大和信貴山朝護孫子寺・多宝塔・三重塔・三重小塔

大和信貴山朝護孫子寺・多宝塔・玉蔵院三重塔・三重小塔

寺 伝
聖徳太子が毘沙門天王を感得し、毘沙門天王を自刻したのが始まりと云う。
「信貴山縁起絵巻」では妙連が毘沙門天を祀ったとし、さまざまな奇瑞を著すという。
延喜2年、醍醐天皇、病気平癒により、朝護孫子寺の寺号を勅する。
天正5年(1577)松永久秀の信貴山城を織田信長の軍が攻略し兵火に罹る。
慶長7年(1602)豊臣秀頼が復興。
明治30年代には本堂・多宝塔ほか千手院・成福院・玉蔵院・宝寿院・光明院があった。
 →当ページの牛臥寺の項(下の項)を参照
昭和26年(1951)本堂を焼失。同33年に本堂再興。

信貴山古圖會

○「大和名所圖會」:寛政3年(1791)刊:

信貴山朝護孫寺:左図拡大図
現在の多宝塔位置に三重塔が描かれる。
明らかに三重塔の絵であるが、多宝塔の描写間違いか。(しかしこの絵図でのかかる類の間違いの類例はないので三重塔であったのであろう。)
なを
「日本の塔総観」(近畿地方篇、増補改定版)中西亨、昭和48年 では
「大和名所圖會では今の位置に三重塔を描いているので、その後再建された時多宝塔に建替えられてのであろう」と云う。
また多宝塔の建築年代は不明ながら、以上の理由で江戸後期の建立であろうとする。

○大和國信貴山絵図、佐々木素香、明治13年:木版画、奈良県立図書情報館蔵
 大和國信貴山絵図1:全図
 大和國信貴山絵図2:多宝塔部分図、以下の明治5年の壬申検査ステレオ写真のように、多宝塔が描かれる。

2014/08/27追加:
○大和国信貴山朝護孫子寺境内之図、 田村豊盛堂石版部、明治32年-40年:石版画、奈良県立図書情報館蔵
本堂(舞台造)や多宝塔が描かれる。寺中は千手院・成福院・玉蔵院・宝寿院・光明院の存在が知られる。
 大和国信貴山朝護孫子寺境内之図
付属している鉄道線路図から、本図の作成は明治32年-40年と推定される。
 ※明治29年奈良鉄道の京都-奈良間全通、明治32年関西鉄道の亀山-奈良間開通、明治42年関西鉄道亀山-奈良間の大仏線廃止・木津経由に変更。したがって、本図は明治32年-40年の間と推定される。

信貴山多宝塔

本尊大日如来。寺院では元禄2年(1689)建立、明治15年修理と云う。

2010/01/10追加:
○壬申検査ステレオ写真:「東京都江戸東京博物館資料目録 ガラス原板1」2006 より
壬申検査ガラス原版
 信貴山毘沙門堂塔:明治5年8月29日撮影、最古級の写真であろう
 信貴山多宝塔遠望:明治5年8月29日撮影 、写真は明らかに多宝塔である。しかも上重には四隅に支持柱があり、
  建立から相当年月の経過している様相と見える。
  もし多宝塔が江戸後期の建立であったなら、明治初頭に上重の支持柱が必要でるとは通常では考えられないであろうから、
  果たして、本多宝塔は三重塔が退転し江戸後期に造立されたいう推測は正しいのであろうか。
2014/08/27追加:
○壬申検査ステレオ写真:国立国会図書館蔵、明治5年
 信貴山多宝塔1:上に掲載のガラス原版に対応      信貴山多宝塔部分図1
 信貴山多宝塔2:写真右部のみ      信貴山多宝塔部分図2
 信貴山多宝塔3:写真右部のみ      信貴山多宝塔部分図3

2007/04/27追加:
JIT(日本画像行脚)様より:

