最近訪問した塔婆・ご提供画像(2009/12/24〜2010/07/17)

過去の訪問塔婆履歴

2010/07/17 備後天寧寺 再訪
備後天寧寺三重塔21      同      22      同      23     同      24
  同        25      同      26      同      27
  同    境内俯瞰      同  三重塔俯瞰
  同   三重塔初重     同  三重塔二重     同  三重塔三重    同  三重塔基壇
  同    初重組物1     同   初重組物2     同   初重組物3
  同    初重内部1     同   初重内部2     同   初重内部3
  同   三重塔相輪
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備後浄土寺遠望:平成20年1月より露滴庵・方丈・庫裏及び客殿・宝庫・唐門・山門(全て重文)が5ヵ年計画で大修理に入り、覆屋が写る。本堂(国宝)・阿弥陀堂(重文)の拝観は可能。
2010/07/10 大和龍田本宮 再訪 大和龍田本宮塔・大和吉田寺多宝塔・大和龍田新宮
大和吉田寺
大和龍田新宮
大和長林寺心礎11
  同       12
  同       13
  同       14
  同       15
再訪:
「私註抄」・「松譽抄」では聖徳太子建立46箇寺の一つと云う。但し発掘調査の結果 では、本格的な伽藍が整備されたのは聖徳太子没後の7世紀後半頃との報告がある。また「長倉寺」とヘラ書された瓦が多く出土し、この廃寺は長倉寺と云う名称と推測される。「穴闇」(なぐら)は長倉であろう。
「竜田大名神御事」応永32年では
広瀬大物忌。大明神。長琳寺鎮守也此寺ハ推古天皇ノ御願也 とある。広瀬明神は鎮守と云う。
大和長林寺金堂土壇2     大和長林寺金堂礎石2     大和長林寺講堂跡
大和長林寺想定復元図     大和長林寺現況
大和広瀬明神本殿 「和州広瀬郡広瀬大明神之図」の存在が知られる。
 和州広瀬郡広瀬大明神之図:広瀬明神蔵、「神と仏のいる風景」 より
この絵の掲載が小さく文字が全く読めないが、上記図書及びWeb情報を総合すると、当図は以下の様相を呈する。
中世には広瀬明神を取囲み多くの寺院があり、これ等を総称して河相宮と称する。
「河相宮縁起」大永2年(1522)では宮数21、伽藍7堂、坊数6坊、長明寺・定林寺・安隆寺の3ヶ寺からなるとする。
当図には、神宮寺、定林寺、安隆寺などが描かれ、定林寺の伽藍は築地で囲まれ、金堂(本尊弥勒)・講堂(本尊釈迦)・三重塔・太子堂・経堂・食堂・鐘楼・天神社 ・弁財天社・門などがあり、聖徳太子が推古天皇の病気平癒を祈願し建立すると注記がある。
広瀬明神南やや西に描かれる三重塔のある区画が定林寺、その北側の小さい区画が神宮寺と推測される。(画像が小さく文字判読不能)
定林寺は唯一現存するが、近世に移転したのか、現在は明神の東に位置する。
しかしその現状は、門と護摩堂一宇と古仏が残るだけで、すこぶる荒廃する。
 大和広瀬定林寺
なお広瀬明神境内は式内社と称する社に共通の胡散臭さがあり、何も見るべきものはない。
大和富貴寺 再訪 大和法隆寺五重塔・大和若草伽藍心礎・大和富貴寺塔残欠
2010/06/26 山城白河法勝寺八角九重塔遺構 2010/06/26現地説明会
 山城白河法勝寺八角九重塔跡
2010/05/30 甲斐長禅寺五重塔・三重塔 甲斐長禅寺五重塔・三重塔
甲斐善光寺 甲斐善光寺 三重塔跡は手掛かりなし。
甲斐恵林寺三重塔11
  同        12
  同        13
  同        14
  同        15
  同        16
  同        17
  同        18
  同  四脚門(赤門)
  同       三門
昭和48年建立。純木造無彩色。 一辺3.42m。屋根銅板葺。初重正面のみ中央間板唐戸、両脇間連子窓、残り3間は白壁、二重・三重も各間全て白壁、組勾欄を付設。組物斗栱は各重とも出組。
斗栱など正規の塔の建築ではなく、その意味でやや浮薄な印象である。基壇はコンクリート製。
初重は位牌堂、基壇を含む半地下は納骨堂の機能を持つ。仏舎利宝塔と称する。
以下写真は◇「O」氏ご提供画像:1991/03/03撮影
 ◇甲斐恵林寺三重塔1甲斐恵林寺三重塔2
元徳2年(1330)夢窓国師の開山、甲斐国守護ニ階堂貞藤(道蘊)邸を禅刹とす、現在は臨済宗妙心寺派、武田信玄墓所。
 ◇甲斐恵林寺四脚門1甲斐恵林寺四脚門2甲斐恵林寺四脚門3・・・四脚門(赤門・重文)
慶長11年(1606)再建(棟札)、徳川家康の再興、唐様を用いる。
 ◇甲斐恵林寺三門(近世初頭の建立)
 ◇甲斐恵林寺開山堂甲斐恵林寺大庫裏・・・いずれも古建築ではない 。
甲斐大蔵経寺建物遺構及び中心礎石 三重塔跡と云う遺構及び心礎とも云われる礎石が残るも、礎石配置・中心礎石の形状などから塔跡とするには 問題が多い。
但し、宝塔に一切経を納めると云う寺伝や三重塔を描く近世の絵図が残り、何らかの塔婆があった可能性は高い。
 甲斐大蔵経寺
甲斐寺本廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
白鳳期−平安期の寺跡とされる。法起寺式伽藍と推定され、心礎(安山岩自然石)が現存する。
 1981年の発掘調査で塔の一辺は5.4mと確認される。
○「幻の塔を求めて西東」:心礎は二重円孔式、280×242×130、径98×36及び径65×17cmの円孔を持つ、排水溝1条、白鳳。
春日居町郷土館に三重塔復元模型あり。
○2010/05/23追加:「日本の木造塔跡」
昭和26年に石田茂作により発掘調査が行われる。山王権現のところに講堂、その南西に金堂、南東に塔跡が確認される。
塔跡には心礎、脇柱礎が残る。
心礎の大きさは2,4×2.2mで高さは90cm、二段円孔を持つ。外穴は径99cm、深さ4cm、内孔は径62cm深さ15cmで、放射状排水溝が1本ある。
脇柱礎の内2個は原位置を保つ。隅柱礎には径72cmの円形柱座造り出しがある。
○2010/06/13追加:
脇柱礎が残ると云うも、心礎周囲の一部は民家であり、所在が良く分からない。
甲斐寺本廃寺山王権現:山王権現境内に礎石と思われる石が数点ある。
 同   境内推定礎石1      同   境内推定礎石2
寺本廃寺三重塔模型1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
甲斐寺本廃寺三重塔復元模型は春日居町郷土館に展示する。
スケールは1/5。平成3年完成と思われる。
(総高の復元は24mと想定されているようであるので、模型の高さは4.8mほどと思われる。)
大和法起寺三重塔・大和薬師寺三重塔を参考にして復元と云う。
※出土瓦から創建は白鳳期と推定される。
設計:(財)建築研究協会(京都)、請負:(株)磯村才治郎商店(京都東本願寺前)、棟梁:北村文彦(春日居町熊野堂)とある。
甲斐国分寺塔跡01
 (「甲斐国分寺跡・甲斐国分尼寺跡」リーフレット、笛吹市教委 より)

