★但馬城崎温泉寺多宝塔
明和5年(1768)再興塔。一辺4.25m、屋根桟瓦葺(瓦葺替年は不明であるが以前は赤瓦を載せていたと云う)。
中央間は開戸ではなく、珍しく引戸(桟引戸)を用いる。
本堂(吉野・重文)横の石段上の高所に立つ。
◆多宝塔本尊金剛界大日如来
★但馬城崎温泉寺概要
「温泉寺誌」住職小川祐泉、菊川丞、高梁喜一、高野山真言宗温泉寺、平成12年 より
○創建伝説とその評価:
縁起では「末代山温泉寺は城崎温泉の開祖道智上人によって開創、本尊十一面観音は大和長谷寺の観音と同木同作と伝えられる。
天平年中に開かれ、聖武天皇の勅願の道場である。」と云う。
しかし、以上が「史実」であるのかどうかは容易に確認することはできない。
即ち、本尊は天平仏とされ、また持仏堂の千手観音も藤原期の作とされるが、これ等の伝来の由来も経緯も全く不明である。
また南北朝期の建立とされる本堂も鎌倉期に本(もと)があると云い、多宝塔横手にある宝篋印塔(重文)は鎌倉期ものとされるも、この付近に古代に溯る遺構は発見されていない。
さらに文献資料も多くが残るが、最古のものでも大治2年(1127)銘の経典(胎蔵儀軌)の一部というのが実態である。
冒頭の「縁起」は現在伝わる二種類の系統の「縁起類」の内容であるが、この縁起類も中世の原典を近世に写したものなのである。
以上のような事情で、容易に「縁起」で伝える古代のことは明らかにはし難いのが現状である。
○二種類の縁起:
・大永本「縁起帳」:温泉寺伝来、大永8年(1528)書写、中世末期や近世初頭の書き込みもある。
これを下敷きにした後代の数種の「縁起」、江戸中期の海北三世友竹の縁起図、文化年中の絵入案内記風のものなどの元本と考えられる。
この縁起は中世後期の世情の不安定な中にも漸く寺院基盤の安定してきた温泉寺が本尊霊験の伝承などを纏めて世に示す風潮(この時代多くの寺社の縁起・霊験記が作成された)の中で成立したものであろう。
・「曼荼羅記」(日生下氏家寳旧記):城崎の旧家「古まんだら」の日生下家・「まんだら家」の石田氏・「大和屋」の結城氏に伝えられた3本を大正末期に照合転写したものである。3本の原本は北丹地震で失われる。日生下本には慶長5年(1600)写本の記載がある。
○開祖道智上人の時代状況:
「縁起帳」では天平6年(734)仏師稽文会が観音像と再開するが、道智上人はすでにこの地に滞在したことになっている。
「曼荼羅記」では和銅元年(706)湯島への入植が始まり、この地の日生下権守が地守神と四所明神を祀っていたが、養老元年(717)沙門道智が現れ「曼荼羅湯」を湧出されたと云う。
※日生下家は四所明神のかっての神官で、営んだ湯宿を「古まん(だら)」と云う。
この古代のことは、ある意味神話の世界でもあり、真相は藪の中である。
○本尊「十一面観音」の造立:
「縁起帳」では、仏師稽文会による大和長谷寺本尊と同木の十一面観音像は当初長谷寺に納められも、未完成で周囲に祟りをなすので、天平6年(734)泊瀬神河浦に流されることとなる。この像は難波浦から浮木の如く巡り廻って但馬城崎下谿浦に漂着したところ、病気静養中の仏師稽文会と再会する。稽文会は折から巡錫中の道智上人と相談し、西の山に伽藍を建立し、本像を本尊として祀る。その後この寺は聖武天皇の勅願寺となる。
※長谷観音の同木伝承は多く残される。播磨の普光寺(法道上人開基か?、本尊の伝承は不明)、河内小松寺などである。
※「河内小松寺縁起」は未見で正確な内容は未把握であるが、同木伝承とは少し違うのではないかと思われる。
※大和長谷寺本尊との同木伝承が意味することは種々の解釈が可能であり、真相は良く分からない。
○中興開山までの温泉寺:
開祖道智上人は遥か古代の人物でその実像は全く分からない。温泉寺の寺歴がはっきりするのは、中興開山清禅律師(室町初期)からであるが、しかし本尊十一面観音(伝稽文会作)は天平仏であることなどから、古代から温泉寺は連綿と続いた可能性
もあるが、実際は詳らかではない。
ここで、思い切った仮説を述べよう。それは天平期の開山上人道智とは出羽湯殿山大日寺中興道智でないかと云う仮説である。
