大  和  の  塔  跡  (飛鳥の塔跡は別ページ<大和飛鳥の塔跡>にある)

大和の塔跡→大和飛鳥の塔跡

大和毛原廃寺(史跡)

廃寺は大和国に属するが、大和の東北隅、伊賀の国境近くのかなり山奥の地域にある。
当然、伽藍を建立するような平地はなく、笠間川流域の急な斜面の中の緩やかな傾斜地に立地する。
南向斜面で伽藍は南面する。ちょうど立地は粟原川流域の斜面に立地する大和粟原寺に似ている。
(但し粟原寺は北向斜面で、伽藍が北面する。)
 大和毛原廃寺立地
金堂・中門・南門跡は、ほぼ現位置に柱座などを持つ花崗岩性の大きなかつ精巧な礎石をほぼ完存する。
 大和毛原廃寺配置図
西塔跡及び推定塔心礎の現状:
西塔跡は金堂の西方やや南にあり、現状は畑地で一部は人家となる。ここには礎石8個が埋没しているとされ、特に地上には何も遺物はない。
心礎については、おそらく西塔心礎と思われる礎石が、金堂跡にある稲荷の小祠の鳥居前に手水鉢として転用される。しかしこの推定西塔心礎は円形柱座の周辺に沿って、無慚にも割られ、元の大きさは不明 。
現状は径53cm高さ0.5cm程度の円形柱座を持ち、その中央に径29cm深さ20cmの円孔を穿つ。さらに円孔底の円周の位置におよそ径2cm程度の排水孔が1本、約45度の角度で、外に向かって管状に穿孔されている。 なお円形柱座は多少は上面が削られている可能性があるとも思われる。
従って、この石が礎石であるのは間違いないと推測はできるも、心礎かどうかは外形だけでは、判断できない。しかも円孔底の斜め45度下に穿孔された排水管も当初のものなのか、あるいはこの礎石を手水鉢に転用したときに穿孔した後世の加工なのか 良く分からない。
しかし排水管の加工は後世の手水鉢への転用の時の加工としても、円孔は正確に彫られていて、手水鉢に転用するために、彫ったと思われる形状ではないと思われる。おそらくこの円孔は当初のものであり、心礎自体の元々の大きさを窺い知ることは出来 ないが、心礎である可能性は高いと思われる。
 毛原廃寺推定西塔心礎1   毛原廃寺推定西塔心礎2   毛原廃寺推定西塔心礎3   毛原廃寺推定西塔心礎4
 毛原廃寺推定西塔心礎5   毛原廃寺推定西塔心礎6   大和毛原廃寺西塔跡
金堂跡:7間×4間(24m×13m)の大規模の堂宇である。身舎を除く礎石の36個中34個を残し、内27個を見ることができる。
礎石はいずれも大型の花崗岩製で、柱座もしくは地覆座をかなり高く彫りだし、精巧 な加工を施す。
 大和毛原廃寺金堂跡1   大和毛原廃寺金堂礎石1  大和毛原廃寺金堂礎石2  同大和毛原廃寺金堂礎石3
 大和毛原廃寺金堂礎石4  大和毛原廃寺金堂礎石5
中門跡:金堂南に位置する。5間×2間(18m×7m)、礎石18個中13個が原位置に残存する。
これも精美に加工された第1級の礎石である。
 大和毛原廃寺中門跡1(南門跡より中門を望む)
 大和毛原廃寺中門跡2   大和毛原廃寺中門礎石1   大和毛原廃寺中門礎石2   大和毛原廃寺中門礎石3
南門跡:中門から一段低い南方約10m下った地点(約2m強)に ある。礎石18個中露出礎石は11個で、その他は地中に埋没しているとされる。なお規模は中門と桁行梁間は同一であるが、柱間間は中門より若干広いとされる。
 大和毛原廃寺南門跡1(中門跡より南門を望む)
 大和毛原廃寺南門礎石1   大和毛原廃寺南門礎石2   大和毛原廃寺南門礎石4
食堂跡 (推定):金堂の西方、谷を渡った約1町先にある。現状は水田であり、地表には何もないが、地下約1mの所に礎石は残存するという。堂の規模は5間×4間。
なお昭和13年の道路工事で礎石が出土し、 業者の手で外部に持ち出されたという。その後(昭和17年)、芦屋の黒川古文化研究所が散逸防止のため入手し、同研究所の所有になっていたが、昭和49年研究所の西宮移転に際し、無償で地元に返却され、その返却された7個の礎石は食堂跡地の隣に置かれる。
 大和毛原廃寺推定食堂跡1   大和毛原廃寺推定食堂礎石
なお、真偽は不明であるが、昭和13年の 試掘調査で、南約3町半の地点(シノノ地区)で東塔心礎らしき礎石を発見したとの説もあると云う。
勿論東塔がそのように離れた場所にあったのではなくて、おそらく、東塔のあった地点の背後の崩落等などで、東塔跡もろとも流されたと解釈するのが妥当 とされる。
○「日本の木造塔跡」:心礎なし、側柱礎3残存とする。
○「大和古寺巡礼」現代教養文庫390、昭和37年:礎石の数は170余といわれ、全て1m余に及ぶものである。瓦は奈良後期のものが出土とされる。創建・寺暦については明確な資料がないため不詳。但し、この地方は東大寺の板蝿杣の地と言われ、この地の支配の重要な末寺であったと伝えられる。現在毛原に現存する唯一の寺院である豊原山長久寺(現在は東寺真言宗)は古くから東大寺戒壇院末であったと伝える。
なお南門東南方向にある石造六地蔵は室町期のものと推定される。廃寺関係の遺物かどうかは不明。
 大和毛原廃寺六地蔵
○2008/07/21追加:
「古都餘録」関野貞(「建築雑誌 Vol.15, No.178」社団法人日本建築学会、明治34年 所収)より
毛原は大和国山辺郡豊原村にありて、奈良市を東北に距ること凡7里山間の一僻村なり、南大門中門及金堂の礎石は明らかに存在し、西方に或堂宇の遺跡とも見ゆる処あり、又東方の丘上に鐘楼跡と称する所あり。
・南大門跡:正面6個側面3個合計17個(1個亡失)残存せり。桁行58尺5寸、梁間23尺5寸で、柱石は上部を円形に造り出し、その径2尺3寸あり、また地貫の来るべき所は特に其部を長方形に造り出せり。
・中門跡:南大門を距ること凡10間、礎石数及配置は南大門の如きも内2個を失う。
桁行は南大門に同じく梁間は凡22尺あり、柱石の円形造り出しのけいは2尺2寸を測る。
・金堂跡:中門を距ること凡30間、礎石の地上に露はれたるもの12個で、これから推考するに、7間四面の堂宇にして桁行凡81尺梁間凡43尺前面1間は向拝となしたる。礎石の造り出しは径2尺3寸。
・金堂跡の西南凡20間許りに8個の礎石遺存するも、この遺跡を明らかに知り難し。
・鐘楼跡は遠く山上にあり。
・この伽藍の事に関しては唯聞書覚書(夛田村一民家蔵、今亡失、享保年間の記録)に「柿本人麻呂此処に大仏殿建立の礎有の跡と云う所あり・・・」とあり、古瓦の年代観より判断して、時代的には合致すると思われる。
 毛原伽藍遺址礎石配置図

大和長谷寺三重塔跡

 →大和長谷寺三重塔

大和中川寺跡(多宝塔)

 →大和中川寺多宝塔

大和眉間寺跡(多宝塔)

 →大和眉間寺跡

大和新薬師寺東西両塔

新薬師寺の創建については諸説があり、不明であるが、奈良期の創建であることは確かとされる。
創建当時の伽藍は東西両塔を備える大寺であったとされる。
宝亀11年(780)西塔の一角に落雷・焼失。(「続日本紀」)応和2年(962)台風で金堂以下諸堂が倒壊。 (「日本紀略」「東大寺要録」)塔は早くから退転と推定される。
2022/05/20撮影:
○奈良市役所展示の平城宮跡復元模型
 →平城宮跡復元模型:平城宮での姿が再現される。

現在以下の建築を有する。
本堂:国宝、奈良期、入母屋造、本瓦葺。5×3間の身舎に1間の廂を廻らす。従って外観は7間×5間。
南門:重文、鎌倉期、東門:重文、鎌倉期、鐘楼:重文、鎌倉期、弘安2年(1279)建立。地蔵堂:重文、鎌倉期、方1間の小建築である。
新薬師寺鎮守・鏡明神:本殿(一間社春日造)は興福寺春日権現第三殿を移築と記録される。享保13年(1728)春日権現の造替で建立され、延享3年(1746)の造替で移築と記録される。 本建築には「三ノ御殿」の墨書銘がある。
 大和新薬師寺遠望:白毫寺境内から遠望
 新薬師寺南門1     新薬師寺南門2     新薬師寺本堂1     新薬師寺本堂2
 鎮守社本殿1       鎮守社本殿2

大和東大寺天地院跡

 →大和東大寺 天地院は東大寺前身寺院の一つとされる。

大和東大寺東塔跡・西塔跡

 →大和東大寺

大和東大寺東塔心礎(残欠)

東大寺東塔心礎と推定される残欠が東大寺境内にある「西南役陣亡陸海軍人の碑」の台石となって、遺存する。
 →大和東大寺東塔心礎

奈良依水園伝東大寺西塔心礎(残欠)

伝東大寺西塔心礎(2/5残欠)が奈良依水園後園に遺存する。
 ※残欠ではあるが、礎石の巨大さまた残存する柱座の大きさから、東大寺西塔心礎である可能性はかなり高いものと思われる。
 →奈良依水園伝東大寺西塔心礎

EXPO'70古河館

EXPO'70にて大和東大寺七重塔の外観が復元された。
EXPO'70終了後、パビリオンは取壊し、相輪のみは東大寺境内に移建され今に残る。
  古  河  館
 →参考:大和東大寺七重塔のページ

大和頭塔

頭塔は土を盛り表面を石で覆い44体の石仏を配した仏塔である。
土と石で階段状の円錐形を造り、段差には瓦葺屋根を架し、段差の壁には佛龕を造り石佛を安置し、頂上の土中には心礎を置き、心礎上に心柱を建て、心柱は瓦葺屋根で始末し、その上には相輪(おそらくは石製相輪)を上げた構造で、外観は五重塔の形を呈する。但し、木造五重塔とはちがって塔身は極端に上から圧縮された ような形である。
 →大和頭塔:頂上土中からは心礎が発掘される。

大和興福寺春日東塔・西塔

 →大和興福寺・春日塔

興福寺大乗院八角多宝塔→興福寺勧学院八角多宝塔

勧学院八角多宝塔は、絵図などから、幕末・明治維新まで存在した可能性が高いと思われる。(古老の言もあると云う)
治承4年(1180)南都焼討、興福寺大乗院は炎上する。その後、大乗院は焼失を免れた元興寺禅定院に再興される。
 ※大乗院八角多宝塔は元興寺禅定院塔を引継ぐものと推定される。
享徳4年(1455)大乗院八角多宝塔、興福寺勧学院(中院、中院の屋)へ移建される。
 →大和興福寺

大和興福寺四恩院十三重塔

 →大和興福寺四恩院十三重塔

大和元興寺

 →大和元興寺五重塔跡

大和平城京紀寺

2022/05/20撮影:
○奈良市役所展示の平城宮跡復元模型
 →平城宮跡復元模型:平城宮での姿が再現される。

大和大安寺東西塔跡(史跡)

 →大和大安寺東西両塔跡

大和穂積寺

2022/05/20撮影:
○奈良市役所展示の平城宮跡復元模型
 →平城宮跡復元模型:平城宮での姿が再現される。

大和服寺

2022/05/20撮影:
○奈良市役所展示の平城宮跡復元模型
 →平城宮跡復元模型:平城宮での姿が再現される。

大和法華寺

総国分尼寺。法華滅罪之寺。三重塔2基があったとされる。
治承4年(1180)の南都焼討ちで焼失。俊乗坊重源が塔2基等を修造。
応永15年(1408)の火災で西塔焼失。寛正3年(1462)に塔供養。
明応・永正の兵火等で堂塔が焼失。慶長の地震でも堂塔が倒壊。
最後まで残った東塔も宝永4年(1707)の地震で倒壊。
画像は稚拙であるが、寛文年間発行「京童追跡」巻3 に三重塔(東塔)の描画がある。
 京童追跡」巻3 法華寺
本堂は豊臣氏により再興された大堂(桃山期・重文)であり、木造十一面 観音立像(国宝)、乾漆維摩居士坐像(重文〕)などが安置される。
○創建時東西両塔が建立される。その後堂塔は漸次荒廃する。俊乗坊重源が荒廃した塔2基をはじめとして堂宇を修理。ついで叡尊が復興。
塔は東西両塔とも健在であったが、応永15年(1408)西塔を焼失。寛正3年(1462)塔供養が行われ再び東西両塔が揃う。
その後の数度の兵乱・地震で堂塔が多く焼失。
最後まで残った東塔は宝永4年(1707)の大地震で遂に倒壊する。東塔は天平の遺構を伝えていたという。
2022/05/20撮影:
○奈良市役所展示の平城宮跡復元模型
 →平城宮跡復元模型:平城宮での姿が再現される。
なお、本ページには法華寺とその子院であった阿弥陀浄土院も再現され、その再現伽藍には三重塔も表現されている。
2020/11/05追加:
○「大和古寺大觀 第五巻」秋篠寺・法華寺・海龍王寺・不退寺、岩波書店、1978 より
法華寺
天平17年(745)聖武天皇は紫香楽宮から平城へ還幸、大仏建立は平城宮で実施することとなる。この時天皇は中宮院を以って御在所とし、皇后宮を官寺とする。これが法華寺の始りである。この皇后宮は藤原不比等(養老4年/720没)の没後、娘光明皇后が父の邸宅を伝領したものであった。この官寺が後の大和の国分尼寺として造営される。
天平期の堂塔については同時代の資料はないが、その後の各時代の資料では金堂・講堂・食堂・鐘楼・経蔵・中門・東塔・西塔・南大門・東門などの名が見える。
 法華寺・海龍王寺伽藍図
室町末期まで金堂・講堂・塔があったが、江戸期には本堂と塔1基となる。
近世の諸資料ではみな現本堂が講堂跡に、南門の南方松林中に金堂があったとするが、両者間の距離が長すぎて講堂跡が現本堂の位置とは考えられない。
むしろ、「大和名所圖繪」に描かれる南門前の礎石6個が講堂跡、その前方松林中の廃跡・礎石が金堂跡とすべきであろう。
 大和名所圖繪・法華寺
塔は延文4年(1359)の「法花寺尼別受指図」に中門(建物の記入なし)の南方に描かれ、また管家本「諸寺縁起集」に「塔二基。件塔者在中門之南東西」とあり、宝永4年(1707)の地震まで残っていて、延宝3年(1675)の「南都名所集」には三重塔として描かれている。その跡は宝暦13年(1763)の古図にも出ている。
 法花寺尼別受指図     宝暦13年法華寺古図
 南都名所集・法華寺
現存する伽藍の概要は次の通りである。
南門:重文、慶長復興の時、今の位置に建立される。
本堂:重文、慶長6年(1601)建立、二棟の建物の材を多く転用する。
鐘楼:重文、慶長7年(1602)竣工と思われる。
客殿:未見
横笛堂:内部は室町期の特徴を示すが、江戸中期に大改修される。
浴室:現在の建物は江戸中期のものと推定される。
2005/01/03撮影:
 大和法華寺本堂1     大和法華寺本堂2
2020/09/28撮影:
 大和法華寺南門1     大和法華寺南門2     大和法華寺赤門
 大和法華寺本堂11     大和法華寺本堂12     大和法華寺本堂13     大和法華寺本堂14
 大和法華寺本堂15     大和法華寺本堂16     大和法華寺本堂17
 本堂前庭礎石1     本堂前庭礎石2     大和法華寺不動堂     大和法華寺鐘楼1     大和法華寺鐘楼2
 大和法華寺横笛堂     大和法華寺薬師堂     法華寺稲荷大明神     大和法華寺浴室
2020/09/27追加:
法華寺慈光殿に五重小塔が安置される。(慈光殿は秋に2週間程度公開される。)