甲斐国分寺塔跡02
甲斐国分寺塔跡11
  同      12
  同      13
  同      14
  同   心礎11
  同      12
  同      13
  同      14
  同      15
  同      16
  同   脇柱礎1
  同   脇柱礎2
  同   中門礎石
寺域は南北3町半、東西2町で、2重の築地と溝を廻らす。金堂、五重塔、講堂、中門、廻廊の礎石を残す。
現在講堂跡、塔跡、金堂跡、参道跡の遺構を見ることが出来る。
塔の基壇は一辺17m、礎石は四天柱礎南の2個と西側柱礎1個を欠くが、14個が残存する。
○甲斐叢記:巻之5:国分寺址:記事
「・・・この寺の域に、古昔のおほてらの址なりとて礎石在り。古き瓦の欠けたる、多く出ず。・・・(今の国分寺は臨済宗にて、・・寺領七石あり。その境内は古の護摩堂の跡なりと言ふ。)」  注)挿絵はなし。
○「幻の塔を求めて西東」:心礎は円柱座造出一重円孔式、280×220cm、径122×1cmの円柱座造出し、径43×27cmの後円孔がある。
2009/09/26追加:「国分寺址之研究」堀井三友、堀井三友遺著刊行委員会編、昭和31年 より
現国分寺(臨済宗)は南面した本堂とその左右の薬師堂・庫裏を残す。庫裏の南方桑畑中に塔址がある。礎石14個(第2列の4、第3列の2、3の3個を欠く)が残る。心礎は9尺2寸×8尺2寸で、表面に径4尺の円柱座を造出し、その中央に径1尺4寸5分深さ7寸5分の枘孔を穿つ。
四隅の礎石は7尺2寸〜5尺9寸×6尺3寸〜5尺5寸で、何れも径8寸深さ3寸6分ほどの枘孔を持つ。塔一辺は31尺6寸余(天平尺32尺5寸)を測る。
塔址の西南約31尺に1個の枘孔を持つ礎石あり、その東方24尺に3個の礎石があり、南大門址であろう。
その北方約24間(現鐘楼後方)の西寄りに2個、東寄りに3個の礎石があり、各々鼓楼址、鐘楼址と伝える。
現薬師堂の背面(現墓地)に25個の礎石を残す。7間四面の堂があったと推定される。金堂跡であろう。
その東北端から東方斜めに高さ3尺幅9尺の土壇が73尺続き、さらにその先端は同規模の土壇が70尺にわたり丁字形に交わる、これは廻廊址と云うも不明。なお以上のほか、礎石は薬師堂背面・金堂跡の前面・本堂背面の泉水・庫裏東側小庭などにあり、碑石の台石などに転用されている。
 甲斐国分寺塔址     甲斐国分寺平面実測図
  ※現在発掘調査が進み、本堂の建っていた所が金堂跡で、上記の金堂跡とする所は講堂跡とされる。
  遺跡上に建っていた本堂・庫裏などは近くに移建される。
○2010/05/23追加:
「日本の木造塔跡」:
心礎は2.55×2.35mで、径120cnの円形柱座を造り出し、その中央に径35cm深さ26cmの円穴を彫る。四天柱も巨石を用いる。塔一辺は9.65m。
さてこの国分寺にはもう一つの心礎が本堂の側にある。
この心礎は円孔が貫通する。(伊予長隆寺<伊予来住廃寺>心礎と同形)
心礎は四角形(一辺は各々1.55、1.59、1.48、1,30m)で厚さは45cm、底まで貫通する孔の径は40〜50cm。現在は6個に割れているが、本来は4分割した(するつもり)心礎であろう。但し長隆寺の心礎は楔で2分割し、そのうえで周囲に結合するための工夫(溝を彫る)があるが、この心礎には何もない。このままでは心礎を立て固定するには不安があるので、この心礎は放置されたのであろう 。
○2010/06/13追加:
「日本の木造塔跡」(上掲載)では「もう一つの心礎」があるとする。
しかし、これは石製露盤の誤認であろう。大きさ、形状(※)、貫通孔などほぼ間違いなく石製露盤であろう。
(※)形状が微妙に正方形でないのは、割れたり端が欠けたりしているためであろう。
 →石製露盤一覧表
ここには大型でしかも柱座や枘孔を加工した心礎が残存している。わざわざ「不安がある」心礎などを製作するようなことなどあるのだろうか。 その上に穴を貫通させた心礎を、わざわざ4分割するなど常識的には考えられないであろう。逆に固定するには「不安」が増すのではなかろうか。
この「遺物」が割れているのは、この「遺物」が露盤であり、塔の何等かの退転の時、塔の最上階から落下した衝撃で割れたか、落下後に割られたかのどちらかであろう。
「幻の塔を求めて西東」:大きさは約150×150cm、厚さ45cm、径40/50cmの貫通孔、六片に割れる。心礎とする説もある。
 甲斐国分寺石製露盤:「甲斐国分寺跡・甲斐国分尼寺跡」リーフレット、笛吹市教委 より
  ※石製露盤の実見を失念し、自前の写真なし。
○2010/06/13追加:甲斐国分尼寺跡
参考:付近に甲斐国分尼寺跡がある。金堂及び講堂跡を明瞭に残す。
甲斐国分尼寺金堂跡:土壇上に礎石18個を残す。建物は5×4間と推定される。(20.4×13,2m)
甲斐国分尼寺講堂跡:金堂より一段低い基壇上に礎石12個が残る。建物は5×4間と推定される。(20.1×13.8m)
甲斐
八代定林寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
昭和56年(1981)落慶。高さ17m。構造は鉄骨・外装は木造仕上 と云う。但し組物など正規の仕様ではない。屋根銅板葺。
階段付で最上階に上れる構造(各階には床を張る)で、五重に本尊を安置と云う。工事予算4000万円。
日蓮宗 、慧光山と号する。甲斐休息立正寺、甲斐石和遠妙寺などと同じく、文永年中(1264-)日蓮上人の来錫があり、日蓮上人の草創と伝える。日蓮上人の霊跡「二子塚」 (鬼子母神)がある。
近世は徳川田安家の祈願所となる。
山門・本堂・祖師堂・鐘楼・庫裏・二子堂その他を備える。
八代定林寺二子堂:鬼子母神を祀る。     八代定林寺本堂
甲斐岩殿山三重塔跡など 甲斐岩殿山七社権現三重塔
甲斐円通院三重塔11
  同        12
  同        13
  同        14
  同        15
  同        16
  同        17
  同       本堂
報恩塔と称する。外観は六角三重塔の形式を採る。しかし組物などなど正規の塔建築ではなく、 略式塔婆である。(三層堂に相輪を載せたイメージ)
以下の説明がある:昭和43年秋着工、染色工場の古材・建具などで建築する。内部には六角厨子があり十六羅漢が祀られる。
曹洞宗、大慈山と号する。秋元泰朝が谷村藩主として移封、寛永10年頃谷村城下町整備に伴い、竹の鼻(都留市駅前付近)現在地に移転すると伝える。山門、鐘楼、本堂、薬師堂、閻魔堂などがある。また「元坂の石橋 」「梵鐘」(貞享3年1686寄進)「涅槃図」(寛文13年1673銘)などを有する。
甲斐円通院六角三重塔1       同          2左図は「X」氏ご提供画像
富士吉田新倉山五重塔1
  同           2
  同           3
  同           4
  同           5
  同           6
昭和38年(1963)建立、高19.5m。RC造。今次侵略戦争犠牲者の慰霊塔である。 軍服・大元帥・明治大帝銅像などがある。国家神道の極みのような施設に仏塔はそぐわない。
新倉山は富士山北口に対峙し、途中に新倉浅間社(何時の時代の建立か良く分からない)があるので、元々は富士浅間権現の関係地であるのかも知れない。
甲斐新倉浅間権現社
(あいにく曇天・小雨模様で)富士山の眺望は全くないのが残念であるが、それでも富士吉田市街地が一望される。
富士吉田市街地遠望
なお、ここから程遠くないところに北口富士浅間権現がある。
北口本宮仁王門跡1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同    随身門1
  同    随身門2
  同     本殿1
  同     本殿2
  同     西宮1
  同     西宮2
  同     西宮3
  同     東宮1
  同     東宮2
  同     東宮3
  同    御水舎1
  同    御水舎2
  同  福地八幡社
甲斐北口本宮浅間神社
現在、詳細は不詳、裏付資料も不明ながら、(近世には)五重塔、鐘楼、仁王門などの堂塔があったと云う。
これ等の堂塔は明治の神仏分離の処置で取壊される。五重塔などの礎石は失われているも、仁王門礎石は参道途中に残存する。
 ※写真は夕刻、天気は小雨で何れも不鮮明。
甲斐北口本宮参道:正面は随身門、この途中に仁王門礎石が残る。
○北口本宮仁王門跡:正面3間、側面2間の礎石を残す。側面1丈8尺(5,5m)軒高6間(11m)と伝える。中央間礎石は方形の切石、両外側礎石は自然石を用いる。
○近世の姿になったのは、享保から元文年中、富士講行者・村上光清が私財を投じ、拝殿・手水舎・神楽殿・随心門などを建立(再興)したことによる。
現在以下の社殿を残す。
東宮本殿:重文、一間社流造、永禄4年(1561)武田信玄が浅間本社として造営する。その後文禄3年(1594)、元和元年(1615)、慶安2年(1649)、延宝六年(1678)に修理、享保19年(1734)村上光清による修理がある。
西宮本殿:重文、一間社流造、文禄3年(1594)谷村城主浅野氏重により本殿として建立される。元和9年(1615)の本殿建立により現在地に移され西の宮となる。その後享保19年、村上光清により大修復が行なわれる。
本殿:重文、元和元年(1615)、谷村城主鳥居成次が現在の本殿を建立する。
御水舎:延享3年(1746)建立。
 ※現存する建物は何れも近世関東風の意匠を身に纏う建物の典型を示し、これ等の傾向から五重塔・仁王門なども近世関東風建物の典型であったであろうと類推される。
2010/05/29 駿河成安寺ストゥーバ1
  同          2
  同          3
成安寺石造三重小塔1
  同         2
