大和法隆寺五重塔 大和若草伽藍心礎 大和富貴寺塔残欠(大和法隆寺塔堂)

大和法隆寺五重塔 大和若草伽藍心礎 大和富貴寺塔残欠(大和法隆寺塔堂)

大和法隆寺五重塔

五重塔は金堂等とともに世界最古の木造建造物とされる。
 (五重塔は和銅4年<708>建立とされる。)
他の南都諸大寺(元興寺・大安寺・西大寺・東大寺・興福寺・薬師寺等)が興亡を繰返しまた退転して行った中で、法隆寺には今なお数多くの古伽藍が伝えられる。
この意味で、他の諸大寺の現状は見る影もない惨状を呈するが、法隆寺のみは今なお質量ともに多数の古建築を擁し、古の姿を留める。
 諸大寺の衰微を近世の例でいえば、大和興福寺は明治維新に際し二門跡(大乗院、一乗院)・四院家(修南院、喜多院、松林院、東北院)・成身院以下32ヶ学侶をはじめ全山が興福寺を打ち捨て春日大社の神官になったと 云う。そのため一時興福寺は廃寺同様となり、幾多の什宝が売却・焼却・棄却されたと云う。法隆寺も明治維新に際し相当荒廃したとも伝えるが、興福寺の無残さに比すれば、軽微というべきであろう。 蓋し当寺の見識が什宝を守ったということなのであろう。
 但し、近年の法隆寺にも多少残念な点はある。即ち、法隆寺は寺院と云いながら、一方では、他の著名寺院と同じように、寺院とはかけ離れた商業施設化した側面があることは残念なことである。
さらに、個人的な希望をいえば、旧富貴寺塔残欠(三重塔初層)及び若草伽藍心礎は、申込による公開というような措置をとって頂けたらと思う。
 ※「権威」ある専門家でもない、コネもない一般人は全く寄せつけない態度は改めて欲しいと思う。

大和名所圖會 寛政3年(1791)刊より:法隆寺五重塔(部分図)

大和法隆寺五重塔法量:
 基壇下檀一辺45尺8寸5分、高さ1尺2寸、上檀一辺41尺2寸5分、高さ4尺7寸
 初重裳階全5間35尺9寸、中央間6尺9寸、端2間各7尺2寸5分、初重全3間21尺1寸6分8厘、中央間8尺8寸2分
 二重全3間18尺5寸5分5厘、中央間7尺9寸3分8厘、両脇間5尺2寸9分2厘
 三重全3間15尺8寸7分5厘、中央間7尺5分6厘、両脇間4尺4寸1分
 四重全3間13尺2寸3分、中央間6尺1寸7分4厘、両脇間3尺5寸2分8厘
 五重全2間10尺5寸8分4厘、各間5尺2寸9分2厘、相輪長31尺9寸4分、全高107尺1寸1分

法隆寺発行ルーフレット
(1970〜80年年代か)より
 大和法隆寺五重塔

2001/02/22撮影
大和法隆寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6

2002/7/14撮影
大和法隆寺五重塔1:左図拡大図
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9

2010/01/10撮影
大和法隆寺五重塔31
大和法隆寺五重塔32

 
2010/07/16追加:
大和法隆寺五重塔39
斑鳩町・同町観光協会ルーフレット

○2007/02/07追加:「大和の古塔」
中世には
保元3年(1158)頃塔修理があった。(「法隆寺別当記」)、元禄9年に取替えた伏鉢に「保元3年・・」の刻銘がある。
嘉禎3年(1237)塔下石檀を始めて造る。建長4年(1252)三重目に落雷・心柱を焼く。弘長の頃(1261-)にも落雷。
弘安6年(1283)塔修理、慶長9年豊臣秀頼の修理。五重目解体、各重に支柱を入れる。
元禄9年(1696)桂昌院の寄附による根本的な修理、宝永の地震で伏鉢露盤破損、寛延3年(1750)修理、寛政9年(1797)修理。
天保4年(1833)全重屋根葺き替え、安政元年(1854)地震、文久2年(1862)修理。
明治以降も小修理が行われる。
昭和16年解体修理に着手、昭和27年完工し、五重屋根傾斜を除いてほぼ創建当初の姿に復原される。
 法隆寺五重塔昭和27年修理完工
    「国際文化画報」おそらく昭和27年発行、タイトル〔【4月16日】法隆寺五重塔10年振りに復元〕

○法隆寺五重塔立断面圖
2007/02/18追加:
「日本建築史基礎資料集成・塔婆T」
 法隆寺五重塔立面図  法隆寺五重塔断面図

○法隆寺五重塔古写真
2006/10/7追加:
「壬申検査記録写真」:明治5年撮影、四つ切写真
 大和法隆寺五重塔1       大和法隆寺五重塔2
 2014/08/27追加:上記四つ切写真の部分図
  法隆寺五重塔1部分図     法隆寺五重塔2部分図
2014/08/15追加;
「撮影鑑 二」明治14年調製 より
 明治初頭法隆寺五重塔:明治14年もしくはその直前の撮影であろう。
2007/08/23追加:
「日本名勝写真帖」大阪:玉鳴館、明治31年 より
 法隆寺五重塔315  法隆寺五重塔316
2008/12/31追加:
「地理写真帖 内国之部 第4帙」明治33年 より
 法隆寺五重塔411
「近畿名所」高木秀太郎、神戸:関西写真製版印刷、明36年 より
 法隆寺伽藍311
「日本著名建築写真帖」斎藤兵次郎編、東京:信友堂、明治41年 より
 法隆寺五重塔314
「特別保護建造物及国宝帖」内務省宗教局編、東京:審美書院、明43年 より
 法隆寺伽藍312  法隆寺五重塔313
「Sights and scenes in fair Japan. ([191-?])」 より
 法隆寺五重塔412:原題:「Horyuji, a Seventh Century Temple near Nara. ([191-?]) 」
  2006/09/30追加;
  NYPL(New York Public Library) Digital Gallery より
   大和法隆寺伽藍:北側から撮影:1910年代か? <明治末〜大正初>・・・・上に掲載の「法隆寺五重塔412」と同一のもの

2009/07/25追加:
「日本の有名な城と寺院/Famous castles and temples of Japan」小川一眞 )/Ogawa, Kazumasa, 1860-1929
 法隆寺五重塔413
「大和の美術/L'art du Yamato」 メートル/Maitre, Cl.-E.
 法隆寺五重塔414
 


