山 城 久 世 郡 及 び 綴 喜 郡 の 神 仏 習 合 な ら び に 神 仏 分 離

山城久世郡(現久御山町・城陽市など)・山城綴喜郡(現京田辺市など)の神仏習合ならびに神仏分離

◆概要
 明治維新後に創建された神社を除き、江戸期以前からの由緒を語る「神社」は、その歴史が古代から続き、また素朴な信仰がその源であるにせよ、古代に仏教が伝来して以来、神社には何らかの形で仏教が入り、古代は勿論のこと中世以降、ほぼ例外なく、何がしかの神仏が習合した形態であったのが一般的であった。
 ところが現在では、殆ど全ての神社は、仏教とは無関係であり、古来から純粋に「神社」であったような「顔」をしている。
しかし、「神社」が仏教とは無関係であるという「顔」は、明治の神仏分離により、神社からは佛教的な要素が取除かれ、 国家神道が明治政府の宗教政策として推し進められた結果、成立した極めて最近の政治的宗教政策によって作られたものでしかない。
そして、神社が神社の由緒・歴史を語るとき、神仏習合時代のこと、寺院による支配のこと、明治の神仏分離による廃仏毀釈のことなどには全く触れないかあるいは他人ごとのように触れるだけである。これは、現在の神社そのものが戦前までの国家神道に今日も毒されている、あるいはほんの百数十年前の歴史に無知である、あるいはある種の「後ろめたさ」があるということなのであろう。
さらにはごく一部の神社では、あの大東亜戦争などに帰結した天皇制国家を支えた国家神道の夢を未だに捨てきれず、今も国家神道の「隆盛」を夢見ているということなのであろう。
特に、延喜式内社などとおよそ破綻した由緒を吹聴するような神社(近世の国学者や復古神道家による捏造・付会である場合が殆どと思われる)には、それが顕著に見られるようである。
 また祭神についても、多くの問題を含む。
即ち、どの神社でもまず第一に誇らしげに語る祭神についても、国策である明治の神仏分離の指令によって、多くの神社で本来の祭神が捨てられたあげくに取り替えられ、あるいは祭神が追加変更されたことが指摘される。しかもその取り替えられたあるいは新しく追加された祭神は国家神道の「教義」に合うように付会された場合がほとんどである。しかも、極めて「適当」にご都合主義的に祭神変更が行われたのである。
 以上のような意味では、国家神道とは古来からの日本の神々を否定し、古来からの神々を冒涜する新興宗教に他ならないのである。
かくして、現在殆どの「神社」の語る由緒とは明治以降の国家神道の「教義」を散りばめたものであり、祭神とは国家神道の祭神を強引に当て嵌めた場合が極めて多いと知るべきなのである。

 山城久世郡・綴喜郡(現在の久御山町・城陽市・京田辺市及びその周辺)にも、全国どこにでも見られるようにそんなに著名ではないごく一般的と思われる神社が散在する。
そしてこれ等の神社は、今は、殆ど仏教とは無関係な「神社」の顔をしている。
 (※注意深く観察すれば、神仏習合時代の痕跡が残る場合もあるが、それはかなりの注意力が必要である。 )
 (※文化財として見れば、この地の神社の社殿は、中世末もしくは近世初頭造営のものが多く伝えられ、国の重文指定およびそれに準ずる優秀な社殿が高密度で分布する。)
 しかし、当地区においても、ほぼ全ての神社は、明治の神仏分離の措置及び廃仏の断行によって、国学者や復古神道家の教義に沿うように改竄され、そしてやがては国家神道の教義を強制され、国民を侵略戦争に駆り立てていったのである。「美しい国・日本」の実像は以上のようなことであったと知るべきである。

◆本ページの目的
 現在では仏教とは全く無関係を装う神社も、残された伝承・寺社明細帳・縁起類・棟札などの記録、境内あるいは周囲に辛うじて残る堂宇・仏像等を見、 そして少しその歴史を紐解けば、ほとんどの神社はその規模が大きく、かつ由緒が正しいとされるほど、神宮寺、本地堂、仏堂、塔婆などが建立され、本地仏が祀られ、経典が誦まれ、護摩が焚かれ、社僧が供奉していたのが「神社」の実態であったと見えてくる。
 今なお仏塔を残すあるいはかっては仏塔が建立されていたような著名な「官幣社」などと称する社は、このサイトの「塔婆」関連のページで取り上げているが、国家神道でいう序列である「村社」「郷社」レベルの「小規模」な神社の神仏習合および神仏分離の実態はどのようなものであったのかを、山城久世郡及び綴喜郡の神社を例として、取り上げてみたいと思う。

ついでながら、なぜ明治の神仏分離がいとも簡単に貫徹したかと云えば、それは佛教が当時堕落(正確には佛教の堕落ではなくて、僧侶の堕落)し、その存立基盤から見捨てられた存在であったからなのであろうと思う。


2008/07/14撮影画像:富野の現荒見神社(常楽寺・天神社)附近で撮影

式内社:延喜式内社(久世郡内)
久世郡内には9座の延喜式内社の記載がある。
即ち
旦椋社、巨椋社、石田神社(茶の前と里の2箇所にある)、双栗神社、水主神社、荒見神社、水度神社、伊勢田神社、室城神社という。
 ※なお荒見社についての比定は、現在、城陽市富野荒見田に鎮座の社と久御山町田井に鎮座の社の両説がある。
 ※荒見社・石田社などの「論社」に象徴されるように、要するに、延喜式内社といっても、その実態は中世・近世にはいつしか廃絶し、
  不明となった場合も多いと推測され、現在は式内社を名乗っていても、「不確実」な場合や近世末・近代初頭の「捏造」や「付会」も多く、
  祭神も含め、「本当かな?」と疑ってかかった方が本当のことが見えてくるのである。

------以下は旧久世郡現久御山町の神社に於ける神仏習合並びに分離-------画像は断りの無い限り2002/10/05撮影

槙島蛭子嶋神社:蛭子嶋神社の旧社名は情報がなく、不明である。

2021/03/22撮影:
蛭子嶋神社は、久世郡槙島(現・宇治市槙島町石橋)にある。
この地はかっての巨椋池の中洲にあたり「夷島」と呼ばれ、水陸交通の要地であり、多くの水運や漁労関係者が居住し「夷島千軒」と称されていたという。
社伝では、花山天皇の后が、夷島の正福庵で皇子を出産したといい、后を姫大明神として安産の神としたという。(Wikipediaなど)
 ※花山天皇(花山院)の女御関係は複雑で、正直良く理解できない。従って「后」とは誰を指すのかは筆者には分からない。
なお、「新撰京都名所圖繪 巻6」昭和40年 では祭神:姫大明神は後冷泉皇后藤原寛子という。
 ※藤原寛子<長元9年(1036)-大治2年8月14日(1127)>関白藤原頼通の長女。後冷泉天皇の皇后。
明治維新まで、当社にも、当たり前のことであるが、「勝福寺」と号する神宮寺があったと伝える。おそらくは今の社務所当りにあったと思われるも、確証はない。
明治の神仏分離の愚行で廃寺(明治5年と云う)となり、勝福寺にあった平安期の諸仏(四躯)は槙島「妙光寺」(浄土宗)に遷される。(現存)
遷座した仏像は次のとおり。
 木造薬師如来坐像:平安後期、木造阿弥陀如来坐像:平安後期、木造薬師如来坐像:鎌倉期の3躯(「宇治の佛たち」平成元年)
 木造十一面観音立像:平安中期の1躯(「妙光寺説明板」)
なお、妙光寺には別に、木造薬師如来立像:平安後期があるが、これは妙光寺附近の薬師堂からの遷座という。
 蛭子島神社社頭:向かって左が社務所で、おそらくはこの付近に勝福寺があったものと思われる。
 蛭子島神社境内:奥が本殿覆屋、右末社前の石灯篭には嘉永7年(1854)の年紀を刻む。
 蛭子島神社本殿覆屋:宇治川の中州にあり、浸水対策であろうか、石組基壇の上に本殿はある。
 蛭子島神社本殿:年代は不詳、一間社流造、屋根檜皮葺。本殿前の石鳥居は享保6年(1721)の年紀を刻む。
 仏塔残欠:現地に残る唯一の勝福寺の遺物であろう。層塔か五輪塔の最上重の屋根は風格がある。
 橋の石碑:かって存在した橋の石碑であろう。「おくらこはし」「いけちかは(し)」であろう。
 西側の巨椋堤沿いに蛭子嶋神社御旅所があるが、写真は未撮影。
 槙島妙光寺1     槙島妙光寺2
なお、槙島は室町幕府終焉の地という。
天正元年(1573)織田信長に反抗した将軍足利義昭は槙島城に立て籠り、敗れ、普賢寺に遁れる。ここに室町幕府は終焉する。
槙島城跡は方200m許と云われ、今は全て耕地となる。城跡は石碑と案内板があるのみで、辛うじてその跡を偲ぶだけである。
 槙島城跡1     槙島城跡2

2009/06/24追加:
広野円蔵院鎮守皇太神宮:2009/06//17撮影

現地説明板には以下のようにある。
「慶安2年(1649)淀藩主永井尚正、広野新田村を開き、曹洞宗円蔵院鎮守として天照大神を勧請。広野神社と称されたが、いつの時代か不明であるが、皇大神宮社の社名になる。明治の神仏分離で円蔵院から離され、村方三役がこの神社を引請けることになる。昭和36年社殿倒壊、昭和38年社殿再建。」
 以上が説くところから、この神社は円蔵院の鎮守として創建され、祭神や社名から、江戸初期には伊勢神宮の御師の勢力が及んでいたものと分かる。
明治の神仏分離で地方寺院の鎮守社如き小社も分離対象となり、神社として強引に分離させられたのであろう。
 広野円蔵院鎮守皇太神宮:境内には2対4基の石燈籠が残る。何れも「太神宮 」と刻まれ、年記は宝暦年中(1751-)・・・年は判読不可、と文化14年(1817)である。本殿は西面する。本殿背後(東)をJR奈良線が通るが、JR奈良線開通前、本殿は線路東側にあったという、現在本殿のあったであろう地は荒地であるが、 数年以内に都市計画によって道路に変貌する予定である。
(2018/05/08:数年前に道路になり、これで以前広野大神宮社殿はかっては線路東にあったが西に遷ったことは忘却されるだろう。)

2009/06/24追加:
栗隈天神(旦椋神社):但し、現在の行政区は宇治市:2009/06/15,16撮影

○「宇治市史 第1巻」では以下のように記載される。
「式内社旦椋神社は、別に栗隈社とか栗隈天神と呼ばれていた。」
 ※以上が意味するところは栗隈天神社は旦椋神社とは全く別の社であったということだけであって、まったく関係のない栗隈天神を明治の復古神道が付会したことを無批判に記載しただけのことであろう。
「祭神は高皇産巣日・神皇産巣日とし、後に菅原道真を併祀することになる・・・・高皇産巣日は・・・皇室の祖神として奉斉された神・・・」
 ※高皇産巣日・神皇産巣日などと云う胡散臭い祭神は、明治の国家神道ででっち上げられたものであることは一目瞭然であろう。「皇室の祖神」などを祀るのは近世から明治初頭に流行した復古神道のなせる悪行なのである。
要するに、元来この神社は菅原道真を祀る天神社であったのであり、式内社旦椋神社とは無関係なのである。
○「宇治市史 第6巻」では以下のように記載される。
「兼右郷記」(吉田兼右・日記・吉田神社神官)の永禄9年(1566)8月23日条には以下の記事がある。
「山城国玖世郡大窪村天神社、及廿年余断絶、今度造立致新社、神躰奉造立之、供養事申候間遣了、座像タ力サー尺余」
新作の神体とは国常立尊・固扶槌尊などの9躰であったと記載される。
 (吉田神道では、国之常立神を天之御中主神と同一神と解釈するようである。)
 ※栗隈天神に伝わる棟札のうち最古のものは「造営 永禄九年八月吉日」の年記がある。これは符合する。
 ※即ち、これ等の史料が示すことは、天神社は20年余断絶していたが、永禄9年に再興されたということであり、少なくとも中世後期迄には、村の鎮守として天神が勧請されていたと云うことであろう。つまり、延喜式内の旦椋社とは何の関係も無かったと解するのが自然であろう。
 ※市史では旦椋神社は字旦椋の地にあり、天文19年(1550)の焼失、永禄9年の天神社再興の時、天神と旦椋社が合祀されたとの 「伝承」があるとするが、果たしてそのような「伝承」があったのであろうか?。明治の復古神道の付会を「伝承」と強弁しているのではないだろうか?。
 ※旦椋社は延喜式にその名があるのは確かである。また天文19年に焼失(典拠は不明)と云い、また旧鎮座地とされる土壇(5.3×3.6mで高さ0.5m)が付近に残る(未見)とも云う。 その土壇を発掘調査したところ、土壇から各時代の雑多な遺物が出土したといい、その性格は良く分からないのと云う。要するに旧鎮座地と云う土壇は何の確証もないと云うことなのであろうか。
 (あるいはこの土壇は戦後しばらくまで残っていたと伝える「七つ塚」の一つ又はそれに類する土盛であったのかも知れない。)
一方、上記の伝承が正しいものとするならば、延喜式内旦椋社は、伝承の通り旧地と伝える土壇に社殿があった、しかし天文19年に廃絶 したということを示すのであろう。そして、その古跡が後世まで残ったと云うことなのであろう。
また
「明治10年6月、式内旦掠神社と認定され」とあるが、これの意味することは、大久保村の鎮守である天神は、国家神道家(明治の国家権力)によって、既に跡形もない延喜式内旦椋社と付会され、旦椋神社と改号されたということであろう。
祭神は高皇産霊神・神皇産霊神・天満天神と云う。天満天神はいざ知らず、村の鎮守が高皇産霊神・神皇産霊神などを平田派や復古神道ではあるまいし、祭神にすることなど、強制でもない限り、ありえないであろう。
栗隈天神の神宮寺について以下のように記す。
「観音寺は(慈尊院の末寺か?)旦椋神社の神宮寺であったから、村民は常に『宮寺さん』と呼んでいたといい、慶安元年(1648)の創建以来15代を経て無住となり廃絶したと伝える」
 ※神宮寺というより、天神社の管理に与った(社僧)寺院があったと云うことであろう。
 観音寺の位置は不詳。慈尊院は住僧に不祥事があり廃寺、おそらく借金のカタに売却され取り壊され、跡地はマンションとなる。
 (2018/05/08慈尊院は廃寺、堂宇は取り壊され、境内は売却されたのであろう、数年前に高層マンションに変貌する。)
なお
「諸事書留帳」(文化13年・1816):旦椋神社文書では以下と云う。
「一、当村真言宗観音寺無住に付、・・・毎月替りに右寺え相詰め罷り在り候て、掃除等仕り度・・・」
○2010/03/20追加:
 明治8年栗隈山旦椋神社:「延喜式内並国史見在神社考証」(京都府立総合資料館蔵・明治初頭の式内社確定のための資料) より
基本的に現在の栗隈天神の風景と基本的にはほぼ同じである。石燈籠も現在に伝えられる。
○境内石燈籠概要
 現在境内には14基ほど近世の石燈籠が残る。これ等の概要は以下の通りである。
 本社は南面し、南北に長い参道がある。参道の中ほどを東西の道路が横切る。かっての境内は参道左右にも広がっていた形跡を残す。
 参道南端に2基の石灯籠:天満宮・大久保村、年記は享保7壬寅(1722)を残す。さらに
 上記の北側に2基の石燈籠;常夜灯、年記は天保2辛卯(1831)を残す。
 近年のものと思われる鳥居を潜り、東西道を渡る。その北に近年の簡単な門があり拝殿に続く。
 門の手前に2基の石燈籠;彫りが浅く磨耗し銘・年記ともはっきりと判読できない(近世のものと思われる);がある。
 拝殿前に2基の石燈籠:彫りが浅く磨耗し銘・年記ともはっきりと判読できない。(近世のものと思われる)上記と同形・同時期の石燈籠
 であろう:もある。さらに
 本殿前に2組4基の石燈籠がある。
 手前石燈籠2基:天満宮、年記は元文4己未(1739)
 奥の石燈籠2基:天満宮、年記は宝暦7丁丑(1757)である。
 本殿裏(北西)に廃社跡と1基の石燈籠:愛宕山常夜灯も残る。
 現在本殿東に覆屋がありその中に祠2棟と石燈籠1基があるが、何のものか暗くて良く分からない。
  以上を纏めると、6基が天満宮・1基が愛宕大権現・1基は不明・2基は常夜灯・4基は「御■前」であり、
  基本的に江戸中期の年記が刻まれる。
  このことは、この社は少なくとも近世は天満宮として崇敬され、愛宕権現も勧請されてはいたが、旦椋社と云う痕跡は見出せない。
  (要するに、近世では旦椋社は全く存在せず、この社は天満宮として崇敬されていたと解釈するのが素直であろう。)
○「久世郡大久保村史」(「京都府久世郡村史」明治14年 所収) より
「社 旦椋神社 式内村社、栗隈社に鎮座す、社前は古時の栗隈野社、後は即ち栗隈山脚なり、・・・面積2460坪・・・天文19年菅原道真を配祀す・・・」
○「京都の文化財 第3集」 より
栗熊天神社本殿:一間社流造・屋根檜皮葺、江戸初期の様式を残す。斗栱を組み、四面中備に近世風蟇股を置く。
永禄9年の造営で、延宝2年造替の社殿が現存する。
また以下の棟札を残すと云う。(「宇治市史 第6巻」)
永禄9年(1566・社殿造営)、慶安3年(1650・社殿修築)、明暦3年(1637・屋根葺替)、延宝2年(1627・社殿造営)、宝暦8年(1753・屋根葺替)、 安永6年(1777・屋根葺替)、寛政6年(1794・社殿修築)、文化6年(1809・社殿修築)、嘉永5年(1852)・・・
平成元年〜2年極彩色復原工事を施工。
 栗隈天神社本殿1:西面       同    本殿2:東面       同    本殿3:提灯の紋に星梅鉢を使用
   同    本殿4          同    本殿5           同    本殿6:西面
   同    本殿7:西面蟇股       同    本殿8:東面蟇股       同    本殿9:裏面蟇股
   同   本殿10:西面          同   本殿11:東面          同   本殿12:裏面
   同   石燈籠1             同   石燈籠2
2019/03/06撮影:
 栗熊天神社石灯篭:天満宮とある。
 栗熊天神社本殿21     栗熊天神社本殿22     栗熊天神社本殿23     栗熊天神社本殿24     栗熊天神社本殿25
本殿裏に愛宕山大権現碑のみがひっそりと建っていたが、ごく最近に愛宕山大権現社(小祠)が建立されたようである。
 愛宕山大権現碑     愛宕山大権現社

田井荒見神社(五社明神):田井

近世には五社明神と称し、境内に薬師堂などがあったと云う。
「田井村寺社明細帳」(安政4年<1857>):
 真言宗 無本寺 薬師堂
   一、真言宗、無本寺、薬師堂、氏神境内に之有り候。
   一、本堂、梁裄2間、桁行5間、瓦葺。・・・
 氏神 正一位 五社大明神
   本社 末社 付属施設多数のほか「宝篋印塔」があったと云う。
本殿は寛文4年(1664)の再建とされる。
なお社務所は明治の神仏分離で廃された元薬師堂と伝えられる。
その他佛教的なものとして蓮華座の台石、石仏などが境内に残る。
  荒見神社社殿   同 推定旧薬師堂   同 蓮華座台石   同   石仏
○2010/03/20追加:
 明治8年荒見神社之絵図:「延喜式内並国史見在神社考証」(京都府立総合資料館蔵・明治初頭の式内社確定のための資料) より
この絵図では鳥居を入り向かって左手に瓦葺と思われる一宇があるが、薬師堂であろうか。現在この場所に堂宇はない。
元薬師堂と云われる社務所は鳥居右手にある。移建されたかどうかは不明。
2022/05/28撮影:
近世社号は五社大明神と称する。
祭神は春日明神・武甕槌命(たけみかづち)、上賀茂社・別雷大神(わけいかづち)、稲荷明神・倉稻魂命(うかのみたま)、香椎宮・仲哀天皇、八幡神・応神天皇という。
近世、延喜式内社荒見神社(論社の一つ)というが、復古神道の付会でしかない。
寛永7年(1630)木津川氾濫により社殿が流出する。その後、現在地に遷された。(「山城志」、本殿棟札)。
寛文4年(1664)現在の本殿が再建された。(本殿棟札)
境内は東西45間、南北26間、地蔵堂、薬師堂がある。(安政4年(1857)「田井村神社明細帳」)
明治の神仏分離の後、薬師堂は移設・改築されて社務所となり、お旅所(位置不明)にあった地蔵堂は廃され、地蔵菩薩は円福寺に遷される。
明治10年(1877)あるいは明治6年(1873)式内社とされる。(「久世郡神社明細帳」)
 田井五社明神鳥居
 田井五社明神社号碑:東久世通禧(みちとみ):天保4年(1834)ー明治45年。幕末七卿落ちした公卿の一人である。伯爵、侍従長・貴族院副議長・枢密院副議長を歴任。こういう連中が幅を利かせた時代と今の時代は何か違っているのであろうか。時代の大きな様相は戦前と変わっていない気がする。暗澹。
 田井五社明神社殿1    田井五社明神社殿2
 田井五社明神石燈籠1     田井五社明神石燈籠2:本殿唐門前には天満宮の小詞があり、そこに「正一位五社大明神」と刻む石灯篭がある。
 田井五社明神唐門      田井五社明神本殿1     田井五社明神本殿2     田井五社明神本殿3
 田井五社明神本殿4     田井五社明神本殿5     田井五社明神本殿6     田井五社明神本殿7
 田井五社明神本殿8     田井五社明神本殿9     田井五社明神本殿10    田井五社明神本殿11
 田井五社明神本殿12::三間社流造と思われるも、正面には格子戸4面が嵌められ、正面の構造が良く分からない。屋根も檜皮葺と思われるも現在は銅板葺となり良く分からない。
 五社明神旧薬師堂1     五社明神旧薬師堂2:明治の神仏分離の後、薬師堂は移設・改築されて社務所となり、お旅所(位置不明)にあった地蔵堂は廃され、地蔵菩薩は円福寺に遷される。
 五社明神石仏残欠
 浄土宗圓福寺:大正5年から昭和3年にかけて、竹久夢二が度々逗留していたという。