大和西隆寺塔跡

 昭和46〜48年の発掘調査で金堂・塔・東門跡などが発見され、塔跡は大和西大寺第一勧銀裏に保存される。
塔跡とする根拠は約6m四方の掘り込み地業が発掘され、付近には凝灰岩の破片が散乱することによる。凝灰岩は基壇の外装に使用と推定される。基壇そのものは削平され既に消滅する。
 西大寺伽藍絵図(元禄11年の古絵図を転写したものとされる)の一画に西隆寺の伽藍がある。
この絵図によれば、南大門を入り、右手(東)に三重塔を配し、南大門北に楼門、金堂、講堂を一直線に並べる伽藍配置であった。さらに楼門(中門)から 廻廊が左右に廻り、講堂に取り付く配置であった。
なお寺域は東西・南北とも約 250mを占めたとされる。
 ※元禄11年「西大寺古伽藍敷地并現存堂舎坊院図」:西隆寺部分図: 下に掲載の「西大寺伽藍絵図」と同一のもの
2023/10/01追加:
◆西隆寺の沿革
 僧寺である西大寺に対する尼寺として、神護景雲元年(767)頃に造営が開始された国家官寺であるが、その後の歴史は明確でない。
『日本三代実録』では高野天皇(称徳天皇)による創建とされる。
元禄11年(1698)に作られた「西大寺伽藍絵図」に西隆寺が描かれ、南大門・金堂・講堂を南北一直線上に並べ、三重塔を金堂の東前方に配した伽藍である。しかし西隆寺は鎌倉期には廃絶するので、本図に描かれた建物は、ありし日の西隆寺の想像図であろう。
◆西隆寺の推定塔跡が再発掘される。
 再発掘された理由は次のようである。
本遺構を含む区画に商業施設の建設が計画され、そのため本遺構は商業資本によって破壊される運命となる。人類が歴史を刻んできた証である遺構が人為的に破壊されることが止められないので、せめてもの「抗い」として記録保存する為の発掘である。

 ※因みに本遺構は、モラルや正義なき國に日本を貶めた安倍晋三が2022年に天誅を下された場所のすぐ東側に立地する。
 今回の遺蹟の破壊は安倍晋三に象徴されるように日本國及び日本人が崩壊しつつあることを示す一つの具体例ではないだろうか。
 日本の國は先人が営んだ歴史的遺産よりは、商業資本の利益を優先する国に成り下がったということであろう。
 民族の歴史の営みの価値より資本の利益を確保する価値の方が高いと判断する國に変貌したということであろう。

 奈良市埋蔵文化財調査センターは、奈良期創建の尼寺・西隆寺の塔とみられる方形の建物跡を発掘調査し、地盤改良がなされた痕跡を確認したと発表。
建物跡は52年前の調査で発見され、地下で保存されてきたが、商業施設の建設によって消滅するという。
 西隆寺は奈良後期、女帝・称徳天皇によって、僧寺の西大寺と対になる尼寺として創建される。平安後期(あるいは鎌倉期)には廃絶する。
 建物跡は昭和46年(1971)銀行の支店が建てられた際に、奈良国立文化財研究所などが発掘調査し、基壇は削平されるも、地盤改良の跡から、1辺が約6mの方形の建物が立っていたと判断され、古絵図から西隆寺の塔跡と推定される。
 その後、銀行の理解もあり、遺構は地中で保存されていたが、銀行の合併や支店の閉店によって土地が売却される。その地に商業施設が建設される予定のため、遺構は消滅することになるという。
 今回、建物跡を完全に掘りきって構造を調べたところ、地盤改良の過程が確認される。
 調査結果によると、建物が立っていたところは深さ70cm以上掘り下げられ、中心部にはさらに直径約2mの穴が掘られていた。
その穴を粘土と瓦で埋め、地盤の弱い部分に人の頭ほどの石を多く入れながら、掘り下げたところを石まじりの粘土で埋め戻していたという。
埋められた瓦から、西隆寺の主要建物よりやや新しい、奈良末期〜平安初期ごろの建物とみられる。
 調査担当・吉田朋史主務は「中心部の地盤がより強化されており、心柱を持つ塔跡の可能性があるが、塔としては小さく、断定に至らなかった」と説明。
奈文研の箱崎和久・都城発掘調査部長(建築史)は「心柱が地盤補強された穴の上にあったと考えられ、この場所に塔が建立されていたと考えるのが自然」、「尼寺に塔がある例は少ないが、同時期の室生寺の塔と基礎がほぼ同規模で、塔跡とみていいのでは」との見解を示し、高さ13mほどの塔の姿を推測する。
 なお、遺跡保存の可能性について、県文化財保存課は「塔跡を残して施工するのは厳しいと聞いている。再調査で重要性が増す可能性もあるが、寺跡全体の残存状況から国史跡にすることも難しい」との見解という。伝えられる(報道の)通りであれば、まるで他人事のような評論で、文化財保存担当者としての適格性を欠くのではないか。
奈良市プレス発表:
 西隆寺推定塔跡1:石が入れられ、地盤が強化される。     西隆寺推定塔跡2:中心の穴(土壙)が写る。
 西隆寺推定塔跡土壙:中心の穴は瓦などで強化され、心柱が建っていたのではないかと推測される。
 西隆寺塔復元イメージ
◆現地の西隆寺説明板及び遺構
 昭和41年、近鉄西大寺駅北口付近の西隆寺推定地に、シヨッピングセンターや銀行が建てられることになり、奈良国立文化財研究所が約2年間に渡って、発掘調査を行う。
その後も、北口付近に建物が建立されるたびに、発掘調査が行われてきた。
以上の発掘調査で見つかった遺構は商業施設の中に一部保存されたり、発掘調査結果について奈文研等によって現地には説明板が設置・掲示されている。
今までは次の5個所であったが、今般「3.西隆寺塔跡説明板及び遺構」が破壊され、4個所となる。
1.西隆寺の記憶説明板:SANWA CITYビルの入口横に設置。
2.西隆寺築地塀跡説明板:南都銀行西大寺駅前ビル南側歩道沿いに設置
3.西隆寺塔跡説明板及び遺構:みずほ銀行西大寺支店裏に塔跡の遺構が保存
4.西隆寺東門跡説明板:奈良ファミリーの北エスカレータ一階横の柱に設置、売り場内には12個の東門柱跡を表示。
5.西隆寺回廊跡説明版及び復原遺構:奈良ファミリ―北西出入り口の外側設置、回廊東北隅の一部が復原。
2022/05/20撮影:
○奈良市役所展示の平城宮跡復元模型
 →平城宮跡復元模型:平城宮での姿が再現される。
2002/03/28撮影:
 大和西隆寺塔跡1      大和西隆寺塔跡2       西隆寺塔跡堀込地業       西大寺伽藍絵図:西隆寺部分図
2010/12/29追加
 西大寺伽藍會圖:「西隆寺発掘調査報告書」奈良国立文化財研究所、1993 より、右中央が西隆寺
 2010/12/21撮影:大和西隆寺塔跡9:コンクリートの縁石は建物基壇の大きさと位置を示すと云う。
2014/06/19撮影:
 大和西隆寺塔跡11     大和西隆寺塔跡12     大和西隆寺塔跡13

大和西大寺東塔・西塔(史跡)

 →大和西大寺

大和秋篠寺東西塔跡

宝亀11年(780)光仁天皇の本願によって、奈良朝最後の官寺として創建。保延元年(1135)講堂(現本堂・国宝)を残し、伽藍を焼失。
明治維新の廃仏毀釈などで坊舎10数が廃絶、寺地の大部も失う。
現在は本堂(旧講堂)及び金堂跡、金堂に至る左右の林中に東西両塔跡を残すのみである。
2022/05/20撮影:
○奈良市役所展示の平城宮跡復元模型
 →平城宮跡復元模型:平城宮での姿が再現される。

秋篠寺東塔跡:
○「日本の木造塔跡」:心礎の大きさは1.77×0.98mで、長径102×短径98cmの楕円形柱座(高さ6cm)を造り出し、径18×7.6cmの出枘を持つ。心礎以外に 一回り小さい、心礎と同型の四天柱礎2箇と側柱礎5箇を残す。 塔の一辺は4.55m。
2000/12/03撮影:
 大和秋篠寺東塔跡土壇       大和秋篠寺東塔跡礎石
2011/08/23撮影:
 大和秋篠寺東塔跡1     大和秋篠寺東塔跡2     秋篠寺東塔礎石1     秋篠寺東塔礎石2     秋篠寺東塔礎石3
 秋篠寺東塔心礎1       秋篠寺東塔心礎2       秋篠寺東塔心礎3
2019/10/27撮影:
 秋篠寺東塔跡21     秋篠寺東塔跡22     秋篠寺東塔跡23     秋篠寺東塔跡24
 心礎・四天柱礎2基1     心礎・四天柱礎2基2     秋篠寺東塔心礎21     秋篠寺東塔心礎22     秋篠寺東塔心礎23

秋篠寺西塔跡・西塔心礎
2011/09/11追加:2011/10/16修正:
西塔心礎については以下のような文献・資料がある。
○「塔の中心礎石の写真と実測図」石田茂作:この写真と実測図は、昭和52年「仏教考古学論攷 第4巻 仏塔篇」で新しく付け加えられたものであるが、写真や実測図などは昭和初期頃の蒐集と推定される。
ここには西塔心礎写真の掲載がある。
 大和秋篠寺西塔心礎:下掲載 写真と同一のもの
 大和秋篠寺東塔西塔心礎:上が東塔、下が西塔心礎(西塔は上掲の写真と同一のもの)
○「塔の中心礎石の研究」石田茂作、昭和7年 には東西両塔の心礎法量の記載がある。
 東塔 長径48.0寸、造出柱座径32.0寸、高さ3.7寸、枘径7.0寸、高さ2.7寸 石田計測
 西塔 長径45.0寸、造出柱座径33.0寸、高さ3.7寸、枘径7.0寸、高さ3.0寸 石田計測
○「塔婆心礎の研究」田中重久(「考古學 10巻5号」考古学協会、昭和14年 では実測図の掲載がある。
 秋篠寺東西両塔心礎実測図:東西塔の明示がないが、向かって左が西塔心礎である。
○「日本の木造塔跡」(昭和57年刊):
西塔跡は畑地となり不明であるが、本堂から東塔跡に行く道端に石佛が祀られ、その南に西塔心礎が移され現存する。
東塔心礎と同形である。大きさは1.8×1.0m、径100cm×6cmの柱座を造り出し、径18cm高さ8cmの出枘を有する。
 ※この著では本堂と東塔の間に存在するという。さらに「付表:心礎の計測」の心礎一覧表には東塔と並んで西塔の心礎計測値が掲載される。
 ※また、西塔跡は畑地とあり、当時西塔跡は畑でして使用されたいたとも思われる。
○「奈良県文化財調査報告書 第15集 秋篠寺境内発掘調査報告」奈良県教育委員会、昭和46年(1971):2016/08/31追加:
 西塔:
東塔と対象の位置に旧跡を残しているが高さ40cmの土壇を残しているが礎石は全て搬出されている。心礎は本堂の東南方に移動されて残っているが、東塔心礎同様出枘の造り出しを持つ整美された礎石である。 <原文のママ>
 ※以上から、昭和46年頃には本堂東南に動かされて、そこに在ると知れる。
○「幻の塔を求めて西東」(平成元年刊):
 秋篠寺東西両塔心礎法量の掲載がある。
○昭和61年(1986)西塔心礎写真:「X」氏撮影・ご提供:2011/10/16追加:
 秋篠寺西塔心礎2     秋篠寺西塔心礎3:秋篠寺にて撮影
○秋篠寺西塔心礎の所在
以上の西塔に関する文献・資料から、昭和初期から少なくとも昭和61年までは確実に西塔心礎の存在は確認が出来る。
2011/08/23及び2011/09/08秋篠寺境内を探すも、西塔心礎らしきものは発見出来ず。
「日本の木造塔跡」で云う石仏というのも不明である。金堂跡東、十三社の祠の南に忠魂碑がありその隣に石仏が1躯あるが、この石仏であろうか。しかしその南には心礎らしきものはない。
 本坊に問い合わせるも、住職は外出中、留守を預かるご婦人の回答は次のようなものである。
西塔心礎が存在すると云う認識は全くない、当寺には西塔心礎は存在しない(西塔阯と推定される場所はある)、また 例えば本坊の庭などの寺内に「移動」させたとか、寺外に「売却・譲渡」とかの話も聞いたこともない。
現住職は先住の血縁で、2000年頃先住が遷化、住職を引継ぎと云う。
昭和61年に西塔心礎の写真撮影をした「X」氏は、昭和61年の数年後からその所在が確認出来ていないと云う。
 現段階では秋篠寺にて西塔心礎の手掛かりを掴むことは出来ず、「亡失」と云わざるを得ない。
2019/10/27西塔心礎再調査:
○「大和古寺大観 第5巻:秋篠寺・法華寺・海龍王寺・不退寺」岩波書店、1978/3 より
 南門を入り約20m北に進むと、約50m隔てて東西に塔跡がある。
東塔は心礎と四天柱礎2、側柱礎5が遺存し、方15尺ほどの塔であったことが知られる。
西塔は現在土壇として残るだけだが、旧心礎は香水閣西南方の小社の前に移されている。(二)
 ※香水閣西南の小社の前に移されているとのことで、再度、その付近を探すも心礎らしき石は発見できない。それは、2011年に2度にわたり探索するも発見できなかったのと同じ結果となる。
 従って、西塔心礎は現在も、依然として「忘失」と断ぜざるを得ない。
2020/12/12追加:
○「写真・大和路」現代教養文庫370、入江泰吉、現代思潮社、昭和37年 より
秋篠寺の項に「66秋篠寺の境内」として写真が掲載される。
 66秋篠寺の境内:西塔心礎の写真と推定される。
本写真について何の説明もないが、上記の西塔心礎の諸情報から、間違いなく西塔の心礎写真と推定される。
ここに写る石仏が諸著に記される「石佛」であろう。そしてその石佛の前にあるのが西塔心礎であろう。さらに向かって左に写る乱石積は現在もある忠魂碑の土台の乱石積であろう。
因みに次の写真は2019/10/27撮影したものであるが、参考として掲載する。
 西塔心礎の背後石仏:上記「66秋篠寺の境内」に写る石仏とその台石と思われる。すでに石仏とその台石の前には西塔心礎はない。
 忠魂碑横にある石仏:中央は忠魂碑でその向かって右に木立があり、さらにその木立のすぐ右に上記の石仏と台石が写る。
何れの写真も西塔心礎は確認できず、どこかに運ばれたのであろうが、依然として心礎は不明のままである。但し、心礎の置かれていた位置が特定できたのは一歩前進したと思われる。

2012/03/29追加:
○「大和古寺大観 秋篠寺・法華寺・海龍王寺・不退寺[簡略版]」岩波書店、1976-1978 より
秋篠寺概要:
近世の様子は以下のとおり。
文禄4年(1595)豊臣秀吉によって寺領100石が安堵、徳川幕府もこれを継承する。
寛永9年(1632)「秋篠寺調書」では本堂、太元堂、御香水、大日堂、大宮井経堂、若宮井経堂、鎮守二十一社、坊舎17坊があろとする。
慶安2年(1649)の文書には子院として不動院、乾之坊、西之坊、金蔵院、萬福院の名が見える。
享保20年(1735)の資料には乾之院、文殊院、西之坊、新坊、金蔵院、中之坊(中性院)の名が記される。
寛政9年「秋篠寺伽藍絵図」には六院(乾之坊、西之坊、金蔵院、中性院<中之坊か>、文殊院、新坊)が記されるが、吉祥院、不動院、客坊、萬福院は屋敷地のみとなり、弥勒院、西光院、花蔵院などは退転、 屋敷跡地は不明となる。
 寛政9年秋篠寺伽藍絵図:奈良国立博物館保管
2011/08/23撮影:
 大和秋篠寺西塔土壇1    大和秋篠寺西塔土壇2    大和秋篠寺西塔土壇3
2019/10/27撮影:
 秋篠寺西塔跡土壇4     秋篠寺西塔跡土壇5     香水閣西南方の小社     石仏とその台石     国家神道戦争遺物
 ドヨー塚堅牢地神1
秋篠寺伽藍:2011/08/23撮影:
 大和秋篠寺金堂跡(この写真は2000/12/03撮影)
 大和秋篠寺金堂跡2     大和秋篠寺南門
 大和秋篠寺旧講堂1     大和秋篠寺旧講堂2     大和秋篠寺旧講堂3     大和秋篠寺旧講堂4     大和秋篠寺旧講堂5
  現本堂は国宝、講堂位置に建つ。鎌倉期の再建であるが、古代の建築様式を大部で踏襲し、あたかも奈良期の建築の雰囲気を持つ。
2019/11/14追加:
○「西大寺・秋篠寺相論絵図解読試論」藤田裕嗣(「奈良大学紀要 第16号」昭和62年 所収) より
本論文に土用塚(ドヨー塚)堅牢地神についての言及があるので、その部分だけを流用する。
 「八王子社は・・・西大寺と関係深い神社と考えられる。繪圖の表現からその存在が考えられる宮ノ後、平田附近の谷に現在該当する神社はない。
寛政期の秋篠寺伽藍繪圖(上に掲載)に寺の東に「八王子森」が見える。現在当地は土用塚と呼ばれ、堅牢地神社が鎮座している。古老によれば、この社は野上さんであるというが、かって大池の西にあった水の神を移したものともいう。更に神社の脇に現在明治16年大池築造の碑が立つ。この大池は、先に八王子社の故地と想定した谷の最上流部に位置する。碑文によれば明治の築造というが、それ以前にあった小池を統合して造られた可能性もある。そこで「八王子社」は寛政期までに大池以前の小池が築造された際に、土用塚に遷座したものと一応考えておきたい。」
 ※「八王子社が土用塚に遷座してとしておく」ということであるが、このことによって絵図で示される「八王子森」との整合が採れるが、これでは堅牢地神との整合が採れない。堅牢地神とはやはり土地の神・農耕神を祀ったものであろう。
地神及び堅牢地神は備前西南部及び備中の備前国境付近の村々に農耕神として必ず祀られている。古老のいう「野上さん」という意味は必ずしも明確ではないが、やはり、ドヨー塚の堅牢地神は備前・備中の地神と同じものであろう。
 なお、○「奈良県文化財調査報告書 第15集(秋篠寺 : 秋篠寺境内発掘調査報告)」1971(未見)の目次によれば、
「第2図 ドヨー塚頂上部の礎石 / p4 (0009.jp2)」との項目がある。
以上から類推するに、ドヨー塚頂上部には礎石がある模様であるが、その礎石については、良く分からない。
2019/10/27撮影:
 ドヨー塚堅牢地神1     ドヨー塚堅牢地神2     ドヨー塚大池記念碑