大和法隆寺五重塔心礎

○「新・法隆寺物語」 より
 「大正15年、関野貞(法隆寺非再建論者)の依頼で、心礎の調査を行う。
奈良県修理技師(岸熊吉)が塔の須弥檀下に入り、心柱の下に空洞(腐食による)を発見。空洞は径約1m深さ2mで、その下に心礎があり、中央に銅製の蓋があった。
このことは法隆寺住職佐伯定胤に報告され、親しい学者と共に「密か」に発掘された。
銅蓋の下の舎利孔には清澄な水が満ちていて、そこに径15cmほどの銅の合金の碗が浮いていた。その中には金銅製の壷があり、鏡が立て掛けてあった。壷は取り出し本坊に安置した。
金銅製の壷の中に銀の容器があり、さらにその中に純金の容器があり、ガラスの瓶が入っていて、瓶には瑠璃玉、真珠、水晶などが納められていた。これらはスケッチされ、拓本が採られ、写真撮影された。(記録された。)
舎利容器は当日日没後、元の塔に下に納められた。(口外無用であったが、いつしか公然の秘密となる。)
 昭和24年五重塔解体修理にあたり、舎利容器は再び取り出される。
舎利容器は外から、佐波理碗、金銅合子、銀製容器、金製容器、中央にガラス製舎利瓶があり、佐波理碗と金銅合子の間に海獣葡萄鏡が立て掛けてあった。海獣葡萄鏡は径10.1cmで、表裏とも銀金で、表面は鈍く顔が映った。裏面の海獣・葡萄唐草は優れたもので、唐製であろうとされる。
その後、保存上の理由で、舎利容器は特注のガラス容器に入れられ、舎利孔に戻され、空洞はコンクリートで固められ、その上に心礎が建てられた。それ故、塔を解体しない限り、陽の眼を見ることはないであろう。
調査報告書は500部限定出版(昭和29年)されたが、秘宝の尊厳の保持のため、複写転載は禁じられているという。
  法隆寺五重塔舎利安置状況:「新・法隆寺物語」 より
2009/09/05追加:
○「仏舎利埋納」飛鳥資料館、平成元年 より
舎利埋納孔は径9寸2分(28cm)深さ1寸3分(4cm)の蓋受孔の下に径7寸5分(23cm)深さ8寸(24cm)の構造であった。
舎利容器は外から響銅大碗、鍍金響銅宝珠紐合子、卵形透彫銀容器、卵形透彫金容器、銀栓ガラス瓶の入子の構造であった。
大碗には海獣葡萄鏡(径3寸3分4厘)、ガラス玉、真珠、水晶片、瑠璃片が多数納入されていた。
鍍金響銅宝珠紐合子には四方に銀の鎖を架ける、ここには卵形透彫銀容器のほかガラス玉、真珠、象牙管玉、水晶片、方解石片、瑠璃片があった。卵形透彫銀容器の高さは3寸2分(9.8cm)、金容器は2寸7分2厘(8.2cm)を測る。ガラス瓶は濃緑色を呈する。
 五重塔舎利埋納状況     五重塔出土舎利容器:模造品     五重塔舎利容器ガラス瓶・銀栓
2015/02/27追加:
「日本の美術77 塔」石田茂作編、至文堂、昭和47年 より
五重塔は中心の地下に大礎石を据え、そこに心柱を掘立柱にようにまず建てる。
心礎は地下10尺のところにあり、そこに銅板を蓋した円孔があり、そこには舎利容器が埋納されていた。

○法隆寺五重塔心礎空洞実測図

Aは心柱
Bの点線は柱底のえぐれ
CC1C2は三角形の口の一辺をなす石
DD1は他の一辺
Eは当初よりの空洞
Fの点線以下は埋没土
Gは細く掘った穴
Hは一個の石、スパン不明
Iは銅板
Jのここに何かが入っていると思われる。
 

一具の舎利容器に砂張の大椀の中に蓋椀と葡萄鏡とが置かれ、その周りに香薬珠玉が詰められていた。
蓋椀を取り出し、それを封した鎖を外し蓋を開くと、中から卵形銀製透彫の盆が現れた。
銀盆は蝶番で縦に割れるようになっていたので、それを開くと、同形にしてやや小振りの透彫の純金盆が現れたので、それをまた縦に割ると、中に緑色硝子の小瓶があり、それには純金の蓋がしてある。
瓶の中は点検が許されなかったが、仏舎利が納置されていたはずである。

○法隆寺五重塔心礎出土舎利容器

外側から、
砂張大椀・
鎖で結んだ蓋椀・
銀透彫合子・
金透彫合子・
瑠璃壷・
大椀と蓋椀の間に海獣葡萄鏡


 参考資料:出土舎利容器の一覧は「舎利容器一覧表」を参照。
 


大和若草伽藍心礎

西院伽藍から東大門に至る南側院坊の塀内に、若草伽藍跡がある。(非公開)

若草伽藍心礎

●「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8より
  野村邸若草伽藍心礎1:野村徳七邸にあったころの心礎、八角形の柱座(凹)と添木孔を持つ。
                 外郭の正方形凹座は、後に野村邸にて十三重石塔を設置した痕跡。
  野村邸若草伽藍心礎2:亀裂は670年落雷焼失によるものと推定される。高さ112cm。 いずれも「たなか」氏撮影

●「日本の木造塔跡」:心礎は2.7×2.4×1.2m。中央に方127cmの刳り込みがあるが、これは久原邸に持ち出され石塔が置かれたとき、彫られたものと思われる。
その中央に八角形の柱穴があり、四隅には添柱穴を穿つ。柱穴(八角形)の対角は70.6cm、八角形の一辺は28cm。
なお、この心礎は火災及び近代の加工等で相当破損受け、特に上部の損傷は大きいものと思われる。
心礎は以下のように流転する。
明治10年の「宝物目当て」で発掘し、埋め戻される。
明治19年北畠治房邸に持ち出され、さらに兵庫住吉久原邸に移され、上部に石塔が置かれた。
昭和14年久原邸より法隆寺に現状回復して返還、元あったとされる場所に戻される。
昭和15年石田茂作らが発掘調査。塔基壇の一辺15,5m、塔の北に金堂跡を発掘。
 大和若草伽藍心礎3     大和若草伽藍心礎実測図:「飛鳥時代寺院址の研究」  より

●「写真でみる日本古代木造塔の心礎」<岩井隆次氏寄贈写真>立正大学博物館、平成15年:
 大和若草伽藍心礎4

2013/04/19追加:
●「いかるがの里」岩波写真文庫17、昭和25年 より
 若草伽藍塔心礎5
法隆寺寺中普門院の裏畑に高さ4尺ばかりの大きな花崗岩の心礎がある。
明治から昭和にかけて好事家の金持ちの手を転々として、遂に旧地に返納された。表面内側の糸巻型の跡が心柱を嵌めたもので、その外側の切込は金持道楽の痕跡である。
●「日本の美術4 法隆寺」水野精一、平凡社、昭和40年 より
 若草伽藍塔心礎6

2013/09/14追加:
●「法隆寺の横顔」釋瓢齋著、鵤舎出版部, 1942.2 より・・・・・下に掲載あり
 野村邸における若草伽藍心礎:写る人物は著作者

2013/09/14追加:
●「法隆寺若草伽藍址の発掘」石田茂作、昭和16年(「法隆寺雑記帖」石田茂作、学生社、1991/03 所収) より・・・・・下に掲載あり
 現在の若草伽藍心礎