佐山椏本八幡宮(雙栗社):佐山

明治維新前は5ヶ寺の神宮寺が存在する。
「椏本八幡宮縁起」および「山州名跡志」元禄15年(0702):
佐山の三箇寺(西方寺・三福寺・浄福寺) と林の二箇寺(薬蓮寺・安楽寺) の計五箇寺を記す。
「興福寺官務牒疏」(嘉吉元年1441)では佐山の浄福寺と林の二箇寺とをあげる。
 2016/12/04追加:但し「興福寺官務牒疏」は偽書であり、その問題点については「椿井文書・興福寺官務牒疏」を参照。

「縁起式神名帳」;双栗神社三座とある。
「椏本八幡宮縁起」(延宝4年<1676>):
天治2年(1125)この地に椏の木の大木があり、この木のもとに八幡宮を勧請したものとする。
応保2年(1162)当宮に勅使が立てられ、勲一等を賜り、椏本一品八幡大菩薩の号と神田を賜ったと云う。
ただしこの「縁起」は石清水八幡社の末社としての立場から編まれたと推定される。即ち石清水に八幡大菩薩が遷座の後に、椏本八幡宮の起源を設定する必要があったもので、本社に「配慮」した「縁起」とされる。 本来は縁起より古い時代から鎮座していたとも可能性が大きいとも云う。(古い雙粟の氏神があり、後に八幡神が勧請されたものと思われる。)
2012/05/11追加:
「延喜式内社 雙栗神社」雙栗神社、案内リーフレット は以下のように記す。
祭神:天照、素戔嗚、事代主(大国主)、品陀別(応神天皇)、比刀A息長帯比売(神功皇后)、大雀(仁徳天皇)
社名の由来は諸説があるが、羽栗郷と殖栗郷の間に鎮座するから「双栗」とも、古代豪族「葉栗」氏の祖神を祀った氏神とも云う。
延喜の制では小社に列せられ、雙栗神社三座と記される。
延宝4年(1676)の「椏本八幡宮縁起」では「椏の木の本に八幡宮を勧請」、神宮寺5ヶ寺が建立され、大般若経600巻が収められるとする。
明治に入り神仏は分離、神宮寺は廃寺となり、大般若経は大松寺に移管し、雙栗神社の旧号に復す。

 ※延喜の頃の雙栗神社と椏本八幡宮とを直接結びつけるものはない。延喜の頃の雙栗神社は旧豪族の没落とともにいつしか廃滅したのであろう。それに代わり、より神威の大きい八幡神が勧請され、新たな鎮守となったのであろう。
もとより、椏本八幡宮が雙栗神社に復号などとは、復古神道の取り繕いであり、椏本八幡宮の廃仏と換骨奪胎を目的とした悪行でしかない。
2022/02/05追加:
 現在、本殿は屋根葺替及び彩色の修復の工事中であり、2022年中(2023年3月?)に竣工予定、引き続き2023年には本殿門の彩色復元工事が予定されているという。
 祭神にスサノヲが祀られるので、八幡神勧請前は牛頭天王であったのかもしれないが、記録などの情報がないので、不明である。
あるいは、明治維新の神社統合で附近の牛頭天王を合祀したかも知れないが、これも不明である。
 本殿(室町期)は重文(昭和40年指定)であるが、棟札(江戸期)と旧脇障子欄間(江戸期)が昭和63年追加指定される。
拝殿は天明5年、本殿門及び玉垣は江戸後期の建立、石鳥居は元禄15年(1702)の造立。


付近には佐山安楽寺、西方寺、三福寺、浄福寺、林の薬蓮寺の5箇の神宮寺があったが、浄福寺は既に江戸期には観音堂などを譲渡し、残りの神宮寺も明治維新の神仏分離の処置で全て廃寺となる。
現在神社境内には仏教的要素は全く残存しない。
 今なおこの地方では有数の広大な境内(3330坪)を有する。西に鳥居を構え、鳥居から参道は長く東に進み、途中参道は突然、直角に北に折れ、社殿に至る。
  雙栗社東西参道(西方を望む ・・西向きに鳥居がある)
  雙栗社南北参道(北方を望む ・・社殿は南面する)
本殿:重文、三間社流造、檜皮葺、正面に向拝、明応3年(1494)の建立と推定される。昭和54年修復。
斗供、蟇股、柱、貫などには豪華な彫刻・彩色が施される。
また本殿の周りには瑞垣を廻し、入口門を設ける。
 

椏本八幡宮本殿(重文)

2002/10/05撮影:
 雙栗社本殿1
  同     2
  同     3(左図拡大図)
  同     4
  同     5
  同     6
  同     7
  同     8
  同     9
  同    10
  同    11
  同    12
  同    13
  同    14
  同    15
  同    16
2007/03/03撮影:
 椏本八幡宮社殿
  同 入口門蟇股
  同 社殿枓栱など
 

2012/05/01撮影:
 椏本八幡宮社殿11     椏本八幡宮社殿12     椏本八幡宮社殿13
 椏本八幡宮社殿14     椏本八幡宮社殿15     椏本八幡宮社殿16
 椏本八幡宮社殿17     椏本八幡宮社殿18     椏本八幡宮社殿19     椏本八幡宮社殿20     椏本八幡宮社殿21
 椏本八幡宮社殿22     椏本八幡宮社殿23     椏本八幡宮社殿24     椏本八幡宮社殿25     椏本八幡宮社殿26
2013/10/13撮影:
 椏本八幡宮社殿31     椏本八幡宮社殿32     椏本八幡宮社殿33     椏本八幡宮社殿34     椏本八幡宮社殿35
 椏本八幡宮社殿36     椏本八幡宮社殿37     椏本八幡宮社殿38     椏本八幡宮社殿39     椏本八幡宮社殿40
 椏本八幡宮社殿41     椏本八幡宮社殿42     椏本八幡宮社殿43     椏本八幡宮社殿44     椏本八幡宮社殿45
 椏本八幡宮社殿46     椏本八幡宮社殿47     椏本八幡宮社殿48
2017/01/19撮影:
雙栗神社などという欺瞞については、既に上に記載しているが、再度記載する。
 久御山町のサイトをはじめ種々のサイトは、本社を「延喜式神名帳に、『山城国久世郡 雙栗神社三座 鍬靫』とある式内社」などというが、ほぼ全ての「式内社」と同じく、何の根拠があるのであろうか。
近世や近代初頭の国家神道がその郷で一番繁盛している社である暗黙の理由だけで、祭神を記紀系統の神に取り替え、社号を改号しただけのことであろう。まさに「罰当たりな所業」あるいは「神を懼れぬ所業」であろう。



椏本八幡宮本殿拝所:左上図拡大図

椏本八幡宮本殿51
椏本八幡宮本殿52
椏本八幡宮本殿53
椏本八幡宮本殿54
椏本八幡宮本殿55
椏本八幡宮本殿56
椏本八幡宮本殿57
椏本八幡宮本殿58:左下図拡大図
椏本八幡宮本殿59
椏本八幡宮本殿60
椏本八幡宮本殿61
椏本八幡宮本殿62
椏本八幡宮本殿63
椏本八幡宮本殿64

椏本八幡宮拝所11
椏本八幡宮拝所12
椏本八幡宮拝所13

2023/03/30撮影:
 2022年に本殿を修復する。屋根の檜皮を葺替し、本殿の彩色を復古する。
なお、本殿拝所(本殿門)は国指定の文化財でない故か修復されず。
祭神はアマテラス、スサノヲ、コトシロヌシ、応神天皇、比淘蜷_、仁徳天皇、神功皇后という。
祭神にスサノヲが配神されるので、あるいは牛頭天王が祀られていた又近代に附近の牛頭天王が合祀されたことも考えれれるが、まったく資料や情報がなく不明である。
古代の雙栗神社などという真偽は不明でまず欺瞞であろう、近世は八幡宮の側面が強調され、その他の情報は皆無である。

椏本八幡宮本殿71
椏本八幡宮本殿72
椏本八幡宮本殿73
椏本八幡宮本殿74
椏本八幡宮本殿75
椏本八幡宮本殿76
椏本八幡宮本殿77:左図拡大図
椏本八幡宮本殿78
椏本八幡宮本殿79
椏本八幡宮本殿80
椏本八幡宮本殿81
椏本八幡宮本殿82
椏本八幡宮本殿83
椏本八幡宮本殿84:左図拡大図
椏本八幡宮本殿85
椏本八幡宮本殿86
椏本八幡宮本殿87
椏本八幡宮本殿88
椏本八幡宮本殿89
椏本八幡宮本殿90
椏本八幡宮本殿91
椏本八幡宮本殿92
椏本八幡宮本殿93

椏本八幡宮拝所14
椏本八幡宮拝所15
椏本八幡宮拝所16
椏本八幡宮拝所17

椏本八幡宮参道


なお神仏分離で所蔵の大般若経600巻は大松寺に遷され、現在も当寺では毎年、大般若経の加持祈祷法要が営まれていると云う。

「椏本八幡宮縁起」などの記録により、以下の仏像が知られる。
西方寺(佐山) 阿弥陀如来立像 二尺一寸 定朝作(「山州名跡志」「拾遺部名所図会」は坐像とする)
三福寺(佐山) 薬師如来坐像 三尺一寸 恵心僧都作(「山州名跡志」は作不詳とする)
浄福寺(佐山) 観音菩薩立像 安阿弥作 (「山州名跡志」は「二尺許」と記す):佐山浄安寺に移安し現存か。
薬蓮寺(林) 薬師如来坐像 三尺五寸 「定朝之其作」(「山州名跡志」は立像とする):重文・林西林寺に移安し現存。
安楽寺(林) 薬師如来立像 四尺二寸 行基作 (「山州名跡志」は坐像とし、作不詳とする):
 2016/12/04追加:廃安楽寺の薬師如来像は佐古称名寺(重文)に移安との解説があるが疑問である。
  ※佐古称名寺に移安とするのは「旧巨椋池周辺の仏像」井上正(「学叢 創刊号」京都国立博物館、昭和54年/1979 所収)と
   「宇治の佛たち」安藤佳香、平成元年(1989)とがある。 →このページの「佐古称名寺」を参照。
  ※廃安楽寺の薬師如来像は佐古法蓮寺本尊の移安とする解説もある。もし、佐古称名寺像が佐古廃法蓮寺像であるとすれば、
   現在のところ、廃安楽寺像の行方は不明とするしかない。
  ※「旧巨椋池周辺の仏像」が佐古称名寺像を廃安楽寺像とする根拠ははっきりしないが、
   造形上、林西林寺像(廃薬蓮寺薬師如来坐像)が佐古称名寺像(廃安楽寺像)の根本仏と考えられるということから
   佐古称名寺像を廃安楽寺像であろうと推測するものと思われる。

椏本八幡宮の五ヶ神宮寺
2018/07/31追加:
■椏本八幡宮五ヶ神宮寺配置図
 椏本八幡宮五ヶ神宮寺配置図:神宮寺の配置を示す。但し同じ図は「久御山町史 第1巻」に掲載がある。
廃西方寺
佐山にあった。寺地は椏本八幡宮の鳥居のすぐ前方(西)だったと伝える。
久寿年中(1154-56)如一上人開基とし、本尊阿弥陀如来という。
また寺伝では大同元年(806)の創建とし、円乗坊・光成坊・乗坊・円蔵坊・新坊があったと云う。
如一上人により中興されたが、天文年間に荒廃し、円乗坊のみ残るという。
安政4年(1857)「佐山村寺社明細帳」:八幡山滝本坊末寺で真言宗憲源派とする。
明治初年、佐山浄福寺に合併という。
○「久御山町史 巻1」1986 より
久寿年中(1154-56)如一上人によって中興されるも、天文年中(1532-55)荒廃し、五坊の内円乗坊のみ残るという。
「京都府地誌」明治10年代 では「西方寺円乗坊ともいふ。・・・境内東西35間南北29間面積517坪、真言宗初め八幡庄瀧本坊に属し、今葛野郡八条村大通寺の所管たり。」とある。天文年中に荒廃し、西方寺の名は支院の一つである円乗坊に残されたのであろう。

廃三福寺(山福寺)
佐山にあった。寺地は現在の大松寺の南隣(西隣であろう)であったと伝える。
 (佐山双置55番地、明治27年頃まで佐山自治会の集会所として使われるというから、大松寺の西隣にあったことになる。)
建長元年(1249)興正菩薩の開基、本尊薬師如来、寛文11年(1671)再興されたと云う。
寛保元年(1741)焼失、同3年再建。慶応3年以降無住になり、佐山浄安寺に合併される。
なお堂宇は昭和27年頃まで、佐山自治会集会場として残っていたという。
また、当寺にあった神牛石は大松寺南(三福寺跡)に神牛石神社が明治初年に建立され、ご神体として移安されている。
また大正5年には三福寺跡に散乱していた石塔の石を集め、十三重石塔が建立され、また神牛石神社本殿が改築されたという。
○神牛石神社:説明札には次のように記す。
 神牛石はもともと三福寺の庫裡に安置されていた。
文化9年(1812)の「神牛石縁起」には「年を経て、この石の所在が分からなくなっていたが、寛保2年(1742)8月23日、三福寺境内の蓮池跡から掘り出し、この日を例祭日とする」とある。
明治初年三福寺は廃寺となり、神牛石を神体とする神牛石神社が建立される。春秋23日の祭礼は神牛石講(牛を飼育する農家で構成)が司り、昭和初期の例祭日には、近在の牛が集まり、露店も出て終日賑わうという。しかし昭和30年代には、農耕は機械化され、牛の飼育は廃れ、講は解散することになる。現在、神社の祭祀は9月23日大松寺によって執行されるという。
 ※寛元元年(1243)興正菩薩叡尊が卒塔婆1基を建立し、古代からの遺物である霊牛石を安置する。これが神牛石である。
2002/10/05撮影:
 神牛石神社(写真後方の堂は大松寺本堂)
2018/05/17撮影:
 神牛石石碑:昭和3年三宅安兵衛建立石碑の一つ     神牛石神社全景     神牛石神社本殿
 大松寺十三重石塔:三福寺跡に散乱していた石塔の石を集めて建立したのが本当であれば、三福寺の遺構ということになる。
○旧大松寺金毘羅大権現(円蔵院金毘羅堂)
 なお大松寺境内には金毘羅大権現を祀っていたが、度重なる水害のために、明和7年(1770)広野円蔵院後方金毘羅山(前方後円墳)上に移転する。更に戦後の宅地開発で金毘羅堂は円墳上から降り、円蔵院境内に移転新築される。
2003/5/29撮影:
  円蔵院金毘羅堂1:堂の外観は完全に仏堂形式を採る。
  円蔵院金毘羅堂2:金毘羅のマーク
  円蔵院金毘羅堂3:堂前には鳥居を構える。
  円蔵院金毘羅堂4:金毘羅大権現の仏体に鳥居を構える
  円蔵院金毘羅堂5:金毘羅堂前鳥居の銘、不鮮明であるが、明和9年?と読める。
             移転したという明和期にこの鳥居は建立されたと思われる。
 ※現金毘羅堂は近年の再建堂であるが、近世の神仏習合の様子を良く伝える。
また堂本尊は中央金毘羅大善神(大権現に替えて大善神と呼んでいるようで、神仏分離のなせる悪行と思われる。)、
左右には熊野大権現、秋葉大権現(両者とも大権現号のままである。)を祀り、転読が修われるのかどうかは不明であるが、大般若経が什宝として備えられる。 毎年の金毘羅祭には100前後?の夜店が出店され、雑踏になる。
2023/04/01撮影:
 この日は金比羅祭ではないが、円蔵院境内でマルシェが行われていた。
  円蔵院参道    円蔵院金比羅堂6

廃浄福寺
佐山にあった。寺地は現在の浄安寺の東隣であったと伝える。弘長年中の創建、本尊聖観音とする。
明暦年中(1655-56)に観音堂・山林を浄安寺に譲り渡し、廃寺となる。
旧浄福寺観音堂は現佐山浄安寺観音堂(昭和60年修復)として引き継がれると云う。
木造聖観音立像:浄安寺観音堂安置、10世紀末−11世紀初?、浄福寺観音堂の旧仏で明暦年間に移安。
○浄安寺:佐山
 浄土宗。観音堂には旧浄福寺観音堂木造聖観音立像(平安後期)を安置する。
2002/10/05撮影:
 佐山浄安寺観音堂
2018/05/17撮影:
 佐山浄安寺山門     佐山浄安寺観音堂2
 浄安寺観音堂扁額:城南近在33所観音巡礼札所、浄安寺観音堂は第18番札所である。
2006/09/17画像追加:
「学叢」創刊号 より
 廃浄福寺観音菩薩立像(旧佐山・廃浄福寺の旧仏・高さ143cm)
2018/07/31追加:
「ふるさと歴史散歩 久御山町の社寺」 より
 廃浄福寺観音菩薩立像2:木造聖観音立像

廃薬蓮寺
林にあった。寺地は椏本八幡宮北西、現宝照寺東隣あたりにあったと伝える。本尊薬師仏。
明治4年廃寺となる。以下の薬師仏と阿弥陀仏2躯および宝物仏具は林の西林寺に移座される。
本堂は明治14年売却され、明治27年威徳院(淀川顔町)に移され、現存する。
  ※現在、伏見区淀川顔町威徳院は現存せず、その消息は不明である。
 木造薬師如来坐像(西林寺・11世紀前半?・高さ42cm)明治4年、移安。
 木造阿弥陀如来坐像−定印−(旧西林寺・11世紀中?)明治4年、移安。2006/09/17画像追加:「宇治の仏たち」
 木造阿弥陀如来坐像−来迎印−(旧西林寺・12世紀前半?)明治4年、移安。2006/09/17画像追加:「宇治の仏たち」
  ○西林寺:林
明治4年薬蓮寺旧仏三躯が西林寺に移安、この三尊の安置のため、明治13年に薬師堂が建立され、三尊が安置される。
昭和36年の第二室戸台風で堂後方の公孫樹の巨木が倒れ、薬師堂を直撃、3尊はバラバラに砕け、原形を失う。
仏像の断片は丁寧に拾い集められていたが、昭和45年京博国宝修理所にて修理が行われる。
阿弥陀仏2躯は国に譲渡され、京博に保管、薬師如来坐像は昭和48年新築の薬師堂に遷座する。
  西林寺薬師堂
2006/07/追加:
 上記3躯に加え、
  銅造釈迦誕生仏(像高11.4cm) 明治4年薬蓮寺より西林寺に移安。2006/09/17画像追加:「学叢」創刊号

廃安楽寺
佐山にあった。寺地は三福寺の北北西すぐにあったと伝える。
  (佐山双置26番地附近)
興正菩薩の中興、後二条院母后西華門院源基子本願で、本尊は薬師仏と伝える。
「佐山村寺社明細帳」:薬師堂、安楽寺とあり、建長元年行基菩薩の開基の由申し伝え候、再建は寛永7辰年とある。
 (「無本寺、浄土宗、薬師堂、安楽寺、境内東西10間、南北16間、本堂2間×2間瓦葺、当寺は建長元年興聖菩薩開基、再建者寛永7年称譽覚西」)
明治7年頃まで建物は残っていたと云う。

室城神社:下津屋

○2002/10/05撮影:
寛永7年の木津川の洪水で社記を流失し、社歴は不詳。
江戸期には境内に神宮寺があったという。
神宮寺(妙感院);
泉湧寺末と伝える。明治の神仏分離で廃寺(おそらく破壊)。
寺院跡地は神社境内と共に、大正3・4年の木津川改修工事で買収され消滅したという。
従って現在は往時を偲ぶ遺構は何もない。
西側に現存する浄土宗迎接寺に安置の木造菩薩形坐像(9世紀末?)は明治初年、神宮寺(妙感院)から移安されたものと云う。
 室城神社社殿  浄土宗迎接寺
○2006/09/17画像追加:「学叢」創刊号 より
 室城社神宮寺菩薩形坐像
○2010/03/20追加:
 明治8年下津谷村室城神社:「延喜式内並国史見在神社考証」(京都府立総合資料館蔵・明治初頭の式内社確定のための資料) より
移転以前の姿を伝える。鳥居・石階・舞台・本殿と小祠2宇がある。絵図左にある茅葺と思われる庵は神宮寺に関係するものであろうか。

玉田神社:森

「御牧郷村名宮寺初記」文政11年(1828)の「玉田大明神縁起」:
 仁徳天皇の時代、木津川より流来るご神体を引き上げ(その場所を早揚という)、神宮山法楽院に宮を立て丹波津宮と称する。
天正14年及び寛永元年の棟札が現存し、それによれば天正14年、現在の場所に遷座し、御牧城主御牧勘兵衛尚秀によって再興とされる。
また寛永元年淀城主板倉伊賀守高勝によって修復される。
 かっては神宮寺法楽院があった。
かっての鎮座地は現在地の北西、中島より北の交錯地点あたりの字「法楽寺」と云う。
また法楽寺南を現在も早揚と通称していると云う。もちろん、字「法楽寺」はかって玉田神社の神宮寺と社殿があったところである。
2002/10/05撮影:
 玉田神社社叢   同   社殿1   同   社殿2
 ○法楽寺(廃寺);
「御牧郷寺社明細帳」(安政4年):
寛永元年開基(宗順)延享4年(1747)まで7代続く。延享4年大破し、文政6年(1823)まで放置され、ようやく玉田神社境内除地に本堂(4間×2間)が再建される。境内地は東西7間、南北6間。
山号は神宮山と称する。玉田神社の神宮寺の故と思われる。

