甲  斐  大  蔵  経  寺

甲斐大蔵経寺:建物遺構及び中心礎石

甲斐大蔵経寺建物遺構の概要

三重塔跡と称する遺構及び心礎と称する中心礎石が残る。
しかし、遺構の規模(通常の層塔とするには大きすぎる)・礎石配置(通常の層塔の礎石配列ではない)・中心礎石の形状(心礎の孔の形状とは思われない孔を有する)などから三重塔跡とするには無理と思われる。
本遺構を三重塔跡とするのは、宝塔に一切経を納めると云う寺伝や三重塔を描く近世の絵図(貞享2年大蔵経寺寺域絵図)が残り、 これらから本遺構を三重塔跡とするものと思われる。

甲斐大蔵経寺概要

◆「日本社寺大観 寺院篇」:松本山と号す。行基の創建と伝える。往古、三重塔ありて唐本一切経を蔵せしが、元禄年中焼失す。
◆「甲斐叢記:巻の8」:甲斐松本山弥勒実相院大蔵寺:
智積院末。行基開山。感道上人中興。「・・寺号は古昔聖武天皇大蔵経を寄附したまふによれり。山上に三重の宝塔を建てて、経巻を納むとあり、その塔、元禄元年に焼け失せぬ。・・・」
挿絵はなし。大蔵経寺。宝塔跡は現境内から5町余の所にあると云う。
◆寺伝では以下のように伝える。
養老6年(722)行基の創建。
応安3年(1370)足利義満、甲斐守護武田信成に命じ諸堂を造営し、三層(五層とも)の宝塔を建て大蔵経を奉納、天台から真言へ転宗と云う。
近世には徳川家の祈願所となり、朱印29石を受ける。
元禄年中および文化年中の大火で灰燼に帰す。現伽藍はその後の再興。
◆Web情報:
「山梨県埋蔵文化財センター」の「中世寺院分布調査」の平成17年度計画で、「笛吹市大蔵経寺境内の塔跡にて現地視察」が実施され、その現地調査写真の掲載がある。
  ※大蔵経寺境内の塔跡

大蔵経寺三重塔跡調査報告

2015/01/26追加:
◆「山梨県内 中世寺院分布調査報告書 山梨県埋蔵文化財センター調査報告書 第260 集」2009 より
大蔵経寺の項を要約すれば以下の通り。
  (大蔵経寺境内西にある遺構については三重塔跡という見解に立つ。)
 大蔵経寺は、大蔵経寺山の南麓に位置する。
また、平等川は大蔵経寺山の山麓沿いに北から西へ流下するが、大蔵経寺はこの平等川の右岸に立地する。
 「寺記」によれば大蔵経寺は、行基によって養老8年(722)に創建されるといい、その当時は青獅子山松本寺と称する。
応安3年(1370) 足利義満の庶子という観道が中興し、義満の命によって甲斐守護・武田信成が伽藍を整え、三重の塔を建立して大蔵経(一切経)を納める。
そして、これを契機に松本山大蔵経寺と改号する(「甲斐国社記・寺記」)。
「甲斐国志」によれば元禄元年(1688)三重塔が焼失し、一切経そのものは不明となる。
しかし「甲州文庫」の中に大蔵経寺経典2巻が含まれ、この奥書から貞和5年(1349)陵辺庄大蔵経寺の三層塔に納められていた経典と判明する。
 石和町教育委員会(現笛吹市教育委員会)によって行われた発掘調査では、本堂の西側で礎石を確認する。
大蔵経寺には4枚の境内図が所在する。
最も古いものは貞享2年(1685)に描かれた地境に関わる絵図である。
 ◎貞享2年大蔵経寺寺域絵図
そこには寺域とともに本堂及び庫裏の西側に三重の塔が描かれて、礎石確認地点が絵図に描かれる塔の位置と一致することから、江戸時代前半期には三重の塔が立地していたものと推測される。
 ※4枚の内の1枚であろうが、享保6年大蔵経寺寺域絵図が掲載される。しかし殆ど解読が不能である。
しかし寛政2年(1790)の「大蔵経寺領内絵図面」にはすでに塔はなく、基壇のみが描かれ「五重ノ塔アト」と記載が見られる。(未見)
塔礎石平面図

 ◎塔礎石平面図;笛吹市教委:左図拡大図1503を開くこと

調査により礎石から推測される塔の規模は、南北約12.65 m、東西約12.80 mである。

礎石は東列北側で3箇所の欠損が、
樹木の根により規模が不明であるものが北列西側及び西列南側でそれぞれ2箇所ずつ見られるが、
総礎石の塔で5間×5間であり、いずれも表面が扁平で幅1m前後を測る安産岩系の山崎石を用いる。