若草伽藍心礎の履歴

2013/09/14追加:
●「古今一陽集」良訓著、石黒豊次編、いかるが舎, 1948.1 より
 本書は帝室博物館監査官亀田孜氏伝写に係るものを底本とし、法隆寺所蔵の原本を以って校正したものである。
また、礎石の図版(〔若草伽藍礎石図〕)は礎石の項のものであるが、印刷の際に謝ったものである。
さらに、文中にまゝ朱筆にて、「治房曰」「治曰」「布穀曰」等の加筆がある。これは北畠治房の加筆したものである。
本書に掲載の若草伽藍心礎図は以下である。
 〔若草伽藍礎石図〕:原本は2つ目のみで、上下は治房の加筆である。(次項の「若草の礎石について」を参照)

2013/09/14追加:
●「若草の礎石について」(法隆寺長老)高田良信(「法隆寺発掘調査概報U」昭和58年 所収) より
【若草の地名と礎石】
 若草の地は旧観音院、普門院、実相院の広大な空間を云う。
そしてこの若草の地は平安期には花園と呼ばれていたことが判明している。(現在の普門院地は東花園、現実相院地は中花園、旧阿弥陀院地が西花園と呼ばれたことが判明している。)しかし、中世以降、この地に子院が連立したため、子院裏側は自然放置され、草地の繁茂する地となり、いつしか若草と呼ばれるようになったのであろう。
 要するに、古い時代には「古の伽藍地」として誰も触れることのできない「聖地」の認識であった可能性は大いにあるが、いつしか打ち捨てられた地として忘却の地となっていたのであろう。
 漸く、若草伽藍心礎については延享3年(1707)良訓の編纂である「古今一陽集」に初めて詳しく述べられる。
「普門院: 一、此院之地者、往古花園、号東花園、後改院号如先也
 礎 石: ・・・藪林傍一之有盤石 高三尺余、廣一丈余、石之面如盤又影如図形、又石之廻尺余方石在土中、・・・、都其石之形如塔之心柱礎石、無伝記無古老伝、・・・・・・・、又土俗伝云、昔日有謂若草之伽藍、其若草之邊讒隔墻壁也、・・・・」
ここには、若草伽藍の心礎図が描かれる。
 ※「古今一陽集」の原本では一つの図しか記載がない。
 ※ところで、上出の昭和23年刊行本「古今一陽集」(良訓著、石黒豊次編)では礎石の図が3つ描かれるが、上下の2つは明治34、5年頃北畠治房男爵が書く加えたものである。しかも、この図を北室の項に誤って挿入している。
しかし、文久3年書写「古今一陽集」では1つの心礎図の記載しかないのである。
 原本の若草伽藍礎石図
なお、近年発見した明治3年の「寺院屋敷反別坪割帳」の普門院の項に、塔阯・塔礎の記入がある。
 寺院屋敷反別坪割帳・普門院
 (大正4年法隆寺佐伯定胤の記したという若草伽藍「由来書」は、実は北畠男爵の偽書であることの言及は省略)
【礎石の流出年代】
 若草伽藍の礎石は明治維新後、北畠男爵が自宅に礎石を持ち出し、多宝塔(五重の石塔とも云う)の台石とすると云う。
その年代は明治10年とする説が多い。しかし法隆寺の明治10年の日記にはそのことの記載はない。
また、明治28年の「法隆寺伽藍縁起并寶物目録緒言」の「新堂」(斑鳩寺)の項では若草伽藍が現地にあるということを前提にした記載がある。おそらくは、その当時には心礎は若草の地にあったものと推測される。
いずれにせよ、目下のところ、法隆寺からの流失年代を決定する資料は見出せない。
 一方、北畠邸から阪神住吉観音林の久原久之助邸への移動は昭和14年7月26日大坂朝日新聞・大和版に「明治40年春」の頃とある。
しかしながら、この譲渡(移動)は大正4年の「法隆寺寺要日記」7月23日の条に「北畠男爵邸内、旧ト妙音院(普門院の錯誤)裏所在伽藍礎石(古今一陽集に図面有之明治  年頃/北畠氏自家の廃止に移せるもの)今度攝州住吉久原久之助方へ譲渡され搬出せり」
これにより、北畠邸より久原邸への移動は大正4年と判明する。
【礎石の返還と若草の発掘】
 昭和13年、久原邸は野村徳七氏の所有となり、同年9月には礎石上にあった多宝塔だけを野村家本邸に移されたため礎石だけが同邸内に残されていたと云う。・・・(以下返還交渉・返還の模様は省略)
【若草に伽藍が存在していたことを暗示する地図の発見】・・・(省略)
 ※多宝塔は京都岡崎の野村本邸(別邸)に移るというも、現在のところ、裏付けは全くとれない。
 なお、京都岡崎の本邸(別邸)とは→「京都碧雲荘」 (非公開)のことであることはほぼ確実であろう。
●2009/08/29追加:
国鉄法隆寺駅から法隆寺に搬入される心礎
 法隆寺に搬入される心礎:「法隆寺発掘調査概報U」に掲載の写真である。
大正4年北畠邸より久原邸へ移設、北畠邸の塀を壊し、9人の人夫がコロ上の台木に載せ、ワイヤーロープで牽き、一週間がかりで国鉄法隆寺駅まで搬入、費用は1500円と云う。
昭和14年10月12日野村邸(野村徳七)から住吉駅で貨車に積載、14日法隆寺駅に到着、上記写真のように法隆寺に搬入する。
費用は3500円と云う。

2013/09/14追加:
●「法隆寺の横顔」釋瓢齋著、鵤舎出版部, 1942.2 より
・若草伽藍心礎は本山村の久原邸にあり、その柱坐を削り落として、その上に鉄製の五重塔が置いてあった。
 ※これは伝聞なのか実見なのか不明であるが、伝聞であるように思われる。
・明治39年若草伽藍(反鼻塚)礎石見取図
 若草伽藍礎石見取図:明治39年山村良圓氏実測
 ※この図の所収資料、所蔵などは一切説明がなく不明であるが、明治39年には本心礎は法隆寺若草にあり、ここで「実測」されたと思われるので、少なくとも明治39年には心礎は山内にあった傍証となる。
・北畠男爵稿本(斑鳩法隆二寺の辯)に見える若草塔礎の條
 ※稿本の写真掲載あり。
・北畠男爵稿本(法隆寺考證)原稿中の若草塔心礎見取図と解説
 北畠男爵稿本心礎図・解説
 ※北畠男爵の追記があると云う「古今一陽集」に先行するものかどうかは不明であるが、「古今一陽集」に追記した内容と同一のものと判断できるものである。
・塔礎は(北村)男の居宅の近くにあった處から、いつしか男爵邸内へ運びこまれ、男はその上に鉄製の五重塔を安置してゐた。後これを一括して久原氏に売却した値が一萬五千圓とある。・・・その塔礎の上に鉄製の塔を据えたいばかりに、1インチばかりの深さに塔坐を彫り下げ、そこへ塔の基壇を嵌め・・・・(このことによって)一個の庭石として売買されたすると、・・件の柱坐の處が深く抉られ、手水鉢などになる(ことを防いだという 思わぬ「効用」をもたらしたこととなる。)
 野村邸における若草伽藍心礎:写る人物は著作者
 ※永井瓢斎:明治14年生まれ、大正2年大阪朝日新聞社に入社、後年コラム「天声人語」を約10年間執筆、昭和20年逝去、別号に釈瓢斎。