珠城神社:市田

かっては神宮寺(護王寺)があったとされる。
「市田玉城神社護法神社並神宮寺巻」(天正13年・「玉城神社縁起」):
 垂仁天皇崩御の時、その神霊を祀ったのを始まりとする。
延暦18年(699)和気清麻呂の死にあたり、玉城宮に並べて神殿を造り、護法神社とする。
その後桓武天皇の時代、大僧都行賀によって護王寺(神宮寺)が建立された。
行賀は本尊薬師仏・五大尊を自ずから刻み安置する、護王寺は楼門伽藍を有し、市田を神領とする。
治承4年(1180)源平合戦で平氏の為灰燼に帰す。
文治元年(1185)源頼朝が再営し、護王寺諸仏は仮堂に移す。
元弘元年(1331)楠正成は珠城神社に拝礼し、武運長久を祈り、毘沙門天を刻み、北向に祀る。
天正元年(1573)填島の合戦で敗れた義昭の敗兵によって炎上し、御神体を仮宮に安置する。
江戸期には、椏本八幡宮に合祀されていたとされるが、昭和42年珠城神社が再建され、祭神は現在地に遷座する。
古老の伝えるところによると当社北側に薬師堂があったと云う。これはおそらく「縁起」でいう「諸仏を仮堂に移す」という仮堂に当り、近代初頭まで存続したものと推定される。
また現在市田の西福寺跡(明治12年伊勢田来迎寺に合併)に市田薬師堂が現存し、これは合併にあたり、西福寺薬師堂が空いたため、珠城神社薬師堂の諸仏を移したものと推定される。従って市田薬師堂内の木造薬師如来坐像(後世の補修が多いものの10世紀頃の作という)は護王寺本尊であろうと推定される。
現在市田薬師堂には、上記木造薬師如来坐像、阿弥陀如来坐像(平安後期)、阿弥陀如来立像、地蔵菩薩坐像(昭和7年)の4仏を祀る。
2002/10/05撮影:
  珠城神社社殿
2010/03/20追加:
「玉城神社縁起」は天正13年(1585)の年紀を持つが、このような古記録が今に伝わり、現存するのであろうか、不審である。
全文の写真及び翻刻が「久御山町の社寺」にある。書体は現代風な楷書であり違和観がある。内容も皇国史観風であり、記紀の頃を始まりとし、国史の著名人や事象をフンダンに登場させる。これ等の内容から見ると、古くとも近世後期のものであろう。あるいは明治維新後の偽作とも思われる。

野村牛頭天王社(現・常盤神社):野村

2018/07/29改訂:
○「久御山町の社寺」阪部五三夫・中務佐市、昭和51年 より
明治維新前は牛頭天王社であり、神宮寺(長福寺)があった。
「城洲久世郡御牧郷野村寺社明細帳」(文化6年<1805>):牛頭天王社と称する。
境内東西23間、南北80間を有し、八幡山橋本坊除地とする。
 (八幡山橋本坊とは石清水八幡宮橋本坊と思われるも、橋本坊とは橘本坊との混同があるようで、良く分からない。)
境内には若宮八幡社(5尺四方)、蔵王権現社(2尺四方)、地蔵堂(1間四方、瓦葺)、舞殿(3間×1間半)、鳥居があった。
また神宮寺として長福寺(真言宗)があった。
さらに、「地蔵堂、一間四方、瓦葺」とあるという。
神仏分離により、社号を野村神社に改号し、長福寺を廃す。明治6年村社になり、同14年常盤神社と改称する。
また境内地の大半は上地を命ぜられる。
地蔵堂は神仏分離により、拝所を西向きに変更し、神社と分離する。地蔵堂は、現在西にある野村称名寺に合併され、明治16年改築される。称名寺安置の地蔵菩薩坐像は牛頭天王地蔵堂本尊と伝える。
地蔵堂に関しては、明治16年の調査である「久世郡社寺境内外区分図」(京都府総合資料館蔵)に「山城国久世郡第三区御牧村氏神、素戔嗚命新旧境内区分実測、常盤、六百分の一縮図、地蔵院旧地共」とあり、常盤神社の境内に地蔵院の旧地があり、称名寺に接して存在したことが分かる。
長福寺は沿革がはっきりしないが、明治元年廃寺となると云う。
本尊大日如来坐像、釈迦如来坐像は廃寺後、放置されていたが、明治22年野村称名寺に修理のうえ、移安する。
2018/07/29追加:
○「ふるさと歴史散歩 久御山町の社寺」阪部五三夫、平成12年 より
「御牧郷寺社明細帳」では、境内は八幡山橋本坊の除地であり、東西23間・南北80間、1840坪の地を有し、ここには橋本坊末寺真言宗長福寺と地蔵堂があり、牛頭天王を祭神とする社もあった。
牛頭天王社には古来から御弓事と呼ばれる神事があった。この御弓事の史料は寛永13年(1636)から幕末までのものが常盤神社に保存されているという。
明治初年、御一新ということで、神仏判然令により、長福寺は廃寺、続けての上地令によって、旧宇治道から北に向かってあった参道の両側の941坪の境内地(田地)は上地を命ぜられ、後年この土地は地元に払い下げられるが、土地は凡そ1/4に減少する。
明治14年社号牛頭天王は廃され、常盤神社と改称され、祭神も牛頭天王からスサノウとタケミカヅチと挿げ替えられる。
本殿は平成6年(1994)修復工事が竣工、極彩色に彩色される。
現在境内は432坪、拝殿・本殿・社務所(新築)・末社若宮・同稲荷明神・水分社(通称おさん)がある。
祭礼は10月17日に行われるが、その時供せられる神饌は少なくとも元禄2年(1689)に記録された文書の形式を踏襲するという。
水分社の祭礼は3月6日であるが、その鉢巻飯の形式も少なくとも300年余の伝統を持つという。
2002/10/05撮影:
 旧牛頭天王社1      同      2      同      3      同      4      同      5
2018/05/17撮影:
 常盤神社鳥居:社殿は南面する、明治維新までは南に参道があった。現在は北向きに鳥居が建つ。
 鳥居前庚申碑:上記鳥居前に庚申碑がある。
 野村牛頭天王舞殿     野村牛頭天王本殿前
 野村牛頭天王本殿11     野村牛頭天王本殿12     野村牛頭天王本殿13     野村牛頭天王本殿14
 野村牛頭天王本殿15     野村牛頭天王本殿16     野村牛頭天王本殿17     野村牛頭天王本殿18
 野村牛頭天王本殿19     野村牛頭天王本殿20     野村牛頭天王本殿21     野村牛頭天王本殿22
 野村牛頭天王本殿23     野村牛頭天王若宮八幡1     野村牛頭天王若宮八幡2

野村称名寺

2018/07/29改訂:
○「久御山町の社寺」阪部五三夫・中務佐市、昭和51年 より
鎮西派京都知恩院末寺。
地蔵堂は明治6年に当寺に合祀し、明治16年に改築される。
明治12年野村福寿寺を合祀する。
明治22年明治初年廃寺となった真言宗長福寺本尊大日如来・釈迦如来(廃寺後放置されていた)を修理の後合祀する。
2018/07/29追加:
○「ふるさと歴史散歩 久御山町の社寺」阪部五三夫、平成12年 より
野村にはかって、称名寺のほかに生蓮寺(野村称名寺末)、福寿寺(百万遍知恩寺末)、長福寺(野村牛頭天王)、念仏寺(田井専念寺末)があった。念仏寺本尊は田井専念寺に、ほかの3ヶ寺の本尊は野村称名寺に移安される。その当時、野村の戸数は28戸といい、負担は大きかったということであろうか。
 さて、牛頭天王長福寺の本尊は野村称名寺に遷され、地蔵堂も当寺の管理に移される。明治6年長福寺地蔵堂は称名寺に移築され、その後明治17年再建され、平成7年現在の本堂が造替された時、地蔵堂は廃され、地蔵尊は本堂右側内陣に安置されることとなる。従って長福寺ゆかりの地蔵堂は残念ながら今見ることは出来ない。
この地蔵尊は地蔵盆が終わりを告げる8月24日牛頭天王社境内に櫓を組み、四隅に牛頭天王の提灯、櫓の天井に地蔵堂の提灯を釣るす、神仏習合の名残りを残す踊りを催していたが、明治7年明治政府はこれを禁ずる。しかし盆の行事をいつまでも禁止できるものでもなく、明治17年盆踊りの禁止の達の解除を通達する。
しかしこの復活した盆踊りも昭和24年に中断する。昭和49年25年ぶりに復活されるものの、数年後再度途絶えるという。
野村称名寺は月仲山と号し、浄土宗であり、京都知恩院に属する。
2022/07/27追加:
○「久御山町の社寺」 より
 稱名寺大日如来:金剛界大日如来像、釈迦如来坐像とともに、(廃)野村長福寺の遺仏である。
2002/10/05撮影:
 野村称名寺(東=常盤神社から撮影)
2018/05/17撮影:
 野村称名寺石碑     野村称名寺本堂1     野村称名寺本堂2
 放置された石造物:称名寺のものか廃寺になった寺院のものかは不明であるが、称名寺本堂北側に石造物が放置される。

佐古若宮八幡宮:佐古

 明治維新までは法蓮寺の鎮守であった。
創建については
 1)吉岡家の屋敷神を現在地に遷座して佐古の氏神とした。2)石清水八幡宮より勧請した。3)椏本八幡宮より分祀勧請した。
の諸説があると云う。
天文19年(1550)、寛永13年(1636)、寛文7年(1667)、元禄3年(1690)、享保3年(1718)、延享5年(1748)の棟札を残す。
少なくとも、天文19年には造営されていたと思われる。
 ※2022/07/26追加:上記の棟札以外に「永正6年(1509)奥書の棟札写」が残るので、永正6年以前に創建は遡るだろう。
享保3年、延享5年の棟札には佐古法蓮寺の名称があり、江戸後期の古文書に「法蓮寺鎮守、八幡社同寺境内」の記述があり、江戸期には法(宝)蓮寺の鎮守であった 。
また「佐古村寺社起立改帳」には法蓮寺寺家・庫裏・本殿・拝殿・鳥居などが描かれていると云う。
「法蓮寺堂再建記木札」(享保13年<1728>)・・・佐古称名寺蔵:
 大同元年法界上人開基。仏殿・法堂・鐘楼・山門を有する。応永13年地震により倒壊。倒壊後残木で5間四方の堂を建立。享保13年新たに3間半×2間半の本堂を再建。
西隣の佐古稱名寺には法蓮寺本尊とされる木造薬師如来坐像(重文・佐古稱名寺・12世紀後半?)が残る。
 ※木造薬師如来坐像は下に掲載の佐古稱名寺にあり。
2002/10/05撮影:
 佐古若宮八幡宮1   佐古若宮八幡宮2   佐古若宮八幡宮3
2022/07/27追加:
○「久御山町の社寺」阪部五三夫・中務佐市、久御山町郷土史会、昭和51年(1976) より
若宮八幡の創建年代は不詳。
永正6年(1509)奥書の棟札写が残る。
 永正六年佐古若宮八幡宮棟札写
棟札は「永正6年戌巳 旭光山東明寺二老 木原勘左衛門」によって書かれ、本願は「吉岡藤原輿秀」であったことなどが分かる。
若宮八幡の創建は永正6年以前に遡る。
また、当社には前述の通り、天文19年(1550)、寛永13年(1636)、寛文7年(1667)、元禄3年(1690)、享保3年(1718)、延享5年(1748)の棟札(何れも現物)を残す。
 ※「写」を含め、6枚の現物は「久御山町の社寺」のP.81〜85に写真・復刻が掲載される
その内、享保3年の棟札には法蓮寺の名が見え、また天保5年(1834)〜明治12年頃の古文書に「城州久世郡佐古村法蓮寺鎮守、八幡社同寺境内」とあるので、江戸末期には法蓮寺鎮守であったと思われる。
 ※法蓮寺は若宮八幡宮の南に接する現在の佐古公会堂(久御山町佐古内屋敷26)にあったといい、
法蓮寺の項にある「佐古寶蓮寺伽藍配置」(「久御山町の社寺」より)には、寶蓮寺は本堂・庫裡具備し、その北側に八幡宮・拝殿があったことが示される。
 →法蓮寺については、下に掲載の「佐古法蓮寺(廃)」の項を参照。
なお、祭神は八幡大菩薩で、復古神道流にいえば、応神天皇・神功皇后・比淘蜷_ということになる。
末社に神明社(アマテラス)、天満宮(菅原道真)がある。
2022/04/04撮影:
社殿は三間社流造・屋根は確認がとれないが、檜皮葺(現在銅板仮葺)という。向拝の中間の蟇股には笹竜胆の彫刻を施す。
 佐古若宮八幡宮11     佐古若宮八幡宮12:以前より覆屋が補強され、いっそう本殿が覆い隠される状態となる。
 佐古若宮八幡宮13     佐古若宮八幡宮14     佐古若宮八幡宮15     佐古若宮八幡宮16
 佐古若宮八幡宮17:蟇股     佐古若宮八幡宮18     佐古若宮八幡宮19

佐古の野神

佐古若宮八幡宮の西に野神がある。
野神について、諸サイトの情報を総合すると、次のようである。
30坪ほどの境内があり、そこには古い石塔が集められている。
「久御山町史第二巻」によると、野神は久御山高校の東側に祀られていたが、昭和十五年に建設が開始され2年後にほぼ完成した京都飛行場から出土した石塔を集めて若宮八幡宮西側のこの場所に祀ったのだという。
 ※だとすれば、野神と石塔類とはほぼ関係がないのであろう。
 ※野神の神事と八幡宮との関わり(特に薦の粽が八幡宮に供えられることに注目すべきであろうか。
2022/04/04撮影:
 佐古の野神1     佐古の野神2     佐古の野神3     佐古の野神4     佐古の野神5
ここでは毎年6月5日午前零時に神事が行われる。灯りを消した暗闇の中で、音を立てず、声も出してはいけないという神事で、暗闇の奇祭と呼ばれている。
神事の始りは、昔、地域にマラリアが発生して人々が苦しんでいるときに、野神に疫病退散を祈願したのがその始まりという。
現在も、地区民によって支えられているという。
 神前に供えられる神饌は、真菰で巻いた37本のちまき、淡竹(はちく)の竹の子3本、へくそづる、塩、洗い米、味噌、干かます、桑の箸である。
ちまきは、直径約10cm、長さ約70cmの大型である。
 ※数年前までは37本のちまきがお供えされていたが、最近では、近辺で真菰の自生が少なくなり、昔ながらのジャンボちまきは3本を作るのみとなるが、すべての餅は箱舟に並べて真菰で覆うような形状のちまきに変化したという。しかしながら3本のちまきは若宮八幡宮本社にお供えするのは変わらないという。
5日午前零時、宮司を先頭に宮総代たちが供物をささげて野神に社参する。街灯などは覆って暗くし、灯りを点さず暗闇の中、終始無言で行うことが習わしで、祝詞奏上の際も聞こえないほどの微声で、拝礼も柏手は打たず寸止め(忍び手)で行う。神事が終わると粽の中の餅が取り出され、切り分けた上で氏子に撤饌として配られる。各戸への配布は夜が明ける前に役員により行われ、各戸に持って行くときにも終始無言で配布し、人と出会っても声を出して挨拶も交わしてはいけないとされる。

野神の神事では「真薦」の「粽」が若宮八幡宮に供えられる。
では、なぜ「真薦」の「粽」が八幡宮に供えられるのであろうか。
「真薦」と云えば、豊前宇佐八幡宮の神体は「薦枕」と云う。
この事と、何か関連があるのであろうか。
「八幡神とはなにか」(飯沼賢司)では次のように云う。
宇佐八幡宮の神体【御験(みしるし】は「薦枕」(こものまくら)である。
 →これについては、宇佐八幡宮・弥勒寺>「薦枕の成立と託宣の凋落」を参照。
宇佐八幡宮の神体が「薦枕」であり、それは三角池(薦神社)の真薦で造られ、一方、佐古の野神の神事の神饌の主要部が「真薦の粽」であり、それが若宮八幡に供えられるとは、宇佐八幡(薦神社)からの影響をうけているとは考えられないであろか。
但し、それを証するものは一切なく、単なる思い付きの類ではあるが。
更にいえば、野神の神事は疫病退散の祈念がその始りといい、八幡神の性格は種々あるが、疫病から人々を救うという側面も持っていたはずで、その動機から、八幡神に思いが至ったかも知れない。

佐古稱名寺:佐古

2016/12/04追加:
 稱名寺安置の薬師如来坐像(重文)は、下記の諸資料に示すとおり、明治維新の神仏分離の処置では廃寺となった法蓮寺の本尊であったという。郷土史家・久御山町教委などの見解である。
 一方、上の椏本八幡宮の項に掲載したように、椏本八幡宮神宮寺の一つである安楽寺(廃)の本尊であるとする見解もある。この見解は「旧巨椋池周辺の仏像」と「宇治の佛たち」の 見解である。 →佐山椏本八幡宮の項を参照
 では、稱名寺安置の薬師如来坐像は廃法蓮寺あるいは椏本八幡宮神宮寺廃安楽寺のどちらの仏像であったのであろうか。
廃安楽寺像とする根拠は上述のように「造形上、林西林寺像(廃薬蓮寺薬師如来坐像)が佐古称名寺像(廃安楽寺像)の根本仏と考えられるということ」の1点につきるであろう。要するに、美術上の印象が唯一の根拠であるといえるであろう。
 一方、称名寺は近世には法蓮寺の本寺であり、また称名寺・廃法蓮寺(称名寺末)・廃東明寺・廃観音堂(称名寺末)・若宮八幡(法蓮寺鎮守)などは佐古内屋敷に隣接して存在し、明治維新に廃寺となった廃東明寺などの仏像類が称名寺に移されていることから、法蓮寺本尊薬師如来も称名寺に移されたとみるのが極めて自然であろう。以上の観点から、稱名寺安置の薬師如来坐像は廃法蓮寺の本尊である可能性が高いと思われる。
○「護念山稱名寺」佐古称名寺リーフレット より
由緒:
安永3年(1774)の「稱名寺縁起」では次のように説く。
開基は西誉上人、諸国行脚中の上人は京都日野の平山氏より持仏堂安置の行基作阿弥陀如来を受贈する。この如来像は鴨長明が近郊の外山(方丈記を書いた日野の庵)に引きこもりし時に平山氏んぼ祖先に送ったものである。
天文3年(1534)西誉上人は行脚を続け、佐古村の吉岡邸で休息したところ、仏像は盤石の如く動かなくなるという。さては佐古村は有縁の地なりとして、吉岡氏に寺の建立と仏像安置を依頼する。吉岡氏は「当家は代々念仏の家なり」として、浄土宗の寺を建立し、仏像を安置、これが現在の本尊阿弥陀如来坐像である。
寺宝:
 本尊阿弥陀如来坐像(木造一木造、像高54.5cm、平安前期)
 薬師如来坐像(法蓮寺旧仏、重文、木造寄木造、像高138cm、平安後期)
 大日如来坐像(胎蔵界、東明寺旧仏、木造一木造、像高89.3cm、平安後期)
○「久御山町の社寺」阪部五三夫・中務佐市、久御山町郷土史会、昭和51年(1976) より
佐古称名寺:
浄土宗知恩院末、寺伝では大同年中(806-809)の創建といい、天台宗であった。
本尊:阿弥陀如来坐像、什宝:薬師如来坐像(法蓮寺(廃)の旧仏、平安末期、重文)、大日如来坐像(東明(名)寺(廃)の旧仏)
○久御山町WEBサイト より
「佐古の称名寺に安置されている薬師如来坐像は、材質は檜材、寄木造で作られ、像高は138.0cm、平安時代後期、12世紀後半頃の作と考えられている。
 この像は、佐古にあった法蓮寺の旧仏と考えられる。それは当寺に残されている享保13年(1728)の「法蓮寺堂再建記木札」によって知ることができる。 」
 ※「法蓮寺堂再建記木札」では「本尊薬師如来云々・・」と述べるのみである。
○現地の駒札
久御山町郷土史会の名称で設置。
佐古は典型的な環濠集落で、集落の中には稱名寺・善林寺・法(寶)蓮寺・東明寺・観音堂の諸堂宇があった。法蓮寺・東明寺・観音堂は明治初年に廃寺、三ケ寺の仏像は稱名寺に移座され、現存する。
法蓮寺の旧仏である木造薬師如来坐像は大正6年に国宝に指定される。また同寺には近世日野の里から移された本尊の木造阿弥陀如来坐像と東明寺の旧仏である木造大日如来坐像がある。
 ※なお、「久御山町の社寺」によれば、観音堂本尊は十一面千手観音立像で、現在は佐古の称名寺に安置されるという。また、法蓮寺及び東明寺は称名寺の末寺であり、観音堂は本寺を称名寺とするという。
○2016/11/10撮影:何れも稱名寺本堂安置
薬師如来像は金網越しの撮影であり、金網にフォーカスがあたり、像容がはっきりしない写真となる。
 旧法蓮寺本尊薬師如来坐像1     旧法蓮寺本尊薬師如来坐像2     旧法蓮寺本尊薬師如来坐像3
 旧法蓮寺本尊薬師如来坐像4
  2006/09/17画像追加:「宇治の仏たち」 より転載
  廃安楽寺薬師如来立像( 重文・佐古称名寺・高さ38cm):・・・「宇治の仏たち」では廃安楽寺とする。
   2016/12/04追加:
   旧法蓮寺薬師如来坐像5:「護念山稱名寺」佐古称名寺リーフレット より転載
   旧法蓮寺薬師如来坐像6:「巨きいまち久御山」久御山町リーフレット、平成27年 より転載
   旧法蓮寺薬師如来坐像7:「久御山町の社寺」 より転載
 称名寺本尊阿弥陀如来坐像1     称名寺本尊阿弥陀如来坐像2     称名寺本尊阿弥陀如来坐像3
 旧東明寺本尊大日如来坐像1:左に写るのは旧観音堂本尊十一面観音立像と推定される。
 旧東明寺本尊大日如来坐像2     旧東明寺本尊大日如来坐像3
「護念山稱名寺」佐古称名寺リーフレットの大日如来坐像写真は胎蔵界大日如来であり、その像容は次の本人(s_minaga)撮影の像と同一と思われる。
 旧観音堂本尊十一面千手観音立像:推定:上 掲載の「旧東明寺本尊大日如来坐像1」左部分をトリムしたものである。

