大 和 大 窪 廃 寺 心 礎 ・ 大 和 塔 垣 内 廃 寺

大和大窪廃寺心礎・大和塔垣内廃寺・大和國源寺・大和四条廃寺(仮称)・神武陵

大和大窪寺と大和塔垣内廃寺と国源寺

2009/08/28追加:
○「うつされた塔心礎:大窪寺と山本寺」伊藤敬太郎(「瓦衣千年:森郁夫先生還暦記念論文集」1999 所収) より
現在神武陵内に取り込まれている塔垣内周囲は寺内(大字大久保)にある国源寺の故地とされてきた。
 ※「多武峰略記」では国源寺は天延2年(974)畝傍山北東で草創されたとする。
 ※江戸期の伝承では国源寺は塔垣内付近にあり、いつの間にか寺内に移ると云う。
しかし寺内では心礎・瓦が発掘され、ここにはかっては古代寺院があったと推定される。
寺内には現在心礎が残るが、この心礎はこの地で発掘され、ほぼ原位置にある。
要するに、この心礎を有した寺院が大窪寺であった可能性が高い。
 一方塔垣内は現在、実在したはずもない神武の陵として古代に治定されたと思われる「神武陵」であると断定・強弁される領域に取り込まれ一般には立入り出来ない場所となる。
しかし、塔垣内には諸文献によって土壇・礎石の存在が知られ(今も現存すると云う ・・後述)、瓦の出土と相まって此処にも古代寺院があったことは確実視される。
 (この塔垣内廃寺が国源寺であったのかどうかは未解決の課題である)
注:字塔垣内とは現在の神武陵(ミサンザイ)のすぐ東側に所在し、寺内(大窪・大字大久保)とはその東南にあり現在国源寺がある場所である。

2025/10/06追加:
※各々の位置関係は次の図を参照:
 「伝四条遺跡内出土遺物についての考察」岡田雅彦・木村理恵<考古學論攷 第48号、2025年3月 所収> より
  採集位置図・部分: 本論考に掲載の「採集位置図」から関係する部分を切り取ったものである。
               下に掲載の神武陵を巡る関係遺構図と同じものである。
 「うつされた塔心礎:大窪寺と山本寺」伊藤敬太郎(「瓦衣千年:森郁夫先生還暦記念論文集」1999 所収) より
  塔垣内付近図:下に掲載のものと同じものである。
 
2025/10/16追加:
○「橿原市史」上巻 より
◇大窪寺(大窪廃寺)
 今大久保町の国源寺境内に残っている心礎が大窪寺の遺構と信じられて、ここに大窪寺があったとされる。
「大和志」には廃大窪寺として「大窪村、塔跡尚有観音堂。又有地名東金堂西金堂」としている。この智には後世、平安期に国水脈な門徒寺が建立され、寺域が重なっているが、国源寺は多少西寄りにあったので、東金堂・西金堂は大窪寺に関するものであろう。
◇国源寺
 「和州旧跡幽考」: 此跡たづねえず。
 国源寺は・・天延2年・・・検校泰善法師、高市郡畝傍山の東北を過行しに、・・・翁(と邂逅し、翁の説くところによって)此所にして法華を講じけり。・・貞元2年当国の守護藤原国光此瑞相をつたへ聞て、方丈並びに堂を建て、観音菩薩をすへおかれしなり。(「多武峰略記」)
 「大和志」
 大久保村故址尚有観音堂又有地名東金堂西金堂・・・・
 「大和名所圖會」
 大久保村に址あり。観音堂これなり。また地名に東金堂・西金堂あり。
 「卯花日記」
 ・・(大久保)村の北に大窪廃寺の跡とて東金堂・西金堂の礎石あり。芝生の中に大石7ツ8ツ見たり。又この所に細き河のあるに、この河中も大石あまた見たり。村の北西の隅に森あり、祠廟あろ、神武天皇をいつき祭り奉る也と村老のいへり。村の中南の方に国源寺の跡あり。今小堂一宇観世音まします。・・・・大窪寺の事は大和旧跡事考に多武峰略記を引き云、・・・されば天延2年建立とするハたがへり。・・・・
 「西国名所圖會」
 大窪寺の廃趾 大久保村にあり。今観音堂のある地その跡なりといふ。金堂塔の垣内などといへる字の田あり。・・・・