2013/09/14追加:
●「法隆寺若草伽藍址の発掘」石田茂作、昭和16年(「法隆寺雑記帖」石田茂作、学生社、1991/03 所収) より
「・・・昭和4年4月・・・初めて若草塔の跡と伝える土地を踏んだのである。しかし、礎石は当時大坂の某富豪邸に移り、しかも上に十三重塔があって柱座の構造を見ることが不可能と聞いてその調査は諦めざるをえなかった。」
そしてこの礎石は兵庫県住吉野村徳七氏邸内にあることが突き止められ、ついにそれが返還される運びとなる。それは昭和14年10月22日のことで、普門院南築地内に搬入、据えつけられる。
 現在の若草伽藍心礎
続いて、同年12月若草伽藍塔阯の発掘の鍬が入れられる。
塔跡については方51尺の基壇地固を検出し、さらに北方に伸ばしたトレントから金堂跡の基壇地固を発見、最終的には間口72尺、奥行69尺と確認される。
 若草伽藍跡発掘実測図

●「新・法隆寺物語」太田信隆、集英社文庫、昭和58年 より
 「昭和初年石田茂作が若草伽藍跡を訪ねると、心礎は無かった。伽藍跡南側の築地塀が2間新しくなっていた。
心礎を持ち出したのは北畠男爵であった。貰ったのか、買ったのか、無断持ち出しかは不明。
300mほど東の自宅に置き、上に鉄製の十三重の塔を置いていたらしい。
その後、北畠は大阪の実業家久原氏に1万5千円で売却した。(出典:「法隆寺の横顔」釈瓢斉)」
  ※北畠治房男爵:天保4年(1833)-大正10年(1921)。法隆寺附近の商家に生まれる。 煙草屋鳩平と云う法隆寺門前の素民であった。
  後に法隆寺寺侍である北畠家の養嗣子となり、大和五条の天誅組の挙兵に加わる。
  賊軍となった天誅組の中で生延び、明治維新後、政府官吏を務め、いつの頃か北畠親房の末裔を名乗る。
  退官後、男爵に叙せられ、法隆寺村に住む。自らを「殿様」と称したと云う。なを男爵は法隆寺ニ寺説を唱える。

 「心礎は久原氏よりさらに転売され、所在は不明であった。
石田の心礎の意味を訴える文章が新聞に載り、ほどなく神戸東灘区住吉の野村徳七邸に所在することが判明、野村氏は法隆寺の要請を受け、学術的に貴重であるので、法隆寺に寄附すること を快諾する。
この返還の後の運搬も大変であったが、北畠が壊した築地を再び毀し搬入・据付を行う。」
2013/06/17追加:2013/09/14再追加:但しこの項の論旨は上述「若草の礎石について」と重複する。
○若草伽藍心礎が北畠男爵邸(現法隆寺2-2、井上邸)に移されたのは明治40年頃(明治末期から大正初頭)と推定される。
「法隆寺伽藍縁起并宝物目録緒言」には明治28年礎石は法隆寺境内にあると記録されると云う。
一方「法隆寺日記」には大正4年
「北畠男爵邸内 旧ト妙音院裏所在若艸伽藍塔礎石 今度攝州住吉久原房之介方ヘ譲渡サレ搬出セリ
此因縁深キ遺物ヲ遠ク他府県ニ出シ去ルコト可惜之極ナレトモ是非ナキコト也」
とあると云う。
大正4年住吉村の久原邸に移され、昭和13年にはこの久原邸が野村別邸となる。
昭和14年、足立康が新非再建論を主張しはじめ、俄に心礎の行方が探索されるようになる。
心礎は、住吉村の野村別邸に存在することが公になり、同年10月、国及び法隆寺の要請があり、法隆寺へ返納されることとなる。
 →住吉村久原房之助邸:この邸内には一時伊賀浄瑠璃寺(伊賀開化寺、現長谷川邸)三重塔の存在が知られる。

2013/07/25追加:2013/09/14加筆:
●「法隆寺を歩く」上原和、岩波新書、2009.12 より
 今若草伽藍と呼ぶ伽藍跡は聖徳太子建立の鵤寺の跡であり、法隆寺で一番の聖域である。この聖域は南大門から続く築地や北側の普門院・実相院や西側の弥勒院・實光院、東は東大門から続く築地に囲まれた閉ざされた空間である。
 この閉ざされた空間に眠る鵤寺の塔心礎は全く世に出ることは無かったが、漸く「古今一陽集」(延享3年/1746、良訓大僧都企図・信秀完稿)によって初めて文献に記される。
 「古今一陽集」:
  普門院:礎石
  観音院の敷地内にあり、高さ3尺余、広さ1丈余、・・石の廻りには尺余りの方石土中にあり。伝記もなく古老の伝も無し。
   「古今一陽集」礎石見取図:実測図には9尺5寸×8尺5寸高さ4尺、方形柱座は一辺4尺、深さ2寸5分との書き込みがある。
    (この図は原本にないもので、北畠治房男爵が加筆したものである。)
  なお、「此分明治10年中上半欠取」とあるのは堺県官吏の調査の際のものであろうか。
   ※明治10年堺県官吏は心礎の調査をなす、廻りを掘るも何も出土せず、埋め戻すと云う。
    <以下の論旨は「若草の礎石について」(法隆寺長老)高田良信(「法隆寺発掘調査概報U」昭和58年 所収)と同一である。>
 その後、この心礎は数奇な運命を辿る。明治に北畠治房男爵邸の庭石になり、その後神戸の久原房之助の手に渡ることとなる。
この時期は、 高田良信の「若草の礎石について」(昭和58年「法隆寺発掘調査概報 U所収)の中で、「法隆寺寺要日記」の大正4年の条で「攝津住吉く原邸へ搬出」との記事が見えるので、大正4年と判明する。
 その後、昭和13年証券王野村徳七のものとなり、同年9月礎石の上にあった多宝塔は京都岡崎の別荘に移され、礎石だけが住吉の本邸に残っていたということである。