「捨塊集」(出羽三山記録)では羽黒山道知は文正6年(1471)寂化と云う。つまり温泉寺中興開山清禅の後年と湯殿山道智の青年期は重なるのである。
子細に資料をみれば、湯殿山道智の事跡と温泉寺「縁起」の事跡は重なる部分があり、また当時の修験の行動範囲から出羽と但馬の交流は容易に可能であると考えられるのである。
湯殿山道智は温泉寺の中興開山清禅と何らかの繫がりがあったのではないか。だとすれば、中世の湯殿山道智が「縁起」類で云う温泉寺開山道智に投影されたと考えることも可能なのであり、あながち、荒唐無稽なことでないのかも知れない。
→湯殿山大日寺、湯殿山別当之開基帳
○おわりに:
「・・・古い寺であり、その上ある程度物的証拠も揃っている由緒ある過去に対して、想像の翼を伸ばし、期待を込めて創建、開祖伝承を夢見ることはむしろ、当然すぎる伝承の心理でもあるだろう。・・・従って、道智上人を単なる開祖として位置付けるに止まらないで、四所明神も温泉も、果ては弘法大師も大和の長谷寺に至るまで、その廻りに取り込んで、温泉寺に纏わる縁起伝承を地域社会の口碑がらみに伝えていくことになったのではないだろうか。」
◆城崎温泉寺絵図
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温泉寺縁起図
2012/08/03追加:
温泉寺縁起図(全図):左図拡大図
:「温泉寺誌」口絵 より転載
2006/10/18追加:2012/08/03画像入替
温泉寺縁起図(部分図):但馬温泉寺蔵、海北友竹(友松の孫)画、江戸中期
2018/08/05追加:
※上段は日生下(ひうけ)権守が四所明神を建立した様子、中段は道智上人が四所明神の神託により、温泉を湧出させた場面、下段は温泉寺本尊十一面観音の由来を描くという。2011/05/10追加:
但馬小驪山勝景図巻:延享2年(1745)
城崎温泉寺之図:明治31年
2018/06/02撮影: 「豊岡市立歴史博物館-但馬国府・国分寺館」「温泉寺展」展示 紙本温泉寺縁起図:海北友竹作
紙本温泉寺縁起図:下段部分図
多宝塔の隣は七所明神であるが、現存しない。 |
◆温泉寺伽藍
温泉寺は城崎温泉の背後の山腹に立地する。麓から山腹まで石階参道が続き、堂宇が展開する。
なお山上には奥の院(近年造替)があり参道は山上まで続く(奥の院は未見)。
2006/10/18撮影:
但馬温泉寺石標:温泉寺石標は「妙見山日光院第51世祐親」建立とある。【但馬妙見三重塔】
温泉寺本堂(南北朝期・重文・5間×5間)
2012/07/21撮影:
但馬温泉寺本堂1 但馬温泉寺本堂2
2012/07/22撮影:
但馬温泉寺本堂3 但馬温泉寺本堂4 但馬温泉寺本堂5 但馬温泉寺本堂6
但馬温泉寺本堂7 但馬温泉寺本堂8
2012/07/21撮影:
温泉寺宝篋印塔1 温泉寺宝篋印塔2:重文・鎌倉期
2012/07/21撮影:
開山道智上人碑1
2012/07/22撮影:
開山道智上人碑覆屋:上記道智上人碑を収む。本堂改修時の古材で建立と云う。
2012/07/21撮影:
温泉寺薬師堂1 温泉寺薬師堂2 温泉寺薬師堂3
2012/07/22撮影:
温泉寺薬師堂4:文化年中(1804-)再建
2012/07/22撮影:
温泉寺仁王門1 温泉寺仁王門2:明和年中(1764-)再建
温泉寺十王堂:延宝9年(1681)建立
温泉寺聖天堂:聖天堂右の建物が金毘羅権現の庫裏である。
温泉寺庫裏:11間×7間の大建築である。確か宝暦年中の建築と記憶する。
温泉寺鐘楼
金毘羅権現堂:聖天堂の西奥にあるが、その手前に
金毘羅寺と称する庫裏があり、おそらく温泉寺には属さないのであろうと推定される。
○退転した建造物として以下が上げられる。(「温泉寺誌」より)
中之坊(中性院)、大門坊(福聖院)、北之坊、深海坊、喜見坊、泉之坊
地蔵堂、七所明神、茶堂、求聞持堂
なお以下の重文の仏像を残す。
本尊十一面観音立像(天平・重文)、持仏堂本尊千手観音立像(藤原・重文)を有する。
2006年以前作成:2012/08/05更新:ホームページ、日本の塔婆
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