参考)佐古法蓮寺(廃)
2016/12/04追加:2022/07/27加筆;
○「久御山町の社寺」阪部五三夫・中務佐市、久御山町郷土史会、昭和51年(1976) より
薬王山瑠璃光院寶(法)蓮寺。
久御山町佐古内屋敷26付近に所在した。つまり旧寺地は現在の佐古公会堂附近で下に云う「木札」に見える池跡も伝えられる。
享保13年(1728)の「堂再建記木札」では次のようにいう。
大同元年(806)法界上人開基、応永14年(1407)地震により諸堂倒壊、地震の後、残木で5間四方の堂を再建、享保13年新たな堂を再建。
寶蓮寺本尊は現在佐古称名寺安置の薬師如来坐像である。
下の配置図は佐古若宮八幡宮の項に掲載した図である。
 佐古寶蓮寺伽藍配置:寶蓮寺は本堂・庫裡があり、鎮守として八幡宮(現在の若宮八幡宮)がある。
本図から判断すれば、本堂跡には現在邸宅が建ち、庫裡跡が現在の佐古公会堂となっているものと推測される。
 ※若宮八幡については、上に掲載。

参考)佐古東明寺(廃)
2016/12/04追加:
○「久御山町の社寺」阪部五三夫・中務佐市、久御山町郷土史会、昭和51年(1976) より
旭光山東明(名)寺、京都知恩院末。
寛延4年(1752)奥書の「東明寺略縁起」が残り、この全文が「久御山町の社寺」の資料編に掲載される。
 (本ページへの掲載は割愛)

御牧牛頭天王社(現・大藤神社):北川顔

「御牧郷寺社明細帳」安政4年:氏神牛頭天王・・・とある。
特に仏堂があったという記録はないと思われる。
2018/07/29追加:
○「久御山町の社寺」阪部五三夫・中務佐市、昭和51年 より
創建は相当古く不詳である。明治以前は牛頭天王を祀っていた。
明神造の鳥居に元禄12年(1699)、手水石に元禄8年(1695)と刻む。
本殿:流造銅板葺、5坪  拝殿:入母屋造瓦葺、4.5坪
御幣座は藤和田、御酒座は封土、御神饌座は北川顔と三座がある。
2018/07/29追加:
○「ふるさと歴史散歩 久御山町の社寺」阪部五三夫、平成12年 より
慶応4年の神仏判然令によって、佛教色は排除される。(慶応4年「淀藩触書」では「・・・牛頭天王と相称し候神号は相除き、元の神号又は地名等に相改め、何大明神の社と唱え替る可し・・とある。 →淀藩による神仏混淆禁止令
 明治2年御牧郷大庄屋中西六右衛門の記した「日記」(中西六郎家文書)の4月8日の項には
「氏神御神体糾し申し候処、異国神牛頭天王を前に奉るを取り除き私宅へ持ち帰る」とあって、明治2牛頭天王は取り除かれ、庄屋宅に持ち帰られたことが分かる。そして社名も初めスサノヲ大明神と改めたが、その後大藤の神祠、そして大藤神社と改称されている。
2018/05/17撮影:
御牧牛頭天王の東は農地であるが、今は区画整理が行われ、整然とした農地が並ぶ。そこに「天王道上」「天王道下」の字がある。明らかに「天王道」とは牛頭天王に由来すると推測されるが、その由来及び近世の命名なのか明治以降の命名なのかは不明である。
また、現在の社には牛頭天王の痕跡はないが、唯一鳥居にその痕跡を見ることができる。
 御牧牛頭天王社頭:向かって左は社務所
 御牧牛頭天王鳥居:向かって右に「■■■■華表」「元禄12年」の年紀を刻む。参道は手水舎・5対の石灯篭・石階を経て、拝殿に至る。
 推定牛頭天王痕跡1     推定牛頭天王痕跡2:「華表」の文字の上に四文字削られた痕跡があるが、その削られた文字は「牛頭天王」と推定される。つまりこの鳥居には「牛頭天王華表」「元禄12己卯年・・」と刻まれていたのであろうと推定される。なお平川牛頭天王社の鳥居には牛頭天王の文字が刻まれ、こちらはその文字が現存する。
 御牧牛頭天王手水石:元禄8亥/正月 と刻む。     参道石灯篭:手前の1対は古いものと思われるも、年紀は不明。
 御牧牛頭天王拝殿     御牧牛頭天王本殿1     御牧牛頭天王本殿2     御牧牛頭天王本殿3     御牧牛頭天王本殿4

参考
「触書」・・・慶応4年4月淀藩が領内寺社に対して出した「神仏混淆禁止令」の要旨は以下のとおり。
淀藩は現久御山町の領主であった。
  → 淀藩「神仏混淆禁止令」(要約)

藤和田若宮八幡宮:藤和田

「御牧郷寺社明細帳」安政4年:若宮八幡宮・・・・往古より夕涼宮と申し伝え候・・とある。
2018/07/29追加:
○「久御山町の社寺」阪部五三夫・中務佐市、昭和51年 より
小鳥居、石階、流造銅板葺一坪の本殿(小祠)のみある。
古くは夕涼の宮と云い、著名であった。元は弁財天を祀っていたという。(現在は若宮・仁徳天皇を祀る)
また、藤原愛発(なりとき)別業址とも云われる。
 (藤原愛発は正三位・大納言、承和9年(842)に承和の変が起こり、愛発は謀反人とされ、京都郊外に放逐、山城久勢郡の別業に籠もり二度と政界に復帰することはなかったという。変ののちは、藤原良房が実権を握るという。)
2018/07/29追加:
○「ふるさと歴史散歩 久御山町の社寺」阪部五三夫、平成12年 より
「御牧郷寺社明細帳」:「若宮八幡宮、壱尺五寸四方、屋根瓦葺、右は往古より夕涼宮と申し伝え候」
宝暦4年(1754)の「山城名跡巡行志」:「(藤和田)村に在り、小祠南向、祭る所弁財天、古の風俗の歌に美豆の御牧の夕涼といふ所也」
2018/05/17撮影:
 藤和田若宮八幡     藤和田若宮八幡本殿

●参考文献:
「久御山町史 第1巻」久御山町史編纂委員会編、昭和61年刊、京都府久御山町
「ふるさと歴史散歩・久御山町の社寺」坂部五三夫著、久御山町刊、平成12年
「久御山町の社寺」坂部五三夫、中務佐市偏、久御山町郷土史会、昭和51年
「宇治の仏たち」宇治市歴史資料館、平成元年
「学叢」創刊号、京都国立博物館、昭和54年所収:「旧巨椋池周辺の仏像」井上正

なお仏像関係の図版あるいは解説などは京都国立博物館『学叢』創刊号所収
 「旧巨椋池周辺の仏像」 を参照 。

------以下は旧久世郡現城陽市の神社に於ける神仏習合並びに分離------

久世若王社:(華霊天神社・久世神社)城陽市久世

若王社は宮寺(若王寺)の管理であり、廃若王寺堂宇は近年まで存在したと云う。

この社は若王社といわれ、明治維新の神仏分離で、久世神社と改号する。
 (あるいは華霊(かりょう)天神社とも云われたと云う。)
神仏分離前、若王社社殿には十一面観音、毘沙門天、歓喜天宮殿、地蔵菩薩等が安置されていたが、神仏分離で久世万福寺に遷座・現存と云う。
神宮寺は若王寺と称し、明治維新の神仏分離で廃寺となるも、大日堂は近年まで存続する。
「城陽市史」では、古老(明治21年生)の話として、廃寺後も人が住み、子供に読書きを教え、宮を管理し、仏像・鰐口も残っていた。しかし国鉄奈良線の敷設で境内は縮小し、 若王寺の井戸もその姿を消す。また毎年8月25日は宮寺のお祭りであったという話を伝える。
○2007/06/14聞取:近所のご婦人(昭和39年京都から久世に嫁ぐ)より
昭和39年当時壊れかけた社務所(廃若王寺)があり、それから4〜5年社務所はあったと思う。盲目の老夫婦が住んでいた。
線路下(西)に弁財天社が残る。下掲載久世神社図「新撰京都名所圖會 6巻」の蟹池側(東)の小祠が弁財天社である。


久世若王寺

久世若王寺廃屋(左図拡大図)
 ・・・「城陽市史 2巻」(昭和54年刊)から転載
 昭和54年の城陽市史では、まだ現存する記述になっていて、これに従えば昭和後期までは廃若王寺の堂宇があったと思われる。
久世神社図・・・「新撰京都名所圖會 6巻」(昭和40年刊)から転載
 奈良街道から鳥居をくぐり、奈良線を越えてすぐ左にある一宇が
 若王寺の堂宇と思われる。
若王寺跡現状
若王寺跡遺物??(愛宕社石灯篭台石?)・・以上2003/11/12撮影
 現状は全く崩壊していて、何も残存しない。
 廃寺跡右(東)に築地塀の跡と思われる痕跡があり、これは
 若王寺に関係する築地と推定される。
築地塀跡・・・2003/5/7撮影

2012/08/26撮影
 山城廃若王寺跡1     山城廃若王寺跡:何れも後方の土壇は金堂土壇
 山城廃若王寺築地跡1     山城廃若王寺築地跡2     山城廃若王寺築地跡3
 山城廃若王寺遺物?1:愛宕山常夜燈竿 、付近には台石と笠石も遺存する。
 山城廃若王寺遺物?2:愛宕山常夜燈竿年紀・明和年中と思われる。
なお若王寺本尊大日如来坐像、不動明王立像は久世阿弥陀寺に遷座・現存という。
2006/07/12追加
 木造天部半跏像:「城陽の指定文化財」城陽市歴史民俗資料館、1995:万福寺蔵
平安期、楠一木造、像高62.7cm。現久世神社本殿に安置されていたと伝える。のち久世宮寺若王寺へ、明治の神仏分離で西方にある万福寺へ遷座。寺では毘沙門天と称する。
2022/03/01撮影:
 山城廃若王寺跡3:JR奈良線複線化工事関係者が立ち入ったのであろうか、跡地は以前より整地される。後方土壇が金堂土壇。
 山城廃若王寺跡4:何れも残存する築地?の残存であろう。
 山城廃若王寺跡5:樹木の基の石材は以前は散在していた宕山常夜燈竿などであろう。

久世神社本殿(重文)

久世神社本殿
(一間社流造・室町末期の造営と推定・檜皮葺・重文)
久世神社本殿1
 (左図拡大図)
 同      2
 同      3
 同      4
 同      5
 同      6
 ・・・2003/11/12撮影

2006/11/23撮影
久世神社本殿1
  同     2

久世神社本殿1
 同      2
 同      3
 同      4
 ・・・1999/5/5撮影

2008/03/25撮影:
 山城久世神社拝殿:重文・社殿の色彩の退色が 激しく、最近解体修理が開始される。
2008/05/14撮影:
 山城久世廃寺伽藍配置図:現地説明板
 山城久世神社透塀:かなり破損・退色する。
2009/04/12撮影:
 ほぼ、本殿の彩色が完了する。
 山城久世神社本殿      同     本殿1      同     本殿2      同     本殿3      同     本殿4
   同     拝殿:下塗の状態
2009/12/11撮影:
 山城久世神社社殿11     同     社殿12     同     社殿13     同     社殿14     同     社殿15
    同     社殿16     同     社殿17     同     社殿18     同     社殿19     同     社殿20
    同     社殿21     同     社殿22
2012/08/26撮影:
 山城久世若王社社殿1     山城久世若王社社殿2     山城久世若王社社殿3
 山城久世若王社社殿4     山城久世若王社社殿5
 山城久世若王社拝所1     山城久世若王社拝所2     山城久世若王社拝所3     山城久世若王社拝所4
 山城久世若王社拝所5     山城久世若王社拝所6     山城久世若王社拝所7     山城久世若王社拝所8
 山城久世若王社拝所9
 山城久世若王社本殿11    山城久世若王社本殿12    山城久世若王社本殿13    山城久世若王社本殿14
 山城久世若王社本殿15    山城久世若王社本殿16    山城久世若王社本殿17    山城久世若王社本殿18
 山城久世若王社本殿19    山城久世若王社本殿20    山城久世若王社本殿21    山城久世若王社本殿22
2013/04/04撮影:
 山城久世若王社社殿31    山城久世若王社社殿32    山城久世若王社社殿33    山城久世若王社社殿34
 山城久世若王社社殿35    山城久世若王社社殿36    山城久世若王社社殿37    山城久世若王社社殿38
 山城久世若王社社殿39    山城久世若王社社殿40    山城久世若王社社殿41    山城久世若王社社殿42
 山城久世若王社社殿43    山城久世若王社社殿44    山城久世若王社社殿45
2014/03/23撮影:
 久世若王社本殿51     久世若王社本殿52     久世若王社本殿53     久世若王社本殿54     久世若王社本殿55
 久世若王社本殿56     久世若王社本殿57     久世若王社本殿58     久世若王社本殿59     久世若王社本殿60
 久世若王社本殿61     久世若王社本殿62     久世若王社本殿63     久世若王社本殿64     久世若王社本殿65
 久世若王社本殿66     久世若王社本殿67     久世若王社本殿68     久世若王社本殿69     久世若王社本殿70
 久世若王社本殿71

なお、久世神社の西南は古代久世廃寺跡で、若王寺背後が久世廃寺金堂跡土壇(金堂東が塔跡土壇)である。
あたかも古代久世廃寺の鎮守のような位置に若王社は位置する。
久世廃寺概要は「近江・山城の塔跡」山城久世廃寺の項を参照

2016/02/06撮影:
 久世若王社本殿81     久世若王社本殿82     久世若王社本殿83     久世若王社本殿84
 久世若王社本殿85     久世若王社本殿86     久世若王社本殿87     久世若王社本殿88
2020/04/08撮影:
 久世若王社社殿91     久世若王社社殿92     久世若王社社殿93     久世若王社社殿94
 久世若王社社殿95     久世若王社社殿96     久世若王社社殿97     久世若王社社殿98
 久世若王社社殿99     久世若王社社殿100
 久世若王社社殿101    久世若王社社殿102    久世若王社社殿103    久世若王社社殿104
 久世若王社本殿蟇股1     久世若王社本殿蟇股2
2022/03/01撮影:
 久世若王社社殿111    久世若王社社殿112    久世若王社社殿113    久世若王社社殿114
 久世若王社社殿115    久世若王社社殿116    久世若王社社殿117    久世若王社社殿118
 久世若王社社殿119    久世若王社社殿120    久世若王社社殿121    久世若王社社殿122
 久世若王社社殿123    久世若王社社殿124    久世若王社社殿125    久世若王社社殿126
 久世若王社社殿127    久世若王社社殿128    久世若王社社殿129    久世若王社社殿130
 久世若王社社殿131    久世若王社社殿132    久世若王社社殿133    久世若王社社殿134
 久世若王社社殿135    久世若王社社殿136    久世若王社社殿137

平川牛頭天王社(現・平井神社):城陽市平川

近世には牛頭天王社であった。現在も神宮寺(蓮開寺)を残す。明治の神仏分離で平井神社と改竄される。
なお当社は、当初は古宮(現在の平川廃寺跡)にあったが火災焼失後、現在地に移ると云う(時期に触れた文献が無く、時期は不明)。

2018/07/19追加:2018/05/10撮影:
 当社がかっては牛頭天王社であったことは、明治の神仏判然令の措置でほぼ抹消されているが、鳥居にその由緒を今に残す。
 社頭・参道南端に建つ 石鳥居(明神鳥居)は、旧地から移転したものといわれ、その鳥居左右の柱には次の銘を残す。
 左(東)の柱には、「牛頭天王鳥居奉再興山城久世郡平川郷」、右(西)の柱には、「貞享二乙丑年(1685)九月吉祥日」と刻する。

 平川牛頭天王鳥居

 牛頭天王鳥居再興銘1:「牛頭天王鳥居奉再興」と刻む。:左図拡大図

 牛頭天王鳥居再興銘2:少し判読し難いが「山城久世郡平川郷」と刻む。

 牛頭天王鳥居再興銘3:これも少々摩耗しているが、「貞享二乙丑年九月吉祥日」と刻む。「貞享二 年」は明瞭に読み取れる。

なお、神体は薬師如来像一躯と仏像二躯という。(出典不明の文章であり、また少々意味不明でもあるが、牛頭天王の本地は薬師如来、薬師如来の垂迹が牛頭天王というから、薬師如来が神体とうこともあるのだろうか。あるいは蓮開寺の仏像を云っているのであろうか。)
 平川牛頭天王社牛頭庭園:平成15年牛頭庭園が整備される。
この庭園の由来は不詳であり、またその「蘇り」(整備されたということ)の意図は不明であるが、「牛頭」庭園という命名は明治の神仏判然令を冷笑し、国家神道に抗ったものとも思われる。
 牛頭庭園1     牛頭庭園2     牛頭庭園3     牛頭庭園4

当社には珍しく神仏習合の姿が今に残る。以下神仏分離を潜り抜け、村人が守り続けたと云う。
参道左(西)に蓮開寺(真言宗)の堂宇が残り、大般若経が伝えられ、その転読法要が今でも存続しているとされる。
蓮開寺の初見は「平井神社宮座文書」と云われ、「享保18年(1733)、村に50年間庵を構えていた修験僧実賢が逝去し、蓮開寺が庵を相続した・・」とある と云う。少なくとも享保18年までには蓮開寺は成立していたと思われる。
さらに天保2年(1831)蓮開寺僧文龍は近隣に広く寄附を募り、大般若経600巻を求め、転読法要を始めたと伝えられる。(大般若経寄進帳)
転読法要は毎年2月15日に修法される。 なおかっての寺地は現在の安養寺裏であったとされる(現在は藪地)。
明治の神仏分離では村人は蓮開寺の堂はそのまま残し、寺号を蓮海寺とし、牛頭天王を平井神社と改称する。
大正11年蓮海寺を安養寺裏から現在の平井神社境内に移す。近年蓮開寺の寺号に戻すと思われる。
 

蓮開寺(牛頭天王神宮寺)

2003/11/14撮影
 牛頭天王社蓮開寺1(左図拡大図)
 牛頭天王社蓮開寺2(左:蓮開寺、右:お旅所)
 牛頭天王社蓮開寺3(蓮開寺跡地・・安養寺裏地)
 牛頭天王社蓮開寺4
2018/05/10撮影:
 牛頭天王社蓮開寺5
 牛頭天王社蓮開寺6

2009/02/15撮影:2月15日蓮開寺大般若経転読
 蓮開寺内部     蓮開寺諸尊:中央薬師如来坐像、右弘法大師坐像、左不動明王立像     蓮開寺本尊薬師如来
 大般若経経函    大般若経600巻1:折本で、599巻(1巻欠)と云う。     大般若経600巻2
 蓮開寺仏画     大般若経転読法要1     大般若経転読法要2        蓮開寺堂入口
大般若経転読法要当日は地区世話役が準備をする。午後から僧侶が出て、法要を執行する。転読は約1時間半を要するという。
転読法要に際し、多くの地区民の参拝を見る。

2022/02/14追加:
○「京都の文化財 第5集」京都府教育委員会、昭和62年 より
 平井神社
江戸期には牛頭天王社と呼ばれていた。
 本殿
一間社流造・鉄板葺、社蔵の棟札によれば、正保2年(1645)大工宇治久兵衛により造営され、その後寛文4年(1664)・貞享5年(1688)・享保3年(1718)・延享元年(1744)・天明4年(1784)・寛政3年(1791)・文化12年(1815)・嘉永4年(1851)・明治5年屋根檜皮葺替、延享元年・寛政3年(1791)・文化12年(1815)・嘉永4年・明治5年には彩色塗り直しの修理が実施されている。
 末社若宮八幡
一間社流造・鉄板葺、建立年代は明らかでないが、実肘木は本殿と同型、細部装飾に共通性が見られ、古文書には享保3年本殿とともに屋根葺替が行われているため、本殿とほぼ同時期の建立であろう。

本殿は一間社流造で正保2年(1645)の建立(棟札)。屋根鉄板葺き。桃山風の意匠・彫刻が良く残る。
2002/10/18撮影:
 牛頭天王社本殿1      牛頭天王社本殿2      牛頭天王社本殿3       牛頭天王社本殿4
 牛頭天王社本殿5      牛頭天王社本殿6      牛頭天王社本殿7
2006/11/23撮影:写真のように、ごく近年修理が行われ、鮮やかに蘇る。
 牛頭天王社本殿11     牛頭天王社本殿12     牛頭天王社本殿13     牛頭天王社本殿14     牛頭天王社本殿15
 牛頭天王社本殿16     牛頭天王社本殿17     牛頭天王社本殿18     牛頭天王社本殿19     牛頭天王社本殿20
2009/02/15撮影:
 牛頭天王本殿正面     牛頭天王本殿21     牛頭天王本殿22     牛頭天王・若宮八幡     牛頭天王本殿23
2014/03/23撮影:
 牛頭天王本殿31     牛頭天王本殿32     牛頭天王本殿33     牛頭天王本殿34     牛頭天王本殿35
 牛頭天王本殿36     牛頭天王本殿37     牛頭天王本殿38     牛頭天王本殿39     牛頭天王本殿40
 牛頭天王本殿41     牛頭天王本殿42     牛頭天王本殿43     牛頭天王本殿44     牛頭天王本殿45
 牛頭天王本殿46     牛頭天王本殿47     牛頭天王本殿48     牛頭天王本殿49
末社若宮八幡宮(ごく小さい一間社流造、本殿と同じ時期・17世紀中期の建立と推定)。屋根銅板葺き。
2018/05/10撮影:
 牛頭天王社参道
 牛頭天王本殿50     牛頭天王本殿51     牛頭天王本殿52     牛頭天王本殿53     牛頭天王本殿54
 牛頭天王本殿55     牛頭天王本殿56     牛頭天王本殿57     牛頭天王本殿58     牛頭天王本殿59
 牛頭天王本殿60     牛頭天王本殿61
2003/11/14撮影:
 若宮八幡宮1       若宮八幡宮2        若宮八幡宮3
2006/11/23撮影:
 若宮八幡宮11        若宮八幡宮12        若宮八幡宮13        若宮八幡宮14
2009/02/15撮影:
 若宮八幡祠15
2014/03/23撮影:
 若宮八幡祠16
2018/05/10撮影:
 若宮八幡祠17        若宮八幡祠18