大和菅原遺蹟・・・・長岡院跡(行基建立の49院中48)と推定

 ※菅原遺跡:奈良市疋田町4丁目に所在。
元興寺文化財研究所が”大和の菅原遺跡から奈良期の円形建物跡が発見される”とのプレス発表。(2021年5月20日)
この円形建物の性格については諸説が入り乱れているが、最初期の多宝塔形式の建物の可能性も指摘(元文研)される。

●発表概要は以下のとおりである。
 宅地開発に伴い、2020年10月〜21年1月に発掘調査され、特異な建物跡が発見される。
  (現地は宅地開発のため保存もされず、一般公開も行わないという胡散臭さである。
  なぜ、行基との関連が指摘され、初源期の多宝塔跡との可能性もある、このような重要な遺跡が保存もされないのであろうか。)
この建物跡から、柱穴が15個発掘され、柱穴の1個は不明であるが、元来は柱穴が16個、円形に配置されていたことが判明する。
さらに基壇とみられる凝灰岩の抜取穴も発見され、その基壇も円形であった。
円形の柱穴の直径は約15mで、この建物の性格は不明であるが、円堂あるいは多宝塔の原形であった可能性が高いと判断される。
さらに、円形建物跡の西側と北側では回廊の柱穴が35ヶ所で発見される。つまり、造営当時は西側を約39mの回廊が、東側を同規模の塀が並んでいたものと推定される。
 なお、本遺跡では、1981年に今回の出土地の南側から奈良中期の建物跡が発見され、本遺蹟は行基建立の49院の一つである「長岡院」<48を参照>ではないかと推定されてきた経緯がある。
元興寺文化財研究所では今回の発見で菅原遺跡が長岡院である可能性がさらに高まったと推定する。また行基没年に近い奈良中期の瓦も出土し、今回発見された円形建物跡は供養堂跡ではないかとも推定されるに至る。
 供養堂といえば、古代では、法隆寺夢殿(聖徳太子)、興福寺北円堂(藤原不比等)、榮山寺八角円堂が知られるが、もし供養堂だとすれば、この供養堂の被供養者の有力候補は行基が相応しいという。
 ※榮山寺八角円堂:榮山寺の開祖藤原武智麻呂の子・藤原仲麻呂が、父母の追善供養のために天平宝字年中(764頃)に建立したと伝える。
菱田哲郎京都府大教授は「行基の追善に建てられた可能性が強い」とし、
佐藤亜聖滋賀県立大教授は、真東に東大寺を望み「東側の眺望をかなり意識」た立地も東大寺大仏建立に関与した行基に関連する可能性を補強する。
栄原永遠男大阪市立大名誉教授は「亡くなった行基を思い、弟子たちが大仏が出来上がっていく様子を眺められる小高い丘に長岡院を建立したのだろう」と指摘する。
あるいは、供養堂ではなく、鈴木嘉吉元奈文研所長は「ストゥ―パ(仏塔)が今回の円形建物に影響しているのではないか」という。
また、「柵を廻らす半球状の墳墓では」(山岸常人京大名誉教授)、「多宝塔の原型ではないか」(箱崎和久奈文研都城発掘調査部長)などの見解もある。
多宝塔の原型だとすれば、多宝塔の出現は平安期以降とされ、この説を覆すものとなる。
 ※行基(668〜749年)は、晩年、国家事業だった東大寺の大仏造立に尽力したが、大仏開眼供養会(752)の3年前、その完成を見ることなく菅原寺(現喜光寺)で没する。
長岡院は行基建立の寺院「四十九院」の一つで、文献では「菅原寺の西の岡にあった」とある。
菅原遺跡はその長岡院との位置が合致し、1981年の奈良大調査で建物基壇も確認されたが、遺構の性格はよく分かっていなかった。
○「菅原遺跡 −平城京西方の円堂遺構ー」元興寺文化財研究所<三都住建(株)など協力>、2021 より
 菅原遺跡遺構平面略図
 菅原遺跡推定復元:多宝塔として復元した円形建物跡と回廊のイメージ図(復元:元興寺文化財研究所)
元文研では、円形遺構は2層構造の丸い塔の周囲に廂が付いた多宝塔に似た建物である可能性が高いと推定する。その推定に従って復元図を描く。
○現地説明動画「菅原遺跡 −平城京西方の円堂遺構ー」元興寺文化財研究所、2021 より
 菅原遺跡遺構空撮     菅原遺跡遺構空撮・円堂
 1981年発掘建物跡:奈良中期の仏堂跡と推定、「菅原遺跡」奈良大学考古学研究室、1982 より
 菅原遺跡遺構空撮・円堂2
 菅原遺跡・円堂発掘図     菅原遺跡・円堂跡
 菅原遺跡出土軒瓦:南面柱列安雨落溝から出土     菅原遺跡出土平瓦:「西」の刻印がある、南面柱列安雨落溝から出土
 菅原遺跡・円堂跡全貌
○各種メディアの報道写真 より
 菅原遺跡・発掘円堂跡1     菅原遺跡・発掘円堂跡2     菅原遺跡・円堂跡出土瓦

大和長弓寺三重塔

 →旧長弓寺三重塔・東京高輪プリンスホテル塔初重」

大和唐招提寺五重塔(史跡)

 →大和唐招提寺

大和平松廃寺

2022/05/20撮影:
○奈良市役所展示の平城宮跡復元模型
 →平城宮跡復元模型:平城宮での姿が再現される。

大和七条廃寺(三松寺)

2022/05/20撮影:
○奈良市役所展示の平城宮跡復元模型
 →平城宮跡復元模型:平城宮での姿が再現される。

大和白毫寺多宝塔

2002年3月19日から20日の山火事で類焼し完全に焼け落ちる。
 →「旧白豪寺多宝塔・井植山荘多宝塔」 :多宝塔の絵画(大正2年<多宝塔売却直前>・川船水棹作<日本画家>)、白豪寺に残る多宝塔跡、白毫寺多宝塔古記録、井植山荘多宝塔写真、2002/03/23の井植山荘焼失現場の様子、井植山荘再興相輪などを掲載。

大和正暦寺三重塔跡

 →大和正暦寺 ◇菩提山三重塔、正願院(浄光院)十三重塔及び薬師院三重塔の存在が確認できる 。

大和古市廃寺

○「古市廃寺の発掘調査」中井公(「佛教藝術 vol.235」、1997所収)
 古市廃寺遺跡図:1989-1990調査発掘区位置図 :低丘陵地に推定塔土壇と金堂土壇を残す。
  (かっては畑地であったが、現在では竹薮となる。)
昭和35年に発掘調査がなされ、南面する四天王寺式伽藍配置の寺院と判明する。
塔は一辺13mと推定され、盛土は上下2層(その間隔は約1m)からなる。
金堂規模は約30×20mで、桁行7間×梁間7間の平面規模を持つ。柱間は3.7mと判明。3箇所で凝灰岩製礎石を確認、礎石は一辺75cmの正方形で径70cmの柱座を持つ。塔・金堂址からは瓦をはじめ大量の出土品がある。
 古市廃寺金堂平面図   古市廃寺金堂礎石実測図:図中の記号ABCは平面図のABCに対応
平成元年(1989)住宅建築で古市廃寺遺跡図の塔跡西南部分が発掘され、ここでは大規模 な掘立式建物跡および多量の瓦が発掘される。
 (回廊跡などの形跡は認められない。)   
○2003/05/28撮影:
古市小学校東北のごく低い丘陵地に位置する。案内板など皆無のため、位置は非常に分かり難い。
 古市廃寺遠望(西から):西から廃寺跡の低丘陵を撮影。
 古市廃寺推定塔跡:地形から判断して、塔跡と思われる土壇らしき高まりが荒れた竹薮の中にあり、金堂跡とされる土壇は耕作を放棄した(荒れた)果樹園にあると地形上では推定されるも不確実である。
金堂跡(7間6間の堂跡)には礎石が若干残存すると云うも、荒地のため発見出来ず。(あるいは金堂跡の想定を誤っている可能性もあり。)
 現状では、中門・回廊・講堂などが発掘され確認された訳ではなく、塔跡とする根拠も金堂跡とされる土壇の南に位置し、土壇が方約13mであるということだけと思われる。依然として全容は不明のままと云わざるを得ない。
 塔跡南西の田圃を耕作している人物談:「以前はこのあたり一帯は松林だった。この田圃を開墾したとき大量の瓦が出てきた。軒丸瓦もあり自宅に今も保存している。この田圃は多分寺院の築地が巡っていた場所だろうと思われる」 。
 なお瓦は飛鳥(但し1点のみ)−奈良−平安のものが出土すると云う。部分的な発掘調査の結果あるいは現地の地形などから勘案して、本格的な四天王寺式伽藍があった可能性は低いと思われる。
○2008/08/31撮影:
 大和古市廃寺出土瓦:廃寺跡低丘陵の南麓の住人所有
廃寺跡低丘陵の南麓の住人の談:「この附近一体が廃寺跡である。今も瓦を出土する。廃寺の南西角の宅地から礎石が出土した。
多くの瓦の出土を見るが、その一例として軒丸瓦と布目瓦が今ここにある。(写真はこの軒丸瓦・布目瓦を撮影。)なお丘上の金堂・塔跡とされるところは以前は畑であったが、今は竹林となる。 」
 2015/03/15追加;「古代を考える 山辺の道」1999 より
  一時古市廃寺と横井廃寺は出土瓦からよく似た寺院と考えられてきたが、近年の研究では、両寺院が近接している故に両寺院の瓦が
  混同されていたことが確認される。したがって、古市廃寺の創建時期は良く分からなくなってきている。
○2011/11/26追加:「古市廃寺の調査」中村春壽(昭和35年6月10日付新聞「奈良県観光」所収)
寺跡は鹿野園の丘陵が西側に張り出した先端部分を2段に切取り、上段部には僧坊らしきものを設け、下段分には南大門・中門・金堂・講堂を一列に配した四天王寺式と推定される。土壇は比較的部分的には良く残される。
金堂跡には礎石が現位置に3個、移動したもの5個が認められる。
塔跡の四方の石積は破損し正確な法量は測り得ない。また約4尺下には瓦の層があり、2回基壇が築造されたものと思われる。
 古市廃寺伽藍図・昭和35年
○2011/11/26追加:「古市廃寺跡第一次発掘調査概要」<平成元年の発掘調査現地説明会資料>
高井戸廃寺(字高井戸に所在)と呼ばれたことがある。
 古市廃寺調査地位置図
○2012/03/08追加:2012/02/26撮影
 古市廃寺現況図2012年:塔・金堂跡に至るには西の「小径1」と東の「小径2」がある。それ以外は全て民有地で伽藍跡に至るのは困難と思われる。
「小径1」は民家の間に僅かにその痕跡を残すも、今は誰も足を入れることはない様子で、道の体をなさず、冬場でも雑草で侵入が困難である。(鎌が必須である。)2003年にはまだ容易に伽藍跡に至ることは出来たが、今は侵入するのは相当困難である。金堂跡も2003年より一層荒れ方がひどく、かっての果樹園の面影はない。塔跡は従前の通り、今も深い竹薮の中にある。
「小径2」は平尾池西端・民家の間のある溝を伝って侵入が可能である。入って10mほどで藪の中に入り、道はなく、無理やり進むと金堂跡・塔跡に至る。しかし明確に遺構を判別できないのが現状である。
 古市廃寺遠望:西南より撮影、民家の背後の竹薮が伽藍がある場所である。

横井廃寺・塔の宮廃寺・山村廃寺名称の錯綜
山村廃寺:旧山村ドドコロ(堂所)にある寺跡を指し、ドドコロ廃寺とも呼ばれる。
 ※天沼俊一氏は塔の宮廃寺(旧山村塔の宮)について、「山村廃寺」という名称で紹介(「山村廃寺」奈良県報告)をしている。
  山村にある廃寺と云う意味合いであろうが、この「山村廃寺」は「塔の宮廃寺」を指すことに注意を要する。
一方、横井廃寺は「旧添上郡東市村横井字ドドコロ」にあるわけであるが、山村廃寺のある「ドドコロ」とは全く別の場所になる。
 (横井廃寺をドドコロ廃寺と呼ぶ事例は無いが、ドドコロにある横井廃寺云々との記載を眼にすると混乱をきたす。)
以上3つの廃寺の位置関係は次の通り。
古市廃寺の東南東直線で1km弱くらいに横井廃寺がある。つまり横井廃寺は古市廃寺の一つ南の谷筋を東に上ったところにある。
 古市廃寺・横井廃寺位置図
塔の宮廃寺は古市廃寺の南2km強にある。そして、塔の宮廃寺の東1km強に山村廃寺がある。つまり、横井廃寺から、南に2kmほど山越をすれば、山村廃寺に至る・・という位置関係にある。

大和横井廃寺

旧添上郡東市村横井字ドドコロにある。(奈良市藤原にあるように見えるが、廃寺のある場所は藤原にある横井の飛び地である。)
明治28年推定金堂址から金銅観音菩薩像、山雲双鳳鏡(重文)、古銭などを出土。
○「飛鳥時代寺院址の研究」石田茂作:西向きの四天王寺式伽藍配置と推定される。創建は飛鳥期と推定される。
推定講堂跡には礎石1ヶが畦道に残存する。推定金堂跡にも1個残存する。推定塔跡には2個の礎石が田中に埋もれている。それらは礎石であるという積極的特徴はないが、大きさから礎石と思われ、またいずれも原位置から移動しているとも思われる。
なお推定金堂跡からは金銅仏・鏡・古銭・銅椀・刀剣破片が出土し、これは地鎮のためのものと推定される。
 横井廃寺実測図:なお通称「カネツキアト」には大正末〜昭和初頭には土饅頭があったという。
 横井廃寺現状
○「横井廃寺の軒瓦について」原田憲二郎・島軒満(「奈良市埋蔵文化財調査センター紀要」奈良市境域委員会、平成8年(1996) 所収) より
廃寺の名称は「中臣寺(法光寺)」、「藤原村廃寺」、「横井千坊廃寺」、「横井廃寺」と呼称される。
辺りには、俗称「ヤケモン」、「カネツキアト」、「センボー」等の地名が残ると云う。
かっての研究には以下の例などが知られる。
 明治28年、当時の東市村住民が本廃寺を開墾中に金銅製観世音菩薩立像1体、蓬莱山双鸞鏡1面、銅碗1個、和同開珍、萬年通寳、隆平永寳、刀装具などを発見したという。そのことについて、明治39年高橋健自氏が「中臣氏の氏寺及びその遺址」と題して報告する。
 昭和2年、榧本亀次郎氏は「大和添上郡発見の金銅佛等について」と題して、高橋氏が報告した金銅製観世音菩薩立像をはじめとする出土遺物について詳細な報告を行う。しかし不思議なことに、これらの出土遺物は「添上郡帯解村大字山村字ドドコロに於て土取作業中に一農夫によって偶然発見されたものであるといふ」と記し、本文註を付して「遺物を収めた箱書及荻田氏(当時奈良県添上郡東市村字横井の荻田元平氏)談による。」と記す。
さらに「岸熊吉氏が車輪形石造品の発見から端緒をえて、そのドドコロを発掘されて多くの遺物を獲られたが如きは、これらの遺物の発見地の傳へに一の確実性を與へるかに感ぜられて興味の深いものがある。」と記す。この報告から金銅製観世音菩薩立像等は、本稿で扱う寺院遺跡からではなく、山村廃寺から出土したものということになる。このことは寺跡の評価の上で注意を要する。
 大和横井廃寺俯瞰
○「奈良市 横井廃寺 第2次発掘調査概報」奈良県立橿原考古学研究所、 2000 より
 大和横井廃寺地形図:伽藍推定は石田茂作「飛鳥時代寺院址の研究」による。
○2012/03/08追加:2012/02/26撮影:
伽藍は西面する。西に向かって開けた谷筋の忘れられたような奥に3面の田圃(今も稲作が行われる)として、塔・金堂・講堂跡が残る。
何の表示もなく、また地上には何の遺構・遺物もなく、ここが古代伽藍跡とは思えないような現況である。
 大和横井廃寺塔跡1:北から撮影      大和横井廃寺塔跡2:東から撮影      大和横井廃寺塔跡3:西から撮影
 横井廃寺金堂・塔跡:東から撮影 、上方に写る田圃が塔跡      横井廃寺講堂・金堂跡:東から撮影 、手前が講堂跡、奥が金堂跡

