★忍辱山円成寺多宝塔絵図・写真
2013/11/05追加:
◆忍辱山圓成寺封彊図:「忍辱山圓成寺」忍辱山円成寺発行、年紀不詳(昭和45年以降) より転載
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円成寺蔵、丈6尺巾6尺5寸、彩色、元禄期(1688-)の描画と推定。
忍辱山圓成寺封彊図:左図拡大図
楼門、本堂、宝塔(多宝塔)、観音堂、鐘楼、鎮守社、宇賀神などと周囲には23ヶ院の寺中を描く。
ところで、本堂東に五重塔が描かれるも、これは不明。本図の堂塔名は付箋なのか書込なのか不明であるが、書込であるならば、五重塔には何の書込もない。あるいは付箋であるならば、付箋が剥がれたのであろうか。何れにせよ五重塔とは不審であり不詳である。
なお、判読できない寺中名は?メークを付す。また寺中の院号坊号のない寺中もある。さらに「江戸期の寺中23坊」(下に掲載)の中に該当がない寺中もある。その該当のない寺中名とは、来迎院、普照院、上之中院、蓮華院、宝持院、薬師院、地蔵院、吉祥院であり、従ってこれ等の寺中名は図中には記されない。
なお、現在宇賀神がある場所には「宇賀神」と「記名」したが、ここには2棟あり、し正確には西は弁財天・東は宇賀神である。 |
「忍辱山圓成寺」忍辱山円成寺発行、年紀不詳(昭和45年以降)に以下の記載がある。
○「円成寺絵図軸」:封彊図と同年代と思われる境内図で、伽藍や塔頭の配置に僅かの変化がある。
忍辱山村庄屋にあった古図の模写と云う。
※しかし、この絵図軸の図版の掲載はなく、具体的にはどのような絵図なのかは分からない。
◆「大和名所圖會」寛政3年(1791)刊に見る多宝塔
忍辱山円成寺:下図は部分図:相輪は失われるも、多宝塔が描かれる。
(2012/03/25画像入替)
記事:・・・正堂・護摩堂・多宝塔・昭堂・宝蔵・浴室等あり。寺前に三橋あり。高橋・唐橋などと云う。僧院24宇。
※現在宇賀神のある位置は弁天がある。
多宝塔相輪は既に失われていた模様で、描かれない。
屋根は檜皮葺き、四周に椽を廻らすように見える。
多宝塔は大正9年まで存在したが、老朽化のため取り壊されたと伝える。
※しかし多宝塔は取壊の後、鎌倉長寿寺に移築され(経緯は不明)、塔堂(観音堂/旧長寿寺本堂)として現存する。
2013/12/19追加:
◆忍辱山絵図
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昭和24年峯本氏所蔵絵図を書写、原図は江戸期のものであろう。
書写図は円成寺蔵
忍辱山絵図1:左図拡大図
忍辱山絵図2
忍辱山絵図3
なお、現在宇賀神のある位置には辨財天があり、宇賀神は池の南東岸にある。 |
2013/03/11追加:
◆明治三十二年 「名所旧蹟古墳墓一件」(奈良県公文書) より
忍辱山圓成寺境内真図
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◇忍辱山円成寺境内真図:
多宝塔が描かれる。
大和名所圖會と同様、相輪は描かれない。
屋根は檜皮葺か杮葺きのように見える。(草葺きには見えない。)
初重は基壇上に建つようにも見え、恐らく椽を廻らせていたようには思われない。 |
2013/09/30追加:
○「当尾と柳生の寺々:浄瑠璃寺・岩船寺・円成寺 其他」黒田f義、関西急行鉄道、1943 より
多宝塔は大正の初年朽損の結果取壊される。
明治40年6月この寺を訪れた天沼俊一は次のように記す。
「・・・・この時(明治40年6月)には多宝塔があった。多宝塔といっても勿論完全なものではなく、上部は軸部だけで、壊れかけた臨時の屋根が架けてあった。・・・楼門も亦上部は軸部だけで、桟瓦切妻造の仮屋根がかけてあった。・・・しかもこの上層は軸部は大変な蟲食で、触れると黄色い粉になって飛ぶ始末・・・(「史迹と美術」84号、昭和12年)