水度神社:城陽市水度坂

古は神仏習合の社であったと思われるも、現在は下記に示す大般若経が現存することなど以外に、その様相を知ることはできない。
本殿:重文:一間社流造、正面千鳥破風付、檜皮葺附棟札8枚(文安5年のもの3枚、永正10年、元和5年、寛文9年、正徳2年、文化12年のもの各1枚)棟札により文安5年(1448)に建立されたものである。 

◆水度神社本殿(重文)

水度神社本殿(重文)
一間社流造(側面2間)で千鳥正面破風の拝所を付設する。
建立は文安5年(1448)<社殿棟札>

水度神社本殿1
 同      2(左図拡大図)
 同      3
 同      4    ・・・以上2003/11/12撮影

2007/11/07追加(2007/10/24撮影)
水度神社本殿・拝所
水度神社拝殿1
水度神社本殿2
水度神社本殿向拝蟇股
水度神社奉納額1:年記は消滅し不明、本殿拝所拝殿など今の姿を示す
水度神社奉納額2:天保5年、本殿拝所拝殿などを描く
水度神社奉納額3:天保12年、今と同一の拝所の姿を描く

2014/03/23撮影:
 水度神社本殿11     水度神社本殿12     水度神社本殿13     水度神社本殿14     水度神社本殿15
 水度神社本殿16     水度神社本殿17     水度神社本殿18     水度神社本殿19     水度神社本殿20
 水度神社本殿21

神仏習合時代の様相は良く分からないとされるが、
大般若経601巻とその経箱7箱が伝来する。(巻282と巻357が重複、巻515が欠)
開くことが可能な466巻中444巻が鎌倉期の写経で、残りは江戸期中期までかけて製作されたと云う。(奥書)
寛元2年(1244)石清水八幡宮から山城正福寺に伝えられ、文明3年(1471)河内永持寺に移り、室町後期に水度神社に伝来したとされる。経箱7箱中6箱は享保7年(1722)の新調との記入があると云う。
 2018/04/26撮影:
 大般若経601巻及び経箱
2021/11/11撮影:
 水度神社大般若経1     水度神社大般若経2

なお水度神社の前の鎮座地は裏北東の大神宮山(どこか良く分からない)であると云われ、その時の宮寺の観音像が現在三縁寺(城陽市寺田)安置の乾漆観音像と云う。(城陽史誌1の寺田村誌・・中島孝太郎説)

2008/08/09追加:「城陽市の指定文化財」より
 大自在天神鉄湯釜:水度神社蔵、鋳鉄製
 鉄湯釜 ・陽鋳銘:応永32年製作、当時大自在天神と称したこと、大自在天神には日楽山薬師堂があり、そこの備品であったと分かる。

2020/03/22撮影:
○「現地案内板」 より
創祀は平安初期、延喜の制では小社に列する。(「水度神社三座」)
旧社地は鴻巣山の峰続きにあたる太神宮山という。
文永5年(1268)旧地より現在地に遷座する。
本殿は正面1間側面2間の流造で、正面には千鳥破風を載せる。
社殿棟札によれば、文安5年(1447)の建立という。重文。
上とはまた別の「現地案内板」には
「山城国風土記」逸文に「久世郡水渡の社祇社(くにつやしろ)」とあり、奈良期には存在していたと考えられる。
とある。
 ※旧社地が太神宮山であるというのは伝承なのか、史料があるのかどうかなどは不明。
 ※延喜式内「水度神社三座」と現在の水度神社が同一かどうか、それは同一かも知れないしまた違うかも知れないのであろう。それを証する資料は無いものと思われる。無批判に延喜式内社と宣伝するのは国家神道のやることであり、少なくとも延喜式内社であったかどうかは分からないというべきであろう。
 水度神社三葉つつじ     水度神社社頭
 水度神社本殿11     水度神社本殿12     水度神社本殿13     水度神社本殿14     水度神社本殿15
 水度神社本殿16     水度神社本殿17     水度神社本殿18     水度神社本殿19     水度神社本殿20
 水度神社本殿21     水度神社本殿22     水度神社本殿蟇股
 水度神社絵馬殿絵馬:江戸後期のものと思われる多くの絵馬が掲げられるも、多くが劣化している。
2020/04/08撮影:
 水度神社社殿31     水度神社社殿32     水度神社本殿蟇股31     水度神社本殿蟇股32
2022/03/12撮影:
 水度神社本殿22     水度神社本殿23     水度神社本殿24     水度神社本殿25     水度神社本殿26
 水度神社本殿蟇股     水度神社本殿27

安羅見天神社(荒見神社):城陽市富野荒見田

維新前は常楽寺・安羅見天神社と称する。明治の神仏分離で現社名(明治21年までには)に改称する。
2003/11/12撮影: 鳥居・薬医門     薬 医 門
2014/03/23撮影; 安羅見天神社薬医門2     安羅見天神社薬医門3
近世は常楽寺境内に天神社が同居していたと思われる。

近世初頭絵図

近世初頭絵図(左図拡大図)
<市左衛門・仁左衛門作事場相論済絵図、推定元和4年>
 ・・・「城陽市史 4巻」から転載(部分・赤字は補足)
 境内は南面し、西に常楽寺本堂、北に薬師堂、
 東に天神と御霊が位置している。
 (現状寺の位置付近に社務所が建立され、薬師堂跡は更地と思われる。)

○2010/03/20追加:
 明治8年富野村氏神境内絵図:「延喜式内並国史見在神社考証」(京都府立総合資料館蔵・明治初頭の式内社確定のための資料) より
藥井門を入り向かって右手に鐘楼と思われる堂、正面に舞台、その奥に寄棟造瓦葺の薬師堂がある。左手には常楽寺の区画及び堂がある。
この後、間もなく薬師堂、鐘楼、舞台、常楽寺堂宇は廃される。
なお、当時は式内社としての付会はなされなかったようで、氏神とある。
○明治17年の「天神社明細帳」の境内略図では、南面する鳥居にすぐ後に薬医門があり、薬門右に釣鐘堂があり、境内右半分に西面する本社・拝殿・末社・御輿舎などがあり、門正面及び左境内は御供所のみで空地とな る。
境内左(西)の常楽寺本堂及び正面の薬師堂は既に廃されている。
現在も境内北は広く潅木の茂る空地になっていて、この北西附近からは石碑・石地蔵などが掘り出されたという。
要するに天神社は常楽寺と並列をしていたと思われる。
常楽寺は石清水八幡宮豊蔵坊末寺で、常楽寺法印が祭りその他を支配してきたと伝える。
明治の神仏分離で佛教施設は薬医門・釣鐘堂(明治20年代に売却)を残し撤去される。
仏像は南垣外・現在の極楽寺に遷され、祀られていると云う。
阿弥陀三尊とその宮殿(3間×1間・寄棟造・板葺・正面1間の唐破風付)、「浅間さま」と推定される立像、青面金剛像、地蔵菩薩、金剛夜叉明王、名称不明の立像が遷座したという。
本殿は重文、三間社流造、檜皮葺、附棟札3枚(慶長9年)、本殿は慶長9年の再建である。

◆荒見神社本殿(重文)

2003/11/12撮影:
安羅見天神社本殿1(左図拡大図)   安羅見天神社本殿2
2002/10/18撮影:
安羅見天神社本殿本殿3   安羅見天神社本殿4
安羅見天神社本殿5
2008/07/14撮影:
安羅見天神社本殿6     安羅見天神社本殿7
安羅見天神社本殿8     安羅見天神社本殿9
2014/03/23撮影;
天神社本殿11     天神社本殿12     天神社本殿13
天神社本殿14     天神社本殿15     天神社本殿16
天神社本殿17     天神社本殿18     天神社本殿19
天神社本殿20     天神社本殿21     天神社本殿22
天神社本殿23     天神社本殿24     天神社本殿25
天神社本殿26

○末社御霊社;元和9年(1623造営)棟札による
2003/11/12撮影: 御  霊 社 1          御  霊 社 2
2008/07/14撮影: 安羅見天神社御霊社11     安羅見天神社御霊社12
2014/03/23撮影: 天神社御霊社3         天神社御霊社4         天神社御霊社5

綴喜郡水主神社:城陽市水主

 ※城陽市水主(水主・奈島・市辺)は綴喜郡に属する。

別雷大明神。本殿(一間社流造、檜皮葺、寛政10年1798造営)

枇杷庄天満宮社:城陽市枇杷庄

明治維新まで薬師院の管理であった。

文化2年「就御尋口上書」(寺社格改め届出書):
城州久世郡枇杷庄村 天満宮社
1.境内年貢地 東西19間、南北20間半  境内末社 春日、水神、弁財天 相殿社
                            右天満宮境内に薬師院と申寺御座候
1.境内年貢地 東西24間、南北2間 右末社 若王子社
右 ・・・本社神璽は十一面観音を勧請仕天満宮と称し・・、勧請並建立年歴・・末社勧請・・旧記無之・・・難相分御座候・・
                             社僧 薬師院 泰輪
御奉行様
----------------------------------------------------------------------------------------------
薬師院は瑠璃光山福徳寺薬師院と号し、知積院末であった。享和3年は無住であったが、その後泰輪が入寺した。十一面観音がご神体であった・・と云う。明治維新で廃寺となる。
当社神宮寺であった薬師院本尊木造薬師如来立像(平安前期・檜一木造・重文) が阿弥陀寺に現存する。
薬師院は明治の神仏分離により廃寺、阿弥陀寺へ遷されたという。
昭和35年の木津川改修で、旧地より北へ数十m社地が移動する。従って薬師院などを偲ぶものは何もない。
本殿は三間社流造(側面2間)で、寛永2年(1627)の造営とする(棟札)。
   枇杷庄天満宮社1  枇杷庄天満宮社2
○2006/07/12追加:
 薬師院本尊薬師如来立像:「城陽の指定文化財」城陽市歴史民俗資料館、1995
・木造薬師如来立像(重文、平安前期)阿弥陀寺蔵、像高95.1cm、檜一木造。枇杷庄天満宮薬師院本尊、明治神仏分離で薬師院廃寺、阿弥陀寺へ遷す。

綴喜郡奈島賀茂明神:奈島

 ※城陽市奈島(水主・奈島・市辺)は綴喜郡に属する。

社僧(宮寺)として神福寺 (知積院末)が境内に付設されていた。
廃寺の後も大日堂は奈島の会議所として使用されていたが、近年取り壊され、今は存在しない。


神福寺大日堂

 旧大日堂取壊の時の写真が残されている。
 内陣(左)、外陣の構造を覗うことが出来る。
「城陽市史 2巻」に掲載
 


現存する大日堂棟札によると、堂は文政5年(1822)の再建で、
堂本尊は大日如来、両脇に不動明王、愛染明王を祀るとされる。

なお右の神福寺大日堂の取壊し直前の写真があるが、
写真の所有者である深広寺様の写真掲載の許諾が
得られないので、写真掲載は断念。
2022/07/05:写真へのリンクを追加:左の項

  大日堂跡地(左は社務所で 、右が旧大日堂跡の新しい会議所)

付近の人のお話では大日堂取壊は確か昭和40年頃という。現在は社務所と会議所は接しているが、大日堂と社務所とは別棟であった、また大日堂南には「土蔵」もあったという。 なお聞き取りでは、現在の建物は寺田小学校の作業所?を移建したものと云う。
 


 

 

 

 

大日堂本尊大日如来坐像

 

  上記大日堂本尊大日如来・不動明王・愛染明王及び十一面観音立像は神社西の深広寺に遷座され、大切に保存されている。
深広寺(浄土宗)境内に、廃仏のための大日堂が新たに建立され
今も地区民の信仰の対象となっていると思われる。

深広寺大日堂

大日堂軒札
 :本尊大日如来、脇侍十一面観音、
  愛染明王、不動明王、弘法大師
大日堂打付札
 :正?面 大日如来・・本地仏、神福寺ノ本尊、?端 十一面観音、
  前向かって右 不動明王、前向かって左 愛染妙明王

大日如来坐像(左図拡大図)

十一面観音立像

大日堂諸仏:弘法大師、大日如来、十一面観音)

 

賀茂明神本殿(隅木入春日造、檜皮葺、素木、明和3年1766造営<棟札>)
 賀茂明神本殿1     賀茂明神本殿2     賀茂明神本殿3

★久世郡観音堂旦椋神社:城陽市観音堂

久世郡観音堂村の産土神と云う。以仁王の胄を祀り、「胄神社」とも称する。
本殿(二間社流造、杮葺、江戸初頭の建築と推定)

★綴喜郡市辺天満宮:城陽市市辺

 ※城陽市市辺(水主・奈島・市辺)は綴喜郡に属する。

本殿(一間社流造、檜皮葺、慶長11年1606造営)

参考文献:
「城陽市史. 第1巻」 城陽市史編さん委員会. -- 城陽市, 2002
「城陽市史. 第2巻」 城陽市史編さん委員会. -- 城陽市, 1979
「城陽市史. 第3巻」 城陽市史編さん委員会. -- 城陽市, 1996

久世郡上津屋牛頭天王(現・上津屋石田神社):上津屋(現八幡市)に鎮座する。

 ※上津屋は現在八幡市(旧綴喜郡)に属するが、八幡市上津屋のみは旧久世郡に属する。

上津屋の現・石田神社は、明治維新まで牛頭天王社であったが、明治の神仏分離で牛頭天王及び神宮寺(福泉寺)を廃し、石田神社と改号する。
境内には石造十三重塔(様式から南北朝期のものとされる)及び旧薬師堂が現存し、牛頭天王時代の面影を残す。
2012/05/11追加:
○「八幡 文化のふるさと」平成3年 より
『山城綴喜郡誌』では、大宝2年(702)鎮座、文治4年(1188)源頼朝により神事料として土地の寄進をうけると云う。
近世には牛頭天王社と称し、明治の神仏分離で石田神社と改号する。祭神は建速須佐之雄命に代替される。
本殿(一間社流造)は、嘉永4年(1851)の造営(「伊佐家文書」)、拝殿も同時期の建築と云う。なお拝殿には再建時の享保20年(1735)銘鬼瓦を屋根に載せているという。
宮寺は福泉寺と号し、薬師堂が御輿倉に転用され現存する。本尊は本地である薬師如来を祀るも、明治の神仏分離で北西すぐにある浄土宗西雲寺に遷座、現存する。
1200点以上ある「石田神社文書」中に、文政5年(1822)の薬師堂普請願書があり、薬師堂はこの頃の建立であろう。
なお、この薬師堂は、現在南側に出入り口があるが、もとは北側に蔀戸の出入口があり、御輿倉転用時に前扉を付け替えたと考えられる。
 ※石田社などと延喜式内社に類する名称に改竄するも、何のことはない実は牛頭天王社であったというお粗末な話である。
石田神社には、牛頭天王社に相応しく、福泉寺薬師堂と本地薬師如来(西雲寺に移安・現存)が現存する。
2018/07/29追加:
○「日本歴史地名大系 京都府の地名」平凡社 より
石田神社の項に次の記載がある。
 「社記では大宝2年(702)3月、綴喜郡司息長直兼理が内里村の山中に一社を建立し、同年9月上津屋に遷座したといい、貞観11年(869)9月、疫病流行の際、祈祷をしたことにより大宝天皇の尊号を授けられる。
また治承4年(1180)源頼政が宇治合戦に祭し、陣地としたため、5月26日平家のために・・・悉く焼失、文治4年(1188)源頼朝・・・52貫文の地を寄進、建長4年(1252)8月神殿の再造がなる。元弘元年(1331)北条氏によって再び炎上、長禄3年(1459)相模守宣衡が再興と伝える。(山城綴喜郡誌)」
 この社記の素性は浅学にして承知しないが、「郡司息長直兼理」「大宝天皇」の文言は、この社記が疑いなく「椿井文書」であることを示しているのではないだろうか。また源頼政、頼朝、北条氏などが登場(相模守宣衡とは不詳)するが、果たして同時代資料での裏付けはあるのであろうか。同時代資料の裏付けのない「事実」でもって中世の出来事を語るのも「椿井文書」の常套手段である。
要するに、「日本歴史地名大系 京都府の地名」に記載される古代・中世の「事象」は「椿井文書」の語る「物語」である可能性は非常に高い。
なお、社記とは石田神社所蔵の「天王神社記」と思われる。
おそらく、椿井文書は上津屋牛頭天王社にも散布され、社蔵されるに至ったものと思われる。
 なお 東石田、西石田にも各々の石田神社があるが、ここには現在、仏教的な遺物は残存しない。
2003/11/18撮影:
 石田社十三重塔・薬師堂
 石田社十三重塔1       同       2
2007/03/03撮影:
 石田社十三重塔:高さ約360cm、相輪は九輪以下を失う。
2018/05/17撮影:
 上津屋牛頭天王薬師堂1
 上津屋牛頭天王薬師堂2:左図拡大図
 牛頭天王十三重石塔3
 牛頭天王十三重石塔4
 牛頭天王十三重石塔5
 牛頭天王十三重石塔6
2003/11/18撮影:
 石灯籠銘(牛頭天王とある、裏面に年号の刻印があるが、判読不能。)
 上津屋石田神社本殿(嘉永4年/1851の造営)
2018/05/17撮影:
 上津屋牛頭天王境内

 牛頭天王石灯篭2:背面に刻銘があるが、判読不能
 牛頭天王石灯篭3:左図拡大図

 上津屋牛頭天王拝殿
 上津屋牛頭天王本殿2
 上津屋牛頭天王本殿3
2018/07/29追加:
○西雲寺薬師堂・説明立札「西雲寺に安置されている薬師如来の由来」 より
以下はその要旨及び大意である。
 当地上津屋は木津川流域にあり、人々は、度重なる河川の氾濫に見舞われ、洪水による直接的な被災や疫病による生命の危機に常に遭遇していた。
これらの災害・疫害から人々を守ってくれる存在が牛頭天王であり、またその本地である薬師如来であった。この利益が書かれた文書が牛頭天王社に保存されている。
 牛頭天王社薬師如来は牛頭天王本地仏として、神社境内薬師堂(真言宗福泉寺と号する)に安置されていたが、明治維新に至り神仏混淆が許されず、政府の達しにより、当寺の村史と氏子中が協議の上、西雲寺境内に遷すことに決する。当時の西雲寺檀信徒総代と神社氏子総代により、薬師如来は共有の薬師如来であることを認め合った明治35年11月8日の文書が残されている。
 西雲寺に遷された薬師如来は薬師堂に安置されるが、平成10年の台風で薬師堂が大破し、薬師堂は造替される。同時に薬師如来も修復され、平成12年8月落慶法要を修する運びとなる。
2018/05/17撮影: 
 西雲寺薬師堂
 本地薬師如来立像1:左図拡大図
 本地薬師如来立像2
 本地薬師如来立像3

2022/04/01撮影:
 牛頭天王石灯篭4:写る小祠は「建甕槌命」(「香取神宮」?)である。
 牛頭天王石灯篭背面:已然として判読不能。
 福泉寺薬師堂3
 福泉寺十三重石塔7    福泉寺十三重石塔8    福泉寺十三重石塔9    福泉寺十三重石塔10
 福泉寺十三重石塔11
 上津屋西雲寺
 西雲寺薬師堂2     本地薬師如来立像4     本地薬師如来立像5
 上津屋牛頭天王本殿4:一間社流造     上津屋牛頭天王本殿5     上津屋牛頭天王本殿6

續喜郡奈良御園神社:八幡市上奈良

2022/11/19撮影:
古代、この地(上奈良・下奈良)は久世郡那羅郷に属したという。
現地案内板では以下の様にいう。
 祭神は天児屋根・武甕槌・経津主。
創建は「御園神社神縁起」(元和元年/1615)では「延暦7年(787)桓武天皇が河内国交野へ行幸の途中、この里に立ち寄り鷹狩りを行う。
この時、神託があり、同年11月、大納言藤原継縄に命じて社を建立させ、奈良春日社から三神を移座する。」という。
この後、南北朝の合戦や応仁の乱によって炎上したが、明応3年(1494)9月、新殿を造営したと伝える。
 奈良御園神社鳥居:文政5年(1822)の年紀
 奈良御園神社燈籠:向かって左から「八幡宮」「牛頭天王」「愛宕山大権現」とある。
参道途中にあるが、情報が皆無で、推測になるが、明治維新後の神社の統合で、八幡宮・牛頭天王・愛宕権現が合祀され、各々の石灯篭も遷されたのであろうか。但し「愛宕山大権現」の刻銘は不明瞭であり、誤読かも知れない。
 奈良御園神社本殿:現在の本殿は一間社流造、檜皮葺、元禄14年(1701)〔擬宝珠銘〕の建立と考えられる。
 奈良御園神社本殿1     奈良御園神社本殿2     奈良御園神社本殿3     奈良御園神社本殿4
 奈良御園神社本殿5     奈良御園神社本殿6     奈良御園神社本殿7     奈良御園神社本殿8