JR富士駅北線路沿い東200mにある。
団信徒会館屋上に、白・黄・赤・黒・金の5色の石造三重小塔(RC造と推定)を安置し、団信徒会館の裏に、石造堂宇が建ち、その屋上にストゥーパ(パゴダ)を設置する。(何れもRC造と推定)
 興法山と号する。曹洞宗。弘仁10年(819)空海の創建と云う。中世末期に改宗する。開基は吉川駿河守元春と伝える。近世には20石余の朱印地を受ける。 また末寺22ヶ寺を有する。(現在は8ヶ寺の末寺となる)
寛文4年(1664)現在地へ移転、明和6年(1769)・文化2年(1805)に焼失、安政元年(1854)に地震壊倒。
昭和47〜49年、本堂(RC)・書院・開山堂・位牌堂・客殿を新造、平成13年、檀信徒会館・子安堂・水屋・東屋を新築。
富士山本宮本殿1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同    拝殿1
  同       2
  同       3
  同    楼門1
  同       2
富士宮市:富士山本宮
富士山本宮浅間神社(浅間明神、富士社、富士浅間宮、本宮、富士浅間大菩薩、富士浅間大権現)
 ※駿府浅間神社は当社から勧請し、新宮と称する。
2004/08/01撮影:
 富士山本宮本殿01     富士山本宮本殿02     富士山本宮本殿03
近世には三重塔があったが、詳細は不詳。(今後調査予定)
近世の略歴として以下の情報がある。
天正18年(1590)豊臣秀吉、社領1070石を寄進。(祭礼料等380石、社人給・大宮司領412石、公文77石、案主34石、段所45石、別当以下供僧122石)
慶長9年(1604)徳川家康、現存する本殿・幣殿・拝殿・楼門など社殿30余棟を造営。
寛永18年(1642)徳川家光、朱印領1129石余を寄進。(大宮司富士氏867石余、公文富士氏80石余、案主富士氏44石余、別当寶幢院136石余)を寄進。
○「本宮及末社間數坪數書上寫」寛政2年(1790)では、神域15,560坪、社殿堂塔は以下があったと云う。
本社、拝殿、作合、玉垣、神供所、三之宮、七之宮、寶蔵、経蔵、日之宮、見目之堂、舞屋、神馬厩、楼門、廻廊、裏門、御炊屋、八幡社、飯酒王子、天照太神、弁財天堂普賢延命堂、天神、三寶荒神、牛頭天王摩利支天堂護摩堂、水屋明神、垢離屋、鐘楼堂帝釈天堂、八幡宮、追加水神、三重塔、水神、本地大日堂(木花之佐久夜毘賣命の本地は大日如来とされる)、弁財天堂、神橋、五大尊堂阿弥陀堂、輪橋、鳥居
 ※多くの仏堂があり、神仏の習合した形態であったことが窺える。
近世の職制は大宮司を筆頭に、公文、案主など多くの神職・社家などから構成される。
別当は真言宗寶幢院、社僧7坊(清泰院、閼伽井坊、乗蓮坊、金蔵坊、法泉坊、蓮蔵坊、大圓坊)があった。また大宮司の支配に属する大蓮寺、薬米寺があった。
明治の神仏分離の処置で、別当寶幢院・7社僧・大蓮寺は復飾・改名、廃寺となる。
境内の仏堂(三重塔の消息は不明)は全て棄却、仏像・仏器も取除かれる。
境外の村山興法寺(村山三坊:辻之坊、大鏡坊、池西坊)に属する富士山頂大日堂は浅間神社(奥宮)などと改竄、薬師堂は久須志神社、登山道の雲霧不動は雲霧神社などと改竄。山頂の大日如来は大頂寺に遷座する。
神仏分離以降は例に漏れず、国策に従い、国家神道の道を歩く。
○慶長9年家康造営建築のうち、本殿・幣殿・拝殿・楼門が現存する。
本殿(重文) :浅間造りと称する二重の楼閣造、棟高45尺。初重は5間4面、2重は3間×2間の流造りで共に屋根檜皮葺。
○護摩堂跡の発掘:
2008年発掘調査により湧玉池北側で護摩堂跡(寛文10年・1670の社殿配置図に基づくと云う。・・・この社殿配置図とは不詳)が確認される。但し、この発掘は報道関係のみに公開と云う。
 富士山本宮護摩堂跡:教育委員会発表写真
甲斐身延山五重塔
  同    多宝塔
  同   五重塔跡
  同    相輪橖
  同    本地堂
  同  その他の諸堂宇
甲斐身延山
甲斐大野本遠寺 甲斐大野本遠寺 戦前の建立になるストゥーパ風あるいは篋塔風の宝蔵がある。
甲斐妙善寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
平成10年完成。一辺2,73m、高さ12,3m。伝統工法による木造素木の塔。屋根銅板葺。
山城常寂光寺塔をモデルとする。内部には日蓮上人坐像を安置し、檀信徒の位牌堂として機能する。大工棟梁は地元の宮大工藤本芳郎で、甲斐長禅寺三重塔・甲斐定林寺五重塔建立に加わる。総工費4500万円。
なお藤本氏は現在建立中の当寺山門を最後に引退すると云う。
建立中妙善寺山門1       同     山門2
日蓮宗。多宝塔のほか、本堂、庫裏、七面堂?、鐘つき堂、檀信徒会館などの堂宇を備える。
図1   図2   図3「X」氏ご提供画像
2010/05/03
「O」氏ご提供
武蔵永林寺三重塔01
  同        02
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昭和55年(1980)完成。 棟梁は安田昭二氏。総檜造、屋根銅板葺。高さ20m。
 ※安芸向上寺塔をほぼ模す。(従って、当然禅宗様の塔となる。)
本尊聖観音菩薩。
天文元年(1532)大石定久が滝山城に移るに際し、この地(由木城)に「 永麟寺」を創建する。
天文15年(1546)諸堂が完成する。曹洞宗。
 武蔵永林寺伽藍
総門:天文15年創建、宝暦元年(1758)再建。一間薬医門。
 武蔵永林寺総門1     武蔵永林寺総門2
三門:天文15年創建、寛文9年(1669)再建。三間一戸重層門。屋根銅板葺。
 武蔵永林寺三門
本堂:天文15年創建、寛文9年(1669)再建。
 武蔵永林寺本堂1     武蔵永林寺本堂2     武蔵永林寺本堂3
大庫裏:天文15年創建、昭和61年造替、棟梁は安田昭二氏。
 武蔵永林寺大庫裏
鐘楼:天文15年創建、昭和45年再建、再建棟梁は安田昭二氏。
 武蔵永林寺鐘楼
2010/04/29 陸奥普門寺三重小塔11
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文化6年(1809)建立。棟札:「文化六年歳次己巳广即吉旦海岸山補陀峯普門寺・・・」とある。
総高12.5m、一辺1.65m。
基本的に唐様を用いる正規の塔建築である。平成11年大規模修理。
心柱は初重まで通す。各重3間。
軸部は極端に狭く、広い縁を設ける。
初重:斗栱はニ手先、軒はニ重繁垂木。木鼻などには近世後期の江戸関東風彫刻を施す。
二重:斗栱三手先、軒は板軒(全面彫刻を施す)。
三重: 斗栱は三手先、軒は扇垂木。
屋根銅板葺(昭和37年杮葺から変更)。
相輪の九輪は7輪である。
初重各面には仏像を安置と云う。
なお、この塔の大工は気仙大工と推定される。
 ※気仙大工については、陸奥文知摺観音多宝塔(江戸後期)のページを参照。
 ※気仙大工の仕事は多く残る。以下は気仙沼市内に残る一例である:
  補陀寺六角堂:(気仙沼市):円堂は通常八角に 造るが、この堂は六角である。宝暦12年(1762)の建立。大工は三日町瀬左衛門(気仙沼大工)と云う。
○普門寺(陸前高田・曹洞宗)開山は仁治2年(1241)、永正元年(1504)浜田城主千葉宗綱の再興と云う。
普門寺三重小塔心柱:心柱は心礎の上から建つのかどうかは不明であるが、床下を貫通する。
普門寺三重小塔本尊:初重東面安置仏、大日如来か。
普門寺山門(代門):長い参道奥に本堂が見える。
普門寺本堂:中央に石階があるが、手前の石階の上に山門があった。
普門寺山門礎石:今も門礎を残す。
陸奥定義山五重塔01
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○工期:5年3ヶ月(昭和61<1982>年10月落慶)○様式:純和様木造五重塔○高さ:約29メートル
○一辺は初重:15尺3寸6分、ニ重:13尺9寸2分、三重:12尺4寸6分、四重:11尺4分、五重:9尺6分 本尊阿弥陀如来坐像
○構造塔身:総青森ひば白木造、屋根:青森ひば・こけら葺き、相輪:青銅製。
五重塔は「西方寺の開祖」とも言うべき平貞能公(後に定義と改名)の菩提を弔い、御報謝の意を捧げ、未来永劫の人類の平和を祈念するシンボルの塔」(「定義如来」サイトから転載)として建立される。
定義如来五重塔:「定義如来西方寺」様ご提供。
定義如来五重塔1     定義如来五重塔2「x」氏ご提供画像
○資料館「定義玉手箱」(平成2年開設)に五重塔1/10模型がある。(阿部建設<株>)・・・・・見学を失念し未見。
○浄土宗、極楽山西方寺と号する。
本尊は蓮糸曼荼羅一軸の阿弥陀如来画像(立像)で、安元年間(1175-77)に宋の育生山径山寺仏照徳元禅師から平重盛に送られたものと伝える。この像は治承2年(1178)平重盛 重篤の時、老臣の平貞能に与えらる。
平貞能、平氏滅亡後、従臣とともにこの尊像を奉り、この地に逃れ、建久9年(1198)没す。
従臣たちはこの地に堂宇を建立し阿弥陀如来像を奉祀したのが始まりと伝える。その後従臣の末裔早坂源兵衛が発心し、宝永3年(1706年)「観蓮社良念」と称し、「極楽山西方寺」を創立 する。
なお「貞能」の音「さだよし」は「定義」とも書くことが出来る。
 現在、定義山は都会から離れた地にあるも、この地方における殷賑な「流行仏」と見受けられる。但し、この流行の理由は全く分からない。
陸奥孝勝寺五重塔 再訪 陸奥孝勝寺
2010/04/28 陸奥霊山寺跡 陸奥霊山寺跡
陸奥横手廃寺現況
 :左が礎石、右は小祠
陸奥横手廃寺礎石1
陸奥横手廃寺礎石2
陸奥横手廃寺礎石3
陸奥横手廃寺礎石4
陸奥横手廃寺土壇
横手廃寺推定礎石
 :小祠付近に5,6個あり
庭石(礎石を転用か)
 :この写真以外にも礎石と思われる石が点在する
廃寺跡出土布目瓦
 