2025/10/20追加:
〇「『多武峰略記』静胤本所載の国源寺縁起について」白井伊佐牟<「皇學館論叢」33巻5号、2000所収> より
 要旨:
 建久8年(1197)多武峰検校静胤の撰述という「多武峰略記」に「國源寺縁起」が引かれている。
國源寺は天延2年(974)多武峰検校泰善が神武天皇の霊告をうけたのに始まるとし、國源寺を神武天皇の陵寺とするのは通説となっている。
 しかし、「多武峰略記」静胤本は、建久8年に多武峰上法院永済が撰述した「多武峰略記」を、寛文8年に改編し静胤に仮託したもので、「國源寺縁起」は永済本には見えず、後世に偽作されたとみてよい。
國源寺の草創は鎌倉初期以降であり、史料上の初見は嘉吉元年(1441)の「興福寺官務牒疏」である。
 はじめに:
 大久保町に所在する国源寺は、建久8年(1197)に、多武峯検校静胤により撰述されたと云われている「多武峯略記」中に、末寺の中の一寺としてみえており、「旧記に云う」として、天延2年(974)多武峯検校泰善が神武天皇の霊告をうけたのにはじまると伝えている。
このことから、国源寺は鎌倉時代初期には存在しており、その草創を伝える旧記の内容も事実とみなし、神武天皇陵の陵寺とみる説が今や通説になっているようである。
 しかし、私見によれば、その前提となる国源寺の縁起を「多武峯略記」所載とすることに疑問があり、縁起の内容も一見事実らしくみえるが、それもあやしく思われる。
 国源寺に関する史料とその解説:
 まずはじめに掲げるべきは「多武峯略記」である。
「多武峯略記」就中静胤本を諸先学はすべて建久八年静胤撰述として論を進められている。
だが、「多武峯略記」にはよく知られている静胤本の他に、もう一本永済本があることは殆ど触れられない。
 ※「多武峯略記」は多武峰妙楽寺蔵、いずれも2巻で、建久8年撰となっているが、静胤本は添削の筆が施され、脱漏も多い。
  永済本は記事がきわめて詳細で史料的価値が高いとされる。
最も重要なことは、「国源寺縁起」に関していえば、それは静胤本所載であることは云わずもがなであるが、永済本には「国源寺縁起」の記載無いという事実である。
「国源寺縁起」は、原本たる建久8年撰述の永済本には無く、永済本を寛文8年に改編し静胤に仮託した静胤本にみえていることは、国源寺の草創を根本から考え直さねばならないことになる。
静胤本所載の「国源寺縁起」をもとにして、国源寺が鎌倉時代初期には存在したとは云えなくなったのである。
 勿論、「国源寺縁起」は「旧記云」とあるので、古伝である可能性があり、永済本にみえないことだけで所伝そのものが否定されるものではない。
 「国源寺縁起」の全容は以下の通りである。
 「旧記云、国源寺、寺在高市郡畝傍山東北、天延二年三月十一日、早朝、検校泰善過彼地、途中有人、戴頭白髪、身著茅簔、告泰善曰、師於此地、為国家栄福講一乗矣、泰善問云、公姓名、亦住処何乎、答曰、我是人皇第一国主也、常住此処、言訖不見、故泰善毎年三月十一日、到彼地講法華、貞元二年当国守藤原国光、伝聞此事、建方丈堂、安観音像、永為当寺末寺矣、」
 さて、断片的ではあるが泰善開基を伝えるのが、次の「興福寺官務牒疏」の記事である。
  「国源寺。在高市郡。坊舎八宇。
   円融院御宇。天延二年三月。美(ママ)善上人開基。」
 奥書に、「興福寺末派寺社。為官務最勝院家所被告領知(中略)嘉吉元年次辛酉四月十六日再被拾定置之」とある。
では、果たして「興福寺官務牒疏」にあげられた寺社の草創譚が果たして史実そのものかどうか検討する。
 ※白井伊佐牟は、大和圓成寺、崇敬寺(安倍寺)、南法華寺(坪阪寺)、光明山寺(東大寺三論の別所)、白川寺金色院の例で検討を為す。
  その結果、白井伊佐牟は「興福寺官務牒疏」の草創譚は真偽入り乱れた当時行われた俗説と見てよいだろうと結論づける。
即ち、国源寺の初見史料である「興福寺官務牒疏」の記事は断片的ではあるが、天延2年3月泰善開基は、「国源寺縁起」の年月まで同じであり、当時「国源寺縁起」は既に(偽作が)行なわれていたことをうかがわしめる。
国源寺の草創開基の通説はこの「国源寺縁起」の説を敷衍している。
 「国源寺縁起」の信憑性
 建久八年当時既に多武峯寺を離れ他寺の末寺になっていた仏龍寺、三輪寺、藤井寺や「右寺基跡既阻、田薗皆没」した加佐寺、「今者不能知行」の寂静院まであげている永済が、多武峯寺にとって重要なる泰善や藤原国光によって事実国源寺が草創されていたなら、当然永済本に記したはずである。
 それが無いということは、「国源寺縁起」は永済本成立以後に造作された偽縁起であり、草創者の泰善やそれを援けた藤原国光は云うに及ばず、草創年月なども全く信じられず、国源寺自体建久八年当時存在しなかったという答が導かれる。
「国源寺縁起」を造作したのは、恐らく浄土院の関係者であろう。
 ※浄土院は泰善によって建立され、後世に平等院・南院・多羅倶院と共に、山内の四大勢力の―つであった。
 ところで、「國源寺縁起」では國源寺は「永為当寺(多武峰)末寺矣」とし、「興福寺官務牒疏」奥書では興福寺末とする。
どちらの末寺なのか、これについて検討する。
 多武峰の末寺を記した史料は天明3年(1783)の「本末并分限改書」だけ知られるが、そこには境内の末寺として紫蓋寺・絹蓋寺・興法寺・聖林寺を、寺外のそれとして広瀬郡百済寺、高市郡今井常福寺をあげているが、国源寺の寺名はない。國源寺と多武峰の末寺とする確実な史料はないようである。
 ※但し、國源寺が多武峰末寺であったことを傍証する事象があることを付近の大久保神社に求めるが、その論証は煩瑣なので割愛する。
 「大和国越智家譜」の所伝
 國源寺の創建について、異本が存在する。
 それは「大和國越智家譜」で、そこでは越智家一族である「光慧坊により文治3年(1187)中興開基と伝えている。
が、この家譜の信頼度は低く信用することはできない」と結論づける。(詳細は省略)
  大和国越智家系図:
   光恵坊法眼 高市郡雲飛寺四十九院畦傍山国源寺中興開基、文治三年八月国源寺ヲ建立ス。
   文蒙神武天皇霊勅故也。毎年御国忌ヲ勤メ、国源寺ノ境内ニ無遮荒墳ヲ鎮メ祭ル。
 終わりに
 以上のように「国源寺縁起」を検討した結果、次の二点が明らかになる。
 国源寺の創建を貞元二年(977)とするのは事実ではなく、いくらはやくとも鎌倉時代初期以降であり、確実な史料上の初見は嘉吉元年(1441)撰述の「興福寺官務牒疏」をまたなければならない。当寺の草創が神武天皇の霊告によるとの所伝は、「興福寺官務牒疏」の断片的記述からではあるが、15世紀中頃には行なわれていたことをうかがわせる。
  ※「興福寺官務牒疏」は江戸末期の椿井政隆による偽書であることは近年広く知られることとなっているが、
  そうであるならば「興福寺官務牒疏」を確実な初出とすることはできないはずである。
  また「15世紀中頃には行なわれていたことをうかがわせる」ということも否定されるべきこはずである。
 上記の結論から、国源寺を神武天皇陵の陵寺とみる説や、神武天皇陵の中核を国源寺の方丈堂の基壇とみる説などは、根本から考え直さなければならないだろう。殊に後者は、国源寺は創建当初は神武天皇陵の傍らにあったが、後にその時期は不明ながら、洪水のために現地へ移ったとの説に負うところが大きい。
 最後に
 蒲生君平に始まる國源寺移転説
 「蒲生君平にはじまる国源寺移転説は根拠のない説であることを検証し、大窪寺とも無関係である」と論証する。
 即ち、
移転説をはじめに唱えたのは蒲生君平であり、その著「山陵志」に次のように述る。(大意)
 「神武田は「ミササギ」の訛で、是山陵なり。かつてはこの地に神武ノ祠廟があったと相伝する。後に大窪村に遷す。大窪寺の跡に國源寺あり。また、國源寺はかつて神武田の地より遷すと伝ふ。多武峰記に拠る。・・・神武祠廟は國源寺中のあり、神武田の傍らに塔垣内の字があり、是当時の塔廟の跡なり。」と。
 神武天皇陵の所在について神武田(ここにあった小円丘と芝地が、文久3年〈1863〉に神武天皇陵に治定され、大規模な改修整備がなされ、今日みられる姿になる)、塚山(現緩靖天皇陵)、丸山の三説がならび行なわれていた。
君平は塚山説であったが、「国源寺縁起」の所伝と、神武田が一名ミサンザイ即ちミササギ(山陵)と呼ばれていたことを無視できなかったのであろう、神武田はかつて「神武祠廟」の存したところと考えたのである。この祠廟が大久保神社を指していることは、「大和志」に神武天皇陵に関連し「祠廟在大窪村」とあるのが参考になる。
君平が国源寺の元の位置を神武田の労に想定したのは、「塔垣内」をはじめ南塔垣内・西金堂・東金堂などのかつて寺院の存在を示す字名と礎石があったことによるのであろう。しかし、その出土遺物は後述の如く白鳳時代のものが多く、この遺跡は大窪寺跡とみてよい。
 しかし、古代天皇陵に祠廟のある例は見あたらず、この仮説自体無理があるし、大久保神社は国源寺の鎮守であり、祭神は天一神であった。
移転の原因となった洪水にしても、実際には付近には小河川しかなく、祠廟や堂宇が流される事態は考えられない。そもそも神武田には祠廟は存在しなかったのである。
 国源寺の北から北西にかけて東金堂・西金堂・南塔垣内・塔垣内などかつて寺院が存在したことを示す字名が遺存し、これらの字に近世末頃までかなりの礎石があったことが、各種の著述に記されている。
 神武田の東に隣接した塔垣内、その南の南塔垣内は、神武田が神武天皇陵に治定されたのに伴い、御陵の兆域に編入されたので、そのあたりにあった礎石は御陵の入口にあつめられたらしく、現在その所在は不明であるが、これらの礎石と付近から出土の瓦類の写真や実測図が残されている。
 (注:保井芳太郎「大和上代寺院史」(昭和7年11月、復刻日本考古学文献集成U期4、昭和60年6月)「大窪寺」
  石田茂作「飛鳥時代寺院址の研究」、「同」図版(昭和11年11月、仝52年5月復刻)「大窪寺」)
この寺院跡を「日本書紀」天武天皇朱鳥元年(386)8月己丑(21日)条に、檜隈寺や軽寺と共に三十年を限り百戸の食封を賜った「大窪寺」とみる説と、既述のように国源寺の元の寺地とみる二説があった。(國源寺はありえない)
 大窪寺については、寺史は殆ど不明であるが、「日本書紀」の記事、出土瓦や礎石からその創建は白鳳時代が有力視されている。
延久2年(1070)の「興福寺大和国雑役免坪付帳」にのせる西諸郡の高市郡雲飛庄の中に、大窪寺の寺田が4個所あり、そのうちの廿七条一里丗三坪は、神武田の東に隣接する塔垣内に相当する。
 なお、幕末頃の見聞として以下が知られる。
 北浦定政「神武天皇御陵考」に「字塔之垣内字南塔之垣内 此所に堂塔の礎石5あり」、
 谷森善臣「谷森種察手録」に「御陵の東方の田畑の字を塔の垣内といひその中間に塔の土壇とみえて小高き荒地又その北傍に塔の礎石五六許残たり是等は国源寺の遺跡にて」とある。
 岡本桃里作「大窪寺付近図」に南塔垣内の北はしに土壇が描かれていることからも、塔は塔垣内ではなく南塔垣内にあったとみられる。
 津川長道の「卯花日記」には「村の北に大窪廃寺の跡とて東金堂、西金堂の礎石あり。芝生の中に大石七ツ八ツ見たり」とある。
國源寺はその実態がよく分からないのに、虚像が一人歩きしている。この現状は改められるべき状況であろう。


