲樹寺五重塔跡2     雲樹寺五重塔跡3     雲樹寺五重塔跡4
◆雲樹寺は元亨2年(1322)弧峰覚明(三光国師)禅師が開山。山号は瑞塔山。臨済宗妙心寺派。
後醍醐天皇、船上山に師を招じ戒を受け、建武2年(1335)国済国師の号と「天長雲樹興聖禅寺」の勅額を下賜する。さらに正平2年(1347)後村上天皇より三光国師号を加賜される。その後北朝に 転ずる。中世には守護京極氏、尼子氏、毛利氏などの庇護を受け、往時は大伽藍と塔頭24ケ院を算する。塔頭は明白庵、雲竜庵、正宗庵、慈雲庵、竜淵庵、回光庵、宝珠庵、臥竜庵、霊通庵、聯芳庵、棲雲庵、雲芳庵、積翠庵、浄照庵、慶昭晏、慶雲庵、大成庵、向陽庵など の名称が伝えられる。
その後衰微するも、天文年中(1532-1554)善瑞和尚により中興、いにしえの伽藍を取り戻すと云う。
近世には松江藩より10石を受ける。
文政3年(1820)大門、山門、薬師堂、庭園を除き、大部の伽藍を焼失、江戸末期より仏殿、方丈、開山堂を再建し現在の姿になる。
四脚門(元亨2年建立、昭和9年に大改修・古材は保存される、重文)、銅鐘(朝鮮古鐘、応永7年銘、重文)、絹本著色三光国師画像(室町、重文)、紙本墨書孤峰覚明墨蹟(正平16年、重文)、紙本墨書後村上天皇宸翰御消息(重文)などの寺宝を有する。
 雲樹寺大門1     雲樹寺大門2     雲樹寺大門3:重文
 雲樹寺山門1     雲樹寺山門2     雲樹寺山門扁額
 雲樹寺薬師堂     雲樹寺観音堂     雲樹寺仏殿     雲樹寺勅使門
 雲樹寺開山堂     雲樹寺方丈
2012/09/06 京都五条大橋橋脚礎石 再訪 →京都五条大橋橋脚礎石
2012/08/15
「X」氏撮影画像
肥後神蔵寺心礎 2011/07/19追加:神蔵寺については次のWeb情報がある。
○神蔵寺塔心礎:宮原下宮後、三神宮内、近世(あるいは中世)。
昭和34年、文化財保護委員により現在地から東30m地点で発見。発見場所及び礎石穴の大きさから神蔵寺の三重塔の心礎と推定。
○サイト「熊本の花所」:「氷川町 宮原三神宮の楠群」に心礎写真がある。(転載)
 ◇肥後神蔵寺塔心礎:大きさなどは不詳、写真では、表面は削平され柱穴と思われる円穴があり、その周囲には柱座とも思われる加工があるように見える。写真で見る限り古代寺院の塔心礎である可能性が強いものと思われる。
○宮原三宮社:社伝では、平治元年(1159)二条天皇の勅命により平重盛が平盛俊(前越中国司)に命じ、八代郡土北郷火村に社殿の造営を始め、応保元年(1161)落慶、社司に平重房(平盛俊弟・その子孫広松家が今日まで続く)を任命と伝える。
天正16年(1588)小西行長の兵乱で焼失、慶長6年(1602)加藤清正により再建、寛永年中以降肥後細川氏の庇護を受ける。
寛文元年(1661)社殿の修復、神蔵寺など六坊が建立され、八代宮地の妙見宮にならい、宮原妙見社と称する。
明治維新の神仏分離で、六坊は廃寺、祭神を国家神道の祭神、天照大神・国常立尊・神武天皇に変更し、社名を三神宮と改号するに至る。
宮原三宮社六坊:神蔵寺・閑光寺・西福寺・護平寺・光沢寺・浄国寺を云う、三宮社社僧。
○「肥後国史」八代郡野津手永宮原村三宮妙見社:
陣迹誌曰、応保元年八月越中前司平盛俊在国ノ時、妙見ヲ勧請シ祠ヲ立三宮妙見ト称ス。
平氏没落ノ後盛俊カ子越中次郎兵衛盛嗣、此社内ニ隠ル、後、都ニ上リ、又、但馬国ニ隠住シ郷民ト戦テ遂ニ討死ス。
○八代には妙見社が五社ある。
竹原妙見宮(竹原神社)・宮地村白木社・宮原村三宮妙見・植柳妙見(旧称・妙見宮)・松崎村妙見
2012/08/30追加:
神蔵寺心礎:形式・法量は「X」氏情報による。
心礎は二段凹式、大きさは168×130〕cm、中央に51×13cmの円孔を穿ち、更に中心点に4×2cmの小孔を穿つ。
※小孔は写真では判然とはしないが、確かに円孔の中心点にあると云う。しかしごく浅いもので、舎利孔や枘孔とは思われず、良く分からない。
 肥後神蔵寺心礎小孔:4個の矢印に囲まれた部分が小孔である。(写真には明瞭には写らない)
