甲  斐  国  の  寺  社  建  築

甲斐国の寺社建築

甲斐善光寺(定額山善光寺):甲府市

◇金堂(重文):1993/09/05「O」氏撮影・ご提供

寛政8年(1796)再建、善光寺に特有の撞木造と云う。
総高27m、正面24m、奥行38mの大建築。
 (信濃善光寺本堂;正面24m奥行は54mという)
甲斐善光寺金堂1:左図拡大図
  同       2       同       3       同       4

◇山門(重文):
1993/09/05「O」氏撮影・ご提供
明和4年(1767)再建、正面5間、側面2間の楼門、昭和34年台風で倒壊、後修復。
 甲斐善光寺山門1       同       2

永禄元年(1558)武田信玄、川中島の合戦で信濃善光寺の焼失を恐れ、大本願以下僧徒堂衆に至るまで、当地に遷座させると伝える。
天正10年(1582)武田氏滅亡。
織田信長により、本尊は岐阜に奉遷、本能寺の変後、織田信雄により尾張甚目寺へ移座。
その後、徳川家康が請受し、遠江鴨江寺に遷座。さらに、再び甲府に帰座する。
慶長2年(1597)豊臣秀吉、地震崩壊の方広寺大仏の替に、阿弥陀如来像勧請し、善光寺如来は入洛するも、翌年秀吉の病により、信州へついに帰仏する。
甲斐善光寺では、前立仏を本尊とし、寺院は再編・継続する。
宝暦4年(1754)火災炎上、大伽藍は灰燼に帰す。現伽藍はその後の再興。

◇甲斐善光寺三重塔
・「和漢三才図会」には以下の記事がある。
  記事・・・坊舎60軒、寝釈迦堂、三重塔、閻魔堂、三門
・「甲斐善光寺由来」では以下のように紹介していると云う。
  江戸時代にも・・・浄土宗甲州触頭として、金堂・山門・三重塔・鐘楼をはじめ本坊三院十五庵の大伽藍を有し・・・
  ところが、宝暦4年2月、門前の農家の失火により類焼し、堂塔ことごとく烏有に帰す・・・

※三重塔に関する詳細は不明であるが、上記の記事から以下が知れる。
 宝暦4年の大火まで三重塔が存在するも、宝暦4年に焼失し姿を消したものと推定される。

2010/05/30撮影:
本堂から山門を望む:古の伽藍絵図などに出会わないので、敢えて推測すれば、山門・本堂間には諸堂宇・坊舎などが立ち並んでいたと推測される。信濃善光寺には山門入ってすぐに五重塔があったされ、この例に倣えば、山門内側すぐに三重塔があったものと推測される。
近世末から近代に至って、例に漏れず、当寺も急速に衰えたものと思われ、山門から本堂に至る参道左右には坊舎跡とも思われる区画を残すが、民家などが建ち、山門・本堂以外に往時の面影を全く残さない。三重塔は山門・本堂間にあったとの仮定に立てばの話であるが、遺構など全く分からないのが現状であろう。
山門から参詣道を望む:長い直線の参道があるが、これが近世の参道を引継いだものであるとすれば、この参道左右にも坊舎の存在が推測されるが、その痕跡は全くない。
山門内側の置き石:山門入ってすぐに7、8個の置き石があるが、何等かの堂宇の礎石に見えないことは無い。

◆甲斐善光寺山門
 甲斐善光寺山門11       同      12       同      13       同      14

◆甲斐善光寺本堂
 甲斐善光寺本堂11       同      12       同      12       同      13       同      14
   同      15        同      16       同      17       同      18       同      19
   同      20        同      21       同      22       同      23       同      24
   同      25        同      26


長禅寺:甲府市

甲斐長禅寺五重塔・三重塔
  左写真は「O」氏撮影・ご提供

 

恵林寺:甲州市(塩山市)

  恵林寺三重塔


写真提供:以下は全て「O」氏ご提供(向嶽寺2010/05/30撮影画像を除く)

ご提供写真の割愛・画質など:
掲載枚数は、ごく一部のみを掲載する。
画質は、大幅に画質を落として掲載する。(オリジナル画像は写真印刷にも対応した高解像度のものである。)
さらに、オリジナル画像を相当程度リサイズ(縮小)あるいはトリミングして掲載する。


海涌山清白寺:山梨市:1990/12/02撮影画像

正慶2年(1333)足利尊氏の建立、夢窓疎石(国師)を開山とする。臨済宗妙心寺派。

◇仏殿(国宝):

