★大瀧山三重塔
塔は嘉吉元年(1441)足利義教の再興。一辺 3.8m、総高19.72m。昭和27年解体修理。
2012/12/31追加:
●「和気郡史 通史編 中巻2」和気郡史編纂委員会/編纂、2002 より
元禄14年(1701)の「備前州和気郡大滝山福生寺記」では足利義教の寄進によって嘉吉元年(1441)に落成し、瓦には嘉吉元年と刻まれると記す。しかし現存する瓦は全て「天明10年(1478)」と刻まれた瓦だけであると云う。おそらくは三重塔の落慶は天明10年頃のことと推定される。
当時の備前守護は赤松正則であり、美作・播磨を奪回したころである。
ところで嘉吉元年は赤松満祐・教康父子に将軍義教が弑された年でもある。三重塔には足利義教(普広院)の位牌が安置され、毎年普広院命日には読経が行われたと云う。以上から考えると、赤松政則は足利氏に縁の多い大滝山に義教の菩提を弔うために三重塔を建立し、毎年追善供養を命じたものとも考えられる。
大滝山三重塔:口絵写真を転載
○大瀧山三重塔;2013/04/21撮影
2002/06/16撮影:
福生寺三重塔01 福生寺三重塔02 福生寺三重塔03 福生寺三重塔04 福生寺三重塔05
福生寺三重塔06 福生寺三重塔07 福生寺三重塔08 福生寺三重塔09 福生寺三重塔10
福生寺三重塔11 福生寺三重塔12
◇参考:蓮昌寺三重塔想定復元立面図:
蓮昌寺三重塔基壇にほぼ同時期同規模の現存備前福生寺(大滝山)三重塔を載せた図
※この図は蓮昌寺基壇上に、ほぼ同時代・同規模の備前大滝山三重塔の解体修理報告書の図面を載せたもので、塔建築自体の細かい差異はあるにせよ、
蓮昌寺三重塔は概ね雰囲気としてはこの図のようなものであったであろうと云う。
★大瀧山福生寺概要
報恩大師の開基と伝え、「備前48寺」の一つに数えられる。(
しかし、寺伝では鑑真の開基とも云う)。
観応年中(1350-)足利尊氏が再興。応永年中(1394-)足利義満が本堂を再興、33坊を数える。
康正年中(1455-)の戦乱で塔婆・仁王門を除き焼失。
文化年中(1804-)には本坊西明院、円蔵院、本命院、大聖院、西法院、円光院、吉祥院、宝光院、宝生院、中道院、実相院、福寿院、宝寿院の13坊があった。現在も多くの坊跡を見ることが出来る、現在は福寿院、西法院、実相院の3坊のみとなる。
元は天台宗であったが、早い時期に真言宗に転宗。高野山真言宗。50石。
2012/12/31追加:
●「和気郡史 通史編 中巻2」和気郡史編纂委員会/編纂、2002 より
正平5年(1350)足利尊氏西下し、備前福岡に滞在し、大滝山ほかに戦勝祈願をなす。応永年中(1394-)足利義満、本堂・仁王堂を再建する。嘉吉元年(1441)には三重塔が建立される。この当時は33坊を数えると云う。
丸尾弘然「大滝山物語」には中世(→は近世・江戸期)以下の院坊があると云う。
多門坊(→廃)、円珠坊(→廃)、福寿坊(→福寿院)、西明坊(→西明院)、本坊(→本命院)、宝寿坊(→宝寿院)、円蔵坊(→円蔵院)、大門坊(→大聖院)、窪之坊(→廃)、持宝坊(→廃)、惣持坊(→廃)、善慶坊(→廃)、万蔵坊(→廃)、谷之坊(→廃)、東泉坊(→廃)、順慶坊(→廃)、西光坊(→西方院)、吉祥坊(→吉祥院)、中道坊(→中道院)、円光坊(→円光院)、宝池坊(→宝池院)、実相坊(→実相院)、宝光坊(→宝光院)、宝生坊(→宝生院)
