妙見大菩薩・妙見信仰 本ページの事例は仏塔・木造塔婆遺跡・日蓮宗関係寺院や神社などを廻る過程や、 参考文献: |
陸奥湧谷妙見社 |
伊達家一門の湧谷伊達氏は千葉氏の流れを汲むと云う。 伊達宗元:元禄10年(1697)湧谷妙見社修理造営。(現存) 伊達村常:享和2年(1802)妙見社奥院を造営。 明治の神仏分離で神明社と改称したと思われる。 |
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陸奥(磐城) 相馬妙見 |
2012/09/15加筆・修正: ■相馬太田妙見:南相馬市原町区中太田舘腰143 元亨3年(1323)千葉氏一族の相馬重胤が下総相馬郡より妙見菩薩を奉持し、行方郡太田に移転し館を構え、この地に千葉妙見を祀ったと伝える。 【A】別当は当初は長命寺であったが、のち歓喜寺が別当となる。(小高に移転の後と思われるが)新寺を建て星蔵院と名づけ別当とする。星蔵院は歓喜寺末寺。(江戸期には真言宗亀岡山妙見寺星蔵院が別当であった。) 別当星蔵院は太田神社東南の祈祷殿と改竄され、現存する。 この地は、現在相馬太田神社と称し、天之御中主を祭神とする。 明治の神仏分離で太田妙見は相馬相馬太田神社と改竄され、妙見社は相馬太田神社と改号、妙見菩薩は尊星院に遷され、アメノミナカヌシへの祭神変更が行われる。
□大甕山尊星院医徳寺:大甕村(南相馬市原町区大甕)
赤木山長命寺: ■相馬小高妙見:南相馬市小高区小高字古城 嘉暦元年(1326)相馬重胤は本拠を行方郡太田より小高に移す。 一般的には相馬氏移転とともに、妙見菩薩も遷されたと云われるが、小高への妙見菩薩遷座にあたって、妙見菩薩像が重くて遷すこと能わず、小高には新しく妙見菩薩を勧請したと伝える。 この地は、現在相馬小高神社と称し、天之御中主を祭神とする「明治創建の国家神道神社」となる。 ※明治4年の神仏分離の処置で、小高妙見の祭神変更と改号が強行される。 本尊妙見菩薩は金性寺が奉持し、この地から移転する。 □金室山金性寺: ■相馬中村妙見:相馬市中村 慶長16年(1611)相馬氏17代利胤、小高城より中村に移り、相馬6万石の居城となし、馬陵城(中村城)西側(妙見郭)に妙見菩薩を勧請する。 この妙見菩薩は小高から遷座したものと記録されていると云う。 寛永20年(1643)、現存する本殿・幤殿・拝殿(いずれも重文)が、相馬18代義胤により造営される。 ※本殿は寛永20年(1643)の一間社流造(重文)である。拝殿幣殿本殿を結合した権現造に似た形式である。 明治5年神仏分離の処置で、中村妙見社は中村神社(明治28年には相馬中村神社)と改竄され、天之御中主を祭神とする国家神道の神社となる。 社務所は歓喜寺末寺「北斗山妙光院」を転用すると云う。 妙見菩薩は正別当歓喜寺が奉持し、歓喜寺本堂内宮殿に遷座する。 ※中村妙見菩薩の像容は中国風の服装で、亀の上に立ち、切っ先を下にした劒を持つと云う。 □妙見山歓喜寺:現在は豊山派。
相馬氏: |
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上野 七星山息災寺 |
現在は天台宗三鈷山妙見寺と称する。 神亀6年(728)河内天白山妙見寺より妙見菩薩が上野国花園に勧請され、天台宗七星山息災寺と称したことに始まる。但し異伝もあるとされる。 「千葉伝考記」の「平良文の事」:承平元年(931)、常陸大掾国香と平良兼・良文・将門が争い、良兼・良文はたびたび国香の軍勢に敗退する。7月染谷川の戦いで は、息災寺妙見菩薩が良兼・良文を助けたと伝える。 良兼は妙見の尊体を求めるために、息災寺を訪れ、尊像を持ち去って、良文の館(武蔵平井<群馬県藤岡市西平井>)に祀ると云う。 その後、良文は妙見菩薩を平井から大宮神社(大宮郷妙見社)に遷座するという。(現秩父神社) 【A】:「源平闘諍記」では花園村の寺、「千葉妙見大縁起絵巻」「下総国千葉郷妙見寺大縁起絵巻」などでは七星山息災寺と云う。平良文・将門が国香と争った時、敗退した良文らを息災寺の妙見菩薩が助けたとされる。 2005/08/28撮影: 三鈷山妙見寺はその境内の西に妙見宮・東に本堂を並立して配し、明治の神仏分離以前の姿を今に伝える。 (但し、現在の配置が明治の神仏分離以前の形なのかは不明です。しかしながら息災寺という仏閣に妙見菩薩を祀り信仰した一つの形とはこのようなものかという雰囲気を色濃く残す。神仏分離の措置である神社と寺院との判然とは、いかに理不尽な処置であったかと実感でき る。)
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越前鯖江長泉寺山妙見堂 |
本妙見堂由緒などについて、Web上、殆ど情報がなく、不明である。 唯一、昭和48年4月発行の「広報さばえ」には「妙見堂(尼寺)」との表記があるので、昭和48年当時は妙見堂には尼僧が住居していたものと思われる。 現在(2017年)、堂宇は完全に倒壊し、倒壊後もかなりの年月が経過するものと思われ、堆積した木材等の腐朽を待つのみである。 2007年9月24日(月)に散策の記録と思われる「長泉寺山 (112.6M)」というページに、10年前の妙見堂の写真がある。建物の姿ははっきり写ってはいないが、2007年には荒廃した堂宇が残っていたものと思われる。 2007年鯖江妙見堂 「冷や飯の散歩ブログ」>「長泉寺山(3)展望台〜妙見堂」 2009-07-14のページにも2枚の妙見堂の写真がある。 荒廃したバラックのような堂宇が写る。これらの写真から判断すれば、倒壊前の堂宇はバラックで、妙見堂としては一般的な拝殿・本殿が連結したような建築ではなかったようである。また、妙見堂の石階の左右には一対の石灯篭が配置されていたようである。2009年にも堂宇は残る。 2009年鯖江妙見堂1 2009年鯖江妙見堂2 2016年12月04日の「長泉寺山 〜またの名は西山公園〜」のページに石灯篭が写るが、向かって左の石灯篭は倒壊したのであろうか、右側に移設され一部部材は散乱する状態となっていることが分かる。 2016年鯖江妙見堂石燈籠 2017/11/05撮影: 鯖江妙見堂石灯篭1 鯖江妙見堂石灯篭2 鯖江妙見堂石階:但しコンクリート製 鯖江妙見堂残滓1 鯖江妙見堂残滓2 鯖江妙見堂残滓3:中央に写る石列は建物基礎? 鯖江妙見堂庫裡1 鯖江妙見堂庫裡2:庫裡と思われる、おそらくかっては尼僧が居住か。 |
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下総妙見寺 (千葉妙見) |
本尊妙見菩薩は承平元年(931)平良文(千葉氏遠祖)・平将門が平国香と染谷川で合戦したとき、上野花園村七星山息災寺妙見菩薩が出現し、勝利したと云う。以来。妙見菩薩は一族の守護本尊とされる。 長保2年(1000)年に千葉忠常(平忠常・良文の孫)次男・覚算大僧正が北斗山金剛授寺尊光院を創建・開山。但し、長元2年(1029)とも云われる。 大治元年(1126)千葉常重が上総大椎から猪鼻(現在地)に移り、妙見菩薩も遷座する。 康正元年(1455)猪鼻城落城、妙見宮焼失。妙見菩薩は尊光院客殿に遷座。 天文19年(1550)妙見宮再建。本尊は仮宮より遷座。 天正19年(1591)徳川家康が寺領200石を安堵。北斗山妙見寺と改号される。 明治の神仏分離で妙見寺は廃寺の措置となり、千葉神社とされる。祭神は天之御中主と変更される。 明治6年妙見堂を残し、焼失。 明治37年神主千葉良胤が焼死するも、右手には妙見菩薩の剣を握っていたとされる。 (妙見菩薩は神仏分離での祭神変更後も、密かに護持されていたと云われる。) 大正4年再建、昭20年空襲により焼失、昭和29年再建、平成2年重層本殿新築。
【C】「妙見信仰と武士団形成」(千葉氏の場合)丸山啓司 |
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関東檀林 | 次にあげる関東檀林に鎮守として、妙見が祀られたことが記録上に残る。 下総飯高檀林(飯高寺・法輪寺)、上総小西檀林(正法寺)、下総中村檀林(日本寺)、身延山西谷檀林、池上南谷檀林 |
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下総香取郡(多古町など)の妙見社 ○下総沢妙見菩薩 全く情報が無く、一切が不明。 2023/10/20撮影: 下総沢妙見菩薩1 下総沢妙見菩薩2 下総沢妙見菩薩3 下総沢妙見菩薩4 下総沢妙見境内石祠:道祖神? ○下総大堀星宮神社(妙見社) 中世には大堀城跡に祀られていたものであろう。(「八日市場市史」) 「八日市場市史」の記述には何の手掛かりもないが、社名が「星宮」であること、紋は七曜が使用されていること、この地方の千葉氏支配の傾向から妙見社であることは間違いないであろう。 2023/11/29撮影: 大堀妙見社 大堀妙見社拝殿 大堀妙見社本殿1 大堀妙見社本殿2 大堀妙見社本殿3 大堀妙見社本殿4 大堀妙見社本殿5 大堀妙見社本殿6 ------------------------------------------------------------------------------- 以下は「多古町史」に記載される妙見社である。 現・多古町は下総香取郡、この地方一帯も中世は千葉氏一族の影響が大きく及び、おそらくそれに付随して妙見菩薩も多く祀られるようである。 具体的な妙見社は「多古町史」の整理がついたら、順次掲載する予定である。 ■下総常盤村>東松崎--------------------- ○松崎妙見社 字松葉1927番地(※松崎檀林西側)石井家宅地内にあり、同家に、厚板に彫られた次の一文が伝えられている。 「下総国香取郡塙、松崎村三軒統也 往昔者渡神之台社有之、其後文永元年甲子(1264)宗祖大菩薩御出之節妙法山御開眼被遊、依之石井武右衛門改之者也 宝暦十庚辰(1760)正月廿八日 大工石井利兵衛彫之者也」 さらに同家の別の古文書には『引越名称の来由』と題して「塙引越部落は 昔は西岱渡り神に居住したるものなるが領主■■の矢作殿にギャクタイをされ 現在の地へ引越たる為引越と云う様になった、当時一番先きに三軒引越 其の縁をもって三軒統と云う」このように書かれている。 こうした文書と、千葉氏の守護神でもある妙見尊が、どのような関係があるのか、その有無を含めて、不明である。ともあれ現在は個人の氏神として祀られているが、かつては、開運の霊験あらたかであったことから大勢の参詣者が訪れたものである、と家人は語り伝えている。 ■下総常盤村>南玉造--------------------- ○玉造妙見 「多古町史 上巻」1027〜 妙見神社 南玉造字小玉673番地で、同集落東側台地上にある。 『常磐村郷土誌』には「弘安10年丁亥(1287)二月朔日北辰妙見大菩薩勧請、日蓮宗ノ僧日位、匝瑳郡玉造郷小玉領主、野平伊賀守常弘ノ為ニ之ヲ創建セリ、常弘居城ノ守護神タリ、明治元年・星宮神社ト改称ス、天御中主神ヲ祀ル」と記される。 明治の『社寺台帳』には、 千葉県管下下総国香取郡常磐村南玉造字小玉 熊野大社末社 妙見神社 一、祭神 天御中主神 一、由緒 不詳 一、社殿間敷 竪九尺横九尺 拝殿間口四間半 奥行二間 一、境内坪数 弐百拾坪 一、信徒人員 四拾五人 と記されていて、毎年二月一日に例祭が行われている。 境内にある一基の石宮に神名はなく「大正十一年二月朔日願主黒須きち」とあり、石造の手洗いには「奉納 大正十年辛酉二月一日 願主当区 黒須重次郎 雪堂書」とある。黒須重次郎は、欧州に留学して耳鼻咽喉科の権威として著名な黒須巳之吉博士の父。雪堂は旧玉作城家老富澤内蔵之助の後裔で 止々園を継ぎ、俳人・書家として知られている。また「黒須きち」は黒須博士の母である。 祭神の妙見尊は千葉一族の守護神であることから、玉造城主との関係は深かったものと思われる。 ※鳥居横に妙見社の社号碑が建つ。 2023/10/19撮影: 玉造小玉妙見参道・拝殿 玉造小玉妙見本殿1 玉造小玉妙見本殿2 ○北中村宮妙見社 下巻194〜 道祖神の東側で字水内の451番にある。畑作地の中に槇などの老木に囲まれた小森林中にある。 当集落の鎮守神として祀られ、『中村神社明細帳』には 千葉県管下下総国香取郡中村北中字水内 無格社 妙見社 一、祭神 不詳 一、由緒 不詳 一、社殿間数 間口三尺五寸 奥行三尺 一、境内坪数 百九拾七坪 一、信徒人員 拾三人 とあり、詳細はわからず、記録に残るものもない。本殿には竜の彫刻が施されている。前面に石燈籠があり「妙見宮 御神燈 北中宮氏子中 文化8辛未年(1811)八月朔日」と。石の手洗いは明治24年一月奉納のもので、平山寿静 大木伝蔵 小川朋光 小川茂三郎 小川竹次郎 大木高蔵の名が刻まれる。 2023/10/18撮影: 北中村宮妙見 北中村宮妙見鞘堂 北中村宮妙見常夜燈:銘文は上に有 北中村宮妙見本殿 ●下総常盤村>川島・方田・坂--------------------- ○川島星宮大神(七島妙見大菩薩) 「多古町史 上巻」821〜 字妙見越308番地、村の東南端、栗山川耕地に面した県道沿いにある。境内右手に御手洗池があり、側に幹回り30cm余の藤の古木がある。神社の裏には目通り3m余の樅の古木があり、神社を象徴する神木といえよう。 由緒・縁起 星宮大神は別称「七島(ななしま)妙見」と呼ばれているが、それは、神社を中心に、七つの小さな島丘があって、そこに柊の古木が茂っていたことによるという。神の木として七方に点在する島に柊を植えたものであり、それに北斗七星のかかわりをもたせて、七星、星宮大神と称したものであろう。 なお、節分の日に、厄除けとして家の入口に柊の枝を差す風習がこの地方にあったが、川島では行われていないという。 明治の「神社台帳」は次のように記す。 千葉県管下下総国香取郡常磐村川島字ヤシロ 無格社 星宮大神 一、祭神 天御中主命 一、由緒、元和二丙辰年(1616)勧請ノ由 古老ノ口碑ニ存ス 一、社殿間数 間口壱間 奥行壱間 一、拝殿間数 間口三間 奥行弐間 一、境内坪数 弐百参坪 一、信徒人員 弐拾三人(以下略) 祭神の天御中主命は北斗七星を神格化したものといわれ、北総地方一帯を領有した千葉氏の守護神であったためか、おおむね各村に一社は祀られる。なお、祭日は毎年二月二十日となっている。 寛政四年(1792)前後に、江戸の高名な歌舞伎役者や豪商が参拝しており、社宝も豪華なものが保存される。当時、当村浅右衛門家に生まれた鈴木勘左衛門は、江戸に住んで東暁と号した才人であるが、ここに「五十首和歌」の額を奉納する。勘左衛門は、文芸に長じ、画も良くし、江戸の粋筋との交流もあったといい、故郷の星宮大神への奉献物について多くの功績を残す。 本尊は二体あって、ともに木製の立像であるが、一尊は出開帳用のものらしく小形である。 神鏡は直径46cmあり、白銅製で、裏面には「人見出雲守、藤原保秀」とある。 神剣は全長93cmの直刀で、双刃の刀身に「南無七島妙見大菩薩」、茎(なかこ)(柄の部分)に「水府住穂積弘近」、箱書には、「天明六年(1786)二月 鈴木勘左衛門 統春(花押)」とある。鰐口は二個あり、直径35cmのものには、「下総国香取郡川島村十三日講中 奉納御宝前 明和二乙酉年(1765)正月吉日」直径20cmのものには「延宝第三乙卯天(1675)七月吉日 八代嗣日東 下総国川島村妙見山常住 願主権兵衛」と刻まれる。 また、錦の幕が幾張かあり、その裏に奉納者の名が次のように墨書されている。「森田勘作 市川団十郎 中村富十郎 同のしほ 山下金作 大谷広右衛門 金井半兵衛」などである。 当社の奉納物で特異なものがある。その一つは、羽子板に巻物を一巻から三巻つけたもので、拝殿の天井から壁にそって重なるようにびっしりと飾られている。尨大な数である。かつては堂の周囲にも無数に掛けられてあったという。 また外側の正面には歌を寄せ書きした額が並び、巻物も見られるが、風雨にさらされて傷んでいる。巻物は長さ三〜四メートル位、細字で梵字風の文字が三行書かれ、同文が繰り返しその全面に記入されている。信仰心の深い人々が心魂を傾けて奉写したものであるという。 本殿入口の左右には、衛士として右大臣左大臣像が置かれ、拝殿の欄間に並び掲げられた絵馬には、当時の役者の姿が鮮やかな色彩で描かれる。 和歌を刻んだ三面の額は、「奉納五十首和歌」と題書され、その末尾に「安永五年(1776)六月 惣者勧請 統春奉納」と結ばれているが、文字が風化されて解読が困難である。 ■下総中村>南中------------------ ○中村高田妙見社 「多古町史 下巻」38〜 字高田1328番の1に所在。 周囲に堀をめぐらし、一見して城跡と思われ、口伝にも、千田胤貞が居城とし、その守護神として勧請されたものという。 高田の家々を真下に見、栗山川の流れから多古の町並み、島城跡、さらには光町篠本地区一帯を眺められる台地の突端である。 現在の参道は多古に近い家並みの端にあり、胸を突く急坂は曲折して、近づく人を拒む。昔の水の汲口でもあったかと思われるところを登り切ると、雨履いのついた本造社殿がある。 本殿を開扉すると、その中には妙見菩薩の木像一基が祀られる。それは約30cmほどの座像で、江戸期のものと思われる。 また「奉祭礼鎮守妙見大士 元禄十四年辛巳(1701)正月十五日」と書かれた一枚の木札があり、さらに「巨栄山徳成寺開基 飯土井城々主 千葉大隅守胤貞公 後徳院殿日叡大居士 建武三年(延元元=1336)十一月二十九日遷化」の位牌と、胤貞と思われる人物を模写したものの写真版が額に入れて安置される。 胤貞については別項にて詳述の通りである(※「日常・日祐・千葉胤貞・芝徳成寺・日胤・高祐山東福寺・日貞」の項を参照)が、千田庄領主で千田を姓とし、その猶子・日祐を援けて日本寺の創建に尽した人物である。 このことは同寺と関係の深い中山法華経寺の元徳三年(1331)九月四日付で、「下総国千田庄原 中村 金原三ケ郷の内の田地を譲与する」とした胤貞から日祐に宛てた文書からも明らかである。 また、この位牌にも記すように、飯土井城主であったことが伝承に残るが、その城砦は別に「分城」といわれ、現在「お馬場」と称されている約一町五反歩ほどのところで、江戸期に多古領主松平氏がそこを馬場としたともいわれる。いまは、わずかに土塁を見ることができる。南中字飯土井台1656と、同1974番地がその場所である。 境内わきの畑地側には大きな空壕と築堤がめぐらさ、本殿裏(西方)の空壕を越えると、一段と高い小丘になっているが、これは物見塚かと思われる。 さらにその北側は低地となって「寺山」と呼ぶ山林で、「芝の徳成寺跡」であるといわれている。 ※ →中村徳成寺は「下総中村>南中中」を参照。 同じ城跡にあったためか、徳成寺は妙見社の別当で、正月十五日のお備社に際しては徳成寺住職が祈禱し、後に神主が祝詞をあげる慣習であるという。