しかし楼門はその後立派に修理せられたが、多宝塔は跡片もなく、本堂は著しい破損のまま放置せられてゐる。」
2015/03/15追加:
○「古建築追懐」八戸成蟲楼<ヤットイナゴロウ/天沼俊一のPN>(「史迹と美術 84号」昭和12年 所収) より
忍辱山円成寺へ初めて行ったのは明治40年の6月であったと思う。・・・
この時は楼門と並んで多宝塔があった。多宝塔といっても、勿論完全なものではなく、上重は軸部だけで、壊れかけた臨時の屋根が架けてあった。・・・楼門も亦上層は軸部だけで、桟瓦切妻造の仮屋根が架けてあった。これは上層の屋根が壊れたのではなく、初めから未完であった、しかも上層は大変な虫食いで触れると黄色い粉となって飛ぶ始末であった。・・・大正3、4年の頃修理が行われたが、仕方がないので、斗栱以上は新たに造り、左右にともかく袖塀をつけ、形だけは室町時代らしからしめたのである。
・・・椽板に応仁2年の墨書を見出したのも、解体の結果であった。
楼門椽板応仁2年墨書
※多宝塔は江戸期の絵図で見る二層堂の形から上重屋根は倒壊し、上重軸部のみ残る状態で仮屋根を架けた様子であったようである。
※楼門の上層は初めから未完であったということであるが、江戸期の絵図ではどれも入母屋造の屋根が描かれ、上層は初めから造られなかったというのは誤認識であろう。やはり上層は腐朽し倒壊したものと思われる。
2005/04/09追加:
○「日本社寺大観/寺院篇」京都日出新聞社編、昭和8年(1933) より
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□円成寺楼門(多宝塔):(左図拡大図)
刊行年から判断すると昭和初頭の写真と思われるが、大正9年まで多宝塔残欠が存在したという情報を信ずれば、楼門脇に多宝塔残欠が写っているため、大正9年以前の写真と思われる。
この写真のタイトルは「圓成寺樓門(國寶)」であり、勿論多宝塔の写真がメインではない。しかしいずれにしろ、鎌倉長寿寺移転前の多宝塔初重が楼門脇(現再興多宝塔位置と思われる)に写る稀有な写真と思われる。 |
2024/04/19追加: ○「大和古寺大観 第4巻 新薬師寺・白亳寺・円成寺」岩波書店、昭和52年(1977) より
圓成寺楼門(多宝塔)2
上図と同一のアングルの写真であるが、上図が楼門修理後の写真である一方、こちらは楼門修理前の写真である。
従って、本写真の方が上図より古い写真である。楼門の痛ましい大破振りが伝わる写真である。
2015/03/15加筆修正:
大和名所圖會(江戸末期)あるいは忍辱山円成寺境内真図(上掲)では既に
多宝塔の相輪は失われていたことが知られる。
それに加えて、明治の神仏分離で、相当な打撃を受け、その後荒れ果てたことは良く知ら
れているところである。
※慶応4年閏4月15日:興福寺、末寺一同を召集、本末の関係の解消を通達。これには円成寺<寺領235石、12子院>も含まれていた。
その明治維新の変革の過程で、堂塔は荒れ、上述の「古建築追懐」で示すように、明治40年頃には上重屋根も失われ、
上重は軸部のみとなり仮屋根を駆ける状態に荒廃したものと思われる。
さらに同じく「古建築追懐」で示すように、楼門は大正3、4年に上層の斗栱以上は新たに作るという修復が行われたということであるので、「日本社寺大観/寺院篇」の写真は大正4年以降、大正9年までの写真ということになる。
そして、この写真では多宝塔は既に単層堂の姿になっている。つまり、これは推測であるが、大正3、4年の楼門修復に合わせ、多宝塔の上重の軸部は取り除かれ、方形屋根が架けられ、単層堂に改変されたものと思われる。江戸後期の二層堂から、明治期には上重屋根倒壊/上重軸部のみ残り仮屋根架設の状態から、大正3,4年頃上重撤去/単層堂へ改変され、大正9年売却という変遷であろう。