康正元年(1455)赤松・山名氏の争いで三重塔・仁王門を残し一山焼亡する。
文明10年(1478)頃には再興を果たす。
寛文5年(1665)「大滝山寺中並びに石高」では本尊(4石9斗余)、本坊西明院(4石6斗余)、中道院(2石7斗)、福寿院(同左)、宝生院(同左)、宝光院(同左)、吉祥院(同左)、実相院(同左)、宝寿院(同左)、円光院(同左)、本命院(同左)、窪之坊(同左)、西法院(同左)、円蔵院(同左)、太門坊(同左) とある。
寛文6年池田光政の廃仏で宝寿院が廃寺。住職は還俗、立退き、寺屋敷明き地となる。
安永2年(1773)一山の経営をめぐって内紛が勃発し、安永4年には本命院、円光院、宝生院、実相院、宝寿院隠居が山を退去する。
安永4年(1775)には上掲載の文化年中と同じ13坊であるが、吉祥・宝寿・西法・円蔵・太聖の6院は無住と云う。 2018/11/05追加:
○「備前における寛文6年の廃寺一覧(撮要録二十九、廢寺社之部抄録)」(「岡山県通史 下巻」所収)では 和気郡 大内村 大瀧山福生寺
寶壽院 真言 住職立退 とある。
大滝山全景 大滝山概念図
★大瀧山福生寺現況
大瀧山概要図:上に掲載の大滝山概念図及び現地観察より作成
無印は2013/04/21撮影、△印は2002/06/16撮影:
大瀧山仁王門1 大瀧山仁王門2 大瀧山仁王門3 大瀧山仁王門4 大瀧山仁王門5
△福生寺仁王門
仁王門仁王像1 仁王門仁王像2
仁王門:応永4年(1397)建立、足は腐朽のため、修理の折、切り詰めると云う。
大瀧山地蔵堂:仁王門に至る参道
途中にあり、これを過ぎれば、仁王門はもうすぐである。
△福生寺坊舎跡 △釈迦堂跡木標 △本命院跡木標 △本命院跡か1 △本命院跡か2
△宝寿院跡木標 △円光院跡木標
釈迦堂・本命院・宝寿院跡の木標は2013年には既になく、円光院木標は朽ちて顚倒している。
なお、上記以外の木標については、現在(2013年)中道院・円蔵院の木標が朽ちて顚倒して有る。
大瀧山古持宝坊跡
大滝山大聖院跡:古大門坊
大瀧山福壽院1 大瀧山福壽院2 大瀧山福壽院3:福壽院の母屋(本堂か庫裏か客殿か)は解体
修理中。
大瀧山福壽院4:福壽院石垣
現福壽院:明治維新で、寳壽院・本命院・西明院と合併し、当時本坊であった西明院を福壽院として残し、現在に至る。
大瀧山福生寺伽藍:
大瀧山伽藍1:左より大師堂、経蔵、本堂、三重塔が写る。
大瀧山伽藍2:手前より大師堂、本堂、経蔵があり、奥に西方院が写る。
大瀧山伽藍3
大瀧山本堂1 大瀧山本堂2 大瀧山本堂3 大瀧山本堂4 大瀧山本堂5
△福生寺本堂
本堂:天和2年(1682)池田綱政による再興。
大瀧山鐘楼
大瀧山大師堂1 大瀧山大師堂2
大師堂:天和2年(1682)建立。
大瀧山経蔵1 大瀧山経蔵2
経蔵:延享3年(1746)建立。一切経蔵、輪転式経蔵。
大瀧山圓蔵院跡1 大瀧山圓蔵院跡2
大瀧山西方院1:古西光坊
大瀧山西方院2 大瀧山西方院3:右手奥が聖天堂(円光院)
大瀧山西方院4:
西方院ではなくあるいは圓光院護摩堂か。
大瀧山西方院5 大瀧山西方院6:一番奥の寄棟造の堂宇が(圓光院)護摩堂である。
大瀧山聖天堂:大瀧山圓光院の扁額を掲げる。圓光院の寺籍をここに遷したのであろうか。
大瀧山十王堂跡:大正初年退転か。現在は駐車場となり、堂宇に見誤る建物
があるが、これはトイレである。
大瀧山釈迦堂跡:大正初年退転か。古窪之坊。