※写真では円孔の周囲に柱座を造り出すように見えるが、確証はない。
※文化財保護の関係者は近世のものとするが、形式から古代塔婆の心礎である蓋然性が高いと思われる。宮原三宮社の社伝では三宮社は平安末期の創建と云い、また神宮寺も近世の建立と云われ、以上を信じかつ神蔵寺に塔婆が建立されたと云うことであれば、心礎は平安終末期〜近世のものと判断されるのであろう。しかし、形式上は平安終末期〜近世のものではありえない。
想像を逞しくすれば、未だ知られていない古代寺院があり、この寺院の心礎ではないだろうか。 
熊本長洲霊廟 納骨堂と推測される。RC造か。熊本県長洲町長洲、おそらく公営の霊廟と思われる。
肥後妙音寺二重塔 納骨堂と推測される。RC造。熊本県宇城市小川町小川10、曹洞宗。
2012/07/31
「X」氏撮影画像
武蔵実相院多宝塔 (2011/08/24追加)多宝塔建立中:設計施工は翠雲堂、翠雲堂に概要の記載がある。
平成23年7月着工、平成24年9月竣工予定。木造多宝塔、一辺19尺(5.75m)、総高約61尺(18.5m)、大型の本格木造塔と思われる。
 実相院多宝塔完成予想図
世田谷区弦巻3-29-6、曹洞宗、鶴松山と号する。勝光院末。
天正16年(1588)開基は吉良左兵衛佐氏朝、天永琳達(勝光院中興山)の隠居寺として創建と云う。
慶安元年(648)10石の朱印を受ける。
2012/08/30追加:外観は禅宗様を基本にする木造塔である。未だ扉は未取付。基壇は壇上積。
2012/07/30
「X」氏撮影画像
日光山五重塔心柱 日光山五重塔初重内部が公開される:公開期間は2012/05/-2013/03である。
初重内部が公開(写真撮影は禁止と思われる)され、それに付随して椽下の柵の間から心柱及び心礎を観察することが可能と云う。
 →日光山五重塔
2012/07/22 丹後如意寺ニ層塔1
丹後如意寺ニ層塔2
丹後如意寺ニ層塔3
丹後如意寺ニ層塔4
丹後如意寺ニ層塔5
昭和58年落慶。高さ26m。寺では重層宝形造と称するも、ニ層塔に分類すべきものである。
下重平面は3間、上重も3間に造るも、上重平面規模は下重の身舎に相当する中央1間に等しい。
つまり下重中央1間の梁上に上重3間の柱を建てる。従って上重の平面規模は極端に小さくなる。
下重の天井・上重の床は設けず、内部は吹き抜けとなる。屋根本瓦葺。唐破風の向拝を付設。
中村淳治氏の設計。本尊は不動明王で、不動堂とも称する。十方閣の扁額を掲げる。
宝珠山と号する。真言宗。行基菩薩の開山と伝える。本尊:十一面観音。
鎌倉期は寺領五百石、七堂伽藍、塔頭十二坊があったと云う。
多宝小塔:ニ層塔内陣に木造多宝小塔がある。近年のものと思われる。
 丹後如意寺多宝小塔1     丹後如意寺多宝小塔2
 丹後如意寺仁王門        丹後如意寺本堂
丹波日圓寺塔跡11
丹波日圓寺塔跡12
丹波日圓寺塔跡13
丹波日圓寺塔跡14
丹波日圓寺塔跡15
丹波日圓寺塔跡礎石1
丹波日圓寺塔跡礎石2

綾部市井根町寺の段34
○日圓寺に塔跡が残る。「X」氏情報では塔跡は寺院西の民家の裏手の山裾にある。現地には礎石と思われる石が7個残る。三重塔と伝承する。以上のほかは詳細不詳。
2009/11/08:「X」氏撮影画像
 丹波日圓寺塔跡1        同    塔跡2
○現地案内板:中照山と号する。高野山真言宗。天平19年(747)行基の開創と伝える。
頭巾山、君尾山、蓮ケ峰、弥仙山等修験道の一連の行場として開かれた寺院であろうか。
延喜22年(922)空也上人再建とも云う。
日圓寺のページ中の「日圓寺縁由記」では
「とりまく力蔵坊、明王院等の十九坊及七堂三門、弥陀の玉堂、五間表多宝塔、鐘楼、仁王楼閣、護摩堂等その結構(すがた)は善美を尽し、珠髪は日に映え、宝鐸は月に輝き、遠くは華水山日閼伽(あか)の潤(たに)、近くは湯屋を呼称する浴室を構え、殿内二季修制す。」とある。
 ※五間表多宝塔とは不明ながら、初重平面5間の大塔形式の塔を意味するのであろうか?
