塔残欠・未完(放置)塔婆・屋外小塔・二重塔(ニ層塔)

塔  残  欠  の  概  要

名称・場所 国指定 画像 備  考
. 大和安楽寺三重塔初重 重文 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
現地説明板では、屋根母屋に「三重之宝塔ハ正嘉二年(1258)十月十日二重下シテ一重ト改」とあると云う。正嘉二年に塔堂 に改築されると云うから、鎌倉中期は下らない建築であろう。確かに純和様の古風な組物を残す。 なお、内部は四天柱内いっぱいに仏壇を置いた痕跡があると云うも、現在は仮設仏壇に大日如来像(室町)安置すると云う。なお、付近には古安寺、上ノ門、中ノ門、下門、塔ノ奥、廊ノ坊、上ノ坊、下ノ坊、蓮池などの地名を残すという。
 「葛城寺縁起」元禄9年(1696)では「稲屋村阿弥陀山葛城寺(亦名、妙安寺)貞心院は聖徳太子の創建で後に葛木臣に賜うた」初期には、聯全堂、阿弥陀堂、宝塔の三宇、山門、鐘楼、弁財天洞、及び五院坊などがあった とする。江戸中期の大火、永年にわたる損壊・腐朽により、ほとんどの堂宇を失う。延宝年中九輪が落ち、上二層が崩落、初重を塔堂とする。この縁起に従えば延宝年間(1673-80)に上2層を失ったと 云う。
 「大和名所記 和州旧跡幽考」第12巻、林 宗甫、江戸中期:「葛城寺 村老申す、寺村その跡なり。葛城寺又は妙安寺ともいう。聖徳太子御建立の後、蘇我葛木の臣に賜りけると平氏伝に見えたり。」
安楽寺は高野山光台院末、本尊十一面観世音菩薩立像とされ、小宇を残す。また塔北西には関係は明らかではないが、廃寺同様の坊舎を残す。
なお古写真では崩壊寸前の様子であるが、近年解体修理が行われ、修理で相当新材に取替または補充される。しかし、傷みの跡を明瞭に残す古材も健在である。
2000/9/20撮影:画     像
2007/01/14追加:「大和の古塔」黒田f義、天理時報社、昭和18年より:
柱間は方14尺7寸(4.33m)、中央間(1.67m)、脇間4尺6寸(1.39m)ある。縁は正面と左に残るも、右側にも縁の形跡がある。(背後はなし。)柱の足元には亀腹はなく、礎石は自然石を用いる。柱は径1尺1寸5分、中央間は板扉、両脇間は腰長押上は盲櫺、下は板羽目で、 斗栱は和様三手先、中備えは枓束である。軒は1重であるが、恐らく飛檐垂木を失ったものであろう。
この建築は様式上、室町中期と判断されるが、屋根母屋の墨書(上掲)の正嘉二年(1258)云々では正嘉二年以前の建築ということになるが、様式上それほどの古建築とは思われない。従ってこの墨書の年号の意味は不明とするしかない。
「大和名所之図」(推定江戸中期、大和郡山・故水木要太郎氏蔵品・巻子本)には、越智の南に三重塔を描いて「稲屋堂福中寺」と記されている。(稲屋堂とは現在の稲宿・安楽寺の場所)
この当時まだ「福中寺」三重塔が健在であったとすれば、上重を失ったのは江戸中期以降とも思われる。  大和安楽寺塔残欠
. 大和富貴寺三重塔初重
   (大和法隆寺)
重文 旧富貴寺羅漢堂(法隆寺)  平安期か?
  大和不退寺多宝塔初重 重文 大和不退寺 鎌倉期
. 大和長弓寺三重塔初重
 (高輪プリンスホテル)
. 旧長弓寺三重塔初層 鎌倉期か
. 尾張祐福寺多宝塔初重 .

尾張祐福寺多宝塔 室町中期以前の建築と推定

. 大和栄山寺塔堂
(塔之堂・大日堂)
. 塔堂1
同2
同3
同4
同5
同6
同7
同8
○「奈良県史 第6巻」:養老2年(719)藤原武智麻呂の創建とされ、子の仲麻呂が八角円堂(奈良・国宝)を建立し、藤原氏の氏寺として大きな勢力を振るう。
現在本堂の西に塔ノ堂(大日堂)が残り、大日如来を安置する。この名称は天文年間に焼失した多宝塔に因むものという。
○「日本塔総鑑」昭和45年撮影:塔堂は室町期建築とされ、重文指定。
 栄山寺塔堂
※塔堂の外見は確かに塔残欠の雰囲気を色濃く残す。建築年代も不明であり、また内部の様子も不明であるが、柱のみが残りその力感は多宝塔のものではなくて、層塔と考えるのが相応しい 木割である。なお、木鼻が残り、古いものとすると、それは多宝塔のものとしても不自然ではないが、直感的に層塔の残欠と思われる塔堂ではある。八角円堂は別にして本堂(重文)もこの塔堂同様にかっては腐朽寸前の状態まで荒廃していた様子を留める。 この意味で良く今日まで伝えられた数奇な建築と云える。
塔堂の実測は失念するも、かなりの大型の塔と思われる。
なお当寺には国宝指定の梵鐘が残る。
八角円堂1   同    2   同    3   同    4   同    5   同    6
 同 本堂1   同    2   同  梵鐘
. 河内観心寺三重塔初重 重文 河内観心寺 文明年間(1469-86)建立
. 下野高藤権現三重塔初重 . 塔1
塔2
塔3
塔4
塔5
下野茂木高藤権現三重塔初重:三重塔初重が現存する。室町期の建立と推定されるも、現在は腐朽寸前の状態である。
建築時期は永禄年間(1558-70)と推定される。
 ※その根拠は現地説明板(下に掲載)にある通りで、残存する木鼻も室町期の特徴を示す。
2013/05/08撮影
塔は
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「X」氏情報:一辺は約3.8m(中央間は約1.6m、両脇間は約1.1m)、逆連弁高欄付きの縁を廻らす。組物は三手先、木鼻付き。中備は現存してはいないが、中央間に蟇股の痕跡が認められる。
基本的に和様であるが、腰部は長押ではなく貫(腰貫)を用いる。写真でみる限り長押を用いた形跡は見られないため、当初から腰には貫(腰貫)を用いたものであろう。
軒は現在一軒で平行繁垂木となるも、一軒であるのは近世の改造と推定される。
内部には四天柱と来迎壁を残す。
○高藤権現三重塔
現地の説明板(平成2年茂木町教育委員会)には以下のように説く。(要旨)
荒橿神社三重塔(現阿弥陀堂):
この三重塔(現理阿弥詑堂)の創建については、桔梗城が完成した元弘3年(1333)戦勝祈願のために「三階堂阿弥陀堂」を建立したという説があるが、それを確認できる資料的な裏付けは全くない 。
昭和63年阿弥陀堂詳細調査を行う。その結果、最も重要な上層の組上げ工法から、細部の様式に至るまで、下野西明寺三重塔(天文12年/1543)との共通点が多く、時期的な近さが感じられる。
さらに、本塔は全体として簡略化された部分が目立つことなどから、西明寺三重塔より若干時期が新しい可能性が強い。それを裏付けるものとして、阿弥陀堂に安置されていた阿弥陀像の体内に残された墨書に永禄7年(1564)銘があること等から、この阿弥陀堂の創建は永禄年間(1558-70)と推定しても良いであろう。
 高藤権現三重塔復原図
○「荒橿神社」(高藤権現)の由緒
高藤権現は現在は荒橿神社と称する。
栃木県神社庁のサイトや現地の「由緒書」では以下のように云う。
「平城天皇の御宇大同元年九月九日茂木桔梗城主の鬼門除社として城の丑寅の方字高藤山上に創祀された地方著名の古社である。延喜五年醍醐天皇の勅撰により延喜式に其の名を載せられ式内社として下野十二社の一つに数えられ茂木領主細川家の崇敬殊の外篤く享保六年茂木領主細川長門守工費を寄進本殿を造営された。明治4年には茂木藩社となり、昭和十一年より県社に昇格郷土の守護神として崇敬の的である。」
 ご覧のように意味不明であり、かつ国家神道丸出しの噴飯ものの由緒である。
茂木桔梗城の築城は元亨3年(1333)云われ、何れにせよ中世のことであり、その鬼門除として古代である大同元年に創建されしかも延喜式内社であるとはどういうことなのであろうか。
真相は高藤権現は茂木桔梗城の築城の頃(中世)に創建され、「高藤権禅」と称したということであろう。そしてその証として、少々時代は下るが、今に永禄年中の建立と推定される三重塔初重が残存するのである。
要するに延喜式内「荒樫神社」とは何の関係も無いのである。廃絶した延喜式内社を中世・近世の現存する著名な社に付会して式内社と強弁改竄するのは、近世後期や明治初頭の国学者や復古神道家の常套手段であるのは、今更説明を要しない。
 「明治4年に藩社、昭和11年には県社に昇格」とは「郷土の守護神として崇敬の的」となったのではなく、国家神道の序列に組入れられ、国策である天皇教宣布と大東亜戦争に加担したということなのである。
 ※延喜式内「荒樫神社」は所謂「論社」である。
国家神道では茂木荒橿神社に付会するが、真岡大前神社相殿に合祀と云う異論もある。また、真岡にも荒橿神社が存在する。(真岡のこの神社はよく分からない。)
 ※三重塔(阿弥陀堂)の存在から、本地堂(神宮寺/社僧/別当など)の存在が推測されるも、Web情報は皆無である。今後究明の必要がある。
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2013/04/11追加:
ブログ:益子・茂木の旅行記(ブログ)>568 朽ち果てる三重塔「荒橿(あらかし)神社 三重塔」
修復を呼びかける記事がある。「
だれか直す方々は居ませんか?宮大工見習いの高校生・専門学校の方々修理してはいかがでしょう?」と。全く同感である。
○塔残欠であったが近年修復された塔
 近江金剛輪寺三重塔(中世・国重文)は3重目を失い、腐朽寸前であったが、昭和53年に失われていた3重目も復原して復元工事完了。修理総工費1億6780万円。国の重文ということもあったにせよ三重塔は古の姿と想定される姿に修復される。
○塔残欠であったが近年取壊された塔
 出雲千手院多宝塔残欠(明治の建立・未完・腐朽寸前)は2006年取壊され、今は現地は更地となる。(一部の残材(組物)が美作玉泉寺本堂に転用されたものと思われる。)明治以降の建築とはいえ、残念な結果とある。
 近江新善光寺三重塔(明治の建立・腐朽寸前)は無住となり、ついに昭和58年破毀される。現地は保育園となり塔阯を忍ぶものは何もない。
○塔残欠であるが保存されている古塔
 大和安楽寺三重塔初重(鎌倉以前)、旧富貴寺羅漢堂(法隆寺) (平安期か?)、
 大和不退寺多宝塔(鎌倉期)、旧長弓寺三重塔初層(鎌倉期か)、
 尾張祐福寺多宝塔(室町中期以前)、河内観心寺三重塔初重(文明年間)、
 尾張明眼院多宝塔(慶安2年(1649))、陸奥聖寿寺五重塔初重(文化年中)、
 丹後縁城寺多宝塔初重(天保年中)、大和円成寺多宝塔( 室町後期と推定)
. 但馬蓮華寺赤堂
(三重塔改造)
. . 養父市大屋町夏梅、高野山真言宗、西谷山と号す。
赤堂観音蓮華寺のサイトに以下の情報がある。それに従って現段階では塔残欠の取り扱いとする。
○赤堂(観音堂):寛永年中(1624-)、三重塔を改め楼閣二階建(紅殻塗)として移築する。
※Webに数枚の写真の掲載があるが、その写真で判断すると、堂は二階建であり、一階は基壇上に建ち、平面3間四方、柱はニ階までの通柱を用い、従って二階も平面3間で一階の平面積と同一である。ニ階には簡略な勾欄を付設した椽を廻らせ、椽束は長く一階基壇に達する。柱は円柱、二階中央間は桟唐戸、両脇間は連子窓、長押を使用し、組物は平三斗、軒は扇垂木の二重軒である。屋根は宝形造・桟瓦葺。
蓮華寺サイトでは「三重塔を改め楼閣二階建として移築」と云うも、平面3間であることや柱間装置には塔の雰囲気を残すも、ニ階建構造・組物・軒などは塔の造作とは遠いものがある。従って、塔残欠や未完の塔とするには疑問が多々ある。 (未見)
. 尾張明眼院多宝塔初重 . 尾張明眼院 慶安2年(1649)再建
. 陸奥聖寿寺五重塔初重 . . 塔は文化2年(1805)着工、文化6年相輪が完成、文化8年(1811)落慶と云う。
塔一辺5.54m、総高35m、総欅造りと伝える。また真偽は不明ながら谷中感応寺の塔を模したとも云うようです。
大工棟梁として美松五右衛門、大井宗(惣)兵衛、孫六(佐々木孫六左則)、半兵衛などの名が伝えられる。
文化5年には南部藩が10万石から20万石への高直しが認められ、南部家は侍従の位階を得た時期であり、この慶事の記念として菩提寺聖寿寺に五重塔が建立されるとも云われる。
明治維新時、塔も棄却されることになったが辛うじて初層のみ残る。
大正期子安地蔵堂に改装。
なお盛岡市中央公民館に聖寿寺五重塔の図面(弘化年中の聖寿寺本堂庫裡及び五重塔屋根葺替工事の屋根茸棟梁の図面<2図>、太田孝太郎氏寄贈、戦後に表具師萩原雄一郎氏より大田氏に渡る)が伝わると云う。
さらに川井(河井)鶴亭(江戸期末の浮世絵師)作の「盛岡城下鳥抱図」(安政年中・盛岡中央公民館蔵)には聖寿寺五重塔の絵があると云う。
盛岡城下古絵図:上記の転写:部分図
. 丹後縁城寺多宝塔初重

天保3年(1832)再建塔。一辺5.17m。
昭和38年雪で上層が倒壊。以降40年近く下層に切妻屋根を乗せた状態のままである。
2001/08/12撮影:
 丹後縁城多宝塔1    丹後縁城多宝塔2     丹後縁城多宝塔3
 丹後縁城多宝塔露盤:露盤は塔残欠横の地面に放置される。
○「日本塔総鑑」より:
 丹後縁城寺多宝塔:昭和34年撮影、既に相輪は失うも、上重倒壊前多宝塔写真である。
 (2022/01/04画像入替)
寺伝では元明天皇代印度僧善無畏三蔵の開基とし、弘法大師中興とする。また延暦14年(795)桓武天皇より「縁城寺」の寺号勅額を賜る。
その後衰徴したが、一条天皇の勅願により堂塔が再興され、西ノ坊・池ノ坊・東之坊・上ノ坊・下之坊・辻ノ坊・杉ノ坊・奥之坊・尾崎坊・宝積坊(以上衆徒坊)東之坊・志水坊・向之坊・山本坊・中尾坊・脇之坊・梅本坊・閼伽井坊・脇之坊・中之坊・小谷坊(以上行人寺)・力蔵坊・南ノ坊・藤本坊・大門坊の25坊があったとされる。
文中3年(1374)上ノ坊から出火灰燼に帰す。その後、金堂(永享2年)、下坊(永正8年)、西明院(元和8年)、心王院(寛永2年)、不動院(寛永20年)、弥勒院(慶安元年)、十輪院(寛文8年) が建立。
貞享2年(1685)ほぼ全焼。再建後堂塔は本堂・ニ重宝塔・宝篋印塔・阿弥陀堂・熊野権現(仮堂)・鐘楼(仮堂)・西明院・十輪院・弥勒院・不動院・心王院・福井坊とされる。
二重宝塔はもと願興寺塔婆を移建、堂中の四天柱は室町時代のものとされる。
天保14年本堂・阿弥陀堂・弥勒院を焼失。嘉永元年(1846)本堂再建。
明治4年十輪・心明・不動・弥勒の4院は無住になり西明院に合併。
昭和2年丹後震災で総門・仁王門・庫裏が全壊。
昭和38年の豪雪で多宝塔上部倒壊。
現在本堂の痛みもひどく、堂塔の再興が待たれるが、かなり困難なものと思われる。
2004/10/11追加:
○「国内神名帳の研究 論考編」三橋健、おうふう、平成11年 より
 ・「丹哥府志(天保12年):発信貴(はしき)山縁城寺は元発枳(訓はからたち、音はハシキ)の神社の別当なり」
 ・「峯山明細記(宝暦頃):(発枳神社の)神主無御座候、村支配御座候、姫宮大神宮、太神宮、春日、・・・不動院持ち」、発枳神社(延喜式神名帳に記載される)は不動院支配であった と云う。
2006/01/22追加:
○「重要文化財縁城寺宝篋印塔修理工事報告書」京都府教育委員会、昭和57年 より
 多宝塔:天保3年、長い間の念願であった多宝塔(大日塔)の大修理が行われる。
 丹後縁城寺古図:寛文12年(縁城寺蔵):多宝塔が描かれる。
 明治34年絵図:すでに西明院も旧西明院と表現されている。古塔の跡であろう塔屋敷(塔の檀)も明示される。
 (上の2図:2022/01/04画像入替)
2009/08/04追加:
○「峰山郷土史 下巻」峰山町、1964・昭和39年 より
 応安7年(北朝)・文中3年(南朝・1374)上ノ坊から出火、古塔(大日塔)を除き灰燼に帰す。
古塔とは竹野願興寺にあった多宝塔で、願興寺が衰微した時手水鉢とともに縁城寺に移建と伝える。移建の場所は現在の場所の上の塔屋敷(塔の檀)であった。この時九輪もなく草葺であったと云う。願興寺は麻呂子親王が建立した七仏薬師<竹野願興寺、是安神宮寺、弥栄等楽寺、加悦施薬寺、栗田成願寺、河守清国寺、豊栄成願寺>の一寺であった。本尊は安阿弥作大日如来。
 ※上記寛文12年の「丹後縁城寺古図」では多宝塔が丘の上に有るように見える。おそらく退転前の「古塔」を描いたものであろう。
明暦2年(1656)京極高通は塔頭般若院を峰山に移し蔵王権現の別当とする。
貞享2年(1685)の大火では古塔は焼失を免れる。宝暦3年(1753)の「峰山明細記」では、本堂(7×5間)、二重塔(2間四方)、阿弥陀堂、熊野権現(仮舎)、鐘楼(仮堂)、弁天社(仮社)、仁王門、楼門、西明院、十輪院、弥勒院、不動院、心王院、福井坊、堂寺西谷の堂塔がある。
享保13年(1728)古塔の腐朽が進み、再建勧進を実施・不成就。
文化7年(1810)再度勧進、同11年九輪を鋳造するも、そのまま中断。
文政10年(1827)工事再開、天保元年(1830)450年余の古塔を取除き、天保3年現在地に多宝塔が完成する。昭和2年の震災で九輪が落下。
塔中の4本の柱と本尊の後背板は室町期のものと云う。※「寺僧雑記」では「新宝塔中500年来の柱4本あり」とあると云う。
 丹後縁城寺大日多宝塔:当書は昭和39年刊行 、昭和38年の雪害には言及がない。
 丹後縁城寺大日如来像
明治16年「縁城寺明細帳」には「・・・多宝塔 本尊大日如来、由緒不詳、3間四面(注;見取図現存)・・・」とある。
2022/01/04追加:
○Wikipedia より
縁城寺多宝塔旧観:撮影日時など詳細不詳
. 大和円成寺多宝塔初重 . 大和円成寺多宝塔  建築年代不明。鎌倉長寿寺観音堂として現存する。

