現存する多宝塔:平安期〜南北朝期 |
現存多宝塔;平安期〜南北朝期
名称・場所 | 国指定 | 画像 | 備 考 | |||
610 | 河内天野山金剛寺 | 重文 | 図1 図2 図3 図4 図5 図6 図7 図8 図9 |
平安期・承安3年(1173)頃の建立とされるも、慶長11年(1606)大改造され、建立時の面影は殆ど残さないと云う。 下重は一手先、上重は四手先。両重とも二重繁垂木。屋根桧皮葺。きわめて太い相輪を上げる。 昭和14年の修理で、多宝塔基壇・亀腹から地鎮の法具を納めたと思われる穴が発掘されるが、そこには金銅製の宝瓶で蓋をした白磁の壺が納められていた。白磁の壺いは少量の骨が納められ、この遺骨は八条女院である可能性が取り沙汰される。(この項は「金剛寺遺跡」より) これは、同時代の鳥羽上皇・白川上皇や近衛天皇などの遺骨は塔の下に埋納(→鳥羽安楽壽院)される流行があったことも一つの根拠である。 当寺は行基の創建と伝え、永万元年(1165)僧阿観が高野明神の夢告によって来山し、再興する。 承安年中(1171-)八条女院(鳥羽天皇・美福門院の実子、後白河上皇・崇徳天皇異母妹、近衛天皇同母姉)の保護・寄進を受け隆盛に向かう。その後南朝と深い関係を持ち、疲弊・焼亡する。南北朝期には後醍醐天皇行宮所、後村上天皇行宮(摩尼院として現存)、北朝3上皇住居(観蔵院)となる。幾多の変遷ののち、その他多くの伽藍・什宝を今に伝える。 ※金剛寺学頭禅恵は紀伊根来寺で修学し、今に金剛寺には根来寺教学が伝えられる。(「金剛寺文書」など) 近世には豊臣秀頼が金堂・多宝塔・食堂・楼門等について原型を変えるような大修理及び現在見られるその他伽藍の大改造・新築を行う。寺一帯はかっては多数の院坊が建立されていたと云う。 建造物では金堂(図6・図7・鎌倉原型・重文)、食堂(図8・室町原型 ・重文)、楼門(図9・鎌倉原型・重文)、鐘楼(重文)、御影堂 (重文)、摩尼院書院(重文)などを有する。 図1〜図9は2001/05/20撮影写真。 ○2001/7/20:摂津宝珠院様情報:「(毎年)4月21日御影供で多宝塔が開扉される。」 ○「河内名所圖會」より:天野山金剛寺 金剛寺多宝塔(部分図)・・・現存塔婆です。記事:「・・・多宝塔大日如来(春日仏師の作。塔中四面の鏡板、雲竜の画は、狩野大炊助益信筆なり)」 ○「西国三十三所名所圖會 巻之4」:天野山金剛寺 金剛寺全図 金剛寺部分図 ○2006/05/06撮影:夕刻前訪問するも、既に閉門され、境内主要部は見学出来ず。 河内金剛寺多宝塔1 同 2 同 楼門 ○2007/02/04追加;「古社寺の研究」より 天正11年(1583)羽柴秀吉寺領307石安堵、文禄3年(1594)「天野山検地帳写」では 菩提院、地蔵院、紅梅院、大泉院、真福院、満福院、安養院、中性院、祥徳院、常住院、中院、摩尼院、禅光院、阿弥陀院、松持院、満蔵院、満喜院、宮坊主、行基院、無量寿院、新福院、南蔵院、新蔵院、福蔵院、虚空蔵院、修善院、浦福院、無常堂の子院があり、高450石を有する。 江戸期も307石の朱印を有す、子院は漸次退転し、観蔵院、摩尼院、吉祥院の3院に減ず。 ○2013/01/07追加: 「金剛寺遺跡」河内長野市教育委員会、2011 より 金剛寺境内図:成作年代不明、戦国期に描かれたものを江戸期に書写したものと推定される。 天野川の左右両岸に金剛寺伽藍および100ヶ寺を越える寺中(塔頭・子院)が描かれる。 中世金剛寺境内:上記「金剛寺境内図」をイラスト風にアレンジしたもの。 惣門(大門)を西に入り、すぐ北・天野川東にいくつかの寺中が並ぶ。ここには南から桜本坊、愛染院、菊本坊、大門坊、ミヤウクウイン、東福院、東之坊、宝蔵院の小字がある。 ○2012/11/23訪問・撮影: 平成21年より9年間の予定(平成30年まで)で、本堂の半解体修理、本尊三尊(重文)の修復及び多宝塔の屋根葺替中であり、本堂・多宝塔は覆屋の中にあり、見学は不可。修理は約20億円の予定。 河内天野山南大門:元禄11年 河内天野山楼門3 河内天野山食堂2 多宝塔覆屋1 多宝塔覆屋2 求聞持堂・五仏堂:求聞持堂は元禄13年、五仏堂は慶長11年造営。 河内天野山惣門1:元禄11年 河内天野山惣門2 河内天野山惣門3 以下寺中及び寺中の痕跡 南大門南坊舎跡地:天野川沿東側、今は公園・キャンプ場となり往時を偲ばせるものはない。 無量寿院南坊舎跡1 無量寿院南坊舎跡2:今はトイレが設置される。 無量寿院正面中央 寺中無量寿院1 寺中無量寿院2 寺中無量寿院3 寺中無量寿院4 無量寿院北坊舎跡1 無量寿院北坊舎跡2:今は講堂となる。 講堂北坊舎跡1 講堂北坊舎跡2:旧食堂か 旧食堂北坊舎跡:今は天野会館となる。 天野会館北坊舎跡:惣門の南西位置 天野会館西坊舎跡:今は所化寮か、中央やや左は本坊 本坊・寺務所 摩尼院を望む 寺中摩尼院1 寺中摩尼院2 摩尼院南朝行在所 寺中吉祥院1 寺中吉祥院2 寺中吉祥院3 天野山鎮守:東の丘上にある。丹生・高野明神と水分明神を祀る鎮守2社殿がある。 丹生・高野明神社殿は三間社流造、正面千鳥破風及び軒唐破風付設、屋根檜皮葺。 水分明神社殿は両春日造、屋根檜皮葺。何れも慶長11年の豊臣秀頼による造営である。 拝殿は江戸前期、鎮守社鐘楼は享保14年の造営。 天野山鎮守拝殿1 天野山鎮守拝殿2 天野山鎮守鐘楼1 天野山鎮守鐘楼2 天野山鎮守鐘楼3 天野山鎮守2社1 天野山鎮守2社2:鎮守2社は丹生・高野明神と水分明神を云う。 丹生・高野明神1 丹生・高野明神2 丹生・高野明神3 丹生・高野明神4 丹生・高野明神5 丹生・高野明神6 丹生・高野明神7 天野山水分明神1 天野山水分明神2 天野山水分明神3 天野山水分明神4 天野山水分明神5 |
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611 | 近江石山寺 | 国宝 | 建久5年(1194)[須彌壇墨書]源頼朝の寄進により建立と伝える。現存多宝塔中で原形を留める最古の多宝塔とされる。 一辺5.8m、高さ17.2m。内部四天柱を立て、来迎壁を設ける。 →近江石山寺 |
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612 | 高野山金剛三昧院 | 国宝 | →高野山・金剛三昧院の項 | |||
613 | 和泉慈眼院 | 国宝 | 図1 図2 図3 図4 金堂 |
金堂と共に文永8年(1271)造立。高さ10.6m。 多宝塔は金堂のすぐ隣にあったが、防災上の観点から、明治末期に現在の場所に移設される。 金堂横には元の塔阯(基壇)が残る。金堂(重文)は方3間、鎌倉期。 寺伝では、天武2年(673)天武天皇の勅願によって創建されたと云う。 弘仁8年(817)弘法大師が多宝塔・金堂を造営し、願成就寺福寿院と号したと伝える。その当時には奥之坊、明王院、中之坊(無辺光院)などがあったという。 正和5年(1316)の「日根野絵図」では大井関明神の北に無辺光院、僧坊などが描かれている。 日根荘日根野村荒野開拓絵図:全図、2011/06/25撮影:日根野駅前に設置案内板 日根荘日根野村荒野開拓絵図3:大井堰・溝口・丹生明神及び神宮寺部分図 その後も盛衰を繰り返すが、天正13年(1585)豊臣秀吉の根来攻めで、金堂・多宝塔を除き一山焼失する。 