★名所図絵等に見る光瀧寺
■河内鑑名所記:大阪府立図書館(中之島)蔵
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「河内鑑名所記光瀧寺」
:左図拡大図
※「河内鑑名所記」三田浄久(1608-1688)著、延宝7年(1679)刊、6巻6冊。
※本絵図は江戸初期の成立である。
※多宝塔が「古仏の不動堂」(本堂)とともに描かれ、この名所記の描写では、
江戸初期には多宝塔は完存していたものと推定される。
絵図の左手にうは「光のたき」が描かれる。2007/06/26追加:
「河内鑑名所記」記事:光瀧寺 山号ハ福玉山 行満和尚開基 本尊ハ不動 両脇ハ今金剛せいたか 即行満和尚天竺震旦日本三国の土を以作給ふ霊像也 塔あり 又五丈落る瀧あり 瀧の畑村 泉長寺 観音有 此谷よりくハうのたき炭うりに出る也
河内鑑名所記光瀧寺:
「上方藝文叢刊 3」所収
※絵の調子が相違し、上出の大阪府立図書館蔵本とは別本と思われる?。
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■河内名所圖會:享和元年(1801)刊 秋里籬島著・丹羽桃蹊画
◇光瀧寺(滝畑村にあり。福玉山と号す。天台宗)
記事:「本尊不動明王。多宝塔(五智如来を安ず)、光滝(本堂の前にあり・・・云々)」
とあるが、挿絵中には多宝塔の絵は見当たらない。
(従って、多宝塔の存在は確認できるが、どのような状況<下に掲載の西国三十三所名所圖會のように、初重のみ残存している状態であったのか、既に退転していたのか、完存していたのか>などは不明。)
■多宝塔再建図:「滝畑民俗資料館」展示図:天保12年
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多宝塔再建図:左図拡大図
この図は「滝畑民俗資料館」に展示されるも、出所不明。
「天保12年(1841)に多宝塔を再建しようとした時の再建図面」
との解説があるが、それ以外は不明。江戸後期には既に上部倒壊あるいは退転し、天保年中に多宝塔再興の
試みがあったという推測も可能と思われる。 但し、絵としては初重が2間であり、粗雑と思われる。 |
■西国三十三所名所圖會:嘉永6年(1853)刊・暁鐘成著・松川半山、浦川公左画
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西国三十三所名所圖會:巻之3 より
福玉山光瀧寺:左図拡大図:2020/06/030画像入替
福玉山光瀧寺(瀧畑村にあり。この地は河内の国なり。槙尾山の奥院と云ふ。天台宗なり。・・)
多宝塔(五智如来を安ず。今廃して一重わづかに存し、杉皮を以って屋根を覆ふ。寺僧云ふ。この宝塔は淀君の御建立なり。)
この頃既に多宝塔は「塔跡」と認識され、上重は倒壊し、下重しか残っていなかったと思われる。 |
2011/12/12追加:
「諸山縁起」では、槙尾山施福寺で修行中の弘法大師が20歳の時、自ら刻んだ五智如来像を光滝寺の多宝塔に安置と云う。(未読)
「西国三十三所名所圖會」にもあるように、光滝寺は槙尾山奥の院とも云われる。
従って、紙本着色「和泉施福寺参詣曼荼羅2」(「和泉施福寺参詣曼荼羅2-1:カラー):江戸後期では
槙尾山の多宝塔2基のほか、遥か山中に多宝塔が描かれるが、この多宝塔が光滝寺多宝塔を描いたものと云う。
→ 和泉槙尾山施福寺 ★光瀧寺の記録 ■延徳2年(1490)
花田新左衛門尉家清が大般若経を寄進。
これは、光瀧寺の存在が確実に遡れる最古の史料とされる。(これ以外では下記の元禄5年の史料となる。)
●安楽寺大般若経巻第561:大和安楽寺蔵
:「人々のたくす想い−滝畑の経典ネットワーク−」より転載
「奉寄進 大般若経 光瀧寺
延徳2年6月日花田新左衛門尉家清 花押」
※大和安楽寺には、花田家清が光瀧寺に寄贈した大般若経56巻が現存すると云う。
※花田家清:畠山義就の三奉行人の一人とされる。
家清は光瀧寺に大般若経寄贈の翌年、延徳3年義就の逝去とともに失脚する。