未  完  ・  放  置  の  塔  婆

未完・放置 .
. 周防松崎天神未成五重塔初重組物(防府天満宮) . 松崎天神春風楼床下に未完五重塔組物を組入
松崎天神
. 阿波長谷寺三重塔初重 . 阿波長谷寺三重塔初重・完成模型
. 出雲千手院多宝塔初重 . 出雲千手院多宝塔  明治27.28年戦役記念に建立。
2012/10/13追加:
2006年取壊し、一部の残材(組物)が美作玉泉寺本堂に転用されたものと思われる。
. 未完放置
伊勢神戸観音寺五重塔
. 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
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この塔婆については「X」氏情報により、その存在を知りました。
寺町の一郭に心柱の代わりに鉄骨を組み上げ、相輪を上げ、初重の組物のみ出来上がった「建築中止」の塔婆があります。以下は現住職のお話です。
昭和30年ころ先代住職が五重塔として建築を始めたが、着手の後、間も無くなくなられた。先代住職の意思を継ぐことも出来ず、建築中断のままで現在に至る。相輪は先代住職が熱心に研究し、「桑名」で鋳させたものである。何とかしたいが、中々難しい。近年本堂立替・地蔵堂立替・境内整備などを行ったが・・。またこの塔の修理も行ったが・・。鉄骨製心柱をきって、相輪を降ろし、初重の屋根を本瓦葺にして単層の堂に相輪を建てる方法も検討はしたが・・・。塔建築場所は元本堂のあった場所で、塔周辺に散在するのは本堂礎石と基壇替わり?の切石です。元は真言宗で、現在は浄土宗(智恩院)である。江戸期には本多氏(神戸城主)の保護があったようです。
塔の基礎と代替心柱は粗末ですが、檜を使った本格的な木造建築です。軸部は和様ですが、組物は唐様の影響を受けているようです。初重と相輪で判断する限り、完成すれば、相当立派な塔婆であろうと思われます。高さは大和長谷寺五重塔のような小規模なもののようです。中断から50年近くになる年月ですが、住職のお話のように、保守は行われているようです。ただし中空に金物が屹立していますから、落雷が心配です。

屋   外   小   塔

屋外小塔 .
. 陸奥普門寺三重小塔 . 11
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文化6年(1809)建立。棟札:「文化六年歳次己巳广即吉旦海岸山補陀峯普門寺・・・」とある。
総高12.5m、一辺1.65m。
基本的に唐様を用いる正規の塔建築である。平成11年大規模修理。
心柱は初重まで通す。各重3間。
軸部は極端に狭く、広い縁を設ける。
初重:斗栱はニ手先、軒はニ重繁垂木。木鼻などには近世後期の江戸関東風彫刻を施す。
二重:斗栱三手先、軒は板軒(全面彫刻を施す)。
三重: 斗栱は三手先、軒は扇垂木。
屋根銅板葺(昭和37年杮葺から変更)。
相輪の九輪は7輪である。
初重各面には仏像を安置と云う。
なお、この塔の大工は気仙大工と推定される。
 ※気仙大工については、陸奥文知摺観音多宝塔(江戸後期)のページを参照。
 ※気仙大工の仕事は多く残る。以下は気仙沼市内に残る一例である:
  補陀寺六角堂:(気仙沼市):円堂は通常八角に 造るが、この堂は六角である。宝暦12年(1762)の建立。大工は三日町瀬左衛門(気仙沼大工)と云う。
○普門寺(陸前高田・曹洞宗)開山は仁治2年(1241)、永正元年(1504)浜田城主千葉宗綱の再興と云う。
普門寺三重小塔心柱:心柱は心礎の上から建つのかどうかは不明であるが、床下を貫通する。
普門寺三重小塔本尊:初重東面安置仏、大日如来か。
普門寺山門(代門):長い参道奥に本堂が見える。
普門寺本堂:中央に石階があるが、手前の石階の上に山門があった。
普門寺山門礎石:今も門礎を残す。
. 陸奥蓮光寺二重小塔 . 図1
図2
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天保7年(1836) 建立。(「X」氏情報、「塔をゆく」國見辰雄による)
「15世報上良瑞天保7年霜月建立」とあると云う。「太子堂多宝塔」と称する。
 構造は下層正面及び裏面は3間・両脇面は2間、上層1間 である。内部には四天柱を立て、その四天柱が上層に伸びて上層の4隅柱となる構造と云う。また、下層の表面・裏面は3間であるが、その両脇間は極端に狭く通常の概念でいう3間とは様相が異なる。
塔初重一辺は5尺1寸(155cm)、正面・裏面の両脇間は1尺(30cm)、中央間3尺1寸を測る。(実測)
 下層正面には唐破風を置く。上層には擬宝珠高欄を付設。下層は基壇・床を設けず直接礎石から建物が立ち上がると思われる。組物は一応唐様の二手先を用いる。屋根は銅板葺。聖徳太子像を安置すると云うが、 なぜ聖徳太子なのかは不明。高さ約8m。 昭和57年修理。平成11年修理。
 当寺は光明山と号す。宝暦5年(1755)佐藤良庵が「摂取庵」なる庵室を改組し、寺院を開山したことに始まる。中興開基は勇猛と伝え、江戸初期に芝増上寺、京都知恩院から山号・院号・寺号「光明山摂取院蓮光寺」を得る。現在は浄土宗知恩院末。 本堂(明和3年再建)、一切経蔵(明和3年再建)などを有する。
 以下の奇妙な光景がある。浄土系の当寺本堂左に熊野権現社拝殿・本殿が並んで建つ。明らかに当寺境内に熊野権現があるように見える。(立地から、明治の神仏分離で熊野権現は熊野神社として分離したように見える。)説明板には「当地は往古より茂林荒蕪地で弥陀の小堂あり。・・・里人はこの地を敬い、一宇を建立し、熊野権現と唱え、崇敬する。(大意)」「安政元年(1853)現社殿を建立、遷宮鎮座する。明治5年熊野神社と改号。扁額には『熊野八幡本地堂』とある。」とある。
奇妙なのは浄土宗と熊野権現の結びつきであり、このことが良く理解できない。また『熊野八幡本地堂』なども良く理解できない。
参考:
 良く似た二層塔に阿波明王院二層塔があるが、こちらは下層は通常の3間である。(阿波明王院の柱構造もこの塔と同一構造と思われる:推測)。
 唐破風付設の塔は(1)淡路蓮光寺、(2)信濃照光寺に見られるが、(1)は上下3間・向拝付・相輪は欠く、(2)は上下層とも1間の構造である。
なお備後福性院は上下層とも1間、讃岐海岸寺は上下層とも3間の正式の層塔建築、丹後如意寺十方閣は上下層とも3間(唐破風・向拝付設)の形式と思われる。
 図1:左建物は一切経蔵、図8:左脇面、図9:裏面
. 越後妙光寺三重小塔 . . 新潟県巻町角田浜、もとは近くの隆崇寺の堂宇の中にあったもので工芸品であった。
漆塗り、江戸後期の作。「日本塔総鑑」
平成16年(2004)解体修理。
. 伊勢瑞巌寺三重小塔 . . 高さ約9m、一辺1.33m。一応屋外の建築として建立と思われる。各重1間。組物はなし。初重まで心柱は通ると思われるも、正規の塔建築の様式には程遠い粗末なものと思われる。屋根桟瓦葺。
. 美濃平安寺二重小塔 . . 江戸期末の造作と推定される。(棟札など建築年代を示すものはない。)
 ※元々は神社に建立といい、明治維新前(幕末)の建立であるのは確かであろう。
形式:三間二重塔婆、総高約5mか?。
初重一辺3尺(91cm)、柱径2.2寸(66mm)。屋根桟瓦葺。初重3間、ニ軒並行垂木、廻縁付、横板壁、桟唐戸、地長押、内法長押、頭貫・木鼻、台輪を置く、組物和様三手先、中備中央蟇股、両脇間斗束、上重は3間、軒ニ軒扇垂木、勾欄付廻縁、組物は三手先を用いる。
この塔は秋葉神社(揖斐郡揖斐川町三輪上町・位置未掌握)にあり、明治の神仏分離で平安寺に移すと云う。岐阜県揖斐郡池田町舟子。
※洞海山と号す、元天台宗であったが、現在は臨済宗妙心寺派となる。本尊:薬師如来。
※彫刻師国枝桂助:文政8年(1825)-明治34年(1901)、揖斐に生れる。
京都の彫刻師前川三四郎の門に入る。嘉永3年(1850)故郷に戻ると推定。
揖斐川町一帯に多くの彫刻を残す。
参考文献:
「美濃揖斐彫物師 国枝桂助とその作品」水野耕嗣(「学術講演梗概集Vol.2000」 所収)
「美濃揖斐彫物師 国枝桂助の建築的業績」水野耕嗣(「岐阜工業高等専門学校紀要Vol.35」2000年 所収)
 美濃平安寺二重塔   美濃平安寺二重塔初重
実測値:一辺101cm(地長押の長)、縁一辺157cm、初重の縁上から台輪までの高さ61cm。
2008/10/21撮影:
 美濃平安寺二重小塔1     同   二重小塔2     同   二重小塔3
   同    二重小塔4     同   二重小塔5     同   二重小塔6
   同    二重小塔7     同   二重小塔8     同   二重小塔9
  同  本尊(大日画像)
. 武蔵延命寺五重小塔 . 図1
図2
図3
図4
図5
昭和9年(1929) 建立、高さ約8m、一辺は3尺(90cm・実測)。木造屋外塔婆。
基壇はコンクリート基壇の半地下式で、納骨堂を造ると云う。
青梅市小野其治氏の寄進(愛児の菩提のため)。工匠は志村福重、観音菩薩を祀る。
住吉山延命寺は臨済宗建長寺派、応安2年(1369)の創建と伝える。北方にある住吉社は開山季竜禅師が故郷である摂津住吉社を勧請したもので、山号住吉山はこのことに由来し、明治維新までは延命寺が管理したと云う。
2011/02/20撮影:
 武蔵延命寺五重小塔21    武蔵延命寺五重小塔22    武蔵延命寺五重小塔23
 武蔵延命寺五重小塔24    武蔵延命寺五重小塔25
. 備前上生院二重小塔 . 画1

