陸  奥  霊  山  寺  跡

陸奥霊山寺跡

○参考文献
「霊山町史 第1巻」霊山町史編纂委員会、1992【史1】
「霊山町史 第2巻 資料 1 」霊山町史編纂委員会、1979.7 【史2】
「霊山の歴史 史跡名勝霊山 改定版」菅谷家弘、霊山町郷土史研究会、2009【歴史】 より

陸奥霊山寺遺構

山上・山中に多くの伽藍跡及び寺屋敷跡を残す。山上伽藍の典型を示す。平安期に最も盛んであった。
現在判明している遺構などから判断して、山容・伽藍規模などの比較をすれば、強いて云えば「近江己高山」に似る。
現在70余の堂塔跡(遺構)が発見されているが、次の6箇所に整理される。
1)寺屋敷遺跡、2)霊山山頂遺跡、3)ニツ岩遺跡、4)日枝神社遺跡、5)東寺屋敷遺跡、6)古霊山遺跡
 霊山寺復元図:【歴史】:梅宮茂原案・中西立太作とある。寺屋敷遺跡の40号遺構を三重塔に想定 する。
  ※北西側に鳥居跡が2箇所あるが、この山王権現一及びニの鳥居跡は遺構(礎石)が残る。

現在、塔婆跡として確実な遺構は無いが、
1)寺屋敷遺跡の40号遺構及び5)東寺屋敷遺跡の58号遺構が塔跡の可能性があると云う。
40号遺構は一般的に流布される説であるが、58号遺構の塔跡説は 【史2】で言及があり、「塔跡の疑いがある」と云う。
 しかし、何れも確証はない。40号遺構は実見した感触では一間四面堂(平面3間堂)かどうか良く分からない。
一辺の実測は実施せず。礎石の大きさは小振りで塔の礎石かどうかは疑問に思われる。
58号遺構は未見、実態が不明。

1)寺屋敷遺跡

 霊山・寺屋敷遺構図: 【史1】:玉野川支流に階段状にある。西に山王権現跡がある。 南面する堂宇群と東側の西面する堂宇群とがある。
  この遺跡は堂塔の数が多く、霊山寺の中核であったと推定される。
31号(南面する)は7×3の堂(根本中堂とした場合)か3間堂2堂(法華・常行2堂)と推定される。
最も広い面積を持ち、以前は根本中堂跡と想定されたが、法華・常行2堂が並ぶ天台系の遺構とされる。
 霊山寺31号遺構1:遠望      霊山寺31号遺構2:西より撮影     霊山寺31号遺構3:西より撮影
 霊山寺31号遺構4:南西より撮影     霊山寺31号遺構5;西側遺構     霊山寺31号遺構6:東側遺構
 霊山寺31号遺構7:東から撮影
 霊山寺31号遺構8:【史1】      霊山寺31号遺構9:【史2】      霊山寺31号遺構図:【史2】
41号(31号後方最上段)は5間(柱間8尺)堂で奥の院千手観音堂と伝えられる。
 霊山寺41号遺構1:南西より     霊山寺41号遺構2:南西より     霊山寺41号遺構3:中央部
 霊山寺41号遺構4:西側礎石     霊山寺41号遺構5:東側礎石     霊山寺41号遺構6:中央部
 霊山寺41号遺構7:【史2】       霊山寺41号遺構図:【史2】
 霊山寺41号遺構8:【歴史】
42号は六角堂の遺構が出土。
 霊山寺42号遺構1:南西より     霊山寺42号遺構2:内部礎石
 霊山寺42号遺構3:【史2】       霊山寺42号遺構図:【史2】
40号は未調査ではあるが、三重塔の可能性がある。
 ※41号は柱間8尺の5間の大堂であり、その前面に位置する40号は塔の蓋然性が高いであろう。
 ※「霊山寺縁起」では奥の院千手観音と並び「三階の堂5間四面、同大日堂5間四面、鐘楼2間四面」とあり、
 もし記述順序に意味があるとすれば、40号が三重塔、大日堂は42号と見ることも可能であろう。
  霊山寺40号遺構1     霊山寺40号遺構2
 ※この40号が地表に残る礎石からだけでは、3間堂であるかどうかは良く分からない。
 また、礎石はどちらかと云えば小さく、三重塔礎石としては不釣合いである印象がある。
西側山腹には3間堂が数棟ある。
 霊山寺43?号遺構:43号遺構と思われるが、相違している可能性あり。何れにしろ43号付近の遺構。
 霊山寺41号東遺構1     霊山寺41号東遺構2
 霊山寺41号東遺構3:この遺構の性格は不明、中型の規模であろう。
 霊山寺45号遺構1:40号下の3間堂      霊山寺45号遺構2:【史2】
 霊山寺46号遺構1:3間堂である。      霊山寺46号遺構2
 霊山寺46号遺構3:【史2】:西から       霊山寺46号遺構図:【史2】
34号(西面する)は3間堂(経蔵か)で、付近にその他数棟がある。