大瀧山本命院跡1:石垣が残り、跡地は更地となる。
大瀧山本命院跡2 大瀧山本命院跡3
大滝山圓光院跡1 大滝山圓光院跡2:石垣と土塀の一部が残る。
大滝山圓光院跡3
圓光寺下坊舎跡:圓光院北には坊舎跡と推定される平坦地がある。
圓光院付近には古東泉坊・古谷之坊があったと云うので、どちらかの坊舎跡
なのであろうか。
大瀧山寳壽院跡1:奥に写るのは実相院。。
大瀧山寳壽院跡2
寳壽院跡:明治初年から明治38年まで福壽院がここにあった。
大瀧山実相院1 大瀧山実相院2 大瀧山実相院3 大瀧山実相院4 大瀧山実相院5
大瀧山実相院6 大瀧山実相院7
大瀧山中道院跡1 大瀧山中道院跡2
大瀧山中道院跡3:石垣と土塀の一部が僅かに残るも、跡地は実相院の分譲墓地に整地される。
吉祥院・寳光院付近には高い石垣や石垣などで区画された幾つかの坊舎跡が残存するも、吉祥院・寳光院・福壽院などの坊舎跡を確実に確定させることができない。
大瀧山吉祥院跡1:この石垣下の手前平坦地が吉祥院跡である可能性はある。この写真には写らないが写真手前に車道が走る。
大瀧山吉祥院跡1-1:石垣左手の中ほどに入口が写る。
大瀧山吉祥院跡2:入口石階が残存する。
大瀧山吉祥院跡3:同じ
大瀧山吉祥院跡4
吉祥院跡:上に掲載する吉祥院跡1〜4の写真は吉祥院跡と推定するも、寳光院古屋敷が明確に残存せず、
この写真は寳光院古屋敷である可能性がある。この場合、この跡地の石垣下の平坦地が吉祥院跡となる。
「大瀧山概要図」(上に掲載・以下「概要図」)ではA・B地点で示す。
しかしこの場合は逆に吉祥院跡が明確では無くなるが、車道の開設などで、吉祥院跡はほぼ破壊されたのかも知れない。
なお、寳光院古屋敷は文政2年(1819)焼失と云う。
大瀧山寳光院跡1 大瀧山寳光院跡2 大瀧山寳光院跡3 大瀧山寳光院跡4
寳光院跡:上に掲載する寳光院跡1〜4の写真は寳光院跡と推定するも、寳生院跡、福壽院跡が明確ではなく、
あるいはこの地は寳生院跡の可能性がある。上に掲載の「大瀧山吉祥院跡4」の右端に写る平坦地が寳光院跡の可能性はある。
「概要図」ではC地点で示す。
大瀧山寳生院跡:この付近が寳生院跡と思われるが、確証はない。
「概要図」C地点1:左には車道が通る。
「概要図」C地点2:C地点は寳光院跡の可能性あり。
「概要図」A地点1 「概要図」A地点2:A地点及びB地点は吉祥院跡の可能性あり。
大瀧山福壽院跡か:「概要図」の「福壽院跡か」と示す付近に見られる石垣である。
★大瀧山大瀧明神残影
2012/12/31追加:
●「和気郡史 通史編 中巻2」和気郡史編纂委員会/編纂、2002 より
大滝山には鎮守の大滝明神(天神社)がある。寛文以前は社殿は福生寺北の明神山にあり、拝殿と随身門は福生寺経蔵の西にあった。
寛文6年の廃仏の後は寺院の専祭ではなく、神職との共祭となる。
享保12年(1727)大滝明神の祭神(神体が仏像に取替えられているとの祠官からの訴え)についての紛争が発生、享保18年藩による裁定が下され、明神山社殿は取壊し、東に仏体(観音)を祀る福生寺鎮守と西に新しく京都吉田家から勧請する大内村氏神(神体は御幣)の2社の大滝明神を造営することに決する。
これ等の社殿は明治維新まで存続するが、明治の神仏分離で次の処置がなされる。
東西社殿は明神山から下ろし、東の明神(観音)は本堂内に納め鎮守とし、西の明神は経蔵西の拝殿・随身門の背後の台地に社殿を新築し、村社大滝神社を捏造する。この際祭神もミズハメ(罔象女神)とされた。