畠山義就は応仁の乱の一因となる畠山家の家督争いの一方の当事者。
※この安楽寺所蔵大般若経に巻頭には「禅寂寺」印があるという。
以上から、この大般若経は
和泉禅寂寺→花田家清→河内光瀧寺→・・この間不詳・・→大和安楽寺へと転々としたと推測される。
2006/09/17追加:
安楽寺大般若経巻第298:大和安楽寺蔵;「奈良県大般若経調査報告書」奈良県教育委員会編、
1992.3
→巻第561と同一の奥書があります。
■元禄5年(1692)「堂社改帳写」:大谷家文書
光瀧寺部分:
天台宗 京都東山若王寺末寺
一 光滝寺 不動院 境内之中 山林八丁四方
一 登(塔)堂 七尺四方 右境内中ニ有之、但シ弐重
一 多聞院 屋敷 西之村中ニ有之候
一 栢之坊 屋敷 東之村中ニ有之候
一 曲昭院 屋敷 光滝寺地内有之
一 西之坊 屋敷 同 地内有之
一 堂所坊 屋敷 同 地内有之 右五ヶ寺光滝寺末寺 ■木造智証大師坐像:光瀧寺本堂
に伝来し、現在は「滝畑民俗資料館」保管。
墨書銘:「元禄9年 亮玄 云々」とある。
(亮玄は、下記、天保14年「光滝寺覚書」のように、元禄期の不動院住持であった。)
■什物改帳:文化13年(1830)6月25日のものと云う。;滝畑民俗資料館蔵
○文化13年「什物改帳」:「塔ノ内 一 五仏」などとある。
■天保14年(1843)「光滝寺覚書」(「元禄5年6月ニ差上候扣」の「覚書控」)
河州錦部郡滝畑村
一 葛城嶺行所 福玉山光滝寺 境内并山地8町四方 御赦免地 本寺京都東山若王子大僧正
一 寺桁行5間半・桁行8間 萱葺
一 本堂 本尊不動明王 木仏 御長3尺立像 右光ノ滝出現之尊像
弘法大師御像
一 脇立 金迦羅・青多加二童子 御長1尺2寸立像 右堂梁行3間・桁行4間半、3方に間半之縁有之、コケラ葺也
一 二重塔 多宝 本尊大日 御長9寸5分 坐像 脇士 阿弥陀・釈迦・宝生・阿闍 御長各8寸5分 坐像 伝教大師御作也
右壱間半四面 外間半之縁、四方コケラ葺也
一 鐘楼堂 高サ2間・横4尺四方・瓦葺
一 鎮守弁財天 4尺四方板葺
一 金剛童子 2尺四方板葺
一 茶(芝)灯護摩壇 長2間・横1間半
一 役ノ行者一字一石法華塔 高2尺5寸 右惣屋13間ニ11間
同寺家
一 西之坊 住寺教栄 寺ノ本尊 不動明王 御長2尺 慈覚大師御作立像 梁行3間・桁行6間萱 右屋敷4間半ニ10間
往古より有之
一 中之坊 無住 梁行3間・桁行5間 萱葺 屋敷4間ニ10間 往古より有之
一 堂所寺 無住 本尊不動明王 弘法大師一刀三礼御作也、梁行3間桁行3間萱ふき 右屋敷5間ニ7間
一 求聞持堂 一宇 3間四面瓦葺之由 往古より申伝只今無之
右ニヶ寺、延暦年中弘法大師御建立也
末寺
一 栢之坊 滝畑村之内東之村ニ有 住持教山 右本尊ハ御長1尺8寸之立像
寺梁行3間・桁行5間 萱ふき 右屋敷6間ニ9間半
一 多聞坊 滝畑村之内西之村ニ有 住持教円 右本尊毘沙門天王、御長4尺之立像 弘法大師御作也、
寺梁行3間・桁行5間 萱ふき 右屋敷6間ニ9間半萱葺也、右屋敷6間ニ7間
右ニヶ寺共、屋敷御赦免地なり。
元禄5年6月ニ差上候扣 不動院住持亮玄 印
※以上の記録によると、多宝塔一辺は1間半(2.73m:9尺)で、四方には半間の縁を巡らせ、屋根杮葺であったと推定される。
但し、元禄5年「堂社改帳写」では一辺7尺(2.12m)とし、法量には少々相違がある。
しかし、どちらの一辺にせよ、超小型塔(現存では淡路蓮華寺塔など)であったことは間違いないと思われる。 ■嘉永3年(1850)「葛嶺雑記」:
葛嶺行場は28品があり、光瀧寺は第14品の行場とされる。
「福玉山光滝寺 河州錦部郡滝之畑 領主狭山候 若王寺末天台
本堂不動明王 神変大士 多宝塔に五智如来
弁才天社 金剛童子 4丁おくに滝 扇山弁才天今に才神山といふ
此岡の小松が宅の辺に熊野権現 また仏徳多輪の経塚あり
妙 安楽行品 第14之地・・・」
※京都若王寺は京都聖護院末。
光滝寺は葛城山修験の霊地で、法華経28品の経塚(葛城二十八宿)の14品安楽品経塚は光滝寺杉本下の自然石(善女竜王・不動明王)とされる。