芯礎は南北約1.45m、東西約2.60m を測り同様に山崎石を用いる。

大蔵教寺三重塔跡現況

◆「X」氏2008/11/15撮影画像:
 現地説明板:中心に心礎を有し方形二重の礎石を持つ。外側は5×5間で、内側は3×3間である。各々の中央間は側面の間より50cm広く、礎石中心距離は2.5mとなる。(左記文面は、外側一辺は10.5m、内側一辺は6.5mと解釈される。)
 心礎は2.1×1.2mの大きさで、周りの礎石より35cm低く据えられる。心柱穴は方形に掘りこまれている。但し、開口部は鏨で円く抉られており、舎利容器の回収を窺わせる。(方形に掘りこまれるということであれば、大きさは不詳ながら、枘孔の類とも思われる。舎利容器の回収とは 「心礎穴」を舎利孔があったものと見做し、それが丸く鑿で抉られているため、何者かが舎利容器を回収したという意味であろう。)
江戸後期の絵図にはこの位置には三重塔が描かれるが、柱間・心礎の状況から多宝塔以外の建物であった可能性も指摘されている。(多宝塔以外の建物であったとは意味不明ながら、たとえば経蔵などの建物も想定されると云う意味であろうか。)なお礎石は強い火熱を受け表面が割れたものが多い。版築や堀込地形は明確でない。
 →確かに層塔(三重塔)跡とは断定は出来ないであろう。心礎様の大礎石も心礎かどうかは不明。中世あるいは近世の層塔であれば、心礎の無い可能性が高い。外側5間という礎石の配置も層塔であることを否定する。
あるいは天台(方形)大塔や真言の大塔であるとも考えられるが、そうだと推定する資料上の裏づけもない。結局は塔以外の例えば経蔵などの建物であったとも考えられる。
なお、江戸後期の絵図ではこの位置に三重塔が描かれるというも、三重塔は山上にあった(「甲斐叢記」)とも思われる。この塔は元禄年中に焼失し、後年の絵図の作成時、山上にあったと伝承される三重塔を礎石の残る現地に描いた可能性もあると思われる。
2008/11/15「X」氏撮影:
 甲斐大蔵経寺塔跡1     甲斐大蔵経寺塔跡心礎1     甲斐大蔵経寺塔跡心礎2

甲斐大蔵経寺建物遺構及び中心礎石の性格:2010/05/30撮影画像:

遺構概要
 ◇礎石配列及び法量は概要
... 周囲には数個の移動した礎石が散在するも、
左図は
凡そ原位置を保つと思われる礎石の配置を示した図である。

建物規模は3間×3間の身舎に、1間の廂を四方に廻らす構造と推定される。
身舎の柱間は中央間約3.2m、両脇間約2.5mを測り、廂の出は約2.0mを測る。
従って外観は方5間で一辺約12.2mの建物と推定される。

なお、礎石の大きさはおよそ1m前後の自然石で、表面は削平したものと思われる。多くは火災による損傷を受けているものと推定される。

2010/05/30撮影:
大蔵経寺遺構1:東から撮影、遺構の南側部分
大蔵経寺遺構2:東から撮影、遺構の北側部分
大蔵経寺遺構3:東から撮影、遺構の中央部分
大蔵経寺遺構4:東から撮影、遺構の南石列部分
大蔵経寺遺構5:南から撮影、遺構の東側部分
大蔵経寺礎石1
大蔵経寺礎石2

2015/01/26追加:
大蔵経寺礎石建物平面図は上述の「山梨県内 中世寺院分布調査報告書 山梨県埋蔵文化財センター調査報告書 第260 集」2009 に掲載されている。それとs_minagaが作成した上述の「大蔵経寺礎石建物平面図」を対比すれば次のようである。

おそらく、大蔵経寺「塔跡」実測図は上に掲載の「塔礎石平面図;笛吹市教委」の作図の方が正しく、s_minagaが作成した上述の「大蔵経寺礎石建物平面図」は正確性に欠けるものと思われる。これは、現地に張り付く専門家と現地に僅か数時間しか滞在しない素人との差であると思われる。