陸奥横手廃寺塔心礎:1982年 「N]氏撮影・提供。塔心礎と云う。
2010/05/09追加:
○現地説明板:「この遺跡は東西145m、南北91mで、水田となった堀跡がある。堀跡は中世に岩松氏が館を構え、その堀跡と推定される。現地からは布目瓦が多く出土し、その瓦から 遺跡は平安期のものと推定される。本格調査は未実施のため、伽藍配置などは不詳。現在小祠のあるところは土壇様の高まりが残り、傍らには円形造出を持つ礎石と多くの礎石を思われる石を残す。」(要旨)
○礎石の大きさ(実測)は140×140cm(最大の差渡し寸法は170cm)。高さは不明であるが、一昔前の写真では140cm内外と推定されるくらいの高さがあるように見える。(現在はかなり土中に埋没か)
 磨耗あるいは削平されたため、高さははっきり分からないが、明らかに柱座がある。
柱座の大きさは、磨耗及び礎石が割れているため判然とはしないが、径はおよそ100cm内外を測る。出枘については磨耗・削平のため不明。
 現在この土壇及び礎石は個人邸内にある(見学には配慮が必要)。この家のご婦人によれば、「嫁いで来た時には礎石は割れていなかった。」と云うから、年齢から察して、30〜40年前頃には礎石は割れていなかったものと思われる。さらに「今も付近から古瓦(布目瓦)が出る。」「礎石は庭石に転用されたものもあると思 う。」との談も聞く。
 未調査かつ詳細不詳のため、残存する土壇が塔土壇かどうかは不明、また残存礎石が心礎かどうかは更に不明。しかしもし塔があったとすれば、この礎石は大きさ及び柱座の大きさから見て、心礎である可能性はかなり高いであろうと思われる。
笠島廃寺推定塔土壇1
 :左小径が道祖神参道
笠島廃寺推定塔土壇2
笠島廃寺壇上巨石1
笠島廃寺壇上巨石2
笠島廃寺壇上巨石3
笠島廃寺壇上巨石4
○「N」氏情報:名取市笠島遺跡に塔心礎がある。
○「幻の塔を求めて西東」手書付表:心礎の大きさは150×110×○6cm(見える高さ・○は判読できず。)で、円柱孔=不明、表面が著しく風化、原位置を保つ、白鳳とする。
○「日本の木造塔跡」:心礎なりや否や疑問あり。
○昭和26年の発掘調査で、心礎のある方形の土壇遺構及び土壇遺構2箇所が発掘され、多賀城廃寺と同様の伽藍配置とされる。しかし発掘は小規模で、伽藍配置・規模などの確定には至らず。寺地のほとんどは樹木に覆われる。
2010/05/09追加:
○現地説明板:「標高50mの舌状台地に位置する。昭和26年の調査で塔跡と思われる方形土壇と土壇状遺構2箇所を発見。布目瓦も出土する。全般に詳細は不明。」(要旨)
○笠島道祖神に至る南北の表参道の東に方形土壇が残存する。さらにその壇上中央付近に礎石と推定される巨石がある。一方、土壇状遺構2箇所とは良く分からない。
 推定礎石は現状凡そ三角形の形状をなす。大きさは底辺150cm、高さが110cmを測る。(実測)
岩質は変成岩の一種であろうか、脆く剥がれ易い岩質であり、かなり原型を損ねていると思われる。底辺近くに円形枘孔と見えなくはない窪みが有るがはっきりとは分からない。が、もしこの窪みが円形枘孔の名残りであるとすれば、この推定礎石は元々は長方形の形状であったが、後世に下1/3ほどが失われ、現状のような三角形の形状を呈することになったとも思われる。
かなり好意的に見れば、以上のように推論することも可能であるが、現状の形態からでは心礎である確証は勿論、礎石である確証もない。
言葉を変えれば、発掘などにより、この土壇が塔土壇であり、かつこの推定礎石が原位置を動いていないと確認 が出来ないかぎり、この礎石が心礎であると断定はできない。しかし、もしこの土壇が塔土壇であるならば、この壇上の巨石は残存する位置及び大きさか見て心礎である可能性は大きいと思われる。 この場合、柱座や円穴・円孔などがはっきりせず、心礎であるとしても磨耗・欠損したのかそれとも自然石の心礎であったのであろうか良く分からない。
2010/04/27 陸奥観音寺五重塔1
  同        2
  同        3
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  同        5
  同        6
  同        7
平成7年(1995)建立。平賀本土寺・聖徳寺と同型。GRC(ガラス繊維強化セメント)造。 高さ約23m。基壇内部は宝物館。
天安2年(858)道叡の創建と伝える。近世は天台宗東叡山直末であった。本堂(寛永18年再建)、大悲 堂(白瀧観音堂・元文2年1737再建、古来の本尊であった聖観音を安置)などを有する。
 陸奥観音寺大悲堂