神仏混淆の名残りともいうべきであろうか。 なお、同社東方一帯からしばしば土器片を出土することがある。それは、「一の屋敷」と呼ばれるところであるが、湖沼地帯であった場所を避けて高台に生活した古代人の、一般的な住居跡と思われる。 この社は、一説には村の旧家であった依知川忠右衛門家の氏神であったともいわれているが、今は高田の産土神として、その営繕・運営は全戸によってなされる。 昭和3年に、時の南中区長平山仁助が社掌松崎重雄に宛てた報告書には、次のように記される。 千葉県香取郡中村大字南中字高田 無格社 妙見社 一、祭神 天御中主命 一、由緒 寛永10年(1633)五月 佐倉少将大炊頭勧請 一、社殿 本殿 一、境内 二百五十坪 一、氏子 九十四戸 (以下略) 祭神の天御中主命は妙見様の異名であり、千田胤貞を含めた千葉氏一族の信仰が深く、北斗七星を神化したものである。 境内には、村人の信仰心の厚さを偲ばせる奉献物も多く、文化十一年(1814)の手洗い、文政五年(1822)に柴田太治右衛門、依知川さん女、それぞれの寄進による石燈籠一対がある。文久二年(1862)の燈籠一対のうちの一つには「御神鐙維時文久二龍集壬中冬吉辰 当処願主柴田太郎兵衛」、他の一つには「御神鐙維時文久二龍集壬戌中冬吉辰当処寄主宇井紋四郎」と刻まれる。また、松と亀の絵を刻んだ板石があり、これは明治32年に当所宇井氏が奉納したものである。 石段の竣工は大正11年12月。花崗岩で造られた鳥居は昭和37年の建立である。 また、同社域内本殿の左手に、やや小型ではあるが同型の社殿があり、これには鬼子母神が祀られる。 社殿前にある石燈籠には「奉納御宝前 文政五壬午(1822)正月吉日 高田女講中」と刻まれる。 2023/10/18撮影: 城址・妙見社のある位置は比高30mと云う。 徳成寺は南中の芝の現存する。 飯土井城址見取図 高田妙見石階 高田妙見宮 高田妙見覆堂:向かって左は鬼子母神 高田妙見本殿1 高田妙見本殿2 文政五年石灯篭 文久二年石灯篭 松と亀の線刻板石:一見何の文様かは不明であるが「多古町史」では「松と亀」の絵という。 高田鬼子母神 中村徳寺跡 推定寺山徳成寺址1 推定寺山徳成寺址2 推定徳成寺址墓碑:中央は唱題一万九千部成就、両脇は守玄院日相・壽本院日言の墓碑であろう。徳成寺歴代の資料がないので断定はできないが、日相・日言は歴代ではないと思われる。向かって右の墓碑は享保四年・同八年・同十五年の年紀である。 中村飯土井城跡 飯土井城空堀1 飯土井城空堀2 飯土井城空堀3 ○南中村正峰山妙興寺妙見堂 →南中正峰山妙興寺に妙見堂あり。 ○南中村竹林山妙光寺(唐竹)妙見堂 →南中村唐竹妙光寺に妙見堂あり。 ○南中村巨栄山徳成寺 →南中村巨栄山徳成寺<下総中村>南中中>に妙見堂あり。 千田庄領主千葉胤貞は居城を飯土井台に構え、その鎮守神である高田の妙見社の別当常心坊を城内に建てて祈願所とした(また、妙見社西側の寺山に祈願所を建てて別当寺としたとも)が、これが後の徳成寺であるという。 →上に掲載の中村高田妙見社参照:妙見社別當が後に徳成寺となるという。 ■下総中村南和田・南借当・南並木 ------------------ ○南借当高皇産霊社(※妙見社) 「多古町史 下巻」289〜 ※「多古町史」では高皇産霊社との項目を立てるが、一般的な地図では妙見宮との標記がなされる。祭神には妙見尊が併祀される。 集落北方の高台、字台442番地にある。境内山林七畝一四歩。 当社についての古記録は見当たらないが、ここに一通の報告書がある。 拝啓、去ル一月十六日附ノ御照会ノ件左ニ御回答申上候間、此如得貴意候也 昭和三年一月二十三日 右区長 並木政吉 氏子惣代 並木長次郎・鎌形弥十・三枝桂次郎 社掌松崎重雄殿 記 一、従来ヨリ毎年陰暦一月十五日集合礼拝シ居ル。 二、営繕ニハ常ニ心懸ケ、逐次茅屋根ヲ亜鉛葺ニスル計画ナリ。境内ハ夏期一回必ス草苅ヲ行イ、空地ニハ苗木ヲ植込ム事ニ勤メ居ル。 三、涵養ノ為メ児童ノ主ナル者ト青年団員ハ、常ニ神社ノ周囲ヲ掃除シ、其往復道路ノ手入レニ努力シアリ。 四、崇敬心ハ従来ヨリ神社モ寺院モ混合ノ旧慣ナリ。殊ニ奉社(ビシャ)氏神祭典ニ至ル迠僧侶ノ列席ナリ。臨機改ムル方針ナレトモ困難ナリ。(以下破損) 江戸時代は前代に引続いて神仏混淆の時代であり、一般的に寺院が神社を管理し祭祀についてもその支配を受けていた。 明治八年に神仏混淆の禁止令が出されたのであるが、ことに神主の常住しない神社にあっては、旧習から抜け出すことが難しかったであろう。 当社は、いわゆる村の鎮守神として崇敬され、祭神は高皇産霊命で、妙見尊・稲荷大明神・古峯神社が併祀されている。 なお妙見尊は、中城主中村但馬守の守護神であったとも、また同城主の鬼門除けとして当地に祀ったものであるともいわれている。 さらに、『中村神社明細帳』には次のように記されている。 千葉県管下下総国香取郡中村南借当字台 無格社 高皇産霊神社 一、祭神 高皇産霊命 一、由緒 寛永十年(1633)正月十五日創立ニシテ 村内衆庶ノ信仰ニ依ッテ本村東方ノ高丘ニ勧請シ今社則是也 一、社殿間数 間口三尺 奥行三尺 一、拝殿間数 間口弐間 奥行壱間 一、境内坪数 弐百廿四坪 一、氏子戸数 廿七戸 境内には、樹齢800年ほどといわれる椎の巨木をはじめ、古木うっそうと茂り神域の尊厳さを示している。 正面の鳥居は厳島神社のものを真似た造りになっている。本殿軒下には竜吐水(雲竜水ともいう明治初期の消火器具)に用いた大盥が置かれ、右奥に古峯神社、左奥に稲荷大明神が祀られている。 拝殿前に石燈籠が二対あり、一対は昭和初期に、他の一対は並木貫一翁が米寿を記念して近年に寄贈されたものである。 手洗石が一基あって「天明六丙午(1786)四月吉日 佐原村 佐藤半兵衛」の刻字が見られる。 2023/11/29撮影: 借当妙見社 借当妙見社拝殿 借当妙見社本殿1 借当妙見社本殿2 借当妙見社本殿3 借当妙見社本殿4 借当妙見社末社?1 借当妙見社末社?2 ●桧木・次浦・大門・御所台 -------------------- ○桧木星宮大神 「多古待ちし下巻」643〜 字竹ノサク一九一に鎮座する。祭神は天御中主命であるが、由緒は不詳である。牧神九曜星を祀るもので、馬牧の成立と同じ頃に建てられたものと思われる。永年にわたってその氏子は一二戸であった。 ※天御中主命・九曜星を祀る故に元来は妙見社であろう。 ○桧木星宮大神 後記「じょへん」火祭り行事が行われる境内には、末社として香取社・松崎社・猿田社・天神社の四社があり、いずれも延享二年(一七四五)に建てられている。また拝殿左側にある子安様は天明七年(一七八七)のものである。なお以上の五祠は、いずれも五〇〜五五センチの石宮で、昔の姿を今に伝えている。 ○次浦妙見社 字西1918ノ4番地にあり、城山とは50mほど隔たったところである。 「奉造立妙見石宮一社 于時元禄二年己巳(1689)二月十五日 下総国香取郡千田庄次浦村」と刻まれ、字内小屋周辺に住む人々によって、毎年正月二十二日に御奉社が行われる。この御奉社には『御日記』があるが、元和十年(1624)以来の村の変遷が綴られた貴重なものである。 天御中主命神社 「多古町史 下巻」464〜 字城120番地にある。栗山川流域の水田を見おろす丘陵部の先端にあって、椎の古木に囲まれている。この地がかつての城跡らしき唯一の地でもある。 明治十二年の『神社台帳』には 一、祭神天御中主命 一、由緒古老伝説御所台ノ儀ハ古昔千葉氏ノ古城蹟ノ由、当時御所様ト称ス、御所様在城ノ砌リ北辰妙見ヲ尊崇シ一社ヲ建立シ鎮護神トス、爾来相承テ祭祀今ニ至リ申候、維新以後妙見ノ称号御廃止ニ付、天御中主命ヲ祭リ申候、是レハ北辰天ノ中枢ノ義ニ取リ相改申候、右御所様ノ姓名往古ノ事ニテ判然相分リ不申候ヘトモ、村内字ニ、曰御所内、曰御廟、曰馬場、曰大屋敷、曰堀合、カラ堀跡等ノ名残リ居リ候間、古城蹟タル事ハ明確ニ有之候 一、社殿竪四尺横四尺 一、社殿雨覆竪二間半横二間半 一、拝殿竪三間半横二間 一、境内反別六畝一五歩 一、氏子戸数一九戸 と、この説明にも見られるように、千葉氏が居城の守護神として北辰妙見を祀ったのが始まりであるという。 北辰妙見は北極星を神格化したもので、千葉一族は守護神として深くこれを信仰し、千葉市の妙見社はその代表的なものである。そして一族の家紋である月星・七耀・九耀などは北極星に由来していることはいうまでもない。 境内には幾つかの小宮、石碑があり、拝殿右側にある子安大明神には「文政五壬午(1822)正月吉日並木氏講中世話人里ゑ」とある。 子安講の祭祠であろう。 子安講は古くからある信仰組織で、「延享三年寅(1746)正月十七日東禅寺」と書かれた子安奉社帳も残っている。安産と子の成長を祈願する神である。 参道の中ほどには、丈余の石塔があり、青面金剛像と三猿が刻まれ、「奉造立庚申待 念願成就所 寺作村土橋山東禅寺開眼導師法印郭圓 享保十三甲天(1728)正月吉祥日 御所台村施主並木氏七人」とあるが、庚申講の本尊である。 また、拝殿のかたわらに横たわる石燈籠の断片には、「宝永五戊子(1708)施主並木氏平次郎 立石燈籠念願成就之処三月廿三日別当東禅寺」とある。 参道登り口には石造手洗いがあり、これには「下総国香取郡御所台村願主並木善右衛門 同姓長右衛門 同姓七郎右衛門 同姓伝右衛門 同姓善之烝 同姓市郎兵衛 同姓善兵衛 菅澤与左衛門 同姓平重郎 同姓七左衛門 戸井長左衛門 同姓次郎左衛門 同姓長兵衛 同姓清右衛門 高萩惣兵衛 同姓新兵衛 同姓新左衛門 同姓藤兵衛 渡辺平右衛門 同姓平兵衛 延享五年戊辰(1748)六月一五日屋形村海保伝右衛門」とある。 ■◆多古 ------------------ ○多古大原内妙見 ○「多古町史 下巻」378〜 より 多古大原内法福寺址(廃寺): 境内南高台に妙見堂があり、毎年六月十五日に祭礼が行われたが、昭和35年廃堂となり、妙見像は妙光寺に遷される。 大原内妙見 ○「多古町史 下巻」382〜 より かつて法福寺南の高台にあった。創建は不詳である。 昭和38年堂宇の廃壊により像を妙光寺に移した。 旧地(字大原内3872)入口石段下に文化八年(1811)建立の門碑がある。 碑の表に「是北妙見大菩薩」、右「古昌山嗣法体順日道代」、左に「文化八年辛未八月」、台石に「法福寺 世話人当所若者 同佐藤庄右衛門 同惣檀中」とあり、裏面には「余本姓佐藤士家下総州多胡郷以耕桑為業 余不喜農年十八遊於江都 徒従〓(※〓の文字は不明)父阿部好繁先生学医三年好繁先生没又学於幕府医官河野松庵先生九年 先生字余曰松甫後為上田侯侍医 当栄府君養子冐姓坂巻氏 余索信妙見大菩薩 居常祈禳屡有応験 今玆建碑聊寓報賽之意云信州上田藩坂巻豊明建」と刻む。 また同所に宝暦十一年(1761)寄進の手洗いがある。 かつて境内にあった安永七年(1778)江戸大芝居根元、吹屋町市村座芝居中、願主村田治兵衛奉納の石燈籠は、昭和52年池端弁財天前に移建する。 大正5年多古馬車連が境内に建立した馬頭観世音碑は、妙光寺に移される。 池の端(字大原内3860番地)に建つ大燈籠は嘉永六年(1853)村中の寄進で「北辰御神燈 胡昌山二十四世日由 施主面々現安後喜 癸丑嘉永六年霜月日 胡昌山」とあり、建立者として多古藩主をはじめ世話人・願主・石工、二〇〇人近い人名、寄付金額が刻まれている。 ※この大鳥居の写真は多古大原内法福寺址にあり。 この妙見像は、多古付近を領し多古に居城した千葉一族の守護神として祀られたもので、「むかし九州から背負ってきた」との伝説がある。かつて千田庄は九州千葉氏の所領であったことが伝説とのかかわりを思わせる。 昭和50年秋、像の修理をした八日市場市の大川逞一氏は『房総の郷土史』に次のように報告している。 「同像は一見して古様である。彫刻法として可成衣襞の表現は柔かく写実的に整美されて居るが、鎌倉初頭の如き清鮮俊逸の趣きは無い。全体像は概念的な構成であり、細部も部分としてではなく、工作的に細かに操作されている。 獅噛の腕飾り其の他の製作も漆下地の盛り上げも一応出来て居る。其上濃密な暈繝彩色に繊金が置かれて居るのが所々に残って、昔の栄華を物語る様に光って居る。 千葉氏の守護神との遺像として本県の現下に於ては、最も古く(鎌倉末期より下らない)製作も本格的工法である。 像は延宝八庚申(1680)閏八月大吉祥日、正東山日本講寺沙門周円によって再修される。 妙見菩薩倚像法量は総丈二尺一寸五分、座高一尺六守五分、膝幅一尺三寸八分、頭長五寸五分、面幅三寸八分。鎌倉期の手堅い手法で、寄木玉眼漆下地、暈繝彩色に繊金を置いた手を尽した荘厳である(抜粋)。」 また「寛文六年(1666) 越前住下坂国清作 目くぎ穴二 長三六センチ」の神剣が妙光寺に所蔵されている。 妙見像は昭和五十二年千葉県有形文化財として指定をうける。 ※上記記事中に 「旧地(字大原内3872)入口石段下に文化八年(1811)建立の門碑がある。 同所に宝暦十一年(1761)寄進の手洗いがある。 かつて境内にあった安永七年(1778)江戸大芝居根元、吹屋町市村座芝居中、願主村田治兵衛奉納の石燈籠は、昭和52年池端弁財天前に移建する。」とあるが、 入口石段、門碑、手洗いは不明である、石灯篭は弁才天前にある石灯篭と思われるが未確認。 ○多古広沼お西妙見 多古城域内七妙見の一社と思われ、広沼地先通称「お西」と呼ばれる多古城址の一角(字多古台2249)にある。 創建は不詳。江戸期多古領主松平氏の崇敬が厚かった。 社屋内に四枚の修覆の板書きがある。 板書の一は「地頭松平甲斐守勝以 名代服部与五左衛門重賀 奉行■■■次郎政吉」と記す。 なお、この甲斐守勝以は延宝八年(1680)家督を継いで藩主となる。 板書の二:「南無妙見大士 天下太平国土安穏 松平氏武運栄昌 宝暦五乙亥(1755)十二月大吉辰 御普請奉行山室十郎右衛門 御名代小幡弥右衛門 下役鈴木十右衛門 大工棟梁多古邑伝治郎」と記す。 板書の三:「明治六年癸酉第九月二十三日吉辰 妙見社地 間口十八軒 奥行台迠道幅二軒 別当開眼主妙薬寺日正大工島村伊兵衛 神主矢城平右衛門」。 板書の四:「妙印山四十五世日励 昭和十四年三月十九日新築遷座 祈願主大矢新治 大工中村押田信之助」。 また境内に二基の石宮があり、一つは文政七年(1824)の建立である。 2023/10/19撮影: 広沼で「多古お西妙見」の場所を探索中に、この地区の区長である大矢氏(広沼鬼子母神棟札にある大矢氏の一族と思われる)と出会い、鬼子母神と合わせて案内を頂く。 広沼お西妙見・鬼子母神は大矢氏の氏神で、大矢氏が今も祭祀するという。 なお、多古陣屋(「多古町史 上巻」p.238)の項には「藩士の屋敷は主に広沼東部の現在「お西」の名が残る西屋敷にあった。」とあり、広沼東部は「お西」と呼ばれていたことが分かる。大矢氏も『妙見のある一帯は「お西」と云われているので、「お西妙見」とはこの妙見であろう』との見解を示す。 2023/10/19撮影: 多古広沼案内図:お西妙見などの位置を示す。 広沼お西妙見1 広沼お西妙見2 お西妙見大菩薩立像 お西妙見板書曼陀羅 多古お西妙見から島を望む1 2023/12/01撮影: 広沼お西妙見3 広沼お西妙見4 妙見境内の2基の石宮:推定、詳細不詳 妙見覆屋内の石宮:天満宮とある。 多古お西妙見から島を望む2 ○多古古城妙見 字多古台で、通称古城といわれるところにある。七妙見の一社と思われる。神像は昭和17年ごろ盗まれたという。 (※位置確認できず)(※2023/10/19大矢氏に尋ねるも知らないという。) ○多古高根妙見 字浅間台二八三七ノ二番地に寛政八年(1769)九月建立の妙見石宮がある。同所に同年建立の八幡宮と神名不明の石宮がある。 ○多古法福寺跡妙見堂 →多古法福寺跡<◆多古中>に妙見堂がありしも、昭和35年廃堂となり、妙見菩薩は妙光寺に遷される。 ■多古>島 ------------------ ○島妙見社 下巻442〜 字中通1980番地にある。 両側を槇塀に囲まれた参道の奥の木陰のない芝地に、亜鉛葺雨屋に覆われた欅造りで1.5m四方ほどの本殿がある。 本殿右わきに二基の石塔があり、一基は崩れて読み取れないが、残る一基には「妙法師了運院日了位 戌ノ七月二十一日 師浄心院日合位 申ノ六月十二日」と刻まれる。 区有文書として残る、明治17年八月に作られた明細帳控には、この社について次のように記される。 神社明細帳 千葉県下総国香取郡島村字中通 無格社 星宮太神 一、祭神 天香香背男命 一、由緒 不詳 一、本社 間口三尺 奥行三尺 一、拝殿 無之 一、境内坪数 八拾七坪 官有地第一種 一、境外所有地 無之 一、山林 無之 一、宅地 無之 一、氏子 拾八戸 ○大原天御中主神社 「多古町史 下巻」711〜 字北の内434番地にある。人家のある地帯全域がかつての城跡といい伝えられているだけに、東方に張り出した台地の一部が犬走り(城の垣と堀との間にあるせまいあき地)とみられる二段の斜面となっている。西へ200mほど行ったところが字大堀切で、ここは大きな堀によって人家のある地域とその先とを切りはなした形状である。そこから東へ向かう西の井・北の内までは二段斜面が続き、字諏訪ノ崎(北面の東端)では、三段とも四段とも思える複雑な地形となり、登戸・奥畑あたりからまた二段斜面になっている。このようなところのほぼ中央の位置に鎮座しているのが当集落の鎮守社・天御中主神社である。 明治時代の『社寺台帳』では 千葉県管下下総国香取郡多古町字喜多 無格社 天御中主神社 一、祭神 天御中主命 一、由緒 慶長四年(1599)三月勧請ノ由古老ノ口碑ニ存ス 一、社殿 本殿 一、境内 百参拾六坪 一、氏子 弐拾三戸 本殿に祀られている本尊は童児姿の妙見立像で、その勧請についてはあるいは口伝よりも古く、ここに居城した千葉氏の支族加藤兵庫守によるものかとも思われる。 この社の御奉射(びしゃ)は例年一月二十二日に行われる。 2023/12/01撮影: 大原妙見社1 大原妙見社2 大原妙見社3 大原妙見社4 境内庚申塔 ■大原・東台・中佐野・東佐野・染井 ------------------ ○東台星之宮神社: 字妙見前999番地にあり、本殿は木造でこの境内に前記の永和元年と刻まれた板碑が建てられる。 『神社台帳』には、 千葉県管下下総国香取郡多古町喜多字大坂台 無格社 星之宮神社 一、祭神 天御中主命 一、由緒 慶長五庚子年(1600)三月勧請ノ由古老ノ口碑ニ存ス 一、社殿 本殿 一、境内 百五拾六坪 一、氏子 弐拾三戸 以上 2023/12/01撮影: 上記では本殿は木造となっているが、現在はコンクリート製に造替されている。 東台妙見社1 東台妙見社2:向かって左の紅葉した樹の後に「永和元年銘板碑」が微かに写る。 永和元年銘の板碑の確認はせず、よって撮影はせず。従って下の掲載写真(GoogkeMapから転載)は推定である。 東台永和元年銘台石1 東台永和元年銘台石2 |