画2

2014/01/25追加:図2は2014/02/08追加
○岡山「A」氏(岡山模型店DAN)より備前桜 橋上生院二重塔の存在の情報及び画像の提供を受ける。
昭和10年建立と推定される。二重塔は上重下重とも方1間、屋根銅板葺(「A」氏の情報では銅本瓦棒葺と思われる)、多宝塔風な相輪を架す、上重軒は扇垂木、 椽付設、下重も四周に椽を廻らす。
 画1は「上生院のページ」より 転載(転載使用許諾済):岡山「A」氏2014/01/21撮影画像
○「岡山・備前地域の寺」 より
宝聚山安楽寺上生院:高野山真言宗。「岡山市史」では以下のように云う。
白鳳期行基によって創建、備前国分寺の僧に令して、現網濱に一宇を建立、義家院と称す。国主任国を当山に葬る。報恩大師再興。応永2年(1395)宝聚山安楽寺と称し、法相から真言へ転宗。
○ページ「宝聚山 安楽院 上生院」 では以下のようjに記す。
草創は奈良時代に遡り備前国分寺の末寺として建てられたと云われる。
寺伝に、「天平十年八月国守より赤坂郡高月村国分寺の僧に令して上道郡宇治郷網干の浦(今謂網浜)義冢山麓に一宇の寺を剏建せしめ義冢院と号し、国守任国の中に卒去ありしを義冢山に葬り当院をして事務を司らしむ。其の後当院破滅に及びしに、天平勝宝元年報恩大師備前四十八ヶ寺を創建せんが為に霊地を選ばんと国中を回歴するの時則此の網干浦に来りて当院の寺跡を感じて再興あり、応永二年寺号を安楽寺、山号を宝聚山と称し法相宗を改めて真言宗となす。康生二年六月当院造営大いに成る。天正元年宇喜多直家寺領として八町余の地を寄付す、舎弟忠家も一町余を寄進せり、小早川秀秋悉く没収す。元禄年中炎上、池田氏より寺領三石余を寄進せるが版籍奉還の時没収さる。」
上生院から北へ約400mのところに網浜字堂屋敷という寺跡があり、この付近から奈良時代の布目瓦が多く出土する、寺伝の通り天平勝宝の草創とすると、この堂屋敷よりほかに適当な遺地が見当たらない。(市史古代編を参照)
同寺は昭和四年八月二十九日に出火、庫裡、客殿などを焼いたが間もなく再建し、又昭和十年には多宝塔(上・下層共方形)を建て、戦災後には本堂・客殿・庫裡・山門・多宝塔があった。昭和二十年六月の空襲には焼夷弾を受けて本堂・客殿・庫裡を焼失、現在の客殿と庫裡は戦後の再建である。
 ※網浜廃寺は平城宮式瓦が確認されていると云う。
◆2014/02/15撮影:
二重小塔の建築年代を明らかにする資料がないが、上掲のページ「宝聚山 安楽院 上生院」ではでは昭和10年建立と云う。この年代については、近年の新造では有り得ないので矛盾はないであろう。さらに資料がないので、塔の由来、名称、安置仏などについても明らかにすることができない。
 上下重とも平面1間の簡略な形式であるが、木造建築である。一辺は、メジャーでの計測ではないが、およそ5尺(1,5m)と計測する。高さは不明。基本的に和様であるが、唐様を混用する。
塔はおよそ5尺程度の花崗岩製の石積基壇に建ち、石階は一切設けない。
屋根は銅本瓦棒葺、多宝塔風相輪を架し、宝鎖を懸ける。組物は上下重とも出組であり、柱間には簡素な蟇股(上重は間斗束と云ってもよい)を置く。また上下重とも勾欄を付設した椽を廻らす。
軒については下重は二軒の平行垂木、上重は二軒の扇垂木とする。また内法長押のすぐ上に頭貫を組み込む特殊な軸組である。
初重四面は各面とも3間風に木枠を嵌め、木枠中央間は唐桟戸、木枠両脇間は板壁である。上重は四面とも板壁とし、その中央には板で封鎖した花頭窓を配する。 と云うより、板壁に花頭窓枠を置いただけの構造と思われる。支輪は彫刻を施した板支輪とする。
なお、各材には朱・赤銅・海老茶・群青・緑青・白色などで彩色する。
 備前上生院二重小塔11   備前上生院二重小塔12   備前上生院二重小塔13
 備前上生院二重小塔14   備前上生院二重小塔15   備前上生院二重小塔16
 備前上生院二重小塔17   備前上生院二重小塔18   備前上生院二重小塔19
 備前上生院二重小塔20   備前上生院二重小塔21   備前上生院二重小塔相輪
 備前上生院山門     備前上生院本堂     備前上生院大師堂     備前上生院鐘楼
. 能登市姫神社えびす堂(二重小塔) . . ○2012/08/27追加:
えびす堂は多宝塔形式の建築か。未見であり、入手写真が小さく不鮮明で多宝塔なのか二重塔なのかはっきり判別できないが、写真では多宝塔形式のように見える。堂大工柴田真次の建築と云う。
法量・建築年代・由緒などは全く不明。柴田真次の没年から、明治〜昭和15年以前の建築であろう。
「田鶴浜町の歴史(下巻)」田鶴浜町史編さん委員会編、田鶴浜町、1994 より
 能登市姫神社えびす堂
柴田真次:安政4年(1857)〜昭和15年、田鶴浜に生れる。16歳で田鶴浜住吉神社、18歳で川尻荒石比古神社、26歳で舟尾白山神社を建築と云う。
田鶴浜町付近では真宗大谷派得源寺釣鐘堂(大正8年)、三引亀山天神堂・釣鐘堂(明治29年)、東嶺寺奥殿などがあり、曹洞宗大本山鶴見総持寺紫雲台、門前総持寺祖院太祖堂及び山門などの棟梁を務めると云う。能登にはその他多くの寺社に遺構が残る。
 参考:総持寺祖院山門:昭和47年購入絵葉書 より、亀山天神は能登赤蔵権現中にあり。
市姫神社:七尾市田鶴浜町ロ115:創建などは不詳と云う。
○2016/11/27撮影:
 実見すると、この塔は多宝塔(小塔)ではなく、二重塔形式の塔である。しかも、欅造の木造素木造でありながら、残念にも平面三間の塔建築ではなく、平面方一間の小塔である。
様式は和様を基本にするも、大きな木鼻・台輪・粽など禅宗様を大胆に取り入れた建築である。
屋根銅板葺き。
法量及び建築年代は不明のまま。
 市姫神社:創立の年代は不詳であるが、当地住吉社より遙かに古いと伝えられる。初め東町ハ部にあり、貞享2年(1685)住吉社を相殿として祀る。その後天保2年・同10年・同13年・弘化3年と4度の大火で社殿が焼失、村民はこれ相殿を嫌う神意として、本社を現在地に移し祀るという。
 ※草創が古い云々は眉唾であろうが、おそらく明治初頭に住吉社から分離し、現在地に建立されたのであろう。祭神は市杵嶋姫、迦具土、建御名方といい、いずれも国家神道の神であり、国家神道の臭いが漂う神社であろう。しかし、そのような臭いの神社になぜ仏塔が建てられたのであろうか、その理由は分からず、不思議なことである。
 市姫神社二重小塔11    市姫神社二重小塔12    市姫神社二重小塔13
 市姫神社二重小塔14    市姫神社二重小塔15    市姫神社二重小塔16
 市姫神社二重小塔17    市姫神社二重小塔18    市姫神社二重小塔19
 市姫神社二重小塔20    市姫神社二重小塔21    市姫神社二重小塔22
 市姫神社二重小塔相輪
 市姫神社社頭:石階上の鳥居を入り左手に二重小塔がある。
. 備中恵重寺五重小塔 . 11
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「日本の五重塔総覧」より;
昭和27年建立。構造は鉄筋と云うも、外部は木造である。
組物は伝統的な木組みではなく簡素なものを用いる。
屋根銅板葺。(※近年?屋根はセメント製であったが本瓦葺に修し、朱塗りを施し・・・とあるが、朱塗りを施したのは五重塔であろうが、屋根の葺替は本堂などの話であろう。)
寺院は高野山真言宗、戦後の創建と思われ、塔婆は戦没者供養塔として建立。
 恵重寺五重小塔内部
寺号の「恵」は住職平川恵照の一字と塔施工の宮大工の一字を採ったものと云う。
住職は既に遷化し、その夫人が寺を守ると云う。
なお、南朝の年号である「正平12年」銘の石造延命地蔵菩薩立像を祀る。また付近には同形・同年紀の地藏菩薩3躯があると云う。
 備中恵重寺延命地藏
. 新見井倉洞五重小塔 . 新見井倉洞五重小塔
昭和27年建立、2000年〜2003年頃、腐朽もしくは災害も加わり倒壊したものと推定される。
. 蓼科聖光寺三重小塔 . 図1
図2
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図7
屋外にあるが、模型塔。但し檜を使用した精密な工作ではある。塔一辺(裳階部)は98cm、初重の裳階の屋根一辺157cm。総高は目測で3mくらいと推測される。外観は大和薬師寺三重塔をモデルにしたと思われる 。
当寺は(旧名)トヨタ自動車販売(株)神谷氏の発願で建立される。自動車による交通事故での死者・負傷者に対する贖罪の為の建立と思われる。 一種の偽善であろう。
昭和45年大和薬師寺長老橋本師によって開眼供養と云う。小塔建立時期は不明であるが、この頃に建立か、あるいはこの小塔だけは他の堂宇と性格が違うので、多少遅れて設置されたものと思われる。
小塔の他は飛鳥風を模したRC朱塗の大型の本堂・山門などがある。
. 陸奥願栄寺三重小塔 . 図1
図2
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図8
昭和47年建立、特に由来はない、先代住職の建立(現住職?談)とのことで、現住は三重塔に特に関心があるとは思われない。
願栄寺本堂(と思われる)ビル屋上に三重塔がある。ビルは少なくとも5階建であり、その屋上にあるからかなりの高所に建立されている。  ※参考:武蔵応善寺 三重塔がビル屋上にある。
塔自体はビル2階の高さ位と推測されるため、総高は6〜7m位であろうか?、RC製と思われる。
各重方3間、軒は一軒並行垂木、組物は平ニツ斗(というべきか)を用いる。二重三重には勾欄を付設すると思われる。願栄寺は八戸の繁華街にあり、真宗大谷派、法照山と号す。
なお以下のWeb情報がある。:
安藤昌益の檀那寺であった。(「宗旨改組合書上申御帳」による。)
昌益は延享元年〜 2年(1744〜1745)頃、八戸城下十三日町で町医者を開業すると云われる。
(「東奥日報」):明治32年三戸郡八戸願栄寺が全焼、「同寺はかつて焼失せることあり目今は仮本堂なりしも今回は庫裏仏像経巻は勿論百年伝来の宝物家具家財等に至るまで悉皆烏有に帰したる」
. 摂津須磨綱敷天満宮
       三重小塔
. 画像 遷座1000年記念塔として昭和52年(1977)竣工(基壇埋め込み石製銘文)。
高さはおそらく3m前後 であろう。見た目はRC造とも思われるが、仔細に見れば木造で厚く塗装をしているように見える。さらに「基壇埋め込み石製銘文」には、宮大工(2名)、石匠、塗装、板金の各工人の名が刻されていることからも、塔は木造(彩色)の塔であろう。
 ところで、なぜ遷座千年記念として三重塔という佛教色の強い建物が選定されたのであろうか、それは良く分からない。元来天満宮は神社というより寺院の色彩が強かったため、明治の神仏分離の処置では仏塔をはじめ神宮寺・仏堂・仏像・仏画・仏器・経典や僧侶などが徹底的に破壊された。そしてその延長としての国威の発揚の帰結としての戦争に都合よく利用されたとの反省からなのであろうか。しかしそのような兆候は神社側にあるのであろうか、疑問のあるところである。
 なお同一形式・ほぼ同規模のものとして、周防松崎天神(防府天満宮)の三重塔がある。
画像は2002/05/20撮影
2006/01/29追加:綱敷天満宮三重小塔
2016/06/02撮影:
 摂津綱敷天満宮三重小塔11   摂津綱敷天満宮三重小塔12
 摂津綱敷天満宮三重小塔13   摂津綱敷天満宮三重小塔14
 摂津綱敷天満宮三重小塔15   摂津綱敷天満宮三重小塔16
 摂津綱敷天満宮三重小塔17   摂津綱敷天満宮三重小塔18
 摂津綱敷天満宮三重小塔19   摂津綱敷天満宮三重小塔20
 綱敷の圓座
※なお、当社の境内案内板によれば、須磨綱敷天満宮は松浦武四郎の崇敬した天満宮第14番目の聖跡として、神鏡が奉納されたという。
 松浦武四郎は神社を敬い、明治8年上野東照宮に神鏡(銅鏡)を奉納したのはじめ、北野天満宮、大阪天満宮、金峯山寺、太宰府天満宮に直径3尺超、重さ30貫もある巨大な銅鏡を奉納する。就中、武四郎は、天神(菅原道真)を篤く崇め、東京以西の天満宮二十五社を聖跡として選定し、巡拝を念願する。そして明治17年から明治20年にかけて、天満宮聖跡二十五社を参拝し、径1尺ほどの神鏡を奉納するとともに石碑を建立する。
 さらに、松浦武四郎の関係でいえば、木片勧進のbU9として「摂津須磨簾」が挙げられ、それは綱敷天満宮宮守貴答作左衛門から寄進され、一畳敷「東口敷居下蹴込」(現存せず)として使用されたという。少なからず、当社と松浦武四郎は関係があったということであろう。
. 周防松崎天満宮
       三重小塔
. 松崎天神(防府天満宮)
. 武蔵福正寺五重小塔 . 図1
図2
図3
図4
昭和58年(1983)建立。高さ約7m、壇上積基壇に建つ。現地案内板によると、本尊大日如来、大和興福寺塔の1/7のスケールで設計、素材鉄・銅・木材を組み合わせて構築、檀徒で箱根ヶ崎館工務店社長田中重芳氏の寄進、棟梁としての技を後世に残すことを発願という。
大いに珍重すべきことと思われる。但し、大和興福寺の1/7スケールという触れ込みの故に、大和興福寺塔婆と重ねる結果となり、 圧倒的な興福寺塔婆の存在感との比較で損な印象となるのは致し方ないことと思われる。
村山氏(武蔵七党村山党)菩提寺と云われる。天正15年(1587)村山土佐守義光が再建寄進したとされる(観音堂観世音菩薩像の台座銘)。立川普済寺の末、臨済宗。
. 三河徳正寺三重小塔 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
恵城山と号する。宗旨は未調査。外見は一般的な寺院の雰囲気を醸し出す。
昭和63年建立。一辺1.18cm、高さは不明なるも、5〜6m位と推測。基本的に和様の仕様であるが、どういう訳か組物は禅宗様を用いる。一辺1m強の小型塔で あるが屋外にあり、本格的なおそらく檜製の木造塔婆(本瓦葺き)である。下記のように宮大工の造作ということもありうる出来栄と思われる。
この小塔建立の経緯は未確認であるが、奇特な人の寄進で、造作は近隣の大樹寺の宮大工であったというようなことを噂として聞く。(但し、未確認情報)
. 武蔵宗建寺三重小塔 . 11
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平成元年建立(碑文による)と思われる。(文字が良く判読できない。)
銅板製:銅板を四角に貼り合せ、もしくは円柱は銅板を丸め、建築材(中は空洞)を作り、その建築材を溶接して塔を組立したものである。
初重一辺は2尺(59cm・実測)
青梅市:延命寺(五重小塔)の南東すぐにある。
宗建寺:仙桃山と号す、臨済宗。本尊毘沙門天。
. 群馬栗原邸五重小塔 . 図1
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平成2年完成。個人邸の庭にある。総高7.3m。米松・檜使用。個人が独力で建造。雲肘木を使用。
(2009年現在)製作者は既に他界し、手入れはされていないと思われ、小塔は少々荒れる。
栗原邸:太田市尾島町出塚
. 相模法船寺三重小塔 . 図1
図2
図3
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図5
平成5年(1994)竣工、総高6.8m。、総檜本瓦葺きの本格建築で ある。横浜日吉天野工務店施工。総工費約7500万円。
法船寺:
日蓮宗。済度山と号する。比企谷妙本寺末。
文永11年(1274)日蓮上人鎌倉より身延山へ赴く途中、酒匂川増水でこの地に留まる。この地にあった地蔵堂の地蔵菩薩の化身が地蔵堂に宿を提供、堂守は上人に帰依し、翌日船を出し、上人は渡岸する。これに因み法孫朗慶上人が一宇を建立し、済度山法船寺と号すると云う。
なお、日蓮上人一行を地蔵堂に導いたのは堂守の庵にあった老松が光り輝いたからであり、この奇瑞を後世に伝えるためであろうか、中老僧日法上人の手によって、奇瑞を現ぜし松の木の一部を持って祖師像を刻み、大國阿闍梨日朗上人開眼入魂したものという。本像は当寺に奉安し、川端祖師と称する。
図1〜5は2005/08/27撮影:
. 越後酒呑童子神社
        五重小塔
. 図1
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平成9年、一辺約2.5m、高さ約13m。地元の竹之内富夫氏(竹之内建設)の製作と云う。
木造塔と思われるも建築構造は不明。外観は各重3間、各重正面中央間は板唐戸、両脇間は板壁、正面以外は不明、軸部は和様に凖じ、組物は3手先を用いる。軒は各重二重繁垂木。中備は3連の間斗束を置く。
画像は「O」氏ご提供:2007/11/08撮影
神社は分水町商工会異業種交流会が国上寺の酒呑童子を縁結びの神として祭祀する。建立の動機は観光に資するということのようであり、神社というより観光施設というべきか。この酒呑童子は各地の伝説の内、越後国上寺の童子で絶世の美少年であったと云う。
「O」氏情報:
「国上山から弥彦神社までは、かつて稚児道があった。国上寺の稚児が弥彦神社まで舞をするため通ったといわれる道で、国上山、雨乞山、弥彦山裾を縫うように通っている。酒呑童子も国上寺の稚児の一人であった。」
「最初に事前に工場で組み立ててある五層を載せ、次に四層を五層を持ち上げた下に入れ、さらに三層は五層・四層を持ち上げた下に入れるという方式で造ったそうです。」
※この工法の真偽は不明であるが、少なくとも現場での建築ではなくて、工場で組立をして、それを積み上げた構造と推定される。心柱の有無については(床下には心柱らしきものは見えますが)不明、「各重に勾欄が無く、その場所には不自然な立上げ」がある と云うのが工法の特殊性を物語るのかも知れない。
「屋根は(写真による判断であるが)、おそらく銅板ではなさそうで、着色ガルバニウム鋼板(カラー鉄板)とも思われる。」(色は銅板が7〜8年経過したような色で あるが、現在は着色ガルバニウム鋼板でそのような色の製品がある。)
2012/12/09追加:
参考:「出雲國浮浪山鰐淵寺」 より
中世越後弥彦山の本地は阿弥陀如来とされ、平安期からこの本地を本尊とする神宮寺があった。一方神宮寺とは別に谷一つを隔てた南方に真言宗国上寺(本は天台宗と云う)があり、弥彦山と親密な関係を築く。これは出雲における杵築大社と鰐淵寺との関係に似る。
. 武蔵明鏡寺
    三重小塔
. . ○2019/05/26追加:
平成10年(1998)建立、木造塔と思われる。小塔。川崎市高津区末長に所在。
◇インスタ「放蕩訪塔記 since 2017」 より・・・次の情報がある。
明鏡寺三重塔   山号松林山   建立:平成10年(1998)   宗派:天台宗
構造:木造、銅板葺 ※要確認   所在:神奈川県川崎市高津区 
高さ目測6〜7mほどの小塔   備考:先祖供養塔▽上層の組物がかなり混み合う
◇「新編武蔵風土記稿」
末長村明鏡寺
村の西に寄りてあり、天台宗東叡山末、多磨郡深大寺の進退によれり、松林山安楽院と號す、・・・開山及び起立の年歴は詳ならざれど、寺僧歴代の碑に寛永五年七月十三日慶丁法印と刻するものあれば、若くは此人創建せしならんか
 ※明鏡寺は杉山社の別當であったという。
末長村杉山社
村の南によりてあり、勧請の年代を詳にせず、・・・社地丘上にて松樹あり、村内三給の鎮守にして明鏡寺の持なり。
◇上記「放蕩訪塔記」より転載
写真で判断する限り、純和様を用いる木造塔である。屋根銅板葺き。かっちりとした造作である。
確かに、三重目の斗栱は混雑であり、三重目は方2間にすべきであったのかも知れない。
 武蔵明鏡寺三重小塔1     武蔵明鏡寺三重小塔2     武蔵明鏡寺三重小塔3
 武蔵明鏡寺三重小塔4     武蔵明鏡寺三重小塔5     武蔵明鏡寺三重小塔相輪
○2019/06/02追加:
「X」氏2019/05/25撮影画像
 武蔵明鏡寺三重小塔6     武蔵明鏡寺三重小塔7
. 埼玉新座市墓園
        三重小塔
. 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
平成13年落慶。詳細不詳。小型塔であるが、檜材を使用した木造塔である。
和様を基本とするも、一部唐様を交える。容姿は平面に比べ高さが低くまた逓減率も低いきらいがある。相輪もやや短いと思われる。 斗栱は2手先でこれは残念である。しかしながら、本格的に造作した塔であることには相違はない。
. 若狭金前寺五重小塔 . 図1
図2
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図7
図8
図9
図10
平成17年(2005年)建立。総高8・5m、塔身6m(総欅)、相輪2.5m(ステンレス製)、コンクリート製基壇1.3m上にある。
軸部が極端に細く、初重二重は平面3間、三重四重は2間、五重は1間に造る。
宮大工は姉崎徳美(あわら市田中々)、松本鉄工所請負。
本尊金剛界大日如来。
誓法山と号す。高野山真言宗。天平8年(736)泰澄の開創、弘仁2年(811)弘法大師留錫、南北朝の兵乱を経て、元亀元年(1570)織田信長の兵火により灰燼に帰すと云う。
寛文2年(1662)現在地に観音堂を再建。昭和20年空襲により焼失、昭和21年本堂再建、昭和63年現本堂再建。
※「敦賀市市制15年史」敦賀市役所、昭和27年:空襲による被害、焼失棟數13、焼失建坪249坪
. 大分海潮寺三重小塔 . . 2009年(平成21年)1月以前(この年に近い時期)に「幸建設」にて完工と推定。
完工後、まもなく、大分海海寺に寄進され、移転する。
---以下「X」氏より情報提供あり---
○大分市海潮寺:大分市三佐4丁目8-16、臨済宗妙心寺派、その他の情報はほぼない。
○2009年1月23日の株式会社安成工務店(下関市)のブログ より
 「幸建設さんは寺社建築を得意とする工務店。実物の1/3の大きさで制作された三重の塔を見せてもらいました。全高8m、これから近くのお寺に寄進されるために運搬用鉄骨がセットしてありました。」とある。
 ※(株)幸建設の手により高さ3mの試作三重塔が、少なくとも2009年1月までに完工していた。
 そして、この三重塔は、2009年1月以降の近いうちに、近くの寺院に寄進されされる予定であった。
 幸建設移転準備三重小塔
○2012/12//25の「幸建設からら版」 より
 テーマ:その他
 「先日、年末のご挨拶に大分市の海潮寺様を訪ねた際に、先代の社長(宮大工)がつくったという三重塔を見ました。細部まで部材まで丹念に作り込まれていて見応え十分!実分の三分の一の大きさとは言え、かなりの力作です。」とある。
 ※この三重塔は、大分の海潮寺に寄進されたようで、幸建設の先代社長の手になり、先代社長は宮大工であった。
 海潮寺三重小塔1
○GoogleMapにて大分海潮寺を確認(ストリートビューは2013年3月)
確かに三重塔の存在が確認できる。
以上より、本三重塔の完工は2009年1月以前(この時期に近いものであろう。)と推定される。
実物の1/3のスケールというから、試作であろう。総高8mというから、設計は単純に3倍して高さ24mという標準の塔であろう。
そして写真で確認できるように、ほぼ和様の本格的塔婆であろう。
完工した三重塔は2009年1月以降の早い時期に大分海潮寺に寄進され、移動設置されてものと思われる。
なお、株式会社 幸建設は別府市にある。
以下GoogleStreetViewより転載:
 海潮寺三重小塔2     海潮寺三重小塔3     海潮寺三重小塔4
---以上「X」氏よりの情報提供---
〇2019/07/29「X」氏撮影画像:
一辺は約160cm(約5尺3寸)という。<総高8mという>
 海潮寺三重小塔11     海潮寺三重小塔12
. 明石壺中庵三重小塔 . 明石壺中庵三重小塔・・・平成26年(2014)12月竣工
. 弦巻常在寺五重小塔 .2015年(平成27年)落慶。一辺約1.8m、高さ約8.8m、
山城醍醐寺五重塔をモデルとする。
醍醐寺塔の1/6のスケールであるが、醍醐寺塔と同じ構造を持ち、伝統的な社寺建築の技術で建立という。設計・施工は株式会社翠雲堂。
塔は常在寺檀信徒の永代供養塔とし、基壇の下地階が永代供養の合祀墓となる。
常在寺:
東京都世田谷区弦巻1-34-17
日蓮宗。宝樹山と号す。身延山末。
永正3年(1506)忠善院日純の開山で、開基は大平出羽守の娘、世田谷城主吉良頼康の側室、常盤御前(法号寶樹院殿妙常日義大姉)と云う。
現在の本堂は平成14年の造替、その他鬼子母神堂、庫裡、山門などを有する。
○常在寺サイトから転載。
 常在寺五重小塔1     常在寺五重小塔2     常在寺五重小塔3
 常在寺五重小塔4     常在寺五重小塔5
2016/04/01「X」撮影画像:
 弦巻常在寺五重小塔0
2019/04/24追加:
翠雲堂サイトより
 弦巻常在寺五重小塔6      弦巻常在寺五重小塔7     弦巻常在寺五重小塔8
2023/05/28追加:
 2023/05/25訪問:再訪と思い込んでいたが、初回訪問であった。
初重の地長押の長さ一辺は193cmであるので、初重側柱芯-芯間は181cmと推定される。つまり、初重一辺は60尺、柱間は20尺等間の設計と推定される。
2023/05/25撮影:
 常在寺五重小塔11   常在寺五重小塔12   常在寺五重小塔13   常在寺五重小塔14
 常在寺五重小塔15   常在寺五重小塔16   常在寺五重小塔17   常在寺五重小塔18
 常在寺五重小塔19   常在寺五重小塔20   常在寺五重小塔21   常在寺五重小塔22
 常在寺五重小塔23   常在寺五重小塔24   常在寺五重小塔25   常在寺五重小塔26
 常在寺五重小塔27   常在寺五重小塔28   常在寺五重小塔29   常在寺五重小塔30
 常在寺五重小塔31:相輪
 常在寺山門     常在寺本堂     常在寺歴代廟所
. 丹波福住清泰寺
       三重小塔
. . おそらく2015年設置と推定される。2013//10月のGoogleストリートビューには三重小塔は写らず。
「X」氏情報:「X」氏は清泰寺前を年に1度くらい?は走行するということであるが、2016/4月に清泰寺前を走行中に三重小塔の存在に気付くという。小塔の設置は2014年、2016年ということも考えられるが、おそらく2015年に設置されたと思われる。何れにせよ、2015年ではないとしても、2015年前後に設置ということには間違いないであろう。
清泰寺は曹洞宗、篠山市西野々359
2016/04/09「X」氏撮影画像:
 清泰寺三重小塔1   清泰寺三重小塔2   清泰寺三重小塔3   清泰寺三重小塔4
目測であるが一辺は70cm程度と思われるとのことである。
  倉石又重弘法大師堂五重塔     2008年竣工(2004年着工)。一辺は約1.5m(「X」氏情報)、高さ11m。総ヒバ造。
五戸町倉石又重森ノ下タに所在。
本塔は弘法大師堂総代澤内氏(工務店経営)が家内安全・五穀豊穣を祈念し建立という。
五重とも方3間、軸部は和様で、組物は出組、尾垂木には凌ぎをいれる、中備えは間斗束、軒は二重重垂木、屋根銅板葺き。
2020/07/24「X」氏撮影画像:
 弘法大師堂五重塔11     弘法大師堂五重塔12     弘法大師堂五重塔13
 弘法大師堂五重塔14     弘法大師堂五重塔15     弘法大師堂五重塔16
 弘法大師堂五重塔17     弘法大師堂五重塔18     弘法大師堂五重塔19
 弘法大師堂五重塔20     弘法大師堂五重塔21     弘法大師堂五重塔22
 弘法大師堂五重塔23     弘法大師堂五重塔24
. 高松小比賀氏五重小塔 . . 2011年頃より高さ9mの五重塔の製作に取り組み、2020年迄の完成を目指すという。
現在(2017年末)の進捗は四重迄の組み立てまでが終わった状況である。
残す工程は五重目の部材作成(部材加工の状況は不明)と組立、及び屋根瓦製作と瓦葺き、相輪の製作、寄贈先の検討・寄贈先への搬出・寄贈先での組み立て・金具などの取り付けなどである。
 ※屋根は本瓦葺きの予定で、そのため1/5程度の小瓦を別注予定、また相輪は青銅製を予定、専門工房に製作を依頼予定。
小比賀氏は工務店の2代目で、30歳の頃高さ45mのオリジナルの五重塔図面を製作。その図面は長くあたためてきたが、2011年3代目に工務店の職務を譲り、それを機会に五重塔の製作を開始するという。但し、この五重塔は若い頃に製図した高さ45m五重塔図面の1/5の大きさで製作といい、この意味で製作中の塔は五重小塔である。
小比賀氏は大工歴50年以上であり、木造建築のみを扱い、さらに寺社建築や修復も手掛けた宮大工でもある。「五重塔には宮大工の技術の粋が詰まっている」との「畏れ」と「憧れ」とがあり、正確な墨入れと加工に心血を注ぎ、「本物を目指し」鋭意製作中である。
用材は小塔故に「くるい」を怖れ、堅木である欅を用いる。心柱は国産檜材を使用し、心柱は左義長から鎖で吊る近世の手法を用いる予定とのことである。
様式は一部唐様が見られるもののほぼ和様を用いる。
2017/12/17撮影:
 小比賀氏五重塔11   小比賀氏五重塔12   小比賀氏五重塔13   小比賀氏五重塔14
 五重塔初重15   五重塔初重16   五重塔初重17   五重塔初重18
 五重塔初重19   五重塔初重20   五重塔二重21   五重塔二重22
 五重塔二重23   五重塔二重24   五重塔二重25   五重塔二重26
 五重塔二重27   五重塔二重28   五重塔二重29   五重塔二重30
 五重塔二重31   五重塔二重32   五重塔二重33   五重塔三重34
 五重塔三重35
 五重塔初重内部36   五重塔初重内部37   五重塔初重内部38
 五重塔図面39   五重塔図面40   五重塔図面41   五重塔図面42
. 武蔵三田慈眼寺 平成26年(2014)竣工
塔基壇に埋め込まれた説明板によれば「黙照五重宝塔」と称するようで、仏法興隆・山門繁盛・・・を基壇して建立される。設計施工は「桃山建築工房」とある。
屋外小塔としてはかなり大型で、おそらく7〜8mほどの高さがあるように思われる。
欅材を使用した木造塔と思われ、概ね唐様の様式を用いる。
 慈眼寺は曹洞宗、普門山と号する。
開山は玉翁芳轉和尚で、慶長二年寂する。
寛永11年(1634)江戸城の拡張計画にともなって八丁堀の寺院は、三田、下谷などへの移転を命じられ 慈眼寺は、寛永12年(1635)に現在地に移転する。
その後数度の火災に遭うが、平成31年佛殿・書院・庫裡などを再建する。
2022/12/26撮影:
 三田慈眼寺五重小塔11    三田慈眼寺五重小塔12    三田慈眼寺五重小塔13
 三田慈眼寺五重小塔14    三田慈眼寺五重小塔15    三田慈眼寺五重小塔16
 三田慈眼寺五重小塔17    三田慈眼寺五重小塔18    三田慈眼寺五重小塔19
 三田慈眼寺五重小塔20    三田慈眼寺五重小塔21    三田慈眼寺五重小塔22
 三田慈眼寺五重小塔23    三田慈眼寺五重小塔24    三田慈眼寺五重小塔25
 三田慈眼寺五重小塔26    三田慈眼寺五重小塔27    三田慈眼寺五重小塔28
 三田慈眼寺山門         三田慈眼寺鐘楼:背後は本堂
. 上野神流黒田城跡五重小塔 . . 2020/10/10追加:2020年工事中
○「oshirotennsyukaku」氏より、『「清之介冒険可@nankuruseikun氏」のツイッターに黒田城に五重塔建立』のツイートがあるとの情報提供を受ける。
○「清之介冒険可@nankuruseikun」氏のツイッター より
 2020/10/06のツイート(黒田城)で「上野多野郡神流にある黒田城に五重塔が建築されている」との記事がある。そこに写真が掲載されているので、転載する。
この建築中の五重塔に関するWeb情報は皆無で、詳細は不明。
写真で判断すれば、木造五重塔、屋根銅板葺、垂木は疎垂木、一辺や総高は不明であり塔の規模は分からないが、一応写真を見た印象で、屋外小塔に分類をする。
軒下には斗栱を作らず、簡略な軒下構造とする。即ち、軒下は頭貫を柱位置に止めず、軒下まで伸延し、丸桁をその伸延した頭貫に載せ垂木を支える構造のようである。
 随分と逓減率は大きいようで、ずっしりとしたフォルムであるように思われる。
相輪はまだ架かっていなく、どんな相輪かは不明。
 黒田城跡五重小塔1     黒田城跡五重小塔2     黒田城跡五重小塔3
 黒田城跡五重小塔4     黒田城跡五重小塔5:手前は稲荷社で本郭にあり、その背後の高みは物見であり、そこに塔が建設されている。
 黒田城跡五重小塔6:見下ろす町は神流の街であろう。塔は町から見えるかも知れない。
建立位置であるが、
○サイト:「武蔵の五遁、あっちへこっちへ」 » 中世城郭 » 上野黒田城 〜 小幡系黒澤氏に次の記載があり、かつ黒田城イメージ図の記載もあり、これらから判断すれば、黒田城の本郭の背後で一番の高所である物見に建てられているものと推定される。
 「本郭には、物見を背にして稲荷神社があり」とあり、上記の写真によれば、その稲荷社の背後の小高い高まりに五重小塔が建立されているからである。
 黒田城イメージ図
. 宮城県登米市迫若鮨牛神社多宝塔 . . 2021年建立。
多宝塔は宮城県登米市迫町佐沼西佐沼106-10に所在する。
○「河北新報」記事 より
割烹「若鮨」は同店敷地内の若鮨牛神社前に多宝塔を建立。
神社は2019年、仙台牛をはじめとする食物全般の霊を祀る施設として建立される。
多宝塔は2021年「新型コロナ感染症等疫病退散」を祈念して建立される。本尊は「アマエビ」である。棟梁は伊藤建築の伊藤重徳という。木材は青森ヒバをメインに使う。屋根部分には一部ビールのアルミ缶を利用という。
2021/04/29追加:「X」氏情報などによる。
 建立中の牛神社:GoogleStreetView より
2021.03.11XML
宮城県登米市迫町(佐沼)牛神社に多宝塔! より
 若鮨牛神社多宝塔11     若鮨牛神社多宝塔12
2021.03.11XML
宮城県登米市迫町 牛神社 多宝塔(建造過程) より
木造塔であるが、仔細にみれば宮大工の仕事ではなく、一般大工の造作と思われる部分も見受けられるようである。
 若鮨牛神社多宝塔13     若鮨牛神社多宝塔14     若鮨牛神社多宝塔15
 若鮨牛神社多宝塔16     若鮨牛神社多宝塔17     若鮨牛神社多宝塔18
 若鮨牛神社多宝塔19
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. 陸奥長谷寺多宝小塔 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
山門
薬師堂山門
薬師堂
多宝塔の建築年代は不明。上重平面は円形に造るも、初重平面1間であり正規の多宝塔建築ではない。擬似多宝塔あるいは多宝塔形ニ層塔と云うべきか。
但し、造作は木造と思われる。材種は彩色のため不明。
永徳元年(1381)定善和尚が中興開山すると伝える。金剛山と号する。新義真言宗豊山派。慶応2年焼失、再建、明治8年保原小学校に使用、明治9年再び焼失、明治16年本堂再建。
山門は保原陣屋の門(長屋門形式、入母屋造屋根瓦葺)を移建(明治16年)と云う。
山門脇に観音塚古墳(前山古墳・卯花広智寺観音堂)がある。
なお、付近に境外仏堂があり、広い境内がある。
長谷寺薬師堂山門(仁王門):文政7年(1824)再建、長谷寺薬師堂:文化4年(1807)再建
. 陸奥遍照院三重小塔 . 画像