※葛城二十八宿とは役行者(小角)が法華経八巻二十八品を埋納した経塚を云う。
著名なところでは、2品譬喩品/紀伊本恵寺<紀伊の日蓮宗寺院中)の前身であるという大福山辨天、
10品法師品/牛滝山大威徳寺、15品従地湧出品/天台若王寺末岩湧寺などがある。 ★河内光瀧寺多宝塔遺物 寺伝では
「役行者が葛城山修行の日、此に遊化して48の瀧及び48の岩窟を開眼し、かつ法華安楽行品の一品を庭に納めて塚を造り、上に多宝塔を建て、傍らに其の所持せし錫杖を植え、・・・・・・・
降って、豊臣秀吉も征韓の必勝を祈り、凱旋後多宝塔を再営せりといふ」
以上の真偽は確認史料が現在では発見されていないため、不明とするしかないが、
寺伝に従えば、桃山期以前に多宝塔は建立されていて、何かの事情で退転し、豊臣氏によって再営されたと思われる。
そして その再営塔は幕末頃には、ほぼ全壊状態になっていたものと推測される。
「河内滝畑の美術工芸」より転載:
多宝塔安置と伝来される2体が現存する。
木造如来形坐像1:
木造如来形坐像2:宝生如来と推定されるも、像底には「阿弥陀」の墨書銘があるという。現在は「滝畑民俗資料館」保管。
座高31.7cm。
※天保14年(1843)「光滝寺覚書」の多宝塔「脇士 阿弥陀・釈迦・宝生・阿闍 御長各8寸5分 坐像」とあり、8寸5分とは26cm弱であり若干
法量には相違がある。しかし多宝塔安置の脇士のいずれかの尊像であることは間違いないものと思われる。
室町末期から江戸初頭の作風とされる。
木造如来形坐像3:昭和44年の調査では存在したが、その後おそらく盗難にあい、現在は所在不明の5体中の1体と
云う。
座高約31cm、室町末期から江戸初頭の作風とされる。現存する上記2体と一具のものと考えられる。
2012/12/23撮影:
光滝寺伝来像。室町後期〜江戸初期のものと推定される。像高58.2cm。
木造毘沙門天立像1 木造毘沙門天立像2 木造毘沙門天立像3
●光瀧寺多宝塔扉及び扉絵
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○多宝塔扉・毘沙門天立像絵:
室町初頭のものと推定される。寸法92.07×55.3cm。
後で述べる2枚とは大きさ、製作時期・技法も異なる。
推定製作時期より、豊臣氏再興多宝塔以前の多宝塔のものと思われる。○多宝塔扉・天部形立像A1
多宝塔扉・天部形立像A2:左図拡大図
寸法:81.7×37.1cm、製作時期は様式から桃山期とされる。
多宝塔扉・天部形立像B1
多宝塔扉・天部形立像B2
寸法:81.7×40.2cm、上記Aと同一作者で、桃山期の作と推定される。
このAB2枚の扉絵は、豊臣氏再興の多宝塔を飾っていたものと推定される。
この扉は通常の堂宇の扉としては小さすぎると思われるが、前出の資料のように、
この多宝塔の一辺は1間半(2.27m:9尺)もしくは7尺(2.12m)とされる規模であった。
いずれにしろ屈指の小型塔であったようで、大きい扉で間口約55cm×2=110cm、小さい扉で間口約37cm×2=74cmとなり、中央間の寸法としては辻褄の合う寸法と思われる。
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★河内光瀧寺現状
◆河内滝畑光滝:2012/12/23撮影
光瀧寺は現在は無住で、寺院は滝畑区で護持している模様である。
2006/05/06現地訪問:
現在、本堂は地区の管理の下で、建替中であり、そのため、本堂附近には厳重に工事用の柵・塀が施され、表からも裏からも通常では立入ることができない。
従って、本堂脇にあったと思われる「多宝塔跡」の現状については、確認ができない。
「多宝塔跡」については、世間一般では全くの無関心で、聞き取りでも、「塔跡」の存在ははっきりしない。
「滝畑民俗資料館」の展示説明文では「江戸時代から明治時代にかけて多宝塔は存在した」が失われて「現在では塔跡のみが存在する。」との説明がある。
この文面では何らかの痕跡があるとも思われるが、不明。