2)霊山山頂遺跡

 霊山寺跡遺構図(霊山寺城遺構):標高約800mの山頂にある。
最高所(無番)の霊山城に転用された区画は根本大堂(大金堂)跡と推定される。
この堂跡は、霊山神社※奥の院建立の為、礎石は全部抜取、一隅に集めているので規模不明(桁行7間以上と推定される)と云う。
 霊山推定根本大堂跡1
  ※霊山神社なる国策神社が霊山の北西麓大石(北畠氏の支城があったと云う)に、存在する。
   祭神は北畠親房・北畠顕家・北畠顕信・北畠守親、明治14年創建、明治18年別格官幣社となる。
   天皇教国策神社の典型例であり、今次大戦などの思想的記念として珍重すべきであろう。
◎心礎様円孔掘削石
【歴史】では以下のように云う。
『根本大堂跡北側に「金華山」碑(上は右から「金華」、下は「山」と刻む・弘化5年1848建立)がある。碑の前は緩やかな石階になり、覆屋の礎石(枘孔を穿つ)も残る。この碑から5mばかり離れた林の中に「中央に穴を刻んだ丸い石も参詣者の「手水鉢」に思えてくる。』
 以上この「円孔掘削石」は【歴史】でも由来が分からない書きぶりではあるが、「手水鉢」もしくは「鳥居の石礎」と見るのが常識的であろう。
しかし大きさや形状は心礎を思わせるものがある。
古代この推定根本大堂の付近に塔婆があり、その心礎が残存していると考えられないことは無いが、所詮荒唐無稽な妄想でしかない。
 金華山石碑:右手に一番大きな1本の立木があるが、「円孔掘削石」はその背後左にある。
 心礎様円孔掘削石1     心礎様円孔掘削石2
この石は大きさは径およそ150cmの大きさで、中央に径およそ30cm深さおよそ25cmの円孔を穿つ。

根本大堂下の52号(国司館)は5間×4間堂である。52号には後世3間堂が建立される。なお左右に3間堂がある。
 霊山寺52号遺構1     霊山寺52号遺構2     霊山寺52号遺構3
 霊山寺52号遺構4:【歴史】:遺構図のように、後世この堂の一角に3間堂が建立されその遺構を残す。
61号・53号などは礎石を伴う。その他は礎石を伴わない。
 霊山寺53号遺構:(53号付近は開墾により消滅か)
 霊山寺61号遺構1     霊山寺61号遺構2:【史2】      霊山寺61号遺構図:【史2】
これ等の遺構の下方には坊舎跡と推定される多くの平坦地がある。

3)ニツ岩遺跡

 3棟以上の遺構がある。仏堂と社が混在か。
  ニツ岩遺跡実測図:【歴史】

4)日枝神社遺跡

 山王権現社(近世末期の建物)及び千手観音堂がある。この区画は土塁に囲まれる。「霊山寺縁起」では「嶺に山王21社勧請」とある。
59号は礎石建物で山王院跡か。
 山王社付近要図:【歴史】      山王権現社遺構     山王権現社覆屋     山王権現社祠
 千手観音堂     千手観音堂内部:千手観音石佛を祀る。
 霊山寺59号遺構:【史2】:大正13年撮影、少なくとも2棟以上の遺構がある。山王権現別当山王院跡と推定される。