慶長7年(1602)豊臣秀頼によって伽藍と多くの坊舎が造営再興さ れ、観音堂・毘沙門堂・護摩堂の他、奥之坊・山之坊・明王院・戒躰院・稲之坊・中之坊・下之坊・東方寺・上之坊・明神社など堂宇が建立されたと伝える。その内の中之坊は本坊として金堂・多宝塔を有 し、かつ仁和寺門跡から「慈眼院」の院号を受け、大井堰明神の別当(神宮寺)として今日まで存続する。 ○「和泉名所圖會」より:大井堰大明神慈眼院多宝塔(部分図) 記事:「二層塔(本堂の乾にあり。大日を安ず)。薬師堂(塔の西にあり)」 現慈眼院多宝塔・金堂が左下隅に描かれ、塔婆移築前の姿であろう。 ○2007/03/05追加:「日本建築史基礎資料集成 十二 塔婆U」: 明治36年多宝塔解体修理。この時防災上の観点から、金堂のすぐ横にあった多宝塔の移建願いが出され、多宝塔は現在の位置に移建される。現在の高い切石の基壇は明治移建の時の構築とされる。(元の基壇は若干低いもの であった。下掲載の慈眼院堂塔保存勧奨方法では3段の石階である。) 解体修理に際し、頭貫から「文永8年」の墨書が発見され、様式手法からこの時の建立であろうとされる。 下重総間8尺8寸8分、中央間4尺7寸4分、両脇間2尺7分(中央間が特に広い) 上重円形軸部径4尺7寸2分、総高35尺5寸3分、相輪長11尺3寸9分 形態的には下重総間に対して、塔身が極端に高く、細長い印象となる。また下重屋根位置も高く、ややバランスを欠く印象である。 慈眼院多宝塔立面図 屋根は当初は檜皮葺きと推定される。 享禄3年(1530)瓦葺き替え記録があると云われ、この頃までには瓦葺きに変更されたのであろう。 天和3年銘大井堰明神図:天和3年(1683):多宝塔屋根はこの頃本瓦葺きであったと推定される。 享保6年(1721)補修、安永6年(1777)瓦葺替、明治36年解体修理で檜皮葺に復する。 相輪は明治修理で整備したもので、それまでは瓦製露盤を載せた棟飾りであった。 元禄3年銘彩色絵図:屋根は瓦葺き、多宝塔様式相輪が描かれ る。 慈眼院堂塔保存勧奨方法:明治15〜36年までの文書で、この絵によると多宝塔屋根は瓦葺で、相輪 はなく、露盤宝珠を載せ、軒先には風鐸を釣る。 慈眼院多宝塔旧露盤:縁下に残存するという。露盤上部は漆喰を丸く塗り、頂部に穴があいているのは宝珠の 据付穴である。 明治36年「慈眼院塔婆修繕設計書」:「相輪ハ全ク散逸シテ旧形ヲ認ムルヲ能ハサルヲ以テ・・新ニ附加スル事トセリ」 ○2008/09/12追加: 「修泉佐野市史 巻次 13-[2] 絵図地図編」泉佐野市史編さん委員会、1999.3 泉州大井関古繪圖(全):元禄3年(1690)以降、大井堰大明神並びに慈眼院伽藍、慈眼院蔵 泉州大井関古繪圖(部分);上記の慈眼院伽藍図 ※平成21年11月から平成22年夏の予定で多宝塔屋根葺替を行う。 2011/06/25撮影: 慈眼院多宝塔11 慈眼院多宝塔12 慈眼院多宝塔13 慈眼院多宝塔14 慈眼院多宝塔15 慈眼院多宝塔16 慈眼院多宝塔17 慈眼院多宝塔18 慈眼院多宝塔19 慈眼院多宝塔20 慈眼院多宝塔21 慈眼院多宝塔22 慈眼院多宝塔23 慈眼院多宝塔24 慈眼院多宝塔25 慈眼院多宝塔26 慈眼院多宝塔27 慈眼院多宝塔28 慈眼院多宝塔29 慈眼院多宝塔30 慈眼院多宝塔31 慈眼院多宝塔32 慈眼院多本堂11:多宝塔と本堂の間の茂み(本堂寄)に多宝塔土壇が残る。 慈眼院多本堂12 慈眼院多本堂13 慈眼院多本堂14 多宝塔旧土壇1 多宝塔旧土壇2 多宝塔旧土壇3 多宝塔旧土壇4 塔跡に瓦製露盤が置かれているが、この露盤は護摩堂の露盤と云う。護摩堂は本堂裏側にかってはあり、今は本堂裏に石階と空地を残すのみである。 慈眼院多宝塔旧露盤:現多宝塔床下に残る。 慈眼院護摩堂跡 本堂裏手に護摩堂があったという。写真には護摩堂に至る石階が写り、石階上には平坦地を残す。 大井堰明神本殿1 大井堰明神本殿2:府文、豊臣秀頼の再建と伝える。 溝口大明神社殿1 溝口大明神社殿2:府文、溝口明神といわれる。室町初期の建築と推定。 丹生大明神社殿 |