大和大窪廃寺心礎

 大窪寺については、「天武紀」に朱鳥元年「檜隈寺軽寺大窪寺各封戸百戸限三〇年」あるが、これが唯一の確実な記録とされる。
「法空伝」「太子伝見分記」では太子建立46ヶ寺の一つと云う。
興福寺鎮守「春日明神文書」にはこの寺の名前が見えるので鎌倉末期までは存続したといわれる。
現国源寺境内(大久保町)付近が大窪寺跡と伝える。
江戸後期には東西金堂の礎石が残っていたとされる(江戸末期「卯花日記」)。現在は僅かに心礎のみが残存する。
現在心礎の置かれている南付近から発見された大きな土坑を心礎抜取穴とすれば、心礎は大体原位置と推定される。
(発掘によって寺院遺構が未発見であり、また大きな土坑が心礎抜取穴であると云う確証はないと云う見解もある)
創建は出土瓦から飛鳥期とも云うし、奈良前期とも云う。伽藍配置は南から塔・金堂(現国源寺本堂)・講堂(本堂背後の字寺畑)が並ぶ四天王寺式との想定もあるが、現下では寺院遺構が未発見のため、伽藍配置は不明とするしかない。
なお、心礎の発掘は幸運にも大正元年であるため、橿原神宮等の造営に転用されずに残ったものとも思われる。
2025/10/06追加:
○「飛鳥時代寺院址の研究」石田茂作、聖徳太子奉賛会、昭和11年(復刻版:第一書房、昭和52年) より
■大窪寺
字大久保の国源寺と称する小寺がある。尼寺である。方3間の観音堂と庫裡と鎮守三社権現祠と弁天祠が全てで、齢80余の老尼が仏供をしている有様である。その老尼の言によれば、30年程前、付近は一面の松林であり、若干の礎石も残っていた。(明治12年の地籍圖には礎石の記入あり)
 大窪寺址位置図     大窪寺址付近地籍圖:明治12年
聞くところに依ると、明治22年橿原神宮造営のため、心礎が掘り出され搬出されたが、某大官が中止させ、埋め戻されたという。
搬出から埋め戻しまでそんなに時間の経過は無かったので、おそらく、搬出した地の戻され埋め戻されたと推測しても良いだろう。
ABC地は古瓦の出土地点である。
D地は現国源寺の堂宇で周囲より1尺5寸ほど高く、推測が許されるなら、金堂址か。
E地は、現状は竹藪であるが、若干高くなっていて、明治12年の地籍圖には礎石の記入もある。ここも推測許されるならば、講堂址か。
かくして、歩測での推測が許されるならば、心礎・推定金堂跡・推定講堂跡が南北に並び、あるいは四天王寺式伽藍配置であったと推測されるのである。
 大窪寺址歩測圖
2002/04/29撮影:
 大窪廃寺心礎1     大窪廃寺心礎2     大窪廃寺心礎3     大窪廃寺心礎4
○「日本の木造塔跡」:
心礎は2.27×1.34mの茄子形をし、穴の径54cm、深さ6cmの円孔があり、その中央に径13cm、深さ3cmの蓋受孔と一辺8cm、深さ7cmの方形舎利孔を持つ。
2007/01/06追加:
○「日本建築史要」(付図) より:
 大和大窪廃寺心礎図
2007/02/07追加:
○「大和の古塔」
 :大和大窪寺心礎実測図
2008/01/08撮影:
 大和大窪廃寺心礎11    大和大窪廃寺心礎12    大和大窪廃寺心礎13    大和大窪廃寺心礎14
 大和大窪廃寺心礎15    大和大窪廃寺心礎16    大和大窪廃寺心礎17    大和大窪廃寺心礎18
 大和大窪廃寺心礎19
2010/03/02撮影:
 大和国源寺堂宇     大和大窪廃寺心礎21
2022/05/22撮影:
 大窪廃寺心礎22     大窪廃寺心礎23     大窪廃寺心礎24     大窪廃寺心礎25
 大窪廃寺堂宇      大窪廃寺堂宇西・雑祠     大窪廃寺堂宇西・石類
 大窪廃寺堂宇・国源寺     大和国源寺