 図1  図2 :図1・2は「X 」氏ご提供
陸奥蓮光寺二重小塔1
  (左建物は一切経蔵)
  同         2
  同         3
  同         4
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  同         7
  同         8
   (左脇面)
  同         9
   (裏面)
  同   二重塔内部
  同   聖徳太子像
天保7年(1836) 建立。(「X」氏情報、「塔をゆく」國見辰雄による)
「15世報上良瑞天保7年霜月建立」とあると云う。「太子堂多宝塔」と称する。
 構造は下層正面及び裏面は3間・両脇面は2間、上層1間 である。内部には四天柱を立て、その四天柱が上層に伸びて上層の4隅柱となる構造と云う。また、下層の表面・裏面は3間であるが、その両脇間は極端に狭く通常の概念でいう3間とは様相が異なる。
塔初重一辺は5尺1寸(155cm)、正面・裏面の両脇間は1尺(30cm)、中央間3尺1寸を測る。(実測)
 下層正面には唐破風を置く。上層には擬宝珠高欄を付設。下層は基壇・床を設けず直接礎石から建物が立ち上がると思われる。組物は一応唐様の二手先を用いる。屋根は銅板葺。聖徳太子像を安置すると云うが、 なぜ聖徳太子なのかは不明。高さ約8m。 昭和57年修理。平成11年修理。
 当寺は光明山と号す。宝暦5年(1755)佐藤良庵が「摂取庵」なる庵室を改組し、寺院を開山したことに始まる。中興開基は勇猛と伝え、江戸初期に芝増上寺、京都知恩院から山号・院号・寺号「光明山摂取院蓮光寺」を得る。現在は浄土宗知恩院末。 本堂(明和3年再建)、一切経蔵(明和3年再建)などを有する。
 以下の奇妙な光景がある。浄土系の当寺本堂左に熊野権現社拝殿・本殿が並んで建つ。明らかに当寺境内に熊野権現があるように見える。(立地から、明治の神仏分離で熊野権現は熊野神社として分離したように見える。)説明板には「当地は往古より茂林荒蕪地で弥陀の小堂あり。・・・里人はこの地を敬い、一宇を建立し、熊野権現と唱え、崇敬する。(大意)」「安政元年(1853)現社殿を建立、遷宮鎮座する。明治5年熊野神社と改号。扁額には『熊野八幡本地堂』とある。」とある。
奇妙なのは浄土宗と熊野権現の結びつきであり、このことが良く理解できない。また『熊野八幡本地堂』なども良く理解できない。
参考:
 良く似た二層塔に阿波明王院二層塔があるが、こちらは下層は通常の3間である。(阿波明王院の柱構造もこの塔と同一構造と思われる:推測)。
 唐破風付設の塔は(1)淡路蓮光寺、(2)信濃照光寺に見られるが、(1)は上下3間・向拝付・相輪は欠く、(2)は上下層とも1間の構造である。
なお備後福性院は上下層とも1間、讃岐海岸寺は 上下層とも3間の正式の層塔建築、丹後如意寺十方閣は上下層とも3間(唐破風・向拝付設)の形式と思われる。
福島遍照院三重小塔1
  同         2
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  同         9
建築年代の情報なし。塔落慶は昭和末期か平成初頭か。三重小塔の細目は不明。
檜造、和様を用いる。屋根銅板葺。実測はしていないが、おそらく初重一辺5尺前後の小型塔である。小型ではあるが、近年よくある紛い物の塔ではなく、正規の 和様の仏塔建築である。
遍照院は太平山と号す。弘法大師生誕1200年の記念事業として、昭和48年起工、昭和50年竣工、昭和に開山される。高野山真言宗。三重塔・薬師堂などがある。
福島市信夫山中太平山にある。