-------以下は旧綴喜郡に於ける神仏習合並びに分離--------

山城国綴喜郡には延喜式内社が13座あるが、その比定の出鱈目な経緯については
馬部隆弘の論文である
偽文書からみる畿内国境地域史−「椿井文書」の分析を通して−」に纏められている。
綴喜郡延喜式神名帳に記載の13座とは
 樺井ノ月神社・大(久世郡寺田村の水主神社)
 朱智ノ神社(天王村)
 月読ノ神社・大(大住村)
 咋岡神社(飯岡村)
 高ノ神社(多賀村)
 内ノ神社(内里村)
 粟ノ神社(市辺村)
 棚倉孫神社・大(天神森村)
 佐牙乃神社(宮津/江津村)
 酒屋ノ神社(興戸村)
 甘南備ノ神社(薪村)
 天神社(アマツヤシロ)(松井村)
 地祇神社(クニツヤシロ)(上村/普賢寺)
であるので、是非参照を願う。

松井天神社:京田辺市松井

神宮寺として真言宗中性院が維持管理に当ってきたが、明治4年神仏分離の処置により廃寺となる。

神宮寺は龍王山観音寺中性院と号する。創建等は詳らかでない。
具体的な資料は不明であるが、
明応2年(1493)天神社の神宮寺として確認できるという。
天正6年(1578)竹島和泉(不詳)が再興。
万治三年(一六六〇)高雄山(神護寺)地蔵院の末寺となる。

本山からの「下知状」(明治5年)
1.其院義、・・・、神仏混淆廃止之旨、被仰出候。就而者、社僧院号廃止之義、中性院住職並びに本寺住職連署を以。
  政府表へ出願候処、本尊仏器経文書類悉皆本寺江差納め、願之通御聞済に相成候間、
  (以下意訳)  何分遠隔地などなどの故に、右の仏像仏器類は貴房(中性院)にて隋意にお任せする。
               高尾山翫玉院殿内 山本大隈 清滝摂津
                松井村 元中性院 光明御房へ
本山(高尾山翫玉院)から、神仏分離の申し出は認可され、仏像仏器類の処置は中性院に任されたとされる。
現在不動明王、歓喜天、役行者等の像が社務所に残されていると云う。
 ※高尾山翫玉院:永仁5年(1297)後深草天皇第4皇子・性仁法親王が神護寺に入寺し、翫玉院を建立するという。 この翫玉院が明治維新まで存続していたのであろうか。
 ※2018/05/23追加;
 明治3年「真言宗古義派本末一覧」 より
  本末一覧神護寺部分図:明治3年では神護寺定額7院の内唯一「翫玉院」のみ存在することが分かる。
  その他、三綱3院の内「岩本坊」のみ現存、中方5坊は全て廃寺、境内末寺は7寺庵が現存、境外末寺中性院は
  現存であることが分かる。
    (明治維新後の廃仏で、塔頭9、坊15が廃されるという。)
   この中性院は松井天神社の社僧・中性院であることは云うまでもない。
 

天神社中性院跡

本殿の下段、社務所の上段の平坦地に中性院跡地を残す。
外見的には何の遺物もない。
2003/11/18撮影:
 中性院跡1(左図拡大図)
 中性院跡2

2003/11/18撮影:
本殿は享保2年(1717)の造立、二間社流造、平成4・5年の修理で屋根は檜皮葺に復する。二間社はかなり珍しい。府登録文化財。
 天神社本殿1     天神社本殿2
 天神社本殿3     天神社本殿4     天神社本殿5     天神社本殿6:2022/07/22左記の4枚追加
宝篋印塔が残る。但し中性院と関係はないと思われるも不明。
 宝篋印塔1     宝篋印塔2(正面:残念ながら解読不能。)
 宝篋印塔3(側面左:元禄15年 天満天神宮 龍王山觀音寺 牛頭天王宮 ・・)
  ※中性院は龍王山観音寺と号する。
  ※刻文の形式から、天満天神と牛頭天王を祀っていたとも思われるが、牛頭天王の確認が採れない。
 宝篋印塔4(側面右:・・・ 通心院妙光信女? ・・ 願主法印清恕)墓碑なのかも??
 宝篋印塔5(裏面)・・・・・・・結局この石塔の性格は良く分からない。
2016/06/12追加:
○「京田辺市の仏像ー京田辺市美術工芸品調査報告書」京田辺市教育委員会、2007 より
天神社には木造1、銅造2躯の歓喜天像を伝える。木造は室町期の作と推定され、銅造は江戸期の作である。
天神社は元摂津枚方に接する交野ヶ原にあったと伝える。聖天像3躯は神宮寺である中性院に伝わったものである。
 木造歓喜天立像:像高16cm。

大住御霊社(月読神社:京田辺市大住

御霊社と称し、神宮寺として法輪山福養寺の六坊(奥ノ坊・新坊・中ノ坊・西ノ坊・北ノ坊・東ノ坊)があった。
「月読神社遷宮式に付申合せ一札案」(天保15年1844)が社坊より四座(宮座)衆中に差し出されている。
差出人は西之坊、東之坊、中之坊(以上は無住)、新シ坊、北之坊、奥之坊の連名になる。
 ※天保15年には福養寺は六坊の構成で、その内の3坊が無住であったと知れる。
○「乍恐社頭御伺付次第書」(慶応4年・別当職奥之坊権大僧正法印空善)では
境内除地:1524坪、本社:8尺四方、檜皮葺、舞殿;2間四方、拝殿:6間×2間、御鳳輦:5間×2間、
薬師堂:4間×3間、薬師堂篭堂:1間半四方<付箋があり「・・取払可申之事」とある>
以下略・・・
 

御霊社福養寺薬師堂

薬師堂は本殿南に位置し、堂跡を残す。
石柱が立ちその標とする。

「式内社調査報告第1巻」では明治初年に廃され、薬師堂本尊は両賛寺に遷された(田辺町史)とするが、両賛寺とは不明。
 2016/05/17:両賛寺は下に掲載。

2003/11/18撮影:
 福養寺薬師堂跡(右拡大図)
 薬師堂石碑
 薬師堂跡周辺の遺物1
 薬師堂跡周辺の遺物2

○「御霊大明神四座式文記」の慶応4年5月の項:
神仏分離の処置により、「大日尊取除、天照皇大神相祭、弁財天取除住吉社称ス、金毘羅相改、崇徳天皇奉称、薬師堂尊躰取片付候、社坊帰俗被仰出、就御布令、神主相勤候奥之坊事、奥大膳ト改名之事」
御霊社では、大日如来に替えて天照皇大神が祭られ、弁財天・薬師如来が取り払われ、福養寺奥之坊空善が還俗・改名し神官になったとされる。
 ※慶応4年には早くも神仏分離の名を借りた国家神道の理想が貫徹、仏教の廃除が完全になされた様子が分かる。
○「大住村元社坊田地に付口上書」(明治6年):
上記「口上書」には大住村元西之坊、北之坊、中之坊、東之坊の4ヶ所田面について、和談(内容は不明)が成立し、今までの申出の撤回が述べられている。
口上主は、元中ノ坊寺元樺井太良、元北ノ坊寺元樺井次良、元西ノ坊寺元岡本久雄、元東ノ坊新坊寺元森伝内、月読神社神主奥本敏材の5名となっている。
 ※すでに神仏分離が遂行された様子が見てとれる。
2003/11/18撮影:
  月読社本殿(明治26年建立)
○2010/03/20追加:
 明治8年大住村月読神社:「延喜式内並国史見在神社考証」(京都府立総合資料館蔵・明治初頭の式内社確定のための資料) より
4間×3間の薬師堂が残る。薬師堂は入母屋造瓦葺、1間の向拝を付設し、縁を廻らす。池中は弁財天社(住吉社と改)であろう。
○慶応4年石清水八幡宮が当地に一時遷座する。
 古文書は以下のように伝える。
「大住村樺井正資戊辰戦争覚書・慶応4年」:
慶応4年戊辰戦争により、石清水八幡宮が戦火を逃れ、当社に遷座する。
鳥羽伏見で幕府軍は大崩、大阪勢は淀まで引き、更に八幡まで引く。
「(正月六日)宿院、川口村再度之戦、樋の上要所崩れ相成、凡八九百人程討死す。且又同日早朝より八幡宮以下、当村鎮守へ御移り給ふ。御供奉人数弐百五拾人而行幸之事。云々 」
以上の八幡宮行幸に付き、石清水八幡宮別当新善法寺僧正澄清および権別当善法寺法眼弘清から、大住村鎮守(御霊社)へ永世献米の証文が出される。(慶応4年)
また
「御霊大明神四座式文記」の慶応4年正月6日の項:
「八幡宮兵乱ニ付、八幡宮三社御鳳輦之儘、其外御末社・御神宝、一社一同図随従被致、当村氏神江御遷社、正月8日長州・因州両藩屁兵隊一千人奉固衛還行、八幡社頭其外社人並当村座中・村役人供奉致候事」とある。
2018/05/23追加
○「大住村史」西田直二郎、田辺町大住出張所、昭和26年(1951) より
月読神社の関係寺院は法輪山福養寺がある。昔時祈祷所(社僧)としては6坊があった。
この6坊は幕末より明治維新にあたって廃滅した。
6坊の内、奥ノ坊は最も大にして庭園等を構えたが明治15年廃絶し、新坊は慶応2年焼失、中ノ坊は同3年廃止、西ノ坊、北ノ坊は明治5年、村役場、小学校舎として利用し、東の坊もいつしか廃寺となった。
現在は福養寺の社坊の名残りとして薬師堂が残っている。
 なお、本社の創立や中世の姿については次のように記す。
本社の古伝説と次のような伝えがある。
 創建は大同4年(809)平城天皇譲位の時、宮殿を平安京より平城京へ移さんとせし時、造営使がその途、大住山にて霊光を拝し、ここに神殿を作りしことによる。
当社は天下の疫病を鎮めしにより「御霊社」の名ありという。
元慶6年正月従一位勲二等を授かる。承歴元年勅使参幣あり。
建久6年源頼朝上洛し、当社に神馬を献上・神領を寄進、貞應2年2月葛野家友によって屋殿再興、
元弘元年9月後醍醐天皇笠置山に帰還した時、大住の一族並びに岡本弾正久織等味方に馳せ加わり、神殿兵火に罹る、
貞治3年葛野義威神殿再興、至徳3年8月御牧の伊豆前司元定と大住飛騨守義季とが争い御霊神社兵火の為焼失、康應元年4月大住若狭神義宣が再建、延徳3年8月岡村城主、城五郎左衛門尉伴行宜神殿修理、天文11年大住城主大住石見守元保と八講寺城主東長門盛章など社前にて勧進能を行い、・・・
 「古伝説」は中世の事象について年月まで明らかにして、詳細を語る。果たして「古伝説」は真実なのであろうか。
実は当社は近世の終末期までは「御霊社」であり、「月読社」との認識はなかったのである。ほぼ全ての式内社は、幕末から明治にかけて比定されるまで、人々の意識になかったことで、つまり式内社などははるか以前に退転していたのである。
実は、当社(御霊社)を式内社月読社に比定したのは並河誠所の「五畿内志」であったのである。
(月讀神社:貞観元年正月授従五位下、在大住村、今称御霊、有福養寺掌神事。)
椿井政隆は基本的に並河の式内社比定を踏襲しさらに比定に拘泥した。
 「古伝説」の中世の事象の詳細過ぎる列記は異様である。確たる証拠はないが、この「古伝説」の異様さは強く、偽書である「椿井文書」の存在を疑わせるものであろう。
○2016/05/17撮影:
現在広くもない境内に伊勢神宮遥拝所・神武天皇遥拝所・明治天皇御陵遥拝所の3基の石碑があり、気持ちの悪いことこの上ない。
 御霊社社頭常夜燈:社頭に2基の常夜燈がある。年紀は幕末頃のものと記憶する。
 常夜燈背面社坊銘:左右の常夜燈背面に社坊名(奥之坊、北之坊)を刻む。幕末頃には 左記の2坊しか実態がなかったのであろう。
 大住御霊社境内     御霊社薬師堂跡
御霊社薬師堂礎石:附近に方形に加工された石が3個(確実なのは2個、1個はやや加工が粗い)あり、薬師堂礎石と推定される。
 御霊社薬師堂礎石1     御霊社薬師堂礎石2     御霊社薬師堂礎石3:やや不確実。
 弁才天池・弁才天社:池中に祠が新造されている。弁才天社とあるので、復号したものと思われる。
2016/06/12追加:
○「京田辺市の仏像ー京田辺市美術工芸品調査報告書」京田辺市教育委員会、2007 より
大住福養寺薬師堂に安置の薬師如来像および四天王は両讃寺本堂に客仏として祀られる。
 木造薬師如来立像:厨子入秘仏とされる。平安前期の作と推定される。像高130cm。
 木造四天王立像:広目天像以外は頭部と体部は別作dあり、東部は平安後期、体部は江戸期と推定される。像高は103〜115cm。
2022/12/06追加:
月読神は薪の甘南備山に降臨したともいい、薪の天神社(現・薪神社)には、月読神の降臨した磐座が遷されている。

◆發迎山二尊院両讃寺:
大住八河原(大住御霊社の北方およそ5町にある。)浄土宗鎮西派。
慶長6年(1601)創建、万延元年(1860)玉誉善住上人により再興。寺伝では、時の領主大住氏はこの地の城山に居を構え、西村の阿弥陀堂、東村の釈迦堂を信仰するも、織田信長に敗れ、両堂とも荒廃する。この時橋本甚太夫と刀根源太夫が堂宇を再建、阿弥陀如来と釈迦如来を遷し、願故上人を住持に迎え、發迎山両讃寺と号するという。明治維新後快念庵を合併する。現在の本尊は阿弥陀如来立像、釈迦三尊像は別に安置する。
客仏として法輪山福養寺薬師堂本尊薬師如来立像と同じく薬師堂安置の四天王立像を祀る。
 両讃寺山門     両讃寺本堂     両讃寺石造十一面観音立像     両讃寺歴代墓碑など

天神森天神社・天満宮(棚倉孫神社)京田辺市田辺

旧天神森村にある。
社僧(宮寺)は松寿院であり、松壽院が天満宮(天神社・棚倉神社)の維持管理に当る。
近世には天神社・天満宮と称する。明治に至り、復古神道によって、式内棚倉孫神社と付会される。
 →式内棚倉孫神社と付会される経緯は下に掲載

元禄5年 田辺村松寿院由来の「覚」(御室御所様宛):
 1.梅香山長学寺松寿院 ・・・・
 1.天満宮 一宇 勧請之時代何之時欤不分明候 ・・・・・
 1.同御旅山観音堂 同村之内有之・・・・
 1.右寺社開基建立之時代不分明候 ・・・・
 1.・・・・
      元禄5年 田辺村 梅香山松寿院 教伝房慧照
とあり、松寿院が天満宮の社僧であった。なお、おそらく御旅所(場所は不明)に観音堂があったと思われる。
なお松寿院慧(恵)照は現在棚倉孫神社所有の「当社天満天神尊像再興記」(元禄7年)、「天満宮縁起副録」(元禄7年)を残すと云う。
また松寿院の記録としては寛文年中(1661-)、享保年中(1716-)の記録も残るという。

2022/07/22追加:
●天神森天神社の概要
 現地案内板及び各Webサイトでは
棚倉孫神社は「延喜式」神名帳には大社とあるという。
「日本三代実録」貞観元年(859)正月27日に畿内七道諸神進階及び新叙があり、267社の中に「棚倉孫神」が従五位下から従五位上の神位を賜ったとあるという。
 ※棚倉孫神社が式内社であり、棚倉孫神の神位が上ったというのはそうであろうが、現在の棚倉孫神社と古代の棚倉孫神社を結びつけるエビデンスはない。
祭神は、推古天皇31年(623)9月に相楽郡の棚倉ノ庄より高倉下命(たかくらじ)を勧請するとあるという。(大永6年(1526)棚倉孫神社紀)
別名を天香古山命(あめのかごやま)、また手栗彦彦命(たぐりひこ)ともいうようで、アマテラスの曾孫で、天神(あまつかみ)の直系であるという。
 ※単なる作り話であるが、しかし極めて政治的な物語という他はないであろう。しかし、まさにそれが「宗教」である由縁だろう。
近世は天神社・天満宮であったという。
 ※要するに、現在の棚倉孫神社と延喜式内棚倉孫神社とは無関係で、実は天神・菅原道真を祀る天満宮であったということである。

だが、「今、土人が菅原天神と称する天神森神社」を「延喜式棚倉孫神社」と付会したのは誰れで何時頃のことなのであろううか。
 それについては、馬部隆弘が
偽文書からみる畿内国境地域史−「椿井文書」の分析を通して−」で、次の見解を示す。
 天神森天満天神を延喜式棚倉孫神社と付会したのは
正徳元年(1711)「山州名勝志」や同じ正徳元年「山城名勝志」が嚆矢であろう。
そして強引に式内社の比定を進めた並河誠所の享保19年(1734)「山城志」(所謂「五畿内志」の内)で決定的となったのではないかと云う。
さらに、その後椿井政隆が跋扈し、椿井は綴喜郡内のほぼ全ての式内社にその事跡を記した「椿井文書」(偽書)を残し、確実に、天神森天満天神にも「由来書」を椿井は残す。
その「横井文書(偽書)」はその後の地域郷土史に「無批判」に取り入れられて行く。そして、戦後は勿論、今現在でも、各地の郷土史は椿井文書(偽書)の呪縛下にある。
悲しいかな、それが現状である。
そして、現在の縁起式内社の比定は、並河誠所をはじめとする付会などを下敷きとして、「特選神名牒」の教部省の編集過程の調査(明治7〜9年)で確定されたのである。
 この時、国家権力によって、天神森天満天神は延喜式内棚倉孫神社と確定されたのである。
かくして神社は強引に格付けされ、国家神道のヒエラルキーに組み入れられ、国家神道による人民教化が強力に押し進められ、「記紀」を始めとする誇大妄想が日本を覆っていったのである。この誇大妄想(国家神道的なもの)は日本人に沁みついていると見え、敗戦の後、数十年を経ても落ちず、現在も跋扈し続けているようである。

さらに、説明板には次の情報がある。
本殿:府登録文化財、桃山期の再建、一間社流造、屋根檜皮葺、本殿脇(本殿前右手)に天正2年(1574)銘の石灯篭がある。(石灯篭未見)
 <「天正二申戌卯月吉日、奉天神御宝前、城州田辺南因幡守祐海」>・・・・・石灯篭には「天神」と刻むようである。
 石灯篭社号:上記とは別の石燈籠であろうが、天満宮と刻む。
石鳥居・石段・石橋は元禄15年(1702)淀藩主石川憲之からの寄進。
 石鳥居年紀:元禄15年地刻む。
昭和4年に中断したという「瑞饋神輿」が昭和53年に復活するという。(※京都北野天神との関連があるのかどうかは分からない。)
2003/11/18撮影:
 瑞饋神輿1     瑞饋神輿2     瑞饋神輿3

天神社松寿院
2003/11/18撮影:
松寿院は社務所として現存する。
建物は天保14年(1843)の建築という。38坪5。
 旧松寿院1
  同   2(左図拡大図)
 松寿院跡石碑

2014/01/11撮影:
 天神森天神社松壽院寺門
 天神森天神社松壽院坊舎
 天神森天神社境内
天保14年(1843)松壽院再建
安政5年から明治4年まで寺子屋として使用され、明治5年田辺小学校仮校舎とあり、明治6年社務所となる。
何れにせよ、松壽院は明治の神仏分離の処置で廃寺となる。

2003/11/18撮影:
 天神森天神社本殿1     天神森天神社本殿2      天神森天神社本殿3
2014/01/11撮影:
本殿は桃山期の建築、一間社流造、屋根檜皮葺。
 天神森天神社本殿11    天神森天神社本殿12    天神森天神社本殿13    天神森天神社本殿14
 天神森天神社本殿15    天神森天神社本殿16    天神森天神社本殿17    天神森天神社本殿18
 天神森天神社本殿19
2022/04/02撮影:
 天神森天満天神20:中央が旧松壽院     天神森天満天神22:旧松壽院
2022/07/22追加:
○「都名所圖繪」 より
 薪酬恩庵・天神森天神宮:天神森天神社は「天神宮」の名称で描かれる。
本文:
南備山〔薪村の西にあり、峰に水晶石あり〕天神杜〔薪村の南に隣る〕
天神宮〔天神杜の西の端にあり、祭る所は天神社<あまつかんな>なり、延喜式に出たり。土人天満天神といふ、此里の産沙神なり、祭は九月十一日〕