近辺には塔跡・仁王門跡や寺の段・奥の坊・湯屋・仁王堂の坂など地名を残すと云う。高野山真言宗、現在は無住、丹後舞鶴円隆寺住職が兼帯。
○2012/07/22撮影:
塔跡は石造五重塔及びその基壇の廻りに礎石と推定される7個の石が置かれる。
但し、この石は全て浮き、また塔の東西南北四辺のどの辺にも4個の石が揃わず、かつその置き方は大雑把であり、従って原位置を動いているのは確実であろう。
しかしながら、以上のように石は動かされるも、現在置かれている石は敢えて原位置に近い場所に再配置されたと仮定すれば、四隅の石の間隔を計測することにより、塔の一辺を知ることが出来る。そこで四隅の礎石の各辺の間隔を実測すれば、 各辺とも凡そ360cmであり、あくまで現在置かれている石は原位置に近い位置に置かれているとの前提ではあるが、塔一辺は、およそ360cm程度であったと見ることができる。
 丹波日圓寺塔跡11     丹波日圓寺塔跡12     丹波日圓寺塔跡13
 丹波日圓寺塔跡14     丹波日圓寺塔跡15
 丹波日圓寺塔跡礎石1     丹波日圓寺塔跡礎石2
 丹波日圓寺塔跡遠望:写真中央の独立墳丘の叢林の中に塔阯がある。向かって右に現日圓寺本堂がある。
 日圓寺塔跡五重石塔1     日圓寺塔跡五重石塔2
 日圓寺塔跡五重石塔3:石仏       日圓寺塔跡五重石塔4:宝篋印塔
石佛と宝篋印塔以外の1面には「中照山 日圓寺 ■雄」と印刻、もう1面には多くの文字が彫られるが殆どの文字が判読できない。石塔の年紀など不明。
 丹波日圓寺参道:写真突き当たり正面が現庫裏
 丹波日圓寺本堂     丹波日圓寺庫裏

丹波大福光寺多宝塔 再訪 →丹波大福光寺
2012/07/21
  〜07/22
但馬城崎温泉寺 再訪 →但馬城崎温泉寺
2012/07/21 但馬妙見三重塔・但馬帝釈寺妙見・但馬日光院 再訪 →但馬妙見・出雲杵築大社三重塔
但馬赤渕大明神 再訪 →但馬赤渕大明神
養父市設置妙見三重塔模型1
養父市設置妙見三重塔模型2
養父市設置妙見三重塔模型3
養父市設置妙見三重塔模型4
八鹿町丸山川左岸国道沿にある。養父市教育委員会が妙見三重塔のモニュメントとして設置したものと思われる。
1/5程度のスケールと思われる。木造ではあるが、駄作である。妙見三重塔と銘打つも、三重塔の形式であるという以外には、妙見三重塔を模したと評価できるものではない。建築や模型とは程遠い代物で、簡略な構造物でしかない。
なお相変わらず、知っているにも係らず(知らないはずがない)、設置者は「名草神社三重塔」との標記をするが、「妙見三重塔」と標記すべきであろう。
野崎邸妙見三重塔模型 朝来市野崎邸に但馬妙見三重塔模型がある。野崎邸は丸山川左岸和田山町枚田付近(赤渕明神のほぼ東300m付近)の県道沿(東側)にある。野崎氏はおそらく建築業を営むものと推定される。
一見した印象では妙見三重塔を忠実に再現したものと思われる。
塔模型は小屋の中にあるが、道路から見学が可能であるが、訪問時は家人は不在のため写真の掲載はなし。

過去の訪問塔婆履歴