 画像:2004/08/01「X」氏撮影

文知摺観音多宝塔11
  同        12
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  同        32
文化9年(1812)安洞院八世光隆和尚が建立。銅板葺き。高さ15m、一辺約3.2m。江戸風な過剰な装飾を持つ。明治17年板葺から銅板葺に改める。
正面に唐破風を付設、基本的に禅宗様を用いる。下重組物は三手先。軒は上下重とも雲文を彫刻した板軒とする。棟梁は地元山口村藤原右源次と伝えられる。「N」氏情報によると”気仙沼・三陸一帯には「気仙大工」という出稼ぎ大工集団があり、近世から今に至るまで、江戸の災害の度に 馳せ参じたとされる。一方、故郷では自宅・菩提寺の普請に従事し、それ故に今に江戸の建築技法を伝える建築が残されている”とのことである。この”多宝塔も気仙大工の造作”であるとすれば、さもあらんと思われる。
内部は禅宗様須彌壇を置き、金剛界五智如来を安置する。
 多宝塔本尊五智如来:文知摺観音発行リーフレットより
なお、文知摺とは信夫文字摺のことと云われる。この地方は「信夫」の里であり、信夫文字摺とは岩の表面に絹を置き、その上から忍草(しのぶぐさ)を摺りつけて岩の凹凸をを利用して染色する技法を云うようである。当寺にはそれに因んだ伝説が伝えられる。堂塔は安洞院の管理にある。
観音堂は宝永9年(1709)再建。
 文知摺観音観音堂
安洞院は香澤山と号する。曹洞宗。戦国期の開山とする。・・・雨中に付き未訪問。

 画像:1972年「N」氏撮影。
2010/04/25追加:
 昭和31年文知摺観音塔:毎日新聞掲載
陸奥大蔵寺二重塔1
  同        2
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  同  観音堂と塔
  同  大草鞋と塔
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  同  二重塔内部
寛政7年(1795)島谷野羽田藤四郎の寄進により建立と云う。あるいは寛政7年多宝塔形式(二重塔)に改めるとも云う。
奥の院(多宝塔)と称する。観音堂本尊千手観音は秘仏で、現在の宝蔵ができるまではこの奥の院内陣に納められていたと云う。そのためであろうか、外部は土蔵造となる。
塔は基壇上に建つ。平面方3間。組物は出組。軒は二重繁垂木。初重正面扉上に唐破風付設。
大蔵寺は小倉寺観音と通称する。
大同2年(807)徳一の開創もしくは弘仁10年(819)坂上田村麻呂の開創と伝える。
中世に再建される。寛永元年(1624)奥の院建立。観音堂は享保14年(1729)の再建。その後、山門、八幡社、白山社、地蔵堂などが建立される。かっては天台の大刹であったが、江戸初頭に臨済宗に改宗する。
宝蔵には千手観音立像(平安前中期、重文)・平安期の古仏群を祀る。千手観音が宝蔵に移された現在は、丈六の観音ほか7体の破損仏を安置する。
八幡社は明和2年(1765)の建立で、明治の神仏分離で分離される。
陸奥梁川八幡
 龍宝寺三重塔跡