2022/11/10追加:
 →藤原宮跡模型:平城宮での姿が再現されている。


2009/08/27追加:
「うつされた塔心礎:大窪寺と山本寺」伊藤敬太郎(「瓦衣千年:森郁夫先生還暦記念論文集」1999 所収) より
◆心礎の発見:大正元年に掘り出されたと云う。
 【大正元年10月22日発行大阪朝日新聞第9面】
『大伽藍石の発掘   奈良県高市郡白橿村大字大久保の村民は同村共有の字寺内の宅地より二千貫余の伽藍石を発掘し20日八木警察署に届出たり、楕円形にて横8尺5寸(2.55m)高さ3尺5寸(1.05m)径4寸5分(1.35m)中央に径2尺(60cm)の穴を穿ちあり推古時代のものならんというあり 今井電報』
 ※ほぼ同文の記事が10月22日奈良新聞にも掲載と云う。
新聞記事にはっきりと、現在国源寺境内前に置かれている「心礎」は大正元年「寺内」から出土したものとして扱われているので 、心礎が「寺内」から出土したことは事実であろう。
◆大正8年の1枚の心礎写真
 【大正8年5月28日大阪朝日新聞大和版】 に心礎の写る1枚の写真とその解説記事が掲載される。
『宮殿下のみそなわせられし問題の礎石
   町村制を楯に「運搬罷りならぬ」郡長と骨董屋の珍問答
 高市郡白橿村大字大久保の古刹国源寺は貞元の昔多武峰の泰善が神武天皇の霊勅を受けたりと称し畝傍山陵の辺にて毎年法華経を講ずるより国司藤原国光感じて方丈の堂を建てたるが濫腸にて中古再建の事ありしも其後荒廃し僅に残礎を山陵兆域内に見るのみなるが其名は伝えて山陵を距る東南三町ばかりのところに小さき寺となりて今尚現存しおれり此の小さき寺即ち後の国源寺付近に区の共有山林あり数段歩ばかりの裸林なりしを数年前開墾して畑地となしたるがその際丈け一丈余り高さ三四尺の一大礎石を掘りあて露出せしまま打ちすてありしを今春二百円足らずにて奈良の骨董屋に売却し運搬中図らずもある宮殿下の御肌に触れて問題となり今尚山陵の南端大久保川と称する小溝の橋の挾に転がしたるまま打ち捨てあるが聞く所に依れば本年三月中旬のこと、宮殿下には神武御陵、橿原神宮御参拝の御事ありしが其際現在の所にて多くの人夫が大石を運搬し路を塞ぎ遮りたるより不審に思召しけん随従の木田川知事に御下問ありたるが知事も金森郡長も共に礎石のことを知らざりし折から付近の町村長伺候しおりてようやく事の始終を知り得たるが此時史蹟保存の議や出でたりけん間もなく八木警察署より礎石運搬は罷りならずと道せられ運搬夫等は石を現場に捨て置きたるまま奈良に引揚げたる・・・(以下強欲な骨董屋と高市郡役所の官吏とのやり取りがかなり長く続くも省略)・・・・』
 ※宮殿下とは北白川大妃宮富子女王(北白川宮妃富子)で、3月13日橿原神宮と神武天皇陵を参拝。
 ※奈良の骨董屋とは杉本鉄次郎(杉鉄と通称?)で、政治運動で名を売るというも不詳。
 ※なお記事後段の骨董屋と官吏とのやり取りの中で「大正4年頃、この石は国鉄畝傍駅に橿原神宮の石標を立てる台石にする計画であったが郡長が止めた」と云う話が出てくる。<幸いにして、 この心礎は事なきを得たと云うことである。>

・この記事に関係する1枚の写真 :

大正8年撮影塔心礎写真
下図拡大図

塔垣内付近図

【大正8年5月28日大阪朝日新聞大和版】にも写真は掲載と思われるも、
この掲載写真は「辻本正教氏」所蔵のものと云う。
大正8年・9年洞村を撮影とある。田植直後と思われる田圃が写るので5月末の撮影として大きな矛盾はないであろう。

写っている心礎は上記新聞記事および心礎の形状などから、現在国源寺にある「大窪廃寺」心礎に間違いはない。
背景は畝傍山、その前の村落はかの洞村、心礎脇を走る道は国鉄畝傍駅に続く旧道(今は廃道)、後の橋は旧桜川(大久保川)に架かるものである。

以上の状況から、この写真に写る心礎の位置は今ある寺内の国源寺境内ではない。
この写真に写る心礎の位置は
塔垣内付近図に示す位置である。
撮影方向は逆三角形で示した位置であろう。

 結局、この心礎は大正元年字「寺内」で掘り出され、大正4年畝傍駅設置の橿原神宮石碑の台石候補とされるもそれを逃れ、大正8年骨董屋に売却され「寺内」から搬出され、その途中で あったが、「史蹟保存の観点?」から中止を強制される。
この放置場所から判断して、心礎は寺内から「旧道」を使い国鉄畝傍駅に搬入しようと意図したものと思われる。
その後の経緯は不明ながら、この搬出途中で中止・放置された心礎は元の寺内に戻され、現在の位置に置かれ現在に至ると思われる。
 なお、昭和3年生国魂神社に1枚の絵馬が奉納されると云う。この絵馬には上記大正8年の写真を基に移転前洞村全景と心礎が詳細に描かれる。橋に親柱には大宮橋および桜川と記されると云う。
 以上のような心礎の変遷であれば、この写真は搬出途中でたまたま塔垣内廃寺近くに放置されたものが写されただけで、塔垣内廃寺とは何の関係もないのは明らかであろう。
2009/08/27追加:「大和上代寺院志」保井芳太郎、大和史学会、1932 より
 心柱礎石:大窪寺塔心礎実測図:「中の孔は実は方形をなして居ることを注意」とする。
  (孔は方形と云うも、実測図の孔が円に描かれるのは、良く分からない。)
   →実際の心礎の形状は、上に掲載の「2008/01/08撮影:大和大窪廃寺心礎11〜19」の写真を参照