薪神社:京田辺市薪

明治41年天神社(鎮座地は現薪神社)と八幡神社(鎮座は南東150mの地・社殿跡は原形を保つという)とを合祀して成立。
両宮の維持管理は宮寺の光通寺が当る。
「寺社御改帳」:明和5年(1768)では
・・・
1.氏神 若宮八幡 但武氏小社
1.氏神 天神宮社 住吉小社 観音堂 拝殿 三軒
1.右境内 真言宗 無本寺光通寺 但釈迦堂 宮寺 春日小社 経蔵
・・・ とあり、「両宮は、本地仏は十一面観音と阿弥陀如来で、それぞれ垂迹神は八幡神と天満神である」(村田家文書)とある。
 今の薪社(元の天神社)境内に光通寺釈迦堂、経蔵、観音堂があり、光通寺が両宮を差配したとされる。
「天神社 住吉明神 八幡宮 観音堂 高良明神 釈迦堂 宝蔵諸道具控」(安永3年1774):では
・・・
1.天神本地観音堂 十一面観音1体 不動1体 多聞天1体 ・・・ 役行者1体(現在は北側の西光寺保管)
・・・
1.釈迦堂 本尊釈迦如来1体 薬師如来1体(西光寺保管) 不動明王1体(西光寺保管) ・・ 護摩壇 ・・ 聖天1体 ・・・
1.1間半四方宝蔵 大般若経六箪笥 ・・・
・・・ 光通寺現住 光湛湛代に改置
  の記載がある。
明治初年の神仏分離で光通寺は廃される。現状薪神社に佛教関係を偲ぶものは皆無。
なお本殿北側は元観音山と呼ばれ、観音堂があったが明治初年に廃され、山は削平され、現在は児童公園になる。
本殿は一間社流造・寛政6年(1794)の造営。
  推定元観音山付近    薪神社本殿
○2006/07/12追加:
「薪の神社と宮寺・宮座」薪区文化委員会、平成2年 より
 光通寺多聞天・薬師如来・不動明王:西光寺蔵
 光通寺役行者:西光寺蔵
2022/12/09追加:
○「薪神社 (天神社) (京都府京田辺市)」を要約する。
本殿の祭神は山代直の先祖である天津彦根命、応神天皇とするが、国家神道丸出しで、胡散臭い。
本殿は一間社流造、銅板葺(以前は杮葺か?)、東面する。
天神社・八幡社とも創建の詳細は不明。
本神社はは現在地にあった天神社を基とする。甘南備山に祀られている神南備神社の遥拝所として建立されたという。
天正期(1573-92)星野天神社、住吉明神、武内社(武氏社)の三社が再興という。(棟札) 
寛政6年(1794)社殿造営。(棟札) 
明治初年神仏分離により、別當真言宗光通寺が廃寺となる。
明治2年一休寺の宗珪により武氏大明神が再勧請される。
明治40年現在地の南東150m、現在の一休寺にあった八幡社・金比羅神社を天神社に合祀し、薪神社と改号する。
 ※八幡社旧社地には基壇跡がいまも残り、かつての参道は一休寺の山垣外より、三本杉の南を経て、鐘楼の南付近に通じていたという。
 ※一休寺境内を訪れたとき、上記の意識が無かったので、基壇跡には気付かず。
本殿右の武氏大明神の祭神は武内宿禰である。一間社の小祠。
本殿左の住吉明神の祭神は当然、底筒男命、中筒男命、上筒男命であり、社殿内に素木の神像(25cm)が祀られるという。一間社の小祠。
金刀比羅宮の祭神は大物主命であり、明治40年、八幡社とともに遷される。一間社の小祠。
猿田彦神社の祭神は、猿田彦神を祀る。
◆磐座(影向石)
 境内には、かつて甘南備山(直下に掲載)頂に祀られていたという磐座(いわくら)も遷されている。月読神が仮の姿をして現れた岩という
月読神社の伝承(記録?)には次のように云うという。
祭神・月読神が、甘南備山に降臨し、その時、依代になった磐座が、後に薪神社に遷される、と。
◆薪猿楽 
 初和50年、境内に、「能楽発祥の碑」が立てられる。
 当社では、祭日の前に、神主は背後の甘南備山を拝伏し、かつて甘南備山にあった甘南備寺(直下に掲載)の薬師谷で神楽を奏した。さらに、麓の古宮に榊を納めて神楽を奉納した。この神楽は猿楽であり、後に能楽に発展する。
 甘南備寺の伽藍が建つ平坦面三段は「竹の段」と呼んだ。能楽の金春座の前身は「竹田座」であり、この竹の段に由来するという。
 奈良時代、俳優(わざおぎ)の子孫・薩摩の阿多隼人(あたのはやと)は、薪村に移り住む。作曲は「竹の段」と称された。隼人は、この曲舞(くせまい)により、山の月読神を招き猿楽を奉納した。金春能とは、曲舞と猿楽の合したものであり、薪猿楽に発展する。
 室町時代、能楽の名手・金春禅竹(1405-1468)は、一休を慕い一休寺門前に屋敷を構え、晩年を過ごしたという。一休寺門前に「薪能金春芝跡」の碑が立つ。
2022/06/30撮影:
 薪神社鳥居
 薪神社茅の輪:「夏越の大祓」として、茅の輪が設置される。この神社は天津神、八幡神、住吉明神、武内宿禰、金毘羅権現、クサ神が祭神であり、牛頭天王・蘇民将来の痕跡は見いだせない。従って、この神社の「夏越の大祓」(神社案内ルーフレット)は単なる「厄払い」「健康祈願」などの類の「便乗」であろう。
 薪神社割拝殿     薪神社本社1:左小祠が住吉明神、右は八幡神。     薪神社本社2
 薪神社本殿       薪神社磐座


薪一休寺(酬恩庵)

 ※薪一休寺については、本ページの主旨から外れるが、薪神社に隣接し、著名寺院であり、また優れた文化財を保有するので、参考に掲載する。
◇寺歴
正応年中(1288-1293)南浦紹明(大応国師)、妙勝寺を開く。元弘年間(1331-34)に兵火に遭う。
康正2年(1456)一休宗純、草庵を結び中興し、酬恩庵と号する。文明6年(1474)宗純は大徳寺の住持となる。
その後、一休は文明13年寂するが、亡くなるまで森女(森侍者)と酬恩庵で過ごす。
慶長19年(1614)大坂冬の陣の際、前田利常が当庵で休息する。
慶安3年(1650)前田利常が伽藍を再興する。
◇本寺は次の堂宇を具備する。
総門:総門前には金春禅竹の屋敷があったという。
浴室(重文):慶安3年(1650)前田利常の寄進。桁行5間、梁間3間、切妻造、妻入、本瓦葺。
宗純王廟(一休禅師墓所):宗純は後小松天皇落胤ともいい、宮内庁が管理。
法華堂:内部に一休禅師の墓がある。
虎丘庵:応仁元年(1467)応仁の乱の戦火を逃れるため京都の東山から移築され、江戸初期に修復。
本堂(法堂)(重文):永享年中(1429-41)足利義教寄進。
開山堂(大応堂):大正元年に改築、妙勝寺開山南浦紹明(大応国師)の木像を安置。
鐘楼(重文):慶安3年(1650)前田利常の寄進。梵鐘は元和9年(1623)造。
東司(重文):慶安3年(1650年)前田利常の寄進。
庫裏(重文):慶安3年(1650年)に前田利常により再建。
唐門(重文):慶安3年(1650年)に前田利常により再建。
方丈(重文):慶安3年(1650年)に前田利常により再建。内部襖絵は狩野探幽の筆。木造一休和尚坐像(重文)が仏間・昭堂に安置。
そのほか、中門、表門、裏門、唐門、書院、宝蔵(宝物殿)、大雲軒、茶室などを有する。
なお、方丈南庭・東庭・北庭・虎丘庭園は国指定名勝である。
 薪酬恩庵境内図;案内ルーフレットより、寺脇扶美とある。
2022/06/30撮影:
 薪酬恩庵総門     薪酬恩庵浴室1     薪酬恩庵浴室2
 薪酬恩庵宗純王廟1    薪酬恩庵宗純王廟2    薪酬恩庵宗純王廟3     薪酬恩庵参道
 薪酬恩庵本堂1     薪酬恩庵本堂2     薪酬恩庵本堂3     薪酬恩庵本堂4     薪酬恩庵本堂5
 薪酬恩庵本堂6     薪酬恩庵本堂7     薪酬恩庵本堂8     薪酬恩庵本堂9
 薪酬恩庵鐘楼    薪酬恩庵虎丘庵1     薪酬恩庵虎丘庵2
 薪酬恩庵唐門・方丈1     薪酬恩庵唐門・方丈2     薪酬恩庵庫裏
 薪酬恩庵東司1     薪酬恩庵東司2     薪酬恩庵東司3     薪酬恩庵東司4
  薪酬恩庵開山堂:開山堂が修理中で撮影できなかったため、ウキペディアから転載。

薪甘南備神社(神南備神社)・薪甘南備山・薪甘南備寺

○「山州名跡誌」 より
 「此の所中比在寺」「薬師堂 在同山の巽二町許麓。 本尊薬師仏(坐像3尺余) 作慈覚大師
此の堂初め神南備の山上にあり荒廃年久し。近年此の所に再建す。」
 ※甘南備山上にはかって神奈比寺があり、薬師堂の存在が知られる。
2006/07/12追加:
○「薪の神社と宮寺・宮座」薪区文化委員会、平成2年 より
 甘南備神社:甘南備山で、役小角が柴灯護摩の秘法を修し、天平年間、行基が神宮寺の甘南備寺を創建したと伝える。
明治維新後、延喜式内小社とされ、明治期に今に見られる社殿や境内整備が行われる。
元禄2年(1689)甘南備寺は吉川政信等により、甘南備山を離れる。
なお、次の一文は興味深い。
「薪の神社に神官や神職・神主が置かれた記録はなく、宮寺光通寺や酬恩庵の住職または僧侶がこれに当っていたらしい。
明治以降は田辺や草内の神主が兼務されていた。」
 ※殆どの「神社」は明治維新までは、僧侶(社僧)や仏教が深く関わり、実質の祭祀を執り行っていたのが実態であった。明治維新後の国家神道によって、仏教的なものを廃し、祭神の押し付け・変更が行われ、あまりに実態に乏しい小祠はそれらしく社殿の造替や境内整備で取り繕われ、「神社」である体面を保ったに過ぎないと思われる。
2022/03/27追加:
●甘南備山・甘南備神社
 山頂に延喜式小社甘南備神社が鎮座し、天照大神(神々の祖神)、天児屋根命(中臣氏祖)、鵜葦葺不合尊(神武天皇の父)、大国主命(被征服氏族)を祭神とする。神話の主役が勢ぞろいし、冗談とも思われるが、本気であり、何とも気持ち悪い話である。
国家神道が跋扈した頃に現在の形に整備されたと思われ、参道最後の本殿への平坦地の入口の石柱には(確か昭和5年の年紀と記憶)が刻まれ、周囲を取り巻く石作の石柱(確か400本を数えると聞く)もその頃の整備と推測される。
因みに、現在の社殿は昭和52年に修理築造されたものと云う。
 ※祭神といい、日本が国家神道を押し立て武力侵略の道を猛進していたころの整備といい、延喜式内甘南備神社とは眉唾ものと分かる。
考えても見よ、記紀神話の登場人物を神として崇めるなどと、正気の人間にはできることではない。
 ※甘南備山は水晶を産出する山であり、さらに、平安京造営時には、この山を南の基点、船岡山を北の基点とし、両山を結ぶ直線を都の中心軸に、大極殿、朱雀門、朱雀大路、羅生門等が設置されたともいい、重要な山であったという。
 ※甘南備山には月読神が降臨したいう。降臨した磐座は薪の天神社(現・薪神社)に移されるという。
  →直上に薪神社の項がある。ここに、月読神磐座の解説と薪能楽の解説(甘南備寺の解説)を記載する。
2022/07/24追加:
○「椿井文書−日本最大級の偽文書−」馬部隆弘、中公新書2584、2020 より
 本神社には、永正17年(1520)11月3日付けの「山城国甘南備記」(薪誌」)なる縁起がある。
興福寺三綱に当たる都維那円光・寺主乗学・上座真秀の花押がある。穂谷村三之宮神社が所蔵する同年正月晦日日付けの「氷室本郷穂谷来因之記」はこれと同じ体裁をとり、上の3名に官務法印順興の4名の花押を据えている。
よって、「山城国甘南備記」は椿井文書と考えて間違いあるまい。
 ※「氷室本郷穂谷来因之記」はその入手記録が残り、椿井文書であることははっきりしている。(p.107〜)
 ※この「土人がいう間鍋山」を式内甘南備神社とししと比定した若干の経緯は
 馬部隆弘の「偽文書からみる畿内国境地域史−「椿井文書」の分析を通して−」にある。
2022/03/17撮影:
いまだに、こういったペテン丸出しの社が大真面目に祭祀され続けられるとは、不可思議なことである。
 甘南備神社1     甘南備神社2     甘南備神社3     平安京遠望:甘南備山展望台より
2022/06/18撮影:
 薪甘南備山     甘南備神社鳥居     甘南備神社社殿     石作の石柱列1     石作の石柱列2
●甘南備寺跡
 甘南備神社の東方・少し下ったところ(薬師谷)に甘南備寺跡がある。
行基の創建とも役小角が秘法を修めたとも云われる。
甘南備寺は「本朝法華験記」「今昔物語集」に登場する。
※「本朝法華験記」:長久4年(104)頃、比叡山首楞巌院の鎮源の撰述。変体漢文で書かれ、難解という。
※「今昔物語集」:平安末期の成立、作者は不明。神奈比寺は「巻14第25話」(下の項に掲載)に登場する。
説明板には附近には多数の堂舎跡と思われる平坦地があると云うが、大雑把に見る限り、それらしいものは見当たらない。
中世には荒廃し、江戸中期(元禄2年/1689)下山し、薪山垣外に再興される。
現地説明板には「当時の建物があった平坦面が多数みられる」とあるが、附近にはそれらしき平坦面は見られない。
2022/03/17撮影:
 甘南備寺跡     甘南備寺井戸?
2022/06/18撮影:
 甘南備寺跡2     甘南備寺井戸?2

●薪山垣外甘南備寺
説明板は次のように云う。(大意)
 黄檗宗、医王山と号す。大和吉野下市の黄檗僧鉄堂道融(1630-1702)、貞享2年(1685)山城に行脚、薪村庄屋の吉川氏に会い、請われて翌年この地に復興された甘南備寺の開山となる。鉄堂が没した元禄15年(1702)弟子の南嶺元勲(1666-1735)が更に吉川宗顕の要望を受け住持となる。
 本「甘南備寺」の創建は古く、甘南備山に鎮座する神南備神社の神宮寺として知られ、平安時代末の『今昔物語集』にこの寺の薬師如来像の物語が登場する古刹であった。
しかし時代の変遷とともに衰退し残っていた諸仏がここに移設されたが寺名は継承される。
 薬師如来坐像と両脇侍像は旧甘南備寺から移設され、薬師如来坐像は平安前期10世紀の作と考えられ、『今昔物語集』に登場する像であろう。両脇侍は鎌倉末から南北朝期の作と推定される。
○「今昔物語集」
巻14第25話 山城国神奈比寺聖人誦法花知前世報語 第廿五
 今昔、山城の国綴喜の郡に飯の岳と云ふ所有り。其の戌亥の方の山の上に神奈比寺と云ふ山寺有り。其の寺に一の僧住す。幼より法花経を受習ひ、日夜に読誦す。亦、真言を持(たもち)て年来行ふ間、随分に其の験有り。然れば、徳を開く事、転(うたた)有けり。
 而る間、此の僧、常に、「此の寺を去て、大寺に行なむ」と思ふ心有けり。然れども、忽に行く事も無くて、思乍ら過る間、尚吉々く思ひ定めてければ、既に出でて去なむと為るに、其の夜の夢に、貴き老僧来て宣はく、「我れ、汝が宿世の報を説て聞かしめむと思ふ也。汝ぢ、前の世々に蚯蚓の身を受て、常に此の寺の前の庭の土の中に有りき。其の時に、此の寺に法花の持者有て、法花経を読誦せしを、蚯蚓、常に聞(きき)き。其の善根に依て、蚯蚓の身を棄てて、今人と生れて、僧と成て、法花経を読誦し仏道を修行す。此れを以て知るべし。汝は此の寺に縁有る身也。然れば、専に他の所へ行くべからず。我れは此れ、此の寺の薬師如来也」と宣ふと見て、夢覚ぬ。
 其の後、始めて前世の報を知り、此の寺に縁有る事を知て、他の所へ行かむ思ひを止めつ。
 其の後、永く此の寺に住して、懇に法花経を読誦して思はく、「我れ前生に蚯蚓とて、此の寺の庭の土の中に有て、法花を聞くに依て、虫の身を棄てて、人と生れて、僧と成て法花経を読誦す。願くは、今生に法花を誦する力に依て、人界を棄てて、浄土に生れて菩提を証せむ」と誓ひて行ひけりとなむ、語り伝へたるとや。
2021/12/04撮影:
 甘南備寺山門     甘南備寺本堂・庫裏     甘南備寺本堂

酒屋神社:京田辺市興戸

2003/11/18撮影:
神宮寺として観音寺(真言宗常光山実心院観音院)があったという。神仏分離により、明治初年に廃寺という。
 ※観音寺は南山城三十三所22番札所
「旧観音寺本尊略縁起」(享和3年1803、酒屋神社社僧 観音寺探道):
意訳:「弘仁年中知泉僧都の建立で、本尊は聖観音である。酒屋大明神の本地仏なり。・・・」とある。
観音寺は境内東北隅にあり、明治9年の法律改正で取り払われ、地下して畑地となったという。
但し現地は都市化はしていないが、寺地の跡は良く分からない。居合わせた土地の数人の古老も知らないとのことであった。
  酒屋神社本殿(一間社流造・明治9年再興)
  本殿東北方面(観音寺跡地??)

佐牙神社:京田辺市宮津

明治維新前は、天神宮(佐賀天神宮)、吉田明神、若松大明神と称されるという。
社僧として恵日寺があり、神社の管理に与る。明治初年に廃寺となる。
 ※※恵日寺は南山城三十三所19番札所
「江津村恵日寺略縁起」(天明2年1782):
 大意;伝教大師開基、本尊は千手観音。中世には焼亡、仮屋に多数の仏像を篭置く。
 慶長年中に片桐市正(領司)が堂を再興し、本尊並びに五大明王像などを奉安する。
                                               天明2年 龍集
明治の神仏分離の処置で恵日寺は廃寺、廃寺の後、仏像類は以下のように処分されたという。
正福寺(佐牙垣内)には不動明王(南北朝期)・大威徳明王・軍茶利明王像が、寿宝寺(山本) には降三世明王・金剛夜叉明王が遷座、大般若経は300巻ずつを両寺に移す。
 

佐牙神社恵日寺

恵日寺跡:
奈良街道から参道を進み、石段が2段階になっていて、その中間に平坦地があり、その左平坦地に恵日寺があった。
現状は潅木の平坦地を残すのみで地表には遺構は残存しない。
2003/11/18撮影:
 恵日寺跡1(左図拡大図)
 恵日寺跡2
 恵日寺跡3(石碑)


佐牙神社本殿(重文)


佐牙神社本殿(重文):
本殿は2殿を構え、社伝によると天正13年(1586)の再興という。ともに一間社流造。
なを身舎3方の蟇股6面は鎌倉風の遺構とされ、再建時旧構を利用したものといわれる。
2003/11/18撮影:
 佐牙神社本殿1
 佐牙神社本殿2
 佐牙神社本殿3(左図拡大図)

2009/01/06撮影:
 山城佐牙神社本殿11   山城佐牙神社本殿12   山城佐牙神社本殿13   山城佐牙神社本殿14   山城佐牙神社本殿15
 山城佐牙神社本殿16   山城佐牙神社本殿17   山城佐牙神社本殿18   山城佐牙神社本殿19   山城佐牙神社本殿20
 山城佐牙神社本殿21   山城佐牙神社本殿22   山城佐牙神社本殿23
○三山木廃寺
当神社に接する南の丘陵地から、奈良前期の古瓦を出土したという。
現在三山木廃寺として、石碑が建てられている。現在この地は竹林をなす。
  □三山木廃寺石碑
廃寺は江津(宮津小字佐牙垣内)にある。古代は三山木廃寺の鎮守が当社であったのか、あるいは当社の神宮寺が三山木廃寺であった可能性もあるが、それは全く不明である。
2016/06/12追加:
○「京田辺市の仏像ー京田辺市美術工芸品調査報告書」京田辺市教育委員会、2007 より
廃恵日寺五大堂五大明王像が壽寶寺及び正福寺に伝わる。
 木造降三世明王立像:平安後期:像高155cm:現在壽寶寺安置
 木造金剛夜叉明王立像:平安後期:像高156cm:現在壽寶寺安置
 木造大威徳明王椅像:平安後期:113cm:現在正福寺安置・・・以上三像は一具作
 木造不動明王坐像:平安後期:像高81cm:現在正福寺安置・・・以上三像とは別手であり、他から転用か。
 木造軍荼利明王立像:室町期:像高161cm:現在正福寺安置・・・本来の像が失われ補作したものである。

山城天王村牛頭天王社(現・朱智神社):京田辺市天王

近世は牛頭天王社と称した。本殿内には牛頭天王立像(藤原期)を今も祀る。
 →山城朱智天王社

2010/03/20追加:
咋岡神社

いわゆる論社である。
京田辺市教育委員会は以下のように草内咋岡神社を説く。
即ち、「創建年代は健治年中(1274-78)で、応仁年中(1467-1469)、永和年中(1504-1521)に戦火で焼失したが、天文3年(1534)8月に再建されたと伝える。古くは天神社と称したが、明治26年咋岡神社と社名を改めるとともに、それまでの主神菅原道真を配神とし、倉稲魂神を主神とした。」「本殿は春日造、・・・江戸中期頃の建立と思われる。この神社地は、もと(山城国一揆の)草路城といわれ、周囲に濠をめぐらし土塁の跡が周囲の森林の中に残る。」と。
「偽文書からみる畿内国境地域史−「椿井文書」の分析を通して−」馬部隆弘 の論点は以下である。
並河(「山城志」)は咋岡神社 を草内天神社に比定する。(草内は飯岡<「続日本書紀」などの云う区毘岳>の隣である。法泉寺を宮寺とする。中世の十三重塔が残る。以上がその理由であろう。)
しかし明治初頭でも草内天神社は咋岡神社を名乗らず、天神社のままであった。
明治26年突然「旧記」が発見され、草内天神社は咋岡神社と改号する。
一方、飯岡咋岡神社であるが、椿井政隆は並河の比定とは違って、飯岡の天神社を咋岡神社と比定していたふしがある。
 ※綴喜郡筒城郷朱智庄佐賀庄両惣図(京都府立総合資料館蔵・「椿井文書・偽書」 )では咋岡神社を草内ではなく飯岡に描く。
明治2年の「南山城神社改帳」には飯岡では神社は認識されていないが、明治6-9年の「特選神名帳」では神社が認識される。
おそらく、明治維新の神祇復興の時流にのるために、急に式内社と主張を始めたものと思われる。
明治10年式内咋岡神社と決定される。飯岡の社も近世には天神社と称したと云う。