2013/06/17追加:
昭和14年7月26日付大阪朝日新聞・大和版記事 より
大坂朝日新聞原本は未見であり、従って、ページ「若草伽藍礎石の謎」http://www.geocities.jp/watsns/soseki.htmlより転載する。
------以下転載----------------------------------------------------------------------------------
1)大阪朝日新聞・大和版より(昭和14年7月26日)
  法隆寺駅まで1週間がかり、−塔の礎石運搬−昔語り
   (分捕り貨車でお輿入れ−コロに載せてエンヤラヤ)
 学会注視の法隆寺論争に重要資料として登場した元同寺普門院付近にあったという塔の礎石を阪神住吉の野村徳七氏邸から、「どうして法隆寺へ運び戻すか。」と、ものがものだけにその運搬方法も大きな副次的興味呼んでいる折、これは珍話。今をさる30年前当時この巨石を保管していた法隆寺付近の某家から阪神沿線の元久原邸へ運搬した請負人があり、いまとなればその思い出話も好個の参考話題として学会にトピックとして提供する。
 奈良市大豆山町の建築請負業上村兼次郎さん(56)がその当人で祖父の代からすでに三代大和の古社寺建築修理をつづけ、いまもなおいたって元気、喧しい法隆寺問題をよそに、運搬当時の思いもあらたな追想に耽っているが、この問題の礎石は明治10年ごろすでに法隆寺から付近の某家に移され、同家庭園巽の隅の多宝塔の台石としてその豪壮さを誇っていたもので、その後同家の都合で、明治40年春多宝塔とともに阪神沿線住吉観音林の久原房之助氏邸(現在の野村徳七氏邸)に移されることになり、運搬一切を市内登大路町の森田清太郎氏に委嘱、森田氏は種々搬出方法を考慮した結果、法隆寺から省線法隆寺駅までの運搬を、この上村さんに請負わした。
 上村さんはこの大盤石の運搬に知恵をしぼった結果、まづ礎石の方はコモ包みにした上コロに載せて、転ばせて運ぶこととし、一方多宝塔の方は牛車数台でこまかく分解して運ぶことになり、直ちに準備にとりかかった、なにしろ高さ6尺、1万余貫のデカイ石のこととて、この荷造りにも相当な日子を費したが、これを運ぶためのコロももちろん特別に6尺余の大丸太5本を用意し石の安定を保つためにコロの上に載せる台木もそれ相応な大きさのものを製作、いよいよ運搬にとりかかった。
 まづ人夫9人を雇って同家庭園の板塀を打ち壊し、礎石を道路に出してからこのコロの上の台木に載せた、それを強靱なワイヤーロープで人夫4人がかりで引張り5人はコロ棒の入れ替えなどを行いながら法隆寺前から省線法隆寺駅に通じる東への道をのろりのろりと動かし始めた、かくて1万貫の石も尻を上げたのだ。第1日目はは約1町余りを歩いたままですでに日はとっぷり暮れてしまった。石を道傍に寄せて、夜を迎え、第2日目も9人の人夫がやはり早朝からえっさえっさと運びつづけこの9町余りの道を、ちょうど1週間かかって法隆寺駅まで運び込んだ。
 一方多宝塔の方はこれも牛車数台が40回ばかりも往復、無事法隆寺駅まで送り届けた。問題の礎石のはすでにそのころからヒビが入っていたので運搬の苦心も格別だったがコロで引くと震動も割合少なく比較的容易に運搬することが出来たそうだ。駅に到着した石をさてどうして久原邸まで運び込むか−−−
 当時の貨車ではとてもこれを積載するものがなかったので、日露戦争のころロシアから分捕って来た大砲運搬用の無蓋貨車を交渉の結果、神戸車両局からはるばる回送して貰いこの頑丈な鉄製貨車に引きずり上げた。かくしてさしもの巨石も無事貨車に載っかりそのまま久原邸向って走り出してしまった訳である。このロシア製の無蓋貨車は当時日本に3台しかなかったもので、礎石と多宝塔の運搬に要した費用はその当時で実に千五百円ほどに上ると見られいかに大がかりなものであったかを想像するに難くない。

当時の追想に耽りながら、上村さんは語る。
 あのころは推古、天平などの伽藍石でもどんどん各家へ移転されていたもので明治25年ごろわたしがはじめて法隆寺さんの仕事を請けたときはこの礎石も有名な玉虫厨子の扉も最早ありませんでした。石はコロで運ぶのが経費の点からいっても一番いいと思い、あんな方法をとったのです。今再び法隆寺さんへ戻されるとしてもやっぱりこれ以外に方法はないと思います。あの石は推古のものか天平のものかなどと学者は研究していますが職人の目を通じてみて穴があるから絶対推古の伽藍石だとか、へそがあるから天平のものだとかの断定は出来ません。あの礎石がなるべく早く法隆寺にも一度戻ってほしいものです。
 わたしもいよいよ運搬が決定すればこの世の見納めに一度野村邸に参るつもりです。
------以上転載----------------------------------------------------------------------------------
以上の原本は未見であり、上記の転載文は原本の通りかどうかは不明。

2013/09/14論旨を修正:
若草伽藍心礎上の塔婆について

 上記の記事によれば、北畠男爵邸から搬出されたのは若草伽藍心礎だけではなく、多宝塔も搬出されると云う。
上村兼次郎氏の述懐は、多少の記憶違いなどはあろうものの、具体性を帯び、信憑性は高いものと思われる。
即ち
「(北村男爵)家庭園巽の隅の多宝塔の台石としてその豪壮さを誇っていたもので、その後同家の都合で、明治40年 春多宝塔とともに阪神沿線住吉観音林の久原房之助氏邸(現在の野村徳七氏邸)に移されること」となる。
「一方多宝塔の方はこれも牛車数台が40回ばかりも往復、無事法隆寺駅まで送り届けた。」と。
多宝塔の方は「牛車数台が40回ばかりも往復」とは、40回ばかりと云う回数が記憶違いでないとすれば、それは相当の部材の量で、多宝塔とは木造塔であり、それを解体し、運搬したようにも解釈可能である。

 しかし、心礎の上の塔婆とは、今までの既出の資料では、木造塔という記述は一切なく、石造もしくは鉄製の塔婆で、それも多宝塔、五重塔、十三重塔という記述である。木造多宝塔という記述は無いのである。
以下のそれを示すと以下の通りである。
 1)「法隆寺の横顔」釋瓢齋著、鵤舎出版部, 1942.2 では
  若草伽藍心礎は本山村の久原邸にあり、その柱坐を削り落として、その上に鉄製の五重塔が置いてあった。
   (これは伝聞なのか実見なのか不明であるが、伝聞であるように思われる。)
  「・・・(男爵は)その上に鉄製の五重塔を安置してゐた。後これを一括して久原氏に売却した・・・」
 2)「若草の礎石について」(法隆寺長老)高田良信(「法隆寺発掘調査概報U」昭和58年 所収) では
  昭和13年、久原邸は野村徳七氏の所有となり、同年9月には礎石上にあった多宝塔だけを野村家本邸に移されたため
  礎石だけが同邸内に残されていたと云う。
 3)「法隆寺若草伽藍址の発掘」石田茂作、昭和16年(「法隆寺雑記帖」石田茂作、学生社、1991/03 所収) より
  「・・・昭和4年4月・・・初めて若草塔の跡と伝える土地を踏んだのである。しかし、礎石は当時大坂の某富豪邸に移り、
  しかも上に十三重塔があって柱座の構造を見ることが不可能と聞いてその調査は諦めざるをえなかった。」
 4)「新・法隆寺物語」太田信隆、集英社文庫、昭和58年 より では、
  「昭和初年石田茂作が若草伽藍跡を訪ねると、心礎は無かった。伽藍跡南側の築地塀が2間新しくなっていた。
  心礎を持ち出したのは北畠男爵であった。貰ったのか、買ったのか、無断持ち出しかは不明。
  300mほど東の自宅に置き、上に鉄製の十三重の塔を置いていたらしい。