※この「日本社寺大観/寺院篇」の写真は、その間の事情を語る貴重な写真と思われる。
★再興多宝塔及び圓成寺現況 ◇印は2002/3/9撮影: 無印は2013/12/12撮影:
○再興多宝塔
平成2年再興、本尊は高名な大日如来(国宝・運慶の22〜3歳頃の作とされる)が遷座する。
総高は約13m、初重一辺は不明。
○多宝塔本尊大日如来坐像(国宝)
運慶25歳前後の作、檜材の寄木造であり、座高99cm。
大正10年修理の際に運慶自筆の墨書銘が発見される。
これによれば、運慶は安元元年(1175)本像造立の注文を受け、安元2年完成し寺に奉納したことがわかる。
◇多宝塔本尊大日如来1 ◇多宝塔本尊大日如来2
多宝塔本尊大日如来坐像3 多宝塔本尊大日如来坐像4 多宝塔本尊大日如来坐像5
大日如来運慶墨書:自筆墨書の模写
大日如来台座銘文
○忍辱山扁額
忍辱山扁額(楼門掲額) 圓成寺扁額(本堂掲額)
○楼門:重文、応仁2年(1468)再建
◇圓成寺楼門
大和圓成寺楼門11 大和圓成寺楼門12 大和圓成寺楼門13 大和圓成寺楼門14 大和圓成寺楼門15
大和圓成寺楼門16 大和圓成寺楼門17 大和圓成寺楼門18 大和圓成寺楼門19 大和圓成寺楼門20
大和圓成寺楼門21 大和圓成寺楼門22
○本堂:重文、文正元年(1466)再建、阿弥陀堂
◇圓成寺本堂
大和圓成寺本堂2 大和圓成寺本堂3 大和圓成寺本堂4
○春日明神・白山権現:国宝、安貞2年(1228)大和春日明神御造営の際、旧社殿を寄進する。現存する春日造社殿の最古の例とされる。
◇圓成寺春日・白山堂1 ◇圓成寺春日・白山堂2 ◇圓成寺春日・白山堂3 ◇圓成寺春日・白山堂4
◇圓成寺春日・白山堂5 ◇圓成寺春日・白山堂6
白山権現・春日明神5 白山権現・春日明神6 白山権現・春日明神7
圓成寺春日明神1 圓成寺春日明神2 圓成寺春日明神3 圓成寺春日明神4 圓成寺春日明神5
圓成寺白山権現1 圓成寺白山権現2 圓成寺白山権現3
圓成寺春日明神斗栱:圓成寺蔵
○宇賀神:重文、鎌倉期
◇圓成寺宇賀神堂1 ◇圓成寺宇賀神堂2
圓成寺宇賀神3 圓成寺宇賀神4 圓成寺宇賀神5
○その他堂宇:鐘楼(寛文年中)、護摩堂(享保15年)、鎮守拝殿(延宝3年)は現在(2013/12)修理中、杮葺屋根を銅板葺の造替と云う。
圓成寺鐘楼1 圓成寺鐘楼2
圓成寺護摩堂1 圓成寺護摩堂2
本坊および脇門は江戸期の建物を明治中期に現所に移建したものと云う。その脇門は現在(2013/12)境内の東端県道に面した場所に移建、建立中である。移建に際し、門(四足門か)の門柱及び棟下の蟇股は残すも、控柱4本は取り替え、その他の部材の多くも取り替えりとい云う。(現場大工の談)
また、古い円成寺リーフレットや古絵図では孔雀堂(寛政年中再建)が知られるが、現存するかどうかは不明。現存するとすれば、庫裏の裏付近にあるのであろうか。
○圓成寺庭園:平安期、一時荒廃したというも、現在は美しく整備される。
圓成寺庭園1 圓成寺庭園2 圓成寺庭園3 圓成寺庭園4 圓成寺庭園5 圓成寺庭園6 圓成寺庭園7
○手中跡
江戸期の絵図類では東西南に多くの寺中が存在するも、明治維新以降、すべて退転、県道の開通・耕作・民家建築などで、現在では地上にその姿を求めるlことは困難である。
東北には知恩院ほか数ケ院の存在が知られるが、農地・民家となる。
圓成寺東北寺中跡地1 圓成寺東北寺中跡地2
鐘楼下の東には坊舎跡と推定される区画が残る。
宝蔵院又阿■池院跡?
南側は新県道などで破壊されたのか、坊舎跡らしきものは残らない。唯一、庭園の池あるいは閼伽井とも思われる池が残るも、坊舎などの関係するのか、近代のものなのかは分からない。
閼伽井跡?