遺構の評価

以上の礎石配置と下に述べる中心礎石の形状からみて、この遺構は三重塔跡であるのだろうか。
それは以下の理由で三重塔跡ではないと断定できる。
1)身舎の1辺はおよそ8m強、身舎+庇で考えると1辺はおよそ12m強ないし13m弱の規模であり、このような巨大な三重塔が建っていたとは考えられない。
一歩譲って、外側の礎石列は無視して、8m強の規模の身舎(3間×3間)の上に三重塔が建っていたとしても、現存する薬師寺東塔や法起寺三重塔の初重平面規模より1歩抜きんでることとなり、有り得ない 初重平面規模となる。
2)通常、三重塔・五重塔の礎石は脇柱礎12個、四天柱礎4個、心礎1個の合計17個であり、通常の層塔の礎石配列ではありえない。
3)平面5間のいわゆる大塔形式の塔であった可能性も考えられるも、通常あると考えられる四天柱礎がなく、従って真言大塔ではありえない。
  (天台大塔については、後で言及する。)
4)下に掲載するが、中心礎石は塔の心礎とはおよそ思えないものである。
5)もし、本塔が中世・近代の創建でその時建立された塔であるなら、別の言い方をすれば、古代の塔もしくは古代の塔の旧軌を守って再建された塔でない限り、心礎自体が存在すること自体、この遺構が塔であることを否定するものである。

では三重塔などの層塔や真言大塔でないとすれば、この遺構に建っていた建築は一体何であろうか。
それは、中心礎石の存在も考慮すれば、輪蔵(経蔵)ではないだろうか。

 本遺構の性格について、諸資料が云うところは「三重(層)の宝塔」に「経典を納む」ということである。
つまり、本遺構の性格は、経典を納めた堂宇であるから経蔵(中心礎石が輪蔵の軸受であれば輪蔵)であることは間違いない。

ここで、現存する「経蔵」について、拙サイトに掲載する事例を示そう。
◇日光山東照大権現経蔵:
 日光山東照大権現経蔵     経蔵・本地堂・鼓楼
この経蔵は寛永12年(1635)建立、重文、桁行3間、梁間3間、宝形造り、銅瓦葺、周囲に裳階を付設。内部には八角形輪蔵がある。
一切経1456部、6325巻を納めていた。
つまり、身舎は方3間で庇(裳階)1間を付設した構造であり、大蔵経寺の経蔵の初層はこのような外観(方5間)であったと推測される。
また、日光山経蔵の一辺は12mと云い、規模も大蔵経寺経蔵遺構の大きさ(1辺13m弱)とほぼ同じである。
   →日光山東照大権現のページ の日光山神廟(日光東照大権現)の項に掲載
◇近江園城寺経蔵:
 園城寺一切経蔵    園城寺八角輪蔵1    園城寺八角輪蔵2
この経蔵は重文、室町基、3間×3間、宝形造裳階あり、桧皮葺、禅宗様を用いる。中の転蔵は公開されている。
もとは周防国清寺経蔵、慶長7年(1602)毛利輝元が移築する。

この例では方3間であるが、大蔵経寺経蔵は、云ってみれば、この建物に廂をつけた形式となる。
   →近江園城寺の ページの近江園城寺現況の項に掲載
 なお、周防国清寺には「
輪蔵の中心柱の礎石」が残ると云う。(未見)
◇池上本門寺経蔵
 
池上本門寺経蔵     池上本門寺経蔵2:天明4年(1784)建立
 方3間裳階付、宝形造、輪蔵形式、輪蔵には、天海版一切経が架蔵されていた(今は別蔵)。
 大蔵経寺経蔵も身舎は3間に庇(裳階)1間を廻らせた構造であったのであろうか。
 この経蔵の法量は未掌握であるが、かなりの大型の経蔵であり、初重一辺は大蔵経寺経蔵一辺と比較しても遜色はないと思われる。
   →池上本門寺のページの池上本門寺伽藍の項に掲載


しかしながら、上に掲載した「
貞享2年大蔵経寺寺域絵図」を見てみよう。
ここには、大蔵経寺経蔵遺構の位置に三重塔が描かれている。
絵図に描かれている以上、やはり、この位置に三重塔があったとすべきかも知れない。
しかし、本遺構はどう考えても、通常の三重塔が建っていた遺構ではない。
それでも、ここに三重塔が建っていたとすると、通常の三重塔ではない、三層堂に相輪を架した三層塔とでもいうべき経蔵が建っていたのかも知れない。そして、初層は経蔵で輪蔵形式であった。
三層塔とでもいうべき経蔵とは、その建築例がないので、具体的なイメージを示すことはできない。
強いていえば、上に示した日光山東照大権現経蔵池上本門寺経蔵2は2重(重層)であるが、さらにその上に一層を重ね、三層目屋根に相輪を載せた三層塔のような構造を想像するしかない。