陸奥梁川八幡龍宝寺

陸奥長谷寺多宝小塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同       山門
  同   薬師堂山門
  同     薬師堂
多宝塔の建築年代は不明。上重平面は円形に造るも、初重平面1間であり正規の多宝塔建築ではない。擬似多宝塔あるいは多宝塔形ニ層塔と云うべきか。
但し、造作は木造と思われる。材種は彩色のため不明。
永徳元年(1381)定善和尚が中興開山すると伝える。金剛山と号する。新義真言宗豊山派。慶応2年焼失、再建、明治8年保原小学校に使用、明治9年再び焼失、明治16年本堂再建。
山門は保原陣屋の門(長屋門形式、入母屋造屋根瓦葺)を移建(明治16年)と云う。
山門脇に観音塚古墳(前山古墳・卯花広智寺観音堂)がある。
なお、付近に境外仏堂があり、広い境内がある。
長谷寺薬師堂山門(仁王門):文政7年(1824)再建、長谷寺薬師堂:文化4年(1807)再建
2010/04/06 丹後円隆寺 再訪 丹後円隆寺
若狭神宮寺 再訪 若狭神宮寺
若狭明通寺 再訪 若狭明通寺
若狭国分寺跡 再訪 若狭国分寺跡
その他 丹後妙法寺(西国諸国中)、丹後浄土寺(丹後円隆寺附)、
若狭妙楽寺/若狭多田寺(若狭小浜明通寺三重塔中)
2010/04/01 山城今熊野観音寺 再訪
今熊野観音寺多宝塔21     今熊野観音寺多宝塔22     今熊野観音寺多宝塔23
今熊野観音寺多宝塔24     今熊野観音寺多宝塔25     今熊野観音寺多宝塔26
今熊野観音寺多宝塔27
大本山泉涌寺諸堂:右仏殿(重文)、左舎利殿
泉涌寺寺中善能寺祥空殿:方3間の仏堂に相輪を載せる。昭和47年完工・伸和建設施工。
2010/03/28 大和興福寺 再訪 大和興福寺
2010/03/31
「X」氏ご提供
武蔵寒山寺ニ層塔 武蔵寒山寺ニ層塔1
武蔵寒山寺ニ層塔2
2010/03/28
「X」氏ご提供
武蔵天妙国寺心礎礎石 品川天妙国寺
武蔵浅草寺旧五重塔碑 武蔵浅草寺
2010/03/29
「O」氏ご提供
武蔵歓喜院聖天堂 武蔵歓喜院
2010/03/23 成相寺からの帰路、デジタルカメラを紛失、そのため成相寺の写真も紛失。智恩寺は「カメラ紛失中」で撮影できず。
松尾寺、金剛院は「使い捨てカメラ」で撮影。今回はたまたた同行者が居たので、同行者のデジタルカメラの写真を借用する。
丹後成相寺 再訪  丹後成相寺・推定成相寺惣持院跡 ・大谷寺関係
丹後智恩寺 再訪  丹後智恩寺
丹後金剛院 再訪  丹後金剛院
丹後松尾寺 再訪  丹後松尾寺
2010/03/02 大和南法華寺 再訪  大和壷阪寺 三重塔、心礎、多宝塔
大和久米寺 再訪  大和久米寺多宝塔・大塔礎石
大和塔垣内廃寺      大和大窪廃寺心礎・大和塔垣内廃寺
大和大窪廃寺 再訪  大和大窪廃寺心礎・大和塔垣内廃寺
2010/02/21 大和法隆寺 再訪  大和法隆寺
大和眉間寺跡 再訪  大和眉間寺跡
大和興福寺 再訪  大和興福寺
大和龍田本宮・吉田寺 再訪  大和龍田本宮塔・大和吉田寺多宝塔
大和中宮寺跡 再訪  大和中宮寺跡
2010/02/02 深草宝塔寺 再訪  深草宝塔寺
2010/01/31 相模建長寺華厳塔小塔 2009/08/19クラフトマン氏(日本の建築 模型館)撮影・ご提供
 相模建長寺華厳塔
2010/01/19 阿波徳島寺町善学寺 ニ層堂に相輪を載せた塔堂がある。 西国諸国の日蓮宗寺院中の阿波善学寺の項を参照
2010/01/19 阿波瑞巌寺三重塔21
  同        22
  同        23
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  同        32
再訪。