西端にある寺中は庫裏などが建立され、中に立ち入ることはできず、様子は分からない。一部は農地に転用されているとも思われる。
★圓成寺略礫
天平勝宝8年(756):聖武天皇の御願により、唐僧虚朧和尚の開基と伝える。
※何れも近世の編集である「和州忍辱山円成寺縁起」「和州忍辱山円成寺略言志」では以上のように云うも定かではなく、
下記の命禅上人の中興が実質的な創建であろうと云う見解が主流である。
万寿3年(1026):命禅上人伽藍を再興。・・・実質的な創建と考えられる。
天永3年(1112):迎接上人阿弥陀堂を建立。・・・浄土信仰の寺院に変貌すると考えられる。
仁平3年(1153):仁和寺寛遍上人が入山。伽藍整備と密法の流布に努める。世に忍辱山流と云う。
多宝塔は寛遍の計画として着工され、その死後五年(示寂は仁安元年<1166>)の後に、落成。
2012/03/29追加:
※多宝塔及び多宝塔本尊大日如来は後白河上皇の寄進と云う。(「和州忍辱山円成寺縁起」)
※この多宝塔は「中世庭園文化史 : 大乗院庭園の研究 」森蘊、奈良国立文化財研究所、吉川弘文館、1959 では
南都興福寺大乗院八角多宝塔と同型と云う。(内山永久寺多宝塔は大乗院多宝塔を模すと云う。)
ただし、忍辱山多宝塔が大乗院多宝塔と同型と断ずる根拠(文献など)は不明である。
多宝塔大日如来、僧形像(文永7年・旧食堂安置)、木造四天王像(建保5年)などがこの当時の仏像として現存する。
当時は、真言堂、多宝塔、本堂、経蔵、楼門等の堂宇が知られ、鎌倉期も隆盛であったと伝える。
文正元年(1466):罹災。
大乗院寺社雑事記文正元年閏2月10日の条:「 一夜前忍辱山本堂、塔以下悉皆炎上、於本尊者奉取出了」
永正8年(1511):総供養。ただちに再興に着手したと推定される。
(興福寺官務牒疏:「僧宇28坊 交衆 30口」・・・本文書はいわゆる偽書・椿井文書で注意を要する。)
2013/11/05追加:
参考事項:
○円成寺造営供養文書:「忍辱山圓成寺」忍辱山円成寺発行、年紀不詳(昭和45年以降) より転載
円成寺造営供養文書:文正元年真言堂、塔、本堂、経蔵、楼門等焼失、本堂・楼門の再建過程を記す。
江戸期の概要:
○「大和志」 より 円成寺 忍辱山村即号忍辱山釈実範所居有正堂護摩堂多宝塔昭堂宝蔵浴室寺前有二橋日高橋日唐橋僧院24宇幽邃閑寂足遺懐也・・・。
寺領235石を有し、坊舎23坊があったとされる。
江戸期の寺中23坊:極楽院、来迎院、観音院、普照院、普門院、遍照院、慈眼院、上中院、下中院、宝蔵院、蓮華院、宝持院、多聞院、蓮乗院、知恩院、報恩院、薬師院、真如院、清涼院、地蔵院、吉祥院、池之坊、徳蔵院と伝える。
2024/04/19追加: ○「大和古寺大観 第4巻 新薬師寺・白亳寺・円成寺」岩波書店、昭和52年(1977) より
上記「大和志」の記載に比して、
鎮守拝殿の棟札(延宝3年/1675)では、25院の名があり、普照院・慈眼院・宝蔵院・清源院の名が無く、和喜坊・辻之坊・阿弥陀院・上之坊・下之坊・眞清坊が書かれている。
春日・白山堂の棟札には新坊・上之坊の名が寛永12年(1635)に、和喜坊は承応2年(1653)に見い出される。
仁和寺宛「奉指上起立書」(明治6年)では5院に減ずる。子院は知恩院・報恩院・真如院・宝持院・下之中院である。
明治17年の明細帳では真如院・知恩院・報恩院・宝持院・宝蔵院を挙げるも、真如院以外は「建物ハ一時取畳ミ本尊は本坊ヘ移ス」という。宝持院は明治7年取畳、知恩院は明治7年、9年に取畳願いがだされる。
2013/03/11追加:
○明治6年「大和國寺院明細帳」 より:
以下の12ヶ院(内無住3ヶ院)の寺中の書上げがある。
忍辱山 元高弐百拾五石 無本寺古義真言 圓成寺
寺中
知恩院、薬師院、報恩院、真如院、蓮乗院、宝持院、下ノ中院、観音院、寶藏院、
無住蓮華院、無住多門院、無住上ノ中院
明治維新で寺領を失い、急速に衰退する。
多宝塔は幕末・明治維新以降相当腐朽し、大正9年取壊。
2013/11/05追加:
明治12年圓成寺寺社明細帳
:「明治十二年七月調 大和国添上郡寺院明細帳」より
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明治12年圓成寺寺社明細帳:左図拡大図書き写し文は直下に掲載の通り。