応永22年(1415)の墨書(組物)がある。中世禅宗様の典型であろう。

甲斐清白寺仏殿1
  同       2:左図拡大図
  同       3
  同       4
  同       5

◇庫裏(重文):元禄2〜6年(1689〜93)再建、正面6間、側面9間、一重切妻・妻入、屋根茅葺。
 甲斐清白寺庫裏1   甲斐清白寺庫裏2
 


大井俣窪八幡宮:山梨市:撮影日付の明示のないものは1990/12/02撮影

貞観元年(859)、大井俣(笛吹川の中島)に宇佐八幡宮を勧請し、大井俣八幡と称する。
その後、社地を現在の窪の地に移し窪八幡と呼ばれるようになる。「大井俣神社本記」
現在、鐘楼を除き仏堂は存在しないが、それでも以下のように、中世の特徴を色濃く示す社殿を多く残す。

◇鐘楼(県文):

天文22年(1553)の建立/「王代記」及び棟礼の写し/:
桁行一間、梁間一間、袴腰付、屋根檜皮葺、寄棟造。

大井俣窪八幡宮鐘楼1:左図拡大図
  同         2
  同         3

◇本殿(重文):

永正16年(1519)の墨書、十一間社流造・屋根檜皮葺。
三間社流造の三社の間に1間を置き、それぞれを横に連結する形式を採る。


大井俣窪八幡宮本殿1:左図拡大図
  同         :唐様木鼻を用いる 。
  同         3
1991/11/10撮影:
 大井俣窪八幡宮本殿4
   同         5
 


◇拝殿及び附鰐口(重文):

弘治3年(1557)の墨書(小屋束)、天文22年(1553)武田信玄の造替ともある。(「神社本記」)
本殿の11間流造に対応して桁行11間、梁間3間、一重切妻造、屋根檜皮葺。

大井俣窪八幡宮拝殿1:左図拡大図
  同         2
1991/11/10撮影:
 大井俣窪八幡宮拝殿3:右端は鐘楼

 ※なお、拝殿には鰐口が現存し、その表面には天文22年(1553)、裏面には弘治3年(1557)の刻銘があると云う。
 
◇摂社若宮八幡本殿(重文):
応永7年(1400)の建立(「神社本記」)とするも、様式から15世紀後期と考えられる。三間社流造、屋根檜皮葺。
 摂社若宮八幡本殿1   摂社若宮八幡本殿2:唐様木鼻を用いる

◇摂社若宮八幡拝殿(重文):
天文5年(1536)建立と伝える。(「神社本記」及び「王代記」)桁行4間、梁間3間、入母屋造、屋根檜皮葺。
 摂社若宮八幡拝殿

◇末社高良神社本殿(重文):
明応9年(1500)再建(「神社本記」)、一間社隅木入春日造、屋根檜皮葺。
 末社高良神社本殿1   末社高良神社本殿2   末社高良神社本殿3

◇末社武内大神本殿(重文):
明応9年(1500)再建と伝える。(祭神:武内宿祢)、一間社流造、屋根檜皮葺。
 末社武内大神本殿1   末社武内大神本殿2:唐様木鼻を用いる 。

◇末社比梼O神本殿(重文)
この社名は国家神道の捏造で、弁財天社です。寛永2年(1625)徳川忠長の再建と伝える。
一間社流造、屋根銅板葺(もとは檜皮葺)。白・朱・黒と各部を塗り分け、金箔を施す総漆塗り建築と思われる。境内前部の池の中島に建つ。
1991/11/10撮影: 弁財天社1   弁財天社2   弁財天社3

◇神門附石橋(重文):
境内の正面入口拝殿前に建つ、東面する。永正8年(1511)の建立(「神社本記」あるいは天文11年(1542)建立(「王代記」)。明和6年(1769)修理 (「墨書」)。切妻造の四脚門、屋根檜皮葺。神門前の堀に軽く反った石橋がある。
 大井俣窪神門及び石橋

◇鳥居(重文):
天文9年(1540)の建立(「王代記」)とされる。木造(最古の木造鳥居と云う)
 大井俣窪八幡鳥居:正面は神門

◇如法経塔(安山岩製)
享禄5年(1532)の建立とされる。(「王代記」)

神仏分離以前の八幡社の状況は(情報がなく)不明であるが、Web上には以下の情報が散見される。
・紙本墨画淡彩「窪八幡神社境内古絵図」(天文22年1553の作と伝える。「王代記」)が現存する。)
随神門(仁王門の可能性大)、舞台、杉本観音堂、普賢堂(本地堂か)、官寺薬師(不明)なども存在したと云う。
絵図の作者は別当上之ノ坊普賢寺権大僧都良舜と云う。
・大永5年(1525)普賢堂、薬師堂、鐘楼などの建立・修築が開始される。  
・木造釈迦如来坐像(別当普賢寺本尊・鎌倉期):明治の神仏分離で普賢寺は廃寺、末寺の清水寺に移座し、現存する。
・勝軍地蔵騎像(別当普賢寺像・室町期):同上
・別当は上之ノ坊普賢寺と号する。
・年代記「王代記」は別当上之坊で書き継がれると云う。