大和塔垣内廃寺

神武天皇陵考」伊藤敬太郎(「文化財と近代日本」鈴木良/高木博志/編、山川出版社、2002 所収) より
 2025/10/06加筆修正:2025/10/21加筆修正:
はじめに
 ・「歴代御陵めぐ里」会田安吉編、大修堂、1940(昭和15年)では
 「御陵内、勤番所の東側、手洗水の北辺に・・・国源寺の僅かな礎石を残存している」とあり、この礎石は戦前見ることが出来た。
昭和15年、皇紀2600年による大拡張工事によって、御陵の奥深くに隠れてしまった。
 現「神武陵」が幕末に神武田と呼ばれる田圃の中に僅かに残る小丘を整備して作り上げたことは既に多くの人の知るところとなっている。
「神武陵」研究の現状
まず今までの神武陵研究は次の通りである。
 本著「神武天皇陵考」に掲載の関係図」:神武陵を巡る関係遺構図
 ○「飛鳥時代寺院址の研究 圖版」石田茂作、聖徳太子奉賛会、昭和11年(復刻版:第一書房、昭和52年) より
  塔垣内廃寺礎石:神武陵入口 
 ・春成秀爾:
 3ツの候補地の内、丸山は自然の尾根で古墳ではないこと、塚山(現綏靖陵)は特別に古い古墳では無いこと、神武田(現神武陵)は國源寺の基壇であるとした。但し、神武田は律令制の神武陵があった可能性を示した。
 ・今尾文昭:
 塚山を江戸期の絵図から、円墳で径25m、高5m程の規模と復元、さらに周辺での発掘調査の結果、藤原京造営のために破壊された古墳群(5〜6世紀の9基の円墳・方墳・前方後方墳が確認されている)を確認、残された塚山こそが藤原京期(律令制)の神武陵の候補とした。また神武田は埴輪・須恵器が出土していることから四条ミサンザイ古墳とした。
 ・著者(伊藤敬太郎本人):
 神武田の東隣の塔垣内・南塔垣内には「山本寺」(飛鳥池遺蹟から出土した木簡に記載される)とよばれた白鳳寺院を想定した。また「日本書記」の大窪寺は現國源寺のある字寺内であるとした。
 ・白井伊佐牟
 (「『多武峰略記』静胤本所載の国源寺縁起について」<「皇學館論叢」33巻5号、2000所収>)において
従来「神武陵」研究に使用されてきた「国源寺縁起」(国源寺は天延2年(974)、多武峰検校泰善が開基という)を載せる静胤本「多武峰略記」は寛文8年(1668)に改編されたもので、より原型を保つ建久8年(1197)撰述の永済本「多武峰略記」には「国源寺縁起」は存在しないことを明らかにした。
そして国源寺の確実な史料は「興福寺官務牒疏」(嘉吉元年)であるとし、創建は13〜15世紀の間とする。また「興福寺官務牒疏」には「国源寺縁起」にある天延2年(974)開基とするから、この頃には国源寺が創建されたとする伝承があったとする。
 ※「興福寺官務牒疏」については<下注>を参照。
その他、蒲生君平以来、現在地にある国源寺は神武田から洪水によって移転してきたとの説は根拠がないとして否定、南塔垣内には大窪寺が、国源寺は創建以来現在地にあるとした。
 <下注>「興福寺官務牒疏」
 本文書は明らかに椿井政隆による偽文書、つまり江戸後期の椿井政隆によって創作された中世を装う文書であるから、国源寺の確実な史料となりえないと指摘しなければならない。
白井伊佐牟は何の疑いもなく「興福寺官務牒疏」を「国源寺の確実な史料」とするが、これは根底から誤っていると言わざるを得ない。
ただ、「興福寺官務牒疏」にある國源寺は天延2年開基との根拠は、椿井とて国学の流れを汲む豊富な知識を持つ文人であるから、「多武峰略記」などを見てそれに準拠したのかも知れないとは言えるだろう。
しかし、いずれにしても、「興福寺官務牒疏」を「確実な史料」とする訳にはいかないということは強調しておく必要がある。
  →「興福寺官務牒疏」など椿井文書については、拙ページ「椿井文書・興福寺官務牒疏」を参照
 ・山田邦和:
 神武田の土檀は6世紀前半の古墳とし、東の塔垣内廃寺は神武陵の陵寺である可能性を示す。國源寺がその陵寺であり、國源寺は塔垣内から現在の地(大久保)に移転したとする。
現「神武陵」と塔垣内廃寺
 近世神武陵の探索が政治的課題として浮上し、候補地の一つであり神武陵とされた神武田の記録が多く残る。
 ・「神武天皇御陵考」(北浦定政・江戸後期か):「字塔垣内字南塔垣内此処に堂塔の柱石五あり」
 ・「山陵志」(谷森善臣、幕末か):「御陵の東の方の田畑の字を塔の垣内といい、その中間に塔の土壇と見えて小高き荒地、またその北傍に塔の礎石の五六許残たり」
  ※塔垣内には土壇・礎石の存在が早くから知られていた。
 ・明治13年「御陵図」:明治13年「御陵図」:塔跡とあり、 そこに7個の礎石が図示される。玉垣に囲まれる。礎石は現位置を保つかどうかは不明、礎石配列は規則性を保持するように見える。
 ・大正13年「神武天皇畝傍山北東陵図」:神武天皇畝傍山北東陵図:11個の礎石が表される。これは、配列と礎石種類からみて、陵の拡張で付近の礎石が集められ適当に置かれたものと推測される。なお廻りの礎石 実測図は下図(神武陵内礎石実測図) のそれを貼付したもの。
 ・「歴代御陵めぐ里」(倉田安吉編、大修堂、昭和15年):「(神武天皇陵)勤番所の東側、手水鉢北辺に・・・国源寺の僅かな礎石を残存している。」とあると云う。
 ・「飛鳥時代寺院址の研究」石田茂作: 神武陵内礎石   神武陵内礎石実測図
 この礎石は昭和15年まで自由に見ることが出来たと云う。しかし昭和15年(皇紀2600年などと云う荒唐無稽な事業)の大拡張工事によって現在は見ることが出来ない。( 礎石とか遺構とかは国民共有の文化財であり、宮内庁なのかどうかは知らないが、要するに国の機関の私有物ではない。)
 そもそも、現神武天皇陵とは幕末に神武田と呼ばれた田圃の中の小土壇を整備して造成したものであり、江戸期にはこの神武田と丸山(畝傍山の北東山腹)と塚山(現綏靖陵・神武田の北方)が有力地とされ、その決定の強引さは良く知られているところであろう。勿論神武陵が存在するということと神武天皇が実在するということは全く別のことであることは云うまでもない。
 2000年1月12日著者(伊藤敬太郎)は宮内庁書陵部職員立ち合いの上、塔跡の見学をする。(本著の注16)
塔跡は「陵図」の場所に現存する。土檀に北側は倒木で蓋われ、図面上は11個であるが、確認できた礎石は6個のみであった。
石田茂作の報告した塔垣内廃寺礎石神武陵内礎石実測図のA・a)は完全に露呈しているが、残り5個は草木の根に蓋われ形状の確認が困難であった。しかし、実測図の6個の礎石の内3個は確認する。
 ・著者(伊藤敬太郎)は飛鳥池遺跡出土の木簡(天武朝頃の寺名を列挙したもの)や標記の神武陵内礎石などから神武田東隣の字南塔垣内は「山本寺」と呼ばれた白鳳寺院跡であること、この寺院は渡来系氏族特有の瓦の出土があり、陵寺ではなくて渡来系氏族の氏寺であること、 日本書紀にある大窪寺は現国源寺のある地(字寺内)に創建され、伝承にある神武田からの移転ではないことを明らかにした。なお、出土瓦から創建は7世紀後半であり、鎌倉・室町初頭まで寺院は存続 したと推定されると結論づける。
 ・以上のように、現神武陵域には古代白鳳寺院があったことは確実であろう。
その伽藍配置は南塔垣内に塔基壇があり、その東に西今度・東今度の地名があり、”今度”は金堂の転訛とも思われ、そうであるならば、法隆寺式伽藍配置 が想定できる可能性がある。以上のような本格的な伽藍であれば、この廃寺は藤原京の中でかなりの面積を占地し、だとするとのこの廃寺の西すぐに隣接した神武田に「神武陵」は存在しないと考えるのが妥当であろう。 (神武陵は神武田とは別の場所にあったのであろう。)
 江戸期地割復元図:神武田および南塔垣内には基本的には条理制の区割の中で、近世に於いても畑地を残す。集落或は寺院などの存在で水田化が進まなかったなどの理由が考えられる。
 なお国源寺は神武陵の陵寺との伝承があり、中世、塔垣内廃寺の跡地に建立された可能性が高いとも云われる。
そしてこの国源寺は何時の頃か不明ではあるが、塔垣内廃寺の跡地から付近(寺内)の大窪廃寺跡に移転したものと思われる。
 ※国源寺は、もとは神武田にあったが、明治初年御陵修築に際し現在の場所に移転との記事が散見される。
しかし、伝承のように神武田から現在地に移転した可能性は高いが、明治初年の移転ではない。
なぜならば、江戸期の神武田の様子を示す諸資料は多くあるが、これらには神武田に国源寺の存在を記したものはなく、移転したとするとかなり以前のこと といわざるを得ない。
2009/08/27追加:
「大和上代寺院志」保井芳太郎、大和史学会、1932 より(大窪寺の項 より)
 大窪寺付近図:岡本桃里作、幕末、神武田・塔垣内・南塔垣内・西金堂・東金堂などの地割や大久保村・国源寺の位置や南塔垣内の土壇・神武田の墳丘?などの様子を知ることができる。 文久3年(1863)修築前の図。
 国源寺塔阯(南塔垣内塔土壇):中央の大穴は心礎抜取穴?、周囲に礎石(石)・礎石抜取穴と思われる小穴がある。
 「神武皇陵考」(北浦定政):「・・・堂塔の名地名に残りたれば国源寺中にありし神武天皇御廟堂の跡なる事明也」と云う。
 「山陵考」:「御陵の東方の田畑の字を塔の垣内といひその中間に塔の土壇と見えて小高き荒地、又その北傍に塔の礎石五六許残たり」
2009/08/27追加:
「うつされた塔心礎:大窪寺と山本寺」伊藤敬太郎(「瓦衣千年:森郁夫先生還暦記念論文集」1999 所収) より
◆塔垣内廃寺の様子
 上掲載、「大和上代寺院志」保井芳太郎の論文に「大窪寺付近図」「国源寺塔阯(南塔垣内塔土壇)」があり、土壇と礎石の残存が描かれる。
 聖蹟図誌・神武陵:「聖蹟図誌」平塚瓢斎 、土坑と思われる池とそれを取り巻く4個の礎石と思われる石が描かれる。
  ※以上のように、文久3年の陵墓改築前までは、塔垣内には土壇と数個の礎石の残存があった。
   この土壇・礎石は、塔跡であり塔礎石である可能性が高いと思われる。
 神武綏靖両天皇御陵図:文久修陵後の塔跡、塔跡は陵内に取り込まれたが、ほぼ幕末の状態は維持されたと思われる。
  土壇と思われる遺構は保存され、そこには礎石と思われる4個の石がある。
 神武天皇・・御陵御祝詞:奈良県立奈良図書館蔵、明治10年
  ※神武陵とされる領域には塔跡との明示がある。
  「昭和52年度陵墓関係調査概要」(「書陵部研究紀要 30号」1979 107頁所収) では
   :「斉館車寄広場に北接して白鳳時代建立の大窪廃寺塔址礎石が現存」とあると云う。
  しかし、眉間寺跡(聖武陵)と同じくここは神武陵と捏造しているので立ち入りが出来ず、確認ができない。
  戦後60数年経過しても、日本と云う国は依然として戦前の天皇教と云う国家神道からフリーではない状況にあるということが
  端的に現れている一例なのであろう。
◆塔垣内廃寺と山本寺
以上、寺内(現国源寺)と塔垣内には礎石の残存や瓦の出土を見、7世紀に溯る古代寺院があったことは確実であろう。
1998年頃飛鳥池遺跡から、古代寺院を列挙した木簡が出土したが、その中で山本(寺)と云う確認されていない寺名がある。
この山本寺を地名から推定すると、古代まで溯れる地名「山本」は大和では現橿原市山本町しかない。しかしこの山本町には古代寺院址は確認されていないが、 山本町に隣接して塔垣内廃寺があり、この廃寺は山本寺である可能性が考えられる。
なお、詳細な論考については
 「飛鳥池出土の寺名木簡について」伊藤敬太等、竹内亮(「南都仏教 79号」南都佛教研究会 2000 所収)を参照。
 ※記載寺院名:軽寺、波若寺(般若寺)、瀆尻寺(池尻寺)、日置寺、春日部、矢口、石上寺、立部、山本、平君(平群)、龍門、吉野