図1
同2
同3
同4
同5
同6
同7
同8
同9
建築年代の情報なし。塔落慶は昭和末期か平成初頭かと推定される。三重小塔の細目は不明。
檜造、和様を用いる。屋根銅板葺。実測はしていないが、おそらく初重一辺5尺前後の小型塔である。小型ではあるが、近年よくある紛い物の塔ではなく、正規の 和様の仏塔建築である。
遍照院は太平山と号す。弘法大師生誕1200年の記念事業として、昭和48年起工、昭和50年竣工、昭和に開山される。高野山真言宗。三重塔・薬師堂などがある。
福島市信夫山中太平山にある。

画像:2004/08/01「X」氏撮影
. 下野般若寺五重小塔 . 塔1
塔2
塔3
塔4
塔5
塔6
塔7
塔8
塔9
五重小塔の詳細(建立時期、由緒など)は不明。
真岡田町にある。大前山と号する。般若寺は貞観4年(862)慈覚大師の開山と伝える。鎌倉期には芳賀氏の庇護を受ける。
江戸期には真岡藩主稲葉正成(春日局が室である)の菩提寺となる。かっては正成の霊廟も建立されるが、火災焼失と云う。
2013/05/08撮影:
境内は幼稚園の園庭となる。五重小塔の建立時期は不明。木造工作物である。屋根銅瓦棒葺。
おそらくは宮大工の造作ではなく、素人の工作であろうと思われるも、相当丁寧に作られ素人としても相当腕がたつものと思われる。
一辺は73cm。高さ(総高)は4m50cm内外と推定される。
 ※高さの根拠は基壇上から二重軒下までの高さが約130cmを測るからである。
 真岡般若寺山門     真岡般若寺本堂
2013/10/09追加:
○「文化財レポート(1) 栃木県の神社(1)―延喜式内社・国史現在社―」(「太平臺史窓 2」史窓会、昭和58年(1983)所収) より
近世は真岡大前社別當であった。大崎神社別當は大前山金剛院千妙寺(現在の天台宗般若寺)であった。大前神社は延喜式内荒樫神社が相殿されたと云う社である。
○嘉永3年(1850)「下野國誌」より
大前神社、別當神宮寺、神宮寺は天台宗にて、真岡般若寺の末寺なり、般若寺は則ち大別當にて別當神主の冠たり。されば大前山般若寺と称す。
. ジャストジャパン社
        五重小塔
. . 建立時期不詳。
モデルは法隆寺塔で1/5のスケール。総高6.5m、初重1.3m。アラスカヒバ使用。同社の五重塔事業部の販促用と思われ、また第2塔も製作中ともいうが、実態は不明。
所在は山梨県甲斐市竜王か。
. 東京某氏邸五重小塔 . . 2019/04/24追加:
翠雲堂サイトより
東京の私邸(名称は明示されていない)にあり。唐金(青銅)製という。高さは8尺(2.4m)。
製作・竣工年度は不明。
 東京私邸金属製五重小塔1     東京私邸金属製五重小塔2
. 川崎
新明国上教
    六角三重小塔
. 図1
図2
図3
図4
神奈川県橘樹郡稲田村(川崎市多摩区宿河原)
入母屋造本堂の棟の中央に基壇を造り、その上に建つ。
建立年代・性格・仕様など全く情報なし。但し小型塔と推定される。RCと思われるも不明。
各重1間、初重・2重の中備には組物を置く。
新明国上教とは基本的に教派神道系と思われるも不詳。
何れにしろ、仏塔あるいは正規の塔建築からは逸脱する。
. 藤沢市月山堂滴水庵(滴水庵三重小塔)

