★山村廃寺諸情報
円照寺東方、墓山古墳の東、ドドコロ池の西にある。(字堂所・ドドコロ1291番地、円照寺内宮裡仙峯氏所有)
しかし、付近で農耕をする人に聞き込みをするも、誰もその位置はおろか廃寺の存在さえ知られていないと思われる状況である。
廃寺跡には5間四面の堂跡があり瓦積で化粧した基壇を持つ金堂跡(礎石2個残存という)と、その東北に一辺約8.4mの円堂跡、さらに円堂跡の東に瓦積基壇を持つ塔跡があるとされる。
出土する瓦は奈良前期とされる。
◆石製相輪:塔跡から石製相輪(重文・石製九輪、石製擦管など)が出土。
◆心礎:心礎は明治10年頃山村の某氏庭園に移され、昭和初頭には確実に存在したと思われる。(写真・実測図あり)
しかし、山村の某氏邸と伝わるのみで具体的な姓名は全く明らかではなく、またその後(昭和3年以降)に実見したと思われる文献もなく、現今でも山村某氏邸にあるのかどうかは全く不明である。
以上であるので、大和山村廃寺心礎は現段階では「亡失」と云わざるを得ない。
◆石製露盤:大和法隆寺本坊庭園に手水鉢に転用されてある。(岸熊吉氏の探求による)
→ 大和山村廃寺石造露盤
2012/03/08追加:2012/02/26撮影:
山村廃寺(トドコロ廃寺)現況:
廃寺跡はトドコロ池西岸にある。しかし池に沿って展開する寺跡は全て金属網目のフェンスで遮蔽され、まったく立入ることは出来ない。
なぜ、だれがこのような措置をとっているのか全く分からない。
また仮に、立入ることが出来たとしても、寺跡は雑木が林立し、その上に歩行も困難と思われるほどに熊笹が密生し、遺構を確認することはまず不可能であろうと思われる。
大和山村廃寺現況1:写真中央熊笹が密生し雑木林となっている場所が廃寺跡である。
大和山村廃寺現況2:写真向かって左から推定金堂跡、推定八角円堂跡、塔跡が眠る。
大和山村廃寺現況3:道と熊笹との間に金属網目のフェンスがある。
2013/02/09撮影:
大和山村廃寺現況4
○「日本の木造塔跡」:知識寺式心礎があったが、現在は「亡失」という。
2003/07/17追加;
○「大和路塔影」:トドコロ廃寺と石製相輪のスケッチを転載。
石製相輪は出土後、西ノ京町稲葉憲一氏(古美術愛好家・一好氏息)の所有に帰し、氏は既に他界するも、子孫が保有すると云う。
廃寺/石製相輪スケッチ
○「奈良県史 第6巻」:三宅寺跡と考えられている。
○「幻の塔を求めて西東」:
二重円孔式、大きさ152×136cm、径72.4×1.8cmの円穴、径43×20cmの円孔、周囲はかなり欠損、近くの民家にある。白鳳。
2007/01/14追加:
○「大和の古塔」黒田f義、天理時報社、昭和18年より:
円照寺東3丁余にドドコロ池があり、その池の西岸に遺跡を存する。遺跡は塔・金堂・円堂址の土壇を松林中に存し、礎石は金堂址に2個がありそれ以外は、抜取穴を存するばかりである。
大正15年奈良の骨董商から鑑定を求められた石製製品を岸熊吉は石製九輪ではないかと直感し、その出土地を求め、この寺跡を発見する。
この遺跡の発掘により、多くの遺物を発掘し、その中から8個分の九輪(共に直径、表2尺5寸6分<77.6cm>、裏2尺6寸<78.8cm>、厚さ2寸9分<8.8cm>)と4個分の檫(径9寸9分
(30cm)、長さ1尺4寸5分<44cm>、9寸3分<28.2cm>、8寸9分<27cm>、8寸5分<25.8cm>)を明らかにした。その手法は全く金属相輪と同じで、各々凝灰岩の一石を繰り出して造り、九輪には6個の宝鐸を吊る穴を存する。そして金銅渡金の宝鐸2個・舌1個を発見する。