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武蔵大宮妙見社 (秩父神社) |
2012/09/15加筆・修正: 大宮妙見社(現秩父神社)については、実像の把握が困難であるが、以下にその断片を掲載。 秩父神社由緒(大意)は以下の通り。 ※神社側の云う由緒であるので、基本的に国家神道に毒され、歴史が歪曲されていることは否めない。 崇神天皇代、八意思兼命を祖とする知知夫彦命(10世孫)が、知知夫国の初代国造に任命され大神(祖神)を祀ったことに始まるとされる。:「先代旧事紀−国造本紀−」(※定説では偽書であるとされる。)による。 允恭天皇代、知知夫彦命九世孫の知知夫狭手男が知知夫彦を合祀するという。 元慶2年(878)神階正四位下に昇叙。「延喜式・神名帳」に記載。 中世以降は関東武士団の源流、秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し長く「秩父妙見宮」として隆盛を極める。 永禄12年(1569)武田信玄の兵火で焼亡、後北条氏が再建に着手。 天正20年(1592)徳川家康が社殿(現存・権現造)を造営。 ※本殿は天正20年(1592)徳川家康の寄進により天和2年(1682)の改修と云う。本殿は三間社流造であり、拝殿幣殿を結合した権現造に似た形式である。 明治の神仏分離の処置により秩父神社の旧社名に復す。 ※中世には知知夫社の実態ほぼ無く、大宮妙見大菩薩が本尊であった。 近世には妙見社と取り巻く社の一つである神宮司社(知知夫彦)が知知夫社の痕跡と云う評価もあったようである。 現在の祭神は凡そ、八意思兼命、知知夫彦命、天下春命(思兼命の子)、大己貴命、秩父大神と云う。 それに国家神道の象徴としての天之御中主、秩父宮雍仁親王が加わると云う。 伝承によれば 平良文は妙見菩薩を上野七星山息災寺から平井館に遷し、さらに平井から大宮神社(大宮郷妙見社)に遷すと云う。 上記と同意と思われるが、将門の乱のとき、秩父平氏の村岡良文が上野国花園村の妙見菩薩を勧請したと伝える。 あるいは、嘉禎元年(1235)、社殿に落雷、その再建時に、平将常(良文孫・秩父氏祖)が妙見菩薩を祀ったとも云う。< 「秩父妙見宮造営次第」正和2年(1313)> ※大宮妙見菩薩は中国風の服装で、亀の上に立ち、切っ先を下にした劒を持つ像容と云う。 |
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武蔵 神王山妙見寺 |
稲城市百村。天台宗。神王山観王院と号す。 延宝5年(1677)、妙見宮別当修験東光院から、観音院に名跡を変更。(「妙見寺記録」) 宝永年中(1704〜11)観音院から寺号に改め、妙見寺と号す。(「寺院明細帳」) 本尊は阿弥陀如来坐像。妙見山頂の妙見尊を同寺が別当として管理。 ---------------------------------------------------------------------- ※「武州多東郡妙見寺縁起」天正19年(1591)によると 妙見寺は「大炊天皇(淳仁天皇)の御願により道忠禅師が本尊に定光仏、脇士に星王同体の妙見大菩薩を安置した」ことに始まるという。 天長3年(826)焼失、武蔵国守藤原信高が勅願により新寺を建立する。 鳥羽院の御宇、大破、武蔵国守高階敏信が修復、四至を定めるという。 治承6年(1182)炎上、本尊は猛火の中を飛び移り難を逃れる。 以上の霊験を知り、源頼朝は伽藍の造営を命じ、平家討伐の成果は妙見大菩薩崇拝によると云う。 ※「妙見寺記録」によれば、妙見宮は天平宝字4年(760)の創建で、当麻真人村継が妙見寺に安置したものという。その後稲毛三郎重成が領主のとき、国が乱れて以来修復もなかったが、滝山城主北条氏直が諸堂を修復したという。江戸初期、妙見宮は修験東光院の管理にあったが、子息民部の代に観音院に譲ったという。 ※東光院は権大僧都源春(寛文元年二月寂)と称し、「当寺退転之節山伏二相成」(妙見寺過去帳)と云う。 江戸初頭、妙見寺は退転し、修験(山伏)となった源春は妙見宮のみは守り抜いてきたものと解釈される。 延宝5年(1577)、子息民部は観音院に譲り渡すという。 ※寺院明細帳(明治初頭) 「当寺開基年月不詳 宝永年中晃傳代 観音院を寺格に引直し妙見寺と号す・・・」「妙見寺には五間四面の妙見堂」があり、「本尊妙見 天平宝字4年(760)・・当山に安置・・・」云々 なお、ここには、「蛇より」という行事が伝わるという。毎年8月7日、北斗七星にちなんで百村旧村民から七人を選抜し、萱場から萱を刈り出し、村民が集まって50〜100mの大蛇の形に捩 り、妙見宮の階段にそって置き、その頭は山下の二十三夜塔の前に、尾は山上の社殿を巻くように置く。その後、妙見宮別当妙見寺僧侶の読経が行われ、完成した大蛇の開眼供養をするという。ここでは月待講(二十三夜講)と妙見信仰が習合する形態が伝承されているという。 |
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池上本門寺 南谷檀林妙見 |
2009/10/23追加: ◇妙見堂:寛文4年(1664)瑶林院(加藤清正娘・徳川頼宣室)が建立、慶応2年の再建。南谷檀林妙見堂。 妙見菩薩立像は寛文4年銘があり、南谷檀琳開設の時その守護として移管されたと云う。 池上妙見堂 瑶林院妙見菩薩立像 △池上妙見坂 △池上妙見堂1 △池上妙見堂2:△は2011/02/19撮影 (参考) 照栄院:朗慶山、本門寺3院家の一院。「南谷檀林立善講寺」あるいは「向林庵」と称す。日朗上人開基。 南谷檀林:元禄元年(1688)本門寺第22世日玄上人開創、明治維新で廃檀。 現在の池上小学校、池上会館、照栄院の一帯が南谷檀林であった。 講堂、方丈玄頭寮、板頭寮、首座寮、所化寮、玄文両談合場、食堂、総門、妙見堂などを具備。 板頭寮(天保7年<1836>再建)のみ照栄院書院として残存する。妙見堂も坂上に現存する。 池上照栄院 池上照栄院本堂 |
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尾張萱津妙教寺 | 妙見堂あり。 →尾張の日蓮宗諸寺中 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尾張川部日妙寺 | 妙見堂あり。 →尾張の日蓮宗諸寺中 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尾張法蓮寺 | 妙見堂あり。 →尾張の日蓮宗諸寺中 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尾張苅安賀妙栄寺 | 同 上 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尾張苅安賀蓮照寺 | 同 上 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信濃 武石山妙見寺 |
鎌倉期、武石村に千葉一族の武石氏の居館があったという伝承があり、その館跡にあるという。 千葉一族の居所には妙見菩薩を勧請するという例証の一つであろう。 千葉胤盛(常胤三男)は千葉郡武石郷の所領を分与され、また陸奥国伊具・亘理・宇多郡など地頭職となる。おそらく信濃のこの地にも、武石氏の支配下にあったものと考えられる のであろう。 信濃武石村子壇嶺神社に石碑(おそらく供養塔)が残され、その正面には「武石平胤盛」の文字と月星紋(千葉氏一族紋章)が刻まれているという。 |
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近江日蓮宗諸寺 | 大津真常寺:文政6年妙見堂を建立し、清正公と三十番神を合祀し、現在は三社宮と称するようである。 大津長等本要寺:妙見堂あり 大津札の辻本長寺:妙見堂あり 大津逢坂妙光寺:妙見堂あり → 以上いずれも近江の日蓮宗諸寺中 |
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近江園城寺 (三井寺) |
【A】:妙見菩薩の伝来当初は帰化人の多く住む畿内で信仰される。 仁寿3年(853)円珍(智証大師)入唐、帰国の際、尊星王(妙見)像1躯を持ち帰り、中院に安置したとされる。 寺門派では妙見菩薩を尊星王と尊称し、「尊星王法」を確立させた。尊星王は北辰(北極星)を神格化したものという。 一方真言宗では北斗信仰を受け継ぎ、北斗七星を妙見菩薩とする。 ○近江園城寺の中院の項を参照。 中世の園城寺中院伽藍 近江園城寺中院2(・・・少々画像容量大) 大門を過ぎ、次の楼門を入ってすぐ左(南)に中院五重塔、普賢堂、五大堂、右に講堂、尊星王堂がある。 ※尊星王堂は現在退転(その歴史は不詳)し、妙見像のその後も不詳。但し、園城寺法明院にて、尊星王星祭(2月節分)に修法されるという。この本尊は尊星王像(画像・重文・鎌倉期・絹本著色)と云う。また園城寺金堂には尊星王像(仏像・一見して江戸期か?)が安置される。しかし何れもその由緒については現段階では不明。 |
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伊勢妙見 |
伊勢妙見は伊勢外宮渡会氏の外護を得て維持されると伝える。 しかし明治の廃仏毀釈で廃絶する。その後、妙見堂は諏訪の森に移建される。妙見菩薩像(重文)は東京よみうりランドの妙見堂に安置。 → 「播磨無量寿院(よみうりランド)多宝塔」の「妙見菩薩」の項を参照。 |
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山城北山霊厳寺 | 北山霊厳寺は既に廃寺、多くの文献にその名が見えるが、今はその跡も明確でないと云われる。 → 「星田妙見」のページの「北山霊巖寺」の項 また直下の「山城鷹峯岩戸妙見」を参照 |
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山城鷹峯岩戸妙見(鷹峯円成寺) |
鷹峯に岩戸妙見宮と称する日蓮宗清雲山円成寺がある。ここに「鷹峯岩戸妙見」が祀られる。 上記の北山妙見が中世には廃れるも、近世初期に北山妙見が復興されると云う。即ち、寛永7年(1630)京都本満寺日松任上人が一條家の援助を得て「北山妙見 」を再興する。現円成寺はこの再興「北山妙見」と云う。 鷹峯岩戸妙見大菩薩は円成寺境内の古墳状の石窟の中に祀られ、その姿は大亀の上に乗り、宝剣・蛇を握り、頭上に北斗七星を戴くものであると云う。 山城岩戸妙見1 山城岩戸妙見2 山城岩戸妙見3 山城岩戸妙見4 円成寺には岩戸妙見のほか、円成寺本堂、地主神常富殿、巖戸の瀧行場、庫裏、参集所などが広い境内に配置される。 現在、昭和61年再興洛陽十二支妙見の一である。 秋山自雲霊神が祀られるというも未見。 |
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山城大塚妙見寺 | 山科大塚妙見寺。平安遷都に際し、都の四方を守護する意味で、東西南北に妙見尊が安置されたとされる。北は霊巌寺、東は山科大塚妙見寺とされる。 → 「星田妙見」のページの【霊符縁起】の項 |
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洛陽十二支妙見 | 近世、御所紫宸殿を中心に十二支の方角に祀られた妙見菩薩をお参りする洛陽十二支妙見があったと云う。 江戸中期の開設と云うも、明治の神仏分離で多くが失われたと思われる。 昭和61年洛陽十二支妙見が再興され、現代版洛陽十二支妙見として以下に定められる。 霊鑑寺を除き、全て日蓮宗である。
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山城本満寺 | 本満寺妙見社 ▽本満寺妙見大菩薩2 ▽本満寺妙見大菩薩3 → 山城本満寺 |
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山城本法寺 | 摩利支天堂(写真摩利支天堂拝殿)の向かって右に北辰殿と称する小宇があり、ここに妙見大菩薩、鬼子母神、七面大天女、大黒天の4体が祀られる。
鬼子母神については、昭和時代(戦後)には仁王門横に鬼子母神堂があり、現在この堂が退転しているならば(未確認)、この鬼子母神はかっての鬼子母神堂に祀られていた像とも思われる。 摩利支天堂 本法寺北辰殿 同 妙見菩薩1 同 妙見菩薩2 同 妙見菩薩3 → 山城本法寺 |
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山城頂妙寺 | 頂妙寺境内に妙見堂がある。 聞法山頂妙寺
(頂妙寺妙見大菩薩、頂妙寺妙見堂) → 山城頂妙寺 |
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山城通妙寺別所 鳥辺山妙見大菩薩 |
妙見菩薩境内は通妙寺の東、本寿寺(本法寺菩提寺・日親上人廟)を隔てて、在る。 妙見堂・絵馬堂(舞台造)・堂名不詳の堂・十三重石塔(南北朝期)・秋山自雲墓(下掲)などを有する。 2009/11/05撮影:妙見大菩薩石碑 鳥辺野妙見堂 妙見堂絵馬堂 堂名不詳の堂 2015/03/15撮影:妙見大菩薩碑2 妙見宮扁額/門:左は庫裏 妙見大菩薩扁額/妙見堂 鳥辺山妙見堂 鳥辺山妙見絵馬堂 鳥辺山妙見堂宇:堂名不詳、右は庫裡 2009/11/05撮影:通妙寺門前石碑 通妙寺堂宇 2013/04/09撮影:鳥辺野通妙寺遠望;庫裏、山門、本堂が写る。 2012/04/19追加:通妙寺塀/山門/庫裡 通妙寺山門 通妙寺本堂 秋山自雲神霊: 2009/11/05撮影:秋山自雲神霊 ○「新撰京都名所圖會」昭和33年 では「日蓮宗通妙寺の別所」「鳥辺山の妙見」と云う。 ○「路 東山と東大路通」昭和48年 では「日蓮宗鳥辺山智積院 本尊妙見大菩薩」とある。 2013/07/09追加: ◇サイト:「京都風光」のページ「通妙寺」では以下のように述べる。 創建や寺歴は不明。通妙寺山内に鳥辺山帝釈天王を祀る。これは明暦年中(1655-57)柴又帝釈天王を勧請と云う。 享保6年(1721)鳥辺山妙見大菩薩妙見堂は通妙寺の別所になるとも云う。(※これの典拠は不明) 2015/01/18追加: ○「東山名勝圖會」(「再撰花洛名勝圖會 東山之部」)木村明啓・川喜多真彦/著、松川安信ほか/画、元治元年(1864)より 巻7;東山名勝圖會妙見堂 記事; 通妙寺:法華宗妙傳寺に属す。開基は日惣上人、寛永年中の草創なり。 妙見宮:通妙寺東にあり、・・通妙寺の別所なり、近年追々修造なるも舞台絵馬舎茶所休息所を備え・・・ ※ここでは通妙寺の別所という。 |
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山城北野法華寺 | 妙見堂があり、妙見大菩薩を祀る。 →北野法華寺(山城の日蓮宗諸寺中) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山城上京本瑞寺 | 妙見堂があり、妙見大菩薩を祀る。 →山城の日蓮宗諸寺中にあり。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山城上京燈明寺 | 妙見堂があり、妙見大菩薩を祀る。 →山城の日蓮宗諸寺中にあり。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山城西陣妙徳寺 | 妙見堂がある。 →山城の日蓮宗諸寺中にあり。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山城深草宝塔寺 | 深草宝塔寺七面山上、七面堂横に妙見菩薩(宝塔寺妙見社)を祀る。 → 深草宝塔寺 |
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山城納所妙教寺 | 妙見堂がある。由緒不明。 →山科・伏見・宇治の日蓮宗諸寺中 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山城大住法華寺 | 本堂脇陣に能勢型妙見菩薩を祀る。由緒は未調査。 → 大住法華寺 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山城大原野灰方日正寺 | 「妙見さん」と通称される。山下の題目碑には「妙見道」と刻む。しかし、本寺の妙見については情報が皆無であり、不詳。 →山城の日蓮宗諸寺中にあり。 |
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山城八幡本妙寺 | 妙見宮があるも、由来は未調査。 → 山城八幡本妙寺 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山城銭司本照寺 | 妙見山と号する。妙見宮あり。 → 山城銭司本照寺 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
京都檀林 |
次にあげる京都檀林に鎮守として、妙見が祀られたことが記録上に残る。 京都松ヶ崎檀林(本涌寺)、六条本圀寺求法院檀林(六条檀林)、京都東山檀林(妙恵山善正寺)、京都鷹峯檀林(常照寺)、山科檀林(竹ヶ鼻護国寺) 鶏冠井檀林には現在、妙見堂があるが、近年の建立と思われる。 2014/11/12追加: 六条本圀寺求法院檀林の妙見は現在、信正山本栖寺に遷座、現存すると推定される。 |
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大和法輪寺 | 平安後期の妙見菩薩像を伝える。 【A】:現存する日本最古の妙見菩薩立像を伝える。秘仏。11世紀頃の作とされ、檜一本造・四臂を持つ。像容は「別尊雑記」「図像抄」にほぼ一致するという。 大和法輪寺 |
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攝津能勢妙見 |