2010/10/29追加:
〇「宮内庁書陵部陵墓地形図集成」宮内庁書陵部陵墓課、学生社、1999 より
 大正13年測量神武陵:部分図、「神武天皇畝傍山東北陵之図」
 昭和63年測量神武陵1:部分図、上方中央付近に塔跡、右下に国源寺が示される、大久保公民館前庭に心礎がある。
 昭和63年測量神武陵2:部分図、上記の大正13年測量図と同じ塔跡・礎石配列が示されるが、昭和63年段階に於いても、大正13年時点と全く同一の礎石が残されていたのであろうか、それとも実際の現地確認は別にして、単純に大正13年の図を転用しただけなのであろうかなどは不明。神武陵は戦前・戦後も聖域が有り続けたであろうから、塔跡・礎石は現在もそのまま残る可能性が大きいであろう。

2010/03/06追加:2010/03/02の現況:
大和塔垣内廃寺現況

大和塔垣内廃寺空撮:神武陵(ミサンザイ):左図拡大図

神武陵と称する大真面目な虚構の拝所 の東に「宮内庁畝傍陵墓監区」の事務所がある。
さらに事務所東に南北の一棟の建物(以下南北棟と云う)がある。
事務所とその南北棟との間は20〜30mほどの「空間」があるが、その空間には簡単な可動式の木柵が置かれる。
奇妙なことに、その木柵の南は自由に立ち入りは可能であるが、北側は立入は許可できないと云う。(事務所の見解、その理由は明確にはしない。)
さらに、南北棟の北およそ50mほどのところに生垣に囲まれた木立の区画(生垣区画)がある。
この生垣区画が塔垣内廃寺の塔跡であり、礎石が置かれていると推定される区画である。
(空撮写真では黄色○の付近が塔跡の想定地である。なお○の中央部分に何らかの建物か工作物かの施設があると思われるが、それは不詳。)
 ※空撮写真左上の掘割区画がミサンザイと称した遺構で現在は神武陵と虚称する。
 ※右下には現国源寺の堂宇と大窪廃寺心礎がある。
   2010/03/02撮影:上に掲載
    大和国源寺堂宇     大和大窪廃寺心礎21