「日本写真帖」明治45年、ともゑ商会より
  明治45年以前の信貴山
    多宝塔下は千手院、左手寺中は成福院と思われる。
 ※上記と同一アングルではないが、多宝塔遠望写真
  2002年撮影画像

2010/01/10追加:
 昭和9年信貴山多宝塔:毎日新聞掲載

2012/04/28追加:絵葉書
 信貴山境内全景

2017/01/11追加:
s_minaga蔵絵葉書:通信欄の罫線が3分の1であり、かつ「きかは便郵」とあるので、明治40年4月〜大正7年(1918)3月までのものであろう。
 信貴山多宝塔絵葉書

○多宝塔
近年多宝塔の彩色が変更されたと思われる。(推定)
「日本の塔総観」(近畿地方篇、増補改定版)中西亨、昭和48年 の掲載写真では、組物などは江戸風な極彩色であったと思われるが、
木鼻や蟇股以外は朱色単色の彩色に変更されたように見える。
(以上が事実とすれば、その理由は不明)
一辺約4.2m、高さ約25m。下重には層塔風の三手先を用いる。
 大和信貴山多宝塔1     同       2     同       3      同       4     同       5     同       6

2010/01/10撮影:
信貴山多宝塔11:左図拡大図
信貴山多宝塔12
信貴山多宝塔13
信貴山多宝塔14
信貴山多宝塔15
信貴山多宝塔16
信貴山多宝塔17
信貴山多宝塔18
信貴山多宝塔19
信貴山多宝塔20
信貴山多宝塔21
信貴山多宝塔22
信貴山多宝塔23
信貴山多宝塔24
信貴山多宝塔25
信貴山多宝塔26

信貴山三重小塔

信貴山宝物館に展示。(館の入口正面・ガラスケース入り)江戸初期の作と説明がある。
初期かどうかは別にして、極めて江戸関東風な趣味の小塔であろう。
高さは目測でおそらく1m余と思われる。寛政頃までは存在したという説もある三重塔との関係は不明。
なお宝物館では「信貴山縁起絵巻」の複製を展示する。

 信貴山三重小塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5

2010/01/10撮影:
 信貴山三重小塔11:左図拡大図
 信貴山三重小塔12
 信貴山三重小塔13

信貴山多宝塔模型
2014/08/27追加:
2014年1月に「道の駅大和路へぐり・くまがしステーション」に信貴山多宝塔模型が展示されるという。(ブログ・新聞記事)
概要は以下の通り。
展示期間は2014/01/17-01/31まで。
製作者は平群町椿井の大工・阪口仙太郎氏(故人)、昭和40年頃約5年の歳月をかけて趣味として作成する。(孫の坂口昌弘氏談)
総高は214cm(台座を含む)。かなり精巧な造作であるという。
 信貴山多宝塔模型1:ブログ「まんべん日記」>「信貴山朝護孫子寺の多宝塔の模型」より転載
 信貴山多宝塔模型2:ページ「「2014年1月17日 奈良新聞」より転載
2015/03/07撮影:
◆阪口邸多宝塔

 信貴山多宝塔模型11
 信貴山多宝塔模型12
 信貴山多宝塔模型13
 信貴山多宝塔模型14
 信貴山多宝塔模型15
 信貴山多宝塔模型16:左図拡大図
 信貴山多宝塔模型17
 信貴山多宝塔模型18
 信貴山多宝塔模型19
 信貴山多宝塔模型20
 信貴山多宝塔模型21
 信貴山多宝塔模型22