大和塔の宮廃寺

○2003/05/28撮影:
かっての軍国色が色濃く残る御霊神社境内がその寺跡とされる。
 塔の宮廃寺推定塔跡:神社は南面し、鳥居を入った右手土壇(皇祖遥拝の碑がある)が塔跡と云われる。
 塔の宮廃寺推定金堂跡:その後方(北)にも土壇が存在し、金堂跡と想定される。
 塔の宮廃寺礎石:かっては土壇上に古瓦が散乱していたと伝える。金堂址には、皇国宣撫の施設のために石が積み上げられているが、その中にいくつか古代寺院の礎石(造出の痕跡がある)と思われるものが残る。
瓦は奈良後期−鎌倉のものが出土。廃大乗院、山階寺跡、大宅寺跡などの説がある。
○「奈良県史 第6巻」:
八島寺子院大楽院跡と云う。
○「幻の塔を求めて西東」:
一重円孔式、大きさ160×160cm、径58×25.5cmの円孔、元位置、白鳳。
○「日本の木造塔跡」:
心礎は地下50cmくらいのところに埋まっている。径60×21cmの円孔を持つ。
2007/01/06追加:
○「日本建築史要」(付図)より:
 大和御霊神社境内所在塔心礎
○2008/08/31撮影:
 大和塔の宮廃寺塔跡
2009/03/08追加:
○「奈良県史蹟勝地調査会報告書 第3回」奈良県史蹟勝地調査会、1977(原本大正5年) より
委員は天沼俊一「山村廃寺址」の表題で報告。所在は添上郡帯解村山、村社御霊神社境内、神社境内に心礎を含む数個の礎石が存す。心礎は社殿に面して右方のやや高所にあり、当初の位置を変ぜざるものの如し。出土瓦から創建は奈良前期で、鎌倉期に再興されたものと思われる。「大和志」に廃大乗院(在山村東八島寺子院)とあり、 本廃寺はこれを指すのであろうか。
 山廃寺(ママ)礎石・心礎    山廃寺(ママ)礎石・其他
2012/02/26撮影:
 大和塔の宮廃寺遠望     大和項の宮廃寺塔跡2     大和項の宮廃寺塔跡3
 大和項の宮廃寺金堂跡2    大和項の宮廃寺礎石2     大和項の宮廃寺礎石3     大和項の宮廃寺礎石4
2013/02/09撮影:
 大和塔の宮廃寺塔跡     大和塔の宮廃寺金堂跡     大和塔の宮廃寺礎石5     大和塔の宮廃寺礎石5
2014/05/28追加:
○「山辺の道の古代寺院と氏族」堀池春峰(「南都佛教 103」1961 所収) より
興福寺の大宅寺庄については中世の史料であるが「三箇院家抄」では四至について「・・・北限八嶋山稜(崇徳天皇陵/早良親王陵)・・・」とあり、注記に「大宅寺庄 ・・・堂塔道間2丁許云々」とある。「諸寺縁起集」にも大宅寺について「堂塔少々相残・・・」とあり、堂塔を備えた寺院とされる。つまり通称「御霊神社」一帯「塔の宮廃寺」が大宅寺跡として良いのではないか。
塔の宮廃寺は「奈良県史蹟勝地調査会報告書 第3回」にて天沼俊一によって「山村廃寺址」として報告されたが、明治中期に八嶋町より移した御霊神社境内に遺構が残る。境内には奈良前期や鎌倉期の古瓦が散乱する。社殿南、参道東に塔跡が現存し、5.88×4.2尺の大石に径1.93尺深さ約8.5寸の心孔を有する心礎がある。そのほか社殿の西北の記念碑の石積に3基の礎石と社殿正面の集会場の履石の1基、計4基の礎石が散在する。それらは凡そ2.2尺程度の円形造り出しを有する。

大和山村廃寺(ドドコロ廃寺)

 大和山村廃寺

大和弘仁寺

弘仁5年(814)嵯峨天皇の勅願で小野篁が建立したという。また、同年弘法大師が虚空蔵山に明星天子の本地仏である虚空蔵菩薩を祀って開基したともいう。古は今ある本堂、明星堂の他に多宝塔、大日堂、求聞持堂など多くの堂宇があったが、元亀3年(1572)松永久秀の兵火で焼失したと云う。

大和願興寺跡

 亡失心礎の「大和願興寺跡」の項

楢池廃寺:天理市奈良町

2015/03/15追加:
 大和楢池廃寺

大和良因寺跡

2012/02/24加筆・修正:
中筋32ヶ寺(中筋寺)の一つという。
良因寺に関する現地説明板 より:
この地布留町には、中世いそのかみ寺と良因寺があったと伝える。いそのかみ寺は今全くその跡を留めず、場所も分からない。
良因寺は石上社の西北方にある厳島神社の周辺がその寺跡と云い、付近に西塔・堂の前・堂のかいと・堂のうしろ等の小字を残す。
 ※良因寺には残る小字名から、何らかの塔婆が建立されていたものと推定されるも、早くから退転し、往時を偲ぶものは何も残存しない。
 ※良因寺の創建年代は不詳。遍照・素性法師のゆかりの寺と伝える。
薬師堂に関する現地説明板 より:
元禄14年(1701)の記録では薬師堂は梁間3間桁行4間三方有椽屋根瓦葺とあり、本尊は高さ7尺5寸5分の木彫で、小型の四天王像を従えたものであった。 天保2年の記録では「良因寺布留村持、境内除地、無本寺、真言宗」とあり、僅かに存続していたようである。
明治の初期には無住、明治中期に薬師堂炎上し、本尊は焼損するも無事に残る。そのため現在の薬師堂が再建される。
薬師堂再建にあたり、資金の足しに四天王像は換金すると云う。
 ※現状は厳島社殿と鳥居とが当然のように並んで建ち、堂内には懸仏を懸け、明治維新以前のごくありふれた風景を今に伝える。
2014/06/23追加;
 布留之図(奈良県立図書情報館蔵 ):江戸期と推定。
左端中央に良因寺/薬師堂が描かれる。山門・土塀・薬師堂・その他2宇・鎮守を備えていたようである。
2012/03/25追加:
大和名所圖會 寛政3年(1791)より
・・・一名石上寺、又の名良峰寺今宵薬師堂といふ。天長年中善守法師住持す。その後僧正遍照もここに幽居す。遍照の俗姓良峰といふ。・・・
2003/05/28撮影:
 良因寺跡(厳島神社):写る堂宇は薬師堂    良因寺山内絵図:本絵図は寛政7年(1795)のものと推定される。
2012/02/18撮影:
 大和良因寺薬師堂     大和良因寺薬師堂内部     大和良因寺薬師堂懸仏

大和内山永久寺

 内山永久寺  八角多宝塔および三重塔 (退転時期は不明)が明治維新まで存在する。

大和額安寺(熊凝精舎):額田部

○2幅の古図を残す。
一つは著名な「額田寺伽藍並条里図}(国宝)で、奈良期の伽藍配置と寺領を示す貴重な絵図とされる。当図には三重塔が描かれる。
もう一つは寛永11年「額安寺古図」で当時の詳細な伽藍及び古跡が示される。
この図によれば、既に主要伽藍は退転し、基壇・礎石を残すのみの状態であったようである。
 寛永11年額安寺古図:◇「飛鳥時代寺院址の研究」から転載
○本寺は聖徳太子が熊凝精舎を置いた旧地で、南都大安寺の前身と伝える。(熊凝精舎跡地と伝える。)
熊凝精舎は→百済寺→高市大寺→大安寺と変遷する。 (→ 参考:大和吉備池廃寺・大官大寺
創建時の寺域は東西三町南北二町で、金堂、三重塔、倉、食堂、僧坊などが建立されたと云う。
その後衰微するが、鎌倉後期に西大寺叡尊・忍性(この地に生まれ、この地に墓がある)・慈信などが寺の再興に尽力し、再び興隆した。
しかし戦国期の戦乱で再度焼失する。織田信長検地で寺領(180石)没収。
豊臣秀吉の時、残っていた雁塔(五重塔)を摂津四天王寺へ譲ることを条件に1町歩が与えられたという。
   → 参考:「摂津四天王寺
江戸期朱印は12石。明治中頃までは、なお寺領一万余坪を残すが、それもやがて失い、昭和50年頃は廃寺に等しい状態であったという。
2009/03/03追加:「大和志料」:額安寺
・・・真言律宗西大寺末たり・・・
「大安寺伽藍縁起流記資財帳」「太子伝」「聖徳太子伝私記」は、いずれも聖徳太子の熊凝精舎の建立を伝える。
堂塔:上掲の寛永11年額安寺古図の掲載がある。「寛永の頃は僅に講堂虚空蔵を存するのみ。」
塔跡三面四方とあり、心礎を除く四天柱・脇柱礎石の全てが描かれる。
2014/08/08追加:
平成20年度奈良国立博物館購入品(新収品)として以下の掲示がある。
額安寺大塔供養願文:1巻(鎌倉)、額安寺文書:5巻、鎌倉〜南北朝)、大方広如来不思議境界経:1巻(平安)、蘇磨呼童子請問経・巻下:1(平安)
何れも大和額安寺が旧所有者であり、巷間への流出・散佚を防止などの目的であるという。購入金額は上記の表示順に900、1200、1000、200萬円である。
「額安寺大塔供養願文」については勿論「額安寺五重塔の落慶供養にあたり作成された願文」であるが、その具体的内容についての情報はなく、不明。
2014/09/13撮影:
現在、上に掲載の「寛永11年額安寺古図」に示される塔跡・金堂跡などの堂塔跡は明確に分からない。
現在は本堂(慶長11年<1606>建立)並びに木心乾漆虚空蔵菩薩半跏像(重文、奈良-平安初期)、及び五輪塔8基(重文、2基に永仁5年<1297>の銘がある、昭和57年の調査修復工事により、第一塔が忍性上人、第二塔が善願上人の供養塔であることが確認される。)を残すのみである。
 額安寺全容:推定中門跡付近から撮影、したがって手前の畑が金堂跡であろうか。
 額安寺本堂1     額安寺本堂2     額安寺虚空蔵堂:中央が虚空蔵堂で、根本本尊虚空蔵像を保存する。
額安寺の堂塔跡は不明確であるが、「寛永11年額安寺古図」と現地の様相から次のように推定するが、如何であろうか。
 推定額安寺塔跡1:現山門付近から撮影(北方より撮影)      推定額安寺塔跡2:推定中門跡付近から撮影
 推定額安寺中門跡:推定塔跡から撮影 、向かって右の畑が金堂跡であろうか。
宝篋印塔は以前は明星池(鏡池)の中島にあったが、近年修理し、本堂前右に移建される。文応元年(1260)の年紀銘があり、有銘では2番目の宝篋印塔という。(明星池の現況は未確認)
 額安寺宝篋印塔1     額安寺宝篋印塔2
なお、重文の五輪塔8基は未見。
第1塔が忍性の墓で、昭和57年の解体修理の時、この五輪塔の地下より銅製の骨臓器を初め多数の遺物が出土し、骨臓器には銘文が刻まれ、そこには忍性の来歴と、その遺骨を鎌倉極楽寺生駒竹林寺・額安寺の三寺に分骨したことを伝えている。

大和長岳寺(柳本)

 淳和天皇の勅願によって天長元年(824)弘法大師が釜口氏の廟所に精舎を建て真言道場として開山したと伝える。
かっては本堂のほかに五重塔、十羅刹堂、真言堂、経蔵、宝蔵、宿堂、客殿、浴室および寺中坊舎42坊があったと伝える。
文亀3年(1503)の兵乱に古伽藍は炎上すると伝える。
2014/07/追加:
○「改訂天理市史(本編・上巻)」1976 より
 江戸期は寺領100石を有するも、明治維新により逓減し、明治6年に廃止され、急速に衰える。
しかし、境内は4〜5町の地があり、明治24年頃になると、檀徒75人・信徒850人ができ、内山永久寺のような全滅は免れる。
幕末頃、有住坊舎12、無住坊舎29、その他客坊・浴室などを合わせ42坊があったが、現在は本堂・楼門・五智堂・御影堂・坊舎普賢院(棟札では地蔵院)のみとなる。
 →笠塔婆(五智堂:重文)については大和長岳寺笠塔婆(五智堂)を参照。

大和大御輪寺

 大和大御輪寺三重塔

大和殖槻寺跡

2009/08/29追加:
○「大和上代寺院志」保井芳太郎、大和史学会、1932 より
「元嶺亨釈書」には「和銅二年十月釈浄達ヲ延キ、維摩会于此ニ修ス。」とあり、藤原不比等が和銅2年(709)釈浄達を請じ、維摩会を修したという。「建法寺」とも称したと云う。(この項は不詳)
「大和志」には「植槻道場在郡山東北植槻八幡祠傍」とある。
「大和志料」には「植槻八幡神・・・・和銅二年淡海公の維摩会を行ひし植槻道場の旧跡なり・・・」
「大和名所記」には「植槻道場 ・・・僅かに残れり社たてて植槻の八幡とよぶかたわらに観音堂一宇あり」
以上近世には植槻八幡をその遺跡とし、そこに塔の礎石があると云う伝えがあった。
しかし、殖槻寺比定地はこの地ではなく、字「別所谷」、「松ノ下」の付近であろう。(八幡社から西北西数町の地)
ここからは、古瓦を出土する。しかし具体的な遺構等は未発見のまま。
・大和薬師寺の梵鐘は、長保5年(1003)鐘楼が焼失したあと殖槻寺から引かれたものと云う。(現在の新梵鐘ではない。)
・大和薬師寺講堂の薬師三尊像(重文・天平・銅造鍍金・西院弥勒堂の本尊であり寺では弥勒三尊と云う)は、殖槻寺本尊であり郡山築城の際に掘り出され、薬師寺に移されたと云う。
・八幡社境内には殖槻寺の後身と云う観音堂一宇があり、明治の神仏分離によって、九条村光伝寺境内に移される。(現存)
 ○殖槻寺絵巻:江戸期、僧古礀作、詳細は不詳、五重塔の描写がある。かっては五重塔などの堂塔があったものと想像される。
なお、大和郡山城(大和郡山城跡心礎)には、心礎を含む多くの礎石などが城の石組などに転用される。 一方、当廃寺はその大和郡山城のすぐ北側に位置する。
文献や物証がある訳ではないが、常識的には当廃寺の礎石も大和郡山城に搬入・転用された可能性が極めて高いと推測される。

大和郡山城跡心礎

 大和郡山城跡心礎

大和法隆寺若草伽藍

 大和法隆寺塔跡

大和法起寺心礎

 大和法起寺三重塔・法起寺心礎

大和中宮寺跡(史跡)