なお、本堂建替工事の進捗ははかばかしくないようで、(地区の区長の交替などもあり)まだ相当時間がかかると思われる。
また、現場の様子から、現在、どうも工事は中断されているとも思われる。(推測)
河内光瀧寺本堂:「人々のたくす想い−滝畑の経典ネットワーク−」より転載:この本堂は完全に取り壊されていると思われる。
◆光瀧寺推定多宝塔跡
多宝塔は豊臣秀頼によって造営され、江戸前期には現存したことは諸史料・遺物などで確実であるが、江戸後期上重が失われ、粗末な覆屋で蔽われる状態であったと推測される、そしていつしかこの堂も退転し、人々の記憶から失われたものと思われる。
今、現地を訪れると、現地は「西国三十三所名所圖會」で描く境内図と見事に照合する。
その結果、多宝塔(もしくは多宝塔下重)のあった場所は以下の写真のある場所であることはほぼ疑いないと断言ができる思いである。
本堂左(東)に多宝塔が建っていたと推定される。そしてその跡地は不整形な「島」として残るものと推定される。
現状、この「島」があるスペースは塔が建つには少々狭いと思われる。しかし地形を観察すれば、このスペースの左は高い崖で近代の崖下道路の開削や自然崩落などで、本堂左のスペースは少し狭められたものと思われ、近世にはもう少し広いスペースがあったものと思われる。
以上であるならば、おそらくはこの「島」は多宝塔の跡の一部で、本来はこの島の左(東)を含んで、多宝塔が建っていたものと推定される。
加えて、この多宝塔は初重一辺が9尺(2.73m)もしくは7尺(2.12m)で、四方には半間の縁を巡らせた極めて小型の塔と記録されるので、この平面の塔であれば
、この狭いスペースであっても、建立が可能であったものと思われる。
不整形な「島」には自然石(川原石)と思われる石で囲まれるが、その内の比較的大きな石は塔礎石あるいは束石とも推定されるが、はっきりとは
分からない。
◆光滝寺現況:◇印は2006/05/06撮影、無印は2012/12/23撮影
光滝寺は「西国三十三所名所圖會」に描かれる絵図の通りの景観を、今も良く残す。
渓谷から山門に至る2度折れする参道、山門(近年に大修理か)や炭焼不動堂の位置、庫裏及び庫裏前の広場、そこから本堂へは下りの石階があり、その右手には庫裏石垣が聳え、本堂は一段下の見下ろされる位置に建つ。そしてその本堂左手には多宝塔が建っていたと思われる「島」を残す・・・・。
◇福玉山光瀧寺石標:古いものではなくて、明治中期のものである。
光滝寺山門 光滝寺炭焼不動堂2 庫裏・庫裏前広場 本堂前・庫裏石垣
光滝寺本堂1 光滝寺本堂2 光滝寺本堂3 光滝寺本堂4
◇光瀧寺炭焼不動堂:元背後の山中の鎮守屋敷から明治初頭に移設されたという。本尊は8尺余の不動明王立像と云う。
山門手前に歴代の墓石がある。
新しい墓碑の年紀は以下のとおり。
文政12年((1829)、明治37年、昭和42年11月(福蔵院沖譲上人)などとある。
昭和42年は最後の年紀であり、昭和42年11月最後の住職が遷化し、無住となったものと推定される。
●参考:滝畑大梵天社
特に、光滝寺とは関係はないが、同じ滝畑にあるので収録する。
滝畑西の村に入る付近の丘上にあり、かなり長い急な石階の参道を登る。
江戸初期に建立されたと考えられる三間社流造の社殿が遺存し、社殿の前には築垣がある。
この前面築垣にある蟇股は南北朝期の特色を残すと云うので、古い社殿の遺材であろう。
創建は不明であるが、興国6年(1345)の棟札が残り、それ以前の創建と推測される。
また、長禄4年(1460)製作の鉄製湯釜も残る。その他永正年中(1504-)、天文年中(1532-)、江戸初期の棟札も多く残る。
滝畑大梵天社社殿 滝畑大梵天社築垣 築垣蟇股1 築垣蟇股2
滝畑大梵天社本殿1 滝畑大梵天社本殿2 滝畑大梵天社本殿3 滝畑大梵天社本殿4
2006年以前作成:2020/06/30更新:ホームページ、日本の塔婆
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