参考:相輪を架した経蔵の例は高野山荒川経蔵がある。
高野山荒川経蔵
 
高野山荒川経蔵
この経蔵は古代末期の創建であるが、数次にわたる興亡を繰り返し、明治17年の再建である。
二重塔で、平面は六角であるが、相輪を架した経蔵である。
   →高野山荒川経蔵を参照。
参考:初重に裳階を付けた三重塔
◇信濃安楽寺三重塔
 
安楽寺三重塔立面図
この塔は平面八角の三重塔であり、かつ初重に裳階を付設する珍しい塔である。(国宝)勿論経蔵ではない。
大蔵経寺経蔵はあるいは初層に裳階を付けた三層塔建築で相輪を載せたものであったのかも知れない。
   →信濃安楽寺三重塔

本遺構は経蔵であると結論づけたが、
もう一つの可能性は、現存する礎石配列に注目すると、天台大塔形式であった可能性も考えられる。
初期の天台大塔は法華経を奉安する目的であったことから見て、天台大塔を模して、一切経を納める経蔵を建立した可能性も残される。
  (「初期多宝塔」 ・・・・・但し初期の天台大塔の遺構が残存しないので、その形式はよく分からない。)
しかし、天台大塔はかなり特殊な塔であり、大蔵経寺に建立されたということを積極的に示す材料も皆無であるのが現状であろう。
また、天台大塔は古代末期にはその姿を消していたと思われ、そうだとすると、大蔵経寺にその形式が伝えられ近世まで保持されていたとは、考え難いのである。
 ※天台大塔形式の参考
  ○
摂津住吉神宮寺西塔:天台大塔の唯一の遺構である。
    住吉神宮寺西塔写真
    勿論この大塔は塔建築であるから、四天柱を建てる。 → 切幡寺大塔平面図:四天柱がある。
       → 摂津住吉神宮寺のページに多数写真 を掲載

中心礎石概要
 大蔵経寺中心礎石概要図・・・断面・平面及び法量は概要
... 中心礎石の大きさは2.1×1.2mである。
礎石表面に西偏して、方形の孔を穿つ。
但し孔は正方形ではなく、上が広く・底が狭い方形孔で、上面は方約35cm、底は方約32cm、深さは約19cmを測る。
さらに底には経約32ccm・深さ約6cmの円孔を穿つ。
以上が当初の加工と推定される。
しかし現状、開口部は荒っぽく鏨で円く抉られる。
おそらく、これは後世の仕業と思われる。(この目的は不明)

もし、この礎石が心礎だとすれば、この方形の孔はその大きさから枘孔と考えられるが、心礎で方形の枘孔を持つ礎石は未だ例を見ない。
勿論、舎利孔が方形である例は多少残存するも、これは枘孔もしくは柱穴の底に穿つのを通例とする。
要するに、この「孔」の細工から見て、この中心礎石が心礎である可能性ははぼ無いであろう。
また、仮に塔が建立されていたとしても、この塔の創建は古代である確証が必要であろう。なぜなら枘孔等を備える心礎の上に塔を建立するのはほぼ古代に限られるからである。

○大蔵経寺中心礎石:2010/05/30撮影:----------

2010/05/30撮影:
大蔵経寺中心礎石1
大蔵経寺中心礎石2
大蔵経寺中心礎石3
大蔵経寺中心礎石4
:上図拡大図
大蔵経寺中心礎石5
大蔵経寺中心礎石6

この中心礎石はいわゆる層塔の心礎石でないことは、まず確実であるが、
しかし、この中心礎石の孔の形状を鑑みると輪蔵の軸受となるような形状とは思えない。
孔の上方にある、上が広く・底が狭い方形孔に、何か輪蔵の軸受となるような付属品を嵌め、軸受としたのであろうか。
この場合、孔の下部にある浅い円孔の意味は全くなくなる。
何れにしても、この中心礎石の孔の形状は何を語るのか、良く分からないのが正直なところである。

●若干の輪蔵礎石
◇八幡宇佐宮(宇佐弥勒寺)
 東塔跡経蔵礎石1     東塔跡経蔵礎石2
宇佐弥勒寺は古代の創建され東西に三重塔を備える宇佐神宮寺であった。
東西塔はいつしか退転し、東塔跡は応永の造営で経蔵が建立されるも、現在は経蔵の礎石のみが残る。
   → 八幡宇佐宮/宇佐弥勒寺