日蓮宗系の妙見菩薩の例である。 2013/02/03追加修正: 妙見山上にあり、眞如寺の飛び地境内といい、「無漏山眞如寺境外仏堂能勢妙見山」と称する。 慶長5年(1600)関が原の戦で、家康与力である能勢頼次は東軍に組し、その戦功で、旧地を安堵され、旧知を回復する。 頼次は、この能勢氏再興を契機に、身延日乾上人に帰依し、寺地を寄進し、真如寺が創建される。 慶長8年(1603)日乾上人は能勢氏の家鎮である「鎮宅霊符神」を法華経の守護神「妙見大菩薩」とし、武運長久の意味で武具甲冑を纏い剣を持つ妙見大菩薩像を刻み、為楽山の山頂に祀り、ここに能勢妙見山が始まると云う。 その後、能勢頼次は備前松田氏、戸川氏などのように能勢一帯を日蓮宗に強制改宗し、能勢法華が成立する。 明和3年(1766)15世日通は京都に出開帳を行い、能勢妙見信仰の広まりの鏑矢とする。さらに女人禁制を解く。 安永3年(1774)能勢頼直は幕府から江戸本所に邸宅を賜り、ここに能勢妙見東京別院を開創する。 明和9年(1772)初めて大阪に講社ができ、年を追って各地に講社ができ、一般項社の参詣で妙見山は空前の賑わいを見せるようになる。 →攝津能勢法華・日蓮宗諸寺 【A】:能勢妙見は行基開基と云う為楽山大空寺跡に立地する。日乾は道教の鎮宅霊符神を妙見菩薩とし、像容は日乾が工夫したものと云う。 2005/12/28撮影: 能勢妙見山北参道入口:亀岡曽我部町法貴、摂丹街道分岐点、能勢妙見より北東約10km の地点の碑。 2012/10/30撮影: 能勢妙見山下鳥居:新滝道鳥居 能勢妙見山下石碑:新滝道鳥居脇石碑、年紀は不鮮明であるが明治期と思われる。 能勢妙見新滝道丁石:新滝道には数個の丁石が確認できる。 能勢妙見山門:万延2年(1861)丸栄講社の寄進 能勢妙見山頂店舗 妙見堂(妙見本殿)は慶長10年(1605)能勢頼次によって草創、寛文年中に能勢頼宗が再営、明治28年再建。正面3間側面2間の外陣の後に間口2間奥行3間の内陣からなる平面形式である。 能勢妙見本殿1 能勢妙見本殿2 能勢妙見本殿3 能勢妙見本殿4 能勢妙見本殿5 能勢妙見本殿6 能勢妙見祖師堂 能勢妙見寺務所 能勢妙見成形層塔 能勢妙見銅製五重塔1 能勢妙見銅製五重塔2 |
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摂津の諸寺 | 摂津山手法照寺、摂津高槻大手町本行寺、摂津古曽部乾性寺に妙見堂あり →摂津の日蓮宗諸寺を参照 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
攝津 久々知広済寺 |
久々知妙見堂縁起: |
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攝津有馬妙見寺 | 落葉山城(有馬城、南北朝期〜戦国期)跡に落葉山妙見寺がある。 明治39年余田左橘右衛門(詳細不詳)が妙見堂を建立という。本尊は廃金剛寺(明治6年廃寺・詳細不詳)のもので足利義満の寄進したものと云う。おそらく日蓮宗系寺院と思われる。 |
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河内星田妙見 |
創建は弘仁年中(810-823)、弘法大師と伝える。大師が獅子窟寺吉祥院の獅子の窟に入り、仏眼仏母尊の秘法を修すると、天上より七曜の星(北斗七星)が降臨したと
伝える。ここに、「三光清岩正岩の妙見」として、祀られたことを起源とする。妙見山龍隆院(仏閣)として成立。 「嘉承元年(1106)9月23日 星田神禅寺」(河内天野山金剛寺文書)とあり、平安期には神禅寺と称するとも云う。 「采女迄三代妙見の別当ショクニシテお供燈明捧御山守護致由候緒也」(「東和久田系譜」、延宝六年(1678)) とあり、和田安直、安道、采女安国まで3代に渡り、別当職であったとされる。 「小松大明神」(神名帳、天文四年(1535))とあり、小松大明神と称したと推定される。 明治の神仏分離の処置で、「小松神社」と改号、祭神を天之御中主に改める。 →「星田妙見」 |
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河内 天白山妙見寺 |
続日本紀:「宝亀2年(777)上野国、美作国・・各々50烟を給す妙見寺」
とは天白山妙見寺を指す。 日本霊異紀:下巻第5「河内国安宿の郡の山寺に妙見菩薩があり燈明を献げる」 日本での妙見菩薩信仰の初源の一つとされる。 2005/09/18:追加 江戸後期には河内石川郡春日村に現存する。(この地に今も残ると思われる。・・・現地未訪問) 河内名所圖會:享和元年(1801)刊 秋里籬島著・丹羽桃蹊画 巻の2:春日村妙見寺 妙見寺(春日村艮の山中にあり。禅宗。天白山と号す。本尊十一面観音、・・・中興鎌田氏末裔尊星院殿喜雲浄悦居士。) 春日村妙見寺全図 →「河内名所圖會」のページ また「現在この地にある妙見寺は、もと東南方の妙見山西麓にあったと言われている。」との情報もあり、これが真ならば、現在地の妙見寺は後世に移転された のであろう。 「河内名所圖會」の記事では、中興の戒名以外には妙見信仰の繫がりは希薄になっていたと思われる。 2007/07/31追加:「河内飛鳥を訪ねてみよう」石部正志、松籟社、1989.7 より もと真言宗天白山と号する、・・・南北朝期に戦火により焼失。 寛文年中、僧浄悦によって再興、曹洞宗となる。 明治6年廃寺、明治13年妙見寺は現地に移される。 旧寺は現在地より東南約1km天白山(妙見山)の中腹にあり、山頂には「霊山碑」の碑文が建つと云う。 2008/05/13:創建は春日皇子とする。 正保2年(1645)に再興、真言宗から曹洞宗に改宗、再び衰退、明治13年、現在地に再興される。 |
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紀伊 七曜山妙見寺 |
名草郡、妙見菩薩が初期に祀られる霊場と思われるも、現在退転か、不詳。 2015/10/08撮影: 七曜山圓福院妙見寺<現在は寺院の合併によって清涼山慈光圓福院(妙見寺)と称する> 「紀伊國名所圖繪」; 真言宗古義・・本尊妙見大菩薩(長さ3尺作つまびらかならず) 大師堂(弘法大師)、薬師堂、太子堂(聖徳太子) 当山は近江國茅萱圓福院長善阿闍梨の開基にして元和年中岡領町に移り、さらに享保年中この地に移る。 鈴丸橋、龍源禅寺、法運寺、萬精院、お伊勢橋、圓福院、崇堅院、夏川、・・」の図 萬精寺の北西から北に「お伊勢橋」が架かり、渡った北東に円福院がある。「紀伊國名所圖繪」には妙見とあり、記事には妙見大菩薩とある。圓福院には妙見菩薩が祀られていたのである。 現在は当地にあった圓福院と慈光寺が戦後合併し、慈光圓福院と称する。 圓福院は昭和20年の戦災で全焼。さらに戦後の区画整理で寺域の3分の1を失う。 慈光寺は養老7年(723)役小角(修験道開祖)が下和佐の地に開基し、元は八幡宮別當で和佐山観音寺(下和佐観音)として隆盛するも、元弘・建武の兵乱で衰微する。寛文年間(1661〜72)高野山快円阿闍梨が寺を再興し、清涼山慈光寺と改号する。 明治維新の神仏分離で荒廃しさらに戦後の農地解放で維持困難となる。 昭和27年、戦災焼失の圓福院と、維持困難の慈光寺とが合併する。この時慈光寺から本尊や本堂を現在地に移し、慈光圓福院となり今日に至る。本尊十一面観音立像(重文・檜材一本彫)は10世紀頃の作と推定され、貴重な貞観風彫刻である。 つまり、現慈光圓福院本尊は旧慈光寺本尊なのである。 では旧圓福院本尊妙見大菩薩はどうなったのであろうか。 以下推測ではあるが、妙見大菩薩は昭和20年の戦災で焼失し、再興はされなかったのであろう。 代りに合併することとなった旧慈光寺本尊(十一面観音立像)を本堂とともに引き移し慈光圓福院の本尊としたのであろうと思われる。 ついでに、七曜山の山号も捨てられ、慈光寺の山号清涼山に改められたようである。従って、寺号は不明であるが、現在は清涼山慈光圓福院妙見寺と称すると思われる。 2015/10/08撮影: 紀伊圓福院山門 紀伊圓福院本堂 |
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紀伊中之島安楽寺 | 妙見堂あり → 紀伊日蓮宗諸寺にあり | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
紀伊吹上蓮光寺 | 妙見堂あり → 紀伊日蓮宗諸寺にあり | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
紀伊須本妙宣寺 | 妙見堂あり → 紀伊日蓮宗諸寺にあり | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
紀伊本久寺 | 妙見堂あり<未見> → 紀伊日蓮宗諸寺にあり | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
紀伊養珠寺妙見堂 | 和歌浦妙見山妙見堂/妹背山養珠寺妙見堂 →紀伊養珠寺 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
但馬妙見 日光院 |
→「但馬妙見日光院ホームページ」(但馬妙見公式ページ) →「但馬妙見三重塔」のページ 及びその関連ページを参照
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丹波福知山常照寺 |
妙見堂あり。 丹波の諸寺中にあり。 |
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丹波河原林妙圓寺 | 見堂あり →丹波の諸寺中 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
丹波亀山法華寺 | 妙見堂あり →丹波の諸寺中(同上) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
丹波亀山本門寺 | 鷲妙見大菩薩を祀る。 →丹波の諸寺中(同上) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
丹波寺桑田寺 | 妙見堂あり →丹波の諸寺中(同上) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
丹波小泉好堅寺 | 妙見堂あり →丹波小泉好堅寺 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
播磨諸寺中の諸妙見 |
播磨本松寺:谷の妙見と云われる 播磨本立寺:浜の妙見と云われる →いずれも播磨の日蓮宗諸寺中にあり。 |
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播磨赤穂妙見寺 | 8世紀中頃に行基が開山したと伝えられ、かつて16坊9庵を有していたと伝える。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
伯耆日蓮宗諸寺 | 米子/日蓮宗本栄山妙善寺 → 伯耆の日蓮宗諸寺中 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
美作日蓮宗諸寺 | 美作久世興善寺 → 美作の日蓮宗諸寺中 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
備前金山妙見大菩薩 |
2019/07/12追加: 〇「岡山市史 社会編」1968 より 金山山頂に鎮座する。 ※創建については諸説あるようであり、荒唐無稽な話もあるので割愛する。 妙見大菩薩は福運・勝運に強いといい、宿屋や芸者、相場を扱う業者に熱心な信者があり、大晦日に登山し、お籠り堂で年越しをする者も少なくなかった。旧暦3月15日の縁日は蓮昌寺の和尚かきて供養し、山上は参詣客でごったがえしたという。 戦後、寂れてしまったが、休暇村が作られ、車道が山上まで開通したので、再興の気運を迎えている。 ※未見であるが、Web情報では休暇村も廃され、訪れる人も希少のようであり、再興の気運ということではないと思われる。つい最近(2019年)「今保の妙見大菩薩を訪ねる」と、土地古老と云われる人に話すと「え、今更妙見さんとは(珍しい)」といわれた。悲しいかな、どの妙見大菩薩も、かっての流行の姿は偲ばれるも、おおむね廃れている様相である。 |
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備前西崎妙見教会 | →備前御野郡大安寺村中 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
備前濱野妙法寺 | 妙見堂あり。 →備前御野郡濱野村中 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
備前島田本村祖師堂跡 |
題目石(妙見大士)を祀る。 →御野郡上出石村・下出石村・嶋田村中 |
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備前神田祖師堂跡 |
題目石(妙見大士)が祀られる。 →御野郡富田村・新保村・泉田村・西市村・米倉村・万倍村・当新田村・京殿村中 |
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備前新保妙見堂 |
妙見堂に題目石(妙見大菩薩)を安置する。 → 同 上 |
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備前中仙道中村祖師堂石塔(推定) |
石塔中に「妙見大士」の碑がある。 →御野郡今村・上中野村・下中野村・木村・中仙道村・辰巳村・西長瀬村・田中村・平吉村中 |
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備前田中祖師堂(田中の経堂さん) |
石塔中に題目石(妙見大菩薩)がある。 → 同 上 |
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備前上芳賀妙見大菩薩 |
拝殿・本殿を備えるも、現在は放置され、荒廃が進行する。 →備前津高郡芳賀村中 |
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備前今岡上の祖師堂 | 妙見大菩薩石塔を祀る。 →備前津高郡今岡村・山崎村中 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
備前尾上妙見堂 |
何れも、日蓮宗に属する堂・結社であろうが、情報がなく、詳細は不明。 →備前津高郡野殿・尾上・花尻村中 |
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備前花尻妙見結社 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
備前今保妙見大菩薩 |
情報が皆無で、詳細不明。 →備前津高郡白石・久米・今保村中 |
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備前瑜伽大権現 奥院妙見祠 |
詳細は不詳、瑜伽大権現奥院として、妙見宮が祀られる。
特に著名なわけではないが、偶然に遭遇した妙見である。あるいは民間信仰として土着した例とも思われる。 →「瑜伽山」のページの「瑜伽山蓮台寺妙見」を参照 |
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備中中撫川八幡宮 | →備中中撫川中、妙見宮あり。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
備中吉備郡所在の諸妙見 |
備中名越真城寺(板倉妙見):社殿倒壊し、実体は廃寺である。 備中惣爪信教庵 備中津寺黒住妙見宮 備中平野了性寺 → 以上いずれも備中の日蓮宗諸寺中にあり。 |
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備中箕島妙見 | 昭和40年代に退転する。 →備中箕島村中 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
備中立田常昌院 | 当院は安政2年(1855)妙見大菩薩を祀ったことに始まる。妙見堂あり。 →備中高松近辺諸寺中 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
備中稲荷山妙教寺 | 最上稲荷、妙見堂があり、本尊は備中高松城の守護神として祀られた妙見大菩薩であり、花房職之によって妙玄寺に遷され、その後妙教寺(最上稲荷)妙見堂に祀られるという。 →最上稲荷(妙教寺) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
備中中島星友寺 | 妙見大菩薩を祀る。 →備中高松近辺諸寺中 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
備中新庄ほか庚申山 | 山頂に妙見大菩薩を祀る。 →都宇郡津寺村・加茂村・惣爪村・新庄上村・新庄下村中 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
備中山地妙見宮 | 別當は山地受法寺 →都宇郡東庄村、上庄村、山地村、矢部村、日畑村西組・東組中 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
備中諸寺中の諸妙見 |
備中羽島妙忍寺:妙見堂あり。 → 備中妹尾近辺諸寺中にあり。 備中倉敷本栄寺:妙見堂あり。 備中片島妙任寺:三十番神と相殿か |
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備中 北斗山宝積院 妙見宮 (倉敷観龍寺妙見宮) |