(売却許可???)は朱筆をモノクロでスキャンしたため、判別し難い。 |
2013/03/11追加:以下の原本は上記に示すとおりである。
○「明治十二年七月調 大和国添上郡寺院明細帳」 より
添上郡忍辱山村忍辱山/本山仁和寺末/真言宗 圓成寺
本尊 阿弥陀仏
本堂 8間3尺×7間3尺 楼門 3間×1間3尺 境内 7845坪
境内仏堂 三宇
多宝堂(売却許可???の追記あり)/ 本尊 大日如来 仏堂 方2間
(上部欄外に「大正8年12月13日縣指令教第8876号を以て売却許可」とある)
護摩堂 仏堂 方2間
(上部欄外に「大正8年12月13日縣指令教第8876号を以て移転許可」とある)
大師堂 仏堂 4間×3間3尺
境内庵室 三宇
真如院 4間3尺×3間3尺(注)
知恩院 2間3尺×2間
報恩院 4間3尺×3間
鎮守白山堂
本尊 白山権現 ・・・ 建物 7尺5寸×2尺4寸<ママ>
鎮守春日堂
本尊 春日権現 ・・・ 建物 7尺5寸×4尺2寸
鎮守弁財天堂
本尊 弁財天座像 ・・・ 建物 5尺5寸×3尺
(以上三宇 大正3年3月6日脱漏編入許可)(注)真如院について以下のような記録がある。(知恩院、報恩院については記載なし。)
○明治28年「古社寺沿革史」では
円成寺
境内真如院 本尊十一面観世音菩薩木造
仏堂 2間3尺×2間/庫裏 8間3尺×5間/納屋 2間×2間/門 1間3尺×1間 |
2013/11/04追加:
○「多宝塔売却護摩堂移転の件 添上郡大柳生村円成寺」
大正8年(1919)「寺院」(教育課公文書)中に「多宝塔売却護摩堂移転の件 添上郡大柳生村円成寺」のタイトル文書がある。<未見>
未見であるが、おそらく、本文書中に多宝塔売却願・同許可、護摩堂移転願・同許可の文書が綴られているものと思われる。
この文書に基づき、上記の「明治12年圓成寺寺社明細帳」に転記がなされたものと推察される。
現在は阿弥陀堂(本堂・重文・文正元年<1466>再建)、楼門(重文・応仁2年<1468>再建・現在修理中)、
春日堂・白山堂 (国宝、安貞2年<1228>)
、宇賀神堂(重文、鎌倉)、拝殿、鐘楼、護摩堂、庫裡(観音堂跡地という)と浄土式庭園を有する。
★鎌倉長寿寺観音堂(大和圓成寺多宝塔初重)
2003/01/03追加:
○円成寺旧多宝塔残存情報
鎌倉在住の方から「円成寺旧多宝塔残存」と云う情報が寄せられる。
※状況から判断してかなり大和圓成寺多宝塔が現存する確率は高いと思われる。
鎌倉にある宝亀山長寿寺観音堂が円成寺多宝塔の初重と推定される。
但し、観音堂の詳しい様式などが不明また移転の経緯なども不明のため、どの程度の「残存」なのかは現在不明。
※長寿寺:現在は建長寺末寺(塔頭)と云う。足利尊氏追善のため、足利基氏(初代関東管領)が創建。
開山は古先印元とする。
非公開と云う、但し精進料理を予約すれば、入山は可能とも云う。
観音堂には観音像、衣冠束帯姿の足利尊氏坐像と開山古先印元坐像が安置されているとされる。
(平成18年、本堂が新造され、足利尊氏坐像と開山古先印元坐像は新本堂に遷座すると云う。)
また尊氏の墓(遺髪を埋葬という)と称する宝篋印塔もあると云う。
2003/01/12追加
●長寿寺観音堂写真(大和圓成寺多宝塔初重):某氏ご提供
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鎌倉長寿寺観音堂(大和圓成寺多宝塔初重):左図拡大図 斗栱は出組、軒支輪も残る。中備は不明。
一見唐様の貫が使われているとも見えるが、長押を取り去る改変が行われた可能性は大きいと思われる。
柱も相当に細い角柱で、これも改変された可能性は大きい思われる。
正面中央間は桟唐戸、両間は連子窓と思われる。
(写真正面の堂側面の現状は板壁である。)
外形写真だけで判断すれば、軒廻り(斗栱・軒支輪)および正面軸部は多宝塔初重の面影を残しているものと思われる。
2024/04/19追加:
鎌倉長壽寺観音堂2(大和圓成寺多宝塔初重) 上と同一写真である。
出典は「大和古寺大観 第4巻 新薬師寺・白亳寺・円成寺」で、上の写真の背景はs_minagaが変更している。
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2013/11/05追加:
●大和圓成寺多宝塔残欠(鎌倉長寿寺観音堂):「伊勢原在住の高橋」氏ご提供画像(2013/11/01撮影画像)