明治26年草内天神社が「旧記」発見し、咋岡神社と改号、草内・飯岡の氏子が争うも、実質的には飯岡が咋岡神社と裁定されたとされる。
物証はないので分からないが、無名の飯岡天神社が明治初期に式内社との決定を見たのは、「椿井文書」の存在があるのだろうか。
 一方の明治26年に「発見」された草内の「旧記」とは「椿井文書」の可能性が極めて高いと推定される。それは冒頭の京田辺市の説明では居様に社伝が詳細であることも、一つの傍証となる。つまり創建や2度の焼失の年号が伝わり、再建の年・月まで伝わっている。まず地方の小社でこのようなことは有り得ない。延喜式の頃には存在していたのだろうが、しばらく後には退転し、忘れられてしまうからである。有り得ないほどの詳細な社史が「伝わる」のは近世に創作されたからである。極めて詳細な事象の日付を示すのは「椿井文書」の一つの特徴である。
明治26年と云う年代も、椿井文書が木津の今井氏(今井佳平・後に府会議員)から古文書の因縁先に有償譲渡された時期に一致するのは偶然ではなかろう。

2010/04/13追加:
井手八王子社(現・玉津岡神社)

○由緒・由来をWebで探すと以下のように云われているのが分かる。
【玉津岡神社の由来】
欽明天皇元年(540)8月、下照比賣命、玉津岡の南峰に降臨する。これが始まりである。
天平3年(731)9月、井堤左大臣橘諸兄、橘一族の氏神として、椋本天神社を創祀する。
「玉岡の社」は、「玉岡春日社」、江戸期には「八王子社」と称号を変える。 (この経緯は良く分からないし、意味不明。)
明治11年10月5日、八王子社・春日社・田中社・八坂社・天神社の5社を八王子社殿(玉岡の社)に合祀する。
明治12年5月27日、村社。 明治14年7月8日、社号を「玉津岡神社」と改称。明治15年4月24日、郷社。明治23年4月14日、有王天満宮を合祀。
また以下の記事も見られる。
『嘉吉元年(1441)の興福寺の文書には、椋本天神の名で記され、由緒を欽明天皇元年に下照比売命が兎手玉津岡に降臨し、天平3年(731)に橘諸兄が下津磐根に遷座、文応元年(1260)現在地に遷座したとする。』

○以上から以下のことが判明する。
「嘉吉元年の興福寺文書」とは「興福寺官務牒疏」(椿井政隆による江戸後期創作の偽書)であり、古代の由緒はこの「牒疏」から採る。
椿井政隆はこの付近南方の椿井の出自であり、この地方綴喜郡一帯に膨大な「偽書・偽絵図」を残す。
椿井文書」に掲載した【「椿井家古書目録」所収史料一覧表】の
18.北吉野山縁記1巻、20.狛寺伝補禄1巻、180.鷲峯山寺図 全(「山城国鷲峰山図」) 、182.北吉野山寺 全、183.狛寺 全、184、井堤寺細見図 全 など見れば、政隆のこの地方に対する並々ならぬ執着が感じられるであろう。
さらに、「椿井文書」に掲載した【「興福寺官務牒疏」所収寺社一覧】には42.椋本天神がある。
要するに、この社の実態は春日明神や八王子社や天神社であって、社伝に云う欽明朝の降臨や天平期の左大臣橘諸兄の創祀などは、椿井政隆の創作と考えるのが自然であろう。
欣明朝の8月とか天平の9月とか妙に月まで示すのは椿井文書の特徴であろう。また橘諸兄など持ち出すのは綴喜郡普賢寺郷の例に見るように、椿井が郡内の寺社の縁起の創作で用いる常套手段の一つであろう。
 (冷静に考えれば、近世には綴喜郡内式内社の全ての伝承が失われているのが実態であり、他の地方の実態も合わせ、古代の伝承がこの地方の小社に伝わっているはずがなく、ことさら細かな伝承が伝わるのは眉唾物として接するべきものなのであろう。)
 なお、付近には井堤寺跡がある。
また、社に至る参道石段向かって左に曹洞宗地蔵院がある。あたかも社の別当であるかのような位置を占めるが、詳細は不詳。
古くは東大寺系の寺院があったとも云われるが、寛永年中に曹洞宗に転ずる。
 ※以下の江戸初期の建立と思われる社殿を有する。
 2010/03/27撮影:
  玉岡八王子社本殿1     玉岡八王子社本殿2
  玉岡八王子社大神宮社1
  玉岡八王子社大神宮社2:末社である。大神宮社とは明治維新後の改号であろうと思われるも、元の社名は不明。
2021/03/17撮影:
本殿は貞享4年(1687)の建立。
 玉岡八王子社社殿     玉岡八王子社本殿3     玉岡八王子社本殿4     玉岡八王子社本殿5
 玉岡八王子社本殿6     玉岡八王子社本殿7
2023/03/15撮影:
 玉岡八王子社大神宮社3

2022/02/14追加:
○「京都の文化財 第2集」京都府教育委員会、昭和59年 より
玉津岡神社本殿
一間社春日造、屋根檜皮葺、貞享4年(1687)の造立<擬宝珠銘>
玉津岡神社末社大神宮社
一間社流造、屋根銅板葺、全体の様式から江戸初期の造立と思われる。
2020/03/20撮影:
現在の玉津岡神社の欺瞞について、もう一度整理する。
○「興福寺官務牒疏」では井提寺と椋本天神について、次のように記す。
井堤寺。
 在綴喜郡井提郷、僧坊八宇。(以下略)
椋本天神。
 在井提下照比賣神。神人三人。供僧一人。
 欣明帝元年八月庚寅。兎手玉津岡之南山降臨云々。
 聖武天皇天平三年九月庚牛。井手大臣諸兄公。両社於下津岩根遷座。
 文應元庚申年遷今地祭之。
次は読み下し文。
椋本天神。
 井提に在り、下照比賣神を祀る。
 欣明帝元年(540)兎手<いで>玉津岡の南山に降臨する云々
 天平3年(731)井手大臣諸兄公と下照比賣神の両社が下津岩根に遷座。
 文應元年(1620)今の地に之を祭る。
※上述のように、「興福寺官務牒疏」は江戸後期の椿井政隆の偽書である。
ここ、玉津岡社の由緒においても、次に見るように、この偽書によって語られていることが分かる。
○境内の説明板「玉津岡六柱の大神略誌」 では次のように云う。
 下照比賣命
  欣明帝元年八月庚寅(540)兎手玉津岡之南山降臨云々。
  聖武天皇天平三年九月庚牛 井手左大臣諸兄公 社於下津岩根遷座 之云々
 天児屋根命     元西春日  ・・・・アメノコヤネ:春日権現のこと
 味黎耜高彦根命   元水無天神 ・・・・記紀に登場する。
 少彦名命      元田中天神
 スサノヲ      元石垣八坂 ・・・・・八坂とは牛頭天王が改竄されと改号されたものであろう。
  明治11年本社に合祀す。
 菅原道真公     元有王天満宮
  明治23年本社に合祀す。
※ここでは、偽書「興福寺官務牒疏」の創作がそのまま、神社の由緒となっている。
冥界の椿井政隆もさぞかし苦笑していることであろう。
※シモテルヒメ:Wikipediaでは次のように解説する
『古事記』では本名を高比売命(たかひめのみこと)、亦の名を下光比売命・下照比売命(したてるひめのみこと)、『日本書紀』では下照姫、亦の名は高姫、稚国玉(わかくにたま)、『先代旧事本紀』地神本紀では下照姫命と記述される。
 要するに、国造りのお伽噺である記紀に出てくる神で信憑性は全くないわけであるが、Wikipediaでは主祭神とする社として「玉津岡神社」ほか6社程が挙げられている。
 もう一つ別の案内板がある。
○境内説明板「玉津岡大神略誌
 下照比賣命
  ※由来は「興福寺官務牒疏」(椿井文書・江戸後期の偽書)の引き写しのため省略
 天児屋根命     元西春日
 少彦名命       元田中天神
 スサノヲ        元石垣八坂
 味黎耜高彦根命   元水無天神
  明治11年10月八王子社殿(玉岡の社)に合祭し、明治12年12月玉津岡神社と改称する。
 菅原道真公     元有王天満宮
  明治23年4月本社に合祀す。
    昭和40年4月3日記
 ※ここでも、偽書「興福寺官務牒疏」の創作がそのまま、神社の由緒となっているが、さらに重要なことが語られる。
即ち、玉岡の社は実は八王子社であり、ここに4つの神が合祀(後には5神となる)され、明治12年に玉津岡神社と改号されたということである。つまり、現在の玉津岡神社という社号は明治12年にとってつけられたもので、それまでは八王子社であったという。
「興福寺官務牒疏」が創作した下照比賣命の降臨などは完全否定されているという訳である。

どういうことなのか、
○ページ「玉津岡神社 (京都府井手町)」に歴史年表があり、次のように云う。(転載)
◆歴史年表
 創建、変遷の詳細は不明。
 飛鳥時代、欣明帝元年(540)
  玉岡の社は、下照比賣命が兎手(いで)玉津岡南峰(現在地付近、下津磐根とも)に降臨し祀ったことに始まるという。(社伝)。
 奈良時代、天平3年(731)
  井堤左大臣・橘諸兄は、橘一族の氏神として井手郷美津梨(現在の玉川保育園付近)に椋本(くらもと)天神社を創建したという。
  社は井手寺(井堤寺)の西にありその末社であったという。
 731年前後、またそれ以前、玉岡春日社(後の八王子社)が建立されたともいう。橘諸兄の崇敬が篤かったという。
 鎌倉時代、文應元年(1260)
  椋本天神は現在地に遷されたともいう。下照比賣命を別祭して天神社が創立されたともいう。(「興福寺官務牒疏」)
 室町時代、嘉吉元年(1441)
  椋本天神と記載され、神人3人、供僧1人がおり、奈良・興福寺の支配下にあったとみられる。(「興福寺官務牒疏」)
 安土・桃山時代、1596年以降、八王子社の修復が行われる。
 慶長10年(1605)京都所司代・板倉勝重により上葺料が寄進される。
 慶長14年(1609)板倉伊賀守の證文に八王子社とあり、社号を改称したとみられる。
 承應元年(1652)から貞享元年(1684)八王子社の修復拡張が行われる。
 延宝6年(1678)本殿が再建された。春日造りであり、興福寺との関わりがあったとみられる。
 明治11年(1878)春日社(上井手の西春日社、祭神・天児屋根命)、田中社(井堤寺南の田中社、東天神社、祭神・少彦名命)、八坂社(石垣西前田、祭神・素盞嗚男命)、天神社(水無玉ノ井、祭神・味耜高彦根命、下照比賣命)の5社を八王子社殿(玉岡の社)に合祀した。
 明治12年(1879)村社となる。
 明治14年(1881)玉津岡神社と改称した。(「綴喜郡神社明細帳」)
 明治23年(1890)有王山(田村新田)に祀られていた有王天満宮(祭神・菅原道真)が合祀された。
 現代、1980年、井手町民俗芸能保存会が発足し、途絶えていた伊勢参宮の「おかげ踊り」が復活され奉納された。
以上であるが、
嘉吉元年(1441)<「興福寺官務牒疏」の奥書・成立年:当然偽りである)以前は「興福寺官務牒疏」の引き写しであることははっきりしている。
一方、それ以降の歴史は、典拠は不明であるが、近世初頭以来八王子社として鎮座していたことが語られる。
勿論、八王子とは牛頭天王の子供の八王子であろう。
 なお、本社の左右には「牛頭天王」と刻む石灯篭1基づつが現存するが、これは明治11年石垣西前田の八坂社つまり牛頭天王を八王子社に合祀した時に、八坂社(牛頭天王)から移設引き継いだものであろう。
古代の玉岡の社とか椋本天神とかは椿井の創作であり、論外であるが、古代の終わり頃か中世か近世初頭かは分からないが、この玉岡の地に牛頭天王の子・八王子が勧請され、疫病退散とか村中安全とかの疫神として祀られたものと思われる。
右牛頭天王銘石灯篭:年紀の刻銘がなく、時代は不明。
 2021/03/17撮影:
 右牛頭天王銘石灯篭
左牛頭天王銘石灯篭:年紀の刻銘があると思われるが、判読できない。
 2021/03/17撮影:
 左牛頭天王銘石灯篭1     左牛頭天王銘石灯篭2     左牛頭天王銘石灯篭3:牛頭天王と刻む
 2023/03/15撮影:
 左牛頭天王銘石灯篭4
上に述べるようにこの2基の石灯篭は明治11年石垣西前田の牛頭天王(改竄されて八坂社と称する)から移設されたものであろう。
 前述の「偽文書からみる畿内国境地域史−「椿井文書」の分析を通して−」馬部隆弘(「史敏」2005春号(通巻2号) 2005年 所収)では次のように云う。
 椿井の偽文書創作は、早く中村直勝氏によって指摘されている。即ち「明治30年頃に山城木津に住んでいた椿井氏の秘庫中から、探し出された古社寺所蔵文書と称するものが市中に出、それを関係ある神社が買い求め、その社歴を飾ったもの」としている。
 ※八王子社あるいはそれを利用しようとする「郷土片愛に溢れた」国学者や復古神道家が「興福寺官務牒疏」を入手し、井手八王子社の社歴を飾ったことは容易に想像できよう。
これらの「郷土片愛に溢れた」国学者や復古神道家の思想は国家神道と云われる狂信となり、彼らは天皇教の先兵となり、多くの人々を死に至らしめたことは、記憶に新しいところである。
 2021/03/17撮影:
 末社大神宮:本殿とともに江戸初期の建築である。     末社橘神社:橘諸兄と楠正成を祀るという。     玉津岡社諸末社

なお、上記のページ「玉津岡神社 (京都府井手町)」には、次のようにも語られる。
 かつて境内に観音堂があり、千手観世音が安置されていた。また、裏山山上に鐘撞という鐘楼もあり、神社は神仏混淆だったとみられている。その遺構としては、十三重石塔礎石、笠石、また旧絵馬堂の柱石は観音堂礎石だったという。
 ↓
2022/07/11追加:
廃栄福寺
上記では、八王子社に観音堂(千手観音)・鐘楼・十三重石塔などの存在が語られ、神仏混淆だったともいう。
下に掲載の廃栄福寺:南山城三十三所霊場(26番栄福寺)の項で述べるように、
玉津岡神社境内(八王子)には井手山栄福寺(千手観音)があったことが判明する。
観音堂が栄福寺であり、鐘楼・十三重石塔などが付属したいたのであろう。(推測)

廃栄福寺十三重石塔廃栄福寺
玉岡八王子社及び地蔵院境内にある。
 十三重石塔残欠は、八王子社境内右手斜面上にある稲荷社の脇参道右手にあり、このひと目で古式な鎌倉期の建立と解るという。
本十三重石塔残欠と地蔵院にある残欠の解説は「玉津岡神社」と「地蔵禅院」の十三重石塔残欠」に詳しい。
------------
 地蔵院には九重〜十三重目までの残欠と五重〜八重目の残欠に分かれて置かれている。
そして、九重〜十三重目の残欠は4枚の切石を組み合わせた大きな基壇の上に置かれる。また相輪が載るが、この相輪は本来の相輪ではないだろうとの指摘もある。
 玉岡八王子社には基壇と初重〜四重目の残欠が置かれる。基壇は幅約50cm、高さ約40cm弱であり、おそらく地蔵院にある「4枚の切石を組み合わせた大きな基壇」の上に載っていたものであり、本来は二重基壇では無かったかとの指摘もなされている。
初重塔身(軸部)は「高さ幅共に約50cm、線彫り月輪の中に金剛界四仏の種子を、深く鋭い薬研彫りで刻み込む」。
 現在八王子社と地蔵院とに分散して置かれているが、元来は、地蔵院にある「切石の組み合わせ基壇」の上に、八王子社にある小さい基壇が載った二重基壇をなし、その基壇上に八王子社にある初重〜四重目が載り、さらに地蔵院にある五重〜八重目と九重〜十三重目とが載った十三重塔であった可能性が非常に高いと推定される。
石塔は花崗岩製、まさに「ひと目で古式な鎌倉期の建立と解る石塔」である。
2019/03/27撮影:
 地蔵院九重〜十三重目1     地蔵院五重〜八重目1
2020/03/20撮影:
 地蔵院十三重石塔残欠     地蔵院九重〜十三重目2     地蔵院五重〜八重目2
2021/03/17撮影:
 地蔵院にある残欠     地蔵院九重〜十三重目3     地蔵院五重〜八重目3
2022/03/17撮影:
 地蔵院十三重塔残欠2     地蔵院九重〜十三重目4     地蔵院九重〜十三重目5
2021/03/17撮影:
 八王子社初重〜四重目1     八王子社初重〜四重目2     八王子社初重〜四重目3
 八王子社初重〜四重目4     八王子社初重〜四重目5
2023/03/15撮影:
 八王子社初重〜四重目5
◇伝観音堂礎石:旧絵馬堂の柱石といい、ここにあった観音堂礎石という。
2021/03/17撮影:
 伝観音堂礎石
2023/03/15撮影:
 伝観音堂礎石2

 なお、地蔵院・八王子社を降ると平野部に達するが、その南西部には「井手寺」跡の存在が確認されている。そして井手寺跡には造出を持つ礎石が10個ほど残されてる。厳密に法量や形状を比較した訳ではないが、この礎石も造出を持つ故に、廃井手寺から運ばれて可能性もあるのではないかと推測する。
 →山城井手寺跡(井堤寺跡)

地蔵院
2022/03/17撮影:
曹洞宗、玉峰山と号す。創建は橘諸兄と伝えるも不明、華厳宗寺院であったと伝えるも不明、すでに廃寺であったが、寛永5年(1628)曹洞宗物外麟応を中興開山、本多忠政正室妙高院を壇越として再興。
位置的には井手八王子の神宮寺的な立地であり、そのようにいう説もあるが、不明。
 地蔵院山門1     地蔵院山門2     地蔵院山門3
 地蔵院本堂:安政3年(1856)の建造     地蔵院鐘楼     地蔵院文殊堂:文殊菩薩は天橋立の文殊と同体とつたえる。

廃栄福寺:南山城三十三所霊場(26番栄福寺)
 この三十三所霊場は貞享年中(1684-88)相楽郡綺田村東光寺の住持如範が西国三十三所霊場に倣って開設したという。
第1番は海住山寺であった。なお東光寺は明治維新の時廃寺となる。
この霊場も次第に衰えてきたが、明治維新の神仏分離の影響で33ヶ寺の内17ヶ寺が廃寺となり、遂に霊場はその機能を停止する。
26番榮福寺(地蔵院末)もこの時廃寺となり、仏像は玉津岡社から地蔵院に遷される。
その廃榮福寺を偲ぶ石灯篭(榮福寺の寺号を刻する)が地蔵院に移設され現存する。
 廃榮福寺石灯篭
2022/03/17撮影:
 廃栄福寺石灯篭2     廃栄福寺石灯篭3
○「井手町議会だより第45号」2014年5月 より
南山城33所の札所は加茂町5、木津長5、精華町7、田辺町7、井手町3、山城帳6で全行程約42km。
井手地区では、水瀬東福寺(聖観音・寺跡は玉川保育園)、井手山栄福寺(千手観音・玉津岡神社境内)、石垣観音寺(十一面観音・安養寺の東方附近か)の3ヶ寺が霊場であった。
現在は何れも廃寺、東福寺と観音寺は玉水の西福寺に、栄福寺は上井手地蔵院に合併され、観音像は何れも継承寺院に祀られている。
 ※25番東福寺(井手)、26番栄福寺 (井手山)、27番観音寺 (石垣村)

廃正法寺歴代墓碑
現在、地蔵院にある。近年廃正法寺から移設されたものであろう。
正法寺
「井手小学校」と称するパンフレットがある。(発行者・年紀など不明)
ここに
明治 5. 8 学制領布により学校制度発足
明治 5.12 村内宮本家の民家を借り井手小学校として開校 授業開始
明治 6. 4 水無の修新築校舎(現玉川保育園所在地)に移転
明治 7. 上井手の正法寺本堂を校庭に移転、講堂とする   とある。
 ※推測であるが、明治初頭正法寺は廃寺となり、本堂は小学校講堂として転用、上井手に正法寺は所在していたと思われる。
 ※はっきりしないが、上井手とは地蔵院や井手寺跡付近一帯をいうと思われる。
井手は現在でも八つのお寺があって多いが、明治九年一月の廃寺の記録(注13)を見ると六寺に達する。
注13:横田平次氏蔵『井手村誌』に正法寺、連台寺、観音寺、真蔵院、玉井寺、東福寺とある。
 ※この記録にある正法寺が該当すると推測する。
2022/03/17撮影:
 旧正法寺歴代墓碑

井手小野小町塚
 現地の説明板には
終焉の地は井手町、京都市内、秋田県、山口県など多数ある。
「冷泉家記」では「小町69歳井手寺に於いて死す」、「百人一首抄」では「小野小町のおはりける所は山城の井手の里なりとなん」とあり、この井手町の小町塚は信憑性が高い。
 とある。
 ※実際、「小町の終焉の地」の検索語で検索すると日本全国各地に数多出てくる。
しかし、「新撰京都名所圖繪 6巻」では
「上井手の玉津岡神社(八王子)に至る参道のそばにある。・・「冷泉家記」によれば小野小町は69歳で井手寺において歿したとあるのに因んで、近世の好事家によって造られたものであろう。」という。妥当な見解であろう。
2022/03/17撮影:
 井手小野小町塚1     井手小野小町塚2


参考文献:
「田辺町近代誌」田辺町近代誌編さん委員会、昭和62年
「田辺町近世近代資料集」田辺町近代誌編さん委員会、昭和62年
「薪誌」薪誌刊行委員会、平成3年
「京都府田辺町史」村田太平偏、昭和43年
「興戸の歴史」興戸の歴史編纂委員会、昭和49年
「式内社調査報告第1巻」式内社研究会、皇學館大學出版部、昭和54年
「偽文書からみる畿内国境地域史−「椿井文書」の分析を通して−」馬部隆弘(「史敏」2005春号(通巻2号) 2005年 所収)


2006年以前作成:2023/07/29:ホームページ日本の塔婆神仏分離