寛和元年(985)北斗山宝積院(現在は宝寿山観龍寺と号する)が西岡山西安寺の塔頭として創建されたと伝える。 室町期に、北斗山宝積院は現在地の附近(観龍寺駐車場附近と云うも不明)に移転する。 倉敷村の黎明の頃、妙見菩薩が村の鎮守として祀られる。 あるいは、倉敷村の成立に伴い、西安寺塔頭北斗山宝積院が西岡から倉敷村に移転し、宝積院にはその山号で推測されるように妙見菩薩が祀られ、その妙見菩薩が村の鎮守として崇敬されたとも推測される。 文禄3年(1594)妙見宮は宝積院から妙見山(現在の鶴形山)の東峰に遷座する。 寛永元年(1624)宝積院、現在地に再移転し、宝寿山観龍寺と改号する。 寛永5年(1628)観龍寺は妙見宮別当に任ぜられる。 その後、江戸期に2度伽藍を焼失するも、その都度復興し、現在、本堂・大師堂・山門・客殿・庫裏・位牌堂・淡島堂・妙見宮などを有する。真言宗御室派。 明治2年、神仏分離の処置によって、妙見宮は観龍寺境内に再び遷座する。 2015/09/17追加: 「倉敷美観地区(岡山文庫273)」吉原睦、日本文教出版、2011 より 明治2年神仏分離の処置として倉敷県は観龍寺から妙見宮を分離し、倉敷村の旧家小野太宰に妙見宮の神主を命ずる。かくして妙見宮は一度は分離されたのである。しかしその後県役所は鳥居を外し、仏堂「妙見堂」として妙見大菩薩を再安置して、観龍寺が守護する許可を与える。以降「妙見堂」は観龍寺の仏堂として現在に至ることとなる。 ●Web情報によれば、妙見宮本尊は、「京都の絵師が描いたという妙見菩薩の掛軸」であり、「鏡や剣では」無かったと云う。「妙見山で神仏分離を果した妙見宮ですが、御神体(本尊)であった菩薩は観龍寺に妙見堂として納められ、妙見がないのに妙見宮という名前、さらにお祭りする神様がないという事体(まま)に陥ります。村人は協議の末、神社の名前を地名を採って「阿知」と決め、さらに古くから舟乗りの守り神とされた宗像三女神を福岡県の宗像神社から来ていただき、主祭神にしたのです。明治7年頃のことです。」 「明治40年頃、国はひとつの町にひとつの神社を打ち出します。倉敷町では阿智神社ひとつにまとめられ、○○大明神などの中小お社は合祠されたのち解体、競売にかけられたのです。」 2008/01/31撮影: 備中観龍寺妙見宮1 備中観龍寺妙見宮2:現観龍寺境内に妙見宮は遷座 備中観龍寺山門:山門右の潜り戸を入ると妙見宮の鳥居と妙見宮がある。 備中観龍寺本堂 備中観龍寺境内:西から撮影、石畳突き当たりが山門・その左松の木の後に妙見宮がある。 2015/09/03撮影: 現在、山門・妙見堂・本堂・大師堂・玄関・客殿・庫裏・位牌堂(未見、大師堂の西背後すぐにある)・淡島堂・鐘楼(昭和末期再建)などを有する。 観龍寺妙見堂拝殿1 観龍寺妙見堂拝殿2 観龍寺妙見堂1 観龍寺妙見堂2 観龍寺見上げ 観龍寺山門 観龍寺本堂大師堂 観龍寺本堂1 観龍寺本堂2 観龍寺大師堂 観龍寺淡島堂・稲荷堂 観龍寺鐘楼 倉敷市鶴形山鐘楼 観龍寺諸堂宇 観龍寺客殿・庫裡 観龍寺玄関 観龍寺客殿 観龍寺庫裡 ※やや南に下がった→備中倉敷本栄寺にも妙見堂が在る。 ★阿智神社の由緒を神社のWebページで要約すると以下のようになる。 応神朝、漢の霊帝の曾孫・阿知使主一族は朝鮮半島より渡来した。 鶴形山の頂上に鎮座する当社は、阿知使主一族の大いなる功績を称え、明治時代に現社名になる。 社伝によると神功皇后がこの付近を航行の折、嵐に遭い祈願したところ、三振の剣がこの山に天下ったため、「明剣宮」として、宗像三女神をお祀りしたとされる。 中世、仏説と混同し、明治までは「妙見宮」と称され、旧倉敷総鎮守の宮として近郷近在の人々の尊崇を集めてきた。 宗像三女神は皇祖神、天照大御神と素盞鳴尊の娘神で、海の守護神である。その他、応神天皇などを祭祀する。 ※以上のように阿智神社とは復古神道(国家神道)による明治期の捏造で、復古神道の典型であることがよく表れている。 ★鶴形山とは近代の命名で、中世・近世は妙見山と呼ばれていた。鶴形山とは明治22年頃林孚一の命名という。またこの鶴形山という名称が一般的に定着したのは昭和に入ってからとも云われる。 なお「妙見山には明治維新前、数ヶ寺の寺院があったと云う。曰く、玉泉寺・観音院・清鏡寺そして花蔵院(山伏・修験)。 花蔵院は妙見宮の祭礼に関ったと云う。これ等は今全て廃寺となる。(この項Web情報) ★西岡山西安寺(倉敷市西岡) 天平勝宝6年(754)鑑真和上の開基と云う。 往時は、本坊慈照院の他、来迎院、義燈院、大智院、宝積院(今の倉敷観龍寺)、善勝院、長福寺、多宝院、福樹院、十乗院、持国院、財善院(今の行願院・現存)、龍昌院(現存)の12坊があったと伝える。 室町期、兵火等により焼失、財善院、龍昌院の2坊となる。 |
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備中服部本住寺 | 妙見堂あり、能勢型妙見菩薩を祀る。 → 備中服部本住寺 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
備中玉島玉谷 宣妙院 |
宣明院(妙見庵):倉敷市玉島玉谷公会堂奥にある。 黒崎妙立寺末、享保年間の設立という。(以上が唯一の情報である。) 現在は無住、堂宇・庫裡の内外は荒廃し、境内の一部は菜園と化す。現在は一般信者も含め、誰かが祭祀をしている気配もなし。庫裡の屋根も落ちこのままでは崩壊するのを待つばかりの状態である。 2023/05/14追加: ○「玉島要覧」安藤嘉助、玉島町玉島商工會、昭和12年 玉島町乙島玉谷にある、法華宗の庵で、本尊は妙見菩薩、由緒は古いが詳らかでない。 2015/12/20撮影: 宣妙院入口 宣妙院題目碑三基 宣妙院境内1 宣妙院境内2 宣妙院境内3 宣妙院妙見堂1 宣妙院妙見堂2 宣妙院妙見堂4 宣妙院妙見堂内部:妙見大菩薩の扁額が掲げられる。 宣妙院稲荷大明神 宣妙院庫裡1 宣妙院庫裡2 |
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片山(貴山)妙見神社(祠) |
岡山県倉敷市玉島柏島片山、片山公会堂の北の山にある。そしてこの北の山には現在、「貴船様」(地図では貴船神社などというべらぼうな名称がつけられているが)と妙見祠が祀られる。但し、妙見社の現状は神社というには値せず、民家の中にある畑の一隅の小祠に祀られる。妙見祠には能勢型妙見大菩薩(刀剣は欠)を祀る。 ところで、この片山の地は柏島の一画であるが、古代柏島は瀬戸内海の島であり、現在山陽線や旧国道2号線の走る低地は海であり、海峡であった。そして古代この海峡は内海の航路であった。この地には、飛鳥期、唐の國から来た船がこの地で難破遭難したとの伝承があり、故にこの附近の地名は「唐船」という。さらに、この難破した船には「貴人の姫」が乗船していて、犠牲になったといい、貴人の乗船していた船つまり貴船という意味で、その貴人の姫を「唐船」の南にある柏島の一画である片山(貴山)に「貴船様」として祀ったという。この「貴船様」は今に片山(貴山)に祀られている。 なお、この妙見は「真備町の柳井原の妙見を勧請」というも、真備町柳井原とは不明、隣接する船穂町の柳井原か、しかし船穂町柳井原には多くの社・祠があるようであり、どこの社・祠から勧請されたかは特定できない。 さらに片山の南の山の中腹には観音堂があり、観音堂小宇と3つの小詞と石仏などがある。 2016/01/02撮影: 片山妙見祠 片山妙見大菩薩:向かって右の木札には妙見神社とある。左は意味不明。 片山貴船様 片山観音堂 観音堂如意輪観音:片山観音堂本尊 |
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備後福山長正寺 | 妙見堂がある。但し由緒は不詳。 →日蓮宗備後の諸寺中 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
備後草戸半坂妙見社 |
◆以下備後の妙見大菩薩 備後草戸半坂三十番神ノ社<備後の日蓮宗諸寺中>の南側丘の山頂にある。 水呑金鶏山妙見から分祀されたものと考えられる。現在の建物は昭和中期に再建されたもの。 拝殿内には北辰妙見大菩薩縁起と明治35年の絵馬が懸けられる。 2016/01/01撮影: 半坂妙見社社殿 半坂妙見社社殿内部 |
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備後水呑宝山妙見山(金鶏山妙見教会) |
元和8年(1622)水野勝成、常興寺山に築城する。 築城を終えると、勝成は藩財政の強化を図るため、領内の鉱山の調査・試掘を開始する。 当時、妙見山の所在する洗谷は中世の鉱山として知られていて、土地の者はこの山を宝山と呼んでいた。しかしこの金山(かなやま)は、近世初頭には閉山をしていたが、勝成の政策によって、寛永後期から正保にかけて、宝山の採掘(銅)が再開される。 勝成は銅の産出を喜び、新しく建設した城下町を、銅の出る宝山に対比して、福山と名付けたともいう。 ところで、中世の金山(鉱山)には多く妙見大菩薩が祀られていたという。これは周防の大内弘幸が氷上山の妙見大菩薩の託宣により石見銀山を発見したという故事に基づくものという。 宝暦元年(1751)宝山に妙見大菩薩が祀られ、これが近世の宝山妙見山である。 安政5年(1858)3尺×4尺の堂を建立。(この堂が何を指すのかはよく分からない。) 明治元年本堂再建。 明治5年神仏分離の処置で祭神をアメノミナカヌシに変更して明見神社と改号する。 明治14年地元の信者の運動の結果、仏斎に戻り、本尊が妙見大菩薩に復する。この年現在の祖師堂を建立する。 明治41年東南傾斜に石垣を築きはじめるも、これは未完。 今次大戦で梵鐘供出、昭和22年新梵鐘鋳造。 昭和27年金鶏山妙見教会と号し、日蓮宗に属する。 ※洗谷銅山跡:江戸初期に野々口主国が『草戸記』で触れた「かな山」の跡をいうのであろう。従来、主国のいう「かな山」は、宝山(妙見山)に存在したと考えられてきたが、現在では、その跡は南側の谷筋に存在することが判明している。縦坑二ヶ所が存在するという。 2016/01/01撮影: 宝山妙見遠望 宝山妙見参道石階 宝山妙見伽藍1:本堂及び祖師堂 宝山妙見伽藍2 宝山妙見本堂1 宝山妙見本堂2 宝山妙見本堂内部 本堂妙見大菩薩1 本堂妙見大菩薩2 本堂妙見大菩薩3:いわゆる能勢型の妙見大菩薩であろう。 宝山妙見祖師堂:祖師堂内部は未見 宝山妙見庫裡1 宝山妙見庫裡2 宝山妙見鐘楼1 宝山妙見鐘楼2 宝山妙見梵鐘1 宝山妙見梵鐘2 ○備後水呑妙顕寺境内図 備後水呑妙顕寺境内図:ページ「水呑町の六ヶ寺」から転載 、金鶏山が描かれる。 宝山妙見山は、水呑妙顕寺によって管理運営された日蓮宗の霊場という。あるいは金鶏山は水呑妙顕寺の末寺とも云う。 2016/01/25追加: 備後國金鶏山朱印1 備後國金鶏山朱印2 |
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備後水呑小水呑妙見 |
現地説明板より: 摂津能勢妙見より勧請。元禄13年(1700)以前の創祀である。本殿は一間社入母屋造、妻入、本瓦葺。 (但し本殿の現状は一間社流造、屋根銅板葺である。) 明治5年神仏分離の処置で祭神をアメノミナカヌシに変更し、妙見神社と改号する。現在も妙見神社のままである。 2016/01/01撮影: 小水呑妙見1:鳥居の年紀は安政6年(1859) 、扁額は妙見大菩薩とある。 小水呑妙見拝殿 小水呑妙見本殿1 小水呑妙見本殿2 |
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備後水呑妙見大菩薩 |
ページ「水呑町ー山之神」では 元和2年(1682)当地の信者が摂津能勢妙見大菩薩を勧請、開眼が水呑妙顕寺17世日円(?)上人。 元禄12年(16999)水呑村山藪寺社改帳では本尊妙見大菩薩、別当は水呑妙顕寺とある。 文化元年(1804)堂宇改築。 明治5年神仏分離の処置で祭神をアメノミナカヌシに変更し、明見神社と改号する。 明治41年社殿焼失、仮堂再建。 大正4年水呑妙顕寺より妙見像を遷座、社殿再建。 昭和27年妙見神社となる。 2016/01/01撮影: 水呑妙見 水呑妙見内部 水呑妙見題目碑:大正8年年紀 鳥居:弘化2年(1845)建立。常夜燈:弘化3年奉納。 |
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備後水呑妙見川 |
水呑町ー山之神 山沿の街道沿には多くの泉があり、これが水呑の地名の由来と考えられる。 ※この泉もその内の一つで、明見川の源であろう。因みに明見川とは、この泉が水呑妙見大菩薩の社の傍らに、湧くからであろう。 2016/01/01撮影: 水呑妙見川源泉 |
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備後竹添妙見大菩薩 | →備後山田の諸寺中にあり。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
備後岡之丸妙見社 |
「福山市熊野町誌」昭和59年 より 高下字岡之丸。明細帳には岡神社とあり祭神は猿田彦、社殿3尺×️2尺、民有地1坪、・・・・・・・ 現在、社屋は4尺×6尺のコンクリート製で奥の祭壇に高さ44cmの小宮が置かれ、内に木札が入れてある。表に「奉勧請迫田妙見大菩薩攸」、裏に「昭和57年6月吉日」とある。迫田とはこの付近の地名である。 ※要するに、この社は猿田彦を祀る岡社であったのであろう。ところが近年(昭和57年)附近の迫田より妙見大菩薩を遷座させ妙見大菩薩を祀ったのであろう。この意味で迫田妙見とも云うべきものであろう。 いずれにせよ、実態は良く分からない。あるいは妙見の実体は殆どないのかも知れない。 |
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備後艮妙見社 |
「福山市熊野町誌」昭和59年 より 高下字妙見。明細帳には艮神社で、祭神は吉備武彦・・・、社殿は1間半角、官有地244坪、・・・・とある。 現在本殿は1間角で2尺の回椽付銅板葺流造、拝殿は2間半×2間・屋根銅板葺、昭和42年建立の棟札がある。本殿の後には1間×1間半の神輿庫がある。 土地の人は妙見さんと呼ぶも、本殿回椽のにある三宝ローソク立には艮神社明治40年青年会と刻してある。しかし祭の時の幟には「艮妙見菩薩」と染めてある。参道入口に石鳥居が建ち、天明8年の再建との銘がある。その前方に高さ230cmの常夜燈1基が建ち、竿の一面に「妙見大菩薩」、他面に「正八幡大菩薩」と彫られ、年紀はない。 ※実態が良く分からないが、祭神が変転していったということであろうか。妙見大菩薩も一時期は祀られていたということであろうか。 |
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周防降松妙見宮鷲頭寺 |
敏達7年(578)都濃郡鷲頭庄青柳浦の松樹に大星が降臨し7昼夜輝き、「吾が霊をこの地に鎮祭せよ」との託宣があり、北辰尊星妙見大菩薩として祀ったという。あるいは推古3年のこととも
云う。 託宣には「百済国皇子琳聖太子を招請せよ」ともあり、推古5年琳聖太子が来朝、星供を修す。琳聖太子は大内氏の太祖と云う。(中世・近世にはそのように流布する。) 推古3年(595)青柳浦桂木山に遷座する。青柳浦を降松(下松)と改められる。 推古11年(603)高座垣山頂に社殿を建立し北辰妙見社と称する。同十七年(609)鷲頭山の山上に上宮、中宮を建立する。 和銅2年(709)大内正恒が高鹿垣に上宮を建立との伝説あり。 中世には大内茂村が、山口氷上山(清上山)に北辰妙見社を勧請。(試みるも果たさずとの異説もあり。) 大内広世は下宮を造営し7坊を置く。広世文和(北朝)元年(1352)鷲頭氏を攻略して周防国を制圧。 大内義弘は、応永元年(1394)中宮に五重塔、仁王門を建立、七州(防・長・石・豊・泉・和)の各地に北辰妙見を勧請し、鷲頭山は妙見本宮とされる。 毛利元就は永禄年中に社殿を修造。 慶長13年(1608)大火により社殿を焼失。中宮本殿(大永3年(1523)大内義興再建)は焼失を免れる。 元和年中毛利就隆(徳山藩主)下宮を現在の地に移し若宮とした。 明和4年(1767)毛利就馴若宮再建、文化4年(1807)山門再建(氏子中) 明治3年神仏分離の処置で降松神社と改称、祭神は天御中主とされ、妙見菩薩は7坊の内の閼伽井坊に遷座。(事情は不明であるが、閼伽井坊は鷲頭寺と号する) 明治12年鷲頭寺(真言宗御室派)は現在地に移転。降松神社は県社となる。(時期不詳) 2023/03/04追加: 参照資料: ○「絹本淡彩妙見社参詣図」法眼信喬、文化5年(1808)、妙見宮鷲頭寺蔵 ○「写真(昭和30年代の下松)」 ○「妙見さま」杉原孝俊、妙見宮鷲頭寺、昭和60年4月7日 ○「文献史にかいまみる妙見さま」杉原孝俊、妙見宮鷲頭寺、平成29年5月1日 ○「下松市史異説」河村蒸一郎、平成14年 以上は何れも、「下松市 郷土資料・文化遺産デジタルアーカイブ」>「星をまつる 妙見信仰」にある。 ○「絹本淡彩妙見社参詣図」法眼信喬、文化5年(1808)、妙見宮鷲頭寺蔵 より 江戸後期の妙見宮鷲頭寺が描かれる。 特に中宮には現存する仁王門、その背後には五重塔跡、左手には七坊跡・別當鷲頭寺跡等が描かれる。 絹本淡彩妙見社参詣図・小:下図拡大図 絹本淡彩妙見社参詣図・大:参詣図大画面 絹本淡彩妙見社参詣図・中宮部分図 絹本淡彩妙見社参詣図・中宮部分図文字入れ ○「写真(昭和30年代の下松)」 降松神社・妙見宮鷲頭寺として仁王門の写真が掲載される。 昭和30年代鷲頭寺仁王門 ---------- ○「妙見さま」杉原孝俊、妙見宮鷲頭寺、昭和60年4月7日 より ※以下は抜粋・要約である。 大内氏の歴史からみれば、琳聖太子は百済国の王子であり、七州の太守大内氏の太祖にあたり、政治・権力の産みの親にあたる。 しかし、妙見宮鷲頭寺の立場から見れば、鷲頭寺は妙見宮の宮寺であり、この宮寺が妙見信仰の発祥の地であり、日本ではじめて星祭りがなされたところである。 妙見宮鷲頭寺縁起では次のように語られる。 時に、推古三年九月十八日、周防国都濃郡鷲頭庄(下松市)青柳の浦に忽然として、天より赫々たる大星降って松樹の上に留って、七日七夜、光明を放つこと満月のようであった。 この現象が全ての始まりであった。 この降星は託宣して曰、我は是、北辰妙見尊星なり。今より後三年して三月二日に百済国の琳聖太子此国に来るべし。このことを聖徳太子に告げて、彼の琳聖を此の国に留むべしと告げ玉ふ。・・・云々” 而して、琳聖太子は、遙に波濤を越えて推古天皇五年三月二日に周防国佐波郡鞠生(マリフ)の浜(防府)に着船し玉ふ。後に多々良浜と名く。 この着岸した琳聖太子の接遇をしたのが、聖徳太子が寵愛していた秦ノ川勝である。 琳聖太子は、青柳の浦の桂木山(宮ノ洲)の嶺に宮殿建立を決意され、百済国よりつれ来たった僧侶や家来・工人達に九月十八日の大星降臨の縁日まで完成させるよう指示する。 旧鷲頭寺の絵: →※桂木山の宮殿図であるが、全くの想像図である。 推古十一年には冠位十二階位が全国に制定され、その年、下松の高鹿垣嶺(たかせかきみね)(茶臼山)に上宮が建立される。 そして、その年の秋、桂木山(宮ノ洲)に閼伽井坊(後の鷲頭寺)が建立される。 つまり、上宮・中宮(桂木山)・下宮(後代の事)・閼伽井坊建立で妙見さまの宮殿が完成される。 高鹿垣の嶺に星宮を建立、これを上宮といい、御霊(おんみたま)は北斗七曜石と七宝の玉を納め、祀る。 また中宮には、妙見菩薩を祀り、下宮には、上宮・中宮の御神体である御霊を勧誘する。 推古十二年には憲法十七条も全国に発布される。 推古十三年には推古天皇・聖徳太子より、これらの働きに対して、琳聖太子に多々良の姓がおくられた。 推古十七年、鷲頭山の頂に上宮・中宮を遷座することになる。 