以上から、心礎上には石造あるいは鉄造の多宝塔、五重塔あるいは十三重塔が置かれていたのであろう。
 また、もし木造多宝塔であるならば、若草伽藍の心礎以外にも多くの礎石が必要であり、しかも心礎は巨石であり過ぎ、多宝塔の台石には適さないと思われ、ここでも木造塔である可能性はほぼ無いものと思われる。
 そして、何より現在心礎の表面に残る「方127cmの刳り込み」は石造もしくは鉄造の塔婆(多宝塔/五重塔/十三重塔)の台石もしくは初重を嵌め込んだ痕跡と考えるほかはなく、木造多宝塔であったということは否定される。


富貴寺及び塔堂(大和法隆寺塔堂)

富貴寺はかって大伽藍を擁していたと伝えられる。現在は民家の中に本堂一宇(室町期・重文)のみが残される。
平安期中期の古材を残すと言われている三重塔初重は、老朽化のため昭和9年解体、昭和44年法隆寺に寄進され、昭和46年再建される。
再建と同時に重文指定を受ける。 2、3重は早くから失われていたと云う。
解体の後、富貴寺には塔跡に塔堂が建立され、現存する。この塔堂はかなり本格的な造作の堂である。

富貴寺塔堂

大和富貴寺塔堂1(左図拡大図)
  同       2
  同    本堂1
  同    本堂2
 

六県神社の東側にあり、宮寺と呼ばれる。近世は六県神社の別当であったのであろうが、本来は神社は単に鎮守であったとも思われる。
創建は貞観年中、道詮律師によると伝える。
本堂(5間×4間):延宝7年(1679)の墨書銘によると至徳5年(1388)の再興で、最初の堂は治承2年(1178)の創建という。重文。
本堂安置の釈迦如来坐像(重文、木造寄木造)及び地蔵菩薩立像(重文、木造寄木造)は本堂創建時の様式(藤原後期の作)とされる。

2009/03/03追加:「大和志料」:富貴寺
・・・道詮の創立にして即ち其求聞持の法を修せられし処なり・・・

2010/07/10撮影:
 大和富貴寺塔堂11       同       12       同       13       同       14
 大和富貴寺本堂11       同       12       同       13       同       14

旧富貴寺羅漢堂の状況及び再興

以下は「重要文化財旧富貴寺羅漢堂国宝如庵の木質部材部保存修復における合成樹脂応用の開発」関野克
 (「保存科学」第10号、昭和47年所収) の部分要約である。

本堂の他に羅漢堂、後には伽藍堂と称された小堂宇があったが、
昭和10年2月6日から10月30日の間に撤去する。(大和国式下郡寺院明細帳)
撤去直前の写真によると屋根、壁、天井を失い、4本の柱が辛くも2手先の軒を支え、吹放ちの仮覆屋で覆われていた。
  
撤去された羅漢堂遺材は東京の細川護立邸の倉庫に保管されてきた。
戦前に文部省宗教局技師坂谷良之進氏によって小三重塔の復元図が作成された。
昭和44年遺材は細川護立氏より法隆寺に寄進され、大岡実博士によって改めて復元図が作成された。
三重塔と多宝塔が検討されたが、多宝塔は無理であり、三重塔とされた。
  ※羅漢堂解体前現状:昭和10年頃撮影:
        下記「重要文化財法隆寺羅漢堂(旧富貴寺)復原工事報告書」より
同年遺材を倉庫から出し点検整備を行った。遺材は腐朽・破損が著しかったが、12世紀を下らない平安期のものと思われ、また
初重再建は可能であり、重文に指定すべきとされ(昭和46年重文指定)、遺材の徹底した保存と修復が図られることとなった。
部材は初重軒廻りを除く、側廻り部分であり、それは柱、頭貫、斗組、小屋組が主要部であり、207点を数えた。
復元塔初重の名称は旧富貴寺羅漢堂とされ、その構造は方1間であり、四隅に円柱を建て、頭貫を廻らし、柱間には頭貫下の細い円柱を立て3間に分け、4面中央間は扉とし、頭貫上に薄い台輪を組み、内外に内法長押を取り付けている。
組物は2手先で柱間を3等分し、尾垂木を用いず、軒天上・軒支輪を備える。
斗・肘木は部分的に欠失し、支輪は1本が残っていたにすぎず、これ等の用材は新調された。
斗の丈は特に高く肘木の含みも浅く、つまり台輪と通肘木の間が高く、外見上は極めて古式に見える。
古材の残っていたのは出桁までで、軒廻り以上は新調される。
内部は1室で、部材の状況から折上組入天上と推定される。
なお側桁間に梁は2丁懸けられ、これに心柱受梁と思われる横架材の仕口が見られ、これからも遺構は塔形と推測された。
なお再建は部材の強度の問題と2重及び3重は全くの新材造営となるため、単層宝形造の小堂として復元された。

遺材の状況は解体後、廃材に近い状態で長期間放置され、通常の解体修理つまり伝統的な修理技法の限界を超えていた。
それゆえその再建に当っては当初材を最大限活用するために、部材にその腐朽・欠失に応じた科学的保存処理を施すことが基本方針とされた。(科学的保存処理の仕様は省略)

部材の算定表及び新旧部材配置図については
「保存科学」第10号、昭和47年所収、「重要文化財旧富貴寺羅漢堂の保存処置に関する計画・算定」茂木曙

残存部材の破損状況および科学的保存処理の実施細目あるいは部材の補修の細目については
「保存科学」第10号、昭和47年所収、「旧富貴寺羅漢堂遺材の科学保存処置」中里寿克
    にそれぞれ詳述される。

富貴寺羅漢堂(大和法隆寺山内)

・東院伽藍四脚門<東大門から東へ突当り>手前の善住院跡<南側>と福園院との間の坊舎跡塀内に旧富貴寺塔残欠(三重塔初層)が保存される。
・この堂は非公開ある。しかし、東南の入口の柵越(かなり距離がある)か、東側の生垣の隙間越か、あるいは東院に至る塔頭の塀越(組物から上部のみしか見えない)かで、垣間見る程度は可能である。

2006/07/14追加:「愚禿」様ご提供画像

2006/03/31撮影画像

 大和富貴寺塔初重1:左図拡大図:フィルム撮影
   同        2:フィルム撮影
   同        3:デジタルカメラ撮影
   同        4:デジタルカメラ撮影