 滴水庵については
新・建築探訪シリーズ :歴史的建造物探訪 bQ2 に
 『藤沢市辻堂太平台の閑静な住宅地の一画、約一千坪と思われる若干の起状を有する緑豊かなL字型の敷地に、長い延べ段の先に瀟洒な「大門」が見える。
門を入ると主屋「滴水庵」の他、強い施主好みの4.5帖の寄付+2階建て住居棟、高床式の「不動堂」、元隠居所の草庵「寸松庵」、移築されたミニ「三重塔」、「待合」2棟、腰掛付きの「裏門」の9つの建物が散在する。
庭園には湧水池、池に掛る木橋、石橋、石灯篭、石塔などが配される。』  とある。
その、bQ3 では
 『■三重塔:昭和58年、長野の宮大工の手により移築された。(詳細不明)』 とある。
昭和58年以前の建築であるようである。小型ではあるが、本格的な木造塔と思われる。屋根銅板葺きか。
2021/04/29追加:
「X」氏情報:昭和の中期には建てられていたようである。一辺は2m弱か。
https://ameblo.jp/kozakuramaiko/entry-12543835332.html より
 月山堂三重塔1     月山堂三重塔2
https://ameblo.jp/madonna-i/entry-12544157442.html より
 月山堂三重塔3     月山堂三重塔4
2022/11/02追加:
○2022/10/22「X」氏撮影画像:
 「X」氏は以下のように述べる。
「三重小塔(一辺は2mに満たないとのこと)ながら、諏訪四賀の大隅流宮大工の施工で、しっかりと造られている。
組物は三手先、初重中備は三間とも蟇股、軒裏には大隅龍らしい彫刻を施す。」
基本的に和様で統一される。(但し、正面?扉は桟唐戸)屋根銅板葺、柱などは良質と思われる檜を使用、軒は三重とも二軒の平行垂木。
 滴水庵三重小塔5     滴水庵三重小塔6     滴水庵三重小塔7
 滴水庵三重小塔8
※諏訪の大隅流の解説は次のページがある。
 「諏訪の社寺と名匠たち ー大隅流・立川流の神髄を訪ねてー
2022/12/25撮影:
 滴水庵アプローチ     滴水庵大門
 滴水庵三重小塔11    滴水庵三重小塔12    滴水庵三重小塔13    滴水庵三重小塔14
 滴水庵三重小塔15    滴水庵三重小塔16    滴水庵三重小塔17    滴水庵三重小塔18
 滴水庵三重小塔19    滴水庵三重小塔20    滴水庵三重小塔21    滴水庵三重小塔22
 滴水庵三重小塔23    滴水庵三重小塔24    滴水庵三重小塔25    滴水庵三重小塔26
 滴水庵三重小塔27    滴水庵三重小塔28    滴水庵三重小塔29    滴水庵三重小塔30
 滴水庵三重小塔31    滴水庵三重小塔32    滴水庵三重小塔33    滴水庵三重小塔34
 滴水庵三重小塔35    滴水庵三重小塔36    滴水庵三重小塔37    滴水庵三重小塔38
 滴水庵三重小塔39    滴水庵三重小塔40    滴水庵三重小塔41    滴水庵三重小塔42
 滴水庵三重小塔43
滴水庵には次の2枚の由緒札が掲げられる。
 月山堂滴水庵・由緒札
 以上によれば、滴水庵はもともと京洛にあり、紫明庵と号し、伊藤博文などの成上り者などが愛用して茶室である。(増田太郎翁談)
  ※建造年や場所は分からないが、紫明庵という名称から今の紫明通(第2琵琶湖疏水分線跡)附近にあった庵の可能性もあるが、単に「山紫水明」(頼山陽の造語)から得た名称であるのかも知れない。
大正初期(おそらく増田太郎翁によって)鵜沼に移築される。
昭和35年、この庵は増田太郎翁より譲り受け、この地に移す。この時、この庵は王子製紙社長高島菊次郎によって月山堂滴水庵と命名される。
 ※昭和51年竣工とはよく分からないが、改築などを実施したのであろうか。
 ※昭和35年、51年当時の所有者は高橋繁、現在はおそらく代替わりしているであろう。
 ※平成27年、滴水庵「大門」「主屋」「待合」の3件が登録有形文化財に指定される。
 三重塔施工記・木札
 三重塔は信濃諏訪四賀の大隅流(社寺建築技法の一派)を伝承する寺社建築・石田組によって施工される。
 ※※しかしながら、以上では滴水庵について何やら、釈然としないので、
ページ:電子博物館・みゆネットふじさわ
に「資料」が掲載されているので、そのまま転載(コピー&ペーストし語尾は修正)する。
 資料名 月山堂滴水庵 主屋、国登録有形文化財
 時代 不明、場所 辻堂大平台(非公開)
 解説:
 平成28年(2016)2月25日登録/滴水庵の施主である高橋繁氏は表具師で、鵠沼の別荘の顧客が多かったことから鵠沼海岸に支店「月山堂」を開業、滴水庵は繁氏が趣味で営んだ別荘であった。
主屋の建物は三井財閥の益田孝(鈍翁)が鵠沼の別荘に建てたもので、当地に在った時は「紫明庵」と号していた。
文献によると、山縣有朋や桂太郎などが鈍翁に招待され訪れる。実業家の高橋義雄(箒庵)も鵠沼別荘を訪れた時のことを著書に記す。
鈍翁の鵠沼別荘は著名な小田原の掃雲台よりも早く造られている。
鈍翁没後、土地が売却される際に、王子製紙社長の高嶋菊次郎氏の仲介により建物を譲り受け、その後10年近く解体した材の状態で保管され、昭和35年頃現在地に移築される。
移築の仲介をした高嶋菊次郎氏により「滴水庵」と命名される。
全体に材や造作が良い数寄屋建築であり、湧水や土地の起伏を利用した庭園と一体となった計画は質が高く、日本最初期の海浜分譲別荘地である鵠沼別荘地の開発初期の遺構としても重要な意味を持つ。
主屋は、宝形造、南・東・西の三方に奥行き1間の銅板葺の広い庇を廻らし、北側に玄関、東側に茶室と水屋・便所等を突き出す。
外壁は土壁に杉板張りで、床高・軒高が低く、安定したプロポーションを見せる。
構造・形式:木造平屋建 瓦葺一部銅板葺。
建設の年代:明治後期建築、昭和23年頃解体、昭和35年移築。
建築面積:77平方m。所有者:個人。
. 茅ヶ崎松籟庵三重小塔 . 塔1
塔2
塔3
塔4
塔5
建築年代不明、神奈川県茅ヶ崎市東海岸北一丁目
大和薬師寺塔を模す。スケール1/10。
岩田孝八(SM長崎屋創業者、茅ヶ崎在住)の寄附により松籟庵は建設される。日本庭園は旧原別荘(松籟荘)の庭園を引継いだものである。
. 箱根天聖院七重小塔 . 塔1
塔2
建立年代、高さなどの法量、材質など詳細は全く不明。写真で判断する限り、金属製で金メッキを施すものと思われる。裳階附設。
天聖院は神仏金剛宗・箱根大天狗神社の別院と称し、一般人は天聖院に立入不可である模様である。
. 重須本門寺五重小塔 . . 建立年代不明、2007年以前の建立か。重須境内にある。スケールは1/10と云う。古の塔の高さは33mと云う解説があると云い、そうであるならば、高さは3,3mほどであろうか。
ブログ:「かさぶた日録」>「北山本門寺の五重塔跡」に五重小塔の写真掲載がある。
 重須本門寺五重小塔
透明板張りのケースに格納され、屋外に置かれている。
2020/05/21に実見、撮影画像は重須本門寺五重塔復原模型の項を参照。
. 尾張福生院六角二重塔
      (六角宝塔)
. 図1
図2
図3
図4
図5
六角宝塔:建立時期不明、六角二重塔で、六角一辺66cm、初重差渡115cm、屋外小型塔。
木造総檜で、きちっとした造作と思われる。
上重には薬師如来、下重には各種守り本尊(仏像)を祀る。
福生院(毘沙門天) :真言宗智山派、如意山と号す。至徳3年(1386)順誉上人、愛知郡中村に大聖歓喜天を祀るのが始まりと云う。元和3年(1617)現地に移転する。昭和20年空襲にて焼失。
名古屋の問屋街にあり、狭い境内に小堂宇が犇き、多くの流行仏、考えられる限りの現世利益成就仏が祀られる。六角宝塔もその一つである。
. 加賀倶利伽羅不動寺五重小塔
並びに
和光塔
. . 五重小塔:建立年代は不明。
一辺3尺程度(90cm程度)と推定される。高さは不明。
おそらく鉄製で、丹塗の塗装を施す。
本尊は金剛界大日如来、基壇には信者の写経を納めるという。
2016/11/26撮影:
倶利伽羅不動寺五重小塔11  倶利伽羅不動寺五重小塔12  倶利伽羅不動寺五重小塔13
倶利伽羅不動寺五重小塔14  倶利伽羅不動寺五重小塔15  倶利伽羅不動寺五重小塔16
倶利伽羅不動寺五重小塔17  倶利伽羅不動寺五重小塔18  倶利伽羅不動寺五重小塔19
倶利伽羅不動寺五重小塔20  倶利伽羅不動寺五重小塔21
倶利伽羅不動寺から立山連峰遠望

●和光塔:円形三重塔風塔婆である。
昭和43年(1968)頃建立か。明治元号100年を記念して建立という。あるいは昭和44年(1969)法隆寺の百万塔を模してデザインしたというので、昭和43年から1〜2年後の建立かも知れない。
大日如来像と修行大師像が奉安される。
RC造。大きさなどは不明であるが、内部には普通に人間が入り、須弥壇の周囲を回れる大きさである。なお、この場所はもと五社権現のうちの一社である御影堂が建っていた所という。
2016/11/26撮影:
 倶利伽羅不動寺和光塔1   倶利伽羅不動寺和光塔2   倶利伽羅不動寺和光塔3

倶利迦羅不動寺は養老2年(718)印度僧善無畏三蔵法師が倶利迦羅不動明王を刻み、この地に奉安したことが始まりという。
弘仁3年(812)弘法大師の巡錫の時、本尊と同体の不動尊像を彫り、奉安する。この時、長楽寺が開山される。
寿永2年(1183)倶利伽羅源平合戦の際、兵火に遭うも、鎌倉期に再興される。しかし、戦国期には廃寺同様となる。
寛永年中には再び再興され、加賀前田家の祈願所となる。
天保7年(1836)に門前の茶屋から出火し、山門や不動堂が焼失し、明治維新の神仏判然令によって、長楽寺は廃寺、手向神社と改竄される。廃長楽寺の仏像類は、金沢市宝集寺、小矢部市医王院、津幡町倉見専修庵などに譲渡される。
昭和24年、高野山金山穆韶(ぼくしょう)の尽力により、長楽寺跡に堂宇が再建され、倶利迦羅山不動寺と改号して復興する。
なお、奥之院不動堂(善無畏三蔵法師が刻んだ倶利迦羅不動明王を奉安という)は、旧高松小学校の御真影奉安殿、本堂<弘法大師作不動明王を安置という>は旧金沢卯辰山忠魂祠堂を移築したものであるという。
2016/11/26撮影:
 倶利伽羅不動寺本堂     倶利伽羅不動寺奥之院
 長楽寺不動堂(現手向社)
現在、手向神社は不動寺(長楽寺)境内に陣取るが、件の例の如く、これは明治維新の神仏判然令(国家神道)によって、捏造されたインチキであろう。明治初年長楽寺から分離し、素盞嗚社と称し、明治5年手向社、同6年郷社となり、同7年手向神社となる。
もともとは、現在和光塔が建っているところで、御影社とも称するという。
 現在鞘堂に覆われているが、本殿は慶長19年(1614)加賀藩主前田利常が、兄利長の病気平癒を祈願して、寄進した長楽寺不動堂で、のち護摩堂になっていたものであるということから、お里が知れるということであろうか。
(本殿は9尺四方の重厚かつ精巧な造作という。<未見>)
ところで、「手向之神」は「万葉集巻17」<天平19年(747)>や「日本三代実録」<元慶2年(898)>に出てくるという。
勿論、このことが「手向之神」が現在の「手向の社」に繋がることを保証するものではないし、それと同様に怪しいのは現在の「手向の社」の祭神はスサノウとジングウ皇后といい、国家神道丸出しの話で噴飯ものであろう。
 現在両部鳥居の建つ場所はかつての長楽寺山門跡といい、ここから南の100段を超える石階の上には「五社権現(倶利伽羅権現)」がある。<未見>
石造神殿が4棟あり、向かって左の石殿背面に、「延宝五年 四社建立 松平加賀守綱利公九月八□」の銘刻がある。
(延宝5年(1677)加賀藩主前田綱紀によって四社建立されたことがわかる。あと1殿は現在の「手向の社」を指す。)
おそらく4殿は長楽寺の鎮守の類であったのであろう。
4社は現在、峰御前八幡社(八幡大菩薩)、愛宕社(愛宕権現?、秋庭権現)、白山社(白山権現)、大峰座主社(蔵王権現)といい、祭神は各々国家神道の祭神に改竄されているが、概ね、4社は八幡大菩薩、秋庭権現、白山権現、蔵王権現を祀っていたものと見て、大過ないであろう。
要するに、長楽寺の没落をこれ幸いとして、長楽寺鎮守を「神社」に祭り上げたということが真相のようである。

. 丹波和久寺廃寺
 三重小塔模型(個人)
. 図1
図2
図3
図4
図5
建立時期不詳。
和久寺跡のすぐ北の岡上に建つ。下記の記事のように、本職の造作ではない。
なお図2の背後右の社叢が和久寺廃寺心礎のある鹿島神社である。
○京都新聞「2003.10.01 記事」及び 両丹日日新聞「2002.1.7 記事」より要約:
福知山市和久寺の大西信雄氏(元中学校教員)が同地区にあった奈良期創建の和久寺三重塔の再現に取り組んでいる。
1998年に基壇の造成を始め、完成予定は2008年11月という。完成品は、和久寺廃寺が見渡せる自宅近くの丘に設置する予定である。スケールは推定される実寸の8分の1程で、高さ3m、初重で1.75m。
古建築研究家から入手した図面を基に、宮大工のアドバイスを受けながら制作していて、使う部品は数千点に及び、工務店、製材工場などから譲り受けた檜を中心に使い、相輪は金属加工の専門家に制作を依頼したようで ある。
大西氏邸近くに和久寺跡があり、現在は鹿嶋神社が鎮座している。一帯では奈良期と推定される布目瓦など多くの遺物が発見されているほか、1982、83年の発掘調査で塔の礎石などが見つかっている 。→心礎については、丹後・但馬・丹波・播磨・淡路の塔跡のページを参照。
. 備後観音院二重小塔 . 見上
山門
塔1
塔2
塔3
塔4
塔5
塔6
建立時期不詳。
観音院と称する庵室に多宝塔を思わせる二重小塔がある。
建立年代不明。高さは目測で基壇込みで2m強であろうか。おそらく素材はモルタルであろうと思われるが、モルタルとしては精巧すぎる造作と思われるので、あるいは木造であるのかも分からない。(詳細な確認を怠る)ただし一重正面扉は木製。彩色はペイント系塗料を塗ったものと思われる。本塔には「三原新西国第39番」の札が懸かる。
観音院は「白滝の観音」と称する。山号は白滝山、曹洞宗。本尊聖観音菩薩は享保年中の草建で、「白糸の瀧」(現在は涸れる)の巌上にあったと云う。天保年中に瀧の上を離れ、南方に草庵を建て、堂守を置く。明治20年西方の現在地に観音堂を建立移転する。明治25年山陽鉄道が眼下に開通する。
. 周防遠石八幡宮
 五重小塔
. . 周防遠石八幡宮五重小塔 : 建立時期不詳。
五重小塔実測値 一辺は80cm、基壇の一辺は150cm
欅材の木造塔で、和様で統一された正規の建築である。屋根銅板葺き。
遠石八幡宮:
社伝では、推古天皇30年(622)「この地に跡を垂れ国民を守らんとここに顕わる」との宇佐八幡大菩薩の託宣があり、和銅元年(708)この地に社殿を造営するという。
平安期から石清水八幡宮の別宮となるという。
江戸期には徳山藩(萩藩の支藩)毛利氏の庇護をうける。205石の打渡しという厚遇であったという、因みに花岡八幡宮のそれは136石余であった。
昭和11年社殿が火災焼失、昭和15年本殿・幣殿・拝殿・祭器庫・神饌所・透塀・神門および袖塀が建立され、翌年手水舎が建立される。
2022/11/24撮影:
 遠石八幡宮五重小塔11   遠石八幡宮五重小塔12   遠石八幡宮五重小塔13
 遠石八幡宮五重小塔14   遠石八幡宮五重小塔15   遠石八幡宮五重小塔16
 遠石八幡宮五重小塔17   遠石八幡宮五重小塔18   遠石八幡宮五重小塔19
 遠石八幡宮五重小塔20   遠石八幡宮五重小塔21
 遠石八幡宮神門     遠石八幡宮拝殿     遠石八幡宮社殿
2023/03/01追加:
○「文献史にかいまみる妙見さま」杉原孝俊、妙見宮鷲頭寺、平成29年 より
次の様な記載がある。
 「現在でも遠石八幡宮は近辺で一番大きなお宮で黒神氏は徳山藩でも一番大きな八幡宮の宮司で、社僧真言宗五智輪坊、神主大宮司黒神直敬、祠官黒神直臣、神官吉本青春、同吉本直勝がおり」・・・・これにより、社僧として真言宗五智輪坊があったことが知られる。
また、遠石八幡宮>宮司のブログには
「遠石八幡宮は、元に朝倉八幡と称した時代があり、ここ朝倉山には12の宿坊があったと伝えられ、真言宗園通寺「五智輪坊」の名もあります。」とある。
さらに
文久元年(4861)萩本藩毛利敬親は上洛の途中遠石八幡宮に立ち寄る。
「九月二十二日、公今朝四時福川を発し、政所村道源常吉宅及び遠石五智輪坊に小憩し、八時過花岡駅別館に抵る。」とある。
さらに
光市 浅江地区 医王山 願成院」のブログには
医王山願成院(観音堂に安置?)には五智如来(写真が掲載さえる)が祀られる。
「御住職のお話によると徳山の遠石八幡宮の近くに寺がたくさんあってその中の五智輪坊っというお寺があり、そちらが廃寺になるので今から200年程前にこちらの方に大八車に乗せられて来られたそうです。(帰宅後、防長地下上申(1885)を見てみると確かに遠石八幡宮の裏手にそのお寺は存在してました。」とある。
. 筑前清水寺五重小塔 . . 異形な五重塔がある。建立年代・法量などの詳細は不明。
福岡県宮若市黒丸
青龍山清水寺のページより
清水寺:天平勝宝2年(750)行基が自ら千手観音を彫刻し寺院を建立と伝える。
「筑前國続風土記 巻之13」:清水寺 真言宗
青龍山と號す。黒丸村にあり。仁和寺の末寺なり。住僧あり。本尊先手観音なり。行基開基の地にして、本尊も行基の作と云傳へり。むかしは僧坊十二区ありしと云。其名今に残れり。(仲坊、奥坊、寶積坊、田井坊、向坊、理性坊、寶相坊、前鬼坊、奥園坊、道達坊、検校坊)
中世には大内氏などの庇護を受ける。天正10年(1582)兵火により灰燼に帰す。
近世初頭に座主坊跡に僅かに一宇が再建、観音堂は江戸初期の再建である。
 黒丸清水寺五重小塔
. 肥後本妙寺塔頭東光院三重小塔 . 塔1
塔2
塔3
塔4
塔5
RC造であろう。高さは5〜6尺ほどと推定(実測せず)。建立年代、由来など不明。