中宮寺跡は現中宮寺の東方約3丁の所にある。
数次にわたる字発掘調査の結果、遺跡の保存状態はあまり良好ではないが、塔及び金堂跡を確認する。
 (1963年には石田茂作が金堂・塔跡の発掘調査を行う。)
塔の基壇は一辺約13.5m、塔の一辺は6.8mと判明。基壇中央には約 2.5mの地下に花崗岩製の塔心礎石が残存する。
(脇柱礎石は既に抜き取られていた。)
出土瓦から飛鳥から室町まで存続したと推定される。伽藍は四天王寺式伽藍配置と判明する。
○「日本の木造塔跡」:
心礎(花崗岩製の柩形の切石)は1.7×1.4×0.6mで、柱穴・舎利孔などの加工はなく、上部がわずかに高くなっていたとされる。
 なお心柱や根巻板は腐食していたが、心柱径は82〜70cmと推定されたという。
○「仏教考古学講座 第2巻 寺院」石田茂作館宗監修 雄山閣 1984年より:
 中宮寺心礎と根巻粘土
○「飛鳥時代寺院址の研究」より:
東西65尺南北120尺の土壇を残す。明治41年に礎石が掘り出され、小泉村中沢氏に売却されたという(礎石は現存)。
 大和中宮寺現況     大和中宮寺土壇実測図
2010/01/11追加:
○リーフレット「中宮寺拝観のしおり」 より
平安期には衰退し、宝物は法隆寺に移され、草堂一宇のみ残す。鎌倉期には天寿国曼荼羅を法隆寺宝物殿に発見し中宮寺に取り戻すなどいくらか復興する。室町期のことは不明ながら、寺址から室町期の瓦が出土し、この頃まで堂宇があったものと推定される。戦国期には終に焼失し、法隆寺東院子院に避難し法灯を僅かに繋ぐ。現中宮寺は近世に再興されたものである。
○「史跡 中宮寺跡-金堂基壇の調査-」斑鳩町教育委員会、2009 より
 中宮寺跡金堂基壇全景:東から撮影
 中宮寺跡金堂礎石:基壇上に唯一残る礎石(北から2列目、東から一列目)
2012/06/24追加:
○京都北村美術館四君子苑 より
 →京都北村美術館四君子苑に中宮寺より移したと伝わる金堂礎石が残る。
 2023/01/13追加:
 京都北村美術館・四君子苑庭園に斑鳩中宮寺跡礎石が蒐集されている。
 ○「四君子苑の庭と石」 より
   解説文:斑鳩の元中宮寺の金堂跡から明治10年に発掘された3基の一つである。花崗岩製。柱座の径は3尺5寸(1m6cm)。
   四君子苑・大和斑鳩中宮寺後礎石
2020/09/17追加:
○サイト:古寺巡訪問>中宮寺跡 より
草創・開基
 開基は聖徳太子、母穴穂部間人皇后(あなほべのはしひと)のためにその宮を改めて寺とした伝えられ、聖徳太子建立七ケ寺に数えられる。なお異説として、開基は穴穂部間人皇后自身であるとの伝承もある。
創建中宮寺の概要
 その創建中宮寺発掘調査は、昭和38年から同59年にかけて断続的に実施され、創建時中宮寺は以下のようであったことが次第に明らかになってきた。
創建時期は、出土瓦、建築様式などから、法隆寺若草伽藍とほぼ同時期に建立されたと推定される。
境内地は、東西約128m、南北約165mの規模であった。
伽藍配置は、四天王寺式で、若草伽藍と同じ伽藍配置であった。しかし当寺院は塔と金堂とは大変接近して建てられていた特徴がある。
しかし、講堂や回廊は発掘調査でも発見されず、 造立されなかったと推定され、創建中宮寺は、「未完の大寺」との説もある。
 土壇を中心に方形の地割を持つ旧寺地には、旧殿、赤門前、西ノ門等の字名が残り、周囲には江戸期まで崩壊途上の築地が遺存したようである。その後も、本格的な調査がなされぬまま耕作や礎石の搬出などの改変を受け、寺跡の荒廃が進んだが、昭和38年に石田茂作による残存土壇の発掘調査が行われ、金堂と塔の構造の一部が初めて明らかにる。昭和47年から62年にかけては5次にわたる確認調査が実施され、伽藍の概要と寺域などが解明される。
 金堂跡の調査は部分的な確認調査であったが、2度の改作の跡が認めらる。創建時は凝灰岩切石による壇上積基壇と推定され、これを平安初期に縮小して瓦積基壇とし、さらに鎌倉期に花崗岩割石による乱石積基壇に修造するといった変遷を辿る。鎌倉期の基壇規模は、東西17・3m、南北14・1mで、創建時の基壇もこれとほぼ同規模と推定される。基壇上の礎石は創建当初の位置を保っており、現存礎石1箇と礎石抜取穴から、桁行5間、粱行4間(各柱間2・6m等間)の建物が復原できる。
 塔基壇は上面の削平が著しく、側柱礎石を抜き取った溝の一部と、花崗岩製の地下心礎を検出したにとどまる。
基壇規模は、一辺約13mで、塔の平面形式は不明であるが、一辺6・8m前後と推定される、地下2・5mに遺存する心礎の上面には、心柱の根元を固定した根巻粘土が遺存し、その内側から金環、金糸片、金延板小塊、琥珀棗玉、ガラス捩玉、丸玉、水晶角柱などの埋納物が発見される。これらは、心礎に舎利孔などの細工がみられないことから、心柱の根元に穿った小孔内に納められていたものと考えられる。塔と金堂の基壇は5・2mと近接して南北に並び、往時には軒を接するような状況であったと思われる。現在のところ、講堂や中門、回廊などの存在は明確になっていない。
 寺跡の区画施設としては、北面と西面の築地を確認している。築地は基底幅は2・1mで、築地外側には幅2・5m、深さ0・7mの外濠がめぐる。また内側にも同規模の内濠が存在するが、これは鎌倉時代に開削されたものである。寺域は西面築地と伽藍中軸線の距離から東西128m、南北165mと推定でき、東西幅は高麗尺1町に相当する。
2020/09/19追加:
○「史跡中宮寺跡発掘調査報告 斑鳩町文化財調査報告書第11集」斑鳩町教委、2013 より
 中宮寺金堂・塔推定復元図     中宮寺塔跡発掘平面図     塔心柱根巻粘土・心礎上面出土遺物
 心礎実測図など
○荒木浩司「奈良県内市町村埋蔵文化財技術担当者連絡教協議会年俸・平成22年度」2011 より
 史跡中宮寺跡(第13次)発掘調査
○斑鳩町ルーフレット より
 中宮寺跡心礎上面出土品
2022/02/07追加:
○「図説 元興寺の歴史と文化財」元興寺文化財研究所、吉川弘文館、2020 より
旧絵伝本「聖徳太子絵伝」第三叟(国宝) より
 本絵伝(延久元年/1069)は最古の聖徳太子絵伝という。明治初頭に法隆寺より皇室に献納され、現在は東京国立博物館蔵である。
各種聖徳太子絵伝と同じように、本絵伝でも「法興寺落慶」の場面が描かれている。
 法興寺(飛鳥寺・本元興寺)は日本で初めて建立された本格的な伽藍を持つ仏教寺院とされ、丁末の役(587)の後、蘇我馬子の本願で建立された寺院である。
但し、法興寺が平城京移転に伴い元興寺と改称した後、奈良後期には中宮寺が法興寺を称しており、聖徳太子伝の「法興寺」も中宮寺と混同されている。従って、本絵伝の「法興寺伽藍」も、製作当時の中宮寺伽藍が描かれている。
 「聖徳太子絵伝」第三叟      「聖徳太子絵伝」第三叟・部分
法興寺部分は四天王寺式伽藍配置として描かれ、創建当時の中宮寺伽藍に符合する。

○2001/02/22撮影:
 大和中宮寺跡:土壇の南東附近
○2008/08/31撮影:
現在、塔及び金堂跡土壇の発掘調査準備に着手、塔・金堂土壇上の樹木が伐採されている。
 大和中宮寺跡土壇1:北東から撮影:右が金堂土壇・左が塔土壇
 大和中宮寺跡土壇2:東から撮影:右が金堂土壇・左が塔土壇で両土壇は繫がる。
 中宮寺金堂跡露出礎石1    中宮寺金堂跡露出礎石2
 大和中宮寺跡発掘図:塔と金堂は南北に一直線に並び、かつ堂塔の間は極端に狭いことが見て取れる。
なお心礎発掘時、心礎上面から金環・金糸・金延板小片・玉類の埋納物が発見されると云う。
(中宮寺の場合、舎利の埋納は心礎ではなくて、心柱の途中に横孔を穿ち、ここに舎利容器を納めたものと思われる。いつの頃か心柱の喪失で、心礎付近に落下したものであろう。)
○2010/02/22追加:2010/02/21撮影
○史跡中宮寺跡(第13次)発掘調査現地説明会
・心礎は基壇上面から約2.5mにある(再検出)。
心礎は花崗岩製、大きさは1.75×1.35m、高さ0.8m。ほぼ長方形に加工し、表面は精美に削平される。なお調査後、心礎は埋め戻しの予定であるので、今後小生が生きている間に現物を見ることは無いであろう。
 大和中宮寺跡心礎1     大和中宮寺跡心礎2
・心礎孔(心礎を据え付けるための孔)は一辺3,5m、深さ2mであり、東側には心礎を引き込むための斜路を確認。
 中宮寺心礎孔及び心礎1     中宮寺心礎孔及び心礎2     中宮寺心礎孔及び心礎3:何れも写真上(東)が斜路
 中宮寺心礎孔及び斜路1     中宮寺心礎孔及び斜路2
・心柱を心礎上に建てるための「やぐら」と思われる柱穴2個を件検出。心礎の北側と南側の2箇所で、何れも心礎から約5mのところにある。
・心礎以外の礎石は勿論、削平のため礎石の据付痕も発見することは出来ず。
また、基壇の外装は全く残らず、基壇化粧は不明のままである。そのため基壇の正確な規模も不明である。
 中宮寺跡塔跡基壇1     中宮寺跡塔跡基壇2:何れも南側基壇、左に南北の断ち割り溝があり、心礎の一部が写る。
・金堂北に設けた調査区でも講堂の痕跡は今回に検出できに結果に終る。
 中宮寺跡出土飛鳥期瓦1   中宮寺跡出土飛鳥期瓦2    中宮寺跡出土白鳳期瓦;左は奈良期瓦   中宮寺跡出土奈良期瓦
2020/09/25追加:
○朝日新聞2020/09/25朝刊記事「ぶらっと関西 歴史散歩/亡母への聖徳太子の想いは」 より
中宮寺跡で心柱を建てるための櫓の柱穴が発見される。櫓の柱穴は心礎から少し西側の塔基壇内にいずれも約5mの等距離で南北2個あった。心礎穴(深さ約2.5m)の東側には斜路(長さ約3.5m、幅約3m)を確認。やぐらに設けた滑車や綱などを使って斜路に横たえた長さ20〜24メートルの心柱を西側から引っ張り、立ち上げたと考えられる。
櫓は、3本柱か4本柱だったと推定される。基壇の下部築成後に柱は抜き取られ、心柱が自立するまでの支えの役目もあったらしい。
 心柱の建て方の想像図
なお、中宮寺の公園には「斑鳩三塔」(法隆寺・法起寺・法輪寺)全てを見渡せる場所(斑鳩町内でも珍しい)があり、そこは休憩所となっている。

◆史跡整備後の中宮寺跡
2018/11/18「X」氏撮影画像
 史跡中宮寺跡塔復元基壇     史跡中宮寺跡復元基壇:向かって左が金堂復元基壇、右は塔復元基壇
2020/07/28撮影:
 中宮寺復元心礎1     中宮寺復元心礎2     中宮寺復元心礎3     中宮寺復元心礎4
 中宮寺心礎発掘写真:現地案内板     中宮寺心礎上面出土品2:現地案内板
 中宮寺跡復元土壇     復元塔跡・金堂跡1     復元塔跡・金堂跡2
 中宮寺復元塔跡1     中宮寺復元塔跡2     中宮寺復元塔跡3     中宮寺復元金堂跡1     中宮寺復元金堂跡2

大和竹林寺:生駒

2014/10/20追加;
○「史蹟調査報告. 第3輯 奈良縣に於ける指定史蹟 第一册」文部省、昭和10年 より
 竹林寺は明治初年に廃寺となり、今なお寺跡として行基墓、大結界石、建物(文殊堂・本堂)土壇、石階、多くの墓石もある。行基墓の一画は国有地であり、付近一帯の土地管理者である唐招提寺は墓地の復興を企画するも、未だ復興には至らず。
竹林寺略歴では「文暦2年(1235)菩薩御廟御瓶出現・・・・嘉元3年(1305)・・唯建塔廟 安置舎利荘厳・・宇堂房等構・・中門聳上・・・・大塔中心安文殊像・・・・」 とある。即ち、行基菩薩の廟所から舎利瓶が出現し、70有余年の後の嘉元3年に出現場所に土壇を築き直し、塔廟を建て、塔内に行基菩薩の御骨を埋め、塔中心に文殊菩薩を安置したという。
その後、この塔廟は戦国期の兵火<明応7年(1498)>で焼失し、慶安2年頃から再建に着手したことは「文殊堂再建勧進帳」で知られる。
ところが、再建された竹林寺は、明治維新の時、無住となり、明治6年廃寺となる。文殊堂は廃寺の後暫くは残っていたというも、文殊堂にあった舎利瓶 (現存する)は唐招提寺に遷される。
 竹林寺境内図:年紀は不明であるが、堂塔の構えは嘉元3年の再興時の竹林寺の姿を描くものであろう。
三門・中門を経て、正面に文殊堂(行基塔廟)左右に護摩堂、大日堂が並ぶ。
行基塔廟である文殊堂は絵図では三重塔であったように描かれる。この塔は上記の記録などによれば、嘉元3年の建立で戦国期の兵乱で焼失したものと推定される。
○概要
行基開基49院の生馬仙房の後身が竹林寺であろうと推定されている。
なお「史蹟調査報告. 第3輯 奈良縣に於ける指定史蹟 第一册」では廃址として記述されるも、平成9年本堂(文殊堂)庫裡などが再興され、境内整備も行われ、律宗寺院として復興する。
なお、次の什宝が伝えられる。
▽竹林寺忍性墓出土品(重文):忍性の遺骨は、遺言により、鎌倉極楽寺額田部額安寺、生駒竹林寺の3箇所に分骨される。昭和61年(1986)の発掘調査で銅骨蔵器、石櫃等が出土する(唐招提寺保管)。
▽木造行基菩薩坐像(重文):古には竹林寺安置像であるが、明治の廃仏毀釈の時廃寺となり唐招提寺に遷座する。

大和金勝寺三重塔

「佛教考古学論攷」石田茂作:金勝寺三重塔 奈良生駒郡平群村新義真言、足利、天正年亡
かっては三重塔があったとされるも、現在では痕跡は無いと思われる。
椣原山金勝寺は天平18年(746)聖武天皇勅許、行基により創建される。
縁起では、行基が春日明神の夢告で此の地に来て、椣(しで)の霊木で、本尊「薬師如来坐像」を彫り安置したという。
盛期には十間四面の金堂・大講堂・阿弥陀堂・護摩堂・三重塔・36坊を持つという。
天正年間前半、松永久秀の兵火によって焼亡。その後本堂・護摩堂等・6坊が再興される。
明治16年本坊、宝蔵庫等を焼失、明治35年本堂を再建、昭和44年阿弥陀堂を新築、塔中二ケ坊を復興する。
現在は、本堂、阿弥陀堂、大日堂、鎮守三社、宝室神社、総門、南門、東門などを有す。また本堂左山手に14体の磨崖仏(室町中期)が残る。竜田川の対岸、山の上が塔中坊跡(墓地)で、十三重石塔(鎌倉期)、六地蔵等も残す。

大和平隆寺

 平群寺跡。 「亡失心礎」の「大和平隆寺」の項

大和龍田新宮

 大和龍田本宮塔中の「龍田新宮」の項を参照。

大和龍田本宮

少なくとも明治5年まで多宝塔が存在したと思われる。明治5年龍田本宮塔(壬申検査ステレオ写真)が残る。
但し、明治5年以降の龍田本宮塔の行方もしくは運命は諸資料に全く見当たらず、現状では茫として知ることは叶わず。
 大和龍田本宮塔

大和西安寺跡(久度寺)

 「亡失心礎」の「西安寺跡」の項

大和放光寺跡(片岡王寺・片岡僧寺)

 放光寺跡

大和長林寺(穴闇寺)

聖徳太子建立といい、松永弾正の兵火で焼失したと伝える。
観音堂一宇のみを残す状態であったが、正徳4年(1714)再興され、現在は黄檗宗である。
飛鳥期の心礎を残す。元の心礎位置および金堂跡の配置から法起寺式伽藍と考えられる。鎮守素盞鳴神社の境内に金堂土壇・礎石(自然石・16個)を残す。飛鳥・白鳳期の瓦を出土すると云う。
心礎は現在、粗末な本堂の向拝前にあるが、おそらく元位置からおよそ北へ10数m動かされたものと云われる。
また向拝の柱礎石(柱座造出し付き)として塔礎石が1ヶ転用される。(写真:塔礎石)
日本の木造塔跡:心礎は径約1.3m、径46cm、深さ7〜4cmの円孔を穿つ。
 大和長林時寺礎1     大和長林寺心礎2     大和長林寺心礎3
 大和長林寺塔礎石     大和長林寺金堂土壇     大和長林寺金堂礎石
 大和長林寺塔 想定地:塔想定地は金堂土壇から東を撮影したもので、住宅の玄関付近に心礎はあったと云う。
○「飛鳥時代寺院址の研究」から転載:
 長林寺跡実測図     長林寺伽藍実測図
○2010/07/10撮影:
「私註抄」・「松譽抄」では聖徳太子建立46箇寺の一つと云う。但し発掘調査の結果では、本格的な伽藍が整備されたのは聖徳太子没後の7世紀後半頃との報告がある。また「長倉寺」とヘラ書された瓦が多く出土し、この廃寺は長倉寺と云う名称と推測される。「穴闇」(なぐら)は長倉であろう。
「竜田大名神御事」応永32年では
広瀬大物忌。大明神。長琳寺鎮守也此寺ハ推古天皇ノ御願也 とある。広瀬明神は鎮守と云う。
 大和長林寺心礎11       同       12       同       13       同       14       同       15
 大和長林寺金堂土壇2     大和長林寺金堂礎石2     大和長林寺講堂跡
 大和長林寺想定復元図     大和長林寺現況

大和広瀬明神

「和州広瀬郡広瀬大明神之図」の存在が知られる。
 和州広瀬郡広瀬大明神之図:広瀬明神蔵、「神と仏のいる風景」 より
この絵の掲載が小さく文字が全く読めないが、上記図書及びWeb情報を総合すると、当図は以下の様相を呈する。
中世には広瀬明神を取囲み多くの寺院があり、これ等を総称して河相宮と称する。
「河相宮縁起」大永2年(1522)では宮数21、伽藍7堂、坊数6坊、長明寺・定林寺・安隆寺の3ヶ寺からなるとする。
当図には、神宮寺、定林寺、安隆寺などが描かれ、定林寺の伽藍は築地で囲まれ、金堂(本尊弥勒)・講堂(本尊釈迦)・三重塔・太子堂・経堂・食堂・鐘楼・天神社 ・弁財天社・門などがあり、聖徳太子が推古天皇の病気平癒を祈願し建立すると注記がある。
広瀬明神南やや西に描かれる三重塔のある区画が定林寺、その北側の小さい区画が神宮寺と推測される。(画像が小さく文字判読不能)
定林寺は唯一現存するが、近世に移転したのか、現在は明神の東に位置する。
しかしその現状は、門と護摩堂一宇と古仏が残るだけで、すこぶる荒廃する。
 大和広瀬明神本殿     大和広瀬定林寺
なお広瀬明神境内は式内社と称する社に共通の胡散臭さがあり、何も見るべきものはない。