「愚禿」様はおそらく敬虔な仏教徒と思われる。
仄聞するところによれば、国指定重文の層塔・81寺社86塔を巡拝、
この法隆寺羅漢堂参拝を以って、満願となると云う。

 

富貴寺塔初重(重文)

2001/02/22撮影・・以下は画像小
 大和富貴寺三重塔初重1
   同           2
   同           3
2002/7/14撮影
 大和富貴寺塔初重1
   同         2
   同         3
   同         4(左図拡大図)
   同         5
   同         6

塔一辺は2.7mと云う。
中間脇柱が極端に四隅に寄る例は大和龍門寺塔が知られる。

2010/01/10撮影
大和富貴寺三重塔初重31

2006/01/14追加:
「重要文化財法隆寺羅漢堂(旧富貴寺)復原工事報告書」東京/安田工務店、1973 より

羅漢堂解体前現状:昭和10年頃撮影:左図拡大図
  上記「保存科学」第10号の項を参照。
  おそらく富貴寺にあった時の写真と思われる。
羅漢堂立面図
羅漢堂断面図
富貴寺三重塔復元立面図(案)
富貴寺三重塔復元断面図(案)

大和富貴寺羅漢堂再興にあたり、画期的な樹脂加工による保存再用が図られた結果、多くの旧材の再用が可能となる。その結果、部材の傷み具合から相当の部材の廃棄が予想され、そのため予め準備していた新材の斗栱類は不要とな る。
幸いにもこの不要となった斗栱類は寺島大師(蓮華寺・東京向島)の太子堂の再建工事に充当される。昭和48年落慶。
 蓮華寺太子堂:羅漢堂の新生児というべきものであろうか。

  →武蔵蓮華寺(寺島大師)

2008/12/31追加:
「広報 川西 TownNews」2007.9月号 に 以下の新聞記事の掲載がある。(転載)

東京へ運んで細川候邸で保存す 国寶的古建築の推賞ある富貴寺境内の御堂
 江戸文化を遡る七、八百年、優雅を謳はれる藤原時代の建物が古建築の本場大和から東京市内に移建される、しかもこれら財源に恵まれぬ国寶的建造物の保存事業に新例を開く個人篤志の解体修理保存だから取分けすばらしい
 −奈良縣磯城郡川西村保田の古刹富貴寺境内に残る方三間単層塔形(寶形造単層の御堂ともいふ)の腐朽建物が現在床も縁もなくたゞ柱廻りや斗拱部の軸部が残り荒廃のまゝに任されてあるが枡形肘木支輪のすぐれた形式は藤原時代の国寶的価値ある様式を傳ふるものとして関野貞博士はじめ文部當局でも珍重し保存方を考慮したが何分著しく原型を失ひ国寶指定保存の方法がたたず、さりとてそのまま朽果てしめるには惜しいとあって文部省坂谷技師斡旋の結果国寶保存会理事細川護立候に懇望の結果、個人の篤志によつて同候が東京の自邸にこれを移建、修理復原を加へて後世に傳へることとなり最近文部省奈良縣両當局ならびに地元寺院側との協議も請ひ二十三日現場の解体を行ひ近くいよいよこれを移送復原方を研究の上同邸内に再建することになった 。                  「大阪朝日新聞」奈良版 昭和9年11月24日


○「法隆寺子院」
2013/10/21追加:
「法隆寺の子院について」無記名(「法隆寺発掘調査概報 (T)」法隆寺発掘調査概報編集小委員会、1982 X付章 所収) より