図の三重塔21:瑞巌寺リーフレット より

阿波大滝山三重塔 再訪。
 阿波大滝山三重塔
阿波立善廃寺心礎・隆禅寺大日堂 再訪。
 阿波立善廃寺・隆禅寺
阿波鯖大師多宝塔11
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阿波八坂山鯖瀬大師堂(八坂寺と称する):海陽町鯖瀬:高野山真言宗。
多宝塔は般若心経塔と称する。
平成21年5月完工。平成22年5月落慶予定。総工費3億円。
近江石山寺多宝塔をモデルとする。正規の木造塔(和様を用いる)。
(但し「背面は扉と窓を省略し白壁」とする。)
大きさは不明であるが、稀に見る風格の多宝塔であろう。
もともと、鯖大師堂は行基庵(行基来錫と伝える)と称したと云う。享保2年(1717)真言宗より曹洞宗に転宗、昭和16年再び真言宗に転宗し、鯖大師教会と称し、四国霊場の番外となる。現在は弘法大師を本尊とし、行基菩薩は脇侍と云う。「阿波名所図会」では「行基さん」とある。
要するに四国遍路が隆盛になり、(時流の流れに乗るというような意味で)行基が弘法大師に替わったという見解があり、 事情は恐らくそのとおりであろうと思われる。
 図      1     図      2「X」氏ご提供画像
眉山平和記念塔 眉山山上にある。昭和33年建立。但し山下から撮影したのみ。
2010/01/10 大和信貴山 再訪。 大和信貴山  信貴山多宝塔、信貴山三重小塔、玉蔵院三重塔、成福院二重塔
大和吉田寺多宝塔 再訪。
大和吉田寺多宝塔11       同        12       同        13
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大和法隆寺 再訪。  大和法隆寺  五重塔、羅漢堂、その他堂宇など
2009/12/26 讃岐八栗寺多宝塔1
  同        2
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  同        9
昭和58年建立。昭和59年落慶。典型的な和様建築。檜造。総高57尺(17.3m)。本尊金剛界大日如来坐像。
 八栗寺伽藍と五剣山:右本堂、左聖天堂
 八栗寺本堂
○「伸和建設資料集」より:伸和建設の手になる 。
  八栗寺多宝塔   八栗寺多宝塔立面 かなりの大型塔、一辺18尺(石山寺は一辺19尺2寸)。
讃岐始覚寺跡全景
讃岐始覚寺堂宇・心礎
讃岐始覚寺心礎1
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  同       7
  同       8
讃岐始覚寺本尊
○「新編香川叢書 考古篇」:現観音院始覚寺前にあり、心礎の上にコンクリート製ミニ五重塔を置く。心礎は花崗岩で、171×125.5cm×55cm、中央に径76cmの円形造出があり(前後の文面から総合的に判断して造出ではなくて掘り込み穴 の誤りであろう)、その中央に径37.4cm深さ8.2cmの孔を穿つ。但し掘り込み穴はごく浅く不明確である。
心礎は明治時代の開墾で抜取り、一時は庭石に転用されていたと伝える。
○「日本の木造塔跡」:本堂の前に心礎があり、その上に四足の石塔を置く。そのほか多くの石などを並べて、心礎はやっと見える有様である。
心礎の大きさは1.2m×1.06m×52cmを測る。(他の資料と大きさに随分隔たりがあるが、この理由は不明)中央に径39cm、深さ7,9cmの孔がある。石田論文では孔の周囲に径67cm、深さ0.6cmの円穴があるとするが、この刳り込みは極めて浅く、殆ど磨耗している。単なる窪みである可能性がある。
○「三木町ホームページ」より(要約):奈良末期あるいは平安初頭に創建と推定され、寺域は現在の始覚寺とその南西部一帯と推定される。この始覚寺跡は周囲より一段と高く、付近の平野部全域を 見ることが出来る立地である。
現始覚寺本堂の前に、塔の心礎が残る(花崗岩製。大きさは幅171cmm、奥行き125cm、高さ55cmを測り、中央部に直径80cmと38cmの二重の穴がある)。
○「幻の塔を求めて西東」:2重円孔式。大きさは171×128.5×55cm、径76×6cmと径37.4×8.2cmの円孔を持つ。
○本尊観音菩薩立像は平安末期の作とされる。現始覚寺は江戸期に観音堂が再興され、明治以降に現在のように整備されると云う。
なお、心礎7及び心礎8には2段円穴の内の大円穴の残欠が写る。単なる窪みではなく円穴であろう。であるならば、この心礎は現状よりひと回り大きいものであったであろう。
讃岐下司廃寺塔跡1
  同        2
  同        3
  同     礎石1
  同     礎石2
  同     石階?
○「新編香川叢書 考古篇」:発掘調査は未実施であるが、吉光神社・清光神社付近で古瓦を出土する。吉光神社クスの根元は土壇と思われ、8m×11mの方形で高さは2mという。土壇上に5個の(並びは不規則)礎石があり、上面は平に削平されている。心礎は確認されていないが、規模などから塔跡土壇の可能性があるとされる。 出土する瓦は奈良前期のものと推定される。
○心礎の発見、礎石配列の復元、九輪残欠などの出土を見ず、現段階では塔跡とは断定できないであろう。塔跡とする唯一の根拠は土壇規模などであろうが、やや薄弱。
写真:石階?は吉光神社(今土壇上に粗末な祠があるが、これであろうと推定)の参拝石階と思われ、これは近世・近年のものと推定される。
讃岐石清尾八幡宮 再訪。
  讃岐石清尾八幡宮
2009/12/24 沼隈神勝寺多宝塔11
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  同       本堂
  同       仏殿
  同    仏殿内部
  同     開山堂
  同       山門

参考:「神勝寺略史」天応山神勝寺、2009改版
多宝塔:昭和61年落慶。近江石山寺多宝塔を写す。本格的木造塔。一辺586cm<実測値・中央間210、両脇間188cm>。(高さ16m)。屋根銅板葺。相輪はオリジナル。本尊大日如来。
設計は中村昌生(京都工芸繊維大)、棟梁野田善満。
神勝寺:昭和40年常石造船社長神原秀夫氏建立。臨済宗建仁寺派。諸堂宇は以下を構える。
無明院(仏殿・・RCの大建築、本堂、寺務所、鐘楼門、護摩堂、保久里堂、鐘楼、鎮守天満宮、納骨堂などを具備)、永照院(大和小泉慈光院書院を写す)、非仏堂、開山堂(高野山国宝不動堂を写す)、一日座禅堂(RCの大建築なるも今は放置され廃墟と化す)、山上鐘楼(放置・荒廃)、山門(京都南禅寺山門を模す、柱は鋼管) 、薬師堂、観音堂、西念坊などの堂宇、元大方丈の神勝寺温泉、弥勒之里美術館などを併設。更にテーマパーク、各種スポーツ施設なども併設。意識したかどうかは不明なるも、生口島耕三寺に似る。
(寺院の威容は耕三寺に及ばざるも、娯楽施設の併設で商業主義では耕三寺に勝る)
但し、当地で行われると思われる常石造船研修会・行事などは外部から見ると異様であるが事実は如何であろうか。
神勝寺多宝塔1     神勝寺多宝塔2「X」氏ご提供画像(2002/02月撮影)

備後廃和光寺心礎1
  同        2
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  同        4
  同        5
  同        6
備後田邊寺景・門前
○「日本の木造塔跡」:古の和光寺心礎は現在の田辺寺本堂の横にある。田辺寺(真言宗)は奈良期創建の和光寺跡に毛利家武将田辺氏が再興した寺という。心礎の大きさは106×87×70cmで、径38×20cmの円孔を持つ。なお、2条の放射状排水溝を刻むも実効性があるかどうかは疑問。
○「幻の塔を求めて西東」心礎は一重円孔式、大きさは115×95×70cm、径38×21cmの円孔を穿つ、奈良期もしくは平安期。
○出土瓦から創建は奈良期もしくは平安期とされる。昭和9、10年の調査で和光寺門前から九輪片・風鐸片数点が出土と云う。心礎は残存するも、他の礎石が原位置で残存せず、伽藍配置は全く不明。
和光寺は養老5年(721)行基創建と伝える。永禄5年(1562)津之郷串山城主田辺光吉、和光寺を再興、田辺寺と称する。天正15年(1587)豊臣秀吉(島津征伐途中)、当寺で足利義昭と対面すと云う。

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