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大和忍辱山多宝塔初重は鎌倉長寿寺観音堂として現存する。
大和圓成寺多宝塔初重11:宝形造、屋根茅葺。
大和圓成寺多宝塔初重12:側面は板壁、中央間上部は連子欄間とする。
大和圓成寺多宝塔初重13:左図拡大図
正面中央間は板扉・上部は連子欄間、両脇間は連子窓とする。
※正面中央間は1.6m、両脇間は0.9m、一辺3.4mと云う。
本来は椽を廻らせる構造であったと推定されるも、現在は石組基壇上に柱を建てる。従って、柱は切り詰めたものと思われる。 |
●大和圓成寺斗栱:旧多宝塔斗栱として、圓成寺に伝来する。
2013/12/12撮影:圓成寺旧多宝塔斗栱:斗であるが、上重崩壊あるいは大正期の解体・移転などのときに残されたものと推定される。
大和圓成寺多宝塔初重20:正面右隅柱の始末
大和圓成寺多宝塔初重21:上面右板扉
大和圓成寺多宝塔初重22:正面左板扉、天女像が描かれていたのであろうか。
大和圓成寺多宝塔初重23:折上格天井、彩色の天女・文様が描かれる。
おそらくは圓成寺多宝塔の当初の内部がそのまま残るものと思われる。
大和圓成寺多宝塔初重24:観音堂須彌壇および本尊。これは本尊観音菩薩像に合わせて移建後に造作したものと思われる。
当初の内部は、四天柱を建て来迎壁を設け、その前に須彌壇を置き、壇上に本尊大日如来像(圓成寺像・国宝・運慶銘)を安置する構造であったものと推定されるが、いつしか撤去されたのであろう。
なお観音菩薩立像の像高は約1.1mと云う。
大和圓成寺多宝塔初重25:右側面内部。床は土間(塼敷)に改造、中央間上部は連子欄間であることが分かる。
2013/11/08追加:
円成寺多宝塔初重内部:但し「伊勢原在住の高橋」氏作成の合成写真である。
ただし、両端はs_minagaが多少加工。
なお、「伊勢原在住の高橋」氏は鎌倉長寿寺より以下の談を得ると云う。
◇「関東大震災(大正12年)前の大正時代に、円成寺の建物が売りに出されているというのを聞いて、お寺の関係者が、それを買って移築した。
昔は、お寺が困窮して食べていけないお寺がたくさんあったので、その一つだったのであろう。
当時は、近くまで列車が走っていなかったので、部材を運ぶのに相当苦労したと聞いている。
なお、長寿寺と円成寺は宗派も違い、特に関係があったわけではない。長寿寺には足利尊氏遺髪墓があり、この関係で、尊氏墓所である京都等持院の方に縁がある。」
2013/11/11追加:
◇2013/11/10ブログ「西方見聞録」>長寿寺2のページに、「伊勢原在住の高橋」氏より
、新しく11/09長寿寺住職より収集した情報が掲載される。(※2024/04/19:リンク切れを補正)
全容はほぼ以下の通りである。
「中島真雄(1859-1943)は長寿寺だけではなく、浄智寺など、北鎌倉の寺を復興するために尽力する。また中島は吉田茂元首相や児玉誉士夫などの政治家の相談役でもあった。
その中島はある日、円成寺の多宝塔が売りに出されているのを知り、当時の金額7800円で買入をする。経済的に困窮していた円成寺は、その代金で朽ち果てかけていた楼門の修理をしたと聞く。
今でも、円成寺は奈良駅から遠く離れて交通の便が良くないので、当時も解体と運搬には苦労したことであろう。
長寿寺の前に住んでいた人の証言によると、解体した多宝塔を大船駅から大八車で運搬するのであるが、とても苦労したそうである。そして運搬した中には、土台の石も含まれていたそうである。よって、鎌倉近辺では見られない種類の石を、ここで見ることができる。
なお、現在の観音堂には、中島が手に入れた中国の聖観音像が安置されるが、奈良に多宝塔として立っていた時には、運慶銘の大日如来坐像が安置されていた。
中島は、書院に住んでいたが、お忍びで政治家が来ても、当時、この辺りで見かけない黒塗りの車だったので、すぐにばれてしまったと云う。中島の没後は、ご夫人が精進料理をやっていたことから、長寿寺で精進料理を出していた。長寿寺にとって中島真雄は、寺を中興した恩人なので、毎日、名前を入れて読経し供養する。」
以上により、忍辱山多宝塔を購入したのは中島真雄であり、金額は7800円であり、その多宝塔は長寿寺に「寄進」されたことが判明する。