更に岸熊吉は法隆寺寺務所手水鉢がこの塔の露盤であることも突きとめる。
露盤は凝灰岩製で一辺3尺1寸(94cm)高さ1尺7寸(51.5cm)を測る。 → 大和山村廃寺石造露盤
その後も氏の努力は続き、心礎の転出先を極め、心礎は径2尺3寸8分(72cm)×6分(2cm)の柱座と径1尺4寸2分(43cm)×6寸5分(20cm)の円孔があることも発表し、発掘によって塔基壇は瓦積み基壇であることを明らかにした。
出土品は円照寺に一括して保管する。(大和国帯解山村廃寺出土品−重文、奈良国立博物館寄託)
大和山村廃寺塔心礎実測図
九輪・檫組立状況
九輪宝鐸及び舌
山村廃寺露盤(法隆寺)
塔石製相輪実測図
※以上の記述によれば、塔心礎は現存(近くの民家か)すると思われる。また、ドドコロとは堂所と解釈される。
※法隆寺寺務所手水鉢の出所については大和法輪寺説もあると云う。
○2011/09/04追加:
「古代の石造相輪についての一考察」:
塔基壇の一辺は約8.5m、基壇化粧は塼に近い形状の瓦積である。この塔阯の北辺から石造相輪(凝灰岩製、平頭、擦管、宝論など)が出土する。
石造露盤:大和法隆寺本坊庭園に、天地逆に据えられ、貫通円孔に漆喰の底を入れた手水鉢があり、これが石造露盤である。
この石造露盤は明治20年頃法隆寺が買い入れたものと云う。(岸熊吉の聞き取り)
岸熊吉は山村廃寺出土の石造相輪との岩質や大きさの比較で、この露盤は山村廃寺から搬出されたと考えるのが妥当とする。
露盤は平面正方形で一辺93cm、厚さ52cm、胴部がくびれ、上部は上開きの2段造とし、中心に上径43cm下径50cmの円形貫通孔を持つ。
石造平頭:四個の破片で出土、平面円形で断面は梯形を呈する。復元頭部形約43cm復元外径約41cm厚さ15cmを測る。
石造擦管:破片で出土、4種類に復元される。中心貫通孔の径は約30cm、高さは44cmと27cmある。
石造宝輪:破片で出土、復元の結果7、8個あることが判明、径約80cm、厚さ9cmに復元される。円形貫通孔は約20cm。また外輪の下端には風鐸を吊った鉄釻の痕跡を残す。
山村廃寺石造露盤図 山村廃寺石造平頭 山村廃寺石造檫管 山村廃寺石造宝輪
○2011/10/09追加:
★「ドドコロ廃寺石造相輪等調査」岸熊吉(「奈良県史蹟名勝天然記念物調査会報告書 VOL: 10」昭和3年 所収) より
以上の諸情報は昭和3年の岸熊吉の上記論文「ドドコロ廃寺石造相輪等調査」にほぼ全てが回帰する。
◆発見の動機と経過:
大正15年出張の帰り、大軌西ノ京駅前の骨董商稲葉一好氏方へ乗車券購入のため立ち寄ったところ、同氏の最近入手した石造物を見せて、これは何であろうかと尋ねられたことが発端である。これは車輪でもなく、仏像の光背の類でもなく、間違いなく石造の相輪(宝輪)であろうと直感し、だとすれば類例を見ないもので、非常に驚喜する。
出土地はすぐには判明しなかったけれども、後日稲葉氏の調査で、山村字ドドコロとつきとめられる。
石造遺物は、同年山村中澤信太郎氏が廃寺跡から持ち出し、その一部が稲葉氏に譲渡されたものとも判明する。
ドドコロはかなり広い地区であるが、探査の結果、池の西端では古瓦の破片が散見され、建物跡の土壇様の高まりもあり、そこには九輪の2、3も落ちていた。ここが出土地であることは確かであるので、調査にかかる。
山村廃寺付近地籍図:2013/10/26追加
草刈をしたところ、塔跡のほかに2棟の建物のあった跡を発見する。愈々発掘にかかり、塔阯からは九輪や擦管の破片が続々と現れ、鐸・鐸舌も出土し、さらには塔の瓦積基壇も発掘する。