以下は事務所及び南北棟からたまたま出てきた職員と思われる人物から聞き取りしたものである。
・礎石があるのは生垣区画の林の中である。
・生垣区画には礎石は今も現存する。但し今はかなり腐葉土などに覆われていて、確認は難しいかも分からない。しかし礎石が残るのは確かである。
 ※複数人が口を揃えて即答するので、今も残存するのは確かであろうと思われる。
・木柵の北の生垣区画への立入は認めていない。
・昭和15年まで礎石を自由に見ることができたと云うが、それは、当時は参道が今の形ではなく、東からの参道であったからであろうか。
 大和塔垣内廃寺1:木柵から、生垣区画を撮影、左が神武陵の石柵、右は南北棟建物、中央の生垣区画の木立中が塔垣内廃寺塔跡。
 大和塔垣内廃寺2:生垣区画の木立中に塔垣内廃寺塔跡(礎石)がある。
 ※中身のないものを飾り立て、中身が立派に存在すると見せかけるのを「インチキ」と云うならば、この神武陵や橿原神宮とは国家レベルのインチキであろう。

 大和橿原神宮社殿:神武陵の南にある。
運び込まれたとされる大官大寺の礎石などの遺物を探すにも、本殿の区画には立ち入りできないので、転用礎石などの実態は全く分からない。
社殿は壮大さを演出するも、ここには醜悪と云う以外に云い様のない社殿が並ぶ。
 国家神道は戦前教派神道の一つである大本教の社殿をダイナマイトで徹底破壊した。その理由は国家神道(天皇教)が、大本教の教義を異端として断罪した ことによるものである。
この橿原神宮などと云う代物の醜悪さは、以上のような国家神道の一つ象徴として、いまだに存在していることに起因するのであろう。



大和四条廃寺(仮称)

 明確な遺構や史料が確認された訳ではないが、出土遺物から寺院の存在が推定される。
現・綏靖陵(江戸期の神武陵)東側に想定される。この廃寺を四条廃寺と仮称する。

2025/10/20追加:
〇「伝四条遺跡内出土遺物についての考察」岡田雅彦・木村理恵<考古學論攷 第48号、2025年3月 所収> より

      関係図:神武陵を巡る関係遺構図
要旨
 橿原考古学研究所に土器や瓦などの寄贈があった。
採集された地点は、綏靖陵の東側と伝えられている。
周辺の遺跡から出土した瓦の様相と異なること、四条遺跡 38 次調査の調査成果から、綏靖陵の東付近で採集されたことはほぼ間違いないと考える。
今までこの地点では寺院と考えられる痕跡がなかったが、今回新たにこの地点を四条廃寺と仮称した。
 四条廃寺は7世紀後半に創建され、採集された瓦から7世紀末〜8世紀初頭には、興福寺または藤原氏と関係のある寺院であった可能性がある。
また、綏靖陵は律令期の神武陵との考えがあることや、江戸時代には神武陵の候補の一つであったことから、四条廃寺は神武陵に対する陵寺であった可能性がある。
1.はじめに
 本資料は令和4年7月に、個人より当研究所に寄贈された資料で、瓦、土器類、石製品、石器など遺物コンテナ約5箱分あった。
寄贈者の先々代が奈良県橿原市の綏靖陵の東側、医大グラウンドの南西に畑を所有しており、そこでかつて採集されたと伝えられるもので、表採
場所は四条遺跡内に該当する。

U.土器・石製品
 (※割愛する)

V.瓦
(1)軒丸瓦
図3−1〜4 川原寺式複弁蓮華文軒丸瓦である。川原寺出土川原寺 601C と同笵である可能性が高い2。
5 久米寺式複弁蓮華文軒丸瓦 6271A である。
6・7 藤原宮式複弁蓮華文 6273B である。
8・9 藤原宮式複弁蓮華文 6275B である。
10 興福寺式複弁蓮華文 6301A の可能性が高い。
11 単弁蓮華文軒丸瓦である。川原寺 701と同笵、豊浦寺、奥山廃寺、橘寺と同笵の可能性がある。平安期か。
図4−1 複弁蓮華文軒丸瓦である。平安期か。
2 複弁蓮華文軒丸瓦である。平安期か。
 がある。
 ※寄贈された軒丸瓦:掲載する図版の通りである。
(2)軒平瓦
 ※図鑑の掲載は省略するが、
久米寺式幾何学文軒平瓦 6561A、薬師寺式偏向唐草文軒平瓦 6641E、藤原宮式偏向唐草文軒平瓦 6642C、藤原宮式偏向唐草文軒平瓦 6645A、。
連珠文軒平瓦がある。
(4)鬼瓦
  (※割愛する)
(5)瓦塔
 ※寄贈された瓦塔

W.採集瓦の評価について
 今回報告した瓦は、綏靖陵の東側で採集されたと伝わるものである。
但し、この地点は今まで寺院があった痕跡は確認されはいない。
 しかしながら、採集されたと伝わる地点の周辺には、瓦が出土する遺跡が確認されている。
まずは、これらの瓦の様相と採集された瓦の様相を比較することで、採集地と伝わる地点が綏靖陵の東で齟齬がないかを確認する。
確認する遺跡は、大窪寺跡、橿原遺跡、藤原京跡、小泉堂遺跡、四条遺跡 19 次である。
 小結
 小泉堂遺跡、四条遺跡 19 次、藤原京右京五条六・七坪出土の瓦には、今回報告した瓦と同笵の瓦は1点も出土していない。
橿原遺跡は広範囲で発掘調査がされているが、出土地点が分かるものが少ない。出土地点が確実に分かるものは豊浦寺式と川原寺式であるが、今回報告した瓦には豊浦寺式は確認できず、川原寺式も異笵である。以上のことから、今回報告した瓦にこれらの地区で出土したものは含まれない可能性が高い。
 ところが、大窪寺跡では図8−5・7・10、図9−4・5・12 が同笵の可能性がある。
しかし、大窪寺跡として採集された地点をみていくと、大窪寺跡周辺だけではなく大窪寺跡の北側に位置する小字「西金堂」「東金堂」や神武陵
の東側も含まれており、広範囲で採集されたものを大窪寺跡採集瓦として報告されていることがわかる。
そのため、今回報告した瓦が採集された地点も、大窪寺跡採集瓦として報告されている可能性は否定できない。
ただし、これらが1つの寺院に伴う瓦とするには、あまりにも寺域が広すぎる。そこで大窪寺跡として採集及び出土した瓦の中で、採集地点や出土地点がわかるものの分布をみていくと、大窪寺跡と神武陵の東に集中する。
また、これらの地点には心礎や礎石が確認できたり、寺院に関係する小字が確認できたりと、寺院があった痕跡が
多く確認できる(神武陵を巡る関係遺構図)。

これについては、今までの大窪寺跡についての研究でもすでに指摘されてきたことである。
ただし、この寺院のどちらかがいわゆる「大窪寺」と呼ばれたのかについては、まだ確定しているとはいえないと考えるため、今回仮に、大窪寺跡を「大久保廃寺」、神武陵東を「塔垣内廃寺」とする。
 このように大窪寺跡として瓦が採集された範囲は広いが、寺院として現状考えられるのは大久保廃寺と塔垣内廃寺であり、今回報告した瓦が採集された地点はこれらから離れた位置にあり、これらと同一の寺院とするには寺域が広すぎる。
 以上のことから、今回報告した瓦が採集された地点には大久保廃寺と塔垣内廃寺とは別の寺院があった可能性が高いといえる。本稿ではこれを「四条廃寺」と仮称する。
では、四条廃寺はどのような寺院であったのであろうか。