その後、幾多の星霜を経て、(多々良の後裔である)大内家の氏神信仰は大内茂村(大内氏四代)の時、下松妙見社分霊を山口の氷上山にお祀りすることからはじまる。 大内正恒四代孫茂村によって、また鷲頭山の妙見社の宮殿が再建される。 大内氏十一代満盛の時代にもまた再建される。 その後、大内氏十七代弘世の時、下宮を鷲頭山麓赤坂に建立、また中之坊・宮之坊・寳樹坊・寳積坊・寳藏坊・寳泉坊・閼伽井坊(後改名宮司坊)の七坊が建立される。 弘世の子、大内氏十六代義弘は明徳二年(1391)の内野合戦に大敵山名氏を亡ぼし、南帝を補佐して嵯峨に遷し奉り、三種の神器を守護して宮中に奉遷した功により、従四位上に叙せられ、京都管領職となる。 大内義弘は、これは下松の北辰妙見尊の冥利なりと感謝し、鷲頭山に仁王門と五重塔を建立する。 なお、長門深川の妙見社は1410年〜1430年頃、鷲頭弘忠が長門の守護代の時、下松の妙見社から勧請されたものである。 大内家二十六代義興は妙見社の中宮を再建する。 戦国期、遂に、大内氏の滅亡し、妙見社は少しさびれる。 しかし、毛利元就は永禄四年(1561)尼子氏滅亡の宿願によって社殿を修理し、信仰は大内氏に譲らず、次で七坊の一つである宮司坊を鷲頭寺と改め、山号を妙見山と称し、これによって現在の妙見社鷲頭寺が出現する。 永禄十二年にも、また毛利氏は上宮の再建を行っている。 毛利氏によって再建された妙見社は慶長十三年二月六日夜、上宮を始め中宮拝殿・仁王門・五重塔・七坊・寳蔵・經蔵まで悉く焼失し、僅かに中宮本社を残すのみであった。 その後上宮内社を建立、元和年中、徳山藩領となり、同藩主毛利就隆が赤坂の宮を宇吉原に遷して若宮と呼ぶに至ったのである。 以降、妙見宮鷲頭寺は徳島藩毛利氏の庇護を受け、発展する。 江戸期、以上の意味で鷲頭寺は安定していたが、慶応4年神仏判然令が出され、激震が襲う。 明治三年鷲頭寺と妙見宮とは分離され、鷲頭寺は遷座する。 遷座より九年目、遷座賛成派と反対派の軋轢があるも、明治十二年十二月十七日、上宮・中宮の全ての御本尊と鷲頭寺の御本尊を、現在の地、下松市中市に遷座する。 明治二十七年四月十一日夜、遷座した鷲頭寺は火災にあう。 ---------- ○「文献史にかいまみる妙見さま」杉原孝俊、妙見宮鷲頭寺、平成29年5月1日 より ※以下は抜粋・要約である。 ◇妙見社の縁起 当社の伝記は、山口県都濃郡の鷲頭庄(下松市)の青柳浦の松の木に北斗七星尊星王、妙見菩薩として降臨された物語である。 妙見社に関する史料として『鷲頭山妙見縁起』、『鷲頭山舊記』、『妙見山古記』の三点が残る。 (1)『鷲頭山妙見縁起』は神主である近藤左衛門の書写である。 「敏達天皇御賢称、戊戌(つちのえいぬ)之秋(七年=587年)、鷲頭庄豊井浜と申所に虚空より大なる星降下、松の梢(こずえ)に宿リ在(いま)し、昼夜光を放、世界に赫々たり、口(ソ)俗希代之思を動し男女不審之心懐(いだ)く、于(その)時童子出現せり、爾(しか)も神通之瑞相と見たり、其故地を去て七尽虚空に住す、加之託宣して曰、吾則妙見尊星也、今七年経て異国より太子来朝に可渡、彼太子を守護せんが為、此所に来たると云々、北辰松に下り坐すに依て下松と申也、同秋新宮に遷申也、然るに琳聖太子鏡常に年申辰(きのえのたつ)渡朝と云々…」 (2)『鷲頭山舊記』鷲頭寺 には以下のようにある。 「抑日本最上北辰尊星王之降臨者、人皇三十四代推古天皇之御宇三年乙卯(きのとう)九月十八日、周防国都濃郡鷲頭庄青柳浦松樹大星天降而七日七夜、赫々面不絶輝御人奇異之成疑慮、于(その)時託巫人吾是北辰也、今經三年百済国之皇子可為来朝其擁護北斗于此為下降云々仍而国司江奏之、多々良傅記云「百済国之高祖薀祚王漢之鴻嘉(こうか)三年発亥(みずのとい)春郡を河南国に開きて馬韓と號す。百済玉璽を以て王位に立つ、是皇極と云ふ、北斗を祀(まつ)て符を以て萬物に示す是王法と謂、温祚王三十九世之孫武王(名を璋明と号す)璋明三子あり、第一子義慈王、第二子阿佐太子、第三子琳聖太子、太子拝北斗事年久、一夜夢中老翁来而海を示し、東海に日本の国名あり、是国之王子 聖徳太子と号す、即生身観世音菩薩也、是国に到む王法を傳之国家を治めしむべしと、吾即斗なりと謂ひて去る。茲に因て琳聖太子渡海せんと欲す」 (3)『妙見山古記』 鷲頭寺 には、多々良氏譜牒日からはじまっている。 「推古天皇御宇十七年己巳(つちのとみ)周防国都濃郡鷲頭庄青柳浦有大星、留在松樹上而七昼夜赫不絶、国人成奇異之思也、時託巫人曰、異国太子来降て日本、為其擁護北辰下降云々、因改其此曰、下松浦、祀星奉称妙見尊星王大菩薩社以祭之、経三年辛未(かのえひつじ)歳百済国斉明王第三皇子琳聖太子来朝…乃琳聖謁て聖徳太子荒陵、割周防大内県以為菜邑(おお)之地、賜姓多々良爾来(じらい)綿々不絶、其後妙見大菩薩従下松浦移于(その)柱木宮、今宮洲也」 ◇日本における天皇と北辰祭祀 (省略) ◇大内氏の妙見社 文和四・正平十年(1355)大内弘世は、大内氏一族を統一し、鷲頭庄の妙見社に七坊(中坊、宮の坊、宝樹坊、室積坊、宝蔵坊、宝泉坊、閼伽井坊)を建立し、また、下宮を赤坂の地に建立する。(『鷲頭山舊記』) 応永元年(1394)十月大内義弘、鷲頭庄の妙見社に五重塔、仁王門を寄進して武運長久を祈る。大内義弘は応永六年(1399)、朝鮮国王定宗に旧百済国の一部の土地を、百済国高氏の後と称し、求める。(『大内氏実録』と思われる。) ◇江戸時代の妙見社鷲頭寺 毛利元就は永禄四年(1564)尼子氏滅亡の宿願によって妙見社の社殿を修理し、御神輿三体と大太刀、木馬などを寄進するなど妙見菩薩に対する信仰は大内氏に譲らず、次いで七坊の一つである宮寺坊を毛利元就の命によって、鷲頭寺と改め、山号を妙見山と称し、これによって現在の妙見社鷲頭寺が出現することになる。 妙見社鷲頭寺はこの時<永録十二年(1569)>「八箇国御時代分限帳」によれば、九十石を毛利輝元から与えられていた。 毛利氏によって再建された妙見社は慶長十三年(1608)二月六日夜火災が起きて、上宮を始め、中宮拝殿、仁王門、五重塔、七坊、寶蔵、経蔵まで悉く焼失し、僅かに中宮本社を残すのみであった。 ※次の明細は、明示がないので不明であるが、おそらく江戸中期頃の鷲頭寺の明細の書付であろう。 河内村 鷲頭寺 都濃郡河内村 妙見山由来 鷲頭寺 都濃郡河内村妙見山 一、上宮 社九尺四方瓦葺 但、上宮へ坂本より二十町 本尊虚空蔵 御長壱尺三寸 琳聖太子御情(請)来也 一、中宮 社弐間三間檜皮葺 但、中宮へ麓より十八町 釣屋九尺弐間瓦葺 拝殿二間三間同断 (中略) 中尊妙見尊木像 御長壱尺五寸 琳聖太子御情来、千手観音像金仏 御長壱尺壱寸 右同断 千手観音木仏 御長三尺、琳聖太子木像 御長九寸五歩、推古天皇像 御長九寸三歩 閼伽井 中宮の東二有 仁王門の跡 築石計有 尤二王は只今中宮に有、作不知 五重塔跡と申伝候所数多有之 坊中旧跡と申伝候所数多有之 一、若宮弐間半四間瓦葺 一、御幸所弐間二五間 (中略) 一、本尊不動并二童子 但、弘法大師作 一、両界曼荼羅、 一、地蔵木像 一尊 一、千手観音木像 一尊 一、虚空蔵木仏 一尊 一、不動木像并二童子 (中略) 一.当寺末寺蓮台寺、都濃郡山田ニ有之候、当国三十三所第十一番の札所、 本尊如意輪観音、行基菩薩の御作、観音堂弐間三間也 右当山一巻旧記若斯御座候、以上 寛保元年(一七四一年) 都濃郡河内村真言宗妙見山 酉十二月 鷲頭寺 印 現住 祖海 井上武兵衛殿 ◇神仏分離と妙見社鷲頭寺 大内氏は山口県を中心に栄えた大名で出自は推古時代に来日した百済の王子の琳聖太子を元祖として室町時代には大大名として大阪の堺、福岡の博多を支配し、勘合貿易の利権をも獲得し、大内氏の居城であつた山口市は、京都をしのぐ繁榮をもたらした事もあり、その大内氏の氏神として妙見菩薩が祀られ、妙見信仰発祥の地とも言われてきた所でもある。 『下松市史』には次のような消息がみられる。 一 明治三年江庚午九月四日妙見尊体神仏之義朝廷へ御伺出相成、御差図之旨を以来十日より神祭被仰付、依之社坊鷲頭寺被差除、社頭引請之義追而御詮議相成語迄黒神直敬江当分取計被仰付之、 同四年辛未九月十日直敬取計被許之原田重庸、近藤由纈両神主に被仰付之 一 同年九月七日妙見社号降松神社改号成 明治三年九月四日妙見尊像の件は朝廷にお伺いした。十日より神祭でするように、よって妙見尊像は鷲頭寺にうつすように。社頭の引き継ぎは御詮議がすむまで黒神直敬が当分するように。 明治四年九月十日、黒神直敬の取り計らいで原田重庸、近藤由纈両神主にきまった。 徳山藩で最大の八幡樣の遠石八幡宮の宮司の黒神氏は明治三年神社役取立方に任命されたので神仏分離について、庄屋番頭に新政府の方針を正しく伝える必要があった。 彼が至急しなければならない当面の事業は、神仏習合の中心である妙見社をスムーズに下松神社と名称を改め、妙見社の御神体である妙見大菩薩より天御中主神に改めることであった。 黒神氏はしばらくの間、妙見社の宮司になった。この為、妙見社の上宮、中宮の本尊である虚空蔵菩薩、七曜石、中宮の本尊である妙見菩薩、脇持仏である琳聖太子、推古女帝、十一面観音を千数百年間鎮座された場所より、鷲頭寺の観音堂に遷座することになった。 明治四年九月十二日付けで黒神宮司は原田、金藤両神主に下松神社をまかすこととなる。 下松市の明治時代の各村の無資格末社(府県、郷、村社に入らない社)数は、大藤谷村(3社)、温見村(3社)、瀬戸村(3社)、切山村(1社)、下谷村(4社)、生野屋村(4社)、山田村(5社)、河内村(13社)、来巻村(2社)、東豊井村(6社)、西豊井村(12社)、末武上村(1社)、末武中村(1社)、末武下村(2社)、平田村(2社)、笠戸島(0)河内村を中心に山田村、生野屋村、東豊井村、西豊井村、来巻村、と末社数は43社にもなり、すべて河内村の妙見社の末社であり、妙見信仰がこの地域に深く浸透していたことを物語るものである。 妙見社と言うのは鷲頭山の中腹に中宮があり、頂上に上宮があり、上宮に七曜石と虚空蔵菩薩がお祀りされ、中宮に妙見菩薩の本尊と琳聖太子、推古天皇、十一面観音菩薩がお祀りされていた。 明治3年、妙見社(上宮、中宮、下宮)は降松(下松)神社となり、臨時の措置として黒神氏が神主となった。 その後、妙見社鷲頭寺の住職河村明範師は妙見菩薩を観音堂でお祀りしては神仏混合での祭式ができなくなると感じ、吉原の地より妙見菩薩降臨の地、下松町に遷座すべく準備をすすめていく。 だがこの移転は周防一円の真言宗寺院と河内村と下松町の住民をあげての賛成、反対の大騒動に発展した。 移転賛成派は下松町の住民で八百余名の賛成連署をもつて住職河村明範師を助け、西市の正福寺住職中村一現師とともに移転の準備をする。 それに加えて、鷲頭寺の本山である御室仁和寺も巻き込まれ、混乱に拍車をかけることとなる。 一方、反対派は河内村の住民で村の盛衰にかかわると考え、周辺の真言宗寺院の住職と反対の〈のろし〉をあげた。 このような状態の中、明治十二年十二月十七日に下松町中市に御遷座した。現在の下松市中市の妙見宮鷲頭寺である 本山仁和寺に報告した遷座後の鷲頭寺明細帳は次の通りである。4 本尊 妙見仏 御丈 一尺一寸 木像 一体 推古天皇 御丈 一尺五分 木像 一体 琳聖太子 御丈 一尺五分 木像 一体 不動明王 御丈 二尺一寸 木像 一体 千手観音 御丈 一尺五分 金像 一体 弘法大師 御丈 一尺三寸 木像 一体 二王尊 御丈 五尺九寸 木像 二体 観音像 御丈 一尺 木像 三十三体 (以下省略) 建物・・・・・画像あり 河内村から移転された中宮の本尊妙見菩薩と、鷲頭寺の本尊不動明王は、新しく建設された権現造りの本殿に妙見菩薩を本尊として祀り、鷲頭寺の本尊を脇物として、妙見社鷲頭寺を妙見宮鷲頭寺に改名し、本尊を妙見菩薩とする。 鷲頭寺が河内村から下松町に移転後、河内村の村民は新しく妙見堂を建設するため地方庁に申請し、その許可を得る。 そして妙見堂が新しく河内村に建設されるが、数十年後その存在すらも忘れ去られる。 ※この新しく建立された妙見堂の経緯、このことの示す降松妙見信仰の意味などについては下に掲載する「十三 妙見山鷲頭寺の移転と妙見堂の創建 ――妙見山潮流と私見――」の項に詳しいので参照すべし。 また 山口県地域に数多くあった妙見社の末社26は神仏分離のため神社となり興隆寺の妙見社と鷲頭寺の妙見社のみ妙見菩薩を本尊としお祭されており、あとの妙見社は新しい御神体(天御中主神)をお祭りしたり、まつたく新しい神を御祀りしているところもある。だが現在は、鷲頭寺、興隆寺を除き妙見社のほとんどは神社の管理に委ねられている。 ---------- ○「下松市史異説」河村蒸一郎、平成14年 ※以下は抜粋・要約である。 十一 妙見山の経緯と神仏分離説再考 (一) 論旨(神仏分離と改号) 明治元年(1868)三月神祇官の指令により、因襲久しい神仏習合の弊を改めるに当り、妙見菩薩など今まで仏語をもって神号としたものは、その由緒をただして神・仏を分離し、社名を改号することとなる。これにより妙見社は、神・仏を分離後降松神社と改称したというのである。 ※妙見宮鷲頭寺をめぐる明治維新の神仏分離の説明には、世上出回るありとあらゆる著作物が以上の見解を示す。 しかし、はたして、そうであろうか。まず妙見信仰の歴史的経緯を簡単に見て置きたい。 妙見は、北辰信仰として本来道教的色彩が強く、特に北辰・北斗信仰を中心とする一つの思想として、渡来人により半島(百済)を経由して伝来したとも言われている。中世以前は、漠然としてよるべき史料を欠くが、特に中世末・近世に至っては、一山に於いて、我国の伝統的神道との関係は、稀薄であって、妙見社は真言(鷲頭寺)を中心として、成熟した発展期を迎えている。 このようにして妙見信仰が仏教と習合し、密教支配に至った原因は、 (1)何よりも教義に於いて共通する内面を有したことであろうが、他に (2)妙見(北辰)信仰が固有の教団(本山)を有しなかったこと、 (3)更に妙見信仰と密教がともに山岳に於ける呪術的要素を有する等近親な一面を有していたことに起因すると思われる。 ともかく妙見社は、中・近世密教的臭味が極めて強く、日本固有の神道による影響を全く無視することは出来ないまでも、神仏混淆形態の範疇に入れるべきか、その経緯と実体について疑問とする点が多い。 即ち神仏習合を「日本固有の神道と仏教との融合」と定義してよければ降松妙見社の実体は、歴史的にも「外来神たる北辰信仰と密教の融合」であって、主体たる日本固有の神道(神社)の存在を私は疑問とするからである。 前掲:絹本淡彩妙見社参詣図・大:参詣図大画面 絹本淡彩妙見社参詣図・中宮部分図文字入れ 既に中世末期には、降松妙見社は仏像を祀り、僧侶による勤行が行われ、例えば上宮遷宮式等に際し、神官の同座がないことが永禄四年(1561)や永禄十二年1569)の棟札からも明らかである。神事は神官と僧侶の共同作法ではなく、密教による仏前勤行であった。 維新政府の神仏分離により神社から仏教色を排除したのではなく、寺院から仏教的色彩を排除した感がある。 神仏分離が政府の予期せぬ廃仏毀釈に発展したのではなく、政府が廃仏を断行したとの見方もできよう。 降松妙見社については、「神仏分離」や「改号」は、その歴史的実体と懸け離れており、神道国教化政策遂行上の詭弁のように思えてならない。 たとえ百歩を譲るとしても、少くとも中世(末)・近世に於いて、一般の神仏混淆形態とは大きい差異が認められる。 本論は、このような妙見社の特異な一面を強調し、神仏分離説に再考を願いたいと思うものである。 更に特筆すべきは、素朴な村民が因襲久しい妙見社と明治三年新しく迎えた天之御中主命を祀る降松神社とは、異質の神(社)と理解していたことである。 単に社号変更とは解さなかったのである。このことが、妙見尊(鷲頭寺)を明治十二年豊井村へ移転後直ちに妙見社旧地(吉原)への「妙見堂」創建を惹き起すのである。 世に排仏毀釈を当時の世情とする説もあるが、これも又妙見社には当て嵌らない。 尚「妙見堂創建」に関する一件は他日稿を立てることとしたい。 ※下に掲載する「十三 妙見山鷲頭寺の移転と妙見堂の創建 ――妙見山潮流と私見――」がそれである。 (二) 縁起に見る妙見社創建と祭神 これらの縁起(※例えば『鷲頭山旧記』)が、たとえ大内氏の作為によるものであっても、異国(百済)の太子(琳聖)守護のために、日本固有の神が天降ったとすることは、信仰理論上の矛盾である。 琳聖守護の星も、太子が神として祀った神体も、持来の北辰尊星も渡来人(琳聖)の信仰の範疇でなければならない。 琳聖が百済より持来の北辰尊星のご神体は、日本固有の宗教である神道とは、無縁であることに注意をいたすべきである。 桂木山星殿に祀った北辰尊星のご神体は、百済より持来した北辰(七曜石)であって、その意味では「青柳浦(下松)に星が降った」のは後世土着による伝説にすぎないであろう。 最近は、琳聖を仮空とする説が有力であるが、いずれにせよ妙見北辰思想は、外来の何人かによって、伝播されたことに相違はあるまい。 一般渡来人だとすれば、星殿建立までにやや長期を要したであろうが、妙見尊星が異国の神であることに違いはない。 北辰信仰が、渡来人により伝来した当時の祭神(名)は判然としないが、『旧記』による推古期の星殿創建時には、後述するように「北辰妙見尊星王」や「北斗七曜石」を祭祀している。 星信仰が土着し、やがて仏教の習合により妙見菩薩と称せられたのは、一般に奈良末期から平安初期頃のこととされるから、前掲の『譜牒』や『旧記』に於ける星殿創建年代に誤りがないとすれば、妙見菩薩を祭神とするのは、社殿創建後かなり後のこととせねばならない。 それまでは、星殿としての山岳に於ける呪術的性格が強かったものと思われる。 即ち星殿創建時代百済より持来の北辰星の神事は、渡来人の伝統的儀式や陰陽道との習合による呪術的修法を原形としたものと推考して大きい誤りはなかろう。(註) (註)既に仏教と習合し妙見菩薩として移入されたとする見解もある。 (三) 北辰信仰の渡来と密教の習合 妙見信仰は、伝統的日本神道からすれば、外来信仰であり、「蕃神」に属すべきものであって史料の上でも下松妙見社に於いては、固有神道との直接の習合は認められない。 伝統神である「天御中主命」が天降ったとする文献上の記録は、明治初年に至り、原田宮司の上申書(第六十号五冊の内・『旧徳山藩神社明細帳』社寺掛)が初見であって単なる創作にすぎない。 後述するが、神職の職名である宮司や鳥居・神楽・上宮・中宮等の存在は、歴史的経過の中で、神道等他宗の影響を受けたものであろうが、一種の日本的発展・土着化によるものと解したい。 蓋し如何なる宗教と雖ども千年に亘る時代経過の中で、他宗と無縁の発展はないからである。 一つの例を挙げよう。先に述べたように、我国に於ける古い時代の神祭は、その折り必要な施設を設け、現在のような恒久的神社建築は、なかったようである。