大崎八幡龍宝寺
 龍宝寺法宝蔵礎石
法宝蔵礎石と標す標柱とともに1個の礎石が現存する。
大きさ及び形状は一見「塔心礎」に似ている。法宝蔵礎石とは不明であるが、経蔵(輪蔵)の回転軸柱などの礎石とも思われる。
   → 陸奥大崎八幡龍宝寺
◇美濃平蔵寺輪蔵礎石
   → 美濃平蔵寺の心礎
◇周防国清寺;
慶長7年(1602)毛利輝元が国清寺経蔵を近江園城寺に移築するが、周防国清寺には「輪蔵の中心柱の礎石」が残ると云う。(未見)
 ※国清寺輪蔵中心礎石について、未見のため、他のWebサイトから転載する。
   国清寺輪蔵中心礎石1     国清寺輪蔵中心礎石2     国清寺輪蔵中心礎石3

●大蔵経寺西にある遺構の再評価

2012年次の笛吹市教委の報告書がある。
ここでは大蔵経寺西にある遺構は「三重塔跡」という見解を否定し、経蔵跡とする見解が示される。

笛吹市文化財調査報告書 第26集「大蔵経寺前遺跡・寺の前古煩群」笛吹市教育委員会ほか、2012 より(抜粋)
第2節 歴史的環境
 大蔵経寺前遺跡は、神奈備形の大蔵経寺山(御室山)の南面に位置する。山麓南麓には向かって右側に大蔵経寺、左側に物部神社(十社明神)があり、その南側の平地に大蔵経寺前遺跡、寺の前古墳群がある。
 松本山大蔵経寺は、『甲斐国志』に次のようにある。
新義真言宗檀林七箇寺ノー・・・三層塔迹 飛騨工匠ノ造建スル所山上五町余二在り塔中二大蔵経並二唐本一切経ヲ置ク
元禄元辰六月七日延焼ス 輛勒像一駆黄金仏ナリ塔迹礎石ノアル処ヲ輛勒平卜云元禄十六年癸未二月五日土中石医中二獲タリ・・・

 山中の輛勒平に大蔵経等を納めた三重塔礎石があるという記述であるが、大蔵経寺山中では現在そうした遺構は確認できない。
しかし大蔵経寺収蔵庫蔵の「笈形火釜」を描いた絵図(古絵図A 享保6年:1721)には山中に「輛勒堂」という地名および礎石の絵があり、山上から現在地へ移転したという伝承は根強い。
 その他、寺の西側に三重塔を描く古絵図(古絵図B 年代不詳)、「五重塔ノアト」と記した「大蔵寺領内絵図面」(古絵図C 寛政3年:1791)があり、山中の塔跡とは別に境内に塔があつたと考えられてきたが、近年の墓地整備に伴い境内の西側墓地の一角に建物礎石群が明らかとなり、塔跡として保存されている。
外側5間×5間、内側3間×3間の礎石配置の中央に心礎といわれる孔の開いた長方形の礎石を配した建物跡である。
中央の心礎が周囲の礎石よりも低いこと、中心礎石が軸受け状の構造を呈していること、中世の塔であれば通常心礎を持たないことから、塔ではなく、大蔵経を納めた経蔵で、大津市園城寺の一切経蔵のように中央に入面の回転式書架を設けた輸蔵(転輪蔵)ではなかったかと考えておく。
 寺の西側に墓地を挟んで並列する十社明神は、式内社物部神社に比定するのが一般的で、『甲斐国志』に次のようにある。
・・・物部氏ノ祖十神ヲ祀ル物部神社是ナリ往古ハ御室山ノ山頂二鎮座アリシヲ後今ノ地二遷スト云り」と記し、大蔵経寺と同じく下山伝承をもつ。
大蔵経寺山については東に張り出した尾根を「御室山」(みむろやま)といい、山麓東側に東面して建つ山梨岡神社の旧社地はやはり山中にあったといわれる。山梨岡神社は本殿が室町末建立の国指定重文で、飛騨匠の建築と伝えられる。

※文中「古絵図A 享保6年」とは「享保6年大蔵経寺寺域絵図」と思われるも、当絵図はほぼ判読不能で、確証はない。
※文中「古絵図B 年代不詳」とは「寺の西側に三重塔を描く」というので「貞享2年大蔵経寺寺域絵図」であろうか。
※文中「古絵図C 寛政3年」は未見。


2008/11/28作成:2015/01/26更新:ホームページ日本の塔婆