軸部/組物などの部材は檜材を使用する。
屋根瓦及び相輪は木製。

阪口邸は平群町椿井にある。仙太郎氏は当時の信貴生駒電鉄及び信貴山鋼索線(ケーブル線)で足繁く通って、記録/記憶し、製作したという。今は家宝として置いているともいう。
なお、阪口邸のある集落は椿井城直下にあり、城跡に至る登山道が通ずる。その関係で阪口氏は椿井城保存の活動をしているという。
リーフレット(「椿井城」)によれば、椿井城は平群谷を支配した島氏(島左近はその後裔)によって築城されたあるいはそれ以前に椿井氏によって築城されたという説がある。近年では城郭の規模や構造から信貴山城に拠った松永秀久の勢力下で築かれた山城との説もあるという。
信貴山城は平群谷を挟み椿井城の東にあり、相互に眺望は良くきく。
 信貴山城遠望     椿井城遠望


信貴山玉蔵院三重塔

塔頭玉蔵院の持仏堂は昭和20年焼失、その再興にあたって三重塔として再興されたと云う。
昭和46年完成。鉄筋コンクリート製。木造風彩色。一辺6.2mという。
仏堂を兼ねているためかあるいはRC造のためか、塔婆としての造形は少々お粗末と思われる。
 信貴山玉蔵院三重塔1    同         2    同         3
2010/01/10撮影:
 信貴山玉蔵院三重塔11       同         12       同         13       同         14
    同         15       同      初重内部

信貴山成福院二重塔

塔頭成福院の融通堂(もしくは如意殿)として近年建立される。宝生尊(融通さん)を祀る。
流行仏閣の習いであろうか、派手な装いであり、やや品格を欠く。
 信貴山成福院二重塔1    同           2
2010/01/10撮影:
 信貴山成福院二重塔11       同         12       同         13       同         14

★参考
銅銭で塔婆を形作った額が、信貴山のある堂中に掲げられる。
銅銭で形を造り、それを奉納するのは各所で時折見かける。時代は文字が判読できないため不明。
 信貴山塔婆奉納額


牛臥寺

聖徳太子建立寺院として牛臥寺の名称がある。
この牛臥寺については情報が殆どないが、「聖徳太子伝古今目録抄」では以下のように説かれる。
 「聖徳太子伝古今目録抄」の関係箇所は以下のようである。
「盤上舟兒猿米焼米谷■喫而今椀山羊之伯父専有深意或云法隆寺之西南方在龍田大明神當寺鎮守也。
其西有河名平群河従河邊南北有二道太子之四天王寺往還道
一南路名椎坂路河内國高安郡通八部路
一北路名玉野路耶河内國通高安路也 
其両道之間山峯在大小之■(嶽)一名信峯一名貴峯 其峯東南在微妙盤石多聞天所座也
往古於件盤石上自北方小牡■■來焼數万石米即移北面谷其所名藏尾末代衆類可感福祐所表也
敏達天皇九年於住吉濱見二嶽名信貴山但多聞天者四天王天北方之王太子者憑四天王紹隆彿法守護国家而太子諸王子可歸浄土為表瑞相兼援(ケモノ偏)戯中示如此相此又未然表事也
當此嶽西北在伽藍太子為牛建立寺也。時人名牛臥寺複於盤石上立堂閣此聖智之建立也。聖智者太子之一名也。
又子孫相繼崇此山尤又名孫子寺此意見哥語面但椀山羊之伯父者入鹿之伯父者守屋大臣也仍此言在歟此哥蛍惑星之所作也」

※私(s_minaga)では、解釈の出来ない部分もあるが、凡そ以下と思われる。
南路北路の聖徳太子四天王寺往還道があり(南路は「椎坂路」「河内国高安郡に至る八部路」、北路は、「玉野路」「河内国高安郡に至る高安路」)、両路の間には大小の嶽が聳え(一名「信峯」と「貴峯」と云う)、南東には微妙盤石があり多聞天の座所である。
信貴山西北に伽藍があり、太子が牛の為に建立した寺院である。牛臥寺といい、磐石上に堂閣を建て、これは太子の建立である。また子孫相継ぎこの山は孫子寺とも称する・・・


2006年以前作成:2017/01/13更新:ホームページ日本の塔婆