神社が恒久的社殿や神像を造りはじめたのは、ほぼ飛鳥時代以降のことで、仏教寺院の影響を受けたものと考えられている。 又神像は仏像の、家庭内の神棚は、仏壇の影響によって普及したものである。 このように長い歳月の間に影響し融合し乍ら日本化的発展をとげたのは、すべての宗教に於いて言えることであって、このことをもって習合形態と称するには当らない。 (四) 『大内多々良氏譜牒』と下松 (省略) (五) 大内氏・毛利氏と妙見社の沿革 (前略)『旧記』には義弘の代明徳二年(北・1391)に、鷲頭山へ仁王門・五重塔を奉納したことを述べている。 これらは、いずれも慶長十三年(1608)一山の火災により焼失したが、『寺社由来』寛保元年(1741)では「築石計有之」として火災後も礎石が健在であることを藩へ上申した記録がある。 又社坊の礎石もあちこちに存在していたらしく、明治四十五年・大正八年の中宮公園創設の際取りのぞかれたという複数の証言がある。公園に使用した石は和歌水(若水)の浴の亀池の少し上の岩と社坊跡の石であるという。 (六) 氷上山興隆寺と下松妙見山の亀池 (省略) (七) 棟札による共同奉祀形態の検討 花岡八幡宮が神を祀り、神官(大宮司)と僧侶(別当・地蔵院)の共同による神前勤式であったのに対し、妙見社は、ご本尊を安置し、既に中世末僧侶(別当)が真言の儀式作法に基づき、読経をもって仏前勤行にあたったのである。 (八) 維新政府と妙見社 『藩史』(河合裕)の内、妙見社の神仏分離に関する部分を抜粋しよう。 一明治三年庚午九月四日妙見尊体神仏之義朝廷江御伺出相成、御指図之旨を以来ル十日より神祭被仰付、依之社坊鷲頭寺被差除、 一同年九月七日妙見社号降松神社ト改号成 明治三年九月四日妙見尊体之義について、朝廷へ御伺の結果、神祭を仰付けられたというのである。 ここには、その根拠が不明であるが、一説に「天之御中主尊は、仏教の北辰と一致し、民間信仰にあっては、妙見信仰を生んだ。諸国に見ゆる妙見社は、この神を祀ったものである」とするが、この説は外来神(蕃神)たる妙見神を日本固有の民族宗教である天之御中主尊に意図的にすり替えたものである。 幕末の平田篤胤の復古神道は、仏教排斥に積極的であった。 やがて維新政府に多数登用されるに及び神道国教化政策の一環として、妙見社は神祭を仰付けられたのである。 即ち降松妙見社については、神仏分離を逸脱した行為であって、通説のように「神仏分離」でも「社号改号」でもなく、「神道国教化政策」による「仏教排斥」「廃仏帰神」である。結果は「神仏入替」であり、鷲頭寺から一山の「祭祀運営権の剥奪」に終結した。 十二 妙見山に於ける七坊の成立と下宮の沿革 (一) はじめに 鷲頭山を主峰とする妙見社は、大内氏の守護神妙見菩薩の霊地であり、その崇敬格別なるものがあった。 本論はこれらの殿堂の内、社坊と下宮(若宮)の沿革をたどって小論とするものである。 (二) 七坊成立年代への疑問 大内時代七坊成立説又は弘世の七坊建立説は、下松では既に常識になっており、いずれの書物にもそのように記されている しかしながら 七坊の建立を大内弘世の代とし、坊名まで明らかにされているが、いずれも永禄十二年(1569)に権小僧都源嘉の記せる「奉造立妙見山鷲頭寺上宮御社檀一宇」の棟札の社坊名を次々と写したものである。この棟札にはほぼ右のような七坊が記されてはいるが、残念ながら永禄十二年は、防長二州が毛利の有となった(大内義長が長府の長福寺に入り自殺した)弘治三年(1557)四月より十二年も後である。 大内氏が一門の守護神を妙見山に祀り、崇敬ただならぬものがあったことは、本論冒頭にも述べたが、妙見山に七坊が大内弘世時代に成立したことについては、遺憾ながら傍証的史料すら存在していないのである。 前の章で述べた如く、社坊に関する史料で現在遺存する中世史料は、永禄四年と右の永禄十二年の棟札のみであって、この二枚の棟札は、妙見山研究に於ける第一級の基本史料として注目すべきものである。 二枚の棟札を比較検討すれば、容易に大内氏の七坊建立説を否定することが可能である。 即ち、注目すべきは、前掲永禄四年(1561)九月十三日の棟札であってこの「奉造立妙見山神輿三丁」新造の棟札には、宮之坊・宮司坊・寳積坊・寳樹坊の四坊しか記されていない。七坊に発展するのは、これより更に八年後の永禄十二年(1569)十二月十五日付の「鷲頭寺上宮御社檀一宇」造立の棟札が初見である。 即ち毛利元就が下松に侵攻したのは、弘治二年(1556)であるから、これより五年後の永禄四年(1561)には未だ四坊であったことが明らかである。 又大内弘世(1352〜1380)の時代に一旦造立された七坊が、永禄四年(1561)に四坊に衰退したとも考えられるが、かかる時代背景は何ら見当らない。 七坊の成立は、通説とされる大内時代ではなく、毛利時代に至ってのことであろう。 弘世の七坊建立説は、後世に至って、下松妙見山と大内氏の関係を誇張し伝えた単なる言説にすぎない。 毛利時代に至って成立した七坊は、その後慶長十三年(1608)二月六日の妙見山大火災によって終焉をつげるが再びこの地に再建されることはなかった。 鷲頭寺七坊跡:中宮公園を造るまでは坊の礎石があちこちに在ったと伝えている。 鷲頭寺社坊跡:地名からすれば、宝樹坊跡であろうか。 別当閼伽井坊(鷲頭寺)跡地 別当閼伽井坊(現鷲頭寺)跡より下松湾方面を望む:中央の屋根は仁王門。 別当閼伽井坊跡 (三) 下宮赤坂の宮 (四) 赤坂の宮の所在地 (以上は省略する) (五) 妙見山と地名 地名の内、中宮は現存するが、中ノ坊、宝樹坊、赤井(閼伽井)谷の地名はかつての七坊跡を意味し、中でも閼伽井坊(別当)は、これを称する跡地も正確に伝承され、文化五年の『妙見社参詣圖』とも符合する。 中宮から仁王門までの間には人工による平坦地が数ケ所現存し、中近世の七坊跡と伝えられている。だがいずれの社坊に比定すべきかは不明である。 妙見山周辺地名図 降松神社 中宮公園偕楽碑:昭和三十年項の撮影、五重塔はこの付近に在ったという。 鷲頭寺五重塔礎石:仁王門裏より撮影、昭和四十年頃の撮影、仁王門前後の参道は松の老木が並立し門を入った右側には写真のように石がころがっていた。邪魔にはなるが、塔の礎石と伝えている。 (六) 若宮の経緯 (これ以降の節は省略) 十三 妙見山鷲頭寺の移転と妙見堂の創建 ――妙見山潮流と私見―― (一) 妙見山潮流と私見 妙見は仏語であるが、古代北辰・北斗を尊んで祀る呪術的星信仰をもって、その原形とすべきであろう。 中国に於ける星信仰の起源は、紀元前数世紀に遡ぼり、降って陰陽道等の習合により、一般には、半島を経由して、我国へ伝えられたものとされている。 我国での星(北辰)信仰は遅れたものの、朝鮮半島との交流が頻繁となるにつれ、新しい文化はやがて渡来人により我国へも上陸する。 このことについて『鷲頭山旧記』別当源嘉在判・天正三年(1575)(以下『旧記』と略)や『大内多々良氏譜牒』大内政弘在判・文明十八年(1486)(以下『譜牒』と略)は、大内氏の始祖を百済系帰化人とし、琳聖太子に仮托して、妙見山北辰信仰の起源を説いている。 この降臨説は、現在の学問からすれば、思想幼稚な時代の創作神話であって、史実としての信憑性は、疑わしいが、下松は、熊本県八代市の球磨川口とともに、早期の北辰信仰伝播地に、相違はないと私は考えている。 ※参照:→肥後八代妙見 次にいわゆる北辰信仰に於ける神名については、いろいろな立場から国常立尊・天御中主尊・太一上帝・北極紫微大帝・太上真君上帝・真武太一上帝・霊応天尊・妙見尊・太極元神・太一北辰等多数に及ぶが『旧記』は、北斗七曜石や妙見尊星王を、『譜牒』は妙見尊星王大菩薩を祀ったとしている。 おそらく初期北辰信仰は、陰陽道を中心とした半島伝来の所謂呪術士による異国的修法によると思われる。 なお、雑学であるが、 山口県内で中世妙見信仰に関わる社寺は、鷲頭寺の他に宮の坊(大島町八代)、興隆寺(山口市氷上)、神護寺(大和町大野)、無動寺(柳井伊保庄)がある。興隆寺は天台宗であり他はすべて真言宗である。密教と妙見思想とは教義に於いて共通する一面を有している。 (二) 妙見山神仏分離説への疑問 神仏分離は、一般には社坊による神社支配や、神官僧侶の共同奉祀形態等の宗教的・制度的矛盾を訂正することにあったとされる。 下松妙見山の場合、固有神道としての神社の存在が、はなはだ疑問である。 端的に言えば上宮・中宮・下宮は、妙見山鷲頭寺の一堂宇である。三宮には、仏尊を祀り、主尊の妙見は、外来神(北辰・陰陽道)と仏教の習合によるものであって日本の固有神道と異なることは、既に述べた通りである。 私は『下松地方史研究』第三十一輯で、かかる妙見の本質と、歴史的実体に於いて、日本古来の伝統神を祀った記録が存在しないこと、更に永禄四年・永禄十二年の棟札から、中世末既に、神官僧侶の共同奉祀形態が存在していないことを理由に妙見社の神仏習合形態を疑問とした。 中・近世降松妙見社は、仏尊を祀り一山は、真言僧により、奉祀・運営されたのである。 又妙見山に於ける神職の職名(宮司)や鳥居の存在は、明確であるが、それらはいずれも星殿時代か後世土着過程における他宗の影響と解してよいのではないか。 いかなる宗教と雖ども、千年に及ぶ歴史的経過の中で、他宗と無縁の発展はなく、これらをもって、神仏混淆の範疇とするには、慎重でなければならない。 明治初年の編纂である『藩史』以来平成元年の『下松市史』に至るまで、すべての著書が、かつての妙見社を神仏分離して、降松神社と改称した旨記しているが(本誌十一章参照)、かかる理解は適切でない。 この説は、妙見山の実体を検討することなく、『徳山藩史』や『大令録』に記された明治政府の布告そのままの編纂を妙見史として踏襲するものである。 表面は分離したとされるもののその実体は、維新政府による神道国教化政策遂行のため、鷲頭寺に対して上宮・中宮・若宮(下宮)三宮の明渡しを求め、この地(社)に新しく固有神道による神社を創建したものである。 他に一つの首題がある。それは、このような維新政府の政策を、当時村民がどのように理解し、又行動したかの問題である。 即ち、いままでの著書に記されるように、村民信徒が、単なる社名の改称(号)と解したか、又は別の神をお迎えしたと解したかの問題である。 降松神社仁王門:正面(昭和30年頃) 妙見山想定図:永禄十二年(1589)頃を想定して描いたもの。中央の建物が別当(「都濃郡河内村明治二十年地誌」) (三) 神道国教化政策と妙見尊遷座 政府の御沙汰により、明治三年九月十日妙見社(上宮・中宮・若宮)の尊像仏具をすべて、鷲頭寺の観音堂に遷座し、三宮に天御中主命を迎えて、降松神社と称することになった。 草創期以来千数百年に及ぶ妙見尊は、日本固有の伝統神(天御中主命)に祭神を改めることとなった。 明治政府は、神道を国教とするため神祇官を設立し、神社から仏教色を排除しただけでなく、鷲頭山妙見社の場合、結果的には、寺から仏尊・堂宇を取除いたもので神仏分離ではなく廃仏であることは、既に述べたが、当時この措置に逆らうことは、不可能なことであった。 前述のように、明治三年九月十日をもって鷲頭寺は、上・中・若宮の仏尊仏具を同寺の観音堂に遷座している。 かくして推古以来千余年の永きに及んだ妙見尊は、他の仏尊具とともに妙見山(社)の地を去ったのである。 ここまでは、ご一新による妙見尊遷座であり、新政府の廃仏毀釈を根底とする下知に鷲頭寺が従ったものである。 信徒は、因襲久しい妙見尊を、伝統神に変更することになじまないまでも、ご沙汰に逆らうこと能わず、又鷲頭寺観音堂に於いて村民は、容易に妙見菩薩を拝することが可能であった。 (四) 鷲頭寺(妙見尊)の下松町移転 明治三年に政府の裁断により、上宮・中宮・若宮の仏尊を鷲頭寺観音堂に遷したが、更にその九年後(明治十二年)に鷲頭寺は、遷座した妙見尊とともに、豊井村下松町へ移転している。 妙見社(鷲頭寺):(昭和四十年頃) 平田派国学者を中心とする明治初年の廃仏運動は、悲喜明暗を社寺に投じたが、本藩に於ける民衆は、誠に穏便であったことが、早くから指摘されている。 更に明治十年代に至っては、廃仏運動の盛んであった地方ですらひとまずその運動が、鎮静化した時期である。 加えて鷲頭寺住職は、河内村の出身であって、旧地には、縁者知人も多く存している。 然るにこの時期(明治十二年)に至って、村民の反対を押し切ってまで、なぜ他村へ移転したのであろうか。 住職が妙見千年の旧地を去って、豊井村下松町へ移転を決意した理由は、明確ではないが、次の如き要因を挙げることができよう。 (一)本藩に於いて、廃仏運動がなかったとはいえ、神仏分離以来真言寺院に関する熾烈な話は、次々と鷲頭寺にも伝わったであろう。 例えば、四千に及ぶ仁和寺の末寺のうち廃寺は三千に及んだとも伝え、近くでは、花岡八幡宮別当職が、神主職となり、火災に遭ったとはいえ、地蔵院ほどの古刹が、ついに再建を断念、廃寺に至ったことは、同宗であるだけに、住職の強く憂慮するところであった。 (二)既に藩主の守護を失い今後無檀の寺を運営するには、むしろ信徒即ち経済的支援者が密集し、往来のはげしい下松町の方が、将来にわたり寺の経営即ち妙見守護が容易との判断があったこと。 (三)既に上宮・中宮・若宮の奉祀・経営権を失った鷲頭寺としては、必ずしもこれらに、隣接する旧地にとどまる必要も、又その意味もなくなったこと。 (四)鷲頭寺の堂宇は、護摩堂をのぞき、いずれも古く、大修理の時期に至っていた。この折豊井村(下松町)からの移転の勧誘が極めて強力であったこと。 以上の如き理由を推測せしめるが、所在地よりむしろ妙見守護を第一義とする住職と、因襲久しい妙見信仰と村の衰退を思う旧地住民感情との間には、相当の隔たりがあったことも事実であろう。 「妙見さまが下松町へ移転されるげな」噂は電光石火の如く走った。 反対派は、ついに結衆一統をもって本山仁和寺に直訴するなど、河内村・豊井村の村民、本山を巻込んでの騒動に発展する。 移転に対する様々な妨害や移転断念の瀬戸際に追いつめられるようなこともあったが、ともかく鷲頭寺は下松町に移転する。 しばらく後のことだが、下松町へ移転した鷲頭寺は、明治二十七年四月十一日火災に遭い本堂が焼失する。 (五) 鷲頭寺移転による妙見堂の創建 明治十二年十二月十七日多くの逸話を残して、下松町への移転は完了した。 さて明治政府の政策によって、降松神社と号し、上宮・中宮・若宮に新しく迎えた天之御中主命と旧来の妙見尊(社)が、本質的に異なることは、既に指摘したが、当時村民はどのように解したであろうか。即ち後世の著書にそろって記述されるように、単なる改称と思ったか、あるいは、新しく別の神(社)を迎えたと思ったかの問題である。 幸いこれには、明確な判断を下す史料が遺されている。それは「妙見堂建立」に関する一件であって、妙見尊を街へ移転後直ちに旧地吉原へ再度妙見堂を設立したことである。即ちこのことは、降松神社三宮の社は、かつての妙見社とは、全く別の神社との村民の認識を意味するからである。 現 降松神社若宮周辺・鷲頭寺跡・妙見堂跡等所在地図:『都濃郡河内村明治二十年地誌』 妙見堂・妙見橋・宮司宅周辺:『山口県社寺名勝図録』(部分・大阪大成館 明治31年) 旧妙見堂跡(裏側より撮影): 中央の建物は旧本堂であり空地は本殿の跡地である。 鷲頭寺が、妙見尊とともに、移転したのは、前述のように明治十二年十二月十七日である。 その約一ケ月後の明けて明治十三年一月二十日には、はやくも旧地吉原へ右のような妙見堂建立の願書が、永続方法書を添えて県令宛に提出されている。 勿論日付から推して、鷲頭寺の移転決定とほぼ同時に旧地に妙見堂の創建を計画したことになる。 この願書は、同年二月十二日付で許可されたことが明らかである。 妙見堂平面図:妙見堂建立の願書 なお、都濃郡役所の『寺院台帳』に保存されている妙見堂建立の願書には「十四年十月落成」と朱で追筆されているから、明治十四年十月には堂宇が完成したことが明らかである。 妙見山鷲頭寺が、下松町へ移転して、およそ二年後には、小規模ながら旧地吉原へ再度妙見尊が、安置されたのである。 この一件は、新政府の廃仏思想下にあって、妙見堂建立願に示された村民の妙見尊に対する判断と理解の正確さ、そして強靱ともいえる信仰態度を示す資料として特筆されよう。政府のご沙汰をもって、因襲を急変させることは、困難であったのである。 (六) 妙見堂の廃堂 私どもにとっては、意外なことであるが、このようにして、再度旧地に奉祀された妙見尊は、残念ながら短期間で廃堂となっている。 その時期は明らかでないが、新しく迎えた降松神社に近いためか、明治四十年以降降松神社の宮司宅(宮司みやじ氏)として、建物が使用されたことが明らかなので明治十四年に落成後わずか、二十年余りの短命のお堂であった。 理由は判然としないが、私は次の如く推測している。 その第一は、太政官による国家支配、大教宣布の詔等による国威宣布の国策が、極めて強力であり、新しく迎えた降松神社がその気運にのったこと。 加えて、降松神社の新宮司が、原田氏であったこと。当家は、旧藩以来の神主で、妙見社の抱社すべてに奉祀されるほか、これまで親しく各家のさまざまな祈願を行ってこられ、村民が降松神社に早くなじむ要因となったことが挙げられる。 又一方で中市に移転した鷲頭寺は、千年に及ぶ妙見尊を奉祀しており、その後も俗に「妙見さま」と称され繁華街にあって、予想以上のにぎわいを見せた。旧地に創建の妙見堂と、移転した鷲頭寺(妙見尊)は、わずか2kmの距離である。 明治に入り、幕藩下に於ける他村意識は、急速に薄れわずかな買物をするにも街に行くにも、河内村の人々は妙見さまへ参詣することを口実に出掛けるようになった。 時代の流れというべきか、国策にそって、次第に盛大となる降松神社と、因襲久しい妙見尊を奉祀する妙見山鷲頭寺の間にあって、無往無檀の妙見堂は、世代交代とともに創建の気概は、急速に低下したのであろう。 かつての妙見社が、里より一八丁の山奥にあって、千余年の永きにわたる妙見信仰の歴史を有したのと比較すれば、余りにも短いものであった。 (七) おわりに 維新政府による王政復古は、復古神道を奉ずる平田派国学者を中心として、神武創業にもとづく、祭政一致の古制を再現することにあった。 神祇官を再興し、全国の神官を行政下に治めたのもこのためである。明治元年には、別当・社僧に復飾を命じる神祇事務局達や神社から仏教的要素を取除く太政官布告、即ち神仏の分離更に明治三年には、大教宣布の詔を出して、神道の国教化政策を推進したことは周知の通りである。 私が残念に思うのは、殆ど全ての「史書」が国策に沿って編輯されたが、その編輯が、時とともに正論として歩みはじめ、廃仏方針にそった政府の布告そのままが、妙見史として、現在に定着したことである。 平成の今日に至るも、先の章に掲載したように近代学者がそろって妙見山神仏分離説・改号説を唱えることは事実誤認に基づくもので、甚だ遺憾と言う他はない。 下松妙見山の特異な一面は、検討をされる機会を失い、ただ妙見堂を旧地に建立した村民のみが、その意味では、妙見さまの正しい理解者であったとも謂えよう。 妙見史を誤ることは、しいては下松史を、後世に誤り伝えることになりはしないであろうか。 十四 妙見道の記録保存 中世豪族と妙見信仰圏 古い時代妙見への道は、いずれも自然の地形にそった曲がりくねった道である。 山越えして登る妙見道は、狭く山あり谷あり又急な坂道もあって、相当な労力を要するが、山岳信仰の故に、このような坂道を登ることを人々は、一つの修業として尊んだに相違ない。 戦後地域開発の余波は、田を埋め、山をけずって道は立派に舗装され、その結果このような貴重な歴史の道は、次々と破壊されることとなった。 妙見道も平坦部では、自動車道の開通により、一部が寸断され、又山間部では、逆に原野となって、通行不能となり、又一部は自然流失によって、表道の他はついぞその姿を残さないまでに破壊した。その結果、草むらにわずかに残る石の道標や鳥居(写真参照)によって、信仰の舞台となった往時を偲ぶのみである。 このような悲しい現実に対して唯一私たちに出来ることは、妙見道を地図に記して保存することくらいである。(註一)世代交替とともに、やがて妙見道そのものが忘れ去られるであろう。記録保存の作業が可能なのは、私たちが最後の世代である。 降松妙見宮妙見道:本図は妙見道原図5,000分の1を「下松市市域図」平成5年に書写したものである。 |