大和富貴寺塔堂

 旧富貴寺羅漢堂

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大和飛鳥の塔跡はこちらを参照:大和飛鳥の塔跡は別ページに掲載。

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大和小島寺

「奈良県史 第6巻」:
子嶋山観覚寺縁起による伽藍:観覚寺 本堂 三重塔 食堂 薬師堂 地蔵堂 賓頭盧堂 東堂 西堂 鐘楼 南大門 中門 西大門 ・・・
院下 脇坊、池坊、西坊、北室、辰之坊、南之坊、東南院、西之坊、中室、端堂、西法院、藤之坊、福地院、新賢坊、湯屋坊、松室、観音院、新蔵坊、東室、北房、新坊・・・とされる。

大和南法華寺 (壷坂寺)

 大和南法華寺

大和多武峯妙楽寺

「塔における両界曼荼羅空間の展開」より:
「多武峯略記」建久8年(1197):「三重塔瓦葺、件塔者、松野関白太政大臣基房公之御願也、但於造営者、検校慶深之沙汰也、仁安2年11月10日立柱、・・・・承安元年(1171)5月9日上金物、同11月晦日供養、・・・・同3年喪失了、」「安置大日如来像一体・皆金色長6尺」
なお、妙楽寺十三重塔---亨禄5年(1532)再興塔、木造---が現存する。

大和香塔寺石製露盤 (推定尼寺廃寺石製露盤)

 大和尼寺廃寺

大和尼寺北廃寺

 大和尼寺廃寺

大和尼寺南廃寺

 大和尼寺廃寺

大和加守廃寺

◎加守廃寺概要
○「加守廃寺の発掘調査」近江俊秀(「佛教藝術 vol.235」、1997所収)
 この廃寺は「薬師寺縁起」でいう大津皇子鎮魂のため建立されたとされる加守寺(掃守寺、竜峯寺とも云う)であろうと云う。
加守廃寺は二上山の尾根を挟んで 南遺跡(加守神社の周辺)と北遺跡(塔土壇)とがある。
北遺跡では塔及びそれを囲む廻廊が検出される。塔基壇は凝灰岩製の壇上積基壇で、犬走を伴う。但し基壇の大半は既に削平されていた。
回廊は塔の西側と南側で礎石(自然石)及び礎石抜取り穴が確認され、塔を取囲むものであったとされる。なお残存する土壇を断ち割ると、流紋岩製の円形造り出しを持つ2個の礎石が出土した。
 加守廃寺塔跡発掘図
 塔基壇地覆石・犬走り(南から)    加守廃寺出土礎石
南遺跡では発掘により長六角堂跡が検出され、これは大津皇子の供養堂説と推定する説もある。
○「奈良県史 第6巻」:
 葛木倭文坐天羽雷命神社西北。池の畔の四天王堂付近で瓦を出土し、礎石が残る。(南遺跡)
塔心礎は教善寺(本願寺派)に、金堂礎石は當麻寺護念院に移されている。
○2008/05/29追加:「大和上代寺院志」保井芳太郎 より:
 當麻寺中之坊に古図があり、ここには加守附近に三層の塔婆を描き掃守龍峯寺と記すと云う。
遺跡所在地の旧名をトンタニと称するのは「塔谷」の転訛で、龍峯寺の塔跡ではないだろうか。
「薬師寺縁記」では大津皇子の事蹟が述べられる。即ち
大津皇子世を厭い、不多神山に籠る、・・・(大津皇子は悪龍・悪霊と化し、謀殺される)・・・悪龍永諾、仍皇子の為に墓を建て、名付けて龍峯寺と云う、寺は葛下郡に在る、掃守寺是也・・・・とある。
この寺跡はこの龍峯寺(掃守寺)であろうか。いずれにせよ加守神社附近、トンタニ附近一帯が龍峯寺(掃守寺)であろう。
 礎石について、當麻寺護念院に手水鉢として利用されている礎石がある、その側面には「天明九酉年三月廿二日/達司代之モラウ/加守金堂柱礎石」と彫りつけている。一見心礎と見えるも、孔が小さくやはり金堂の礎石に多少手をいれたものであろう。
加守教善寺にある礎石は出所不明であるが、加守寺から移した可能性もある礎石で、塔の心礎であろう。
 大和加守廃寺跡図:字「トンダニ」に半壊した塔土壇が残る。
  この図は「奈良県史蹟勝地調査報告書第ニ」(天沼俊一)にある。同書では「水田中に凡そ23尺高さ凡そ4尺の土塊あり礎石1個半ば地中に埋もれて存す」「奈良時代前期の瓦を出土する」とある。
2021/01/29追加:
○「葛城古寺探訪ー二上・葛城・金剛山麓の古代寺院ー」葛城市歴史博物館、2016 より
 本廃寺の発掘調査は合計5回行われ、尾根を距てて北と南に200m離れて伽藍が展開する寺院であることが判明する。
北側では塔とそれを巡る回廊、南側では長六角堂という特異な建物跡が発見される。そして発見瓦などから7世紀末〜8世紀初頭に創建されたことも判明する。
 塔跡が発見された付近は通称「トンタニ」と呼ばれていた地点で、ここには土壇が残されていた。(加守廃寺北遺跡)
発掘調査により、凝灰岩製の基壇化粧が施された塔基壇が発見され、その規模は一辺16.8m、高さ1.08mと推定され、これは大和薬師寺の塔とほぼ同一規模である。塔基壇下には礫を敷き詰めた犬走が廻り、塔の周囲には回廊が巡る。その規模は幅2.7m、一辺28mに復元される。塔跡での出土瓦は大半が大和興福寺に見られるもので、従って8世紀中葉に塔は創建されたと思われる。また9世紀前半の瓦も多くあり、少なくもその頃まで塔は存続していたものと思われる。
 加守廃寺塔跡平面図     塔跡発掘調査状況
 長六角堂(加守廃寺南遺跡)は現在四天王堂と呼ばれる小宇の西側にあり東西に長い六角形の基壇を持つ遺構である。
基壇は凝灰岩の切石で化粧したもので、高さは92cmほどであったと推定される。
長辺を為す東西に石階が設けられ、東面は約3間、西面は約1間の巾であるので、東面が正面であったと推定される。そして基壇回りには巾約1.1mの礫を敷いた犬走が廻る。
基壇上には平面長六角の建物があったと考えられる。類例を見ない構造の建物であるが、當麻寺本堂の本尊である當麻曼荼羅を納めた厨子の形状を想起させるものである。この長六角堂も織佛を掲げる建物でなかったかの指摘がある。
 加守廃寺長六角堂平面図     加守廃寺長六角堂遺構
加守廃寺の造営氏族
 以前より本廃寺は「正倉院文書」にある「掃守寺(かもりじ)」ではないかとの指摘がある。
「正倉院文書」の「掃守寺造御塔所解」では天平勝寶2年(750)に塔の建立が成されるという。塔跡から出土した瓦の年代と突合するので、加守廃寺は「掃守寺」であることが確実視されることとなる。
〇2008/08/31撮影:
北遺跡・加守廃寺塔土壇現況:
 加守廃寺塔土壇1     加守廃寺塔土壇2     加守廃寺塔土壇3     加守廃寺塔土壇4
2020/05/07撮影:
加守廃寺南遺跡には四天王堂が残る。
 加守廃寺四天王堂入口:中央の屋根が四天王堂である。
 加守廃寺四天王堂     加守廃寺四天王堂扁額     加守廃寺四天王堂内部
加守廃寺北遺跡には塔土壇が残る。
 加守廃寺塔土壇11     加守廃寺塔土壇12:いずれも中央が塔土壇である。
 加守廃寺塔土壇13     加守廃寺塔土壇14     加守廃寺塔土壇礎石?
2020/07/15追加:
 加守廃寺礎石・心礎について、上記の資料を総合すると、以下のようである。
近くの真宗教善寺前庭に心礎と思われる礎石が置かれている。これは出所不明であるが、加守廃寺から移したことも考えられ、そうであれば、加守廃寺心礎と推定されう。
一方、
當麻寺護念院に「加守金堂柱礎石」と彫りつけた手水がある。天明9年(1789)の年紀である。心礎の可能性もあるが、金堂礎石に手をいれたものと思われる。
◆推定加守廃寺心礎
付近の教善寺本堂前に心礎と思われる石がある。庭石として転用され、いずれの廃寺のものなのかは不明なれども、加守廃寺心礎の可能性が高いとされる。
○「幻の塔を求めて西東」:心礎の大きさは110×95×47cmで、径37×5cmの孔を穿つ。白鳳期。
2004/01/11撮影:
 在教善寺・加守廃寺心礎1     在教善寺・加守廃寺心礎2     在教善寺・加守廃寺心礎3
2020/05/07撮影:
住職の談によると、本堂は造替したとのこと、心礎はその時に位置を少し動かしているとのこと。
現状、心礎には灌木が覆い被さり、また植木鉢などが置かれ、心礎の観察には適さなくなっている。
 在教善寺・加守廃寺心礎11     在教善寺・加守廃寺心礎12     在教善寺・加守廃寺心礎13
 在教善寺・加守廃寺心礎14     教善寺本堂
◆推定加守廃寺金堂礎石
2020/05/07撮影:
當麻寺護念院手水石
 手水石は當麻寺護念院客殿に置かれている。通常は非公開というも、お願をすれば、拝見は可能であった。
手水石は加守廃寺金堂礎石と伝わる礎石である。しかし中央の二段式円孔から心礎の可能性はあるとも思われる。
残存する手水石の大きさは実測すれば、概略で110cm×80cm×高さ90cmを測る。堂塔の礎石としては小さいが、周囲はかなり割られていると思われ、実際は一回り大きいものであったと思われる。そのことを考慮すれば、金堂礎石あるいは塔心礎としても遜色はない。
 上面には手水の孔がある。
その孔は径26cm×深さ3cmの円孔と径20cm×深さ7cm以上の二段式の円孔である。
 ※二段目の円孔の深さは7cm以上を測る。正確に分からないのは、孔の底には、乾燥しきって堅く固まったいわば「固形のヘドロ」がへばり着き、それを取り出すことができず、正確な深さをはかることができないからである。
 この手水石は客殿の縁に接して置かれ、廂にほぼ覆われた状態であるが、長い年月円孔を清掃しなければ、落ち葉や塵が円孔に溜まり、時には雨の吹き込みもあり、そしてその後は晴天で乾燥していくといった繰り返しで「ヘドロ」は「固形」化したのであろうと推測する。
 二段式円孔の周囲には幅5.5cmから7cm程の円形の柱座と思われる造り出しがある。つまり柱座の径は最大40cm程と思われる。
そして、その高さは、はっきりしないが、およそ1cm内外である。
 以上、護念院手水石は金堂礎石なのか心礎の可能性があるのかははっきりは分からない。
一見した印象は心礎である。
それは二段式の円孔を持つことで、これは心礎の特徴であろう。通常、礎石を手水石に転用し、孔を彫る場合二段式円孔のような加工はしないであろう。二段の円孔はきれいな円筒で、これはこの円孔には何も加工せず、手水に転用したものと考えるのが自然であろう。
 ただ、観察した範囲では、柱座と思われる径は最大40cm程で、これでは金堂礎石であるにせよ心礎であるにせよ、柱座としては小さすぎるのが疑問である。それ故、この手水石が心礎と断定できない理由である。
 在護念院伝金堂礎石1     在護念院伝金堂礎石2     在護念院伝金堂礎石3     在護念院伝金堂礎石4
 在護念院伝金堂礎石5     在護念院伝金堂礎石6     在護念院伝金堂礎石7
 以下は「天明九酉年三月廿二日/達司代之モラウ/加守金堂柱礎石」との刻銘と思われるが、殆ど判読できない。
 手水石にはこれ以外に刻銘らしきものはないので、これが「刻銘」と思われるが、判読できない。
 伝金堂礎石刻銘?1     伝金堂礎石刻銘?2

大和石光寺心礎

南門(内)脇に極めて精巧に加工された心礎が置かれる。
〇「日本の木造塔跡」:
大きさは1.76m×1.42mで、三段式孔をもつ。
外周孔は径79cm深さ14cm、中周孔は径40cm深さ5cm、更に径32cm深さ6.2cmの舎利孔を持つ。舎利孔底部に椀形の小円孔がある。
2007/01/06追加:
〇「日本建築史要」(付図) より
 大和石光寺心礎図
2007/02/07追加:
〇「大和の古塔」:「元亨釈書」 より
俗に染井近くを以って染寺と号す。
 大和石光寺心礎実測図
2008/05/29追加:
〇「大和上代寺院志」保井芳太郎 より
「元亨釈書」第28當麻寺の條:染井側精舎有り、・・・天智帝勅して三石を刻し、弥勒三尊像を作る、其上殿庇を架す、俗に染井近くを以て染寺と号す。・・・
「當麻曼荼羅縁起」(鎌倉・石光寺蔵):・・・當麻寺北過56町、野中に古寺有り、昔天智天皇御宇・・・この霊地に井を掘る。
おそらく古代に野中に霊水とも云うべき井があり、これが信仰を集め、この寺が建立されたのであろう。
その後の沿革は不明、寛永期には本堂、阿弥陀堂、染井堂、庫裏等があったと云う。
本堂の南に塔跡と伝える高さ2尺ほどの土壇があり、心礎は本堂の手水鉢に使用されていたが、今は塔跡に運んである。
 石光寺縁起図:詳細不明、二重塔が描かれている、僧侶は役小角。
 大和石光寺心礎     石光寺心礎実測図
 石光寺附近古絵図:詳細不詳、當麻高津氏蔵(不掲載)
◎2010/03/25追加;
葛城市教委の発表(各社新聞報道)
石光寺旧境内で、白鳳期の塔の可能性が高い基壇跡が出土する。
現在の境内のすぐ南約20平方m(金堂跡約20m南)を調査した結果、東西約4m、南北約2mにわたり土を固めた基壇の一部が出土。西側では雨落溝も確認。基壇化粧と見られる凝灰岩片が見つかったほか、白鳳期の瓦も多く出土する。
この遺構は塔基壇の一部で、西端部分と推定されると発表。基壇は一辺約8m、建物は一辺約5mと推定される。
おそらく伽藍は東向で、法隆寺式(右手に金堂、左手に塔)であった可能性があるとする。
 染井寺推定塔基壇
2011/05/29追加:
〇「佛教考古學論攷」 より
 大和石光寺心礎31
2021/01/29追加:
○「葛城古寺探訪ー二上・葛城・金剛山麓の古代寺院ー」葛城市歴史博物館、2016 より
 本寺は「當麻曼荼羅縁起」(13世紀)や「元亨釈書」(1322年)では天智天皇発願の寺院と伝える。
なお寺号いついては「當麻寺流記」(1231年書写)では「染野寺」とする。
 心礎が現存するが、心礎のあった場所は字「トウヤシキ」といい、この場所については「大和寺院志」では「今の本堂の南に塔跡と伝ふる高2尺ばかりの土壇あり」と記する。
なお、2008〜2009年字「トウヤシキ」で発掘調査をし、一辺約9mに復元される凝灰岩で基壇化粧を施す基壇を検出し、塔跡とされる。
これにより、本寺は東面する法隆寺式伽藍配置をとる寺院と判明する。
 大和石光寺伽藍配置図     大和石光寺塔跡:西から撮影
○大和石光寺現況
2002/10/14撮影:
 大和石光寺心礎1     大和石光寺心礎2     大和石光寺心礎3     大和石光寺心礎4
 大和石光寺心礎5     大和石光寺心礎6
  ※写真撮影時、舎利孔の部分は茶褐色の水が溜まり、観察は不能。
2020/05/07撮影:
心礎は南門の脇にあったと記憶するが、現在は西の方に少し移動している。
 大和石光寺塔跡標石:石光寺染寺塔跡地 とある。但し、塔跡は境域の外にある。
 大和石光寺心礎11     大和石光寺心礎12     大和石光寺心礎13     大和石光寺心礎14
 大和石光寺心礎15     大和石光寺心礎16     大和石光寺心礎17     大和石光寺心礎18
 大和石光寺心礎19     大和石光寺心礎20     大和石光寺心礎21     大和石光寺心礎22
平成3年(1991)弥勒堂改築に伴う発掘調査の結果、白鳳期の石造弥勒仏坐像、瓦、塼仏が出土する。
さらに、平面五間×四間の堂跡が検出され、この石仏はこの堂に安置されていたものと推定される。
 石造弥勒仏坐像仏頭     石造弥勒仏坐像胴     石造弥勒仏坐像手など     石造弥勒仏坐像台座