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614 | 山城金胎寺 【重文】 永仁6年(1298)−鎌倉期−建立。幾多の戦乱を乗り越えた屈指の古塔である。現在も鷲峰山上にその秀麗な姿を留める。 一辺4.2m、高さ13.9m。屋根杮葺。 金胎寺は白鳳4年役小角の草創と伝える。大和の大峰山に対して「北の峰」と称された修験の道場であった。 元弘元年( 1331)、後醍醐天皇は南都に落ち延びる時に立ち寄るも、地勢が峻険なため大兵を集めるには不便であるとし、さらに笠置山に落ち延びたという。 そのため鎌倉幕府の焼討に遭う。 ○都名所圖會 ・金胎寺 ○2009/02/03追加:「幕末明治 京都名所案内」 より 山城州鷲峰山金胎寺圖 ○2007/09/10追加:「笠置山及附近写真帖」田中市之助編、東京:東陽堂、明42年 より 山城金胎寺多宝塔 ○2010/03/15追加: 山城国鷲峰山全図 本図は山城醍醐寺蔵とある。「和束町史 第1巻」和束町、1995.3 の巻頭口絵に掲載される。 「山城国鷲峰山都卒遮那院大龍華三昧教寺全図」とあり、「嘉暦2丁卯年(1327)画之、以古図模写・・・・至徳元甲子年(1384)」とある。右肩の花押・朱印は解読できず。 中世の古図を模写したと韜晦する常套手段を用いていること、絵図の表現方法・スタイル・構図・色使いなどは椿井文書の古図そのものの特長を呈すること、嘉暦2丁卯年という表現は近世の表記であることなどから、典型的な椿井文書(偽書)であろう。椿井が盛大さを特に演出することに注力した「金勝山」を左肩に書き入れるなど は椿井の性分が出ているものであろう。 椿井文書中の「椿井家古書目録」180に「鷲峯山寺図 全 」があり、これに照応する偽書であろう。 なぜこの絵図が描かれたのかは不明ながら、推測するに、椿井の思想傾向には尊王の念あるいは故実事を尊ぶ傾向があり、郷里山城の金胎寺の元弘の変での焼失以前の寺観を飾り立てたかったかったのであろうかとも推測される。 西塔の伽藍などはある程度もしくは部分的には現地を踏まえてのものであろうが、東塔伽藍などは荒唐無稽なものとも思われ、東塔伽藍は全く不明とするしかないであろう。 ○2011/03/31追加 「四百年前社寺建物取調書」明治15年社寺調査 より 金胎寺見取図 金胎寺多宝塔絵図 2000/12/03撮影 : 山城金胎寺多宝塔1 山城金胎寺多宝塔2 山城金胎寺多宝塔3 2004/04/17撮影: 画像6・7の右は江戸期再建本堂。画像15は中備(双斗の花肘木)。 山城金胎寺多宝塔11 山城金胎寺多宝塔12 山城金胎寺多宝塔13 山城金胎寺多宝塔14 山城金胎寺多宝塔15 山城金胎寺多宝塔16:右は江戸期再建本堂 山城金胎寺多宝塔17:右は江戸期再建本堂 山城金胎寺多宝塔18 山城金胎寺多宝塔19 山城金胎寺多宝塔20 山城金胎寺多宝塔21 山城金胎寺多宝塔22 山城金胎寺多宝塔23 山城金胎寺多宝塔24 山城金胎寺多宝塔25:中備(双斗の花肘木)、双斗の花肘木は室町期流行するも、鎌倉期にも用いられたようである。 山城金胎寺多宝塔26 石造宝篋印塔(鎌倉・重文) 2020/07/28撮影:
