★近江新善光寺
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写真は2000/11/04撮影:
新善光寺は文久3年(1863)年創建の新しい寺院であり、
内田善右衛門(伊勢の人という)の善光寺信仰により開山されたと伝えられる。
三重塔は明治30年頃の建立。
20数年前までは、著しく破損はしていたが、三重塔は存在する。
2000/11/04:現地を訪問。
新善光寺は廃絶し、現在、寺跡は保育所となる。
※地区民の談:無住になり、跡継ぎも無く、今から20年位前に本堂・三重塔など全て取り壊す。
塔婆については、どこかに解体・移転したということは無い。
※三重塔は下に述べるように「昭和58年破毀」という。
現在現地には、寺跡に立てられた保育園入り口の道路脇に石碑2基と数体の石仏・五輪塔の残欠とその背後に開山碑が辛うじて残
り、新善光寺があったことを示す。
新善光寺跡1:左図拡大図
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新善光寺跡2:下図拡大図
保育所前の僅かな新善光寺(廃寺)の遺物
中央の保育所建物あたりに塔婆はあったと云う。
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新善光寺跡3:下図拡大図
保育所写真;向かって左建物あたりに塔、
右端建物位置に本堂があった(保育所の談)。
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★近江新善光寺三重塔絵図
2001/12/09:宮大工・高木敏雄師宅を訪問。
当寺三重塔造作の棟梁は宮大工・高木敏雄師の曽祖父光義師であることが判明する。
新善光寺三重塔絵図面は高木敏雄師が所蔵する。
本塔婆は高木敏雄師の曽祖父光義師が明治26年(1893)に手がけた塔婆と云う。
高木邸保存絵図:下図拡大図
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高木邸保存絵図(写真合成)
:下図拡大図
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すぐ左の画像は下に掲載している全体図・全体図1〜4で合成する。 (高精細で撮影した画像が無いので、あえて合成をする。)
但し大変稚拙な合成ではある。
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→参考:「宮大工・棟梁高木敏雄師」
★新善光寺塔古写真
2016/07/12追加:
●「Y」氏ご提供画像:古絵葉書2枚
◇日野新善光寺全容
日野新善光寺を南から撮影。今まで明らかでなかった日野新善光寺堂塔の概要を知ることができる貴重な写真である。
※「Y」氏の見解ではこの絵葉書は昭和30年前後のものという。
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日野新善光寺全容:左図拡大図
伽藍は南面し、伽藍南は田圃である。田圃の中を山門に至る一条の参道が設けられているように見える。
山門:おそらく四脚門であろう。屋根は瓦葺き。そして、山門に向かって右奥には楠と思われる大木が、左手前には針葉樹の大木が聳える。
さらに、山門に向かって右に石碑が2基見えるが、寺号碑であろう。上に掲載の「新善光寺跡2」で見られる石碑とは多少違うもののように見えるが、如何であろうか。
本堂:山門を入れば、正面に本堂があり、正面5間程度の規模の重層の建築である。入母屋造、本瓦葺き。下層はおそらく3間程度の向拝を付設する。
鐘楼:境内南西・山門の左手やや離れて、鐘楼がある。鐘楼は石積基壇に建ち、切妻造、瓦葺き。梵鐘が吊られていないのは、この写真が「Y」氏推察のように昭和30年前後の撮影のものならば、大日本帝国の今次の侵略戦争に供出され、梵鐘は未だ再鋳されていないのであろう。(但し、その後再鋳されたかどうかは不明) |
客殿など:本堂左にあるのは客殿(あるいは書院・庫裡)の類の建物であろう。この建物は玄関を付設する。そしてこの客殿の奥にはさらに一棟の庫裡・書院の類の建物があるように見えるが、はっきりとはしない。
三重塔:三重塔は境内西端(客殿などの背後)に建つ。
2016/07/13追加:上記の日野善光寺全容の「見解」は次々項の「見解の訂正」の項で一部訂正をする。
◇日野新善光寺三重塔