大和只塚廃寺

2020/07/15追加:
 大和當麻寺から東北東におよそ5町程のところに只塚廃寺がある。
只塚廃寺は昭和60年の調査で瓦の出土を見、さらに平成7年の調査で礎石などが発掘され、塚は古墳ではなく堂の基壇と断定される。
 平成12年の西塔附近の防災工事に伴う発掘と平成30年に至る西塔修理工事に伴う西塔基壇周辺の発掘で、當麻寺創建期の複弁蓮華文軒丸瓦が出土する。これらの瓦の一部は、當麻寺の前身寺院との指摘がある只塚廃寺からも出土している。さらに、只塚廃寺基壇の建物規模は當麻寺金堂とほぼ同一との指摘もある。
 かつては古墳とされ、首子七塚と称する首子古墳群のなかで「只塚」(首子7号墳)と呼ばれていた。
昭和60年調査され、川原式軒瓦、復弁八葉蓮華文などの瓦や垂木先瓦などが出土し、白鳳期の仏堂基壇とされる。
平成7年の調査で、盛土は近世以降と推定され、盛土を除去すると礎石が出土する。基壇の一辺は約10mと復元される。
確認されたのは、建物中央部の身舎(もや)と推定され、それを基に堂宇の規模は、4間×5間の建物と判断される。この規模は當麻寺金堂とほぼ同規模となるという。
なお、十二尊連坐塼仏と石製菩薩立像頭部が出土する。
2021/01/29追加:
○「葛城古寺探訪ー二上・葛城・金剛山麓の古代寺院ー」葛城市歴史博物館、2016 より
 本廃寺からは、葛城地方で最も古い瓦が出土する。
それは素弁蓮華紋軒丸瓦で、日本最古の本格寺院である飛鳥寺の瓦より新しく、同じく蘇我氏によって建立された尼寺・豊浦寺あるいはその後に建立された法隆寺若草伽藍の瓦と同笵であるという。(但し、只塚廃寺からの出土は1枚のみである。)
 このことが意味することは、本廃寺は小規模な瓦葺き仏堂から出発し、出土した瓦はその小堂に葺かれていた可能性があるということであろう。これは、佛教伝来直後の仏堂の様相を想起させる。
即ち当時、中央では飛鳥寺・豊浦寺・法隆寺若草伽藍といったいわば豪壮な寺院建築ともなう伽藍が造営されるが、地方における佛教の受容がどのような形であったのかを、示すものと考えられる。つまり地方に出現した寺院では豪壮な建物を伴うものではなく、従来の掘立式建物に少量の瓦を葺いた小規模仏堂であったという姿なのである。
 ※下に掲載に巨勢廃寺の様相も、おそらく同じ様相を示すものと考えられる。
 ところが、小規模仏堂であったと考えられる本廃寺に、7世紀後半、巨勢廃寺と同じように、基壇を有し、礎石建ての建物が出現する。
ここでは古くから古墳と考えられた高まりが知られていたが、1995年の発掘調査で、この高まりは建物基壇の一部と判明する。
この建物は、当初、東西15.1m、南北13mの基壇上に桁行5間(12m)梁間4間(12m)の礎石建物が南向きで建っていたものと推定される。また、この建立時期は基壇内から出土した土器などにより7世紀後半と判定される。
そしてこの建物の性格は金堂である可能性が高いと推定される。
 現在のところ、建物遺構はこの一棟だけであるが、講堂や僧坊と見做される遺構もあり、塔の西には未調査の塔が収まるような空閑地もあり、仮にここに塔が建立されていたとすると、只塚廃寺は法隆寺式伽藍が想定される寺院であるかも知れない。
 さて、この寺院の檀越は當麻氏が想定される。
そして、この只塚廃寺については近隣にある當麻寺の存在を考慮しなければならない。
當麻寺は中世の資料ではあるが、「建久穏巡礼記」(1191年)には、白鳳9年(681)に當麻真人國見が寺を遷したとあり、また「上宮太子拾遺記」(15世紀)では、推古20年(612)に聖徳太子の薦めで麻呂子親王によって「万法蔵院」として建立され、その造営地は現在の當麻寺から南へ5、6町離れた「味曽路」であったという。つまり、當麻寺には前身寺院があったことが推測されるのであるが、その前身寺院とはおそらくは只塚廃寺がそれであると考えられるのである。
 また考古的な成果では、只塚廃寺で使用された同笵瓦が當麻寺でも使用されていることで、両者の関係性が補強される。
 只塚廃寺伽藍配置図     只塚廃寺礎石建物1     只塚廃寺礎石建物2:金堂と想定される。
2020/05/07撮影:
現状は元のように盛土されている。
 只塚廃寺土壇1     只塚廃寺土壇2:背後は二上山     只塚廃寺土壇2

大和本地光寺(大和本慈光寺)(脇田、東遺跡)

○「日本の木造塔跡」
 東塔心礎は脇田神社(天満宮)の境内に在る。
東塔心礎は2.9×2.5mで、上面に2.6/2.4×1.15mの長方形の造出を造り、その中央に径75/73×4/3cmの穴を彫り、更に径58×9/8cmの穴を彫る。(二段式)。また内側の穴の中心をやや外れて、径3.9の孔を穿つ。
なお内側の穴と同一径で深さ4cmの穴が「繰り込み」として、穴が被さって彫られている。これは彫り損ないか再興塔のものであろうと推測されるが、おそらく彫り損ないであろう 。
西塔心礎は脇田神社西の田の中に在る。大きさは1.45×0.9mで、径72/70×2cmの穴と径57×10/8cmの穴を彫る。
 ※現在、西塔心礎は田圃の地中に埋められ、見ることは出来ない。
近隣の人の話を総合すると、4〜5年前?、心礎は田の中に露出していた。天満宮と西の車道の間には3枚の田があったが、天満宮寄りの西塔心礎のあった2枚の田を1枚にした時に土を入れ、心礎は土の下0.5〜1m に埋められてしまったと云う。(なんとも言いようの無い所業のように思われる。)
2004/01/11撮影:
 
本地光寺東塔心礎1     本地光寺東塔心礎2     本地光寺東塔心礎3     本地光寺東塔心礎4
 本地光寺西塔跡:かって心礎が露出していたと思われる 田圃で、この上方の杜が天満宮(東塔跡)である。
1991年「X」氏撮影ご提供画像
 
本地光寺西塔心礎1     本地光寺西塔心礎2     本地光寺西塔心礎3
2008/12/06追加:
○「奈良県文化財調査報告書 第87集」地光寺:第3次・第4次調査、奈良県立橿原考古学研究所編、2002
 本地光寺東塔跡トレンチ          同     東塔心礎
  同 トレンチ平面・土層断面      同 東塔心礎平面・断面図
 本地光寺西塔跡トレンチ          同     西塔心礎
  同 トレンチ平面・土層断面      同 西塔心礎平面・断面図
2007/05/01追加:
○「大和の古代寺院跡をめぐる」 より
 「地光寺地籍概要図」:脇田・東遺跡に東西塔心礎が現存する。一方、脇田の西方笛吹に字地光寺があり、寺院遺構・遺物が検出されまた附近の地名から「地光寺」の存在が想定される。
2008/05/29追加:
○「大和上代寺院志」保井芳太郎 より:
 脇田の東の心礎は長さ約10尺、長5尺6寸6分巾3尺8寸高1寸5分の長方形座を作りその中央に2段に落ち込んだ径約2尺3寸の円形座を造る。その一方に巾5寸深さ8分の袖状のものが付いている。
この心礎の中心より西へ41尺8寸にして水田中の心礎の中心がある。
この西の心礎は6尺×4尺ほどの大きさで、やはり2段に落ち込んだ径2尺1寸の円柱座を彫り込んでいる。なお、この東西の心礎と笛吹の寺院跡との関係は明らかにし得ない。
 本地光寺東塔心礎実測図      本地光寺西塔心礎実測図
2021/01/29追加:
○「葛城古寺探訪ー二上・葛城・金剛山麓の古代寺院ー」葛城市歴史博物館、2016 より
地光寺跡
 本廃寺は古くから、古代寺院跡として知られ、小字に、地光寺、大門、石段、戌亥の角、寺西などの地名が存在する。
脇田神社境内及びその西の水田に心礎が東西に並んで遺存し、更にこの脇田から西方の草笛地区にかけて、共通する瓦が広く散布する。
それ故、両地区にまたがる一つの寺院があるのか、別個に異なる寺院が存在するのかといった疑問が提起されてきた。
1972年発掘調査が実施され、その結果東西両遺跡にそれぞれ寺院が営まれていたことが判明する。
 地光寺の造営は出土瓦から、東遺跡から開始されたと考えられる。
東遺跡では、建物の遺構は発見されていないが、東西2個の心礎の存在から双塔式の寺院であったと考えられる。しかし、2個の塔心礎の距離は23.33mと狭く、伽藍や建物はそれほど大きなものではなかったと思われる。
 地光寺西遺跡では、建物遺構として、伽藍の中軸線に乗ると想定される地点で、凝灰岩の地覆石を基壇化粧とする建物が発見される。この遺構は一辺11.2mの正方形であることから、塔跡と推定される。
また、2016年の発掘調査で寺院を画する遺構が発掘され、寺院遺構は東西約40mであることが判明する。
 ただ東西の遺構は距離にして約100mしか離れておらず、なぜほぼ同時期に2つの寺院が営まれたのかは良く分からない。
 地光寺跡東西遺跡図     地光寺跡東遺跡図     地光寺跡東塔心礎・西塔心礎:上が東塔心礎

     笛吹西遺跡(大和地光寺跡)は下に掲載、

大和地光寺(大和慈光寺)(笛吹、西遺跡)

○「日本の木造塔跡」:
笛吹に字地光寺があり、昭和47年の発掘調査で、一辺11mの基壇の西側が発掘され、塔跡と推定される。
 注:2017/04/04に推定塔跡の写真を掲載(下掲載)
出土瓦より奈良期の建立とされ、脇田本地光寺が廃され、この地に再興されたものと推定されている。※おそらく現状地上には何も見るべきものは無いと思われる。
○「奈良県史 第6巻」:
脇田神社の傍らに塔心礎が2基残存する。大正元年、笛吹地区(西)及び脇田地区(東)から奈良時代の礎石・瓦が出土。
「国分尼葛城山施薬院慈光寺由来」(念珠院所有)では「往古聖武天皇天平6年脇田村西端に施薬院を建立し・・」、明応2年(1492)本堂、施薬病処、中門、大門、三重塔悉く焼失と伝える。
昭和47年の発掘調査で東西2遺跡があることが判明。東遺跡(脇田)では東西両塔の心礎が残っている(東塔:脇田神社、西塔:水田中)。西遺跡(笛吹)では塔跡と考えられる地覆石列を検出。東遺跡が古いとされる。
2007/05/01追加:
○「大和の古代寺院跡をめぐる」 より
 「地光寺地籍概要図」: 上項(本地光寺)と同一
 凡例:点の斜線は畑地字地光寺、黒丸は礎石発掘地、×は瓦出土地
2008/05/29追加:
○大和上代寺院志」保井芳太郎 より:
大正13年「国分尼葛城山施薬院慈光寺由来」を忍海村念珠院より発見。
「往古聖武天皇天平6年脇田村西端に施薬院を建立し・・・・・施薬院慈光寺も亦た明応2年(1493)・・本堂・施薬病処・中門・大門・三重塔等悉く烏有に帰す嗚呼然るに本尊のみ・・・災厄を免れ・・・南方に庵室結び本尊を此に遷し奉り時移りて慈光山念數院と改む     明応3年  急心大徳謹白」
 ※念珠院は笛吹にあり、今は廃寺と思われる。
また忍海村火雷神社所蔵文書に「書記志置事   中興仏道帰依54年前永正3年下能 地光寺與云 墓寺乎埴口丘神領建之加・・・・」
「亦記置事   去永正5年5丁下廻地光寺與云墓寺乎當社寺埴口丘神領建之上之坊與号ス」とある。
上掲の「地光寺地籍概要図」のように地光寺なる字を残し、以上の文献は(真偽は別にして)僅かに地光寺の縁起を伝える。またこの地の字名よりおおよその寺域は推定が出来る。
2017/03/09撮影:
○奈文研/飛鳥資料館展示
 大和地光寺鬼面紋軒丸瓦:西遺跡附近の田圃から出土と伝える。
2017/04/04追加:
○「地光寺跡 −地光寺西遺跡の発掘調査について―」葛城市教育委員会・葛城市歴史博物館、2016年 より
引用:「ここは、律令時代の忍海郡内で唯一の古代寺院であり、金属加工などで活躍した技術者集団を傘下に置いた、忍海氏の氏寺として性格づけられている。
 脇田神社の境内には、塔の心柱を支えた心礎があり、その周辺に、東西に二つの塔が並ぶ古代寺院(東遺跡)があった。さらに、県道五條・香芝線(山麓線)をはさんで西の笛吹小字地光寺にも、「地光寺旧跡」の石碑があり、その北側一帯が古代寺院の遺跡(西遺跡)にあたる。
 これらの遺跡の確認調査は、橿原考古学研究所によって1972年におこなわれ、これらの寺院跡を小字名から「地光寺跡」と名づけられる。東西二つの寺院は、出土瓦などから、7世紀末ごろに東遺跡がまず建立され、そして8世紀前半には西遺跡に移されたと考えられている。
この寺に使用された瓦で注目を集めたのは、珍しい「鬼面文軒丸瓦」である。鬼瓦ではなく、軒先を飾る瓦なのである。」引用終
 地光寺跡概要図:今回(2016年の直前であろう)発掘調査した概要を昭和47年発掘調査の成果に追加した形である。
 地光寺跡推定塔跡:昭和47年発掘の推定塔跡写真である。 凝灰岩の地覆石が発掘される。

大和二光寺廃寺

2021/01/29:追加
かっては心礎と思われる礎石の出土を伝える。(下に掲載の「葛城古寺探訪ー二上・葛城・金剛山麓の古代寺院ー」の項を参照)

残念ながら今回の発掘で、塔跡もしくは塔を示唆する遺跡・遺物が発見された訳ではない。
しかしながら、この時代の寺院のあり方から見て、今般の堂跡が金堂跡とすると、附近に塔が建立されていた蓋然性は高いと思われる。
2005/02/26現地説明会;説明会資料より要約
圃場整備整備事業の前提として2004/12より発掘調査、字二光寺より遺構が出土し、二光寺廃寺と命名される。
発掘では基壇建物の東半分を発掘。出土遺物により飛鳥期の創建で、建物は平安期に倒壊し、鎌倉期に耕作地となったと推定される。
 大和二光寺廃寺跡航空写真;上が北:説明会資料より
中央に堂跡東半分があり、法隆寺式伽藍配置とすると西に塔、四天王寺式伽藍配置とすると南に塔が想定されるが、いずれにしろ、継続しての調査に期待するしかないようである。
 大和二光寺廃寺堂跡(南)     大和二光寺廃寺堂跡(東)     大和二光寺廃寺堂跡(南東)
 大和二光寺廃寺堂跡略図:説明会資料より
基壇:ニ重の乱石積基壇で、南北12.7m、東西は出土部分で12.5m。
基壇上部は削平されるも、南西部の礎石根石から高さ1.4m以上と推定される。
礎石:4列×5列の大部が出土、耕作の妨げになったため掘り出され、ほぼ元位置に再び埋め戻された状態とされる。
礎石は1m前後の自然石で、柱間は約3m(中央部の南北は3m超)を測る。
大量の瓦の出土があり、この建物は瓦葺きと推定され、また塼仏が多く出土し、この建物が5間×4間と推定されることから金堂の可能性が高いとされる。
瓦:創建時瓦推定される瓦は朝妻廃寺・高宮廃寺と同范という。
塼仏:4種類を確認。大型多尊塼仏(唐招提寺塼仏、伊賀夏見廃寺塼仏と酷似)、方形六尊連立塼仏(朝妻廃寺塼仏と同范)、方形三尊塼仏、方形十二尊連坐塼仏である。
 方形六尊連坐塼仏部分1     方形六尊連坐塼仏部分2
 方形三尊塼仏     大型多尊塼仏     方形六尊連立塼仏
螺髪:土製螺髪1点が出土。丈六仏の安置が想定される。
2021/01/29追加:
○「葛城古寺探訪ー二上・葛城・金剛山麓の古代寺院ー」葛城市歴史博物館、2016 より
2004年の発掘調査で、東西5間(推定)南北4間の礎石建物跡を発見。二光寺の金堂跡と推定される。
ほかの建物跡は発見されていないが、かっては調査地の南で円形の穴のあいた礎石出土する。調査地の北西側に建物跡が存在する可能性があり、以上によって四天王寺式伽藍配置であったと推定される。
 二光廃寺発掘図
2005/02/26撮影:
 大和二光寺廃寺堂跡1     大和二光寺廃寺堂跡2     大和二光寺廃寺堂跡3     大和二光寺廃寺堂跡4
 二光寺廃寺堂跡基壇1     二光寺廃寺堂跡基壇2     二光寺廃寺堂跡基壇3     二光寺廃寺堂跡基壇4
 二光寺廃寺堂跡基壇5     二光寺廃寺堂跡基壇6     二光寺廃寺堂跡礎石1     二光寺廃寺堂跡礎石2