稲葉氏所蔵石造九輪
◆遺跡:
伽藍跡は塔・八角圓堂・金堂の3箇所残る。
塔阯はかなり攪乱されるも、多少の土壇を残し、中央には心礎・四天柱礎の抜き取り穴が一つになって残る。土壇上には全く礎石は残らない。
八角圓堂も多少の土壇を残すも、礎石は残らず、礎石抜き取り穴が溝状に残り、その形状から八角圓堂があったものと推定される。
金堂跡には2個の自然石礎石が残る。そのほかの礎石は全て抜き取られ、抜き取り穴が残る。これ等から5×4間の建物と想定される。
ドドコロ廃寺伽藍配置図
ドドコロ廃寺塔跡:人物の位置は心礎などの抜き取り穴
塔阯基壇北辺瓦積層1 塔阯基壇北辺瓦積層2
八角圓堂跡:人物の位置が堂中心
八角圓堂跡全景
金堂跡土壇 金堂跡残存礎石2個 残存礎石2個中の1個
◆遺物:
石造相輪は凡そ78種に区別できたので、九輪の大部分が揃う。九輪は何れも1個の石を刳り貫いて作成されたもので、外輪の下端には鐸の鉄釻の痕跡がある。(詳細な採寸結果の掲載があるが省略)
石造擦:発掘擦破片を接合すれば凡そ4種類の擦が復元できる。宝輪との接合には、丈夫なことや雨仕舞のために、お互いに目違いの刳り出しが精巧に造られる。(詳細な採寸結果の掲載があるが省略)
石造露盤は現に法隆寺寺務所の庭園手水鉢となっている遺物に間違いはないであろう。
その来歴は法隆寺寺中/善住院現住佐伯寛應氏(74、5歳)の談によれば、元善住院にあったが、三代住職還俗の折、東院伽藍前大黒屋が買いうけ、更に明治20年頃法隆寺に転売されたもので、善住院に来る前の来歴は全く不明と云う。
以上であるが、その材質が山村廃寺出土の石造遺物と同一でありまた大きさも山村廃寺出土遺物と釣り合うから、山村廃寺塔相輪の一部を構成したいたものと判断しても宜しかろうと思われる。
|
手水鉢代用石造露盤:法隆寺本坊庭園;左図拡大図
石造露盤実測図
※善住院は東大門を東に進むと東院伽藍に至るが、その伽藍の四脚門の手前の南側にある。善住院の北側は福生院である。
また善住院の西隣は寺中跡であるが、この寺中跡に大和富貴寺塔初重が移建されている。 |
→ 大和山村廃寺石造露盤
◆礎石(心礎):
心礎の行方を捜したところ、偶然にも今より50年前に搬出されて、山村某氏の庭園にあることを発見する。
しかも当時専らその衝に当った同村久七氏(75歳)が健在で、直接会って聞きただしてみると確かにそうであった。
搬出の際、大きすぎるので数個に割る。今その内の主要部分2個が残る。
石質は花崗岩、大きさは4尺3寸×3尺1寸許で、表面は平滑に加工し、径2尺3寸8分深さ6分に掘り下げ、更に中央に径1尺4寸2分深さ6寸5分の孔を穿つ。
※2021/07/06追加:知識寺式心礎と思われる。 ◇塔阯基壇:
相当程度攪拌されていたが、瓦積基壇の一部が残存し、これ等によって基壇1辺は28尺であると判明する。使用する瓦は熨斗瓦で長さ1尺5寸巾5・6寸、厚さ7・8分である。
2013/10/26追加:
○「山村廃寺式軒瓦の分布とその意味−7世紀末における造瓦体制の一側面−」近江俊秀( 「研究紀要 第8集」 (財)由良大和古代文化研究協会、2004
所収) には以下の論及があると云う。(未見)
この相輪一式の総重量は450貫(約1700kg)と推定される。この重量を載せる木造建物としては基壇規模が小さすぎると思われる。
心礎の柱座径と相輪の心柱径がほぼ一致するため、本廃寺の塔跡には建物はなく、心礎上に直接相輪を載せる謂わば「相輪橖」のような構造であった可能性がある。
2006年以前作成:2013/11/23更新:ホームページ、日本の塔婆
|