ニ  重  塔  ・  二  層  塔

二重塔・二層塔 .
. 九州諸国の塔婆形式に擬する納骨堂は九州諸国の擬塔婆形式納骨堂のページに集約する。
. 越後三条本成寺二重塔 . 三条本成寺  明和7年(1770)もしくは大正2年
. 淡路蓮光寺二層堂 . 蓮光寺二層塔  明和八年(1771)建立。竜宝院二重宝塔が神仏分離で明治5年蓮光院に移築され、蓮光院二層堂(現状)として現存すると云われる。
. 上野水澤寺六角二重塔 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
天明7年(1787)建立、六角二重塔の構造を採る。下重一辺9尺(2.7m)・上重一辺4尺5寸(下重の半分)。基本的に唐様の意匠を用いる。下重は吹放で、中央に回転軸を持った六角輪転座を設け、そこに六地蔵を安置する。この六角輪転座は経蔵の輪蔵の形式を用いる。上重には大日如来を安置。屋根銅板瓦棒葺、多宝塔風相輪を載せる。
本堂:本尊十一面千手観世音菩薩安置、天明7年建築、屋根方形造銅板葺、正面に唐破風の向拝を付設。
 上野水澤寺本堂1     同    本堂2     同    本堂3     同    本堂4
仁王門:天明7年の建築、間口三間・奥行二間、平板銅板葺重層入り母屋造。
 上野水澤寺仁王門1     同    仁王門2     同    仁王門3
. 安房本行寺二層堂 . . 安房勝浦市。釈迦堂。三間重層堂(桟瓦葺き)で二重塔ではないと思われる。棟には宝珠を載せる。(元々相輪を載せていた訳では無いと思われる。)2重目組物は唐様を混在させた三手先を用いる。
寛政5年(1793)釈迦堂建立。
享保8年(1723)五十座に際し、池上本門寺より日蓮上人歯骨が分与され、その奉安のため建立されたと推測される。歯骨は厨子に奉安と云う。
暦応2年(1339)日続上人が真言宗から日蓮宗に転宗したと伝える。
. 陸奥大蔵寺二重塔 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
10
11
寛政7年(1795)島谷野羽田藤四郎の寄進により建立と云う。あるいは寛政7年多宝塔形式(二重塔)に改めるとも云う。
奥の院(多宝塔)と称する。観音堂本尊千手観音は秘仏で、現在の宝蔵ができるまではこの奥の院内陣に納められていたと云う。そのためであろうか、外部は土蔵造となる。
塔は基壇上に建つ。平面方3間。組物は出組。軒は二重繁垂木。初重正面扉上に唐破風付設。
大蔵寺は小倉寺観音と通称する。
大同2年(807)徳一の開創もしくは弘仁10年(819)坂上田村麻呂の開創と伝える。
中世に再建される。寛永元年(1624)奥の院建立。観音堂は享保14年(1729)の再建。その後、山門、八幡社、白山社、地蔵堂などが建立される。かっては天台の大刹であったが、江戸初頭に臨済宗に改宗する。
宝蔵には千手観音立像(平安前中期、重文)・平安期の古仏群を祀る。千手観音が宝蔵に移された現在は、丈六の観音ほか7体の破損仏を安置する。
八幡社は明和2年(1765)の建立で、明治の神仏分離で分離される。
図6:観音堂・塔、図7:大草鞋・塔、11:二重塔内部
. 備後福性院二重塔 . 図1
図2
図3

画1
画2
画3
画4
画5

江戸期末の建立とされる。平成に大修理。「瑜祇塔」と称するようで本尊は大日如来という。
但し残念ながら、柱間は1間で正規の塔建築ではなく、組物も出組を使用する。
図1〜3は「X」氏ご提供画像
福性院は室町末期、法輪山福田寺と改称。慶長3年、天災により一山鳥有に帰したが、同16年快真僧正が再建したという。
真言宗北面山福性院福田寺と号する。
福性院は貞観元年(859)<貞観9年とも云う>行教が開基となり、弟といわれる益信に付嘱された寺という。行教は九州からの帰途、芦田の地<行教の故郷という>に宇佐八幡を勧請、その別当として能面山霊光寺を創設するという。この霊光寺が福性院の前身である。
その後寺運は衰微するも、室町期、この地に福田遠江守が再興、法輪山福田寺と改号する。
慶長3年(1598)天災により一山鳥有に帰すも、同16年(1611)快真僧正再建し北面山福田寺福性院と改称する。
本堂、二重塔、鐘楼、客殿、庫裡などを具備し、裏山(鴻巣山)の頂上には奥之院大師堂がある。
. 下野明王院二層塔 . 図1
図2
図3
図4
図5
○「尾島町近世社寺建築調査報告書」新田郡尾島町教育委員会、平成10年 より
大師堂と称する。建築年代を示す史料はないが、この建物は明治初年に住職が購入したと伝える。階段がないことや天井裏の造作から当初は平屋建であったと推定される。2階は明治初年に購入したときに増築されたものと思われる。建築の特徴から見て、江戸中期の建物と推定される。
ニ層塔、1階は平面3間(5.65m)、2階は平面1間(2.82m)。<平面図>
屋根銅板葺、1階軒は船(せがい)造で持ち出した1軒半繁垂木、2階半繁垂木。
1階は側柱を方柱とし、舟肘木を置く。内部には4本の円柱を建て、2階の側柱となる。2階には擬宝珠勾欄を廻らす。
1階円柱(四天柱)内に須彌壇を置き、厨子を安置する。天井は1・2階とも格天井で彩色を施す。
 上野明王院大師堂平面図      同   大師堂1階内部      同   大師堂2階内部
○明王院は呑嶺山明王院安養寺と号す、真言宗豊山派。
寺伝では、康平4年(1061)源頼義が開基、頼空上人(大和興福寺)を開山とする。
新田義重が中興し、元弘3年(1333)新田義貞が 伽藍を整備と云う。江戸期の絵図では、2間巾堀を廻らす百余間四方の境内地と、その周辺に十二坊の跡地の位置等が示されていると云う。
「新田触不動」として知られる。また寺域は新田義貞屋敷跡と推定される。
. 摂津祥福寺二重塔 . 図1
図2
明治30年建立という。
二重塔は納骨堂で関係者以外はこの塔のある場所に立入は出来ない。従って、細目は不詳であるが、木造で正規の塔建築のように見える。
臨済宗妙心寺派の専門道場と思われ、多くの修行僧がいると思われる。
2010/11/05追加:「神戸覧古」明治30年 より
 摂津詳福寺の図:図には「後山の宝塔の如きは近年の建築に係る・・」とあり、 従ってこの塔は明治後期の建立であろう。
2017/01/11追加:
s_minaga蔵絵葉書:通信欄の罫線が3分の1であり、かつ「きかは便郵」とあるので、明治40年4月〜大正7年(1918)3月までのものであろう。
 神戸奥平野祥福寺多宝塔絵葉書
. 阿波明王院二層塔 . 阿波明王院二層塔  明治41年建立。
. 讃岐海岸寺二重塔 . 図1
図2
図3
図4
海岸寺奥の院に二重塔がある。建築年代不詳。(明治期?)。一辺3.5m、高さ約11m。写真の丹塗りの部分のみが現在は鉄筋コンクリート製に変更されたようです。その上の構造は正規の木造です。もともと三重塔として建造が始まったようですが、故あって二重のままのようです。海岸近くの丘上にあり、とにかく目につく建築物です。
. 備前高野山吉備別院 . 備前高野山吉備別院
「日本の塔総観」に写真掲載、建築年代:大正末期〜昭和初頭と推定、昭和末期〜平成初頭取壊と推定される。
. 武蔵寒山寺ニ層塔 . 11
12
13
14
15

 

 

擬1
擬2
擬3

昭和5年に寺院建立、戦前の二重塔絵葉書があるので、ニ層塔は昭和5年頃建立された可能性が高いと推定される。
 図1     図2:寒山寺絵葉書:JIT(日本画像行脚)様ご提供
塔はRC造、正規の塔建築ではなく、簡略な 様式で建立される。また柱の建て方は垂直ではなく、角錐の角度で建てられる。(ニ層塔14の写真でこのことは良く分かる。)
初重正面は3間、側面2間、上重は方2間の変則な柱配置である。何れにしろRC造で、組物などは略した非正規の建築である。
明治18年、田口米舫(書家)が蘇州寒山寺を訪れた時、主僧の祖信師から釈迦仏木一体を託され帰国。その後日本各地を遍歴、昭和5年小澤太平氏(小澤酒造 ・澤之井醸造)の協力により、寒山寺の伽藍を建立する。当時小澤氏は青梅電気鉄道(現JR青梅線)社長でもあった。寒山寺は無住。
2010/04/12追加:2010/03/31「X」氏撮影画像
 武蔵寒山寺ニ層塔1     武蔵寒山寺ニ層塔2
------------------------------------------------------
JR沢井駅擬寒山寺塔・・・・・擬1〜3
青梅寒山寺の最寄駅はJR青梅線沢井駅である。
当駅は橋上駅であり、跨線橋上には寒山寺を模したと思われる屋根及び相輪が架設される。
. 甲斐身延山二層堂
 (身延山納牌堂)
. 身延山  昭和9年建立。 納牌堂と称する。仏殿の左右に2基ある。
. 信濃照光寺二層塔

二層塔:昭和9年建立。「蚕霊供養塔」と称する。
平面6尺7寸(2m)、総高37寸(11.2m)、基壇・高さ5尺(1.52m)。屋根銅板葺き。組物三手先。棟梁:大隈流<株>石田組4代石田房茂。小型塔である。
2009/07/21追加:
「はぐれ神仏巡礼帖」氏 より
・蚕霊供養塔所蔵仏
塔本尊(近代の作)は本堂に安置・拝観可能、祭事の時のみ遷座すると云う。別途塔初重には、弥勒菩薩像 (秘仏)を安置といい、現住も含め実見した人は現存しないと云う。

「X」氏ご提供画像:撮影年月不詳
 照光寺二層塔0
2005/07/23撮影:
 照光寺二層塔1     照光寺二層塔2     照光寺二層塔3     照光寺二層塔4
 照光寺二層塔5     照光寺二層塔6     照光寺二層塔7

★照光寺:真言宗智山派。
○「信濃諏訪神社新佛分離事件調査報告書」鷲尾順敬、大正9年 より
 平野村(岡谷市)照光寺に下宮神宮寺仁王門及び下宮神宮寺千手堂本尊観世尊が明治初年に遷されると云う。
2009/07/26追加:
○「岡谷市の文化財」岡谷市文化財審議委員会/編、1980 より
 近世は諏訪明神下社神宮寺(海岸孤絶山神宮寺)末であった。
寛保2年(1742)「末寺城向山東之坊瑠璃院照光寺」と記録される。
明治初年、神宮寺廃寺、真言宗嵯峨大覚寺直末となる。明治44年真言宗智山派に転ずる。
●下社神宮寺関係遺物
◇下宮神宮寺千手堂本尊観世尊
 照光寺薬師堂本尊として祀られる。薬師堂(観音堂と通称する。)本尊は秘仏薬師如来(下宮神宮寺千手堂本尊)で、脇本尊として千手観音を祀る。この薬師堂前・石階を上った所に下社神宮寺仁王門が移建されたと思われる。しかし残念ながら現在は退転し、礎石(推定) のみが残る。(薬師堂写真は下に掲載)

◇下宮神宮寺仁王門:残念ながら、老朽化の為、現在は退転し現存しない。
○下社移建仁王門跡:
上述のように、薬師堂前・石階を上った所に下社神宮寺仁王門が移建されたと思われる。しかし残念ながら現在は退転し、礎石(推定) のみが残る。
2009/07/21追加:
「はぐれ神仏巡礼帖」 より
・下社神宮寺から移転仁王門
昭和40年代くらいまで、薬師堂前に仁王門は健在であったと云う。(門前に住んでいた人の目撃証言もある)老朽化のため取壊しと云う。
2005/07/23撮影:
 照光寺薬師堂:正面が薬師堂、その石段上に諏訪下社仁王門が移建されたと推定される。
 薬師堂前仁王門跡・礎石:推定、薬師堂前石段上に残る推定諏訪明神下社より移建仁王門跡。

●さらに照光寺は以下の諏訪明神下社の什宝を有する。
◇木造金剛界大日如来坐像:
諏訪下社三重塔本尊、胎内銘「七条仏所大蔵卿雲桂十代目也康忠作、明応3年(1494)」と云う。
2009/07/21追加:
「はぐれ神仏巡礼帖」 より
・下社神宮寺三重塔本尊大日如来像
小振りの像(実見されたという)である。この像は五智如来の中尊で、他の四尊は光背残欠が残るという。

◇木造仁王立像(2躯):諏訪下社仁王門像、高さ216cm、室町期。

◇厨子入千手観音立像(木造)・不動明王立像(木造)・多聞天立像(木造):
 いずれも諏訪下社より遷されたと云う。平安期〜鎌倉期とされる。
2023/01/22追加:
○「諏訪神仏分離プロジェクト 公式ガイドブック 諏訪信仰と仏たち」 より
以下の下社本地仏をはじめとする諸仏が下社より遷される。
 下社秋宮本地仏・千手観音立像及両脇侍:下社神宮寺千手堂安置、写真は本地仏を納めた厨子である。
   秘仏であるため、写真も非公開、向かって左はその御影、厨子は3代藩主諏訪忠晴寄進、
   棟札銘は神山家(下社神宮寺末裔)の残ると云う。
 下社神宮寺仁王門安置仁王像:像高216cm超
 下社神宮寺千手堂安置信玄不動立像:江戸末期、厨子に「奉開眼信玄公」とある。
 下社神宮寺千手堂安置聖徳太子立像:江戸末期
 下社神宮寺三重塔本尊胎蔵界大日如来:康忠(慶派仏師)によって明応3年(1494)作
 下社神宮寺本坊本尊不動明王・二童子立像:江戸初期か
 下社神宮寺本坊安置弘法大師坐像:室町期
 下社神宮寺本坊安置興隆教師坐像:江戸前〜中期
なお、
○「廃仏毀釈の行方」(「藝術新潮」1973.3所収)では下社神宮寺の本尊として「下社神宮寺の本尊大日如来(照光寺蔵 )」 という写真の掲載がある。
しかしながら、これは不審である。
この写真は金剛界大日如来であり、この写真は金剛界大日如来が本尊とされる照光寺本尊の写真であろう。
 なお、下社神宮寺三重塔本尊が照光寺に遷座し、本尊脇に脇本尊として祀られていることは周知のことであるが、下社神宮寺三重塔本尊は胎蔵界大日如来であり、本写真とは全く別のものである。
従って、この「廃仏毀釈の行方」の掲載は誤謬であろう。(以上「はぐれ神仏巡礼帖」氏のご教示)
 参考:現在照光寺には2躯の大日如来像があり、1躯は照光本尊金剛界大日如来坐像<正徳3年(1713)銘>であり、残り1躯は下社三重塔本尊であった胎蔵界大日如来坐像<明応3年(1494)銘>である。
○「おかや歴史の道」岡谷市教育委員会、1990 より
  下社三重塔本尊胎蔵界大日如来      照光寺本尊金剛界大日如来
○「平成17年度第1回長野県文化財審議会議事録」 より
  本尊は、法界定印を結ぶ胎蔵界の大日如来像で、像高41.4cm、檜材の寄木造で金泥塗り、盛上げ文様を施し、玉眼を嵌入する。
本尊は後頭部の墨書により、明応3年 (1494)7月に京都七条仏所の仏師大蔵卿康忠の造立と知られるものである。
 で、この議事録によれば、以下のような質疑があったと云う。
 【井原委員】「(4) 伝来」のところで「(三重塔の?)」と三重塔が括弧してありますが、これは下社の神宮寺三精寺にあったというのが、廃仏毀釈関連文書では出てくると思うのですが、三重の塔というのは何か根拠があるのでしょうか。
 【武笠委員】今資料が手元になく確認できませんが、何かに出ておりまして、大日如来は塔に置かれることがよくありますので、三重の塔でいいのかと考えた次第です。それで「?」になっております。
  ※この程度のお粗末な認識・議論で本当に「審議」は「大丈夫かいな」と思われるが如何なものであろうか。
 続けて
 【井原委員】これは通常そうなのですが、諏訪社は何度も焼けておりますので、武田、織田とこれも最近の新しい文書にでてきておりまして、従って明治のときの見解では、焼けていないことを前提にしてあるのですね。
 ですから、上社の神宮寺「懐良(?)親王舎利容器」も塔の中にあったと思われているのですが、それは信長のときに焼けていますので、あとから造ったものだとか、そういう関連のものがかなり多いですね。
  ※この発言の後、照光寺胎蔵界大日如来は長野県宝指定は意義なく了承されるが、一般人に上記の発言の意味・内容は理解できるのであろうか?(何を主張しているのか良く分からない。)
  ※(備忘)上社の神宮寺「懐良(?)親王舎利容器」も塔の中にあった云々の事蹟は不詳。

◇「海岸孤絶山神宮寺境内圖」(下社境内図)の版木も引き継ぐ。さらに下社神宮寺由来のその他の版木や仏画も残されるという。


→参照:信濃諏訪大明神・神宮寺(上宮神宮寺・下宮神宮寺)

. 信濃開敷院二層塔 . 図1
図2
図3
昭和12年「蚕安塔」(蚕供養)建立、平成20年改修し、「微笑大師堂」と堂名を変更。馬鳴菩薩及び弘法大師を本尊とする。
開敷院は明暦元年(1655)再建。信濃四賀仏法紹隆寺塔頭と云う。
参考:諏訪大明神神宮寺中に仏法紹隆寺の項がある。
. 山城総神寺ニ層塔 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
 
