2012/09/29撮影
★出雲千手院多宝塔跡
出雲千手院未完多宝塔は、予定の通り2006年取壊し、一部の残材(組物)が美作玉泉寺本堂に転用されたものと思われる。
千手院多宝塔跡
|
千手院多宝塔跡:左図拡大図
多宝塔跡は更地となり、全く塔の痕跡(礎石など)を残さない。
千手院多宝塔跡見上:
中央石階の上には未完の多宝塔を垣間見ることができたが、今はそれを望むべくもない状態となる。
|
美作玉泉寺本堂は2008年に竣工と思われる。竣工した本堂は未見であり、寺院に問合せをするも、明確な返答はなく、どのように千手院多宝塔の残在が転用されたのかは不詳である。
しかしながら、美作玉泉寺のサイトには、少々不明瞭ながら、若干の本堂写真の掲載がある。
当サイトからの転用新本堂写真は次のようである。
美作玉泉寺本堂1 美作玉泉寺本堂2
この写真で判断する限り、正面は3間、側面は4間(柱間は3間か)のやや変則と思われる建築であるが、通常の本瓦葺入母屋造の普通規模の堂である。組物を除く軸部及び軒下は和様を用い、組物は通常では和様の大斗肘木か平三斗か出組などを用いると想定されるのであるが、唐様の三手先の組物を用いる意表を衝いた建築である。
この唐様の三手先の組物は今は無き千手院多宝塔の組物に酷似している。特に三手先であること、特徴ある唐様の鎬をきかせた尾垂木や木鼻などは瓜二つである。
従って、推測するに、千手院多宝塔の組物は、この新本堂の組物に転用され、生かされたものであろう。
2005/09/25撮影:
★出雲千手院多宝塔
★2005/05/02撮影:
1.千手院多宝塔外観
|
出雲千手院多宝塔1:境内裏の一段高い岡上に多宝塔はある。
:左図拡大図
同 2:トタン葺きの粗末な覆屋で、
周りも粗末な板で囲われた状態である。
同 3:一応心柱が現存し、相輪は欠くが、
粗末な露盤を設け、長く心柱を残す。
同 4:現状は屋根も腐朽し、覆板も剥れ、
多宝塔本体の腐朽が心配な状態である。
同 5:初重組物はまだしっかりと残存する。
同 6:横の藪から、竹が覆屋の中に進入してくるような
状態であり、竹は組物まで達する。
現在、覆屋の屋根の腐朽が進行し、また覆板も剥れつつあり、このまま放置すれば、多宝塔残欠自体が腐朽・倒壊、もしくは取壊しということになるであろうと思われる危機的状況である。 |
2.千手院多宝塔内部
|
出雲千手院多宝塔7:心柱及び四天柱(欅材)はしっかりと
残る。
同 8:多宝塔としては珍しく、心柱は初重下
床下礎石から建つ。
同 9:心柱及び四天柱。:右図拡大図
同 10:構造材だけの状態である。
同 11:同上初重床下には、おそらく多宝塔のものと思われる部材が積まれる。
(※構造材を組上した段階で工事中断の様が見て取れる。) |
多宝塔で心柱が床下から立ち上がる例は極めて珍しいが、江戸期の多宝塔で、心柱が床下から立ち上がり相輪に達する例としては、
備前弘法寺多宝塔(昭和48年焼失)がある(あった)。
3.多宝塔残欠の組物
|
出雲千手院多宝塔12:南西組物:左図拡大図
同 13:南東組物
同 14:東面組物
同 15:南面西組物
同 16:西面組物(内部)
同 17:南東隅側柱礎石
同 18:落下した木鼻(南東隅)
組物自体はしっかりと残る。
多宝塔初重には珍しく、層塔風の3手先を用い、尾垂木を組み込む。また意匠は唐様を混ぜる。
礎石は若干加工した礎石を用いる。
写真18(落下木鼻)は写真17礎石傍に腐朽し落下した木鼻。写真13(南東組物)の下で、丁度覆屋屋根が腐朽し、雨に曝され、木鼻が腐朽し落下したのであろう。 |
4.その他
出雲千手院多宝塔心柱:千手院下の石橋町から撮影した心柱。
千手院及び多宝塔は市街地の低い岡上にある。
出雲千手院境内図:
多宝塔は千手院境内のさらに1段高い岡上にある。
出 雲 松 江 城:千手院境内から松江城を撮影。
つまり逆に松江城から注意してみれば、多宝塔が見えるものと思われる。
★2005/06/11追加:千手院ご住職談
千手院多宝塔取壊情報
多宝塔建立は松江市の事業であり、寺院は土地を提供するという関係であった。(しかし塔建立は未完に終る。)
昭和27年松江市より千手院に多宝塔(未完)が譲渡される。
図面及び写真などは千手院・松江市双方とも所蔵せず。(松江市も記録は不明の由)