そしてその代金は忍辱山楼門の修理に充当される(伝聞)と云う。
忍辱山からは塔本体(既に初重のみであった)は勿論、「土台の石」も運ばれるという情報もある。
※中島真雄(Web情報):安政6年2月〜昭和18年8月
長門萩城下に生まれる。明治10年叔父三浦観樹(当時少将)家に引き取られる。ここで製財界人・軍人の知遇を得る。
明治23年渡支。
明治30年満州福州で雑誌「閩報」を創刊。
眼寺34年北京で新聞「順天時報」創刊、明治27年外務省に一万圓で「順天時報」を売却
明治38年満州営口で新聞「満州日報」創刊
明治40年満州奉天で新聞「盛京時報」創刊、営口の「満州日報」が事実上解体され、奉天で「満州日報」創刊。
中島は大陸(満州)に通算30年滞在し、新聞発行などで国策に資する。なぜ大陸(満州)と云う天皇教国家の国策が蠢く困難な土地で、そういう特殊な行動が可能であったかといえば、それは児玉源太郎などの軍関係者、日本の財界人や満州の清人有力者と密接な関係があり、これらが中島の大陸での暗躍の基盤であったからである。当然、陸軍の特務機関や奉天の総領事や満鉄関係にも隠然たる影響力を持っていた
の疑いもないであろう。また戦後に首相となる吉田茂とは「肝胆相照らす」と云う。
※「金寳山 浄智禅寺」関口泰 では以下の記述がある。
長寿寺の(関東大震災による被災の)復興を終えられた中島真雄翁が当寺(浄智寺)の復興の遅々たるを憂えられ、当寺の土地を宅地として開放し翁の友人知己を援いて住まわせ、これによって仏殿庫裡を再建するの計画を立ててくだすった。土地の貸与から工事の設計監督まで、ご多忙な身を以て親しく之に当たってくださった翁の御高義は永遠に忘るるべきでない。その期間は昭和4年から7年にわたった。庫裡が6年に仏殿が7年に竣工した。
2013/11/11追加:
◇11/09撮影の長寿寺観音堂写真の掲載が上記ページにあるので転載する。
圓成寺多宝塔天井など:前述の通り、四天柱は撤去されるも、折上格天井、彩色の天女・文様は移建前のものがそのまま残されるものと推測されるが、確証はない。
圓成寺多宝塔須彌壇:前述の通り、四天柱は撤去され、従ってそこに設置されていたと思われる須彌壇は撤去され、写真に写る須彌壇が設置されたものと推測される。
圓成寺多宝塔床面:前述の通り、塼敷であるが、明らかに禅宗様であり、本来の板張床は撤去されたものと思われる。
圓成寺からは「土台の石」も箱暴れるという証言もある。
上に掲載の大和圓成寺多宝塔初重20:正面右隅柱の始末:礎石が写るが、写真での判断ではあるが、礎石の状態から圓成寺より移されたものであろう。しかし確証はない。
圓成寺多宝塔石階:これも写真での判断であるが、圓成寺より移された可能性は大きいと思われる。
圓成寺多宝塔基壇:この写真のみ2013/11/01撮影。石積基壇であるが、石階とは風合いが違うようである。一般的に云って、古代に由来する堂塔や純然たる唐様の堂宇を除いて、石積基壇を築き、その上に柱を立てる工法は採用されず、圓成寺多宝塔もその例に漏れず、床下があり四周に椽を廻らせた塔であったと間違いなく断定できる。この意味で圓成寺多宝塔に石積基壇があったとは思われず、移建にあたり、床下柱を切り詰め、床を塼敷に変更した時に石積基壇を新しく築いたものなのであろう。
その理由は不明であるが、おそらく床下及び床板は相当腐朽していたため、切落し、禅宗伽藍に相応しい塼敷の床に変更されたのであろう。
2024/04/19追加: ○「大和古寺大観 第4巻 新薬師寺・白亳寺・円成寺」岩波書店、昭和52年(1977) より
中世の頃の圓成寺の寺観については何も明らかではない。
多宝塔について、寺伝では多宝塔は保元3年(1158)創建とする。旧多宝塔本尊大日如来の台座墨書には、この仏像は#安元元年(1175)に始め、翌2年に渡し奉った”とあるので、この頃には多宝塔は建立されていたのであろうと云える。
文正元年(1466)真言堂・塔・本堂・経蔵・楼門などが焼失する。(「圓成寺造営文書」など)
その後の搭の再建についての明確な記録は徴し得ない。
享保4年(1719)の「和州忍辱山圓成寺略言志」では本堂・多宝塔・御影堂・鐘楼・宝蔵・如法経堂・護摩堂・東福寺・浴室、春日・白山の鎮守、弁財天・宇賀神とその拝殿、楼門・東西の惣門と24の寺中が挙げられる。