(2)四条廃寺の造営氏族
 採集瓦から四条廃寺の造営氏族について検討してみたい。
四条廃寺の創建瓦は川原寺式と考えられる。しかし、飛鳥には川原寺式瓦は多く分布し、瓦が共通するだけで川原寺と関係がある寺院とまでいうことは難しい。
これら以外に特徴的な瓦として興福寺式軒丸瓦 6301A がある。
これは、興福寺創建期に興福寺のために作笵され生産された瓦である。
この瓦は笵が摩耗して文様が不鮮明になっても興福寺で使用され続けた瓦である。さらに、興福寺でも使用された久米寺式軒丸瓦 6271A や軒平瓦
6561A、藤原宮式だが興福寺でも使用されている 6645Aなども採集されており、瓦から7世紀末〜8世紀初頭に興福寺と関わりがあった可能性がある。
(4)四条廃寺と陵寺
 四条廃寺の一番の特徴は、綏靖陵に隣接することである。付近一帯は藤原京の造営で、古墳は綏靖陵を除き削平される。
綏靖陵は律令期の神武陵と考えれていた可能性があり、だとすれば、四条廃寺は”神武陵”の東隣であり、陵寺であった可能性がある。
眉間寺が聖武陵の対する陵寺だとすれば、それと同じ関係性があったのかも知れない。
  ※律令清神武陵に陵寺が付属していたという根拠がない、また聖武陵に対する陵寺が眉間寺という形態が存在下bの可動かは不明であろう。
 ただ、神武陵には陵寺として大窪寺跡に移転してきた國源寺の存在が知られる。
まず、國源寺については建久8年(1197)の「多武峯略記(静胤撰)」にある「國源寺縁起」、文治3年(1187)大和国越智家系図(天明7年(1787)書写)、嘉吉元年(1441)の「興福寺官務牒疏」などの”古記録”の信憑性がほぼ崩壊し、そうすると、国源寺に関する史料は全て17世紀以降のものとなり、本当に存在したのか疑わしい。
  大和国越智家系図:
   光恵坊法眼 高市郡雲飛寺四十九院畦傍山国源寺中興開基、文治三年八月国源寺ヲ建立ス。<br>
   文蒙神武天皇霊勅故也。毎年御国忌ヲ勤メ、国源寺ノ境内ニ無遮荒墳ヲ鎮メ祭ル。
しかも、確実な位置を示すものはなく、僅かに史料としては疑わしい「「多武峯略記」に畝傍山の東北と記載されるだけにすぎない。
また、17世紀以降の史料にしても、すでに廃寺となっていた大窪寺と混同している史料も多い。
X.まとめ
  今回報告した土器や瓦・石製品は、採集品という性格上、資料としての扱いは慎重になるべきではあるが、四条遺跡38次調査成果から採集地点に齟齬がないことから、この地点で採集されたと考えられる。
そのため、今まで知られていなかった寺院が綏靖陵の東にあった可能性は高いと言える。
この寺院には寺名が記載された史料がなく、寺院名を明らかにできないため四条廃寺と仮称した。

神武天皇陵
以下に留意
1.神武天皇などという人物は実在しない。
2.但し、実在しない神武天皇陵は、律令制の神武陵として、古代(壬申の乱以前)に治定されたと思われるも、律令制の衰退とともに、律令制神武陵の存在位置も不明となる。
3.幕末、勤王思想の高揚とともに、強引の再度治定されたのが現在の「神武陵」である。

2025/10/16追加:
○「天皇陵の謎」矢澤高太郎、文春文庫831、2011 より
 初代神武から9代開化までの天皇は現在の歴史学・考古学では実在が完全に否定されている。
だが、現実には豪壮な陵墓がその数だけ存在している。それは幕末、徳川幕府が対朝廷政策の一環として新造整備したものが今に踏襲されているからである。
ただ、神武(カムヤマトイワレヒコ)陵に限れば、既に7世紀後半の壬申の乱の時には現在の場所付近に築造されていたと思われるが、
この神武陵も律令制の衰退とともに衰退し、祭祀も絶え、伝承すら曖昧となる。墳丘が山林や畠と化し、人々の記憶から消えていった。
その様な訳で、古代大和政権で治定された神武陵の所在は不明となる。
現在の神武陵が現在の場所に構築されたのは、幕末の文久年中のことで、僅か160年に満たない「最近」のことでしかない。それは宇都宮藩主の戸田忠恕の建白による幕府の対朝廷工作の事業の一つとして為されたものである。
 神武陵の幕末及びそれに至るまでの治定の経緯はかなり複雑であるので、割愛するが、幕末の修陵で、有力候補地3ヶ所のうち、畝傍山の東北600mのミサンザイ<神武田(ジブタ)という水田>に決定される。
 さて、この地に治定した評価(批判)は様々あるが、実は現在の治定で良いのではないかとする説もある。
それは、春成秀爾(国立歴史民俗博物館名誉教授)氏の見解である。
 それは、どういう根拠に基ずくものなのか。
まず「多武峰略記」(僧静胤撰、建久8年/1197成立)に国主の藤原国光が国源寺の方丈の堂を建て観音像を祀ったとする記事がある。
この國源寺は神武陵の「陵寺」であったと考えられる。
次いで「文久帝陵図」(岡本桃里筆、ミサンザイと隣のツボネガサを合わせて場所を描画)には「神武田」が周囲の土地より90cm高く描かれる。
この広さが「東西1町、南北2町」と「延喜式」で兆域とされた広さに一致する。
これは、まさに国光建立の國源寺の寺基址と考えられる。
故に、ミサンザイ<神武田>は神武陵のあった地点と考えて良い と。
 では、古代に神武陵が造られたのは何時か。
「古事記」天武天皇元年の条に「神武陵」が登場する。壬申の乱(672年)に、大海士皇子(天武天皇)の軍はカムヤマトイワレヒコのスメラミコトの陵(ミササギ)に馬ならびに兵器(ツワモノ)を奉ったという記事である。実際に神武陵は存在していたと考えられる。
 ついでながら、前段では、両軍(大海士皇子と大友皇子)の戦闘は「箸墓」のもとで戦うともある。初期大和政権の大陵と考えられる「箸墓」と初代スメラミコトとする「神武陵」まで登場する意味は大きな意味があるが、それは割愛する。
 また、神武という架空の天皇が作り出されたのは26代継體の時代ではないかという。さらに、神武陵が造られたのは天武以前、欣明のころではないかと推論する。
 以上、春成秀爾氏の説であるが、これに関係して、茂木雅博(茨城大名誉教授)氏は次のようにいう。
結論だけ記せば、発掘調査された四条1号墳が継體のとき造られた神武陵であろう。そしてそれ以降、政治的な時期に、2回ほど造られた可能性があるのではないか、即ち現綏靖陵の塚山古墳や近年古墳の可能性の出てきた「神武田」も継體以降に新たに造られた神武陵の可能性があると。


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