塔建立中断のため仮屋を設け、その後4度ほど仮屋の補修(その内の一度は屋根葺替)を実施する。
近年再び仮屋も傷み、年々材木が腐朽するのを見るのは心痛むことであり、補修の必要を痛感するが、未だ実施には至らず。
(心柱は既にシロアリに食い荒らされる。)
しかし
一方では、塔完成の見込みは殆ど立たないのも事実である。
近年建築以外への転用(家具など)の話しもあったが、それは本来の趣旨では無いのでお断りをする。
以上のような状況から、
近年同じ高野山真言宗である美作玉泉寺に無償譲渡することになった。
解体移転の時期は2006年春を予定。
玉泉寺では塔建築としては引継ぐあるいは完成させるには難しいが、塔建築の特徴を生かした本堂として転用する計画という。
2012/10/06追加:
玉泉寺新本堂は2008年春竣工と思われる。
※金龍山玉泉寺:美作真庭郡美甘村鉄山857(現真庭市)
寺伝では以下のように云う。
寿永三年(1184)宗祖第十八世の法孫宥沢大和尚、久米郡久米寺より来たり、
其の時の領主三浦美濃守の命によりて僧坊一宇、並びに当村産神の社を建立す。
乃ち別当職を兼ね勤す。其の後、天和二年(1682)大覚寺末に加えらる。
現在は高野山真言宗。本尊大日如来、病気(癌病)平癒、厄除け祈願で信仰を集める。 ★2005/05/31追加:
出雲千手院多宝塔は未完の塔であった。
※この未完である情報は、「X]氏からもたらされた情報である。
現在の塔の姿は未完のまま放置された塔ということを良く示す。
塔の現状で判断すれば、まず心柱を建て、その後、初重の四天柱、脇柱、梁(柱盤)、頭貫、隅木、肘木、野垂木、桔木?などを組立、丸桁を載せ
た段階で(化粧垂木などの工事の前に)工事が中断したように思われる。(工事中断の事情は不明)
つまり塔の現状は、暴風雨あるいは雪害で上重が倒壊したとは思われないこと、ましてや火災で上重が焼失した痕跡
などは全く無いこと、須弥檀・天井・床などの内装、柱間装置などの痕跡も全く無いこと、腐朽だとすると、
初重の構造材はまだ新品同様であることなどを示し、この塔が工事が中断のままで放置されたことを良く示す。
初重構造材組上の段階で、工事が中断し、腐朽防止のため、心柱に覆いを施し、露盤を置き、仮屋根を架け、周囲を板で囲ったとものと思われる。
その後も工事再開できず、仮屋根の腐朽に至ったものと推測される。
なお、おそらく腐朽を恐れてのことと思われるが、この未完の塔の材木は他の寺院に譲られ
再利用されることが決まっているとのことである。
以上が事実であるならば、
残念ながら、しばらく後には千手院から姿を消すこととなる。
★出雲千手院多宝塔
(未完)
出雲千手院多宝塔は工事が中断され、その結果覆屋で覆われた状態である。
心柱は最初に建てられたものであり、現在も中空に高く刺さるように残存する。
初重の構造材および組物は組上げ済みであるが、上重の構造材及び初重の窓(壁)、扉、柱間装置、天井や床材等はまだ未完の状態である。
この
構造は心柱が初重から建つ珍しい構造で、初重組物は尾垂木を組入れた三手先を用いるなど、層塔の手法を用いる。
いずれにしろ、若干唐様の意匠を混ぜた、本格木造建築として造作されつつあったことは確かと思われる。
法量は採寸せずと謂えども、大型塔に属するものは間違いないであろう。
千手院は松江城下にあり、城下では由緒ある著名寺院と思われるも、この未完の多宝塔は一般からは全く顧みられることはない忘れられた存在
のようである。その証拠としては、この多宝塔に関するWeb情報は皆無である。
2005/04/09追加:
○「日本社寺大観/寺院篇」京都日出新聞社編、昭和8年(1933) より
記事:「真言宗大覚寺末、尊照山金胎寺と号する。堀尾吉晴の松江築城により、富田郷より慶長13年松江城下へ移転する。
境内に明治27・28年戦役記念に建立せし多宝塔あり。」
○「日本に於ける塔の層数と教義との関係」石田茂作、昭和11年 より
記事:「千手院多宝塔、島根松江市奥谷町、真言大、明治、現存」
注)現在は大覚寺派ではなく、高野山真言宗。
上記のように、明治年中、多宝塔工事が着工され、未完のまま現存する。
2006年以前作成:2012/10/13更新:ホームページ、日本の塔婆
|