大和朝妻廃寺c

 「亡失心礎」の「朝妻廃寺」の項

大和高宮廃寺(水野廃寺) :(史跡)

金剛山の東中腹(標高550m・俗称「高宮」)にある。塔及び金堂の基壇と各々の礎石を残す。
塔は金堂の東南(南)20mの地点にあり、心礎は失われている。
他の礎石は自然石で、大部が残存する。塔一辺は約5.5mと推定される。
 ※残存礎石での実測値(芯芯間):中央間・四天柱間は約175〜180cm、両脇間は約160〜170cm。
金堂は5間×4間(12.8m×9.8m)の大きさで、礎石は2個を除き整然と残る。礎石は柱座及び地覆座を造り出す精巧な礎石を用いる。
八葉複弁蓮華文軒丸瓦・扁行唐草文軒平瓦が採取され、奈良中期の瓦とされる。これ等の創建瓦は朝妻廃寺、ニ光寺廃寺と同笵と云う。
「行基菩薩伝」:行基24歳の時、高宮寺徳光より戒を受けると云う。
 以前はこの寺跡は史跡でありながら、ブッシュに覆われ、近づくことも相当困難であったようであるが、近年は道も整備され、メインの道を辿れば容易に到達でき、寺跡のブッシュも払われている。但しマイナーな道に取り付き山中に入れば、方向を失い途中迷うこともある。(磁石持参が望ましい 。)
 大和高宮廃寺遠望:東より金剛山(1,125m)を望む、写真中央やや左の山腹に高宮廃寺はある。
 大和高宮廃寺土壇:手前は金堂土壇、奥の土壇が塔跡。
 大和高宮廃寺塔土壇1     大和高宮廃寺塔土壇2     大和高宮廃寺塔跡1
 大和高宮廃寺塔跡礎石1:写真中央の4個の礎石が四天柱礎石
 大和高宮廃寺塔跡礎石2:写真中央の4個の礎石が四天柱礎石
 大和高宮廃寺塔跡礎石3:南側の東脇柱礎石
 大和高宮廃寺金堂土壇:南西より、石碑は昭和2年、史跡高宮廃寺
 大和高宮廃寺金堂礎石1:東面礎石     大和高宮廃寺金堂礎石2:南面礎石
 大和高宮廃寺金堂礎石3       大和高宮廃寺金堂礎石4
2009/03/08追加:
○「奈良県史蹟勝地調査会報告書 第3回」奈良県史蹟勝地調査会、1977(原本大正5年) より
委員は天沼俊一、所在地は南葛城郡葛城村大字水野、葛城山麓の斜面、水野より金剛山頂に通ぜる小径の傍に在りて、・・塔は2基なりしが如も、今は西塔(東面せるを以て 、実は南塔)礎の若干を存せるのみ、堂は5間四面(礎石4個欠)、塔は方3間(礎石5個欠)なり。東塔(北塔)址と思わるる地点は、近年開墾せし貯水池に近接し、地形急斜面をなし稚檜を蜜植せるを以て、礎石は1個をも存せざるが、抜取穴と認められる凹処一箇所を存す。・・・貯水池の西側とその付近から瓦を出土、奈良時代に属すものの如し。寺の名称・沿革は不詳。
 水野廃寺址実測図     水野廃寺堂・塔礎平面図:一辺18尺(5.5m)と知れる。
 水野廃寺礎石詳細1     水野廃寺礎石詳細2
・葛城村大字水野の位置:各種Web情報を総合すると御所市水野位置図」で示す位置であろう。上記「報告書」の「金剛山頂に通ぜる小径」とは「小和道(石寺跡道):小和町から御所市水野の茶屋跡(上の茶屋跡)を通り、(高宮廃寺の傍を通り)石寺跡経由で金剛山に至る室町以前からの主要登山道。江戸期の石標が存在する。」と云う小和道であろう。
また、上記「報告書」の「近年開墾せし貯水池」とは高宮廃寺東側すぐにある「池」であろう。
・「角川地名大辞典 29奈良」:水野村の項では
寛文-元禄年中に南佐味村かあら分村、当時は郡山藩領、延宝7年から天領、元禄期は82石、天保期は58石、金剛山麓に立地の故に多くの湧水が見られ、これが地名の由来と云う。古代には高宮寺があり、その西には石寺(金剛山7坊・明治元年廃寺・石垣、礎石残存)があった。
2021/01/29追加:
○「葛城古寺探訪ー二上・葛城・金剛山麓の古代寺院ー」葛城市歴史博物館、2016 より
 金剛山中腹標高550mに位置する。発掘調査が一度も実施されず、詳細は不明。
金堂と塔跡と想定される基壇と礎石が残る。想定金堂は東面する5間×4間で、桁行12.7m梁間9.7mを測る。
金堂の東南約20mには塔跡と推定される基壇が残る。建物は方3間で一辺約5.5mである。
この他、金堂西20m及び南20mの地点に基壇状の高まりがある。
附録:高鴨神社
高宮廃寺山麓に高鴨神社がある。賀茂明神の祖神と云われる。社殿は南面する。入口東に別当(今は社務所兼住居?で元は高鴨社別当と推定される)の鐘楼・梵鐘が残る。
この鐘楼は御所の金剛寺から移したとも云うも不明。また社地東には神宮寺(神通寺跡)があると云うも不明。何れにしろ神宮寺あるいは別当などの関係・実態などは未掌握。
 大和高鴨神社本殿1     大和高鴨神社本殿2     大和高鴨神社本殿3
 大和高鴨神社東宮      大和高鴨神社鐘楼
本殿:重文、天文12(1543)再建  東宮:寛文12年(1672)建立。

大和巨勢寺跡(史跡)

 この地は巨勢氏の本貫地とされ、本廃寺は巨勢氏により建立されたと推定される。現状は塔跡の土壇と心礎と多くの礎石が残る。
円柱座を持つ礎石は塔跡に建つ大日堂礎石として、また、かっての子院とされる正福寺・阿叫寺の建物 礎石・庭石となって残る。塔土壇は大人の背丈ほどあり、その中央に心礎が原位置(とされる)で残る。
心礎は1.2×1.3mの花崗岩で、90cmの円柱穴があり、その中心に舎利孔がある。水抜きとして舎利孔の外に2つの円周溝と円柱穴の外周溝が彫られる。さらにその3つの溝を結合する1本の直線の溝が外に向かって彫られ、その直線の溝は穿孔された穴によって心礎の外に誘導される精巧な造りである。なお塔跡の北東にもかっては土壇が存在したが、鉄道工事で削平され、多くの礎石が掘り出されれたと伝える。
○「飛鳥時代寺院址の研究」 より
 巨勢寺古図(江戸期のもので想像図と思われる)
○「大和の古塔」 より
 大和巨勢寺心礎実測図
2021/01/29追加:
○「葛城古寺探訪ー二上・葛城・金剛山麓の古代寺院ー」葛城市歴史博物館、2016 より
 創建の只塚廃寺(上に掲載z)の様相と似た状況を示す。
ここでは総点数が十数点しかないないものの七世紀前期の瓦が2種類出土する。何れも素弁蓮華紋軒丸瓦であるが、一つは8辨で、これは奥山久米寺式であり、もう一つの9辨は飛鳥寺で使用された瓦と類似する。現在までの調査では7世紀前期の遺構は検出されていないが、本廃寺においても(只塚廃寺と同じように)小規模な仏堂から始まったのではないか推測される。
 本廃寺は7世紀前半は小規模な仏堂であったと思われるが、7世紀後半には基壇を設け瓦葺きの礎石建物を持った寺院へ変貌る。
1987〜90年の発掘調査では塔基壇の北西で講堂とそれに取付く回廊、さらにその西側では築地塀の痕跡が検出される。
 なお、本廃寺では古くから心礎と塔基壇の存在が知られ、心礎は長方形の石で径89cm、深さ13cmの柱穴が穿たれ、穴の底には三条の溝が彫られる。穴の中央には径13cm深さ6cmの舎利孔が穿たれ、上面には受蓋孔がある。これは檜隈寺心礎とよく似ている。
 講堂は東西13.7m、南北22.7mの版築に梁行4間(9.6m)桁行7間(19.8m)の礎石建物と判明する。
以上の発掘調査結果と既往の所見などにより、巨勢廃寺は法隆寺式は東を正面とする法隆寺式伽藍配置を持つ寺院であることが分かる。
また出土瓦の特徴や「日本書紀」(天武天皇朱鳥元年<688>)にその名が見えるから、伽藍出現は7世紀後半となる。
 さてこの伽藍を建立した檀越は巨勢氏と考えてほぼ間違いはない。
 大和巨勢廃寺伽藍配置図
2021/12/30追加:
○「庭石と水の由来」尼崎博正、昭和堂、2002 より
 大和巨勢寺心礎実測図2
心礎は三重の同心円状の輪環溝で舎利孔への水の侵入を防止し、それらを連結する放射溝で水を凹柱座の外周に導き、暗渠を通して心礎外に出す構造である。
2001/12/24撮影:
 大和巨勢寺跡心礎1     大和巨勢寺跡心礎2     大和巨勢寺跡心礎3
 巨勢寺跡大日堂礎石     巨勢寺跡塔跡土壇
2003/01/12撮影:
 大和巨勢寺跡心礎4

大和大岩水別神社

 → 大和大岩水別神社心礎

大和龍門寺塔跡

○「日本の木造塔跡」 より
龍門寺塔跡は心礎・礎石・基壇を完全に残す。
心礎は79×73cmで、中央に径24×9cmの円孔を穿つ。心礎の他、枘孔を持つ四隅の脇柱礎を含む脇柱礎が完存する。小規模塔のため、四天柱礎は当初から無く、また中間の脇柱礎は極端に四隅に偏っている。
<小規模塔の中央間を広く採る例は大和富貴寺塔(一辺2.7m)が知られる。>
塔基壇の一辺6.3m、乱石積基壇。塔一辺は3.3m、北中央に石段を残す。
白鳳期の創建とされる。久米・大伴・安曇などの仙人が修行したという。(今昔物語)
清和上皇、宇多上皇及び菅原道真(扶桑略記・昌泰元年・898)、藤原道長(扶桑略記・治安3年・1023)などの参詣もあったという。
昭和27・28年発掘調査、塔跡・金堂跡などの礎石建物跡を発掘・奈良期の瓦出土。
下乗石(元弘3年・1333)を残す。付近に大門・小門・六角尾(六角堂)、塔の谷・龍空院などの小字を残すという。
立地は龍門岳山麓にある。龍門の瀧の落ち口の西断崖の上に塔跡はある。近江崇福寺・尾張大山廃寺・常陸権現山廃寺(未見)などと同様な山岳に立地する。
また、義淵僧正建立の大和龍蓋寺(岡寺)、大和龍福寺(廃寺)とを合わせ、龍名の三大名刹の一寺ともいう。
2022/06/04追加:
「今昔物語集 巻11第24話 久米仙人始造久米寺語 第廿四」 にて、龍門寺が登場する。
 →飛鳥久米寺
○「龍門寺縁起」(醍醐寺本『諸寺縁起集』所収) より
龍蓋・龍門両寺は義淵僧正が国家隆泰・藤氏栄昌のために建立するところであると記すという。
2007/05/01追加:
○「大和の古代寺院跡をめぐる」 より
 大和龍門寺塔跡発掘
2005/05/29撮影:
 大和龍門寺心礎1     大和龍門寺心礎2     大和龍門寺心礎3
 大和龍門寺脇柱礎1     大和龍門寺脇柱礎2     大和龍門寺脇柱礎3     大和龍門寺脇柱礎4
 大和龍門寺心礎4
 大和龍門寺塔礎石1     大和龍門寺塔礎石2     大和龍門寺塔礎石3     大和龍門寺塔礎石4
 大和龍門寺塔石段      大和龍門寺塔基壇石積1     大和龍門寺塔基壇石積2
 大和龍門寺龍門瀧1     大和龍門寺龍門瀧2
:この断崖の上が塔跡。なお金堂跡・礎石、坊舎跡を残すというが、未見。

大和比曾寺東塔・西塔 (史跡)

 大和比曽寺・近江園城寺三重塔

大和吉野山諸塔

☆蔵王堂大塔 ☆蹴抜塔 ☆安禅寺多宝塔 ☆大日寺宝塔 など
 大和吉野山塔跡

大和天川弁才天社多宝塔

 吉野山」「天川弁財天社」の項

大和霊安寺

「日本の木造塔跡」:
 心礎の大きさは1.7×1,4m、表面の平な自然石の明確な礎石とされる。
発掘調査により、塔基壇1辺は10.2m、塔1辺は5.2m。側柱礎3個が発見された。心礎下から鎮壇具が発見され、下記の記事の通り塔は平安期初頭の創建とされる。
「増補 大日本地名辞書」吉田東伍より:
 「霊安寺 南宇智村に在り、今寺廃し廟を存す、御霊明神と称す、井上皇后他戸太子の霊を祭る。皇后宝亀三年巫蠱に坐して廃せられ皇太子従ひて庶人と為り并に憤死し玉ふ、宝亀九年改葬、延暦中に及び山城京に御霊社を立て、本郡に山陵を置かる。延喜式、霊安寺料四千束は官稲を分給せられし制也 蓋霊安寺は陵廟供奉の僧房にして、延暦中の創建とす。」
以下、宇智陵(光仁天皇々后井上内親王の墓)、廃太子他戸親王(井上皇后腹)の墓等の記事は省略。
鎮壇具の出土
 発掘調査により霊安寺塔跡から鎮壇具が出土する。
鎮壇具には、延暦15年(796)初鋳の「隆平永宝」11枚がある。(他に「開元通宝」と「万年通宝」を含む)また、一方では「日本後紀」延暦24年(805)2月の条に霊安寺についての記載があるという。以上により塔の建立年代は延暦15年より24年までの間の間と推測される。
明治の神仏分離の処置
 明治の神仏分離の処置で、霊安寺は廃寺となり、什宝は寺中であった満願寺に移される。
満願寺には大般若経(重文)や梵鐘がある。梵鐘(元禄3年鋳造)の銘文は「大和州宇智郡霊安寺邑之鎮守御霊大明神者相伝厥初嘗祝裡井上皇后出霊仰似為神霊也」から始まると云う。
「大和名所記 和州旧跡幽考 第十巻」より:
 若宮の社 御山村にあり 若宮は雷神にてまします。・・・(霊安寺縁起)。
御霊社 霊安寺にあり。・・・御霊の社は井上皇后・他戸親王の御いきどおり強く、上一人より下万民まで悩まし給いしかば世中、あされたり。さてこそ勅使をたて、いろいろなだめさせ給いて終に御霊大明神とあがめられき。御霊の社をまもる寺なればとて霊安寺とぞ申す(霊安寺縁起)。
本社は御霊井上皇后、東向。北脇は早良親王。南向。南脇は他戸親王。北向。
本社三座・若宮一座、本地は准胝觀音・聖觀音・千手觀音・如意輪觀音にして、弘法大師のきざみて安置せられしより本地堂と号せり(霊安寺縁起)。
再興は人王百二代、稱光院の御宇、正長元年の秋兵火にかゝりて神社・佛堂・本地四佛の像も一時のけぶりとなる。かの像は厨司にこめてひらかざれば、いかなる佛というをしらず。しかれども北畠准三后の御霊大明神の記録せられたるにあらわれしより本地觀音像を再営して安置し、霊安寺ふたゝび成就せり(霊安寺縁起)。
満願寺
 明治初年の神仏分離で廃寺となり、寺中であった満願寺に什宝を移す。
井上山と号す。高野山真言宗。本尊不動明王。満願寺の小路を距てた畑地約三畝歩の方形台地が霊安寺の本堂跡で、この南方の小字大御堂前が金堂跡と伝えられる。
「奈良県史 第6巻」:
 井上山と号する。光仁天皇皇后井上内親王の霊安のため建立。御霊神社神宮寺。
「類聚三代格」:「弘仁七年十月二十三日、太政官符を下して、霊安寺の構作久しく伽藍はあるものの修法も不十分であったため正税四千束を割いて出挙し、その利息をもって 春秋の悔過や修理料に充てた」
「延喜式」:
 「大和国正税公廨 霊安寺料四千束」
「大和名所図会」:
「霊安寺、御霊神社を守る寺なれば、かく名付けられき。再興称光院の御宇。正長元年(1428)の秋兵火にかゝりて神社・仏 堂・本地四仏の像も一時のけぶりとなる。此尊像秘仏なれば、住侶も知ることを得ず。しかれども北畠准三后の御霊の記録せられたるにあらはれしより、本地観音の像を再営して安置し霊安寺ふたた成就せり」 。
2006/02/25撮影:
 大和霊安寺心礎1     大和霊安寺心礎2     大和霊安寺心礎3     大和霊安寺心礎4     大和霊安寺塔礎石
 霊安寺井上山扁額     霊安寺梵鐘
 御霊大明神:霊安寺は御霊大明神の神宮寺であった。
御霊大明神は御霊本宮・御霊宮大明神・四所御霊大明神・宇智郡大宮・御霊さんとも称される。
南都元興寺御霊社は桓武天皇により霊安寺御霊大明神から勧請されたという。


大和飛鳥の塔跡


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