石造宝篋印塔1 石造宝篋印塔2 石造宝篋印塔3 石造宝篋印塔4 宝篋印塔は重文、花崗岩、高さ 231Cm 基礎の刻銘:「釈迦■仏滅後二千余歳 正安二年(1300) 願主仁尊」 |
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615 | 美濃日竜峯寺 | 重文 |
図1 図2 図3 図4 図5 図6 図7 図8 図9 10 本堂 仁王門 |
鎌倉中期の遺構とされる。現存多宝塔では6〜7番目に古い古塔である。 寺伝では北条政子の祈願によって建立されたとする。近年修理された様子で、新材が多少目に付く。 鎌倉期様のおおらかな蟇股(中備)を備える。基本的には和様の造作であるが、木鼻は大仏様仕様で異質な感じを受ける。 大日山と号す。高沢観音と通称される。 寺伝では仁徳天皇の時代、両面宿難(飛騨の豪族という)が竜神を退治し、ここに祠を建てたことに始まり、北条政子が伽藍を整備したという。 本堂客殿(天文3年)、本堂(舞台造り・寛文11年)、篭堂(文化3年)、白山社(元和3年)、薬師堂(貞和5年)、仁王門(享保3年)、金毘羅堂(文政3年)、鐘楼、客殿などの堂宇を有する。 日竜峯寺多宝塔模型(岐阜県博物館) |
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616 | 紀伊浄妙寺 | 重文 | 図1 図2 図3 図4 |
鎌倉中期建立。一辺4.32m、高さ13m。 寺伝では、大同元年(806)創建と伝える。 天正の湯浅氏の兵乱で薬師堂(今の本堂)と塔婆を残し焼失する。多宝塔は薬師堂(重文)とともに鎌倉期の建築と推定される。 ○紀伊国名所図会 後編巻之2より:浄妙寺・・・挿絵はなし。 記事:「多宝塔(飛騨の匠の作といふ。塔中に十王並びに八祖成道の絵図あり。巨勢金岡の筆なりといへり。七宝荘厳の彩色、古色あり。・・近世の住持・・洗ひながし・・彩色悉く・・剥落し・・また古伽藍の仏像、火災に取り出だせしにや、面貌外足支離の像を塔中に安置したり)」 ○湯浅氏の兵乱に堂舎・縁起記録を焼失。薬師堂・多宝塔は浄妙寺の奥院であったため、その災いを免れたとされる。 ○2010/10/26追加:新聞写真 昭和5年多宝塔 |
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617 | 紀伊長保寺 | 国宝 | →紀伊長保寺 | |||
618 | 備後浄土寺 | 国宝 | →備後浄土寺 | |||
620 | 和泉法道寺 | 重文 | 図1 図2 図3 図4 図5 図6 |
南北朝期正平23年(1368)建立。多宝塔中10番目ほどの古塔である。 一辺4.75m、高さ18.63m。 播磨一乗寺など攝津・播磨の多くの寺院を開基したと伝える法道上人の開基とされ、上人がこの峰に上り、常に鉢を飛ばし供養を受けたのでこの地を「鉢が峰」と云う。 盛時は700余の坊舎があったと伝えるも、幕末には7院に減じ、現在は2院のみで維持される。法道上人や鉢が峰という関連から立地としては深山を連想するが、現在はバスで簡単に行くことができ、山と 云うより丘に立地し、おそらく坊舎があったであろうと推測される地は「公営?墓地(霊園)」になり、拍子抜けをする。食堂(鎌倉期・重文)、金堂・大師堂・中門(いずれも江戸期)の堂宇を有する。中門は現在解体修理中。 解体中の中門の桁・斗栱、外された中門斗栱、ジャッキアップされた柱 法道寺伽藍図 和泉名所圖會より:鉢ヶ峰山閑谷院長福寺。法道寺多宝塔(部分図) 記事:「二層塔(五智如来を安ず)」 |
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現存多宝塔:平安期〜南北朝期 |