明治維新の廃仏などの混乱の中で、寺領は上地、経済的に困窮、寺僧は還俗、寺中は5院に減じ、荒廃する。また、本寺である興福寺一乗院が廃絶し、明治6年仁和寺を本寺となす。その後寺中は真如院一院となり、しかも真如院は伽藍と2町程離れ不便であるので、本堂西の現在地に遷し庫裡とする。
明治18年大師堂はを解体、多宝塔は上重が壊れ仮屋根で覆われる。その多宝塔も、大正9年鎌倉長壽寺に売却される。
この前後の多宝塔の状況については次のようなことが知られる。
明治42年の「境内編入願」にある図では多宝塔の上重は描かれているが、楼門修理の大正4年には上重がなく、この間に上重の破損が著しく進んだのであろうか。
鎌倉長壽寺に売却された多宝塔下重は現存するが、その実態は次の通りである。 (浜島正士氏調査による)
柱間は3.4m(中央間1.6m、脇間0.9m)、柱は方柱、脚固貫・内法貫・頭貫・台輪を組む。
組物は支輪付き出組、中央間に中備の蓑束を置き、軒は二軒繁垂木とする。
柱間は正面中央間桟唐戸、脇間連子窓、背面・側面の3面は板壁、内法上は四面とも中央間連子窓、脇間土壁とす。
内部は四半瓦敷、正面は仏壇を置く、天井は中央部を折上げた格天井である。
以上の内、古材は柱と組物(丸桁を除く)だけで、欅材である。其の他は全て新材である。
柱は中柱14.6cm角、隅柱15.8cm角、面取りを行う。面の大きさは8−9分の1となり、これは本堂の向拝柱とほぼ同じ比率である。
柱の内部には床張の痕跡があり、外部には椽取付の痕跡はないが、切目長押・半長押の痕跡が残る。なお一部の柱には高い位置に内法長押の痕跡が認められる。
移築前の写真では、壇上積基壇上に建ち、椽は無く、切目長押・半長押が打ってあり、その下は解放である。
柱間装置は現状および痕跡とおおむね一致する。 また垂木はなく、疎らな丸太の上に仮屋根を架ける。
以上のように旧搭は移築により、改変整備されている。しかし柱・組物の様式・手法から見て室町後期の材と思われ、痕跡も移築前の状態と合う。文正元年の焼失後、本堂や楼門に続いて再建されたものと判断して良いだろう。
2023/05/21撮影: ○「宝亀山長壽寺略縁起」より 現在は臨済宗建長寺塔頭である。
開基・開山などは不明であるが、足利尊氏の没後、第4子初代鎌倉公方足利基氏によって建立されたと伝える。
なお、尊氏んぼ法名は京都では等持院殿、関東では長壽寺殿と称す。
圓成寺多宝塔残欠31 圓成寺多宝塔残欠32 圓成寺多宝塔残欠33 圓成寺多宝塔残欠34
圓成寺多宝塔残欠35 圓成寺多宝塔残欠36 圓成寺多宝塔残欠37 圓成寺多宝塔残欠38
圓成寺多宝塔残欠39 圓成寺多宝塔残欠40 圓成寺多宝塔残欠41 圓成寺多宝塔残欠42
圓成寺多宝塔残欠43 圓成寺多宝塔残欠44 圓成寺多宝塔残欠45 圓成寺多宝塔残欠46
圓成寺多宝塔残欠47 圓成寺多宝塔残欠48 圓成寺多宝塔残欠49 圓成寺多宝塔残欠50
圓成寺多宝塔残欠51 圓成寺多宝塔残欠52 圓成寺多宝塔残欠53 圓成寺多宝塔残欠54
圓成寺多宝塔残欠55 圓成寺多宝塔残欠56 圓成寺多宝塔残欠57 圓成寺多宝塔残欠58
圓成寺多宝塔残欠扉1 圓成寺多宝塔残欠扉2
圓成寺多宝塔残欠内部1 圓成寺多宝塔残欠内部2 圓成寺多宝塔残欠内部3
圓成寺多宝塔残欠天井1 圓成寺多宝塔残欠天井2 圓成寺多宝塔残欠天井3
鎌倉長壽寺山門1 鎌倉長壽寺山門2 鎌倉長壽寺中門?趾 長壽寺本堂・玄関・書院:向かって左から
2013/11/05追加:
多宝塔が初重のみとなるも、存続する例は以下がある。
大和不退寺多宝塔(鎌倉期)、尾張祐福寺多宝塔(室町中期以前)、尾張明眼院多宝塔(慶安2年(1649))、
丹後縁城寺多宝塔初重(天保年中)
2012/03/29追加:
以前鎌倉長寿寺は非公開であったが、近年、法要などの寺院の行事がない場合、土日には公開している模様である。
従って、近年は忍辱山円成寺多宝塔初重の写真はWebページ上に多く掲載されるようになる。
2011/10/30長寿寺を訪問するも、法要のため一般公開は中止とされ、未だ円成寺多宝塔初重を実見せず。
なお、多宝塔売却理由は円成寺の財政的事情により売却とWeb上ではある。
2006年以前作成:2024/04/19更新:ホームページ、日本の塔婆
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