5)東寺屋敷遺跡

 5棟の遺構がある。57号は長床とも推定される。
 東寺屋敷遺跡実測図:【歴史】      東寺屋敷57号遺構:【歴史】:長床の遺構と推定される。
 東寺屋敷58号遺構:【史2】:大正13年撮影、58号遺構は塔跡の疑いがある。大門跡は更に東にある。
  ※塔跡と疑う根拠は示されないが、平面3間であるからであろうか?・・・未見のため、良く分からない。

6)古霊山遺跡

 7、8棟の遺構がある。「霊山寺縁起」では草創の場所と云うも、「霊山町史」では「古」とは「いにしえ」ではなく 、副(ふく)の転訛であり、本来は副霊山であろうとする。つまりは霊山寺の別院的な伽藍があったのではと推測する。
 古霊山遺跡実測図:【歴史】      霊山寺1号遺構:【歴史】:大正13年撮影

陸奥霊山寺略歴

「霊山寺縁起」:寛文5年(1665)の成立では
 貞観元年(859)円仁(慈覚大師)霊山寺を開山、本尊千手観音、山号を南岳山山王院霊山寺とする。
 山中に阿弥陀堂・薬師堂・大日堂・千手堂・曼荼羅堂・輪堂・経堂・仁王門・三階堂・大門などがあり、「山上ノ寺屋敷百ニ三十程」と云う。
「大師御行状集記」:寛治3年(1089)高野山経範では弘法大師の関与を云う。
 「陸奥国志信(信夫)郡に一山有り、寺の名は霊山寺、本願は不詳、但し(弘法)大師の結界した地なり・・・」
永観2年(984)領主の田原勝稙、霊山寺を古霊山より霊山(現在の霊山寺跡)に移転、3600坊と称する。(「霊山寺縁起」)

元弘3年(1333)後醍醐天皇、義良親王(後の後村上天皇)及び陸奥国司北畠顕家を多賀の国府へ下向させる。
建武4年(1337)義良親王・北畠顕家、霊山寺・伊達行朝(行宗)、結城宗広入道を頼り、霊山寺に移る。
        国府を多賀城から移し、霊山寺を城塞化(霊山城)する。
正平2年(1347)霊山寺城が落城、霊山寺も焼失。
応永8年(1401)頃、伊達氏宗(1371〜1412)が霊山寺を再建と伝える。
  ※この再建は山上伽藍なのか里(大石の宮脇遺跡付近)なのかは不明であるが、近年宮脇遺跡(伊達市霊山町大石)から
  建物跡・礎石などが発掘され、再建は里になされたと云う説が有力になる。
  ※里(大石村)には二之宮山王権現、観音堂が現存する。阿弥陀堂跡(現霊山寺の場所)、二之宮裏の旧霊山寺跡、十二坊跡・伝承地、
  鐘楼(大石小学校に蔵)などが残る。
  ※十二坊:学頭坊、院主坊、竹之坊、小坂坊、谷上坊、藤本坊、橋本坊、田代坊、瀧本坊、田中坊、清水坊、観行坊と伝える。
  観行坊以外の坊舎は跡や伝承地を残し位置が確定している。
慶長7年(1602)里の霊山寺(宮脇)野火により焼失。
寛永17年(1641)現霊山寺再建。旧山上の寺跡から約6km北方に移転。この再興は東叡山直末として天海によってなされる。
寛文5年(1665)「霊山寺縁起」成立。
正保2年には瀧本坊・竹ノ坊の2坊となる。
明治の神仏分離で廃寺、明治9年再興。

○阿弥陀如来座像:下総善雄寺(香取市)本尊は霊山寺旧仏の銘を持つと云う。
像高は176cm(丈六仏)。頭部の銘は「伊達郡霊鷲山より出現の慈覚大師の御作」とあると云う。胴部の銘は「佐原町伊能茂左衛門親子の寄進であり、元禄16年から宝永2年の間に制作」とあり、この時期に頭部と胴部を合わせたものとされる。
以上の銘により、頭部は陸奥霊山寺の旧像であると判明する。

○久成院日尊上人

文永2年(1265)霊山の麓玉野(現相馬市)に生れる。霊山寺に学ぶ。(典拠不明):【歴史】
後、日目上人、日興上人に師事する。京都上行院(後の要法寺)を開山。
 ※玉野は伊達と相馬の境界の村であった。
 ※生誕地は異説がある。 → 多宝富士山要法寺


2010/05/09作成:2010/05/09更新:ホームページ日本の塔婆