昭和25年総神寺創立とされるので、ニ層塔もこの時の建築と推定される。
○「相楽郡の寺院」京都府立木津高校郷土史研究クラブ、昭和57年 より
総神寺は法華日蓮宗総本山。(但し実態は不詳)開山日誉上人、昭和24年上人は「あらたかきお瀧」があると聞き当地を訪れる。この瀧は後醍醐天皇が笠置から鷲峰山に落ちるとき立ち寄ったが、その時一行の中の将来に悲観した一人の乳母が姫( 後醍醐帝皇女)とともに身を投げた瀧という。上人はこの瀧に打たれたがその姿には後光がさしたという。故にこの瀧を祀り、堂を建立と云う。
この瀧は「千子(チゴ)の瀧」と呼ばれる。
 総神寺ニ層塔
 山城総神寺位置:相楽郡南山城村童仙房車谷、地図に高塔の記号がある。
○総神寺ニ層塔は正規の塔建築ではなくまた造形として優れている訳ではないが、木造檜造りである。初重は3間で組物は舟肘木、二重は2間で平三斗を用いる。基本的には恒久的な寺院建築として 造られる思われる。
○総神寺は法華日蓮宗別格総本山と称する。寺院は本日は無人であったと思われるも、ある一定の教団組織があるようで、かなりの宗教活動が行われていると思われる雰囲気である。また堂宇も一級建築ではないが、本堂・庫裏以外にも施設が建造されている様子である。(但し戦前の軍国調を連想させるような代物もある。)
現段階では本堂・玄関、親誉閣(廟所?)・同拝殿、鐘楼、幾棟かの参籠所、行堂などがある。
○「千子の瀧」:地区民に所在を尋ねるも、異口同音に「死ぬぞ」「行かない方が良い」と助言される。
上記の伝説のことと(以下の真偽は不明)信者が転落死したこと・地区民が自殺したことが第1の理由、第2は現在瀧は行場として使われていなくて、瀧に行くのに鎖場があり、鎖場の崖道は崩落しているから危険であるとのことである。所在を聞き、瀧への侵入道を探すも、ブッシュと昨日から今朝の雨で探索は不能。瀧については「5m位の落差で、瀧というほどのものでもない」と云うのが地区民の言である。
2018/05/27追加:
○「總神寺」のページ より
法華日蓮宗別格総本山
開山・開基は尊鷲院日誉、昭和24年本山妙幸寺(天理市田部町)開山日譽「神通により」この地の「稚児の瀧」に辿り着くという。
 ※稚児の瀧は後醍醐天皇に関わる乳母と稚児の伝説があるという。
日譽は「その滝を修行の場として法門の伝道に入る」という。
昭和41年簡素な本堂を、「道なきところを開墾し、索道以て建築資材搬入し建立する。」という。
現有建物は本堂・神妙閣・釈迦堂(多宝堂)・日誉聖人廟、日蓮聖人立像、聖観世音菩薩像および八幡大菩薩社・スサノウ社・女神ペレ社・土地守護神・龍王諸神・稲荷大明神社
なお、稚児の瀧については
http://tanuki838.web.fc2.com/Taki/140729-Chigo/Chigo.html
http://4.hobby-web.net/~kaidosun/todofuken/kyoto/chigo/chigo_m.html
等がある。
. 横浜孝道山仏舎利殿

仏舎利殿は昭和35年落慶(仏舎利は昭和27年比叡山より迎える)。
仏舎利殿は初重平面3間の二層塔形式を採る。RC製と思われる。(詳細不詳)
塔内には「仏舎利」と叡山ゆかりの「不滅の法燈」を祀るという。
孝道山は昭和11年に岡野正道によって開かれた天台法華宗 (比叡山延暦寺天台宗系)在家教団と云う。
 ※一般的にこの手の巨大な伽藍を構える「新興教団」は、そのカルト性の故と思われるが、部外者を拒絶する傾向が強いが、この教団は開祖の廟所を除き、開放的な境内を持つ。
推測:比叡山・天台法華系ということを考慮すれば、この二層塔のプランは、平面3間ではあるが、天台多宝塔形式(天台方形大塔)を意識したものとも思われる。
2006/04/09「X」氏ご提供画像
 孝道山二重塔
2023/04/20追加:
昭和11年、天台僧岡野正道、霊友会から最初に分派し、孝道会(現在は孝道教会)を設立する。
基本的に在家仏教で、「正法大曼荼羅を崇拝対象にし、法華三部経を経典」とする。
天台色が強いと云われ、また法華経(日蓮)の影響もあると云われる。
岡野正道は、大正7年、天台宗星野山無量寿寺(武蔵川越喜多院)中院に出家し、昭和11年孝道会を設立する。
昭和27年、現在の孝道山に本仏殿を建立して根本道場とする。同時に、比叡山より伝教大師請来の仏舎利の分譲を受け、35年には不滅の法灯の分灯を受ける。
2008/04/05撮影:
 孝道山仏舎利殿1     孝道山仏舎利殿2     孝道山仏舎利殿3     孝道山仏舎利殿4
 孝道山本仏殿        孝道山潅仏会
2014/03/10追加:
諸Webサイトによれば、大意では「孝道山は寛文の頃、日庭聖人隠棲の地であり、その当時はお堂があったと云う。
廃堂になった後、昭和24年に孝道山として整地されるまで、鳥越山と呼ばれる松林の丘陵で残り、その際、山頂から日庭聖人の像が掘り出されたと云う。」とある。
  → 日庭上人・日庭上人石像などについては江戸自證寺を参照
2022/12/26撮影
 本仏殿:昭和55年落慶、本堂であるが、大堂である。平面イメージとしては比叡山根本中堂の平面プランを採り入れたのかも知れない。正面には前殿(仮称)がありその両脇には楼閣があり、楼閣を経て廻廊が廻り、本殿(入母屋造・裳階?付)に取付く。
 孝順堂:岡野正道などの廟所。
 鐘楼:昭和30年落慶。
 大黒堂:八角堂、平成2年(1990)落慶。
 孝道山二重塔11    孝道山二重塔12    孝道山二重塔13    孝道山二重塔14    孝道山二重塔15
 孝道山本仏殿・本殿    孝道山本仏殿・前殿1    孝道山本仏殿・前殿2    孝道山本仏殿・前殿3
 孝道山孝順堂     孝道山鐘楼     孝道山大黒堂

. 筑前大師寺二層塔 . . 昭和36年建立、ニ層塔・多宝塔の混合ような建築・RCか、簡略な外観。
北九州市八幡東区山王2丁目
. 武蔵新井薬師二層塔 . 図1
図2
図3
建立年代不詳。昭和48年刊「東京の寺」(保育社カラーブックス)には既に写真の掲載があり、それ以前の建立であることは確かで あろう。多宝塔ではなくて、ニ重塔もしくはニ層堂に相輪を載せた形式である。コンクリート製 、建築としては上等のものではないと思われる。二重塔には薬師霊堂の扁額を掲げる。寺伝との関係があるものと思われる。
薬王寺、梅照院(新井薬師)。本尊は薬師如来と如意輪観音の二佛一体の黄金仏という。元は新田家の守護仏であったが、戦乱の中、所在不明(自ら消える)となる。その後(天正14年・1586)この新井の地の草庵の庭の梅の古木から光を発し、黄金仏が発見されたと云う。この像を安置のため新たに 薬師堂を建立したのが梅照院の始まりとする。
本尊薬師如来は徳川秀忠第五女和子(東福門院)の眼病を治癒したことで知られる。
. 讃岐阿弥陀寺ニ重塔 . . 小豆島(島第26番札所)、一辺1m余り、昭和40年頃建立、「日本塔総鑑」
. 河内高井田二層塔 . 河内六寺の鳥坂寺(高井田廃寺)の項、昭和42年頃建立。
. 伊予久妙寺二層塔
 (大日堂)
. 大日堂1

堂2

堂3

堂4

相輪
○「日本塔総鑑」:江戸期の建立の二重塔がある。西山興隆寺東約1.5kmにあり。
○「佛教考古学論攷」石田茂作:久妙寺多宝塔、愛媛周桑郡丹原町、真言御室、現存。
○「日本社寺大観 寺院篇」:行基開基と伝え、梵音山と号す。弘法大師の再興と云う。
往時12坊あり。二重塔の本尊大日如来坐像は運慶の作なりと伝ふ。
○2015/11/07撮影:
二層塔の前に石碑が建ち、そこには「大日堂再建 昭和47年」とあるので、昭和47年の再興である。江戸期建立の二重塔があったのであろうが、何らかの理由で退転し、昭和47年 に再興されたものと思われる。
建物は正規の塔建築ではなく、粗末な仮堂的な建築である、相輪は瓦製のものを用いる。正面に向拝が付設するが、初重の屋根を延長するのではなく、初重屋根の上に1間の屋根を重ねるものであり、類例を見ない。
久妙寺は梵音山弘法院東光坊久妙寺号する。真言宗御室派。
 伊予久妙寺仁王門   伊予久妙寺本堂1   伊予久妙寺本堂2
 伊予久妙寺鐘楼1    伊予久妙寺鐘楼2
 大師堂・閻魔堂1:向かって右が大師堂   大師堂・閻魔堂2
 伊予久妙寺客殿    伊予久妙寺庫裡    伊予久妙寺鎮守
. 播磨光明寺二層塔 . 図1
図2
図3
図4
図5
二重塔は寺中大慈院にあり、善導大師の扁額を掲げる。昭和49年の建立と云い、 構造はRC造で、外装(軒など)は木造と思われる。何れにせよ簡略化された塔であり、特に取り立てて論ずるほどの建築ではない。
光明寺は五峰山と号し、法道仙人の開基と云う。太平記などによると、中世、足利尊氏と直義とが対峙した光明寺合戦では、直義は南朝軍として光明寺に布陣したと云う。
現在も山腹に仁王門、本堂など多くの堂宇を残す大寺である。文明年中には24の坊舎があったというが、現在は多聞院・遍照院・大慈院・花蔵院の4坊が残る。参道左右には坊舎跡の平坦地を残す。什宝として銅造如来坐像(重文・遍照院蔵)、善導大師自画像(大慈院蔵)など を有する。
○2014/12/13追加;
「加東郡誌」加東郡教育会、大正12年(1923 より
開基は法道仙人。真言宗。朱印寺領40石。現在は常行堂・文殊堂・鐘楼堂・仁王門・宝篋印塔を有する。本堂は安政6年焼失、本尊は常行三昧堂に移安、今は礎石を残すのみ。
往古の伽藍は本堂、常行三昧堂、食堂、鐘楼、太子堂、求聞持堂、護法社、山上鎮守、十二所権現、三重宝塔、弁才天、仁王門などがあった。
「寺記」には「・・・(本堂)食堂・・聖徳太子堂熊野十二所権現社鐘楼庫裡・・宝塔護法社求聞持堂弁才祠・・皆為兵火亡失・・・」とあり、宝塔(三重塔)の存在が示唆される、
鐘楼堂の解説に「往天文廿年・・南風甚吹而三重塔婆鎮守拝殿弁才天祠並鐘楼皆頽廃之砌、・・・」とあるので、三重塔は天文20年(1551)焼失し、その後の再興記事は見えないので、再興は無かったのであろう。
 ※中世後期までは三重塔があったものと推定されるが、詳細は不詳。
塔中には
遍照院:本堂・楼門・庫裡
大慈院:本堂・大師堂・奥之院・楼門・会所・庫裡、文政13年善導大師の御堂を再建す。今の堂是也。
 ※推測するにこの大師堂が退転もしくは老朽化し、現在の善導大師二重塔が建立されたのであろう。
華蔵院:本堂・藥医門・庫裡
多門院:本堂・楼門・庫裡 がある。
. 武蔵大義寺二層塔   図1
図2
図3
図4
図5
図6
昭和50年建立、かなりの大型二層塔と思われるも、詳細不詳。 本堂である平面方形の大型ニ層堂に相輪を載せたもので本来は塔としての機能はないものと思われる。
(夕刻のため閉門され、境内地には入らず。)
龍華山と号す、真言宗智山派。室町期の創建で、もとは大元寺と称するも,足利義稙より一字を貰い大義寺と改号すると伝える。
  広島音戸の瀬戸公園・高烏台二重塔 二重塔(昭和54年竣工)は音戸の瀬戸公園の高烏台という場所にある。
現地に由来を記した石碑がある。
それによれば、宝塔建立の趣旨は
平清盛は厳島を崇敬し、海上の通運の便を図るため音戸の瀬戸を開削するが、以来800年が経過する。
これを記念して、平和と海上交通の安全を願い、銘木により宝塔の建立を発願する。
竣工は昭和54年2月、願主・寄進は光田正雄、大工は木下敏明である。
塔の主材は榧・檜、台座は屋久杉丸太 とある。
 ※施主の光田正雄とはよく分からないが、温度の瀬戸公園あるいは高烏台の講演の所有・経営者なのかも知れない。
 ※塔は木造建築、斗栱のバランスを少々欠く、屋根銅板葺き。
2023/06/19撮影:
 高烏台二重塔11   高烏台二重塔12   高烏台二重塔13   高烏台二重塔14
 高烏台二重塔15   高烏台二重塔16   高烏台二重塔17   高烏台二重塔18
 高烏台二重塔19   高烏台二重塔20   高烏台二重塔21   高烏台二重塔22
 高烏台二重塔23   高烏台二重塔24   高烏台二重塔25   高烏台二重塔相輪
 高烏台公園展望台:二重塔横に展望台がある。
. 攝津岡松寺二重塔 . 図1
図2
図3
図4
昭和56年建立。高さ一辺など不詳、小型塔。高い花崗岩製の基壇に建つ。近世風ですが木造の正規建築です。欅を使用と思われます。岡松寺は法華宗(本門流)、ここにも秋山自雲のお墓が分祀されているようです。最近マンション兼の寺院建築が完成したようで、二重塔が無ければ一見寺院とは分かりません。
. 丹後如意寺十方閣
(二層塔)
. 図1
図2

塔1
塔2
塔3
塔4
塔5
昭和58年落慶。高さ26m。寺では重層宝形造と称するも、ニ層塔に分類すべきものである。
下重平面は3間、上重も3間に造るも、上重平面規模は下重の身舎に相当する中央1間に等しい。
つまり下重中央1間の梁上に上重3間の柱を建てる。従って上重の平面規模は極端に小さくなる。
下重の天井・上重の床は設けず、内部は吹き抜けとなる。屋根本瓦葺。唐破風の向拝を付設。
中村淳治氏の設計。本尊は不動明王で、不動堂とも称する。十方閣の扁額を掲げる。
宝珠山と号する。真言宗。行基菩薩の開山と伝える。本尊:十一面観音。
鎌倉期は寺領五百石、七堂伽藍、塔頭十二坊があったと云う。
多宝小塔:ニ層塔内陣に木造多宝小塔がある。近年のものと思われる。
2012/07/22撮影:塔1〜5及び
 丹後如意寺多宝小塔1     丹後如意寺多宝小塔2
 丹後如意寺仁王門        丹後如意寺本堂
  美作大聖寺二重塔   11
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○「岡山の多層塔」岡山文庫163、小出公大、平成5年 より
昭和59年建立。鉄筋コンクリート製。一辺6.5m。総高17.8m。銅板葺き。
当寺は天平10年(738)行基の開基と伝える。中世には23の院坊があったと云うも、中世の兵火で焼亡する。
○大聖寺サイト より
開山以来、山岳仏教の聖地として五院(不動院、中院、奥の院、阿弥陀院など)十八坊舎(森之坊、多門坊、蔵之坊、東之坊、千蔵坊、松之坊、北之坊、池之坊、中之坊、上之坊、西之坊、地蔵坊など)を擁する。
天正6年(1578)頃、豊臣秀吉の上月城攻めに始まるいくたびかの戦火により塔堂を焼失する。
現在の本堂不動院・本坊客殿など主な建造物は津山城主森忠政によって慶長9年(1604)頃に城主祈願所として再建される。また当山の歴代貫主は京都御室御所塔頭蓮浄院院主を兼帯する。
 大聖寺境内案内図:大聖寺サイト より、古の堂宇や坊舎位置が擬古的に描かれる一方で、現在の情景も描かれ、古の姿を信用して良いのかどうか良く分からない。
○2015/04/18撮影:
寺では心経多宝塔と称する。弘法大師入定1150年忌で再建と云い、塔内には全国から寄せられた般若心経を奉納するという。
しかし、本塔の形態は多宝塔の要件である上重平面円形という要件を満たさないため、多宝塔に分類するわけにはいかない。建築の意図としては上重と下重との繋ぎに饅頭を置き、上重は方形であるけれども、多宝塔 を造作したつもりであるのかも知れない。
しかし、上重平面は一間の方形であるため、多宝塔ではなく、二重塔である。さらに二重塔であるとしても、多宝塔風の饅頭を設けており、このことによって、いわば「珍妙」は形態になったことは残念である。
本坊玄関に多宝小塔を置く。詳細不詳。
 大聖寺多宝小塔1    大聖寺多宝小塔2    大聖寺多宝小塔3    大聖寺多宝小塔4
 大聖寺山門1    大聖寺山門2    大聖寺鐘楼
 大聖寺客殿庫裡    大聖寺客殿    大聖寺庫裡
 大聖寺本堂不動院1    大聖寺本堂不動院2    大聖寺観音堂    大聖寺蓮池
 大聖寺北之坊付近か    大聖寺松之坊付近か
. 摂津高槻本行寺二重塔 . 昭和61年建造、RC造、「法華経守護の塔」と称する。
摂津の日蓮宗寺院
. 備前蓮昌寺ニ層塔 . 大仏殿釈迦堂:昭和24年常山の常山寺本堂の譲渡を受け、仮本堂として移建。
 ※蓮昌寺昭和24年本堂落慶:仮本堂の落慶・内陣は当時増築されていない。
しかし、寺宝「大曼荼羅」開帳のためには高さ10mの空間が必要であり、昭和27年現在の大仏殿の原形を本堂内陣として増築。
 ※蓮昌寺昭和50年代全景(上掲):仮本堂に内陣(相輪付設)が増築される。
昭和43年現本堂落慶の後は、旧本堂は剣道道場として転用していたが、平成3年旧本堂を解体。
その時内陣部分を残しさらに正面が欠落しているため、正面2mほどを増築し、塔風な建築にする。
当時は「開山堂」とし、日像上人などを祀る。
平成12年笠井山大仏が遷座、内装が変更され、現堂名になる。
ニ層塔風建築であるが、上記経緯のとおり、本来塔を意識した建築ではない。
  備前蓮昌寺
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なお、現蓮昌寺本堂はRC造、二階建建築で屋根はフラットで、その屋根上に一重方形堂を載せさらに相輪を建てる形式である。
本       堂:本堂屋上に相輪を載せた方形堂宇の形式を採る。
. 攝津須磨寺納経所
 屋上二層塔
. . 平成11年頃建立と推定される。RC造。
本尊は毘沙門天立像。 → 摂津須磨寺
. 霊法会宇和島講堂二重塔 . 11
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相輪
霊宝会宇和島講堂二重塔
霊法会宇和島講堂仏舎利塔と称し、平成16年の建立と思われる。
 ※建立年代の傍証の一つとして、Webサイトに瓦納入実績として瓦納入実績として「平成16年/ 霊法会宇和島講堂/仏殿・仏舎利塔」という記事がある。
一重二重とも平面方3間の二重塔と推測され、一重には裳階を付設する。
おそらく木造正規の塔建築であろう。
宇和島市三間町是能(旧三間町)、霊法会関係者以外は敷地内立入禁止と推定される。
2011/09/25「X」氏撮影画像。
 霊法会宇和島講堂二重塔1     霊法会宇和島講堂二重塔2
2014/11/16撮影:
撮影当日道路を隔てた霊法会駐車場には多くの人の出入りがあり、若干写真が撮り難い状況があった。
 宇和島講堂全貌:前面に8棟ほどの建物が並ぶが、おそらく霊法会の宿舎などの建物と思われる。
 宇和島講堂山門?     宇和島講堂本堂?     宇和島講堂本堂?後堂?
  参考:神戸霊法会
. 大和平等寺ニ重塔 . 三輪山南麓にある三輪明神神宮寺一つとされる。 平成18年再興。
大和大御輪寺三重塔(附:平等寺)
. 備後上之坊二重塔 . 塔1
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塔4
塔5
塔6
塔7
塔8
塔9
相輪
伽藍
2011年末現在、未完。本体工事はほぼ終了するも、建物廻り及び地下納骨施設(推定)内装などが未着工である。法量は不明。
所在地は広島県福山市大門町
福山市蔵王町(有)大森工務店施工、構造は鉄骨造、外装内装は完全に木造(檜)で造作する。
以下「大門東谷「別所山阿釈迦院西光寺上之坊」 より
上之坊は「別所山阿釈迦院西光寺上之坊」と号する。
草戸明王院末寺、別名瑠璃堂。天文3年(1534)岡志摩守が建立と云う。別説に坪生正学院末寺であり、慶長2年(1597)城主神原氏が建立とも云う。<end>
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陸奥蔵館大円寺二層塔
  (大日堂)
. --------------------------------------------------------------
陸奥弘前大円寺(最勝院)五重塔の蔵館大円寺の項参照
 