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日野新善光寺三重塔0:左図拡大図 三重目:屋根・軒下・柱間は腐朽し、崩れ落ちたのであろうか。新たに壁囲いと屋根を新造したものと思われる。
二重目:屋根は本来瓦葺きであったと思われるも、瓦は傷み、トタン葺きもしくは銅板葺きに変更されたものと思われる。軒下組物・軸部などはまだ残存するも、柱間は板囲いで補修されているものと思われる。
一重目:屋根のみトタン葺きなどに変更されるも、垂木・軒下・軸部・柱間などは当初のまま残存するものと思われる。
相輪:心柱は健在と思われ、一応は完備するも、水煙はほぼ欠落、請花は欠けた状態である。
以上の状況から、おそらく三重目の屋根の瓦が傷み、雨漏りが生じて、徐々に塔は腐朽していったものと推測される。 |
2016/07/13追加:
○日野善光寺全容の「見解の訂正」
昭和57年日野新善光寺附近航空写真を入手。
昭和57年日野新善光寺附近航空写真:少々解像度が低く、画像は小さい。
「伽藍は南面し、伽藍南は田圃である。田圃の中を山門に至る一条の参道が設けられているように見える。
」という見解は、誤りである。田圃の中を山門に至る一条の参道があるように見えるというのは、実際は航空写真のように田圃の中の畦道で、山門前にはほぼ東西に道路が通り、この道路が寺院に至る道である。
本堂の左にあるのは庫裡であろう。この庫裡(客殿)の奥にはさらに一棟の建物があるように見えるとの見解は、航空写真では、一棟以上の建物は写っていなく、これも誤りである。本堂左には一棟の庫裡(客殿)があるのみである。
そして、その背後に三重塔が建つ。
なお、本堂、鐘楼の識別も航空写真で可能である。
○「日本塔総観 近畿地方編/増補改訂版」中西亨、昭和48年 より転載
新善光寺三重塔1(昭和41年
4月17日写) 新善光寺三重塔2(
昭和41年4月17日写)
一辺は3.35m。
椽は四面とも現在は失う。軸部は赤塗、中央間は格子引戸、脇間連子窓、斗栱は三手先であるが尾垂木はなく、中備えは三間とも間斗束を置く。垂木も一重のみ残す。
内部は四天柱あり、厨子入り阿弥陀如来と他に古佛数体を安置する。
二層目は上半部は美しく整備され尾垂木なしの三手先と二重繁垂木を完備するも、下半部は覆がつけられ勾欄も見えない。
三層目は全て覆の中で分からない。
屋根は現在トタン張であるが、二層目だけは美しい。昭和29年に修理するというが、二層目が当時の改修だろうか。
2003/8/30追加:
○「塔吉郎の写真帳より」佐橋清宏(史迹と美術、72(5)、2002.6 所収) より転載
新善光寺三重塔3
著者は尾垂木が出ていないと指摘する。設計図あるいは完成図では尾垂木は出ているにも関わらず、出ていない理由は不明。
但し軒は桔木で支えたと推定され、強度には問題は無かったと思われる。
○「日本塔総鑑」中西亨、昭和53年(1978) より転載
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一辺3.35m。 新善光寺三重塔4:左図拡大図
(昭和52年12月18写)
新善光寺三重塔心柱(昭和52年12月18写)
内部は四天柱あり、その間の須弥壇に阿弥陀立像と大日・薬師・弥陀三仏坐像を安置。
二・三重に上がってみると、二層はやや整っていて多聞天安置、三層は未完成といった感じである。
修理は昭和35年(前著では29年)といい、今美しい二層目が当時の改修だろうか。 |
2003/8/30追加
○「近江日野新善光寺三重塔の発見古図と塔址について」中西亨(史迹と美術、59(10)、1999.12 所収) より
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三重塔は昭和58年破毀。仏像は本寺(摂取院か)に移したとのこと。
毀却直前の塔婆写真は保育園にあると云う。但し1枚のみという。
現保育園の土地は日野内池摂取院の境外寺地になっていて、保育園経営も摂取院である。
「発見古図」(1/70)から総高は16.6m、一辺3.36mと推定。2007/02/17追加:
「法塔七十分之図」明治26年、近江国蒲生郡日野町字上野田 新善光寺
※この絵図は高木師邸にある勧進に使った完成図(上掲載)と同一のものと思われる。 |
2006年以前作成:2016/07/13更新:ホームページ、日本の塔婆
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