平安末期には、断片的にではあるが、諸資料によって子院が存在したことが知られる。
 圓城院(「新撰字鏡」)、金光院(「法隆寺文書」)、北御門房(「鼻奈耶巻」)、東花園(「觀自在菩薩瑜伽論念踊儀軌」)などである。
鎌倉期には「別當記」や「嘉元記」などの記録によって以下が知られる。
 興菌院、西園院、松立院、北室、地蔵院、政南院、中院、西福院、宝光院、瓦坊、法性院、中道院などが知れる。
  瓦坊は法隆寺別當が住する坊であり、金光院・中院・法性院は持仏堂を持つ子院で整備された坊舎であったと推定される。
中世以降も子院の数は増加の一途を辿り、以下のような坊舎の造立を見る。
 政蔵院、安養院、金剛院、西南院、閼伽井坊、椿蔵院、西之院、知足院、脇坊、弥勒院、多聞院、湯屋坊、明王院、寶藏院、
 西坊、北之坊、仏餉院、東倉院、発志院、阿弥陀院、橋坊、福園院、蓮池院、法花案、善住院、西東住院、中東住院、東住院、
 蓮光院、文殊院、十宝院、賢聖院、橘坊
ところで、中世以降子院には学侶(学衆)と堂衆(堂方、禅衆、夏衆)の区分が発生し、学侶(学問僧)上位、堂衆(行事を司る)下位であった。近世では学侶坊、堂衆坊、承仕坊の寺格区分があった。
享禄3年(1530)「坊別並僧別納帳」には学侶坊と堂衆坊の区分がはっきり見られる。
 学侶坊別次第
  1貫500文:北室寺
  1貫文:政蔵院、宝光院、安養院、瓦坊、金剛院、地蔵院、西園院、西南院、中院、閼伽井坊、椿蔵院、花園院、西院、知足坊、脇坊、
       弥勒院、多聞院、金光院、普門院、寶藏院
  500文:湯屋坊、松立院、明王院
 学侶寺僧区分
  長乗以下34名の学侶、各々200文宛
 堂衆坊別
  1貫文:十宝院
  500文;西圓堂、太子堂、宝性院、西坊、北院、仏餉院、政南院、東倉院、発志院、阿弥陀院、中道院、橋之坊、福園院、
        蓮池院、法花院、善住院、西東住院、中東住院、東住院、蓮光院、文殊院、賢聖院、橘坊
 堂衆寺僧別
  實春坊以下25名の堂衆、各々100文宛と記載される。
   以上、当時47ヶ坊があったことが分かる。
寛永年中の法隆寺古図では以下68ヶ坊が記載される。
 寛永年中法隆寺古図
  東側から、修南院、三寳院、北室寺、成福院、賢聖院、蓮光院、文殊院、持宝院、中東住院、西東住院、金光院、金光院坊、発志院、
   福生院、林賢院、釈迦院、金蔵院、地福院、善住院、清浄院、十宝院、蓮池院、法花院、橋之坊、福園院、宝壽院、和喜坊、普門院、
   華苑院、阿弥陀院、橘坊、西之院、明王院、威徳坊、安養院、松立坊、政蔵院、宝光院、東蔵院、政南院、瓦坊、仏餉院、中道院、
   多聞院、福智院、北之坊、弥勒院、知足院、寶藏院、圓成院、椿蔵院、閼伽井坊、薬師坊、薬師堂供所、宝性院、円明院、徳蔵院、
   中院、ニ階坊、福厳院、西福印、薬師院、西方院、吉祥院、湯屋坊、西園院、地蔵院
 天正13年(1585)豊臣秀長の大和入国によって、諸大寺の寺領は悉く減ぜられ、法隆寺の寺領も1000石に減ぜられ、
  (寺辺:538石余、玉手庄:97石、安堵村:367石余・・合計1000石)
 経済的には困窮する。
なお、近世には学侶となる条件は公家もしくは五代以上続く武家に規定され、公家は京都、武家は岸和田・尼崎の遠隔地のものに限定されていく。堂衆は特に吟味はなかったようである。
近世中期以降、子院は除々に衰退していく。恐らくは経済的困窮であろうか。それに伴い、子院の建物も老朽化し崩壊していったようである。
   2016/08/31追加::「法隆寺の至宝2 東院伽藍・子院・石像品 第2巻」法隆寺昭和資財帳編集委員会、1996 より
    天明4年伽藍境内大絵図:天明4年は1784年:749KB
寛政9年の子院の状況
 寛政9年法隆寺境内子院配置図:寛政9年は1797年
   2008/02/27追加:「古図にみる日本の建築」より
    法隆寺惣境内図:寛政9年制作、法隆寺蔵 、下図と同一図であるが、下図の方が高精細である。
   寛政9年当時の法隆寺(朱印1、000石、境内116、200坪、総坪数238、400坪余)の山容が描かれる。
    ※法隆寺北方の絵中の光明山極楽寺は昭和34年焼失・退転したと云う。
   2016/08/31追加:「法隆寺の至宝2 東院伽藍・子院・石像品 第2巻」法隆寺昭和資財帳編集委員会、1996 より
    法隆寺惣境内之図2:寛政9年:上図と同一図であるが、文字入れを行い、また上図より高精細である。:559KB
明治維新:
以上のような衰退する子院に「とどめ」をさしたのが明治維新の変革であった。
明治維新に際し、学侶は還俗・隠退し、寺の留まったのは近在出身の堂衆であった。
明治2年全ての堂衆を学侶に上げ、学侶・堂衆・承仕を廃止する。
明治8年困窮から山内僧侶は西圓堂供所に居住し共同生活に入る。
明治9年法隆寺住職の職を設ける。同時に経済面の苦境を脱するため、皇室に157点の寶物を献納することに決し、恩賜として1万円が下賜され、ひとまずは苦境を脱する。この当時12ヶ院に住職は居るだけで、他の子院は院の名称を留めるだけであったようである。
明治10年阿弥陀院・弥勒院は建物が腐朽し取りたたみ、弥勒院は院名を聖天堂供所に移し、阿弥陀院は明治41年に元金剛院の西里庵地に再興される。また興善院の名跡は興福寺に移り、賢聖院とともに廃される。
 明治28年法隆寺境内図
   2009/07/25追加:
   「大和の美術/L'art du Yamato」メートル/Maitre, Cl.-E.
    法隆寺鳥瞰図
     法隆寺の鳥瞰図.仁王門,中門.回廊.金堂.塔.大講堂.鐘楼.経蔵.上御堂.西円堂,峰の薬師.三経院.西大門.南大門.
     中ノ門,東大門.聖霊院.東堂,東室.妻堂,妻室.宝庫,綱封蔵.細殿.食堂.四足門,四脚門.勅額門,南門.カイ堂,礼堂.
     夢殿.舎利殿.伝法院
現在では、中院、宝珠院、西園院、地蔵院、宝光院、弥勒院、実相院、普門院、宗源寺、福生院、善住院、北室院、圓成院、阿弥陀院の15ヶ院となる。
○「日本の美術 4 法隆寺」平凡社、1965 より
 法隆寺の伽藍:以下の寺中が確認できる。
左より、宝珠院、中院、西園院、地蔵院、弥勒院、宝光院、円成院、実相院、普門院、宗源寺、福園院、福生院、善住院、北室院
○マピオンMAPより:2013/10/20
 法隆寺地図:以下の寺中が確認できる。
左より、宝珠院、中院、西園院、地蔵院、弥勒院、宝光院、円成院、実相院、普門院、観音院、宗源寺、賢聖院法華院、福園院、蓮光院、福生院、善住院、北室院
○ページ:「《斑鳩大事典》■法隆寺子院の金光院と宗源寺」より
金光院及び宗源寺
延久4年(1072)平群郡八条十里十四坪字蟇田池坤、法隆寺西峰の麓の山野藪蒜原に念仏道場を造る。(「平安遺文1090」)とあり、これが金光院の創建と推定される。
承保2年(1075)「同1112」、承暦2年(1078)の文書には金光院三昧堂とある。「上ノ堂」と俚称する。
長暦年中(1037-40)金光院、法隆寺寺中へ移る。
嘉禎3年(1237)金光院四脚門・築地塀を鍬入れ。
 「元亀年中金光院堂再興の事」、上棟銘簡に元亀3年(1572)金光院堂を修造。この堂は、太子建立の勢野・施鹿園寺の堂を承元4年(1210)に法隆寺境内に遷すという。
元和8年(1622)金光院、太子堂と共に焼失。
元禄12年(1699)金光院礎石に念仏堂(聖徳太子念仏三昧堂)を建立、宗源寺と号す。
宝永年中(1704-11)宗源寺が敷地を買い取り、金光院の名跡は消滅する。
明治6年、境内末寺の宗源寺の楓実賢と北室院の松田弘学が法隆寺の学侶に交衆する。(「法年表」)つまり名実ともに法隆寺寺中となる。
明治31年勧学院を宗源寺へ移す。つまり本堂は勧学院の学室となり、太子念仏道場の機能を失う。
 ※宗源寺は現在、四脚門(重文、嘉禎3年/1237建立、旧金光院四脚門)、本堂・地蔵堂(享保年中/1716-建立)・
  鐘楼(元禄15年/1402建立)・庫裏を具備する。

大和法隆寺伽藍
2010/01/10撮影:
 大和法隆寺南大門(国宝・永享10年・1438再建)
 大和法隆寺中門1(国宝)     大和法隆寺中門2
 大和法隆寺東大門(国宝・天平、中世に現在地へ移建)
 大和法隆寺西円堂(国宝・峰薬師堂・八角円堂、鎌倉期)
 大和法隆寺聖霊院(国宝、保安2年・1121再建)
 大和法隆寺三経院(国宝、鎌倉期)
 大和法隆寺東院寺中(突当りの門は東大門)
 大和法隆寺地蔵堂(重文、応安5年・1372建立)
2010/02/21撮影
 大和法隆寺西大門     西太門より東大門を望む
 


百濟大寺式伽藍配置(百濟大寺式軒瓦)

2017/01/19追加:
吉備池廃寺が百濟大寺であるならば、将来は、現在の法隆寺式伽藍j配置は百濟大寺式伽藍配置と言い換えることになるかも知れない。
同様に山田寺式軒瓦は百濟大寺式軒瓦と言い換えることになるかも知れない。

 → 百濟大寺式伽藍配置(百濟大寺式軒瓦)
 


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