陸奥極楽寺二層塔 詳細不詳、陸奥国見山廃寺・陸奥極楽寺ニ層塔
. 出羽大龍寺二層塔 . 図1
図2
図3
内陣
梵鐘
建築時期不詳、秋田県男鹿市船川字鳥屋場34
二層塔は竜王殿(本堂)と称する。解脱飛龍大龍王、海蔵常安大亀を祀る。二階は鐘楼とする。
初重方3間上重方1間の形式でRC製と思われる。建築的には粗略。
永禄年中(1558〜70)密教寺院として創建と伝える。
天正5年(1577)男鹿女川の安倍基季が、台巌俊鏡を招き、曹洞宗に改宗開山、安倍氏の菩提所とする。その後、安東愛季が安倍基季を滅ぼし、大龍寺を女川から脇本城附近に移し、安東氏の祈願所とする。昭和7年、現在地(旧澤木家の別荘)に移転。
. 下総妙行寺六角二重塔 . 図1
図2
図3
図4
図5
建築時期不詳、RC造。詳細不詳。かなり大型の二重塔である。(昭和46年以前に建立と思われる)
この二重塔は大荒行堂背後に建つ。大荒行堂と二重塔は連結される。
 原木山大荒行堂     大荒行堂・二重塔1     大荒行堂・二重塔2
原木山と号す。天文7年(1538)円増院日進上人の開基、原木村40余戸を悉く法華とする。
宝暦12年(1762)中山法華経寺の火災の折、日法上人作の「日蓮大菩薩板御影」を当寺に運ぶ。「火中出現防火日蓮大師の像」と称する。
寛政3年(1791)大津波により当寺および附近一帯は流失する。
現在は単立と思われるも、近世は中山法華経寺末。
現在、山門、本堂、鐘楼、祖師堂、庫裡を有し、裏には荒行堂、庭園などがあり、広い境内は美しく手入がなされている。
図1〜5及び下写真は2009/10/18撮影:
 原木山山門     原木山本堂1     原木山本堂2
  原木山祖師堂    原木山鐘楼      原木山庫裏
. 武蔵成願寺ニ層塔 . 図1
図2
図3
図4
図5
建立年代不詳。(戦後)
龍鳳閣 と称する開山堂である。ニ重塔あるいは塔婆としての意識は特には強くは無いようです。
建築的にはコンクリート製の粗雑な代物で、造形的にも優れた建築とは云い難いものと思われる。
堂中央には開祖川庵宗鼎大和尚、左右には道元禅師・塋山禅師を祀ると云う。
図5:中野長者(鈴木九郎)墓
詳細は「中野塔」のページを参照ください。
. 武蔵鹿骨本城寺安穏廟 . . 建立年代不詳。
2021/04/29追加:「X」氏情報
法華宗、下総国葛飾郡平賀村本土寺末、妙高山と号す。本尊三寶祖師を置り。開山は本寺(本土寺)十一世日暁と云。
 本城寺安穏廟
. 尾張法通寺二層塔 . 図1
図2
図3
図4
建立年代不明、下重は漆喰塗り、上重は1間で組物は雲形肘木を用いる、木造塔と思われる。
高い石積基壇に建ち、一辺は不明ながら、小型塔。納骨堂の機能を持つとの説あり。
浄土真宗大谷派。
. 加賀金沢雨宝院二重塔 . 全景
図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
金印
上下とも1間の木造二重塔である。従って正規の塔建築ではない。建立年・規模など不詳。
基本的に禅宗様を用いる。(組物は出三斗、台輪、木鼻を用いる、軒はニ軒の扇垂木)屋根は銅板葺き。戦後昭和の建築か。
高野山真言宗。千日山と号する。本尊金毘羅大権現(大和の雄星当山再興の折、持ち来る金毘羅権現を供奉と云うも、なぜ本尊なのか分からない)。
天平8年(738)泰澄の創建と伝え、中興は文禄4年(1595)雄勢による。室生犀星は当院の養嗣子であった。
2013/12/23追加:
○「O」氏撮影画像(平成初期から平成10年代の間に撮影と推測)
 加賀雨宝院二重塔11
2010/09/07撮影:
雨宝院全景、加賀雨宝院二重塔図1〜図8、金比羅大権現金印
2017/05/13撮影:
 金沢雨宝院二重塔21     金沢雨宝院二重塔22     金沢雨宝院二重塔23
 金沢雨宝院二重塔24     金沢雨宝院二重塔25     金沢雨宝院二重塔26
 金沢雨宝院二重塔27
. 山城本隆寺玉峯院本堂
(二層塔)
. 京都本隆寺・・・寺中・玉峰院の項参照
. 山城真宗院二重塔 .. 山城真宗院
. 大和信貴山二重塔 . 大和信貴山 塔頭成福院融通堂、建築年代不詳(近年)。
. 河内法照寺ニ重塔 .. 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
建築年代・詳細は全く不詳。鉄筋コンクリート製。「日本塔総鑑」に記載あり。狭い境内地に建ち、また訪問日は何かの法要があった日で本堂の外まで、多くの信者で埋まり、法要中のこともあり、塔に近づくことは憚られました。平面はかなりの大型塔ですが、組物などの造作もなく、またニ層堂に相輪を載せた形式で、本来の塔のプロポーションではありません。かなり雑な大造りのRC建築です。
東大阪市東豊浦町。
法華宗真門流(本 隆 寺派) の拠点の寺院のようで、多くの信者が参集するようです。
. 播磨御着徳證寺六角二重塔 . 全景
塔1
塔2
塔3
塔4
相輪
2016/06/02撮影:
六角二重塔。初重に唐破風の裳階を付設。建築年代は不明、現在の堂宇は享保年中(1716-)の改築というも、この六角二重塔はそんなに古いものではなく、おそらく近代のものであろうと思われる。軸部はRC造のようにも見えるが、木造であろう。木造建築で軸部にはモルタルを吹付したような仕様と思われる。塔の機能は納骨堂とも思われるも、不明。
「播磨御着」御着史跡保存会、平成25年改訂2版(リーフレット) より
当初は播磨国分尼寺(真言宗)であったが、明応5年(1496)春住尼妙法が高野山の参詣を女人禁制の故に果たせず、帰途蓮如上人の法輪により、真宗に帰依する。
その後、御着城主小寺氏が帰依し、寺を御着城内に移し、徳證寺と名付けられる。
現在は浄土真宗本願寺派。
. 美作勇山寺 . . 真庭郡落合町鹿田(かった)、「日本の塔総観(中)」などに以下のように記載されるが、存在の有無や、有としても建築年代など全く不詳。
「二重塔は美作落合の勇山寺にあるが、陶製の相輪を持っていたらしい珍しい建築である。」と。
○2015/04/19撮影:
 二重塔は勇山寺裏山の頂附近に存在する。四国88所あるいは西国33所であろうが、その札所の石仏に従って上がって行けば、自ずと二重塔に至る。
この二重塔は庚申堂と称する。本尊は当然青面金剛である。
 この二重塔は建築としては正規の塔建築ではなく、どちらかといえば簡素な建築である。しかも、その構造は特異である。
 下重には椽を廻らせるが、回り縁の束をそのまま初重軒下まで伸ばしそれを支持柱とし、丸桁で下重屋根の垂木を支持する構造である。上重についてもほぼ同一の構造である。
 下重の堂平面は外観上方3間(内部構造は全く分からない)であるが、中央間と脇間との寸法比率は2対1で、極端に中央間が広い。
しかし束を伸ばした支持柱の平面配置も3間であり、これは等間である。 つまり外見上3間の堂が実質の身舎であり、支持柱で構成される吹き放ちの椽がいわば庇のような構造であると解釈した方が良いのかも知れない。
上重の堂平面も外観上方3間であり、こちらは等間である。
椽の束が軒下まで伸び、丸桁で軒の垂木をささえるのは下重と同一であるが、上重の支持柱の平面配置は1間である。
 次に建築年代について、それは分からないというも、建築としては結構古いものようである。
では結構古いとは何時頃の建築かと云えば、寺院側とのやり取りも「建築年代は分からない。」「およその見当として、昭和戦後か?」「それより古いだろう。」「昭和戦前か?」「いやもっと古いと思われる。」「では大正か明治か?」「全く記録を欠くが、明治期以前と思われる。」「江戸期に遡るか?」「その可能性もあるだろう。」という具合で 、建築年代は判然とはしない。要するに、寺院側の見解は明治期の建築もしくは江戸後期に遡る可能性もある建築ということのようである。
 確かに、一見バラック風に見え、そういった意味で昭和戦後のように見える建築ではある。しかし仔細に見れば、柱間は全ておそらく昭和戦後に取り替えられ新しいものと思われるが、杉を使用する柱及び長押は蟲食いも多く、相当に摩耗し、明治あるいは江戸期の骨格が残されているものとも思われる。この骨格から判断すれば、相当程度古いものとも思われる。
但し構造材であっても、椽外周の支持柱の大部、一部の長押などは新材となっている。
 また、一般的に云って、庚申信仰については次のように言われる。即ち「仏教式の庚申信仰が一般に流布した江戸期は、庚申信仰史上最も多彩かつ盛んな時期となる。しかし、大正時代以降は急速にその信仰が失われる。」と。勿論 ここ美作地方の庚申信仰の盛衰はどのようなものであったのかは承知しないが、もしこの地方の庚申信仰の盛衰も上記の一般論と同じものであったとすれば、この庚申堂も盛時を迎えた江戸期あるいは少し遅れて明治期に建立された可能性が高いであろう。急速に衰えた大正期以降に建立されたとは考え難いともいえるであろう。
なお、江戸期の流行は夜更に会合を持つ口実に使うための側面が多分にあると云われるのも真実であろう。
 塔一辺については、測寸を失念する。従って一辺は不明であるが、目測では堂一辺はおよそ8尺(2.4m)ほどと思う。ざっくり云えば、小型の塔である。
 勇山寺庚申堂11    勇山寺庚申堂12    勇山寺庚申堂13    勇山寺庚申堂14
 勇山寺庚申堂15    勇山寺庚申堂16    勇山寺庚申堂17    勇山寺庚申堂18
 庚申堂下重支持柱1    庚申堂下重支持柱2    庚申堂下重軒下隅の始末
 庚申堂下重支持柱・虹梁1    庚申堂下重支持柱・虹梁2
 庚申堂下重柱・長押1     庚申堂下重柱・長押2    庚申堂下重柱・長押3
 庚申堂下重柱・長押4
 庚申堂上重1    庚申堂上重2    庚申堂上重3:上重の身舎は 3間であるが、斗栱は四隅のみに置き、中間間の柱上には置かない。また禅宗様の頭貫の上に台輪は置かず、四隅には直に大斗を置き、出組の組物を用いる。 なお、この意匠・組物は本堂の隅の斗栱<勇山寺本堂20>に 良く似ていて、本堂斗栱を模倣したものかも知れない。
 庚申堂床下
 庚申堂相輪:現在の相輪は銅製のまだ新しいと思われる相輪を掲げる。昭和の末期前後に大幅な修理が行われ、傷んだ「支持柱」の取り替え、柱間装置の一新、陶製相輪の取り替えなどが実施された のであろうと推測される。
◇陶製相輪部材
 床下には旧相輪である陶器製の相輪部品が置かれている。おそらくは下の写真に写る陶製火焔が一番上に載り、その下には九厘(宝輪)ではなく請花が重ねられていたものと思わ れる。残念ながら伏鉢や露盤の 部品は見当たらず、どのようなものであったかは分からない。
 床下旧陶製相輪部品1    床下旧陶製相輪部品2    床下旧陶製相輪部品3
 床下旧陶製相輪部品4    床下旧陶製相輪部品5    床下旧陶製相輪部品6
○勇山寺は神亀3年(726)国府大寺として開創されたと伝えられる。
平安期には九条家の祈願所になるとも伝える。
鎌倉初期源頼朝の命により、美作守護職梶原景時によって再建される。
本尊木造薬師如来坐像(秘仏)、木造不動明王坐像、木造両童子立像の4躯が重文である。
本堂は寛文年中の建築と推定される。
 勇山寺遠望1:庚申堂(二重塔)は背後の山頂付近にある。写真では山頂に赤く色付いた部分が移るが、この部分に庚申堂はある。行者堂の向かって右に斜め上に続く道が写り、点々と札所の石仏が写るが、この山道あるいは石仏に導かれて自然と庚申堂に至る。
 勇山寺遠望2:向かって左から、庫裡、通用門、客殿、本堂、山門、行者堂、山門である。
 勇山寺遠望3    勇山寺遠望4    勇山寺遠望5    
 勇山寺境内     勇山寺山門     勇山寺通用門
 勇山寺本堂11    勇山寺本堂12    勇山寺本堂13    勇山寺本堂14
 勇山寺本堂15    勇山寺本堂16    勇山寺本堂17    勇山寺本堂18
 勇山寺本堂19    勇山寺本堂20    勇山寺本堂21    勇山寺本堂22
 勇山寺本堂23    勇山寺行者堂     勇山寺鐘楼      勇山寺客殿
Yahoo Mapsより
 勇山寺空撮:山頂に二重塔の存在が確認できる。
. 安芸清住寺二重塔 . 図1
図2
図3
建築年代不詳(近年と思われる)。二層塔(二重塔)であり、多宝塔形式ではない。一辺及び総高など不詳(小形の塔)。軸部はRC 造、組物・垂木などもRC造、相輪は青銅製。屋根本瓦葺。吉岡建設施工。延命地蔵尊の扁額を掲げるため、本尊は地蔵菩薩と思われる。
智水山と号す。浄土宗。天正18年(1590)毛利輝元の広島築城の時、高田郡吉田から広島に移転と云う。爆心地に近く、昭和20年の原爆投下で全滅。広島市中区本川町2丁目
2014/02/08追加:○「A」氏(岡山模型店DAN)2008/08/05撮影/ご提供:
 清住寺二重塔4
. 讃岐徳寿院二重塔 . . 建築年代・詳細不詳、「日本塔総鑑」に記載あり
. 讃岐国分寺二層塔 . 讃岐国分寺  建築年代不詳(近年)。
. 伊予西江寺二重塔 . 11
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内部
建築年代不詳、おそらく昭和戦後の建築であろう。
2014/11/16撮影。
「塔をゆく 第3巻 多宝塔」では総高約15mという。
木造塔であるが、おそらく下重の軸部はモルタル仕上で褐色の吹付を施したものであろう。
構造は下重平面は2間、上重平面は1間と思われる。しかし見掛け上、下重正面は3間に造り中央間は桟唐戸、両脇間は壁とする。下重の両側面は柱間の通り2間 であるが、そのうち1間は花頭窓とし残り1間は壁とする。
上重の柱間は1間であるが、見掛け上、正面及び両側面とも3間に造り、中央間は桟唐戸、両脇間は連子窓とする。
背面については、柱間の通り(下重2間・上重1間)であり、全て壁である。
また初重には擬宝珠勾欄付きの椽を廻らすが、これは鉄骨モルタル造である。
屋根銅板葺き。
下重内部には柱はなく、仏像(尊名は不明)3躯を祀る。
高い基壇はおそらくRC造で扉があり、納骨堂の機能を持つのであろう。
山号:佛日山。臨済宗。
「塔をゆく 第3巻 多宝塔」では、「開山は悟庵和尚、寛永3年(1626)現在地に移り、的堂和尚が中興する。二重塔は海會堂と称する納骨堂、扁額は愚渓の揮毫」とある。
. 九州諸国の塔婆形式に擬する納骨堂は九州諸国の擬塔婆形式納骨堂のページに集約する。
. 筑後西光寺二層塔 . . 建築年代不詳、RCか?、粗雑。神埼郡吉野ヶ里町三津


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