明治39年から政府・県・市町村を挙げて神社統合に邁進する時代に至る。
大正10年、まず福生寺境内の村社大滝神社に大内の村社天神社・村社油瀧神社・同じく比売神社を合祀する。そして一度福生寺境内大滝神社に合祀の後、福生寺境内にある大滝神社本殿を大内の天神社に移す
と云う方策で統合することとなる。
福生寺境内大滝神社本殿は小祠のため、村人が担いで天神社に移動(拝殿・随身門は老朽のため取壊)し、その本殿は現存する。一方棄却予定であった油瀧神社・比売神社社殿は今も現地に残される。要するに、天神社の社殿は規模が大きいため、大滝神社として換骨奪胎する意図であったのであるが、
結局は天神社本殿及び拝殿は現地に残ることとなり、現在も参詣者のいる油瀧神社・比売神社には何の祭神を鎮座しない奇妙な社と云うことになる。
大内天神社社殿域:当図にある大滝神社が明治5年大瀧山福生寺に新築された大滝明神の遺構であろう。
その前の随身門は本殿移動時の建築であろう。
参考:上に掲載大滝山概念図
当図及び以上の「和気郡史」の記述から以下が知れる。
1)享保18年までは大滝明神本殿は明神山にあり、随身門・拝殿は明神山下・経蔵の西隣にあった。
2)享保18年明神山の本殿は東に位置する福生寺鎮守大滝明神と西に位置する大内村氏宮大滝明神に分離され、旧社殿は取壊される。
3)明治5年の神仏分離の処置で、明神山の東西社殿は山から下ろし(おそらくは取壊)、東の明神(仏体)は本堂内に納め、
西の明神は経蔵西の拝殿・随身門の背後の台地に社殿を新築し、村社大滝神社(捏造)とする。
4)大正10年福生寺境内の村社大滝神社に大内の村社天神社・村社油瀧神社・同じく比売神社を合祀、
その上で山麓大内の天神社社殿は取壊しの上、山上の大滝神社本殿を移転の予定であったが、大内の天神社社殿はそのまま残し、
結果的には天神社本殿西に大滝明神本殿が下山し据えられ、大滝明神随身門は新造されたものと思われる。
5)合祀されたと云う油滝神社・比売神社とは不明であるが、
香登本に熊山油滝明神社務所があり、熊山山中に熊山油滝上之宮があると思われ、これに該当するのであろうか。
また比売神社とは、高津山山中に姫大神神社下之宮の存在が知られ、これに該当するのであろうか。
なお、大内の天神社にある小祠油滝・姫神社とは福生寺境内大滝神社に合祀した油滝・姫神社が遷座した形になるのであろうか。
大内天神社参道・神門 大内天神社随身門 大内天神社本殿
大内大滝明神随身門 大内大滝明神1 大内大滝明神2 大内大滝明神3
大内天神社油滝・比売神社
◎参考:備前大内大明神
大内は大瀧山福生寺の山麓にあり、大瀧山表参道の入口に位置する。
この地には大内神社と称する社があり、古代の大内大明神の系譜と推定される。但し、大滝山福生寺とは特に関係は見られない。
本殿は三間社流造屋根檜皮葺、元禄16年(1706)の棟札があり、この頃の建築とされる。
地方の社としては比較的広大な境内地を有し、寺門を思わせる神門、随身門、本社殿、多くの末社などの建物があり、おそらくは明治の1村1社の政策などで整理された跡を歴然と残すものと推測される。
大内明神神門 大内明神境内1 大内明神境内2 大内明神随身門 大内明神本殿1 大内明神本殿2
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