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周防興隆寺 (氷上山) |
周防氷上山興隆寺(氷上山妙見) 琳聖太子(大内氏の祖と云う)の創建と伝える。妙見菩薩は周防降松妙見(上掲)を勧請すると云う。 ○「名草神社三重塔と出雲大社」所収「但馬妙見社について」谷本進 より 周防氷上山興隆寺 創建は天長4年(827)天台宗という。文献的には大内弘世が文和3年(1354)、延文2年(1357)に妙見社の祭祀や修復を命じるのが初見という。大内氏の「守護神」として、妙見菩薩を信仰したものと考えられる。 文明18年(1484)の縁起では本堂及び廻廊、楼門、塔、鐘楼、輪蔵などがあり、100余坊があったとされる。 文禄4年(1594)1104石の寺領。 明治維新後衰微し、明治16年本堂売却、現在は本堂、釈迦堂、北辰妙見社、鐘楼だけを残す。 ※売却本堂(釈迦堂)は龍福寺(大内氏館跡)に現存する。大永元年(1521)の建築・重文。 2023/02/19追加: 興隆寺は天台宗、氷上山と号す。 寺伝では、推古天皇21年(613)百済の琳聖太子(大内氏の祖)の創建、大内氏の氏寺であったと伝える。 天長4年(827)頃、大内茂村、降松鷲頭山から氷上山に妙見大菩薩を勘請し妙見社を建立する。 興隆寺及び妙見社は大内氏の隆盛とともに栄え、法界門を入って十町ばかりの間、両側には堂塔百余坊が並んでいたと伝える。 大内氏の滅亡後、毛利氏の時代にも氷上山は崇敬されるも、多くは衰微したという。 江戸期には行海僧正が中興し、本坊真光院を始め、脇坊として宝乗坊(大日如来)・安楽坊(薬師如来)・常楽坊(阿弥陀如来)・安禅坊(阿弥陀如来)・宝積坊(阿弥陀如来)・妙泉坊(十一面観音)を構えるという(「風土注進案」)。 また、この他に東照宮・観音堂・山王社・護摩堂などもあったという。 明治の神仏分離で寺領を失い、真光院は焼失、宝乗坊を本坊する。他の坊は廃退し、加えて釈迦堂は龍福寺本堂(明治18年売却)、東照宮は築山神社、観音堂は山根観音堂、山王社は御堀神社として移築され、その他の諸堂・神祠なども取り払われ、又は朽腐する。 このため現在は、中興堂を興隆寺仏殿として本尊釋迦尿来坐像を安置し、その左隣に妙見社、鐘楼があるだけに衰微する。 ※中興堂は、中興・行海和尚が元禄7年寂し、その中興をたたえ、元禄8年(1685)に建立される。 寺宝には、梵鐘(重文)、氷上山扁額(真光院)などが残る。 妙見社は上宮と下宮(本殿・幣殿・櫻門・庁屋など)からなり、崇敬を集めたが、明治維新後は、上社・下社を統合し、現在の地に移される。 なお、妙見社上宮は興隆寺から少し山中に入り、氷上山の山腹にその跡地を残す。そしてその手前に護法所跡も残る。 ○「周防国氷上山興隆寺の旧境内とその堂舎配置」真木隆行(「山口大學文學會志 65」2015 所収)より 近世氷上山興隆寺の伽藍復原の考証と復元図がある。 近世氷上山旧境内推定図 「興隆寺跡推定地地形図」(「山口市埋蔵文化財調査報告第25集・大内氏関連遺跡分布調査」 所収)をもとに、現段階における私見(著者・真木氏)を踏まえて加筆。 ○「大内氏の妙見信仰と興隆寺二月会」平瀬直樹(「山口県文書館研究紀要 17」1990-03 所収)より 氷上山では僧侶は衆徒と呼ばれ、坊に居住した。 南北朝期には大坊、向坊、東坊、中坊、舟橋坊、上坊、井上坊の7坊が見える。 室町期には、大坊、圓乗坊、一条坊、真如坊、浄林坊、理蔵坊、修禅坊、仏乗坊、宝浄坊、十乗坊の「十坊」と云われた高位の坊を含め、40坊を越える坊が確認できる。 その内、大坊は別當であり、近世には真光院と改号される。 次いで、伽藍配置であるが、近世のものであるが3つほどの絵図を参考にして、中世の文書に見える堂宇をピックアップし、境内の概要図を作成してみた。 それが、中世の興隆寺境内概念図である。 中世興隆寺境内概念図 なお、上宮は大内氏にとって特別の聖域であり、「政弘法度」第1條は「上宮社参之儀、当山衆徒之外者、停止されるべき事」とあり衆徒以外の社参は禁じられていた。 上宮には大内氏の守護神である妙見菩薩が祀られる。 その妙見菩薩と大内氏との関係は「大内氏の祖である百濟の琳聖太子の来朝を鎮護するため、妙見菩薩は降松の鷲頭山に下臨した」というものである。しかしこれは伝説ででしかない。 この伝説は室町期に大内氏と朝鮮との関係が深くなってからの成立とされ、義弘の代より以前に遡らせることは困難である。 そして、興隆寺に妙見菩薩を祀っていたことが分かる史料の初見は、義弘の父弘世の代で、正平9年(1354)のことであった。 そして、上宮と下宮との関係であるが、上宮は大内氏の政治的願望の祈祷の場であり、それ故聖域とされた。 一方では下宮にも妙見菩薩が祀られていた。下宮は、上宮と違い、衆徒以外の一般人も参詣でき、一般人の信仰対象として機能分化させる為、祀られたのではないだろうか。 ○ページ「氷上山興隆寺HP>氷上山興隆寺・北辰妙見社の歴史」 より 明治2年(1869) 真光院6坊中、安楽院・妙泉坊・常楽坊・安禅院・宝積院の5坊廃寺、宝乗院のみ残し置く 明治3年(1870) 真光院末寺山口深田寺を廃寺となし、元坊中安楽院を再興 明治3年(1870) 真光院境内の妙見社を妙見堂に改称し、日吉山王社を真光院抱えより除く真光院門前の毘沙門堂・地蔵堂を同境内の仁戸田薬師堂へ合併 明治6年(1873) 真光院坊中・安楽院を大津郡深川に移す ○山口県文書館収蔵資料 氷上山興隆寺絵図・写真:原本は現在所在不明、写真のみ残る。この絵図は嘉永年中の繪圖を明治26年に作成されたものである。なお、この模本2幅が残るようである。 (氷上山境内図) 氷上山妙見堂写真:撮影年代不詳(あるいは大正14年撮影か) 興隆寺境内遠望写真:同左、鳥居は現在ここには存在せず、妙見宮石灯篭は現存する。また参道沿いには現在かなりの民家などが建つ。 2022/11/25撮影: 興隆寺鳥居・妙見・中興堂 興隆寺妙見・中興堂 興隆寺妙見社拝殿1 興隆寺妙見社拝殿2 興隆寺妙見社拝殿3 興隆寺妙見社拝殿4 興隆寺妙見社本殿 興隆寺中興堂1 興隆寺中興堂2 興隆寺鐘楼 興隆寺梵鐘1 興隆寺梵鐘2:重文、享禄5年(1532)大内義隆の寄進による。高さ189cm、口径112cmの巨鐘である。鐘楼は昭和32年造替される。 氷上山山王社:応安2年(1396)氷上山別當祐辨が勧請する。寛文8年(1668)再建される。明治の神仏分離の処置で氷上山から分離され、氷上神社となる。 その後、明治42年御堀神社と合併し、廃社となる。山王社の手水鉢2基は御堀神社に移築、現存する。 なお、山王社本殿基壇は良好に遺存する。 興隆寺山王社差図:「宝乗坊差図」 興隆寺山王社鳥居 興隆寺山王社趾 興隆寺山王社本殿趾1 興隆寺山王社本殿趾2 興隆寺現本坊:坊名不明 ◆残存する氷上山興隆寺遺構 1)興隆寺本堂(釈迦堂) 現・龍福寺本堂【重文】として現存する。下に掲載。 2)氷上山東照宮社殿 現・築山神社社殿として現存する。→氷上山東照宮遺構(現・築山神社社殿) 3)氷上山山王権現手水鉢 現・御堀神社手水鉢として2基現存する。下に掲載。 4)興隆寺観音堂 山根観音堂として本尊観音立像とともに現存する。下に掲載。 ◇龍福寺:現本堂【重文】は氷上山龍福寺釈迦堂を引堂したもので、現存する・ 建永元年(1206)大内満盛が白石に創建し、臨済宗宝珠山瑞雲寺と号する。 延元元年(1336)大内弘直が再建し、弘直の菩提寺となる。 享徳3年(1454)大内教弘が雪心和尚を迎え中興開山、曹洞宗に改宗、瑞雲山龍福寺と改号する。 大内義隆は後奈良天皇に奏請して勅願寺となるも、天文20年(1551)大寧寺の変で焼失する。 ※大寧寺の変:陶晴賢が主君・大内義隆に対して起こした反逆で、義隆は自害する。 弘治3年(1557)毛利隆元は義隆の菩提寺として、龍福寺を大内館跡に再興する。 明治14年龍福寺は禅堂と山門を残して焼失する。 明治16年再建にあたり、氷上山興隆寺釈迦堂を移築(引堂)して本堂とする。 昭和29年本堂(旧興隆寺釈迦堂)は重文となる。 氷上山興隆寺時代の釈迦堂配置は次の絵図で分かる。 (氷上山境内図)・・・上に掲載 2022/11/25撮影: 本堂は、桁行5間、梁間5間、入母屋造、屋根桧皮葺。 基本的に和様を用いる、昭和29年重文に指定される。 平成23年本堂修復工事が竣工、修理前の桟瓦葺きの屋根を解体調査による痕跡や文書等から桧皮葺に復元する。 旧興隆寺釈迦堂11 旧興隆寺釈迦堂12 旧興隆寺釈迦堂13 旧興隆寺釈迦堂14 旧興隆寺釈迦堂15 旧興隆寺釈迦堂16 旧興隆寺釈迦堂17 旧興隆寺釈迦堂18 旧興隆寺釈迦堂19 旧興隆寺釈迦堂20 旧興隆寺釈迦堂21 旧興隆寺釈迦堂22 龍福寺玄関 龍福寺資料館展示佛1 龍福寺資料館展示佛2 【龍福寺資料館】 大内氏関係の画像などが展示される。 ◇御堀神社:氷上山手水鉢(2基)が遷される。 御堀村には八幡宮、厳島大明神、大歳大明神の三社があるも、寛文9年(1669)大火で焼失、翌10年三社を合併し、八幡宮として再建する。 明治42年、御堀村八幡宮並びに摂社厳島大明神と氷上神社(旧興隆寺山王権現)と金成鏡山神社(元は王子権現)が合併させられ、御堀神社と改称する。 神殿と幣殿は八幡宮のもの、鳥居(宝永7年年紀)は厳島大明神、手水鉢2基は氷上神社のものをそれぞれ流用する。 ※手水鉢2基は未確認、1基には「氷上山山王社・・・」と刻銘があるという。 2022/11/25撮影: 御堀神社手水・鳥居・拝殿 御堀神社拝殿 御堀神社拝殿・本殿覆屋 ◇山根観音堂:氷上山観音堂・観音立像が遷される。 明治41年興隆寺にあった観音堂を遷す。観音堂は江戸時中期の建物という。 観音堂は氷上山西ノ浴観音堂というも、元位置は良く分からない。堂は宝形造であるが、正面・背後は3間、側縁は2間の変則である。また内部の柱・斗栱などには彩色が残る。 堂には平安後期と推定される聖観音立像が安置される。 2022/11/25撮影: 山根観音堂1 山根観音堂2 山根観音堂3 山根観音堂4 山根観音堂5 山根観音堂内部 氷上山とは直接の関係はないが、適当な掲載ページが無いので、ここに今八幡宮を紹介する。 ◇周防今八幡宮 今八幡宮オフィシャルサイト より ◇由緒沿革 『二十二社註式』(室町期)によれば、初め宇治皇子一座を祀り今八幡宮と称し、守護大名大内氏の山口入府以前から存した。 ※宇治皇子:菟道稚郎子、第15代応神天皇皇子、第16代仁徳天皇の異母弟。要するに神話の世界の話であり、実在したはずもない。 この社の創建年代は不明であるが、弘安年中、大内弘成の娘に「今八幡殿」という名が見えることから、これ以前の古社であることが判る。 文明3年(1471)大内政弘が山口の鎮守と定めて市内の朝倉八幡宮を遷して合祀し、社号はそのままに主祭神を応神天皇とし、他に三座が加列される。 ※他の三座:仲哀天皇・神功皇后・玉依姫命であり、宇治皇子も配神される。 その後、文亀3年(1503)大内義興が社殿を造替、この本殿が現存する。 代々大内氏の庇護を受ける。大内氏滅亡後も、引き続き毛利氏により当宮は篤く保護される。 ◇社殿 文亀3年(1503)建立、本殿・拝殿・楼門からなり、【重文】に指定。 本殿は向拝を付した三間社流造りで、拝殿を介して楼門までを一直線上に連結させる構造。これは全国的にも山口地方だけに見られる独特な様式である。 それと、本殿及び拝殿上部の蟇股は、天体や宝珠など類例の多くない図案で構成される。 楼門は向拝付で、左右に翼廊を配し、床板を敷いた「楼拝殿造」と呼ばれる特異な形式である。 なお、鰐口【重文】を有し、天文3年(1534)大内義隆の寄進。面径85.8cm、総厚30cm、国内最大級のものという。 2022/11/25撮影: 今八幡宮楼拝殿11 今八幡宮楼拝殿12 今八幡宮楼拝殿13 今八幡宮楼拝殿14 今八幡宮楼拝殿15 今八幡宮本殿11 今八幡宮本殿12 今八幡宮本殿13 今八幡宮本殿14 今八幡宮本殿15 今八幡宮本殿16 今八幡宮本殿17 今八幡宮本殿18 今八幡宮本殿19 今八幡宮本殿20 ついでに、これも、氷上山とは直接の関係はないが、天神としては北野天神(今天神、現・古熊神社)がある。(未見) ◇山口今天神 応安6年(1373)大内弘世が北野天満宮より勧請し、北野天神が創建される。 元和4年(1618)毛利秀就、現在地へ遷座せしめ、今天神とする。 明治6年今天神から古熊神社に改号する。 応安6年(1373)創建当初からの社殿(本殿・拝殿<楼拝殿>)は【重文】に指定される。 |
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讃岐高松妙見寺 |
妙見寺は日蓮宗、高松廣昌寺末であったが、近年本寺廣昌寺に合併、本尊は遷座、堂宇は現地に妙見堂のみ残るという。 廣昌寺住職(晋山後1年経過)は、妙見像は堂の外から拝見すると、能勢形妙見であるように拝察したという。 江戸初期に妙見菩薩が祀られたと思われるも、その経緯は良く分からない。 →讃岐の日蓮宗諸寺中の高松妙見寺の項を参照。 |
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讃岐 平木妙徳寺 |
妙見宮があるも、由来は未調査 →讃岐平木妙徳寺 |
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伊予 亀臺山妙見寺 |
松山市平田町794。久遠寺末。 享保19年(1732)松山法華寺第8世日応上人が凶作と飢饉による餓死者供養の妙経一字一石首題の供養塔を建立。 延享元年(1744)法華寺第9世日修上人が、天下泰平と五穀豊穣を祈願し妙見大菩薩を勧請。 安永7年(1778)日順上人が、開基、堂塔を建立。 明治5年、法華寺妙見堂を移建、同11年、寺号を公称。平成6年本堂改修。 |
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肥後八代妙見 (白木山妙見大菩薩) |
○2012/09/15加筆・修正: ◇推古19年(611)琳聖太子、肥後の白木山に来りて、妙見菩薩を伝へり。これ即ち本朝における妙見尊最古の霊跡(神宮寺)である。(<「密教占星法 上巻」) ◇延暦14年(795)妙見上宮創建(国誌)、あるいは「妙見菩薩堂、俗に上宮と云」(地志略)。 三室山横嶽山頂一帯がその跡とされる。 ◇永暦元年(1160)二条天皇勅願により、肥後守平貞能妙見中宮を創建。 跡地は三室山横嶽山麓と云う。 ◇文治2年(1186)後鳥羽天皇勅願により、検校散位大江高房妙見下宮を創建。 白木社妙見宮・白木山妙見宮と呼ばれた。(肥後国誌、白木山妙見大菩薩援縁起・・元禄12年奥書) ◇天正16年小西行長により社領没収・退転。その後復興。細川忠興など社殿造営。 「100石 八代妙見寺 外米20石・・・」(肥集録) 周囲には天台・真言の15坊が配置されていたと伝える。しかし江戸中期には12坊廃絶と云う。 ※元禄12年奥書「白木山妙見大菩薩援縁起」は白木山妙見宮執行神宮寺現住の筆になる。 慶応4年奥書「白木妙見大菩薩之由来」は妙見宮執行神宮寺、社僧院主、社僧一乗坊の奥書である。 ※本殿は元禄12年、寛延2年の改築であり、近年にも改造が行われる。 本殿は桁行3間梁間2間の入母屋造である。拝殿幣殿を繋ぎ権現造に類似する。 ○2013/09/18加筆修正: 近世の白木山妙見大菩薩 ◇「八代妙見祭:八代市文化財調査報告書:第43集」八代市教育委員会(文化課)編、2010.3 より
上記の絵図では、元禄6年段階では境内に多宝塔があることが知れるが、この多宝塔の詳細は不明である。 |
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肥後竹原妙見宮 |
この地は妙見菩薩が本邦へ初めて上陸したと云う竹原の津の跡である。 文治2年(1186)後鳥羽天皇勅願で現在の宮地妙見宮(下宮)が建立され、引き続き竹原妙見宮が建立されると伝える。 天正年中小西行長により焼亡、寛文8年(1668)細川綱利により再建される。明治維新までは修験が奉仕と云う。 明治の神仏分離の処置で竹原神社と改竄され、祭神はアメノミナカヌシに変更される。 |
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肥後宮原三宮妙見 |
「肥後国史」陣迹誌曰、応保元年(1161)八月越中前司平盛俊在国ノ時、妙見ヲ勧請シ祠ヲ立三宮妙見ト称ス。 →肥後神蔵寺塔心礎:神蔵寺は宮原三宮の六坊の一つである。 |
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肥後植柳妙見 |
この地、植柳の津の跡と云われるようで、ここに妙見宮が建立されたようである。 現在は植柳神社の社殿が残るようであるが、詳細な情報なし。 |
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松崎村妙見 |
明暦〜万治(1655-1661)年中、この地は八代城主長岡佐渡守興長による干拓で新地が開かれる。 万治元年(1658)長岡興長、宮地の妙見宮を勧請して成立する。明治維新前までは天台宗財徳坊が別当であった。 明治維新の神仏分離の処置で、松崎神社と改竄される。現在の社殿は昭和4年の改築と云う。 |