柏尾山大善寺:甲州市(勝沼町):1990/12/02撮影

◇薬師堂(本堂・国宝):

堂内陣の背面隅柱に「弘安九参月十六日」の刻銘があると云う。鎌倉期の貴重な遺構。
正面5間、側面5間、寄棟造、屋根檜皮葺。
薬師堂には厨子一基(文和4年<1355>)が付属する。

甲斐大善寺薬師堂1:左図拡大図
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8

養老2年(718)行基が柏尾山日川渓谷で修行し、薬師如来が夢現したと云う。その薬師如来を安置したことに始まると云う。
往時は相当な大寺であったと伝えるも、現在は薬師堂・楼門・鐘楼などを残すのみとなる。
木造薬師三尊像、木造十二神将立像、木造日光・月光菩薩立像(いずれも重文)を有する。
「佛教考古学論攷」石田茂作 では
 大善寺三重塔、東山梨郡勝沼町、新義真言、建武前、建武3年焼亡 とある。


裂石山雲峰寺:甲州市(塩山市)

◇本堂(重文):1991/03/03撮影

室町末期武田信虎が再興。
桁行5間、梁間5間、単層入母屋造、唐破風向拝一間、屋根桧皮葺。元々は密教本堂とされる。向拝は後に追加される。

甲斐雲峰寺本堂1
  同      2:左図拡大図
  同      3
  同      4
  同      5

◇書院(重文):1991/11/10撮影
正徳6年(1716)の墨書があると云う。桁行8間、梁間5間、一重寄棟造、屋根茅葺。
 甲斐雲峰寺書院1   甲斐雲峰寺書院2   甲斐雲峰寺書院3   甲斐雲峰寺書院4   甲斐雲峰寺書院5

◇庫裡(重文):1991/03/03撮影
室町末期武田信虎が再興。桁行10間、梁間5間、妻入、東側面庇付、一重切妻造、庇葺きおろし、屋根茅葺。
 甲斐雲峰寺庫裏1   甲斐雲峰寺庫裏2   甲斐雲峰寺庫裏3

◇仁王門(重文):1991/11/10撮影
室町末期武田信虎が再興。桁行三間、梁間ニ間、三間一戸八脚門、一重入母屋造、屋根銅板葺。
 甲斐雲峰寺仁王門1   甲斐雲峰寺仁王門2   甲斐雲峰寺仁王門3

天平17年(745)行基の開創とする。天台宗から禅宗(臨済宗妙心寺派)に転宗と云う。
天文年中(1532〜54)火災により焼尽、室町末期武田信虎が再興。


塩山向嶽寺:甲州市(塩山市)

◇中門(重文・四脚門):1991/11/11撮影

室町期。切妻、屋根檜皮葺。唐様の豪放な建築である。
甲斐向嶽寺中門1
甲斐向嶽寺中門2:左図拡大図
甲斐向嶽寺中門3
甲斐向嶽寺中門4

臨済宗向嶽寺派大本山。康暦2年(1380)武田信成が建立、抜隊得勝禅師が開山。
外門、中門、放生池、三門跡礎石、仏殿、庫裡、方丈門、方丈、書院などを残すも、中門以外に古建築はない。

2010/05/30撮影:
 向嶽寺中門11     向嶽寺中門12
 向嶽寺放生池・木橋     向嶽寺三門跡礎石     向嶽寺法堂     向嶽寺諸堂宇


塩山熊野権現:甲州市(塩山市):1991/11/11撮影

大同2年(807)熊野権現の六神六社の社殿を造営したと伝える。(熊野権現の六神六社とは不明)
現在、本殿は高低三段に区画した境内の奥の高所に南面してあり、6社が東西に並列する。向かって右(東側)の2棟が古建築(鎌倉期)で、西の3棟は江戸期の再建、次の1棟は退転(小祠)している。

◇本殿(重文・東の2棟・附棟札4枚 ):

一間社隅木入春日造、屋根檜皮葺。文保2年( 1318)とも云われるが、
いずれにしろ鎌倉期の遺構とされる。
正面は嵌板壁とし、その外面に格子組を当て、出入口を左側面に設ける珍しい構造とされる。


甲斐塩山熊野権現本殿1
  同           2
  同           3:左図拡大図
  同           4
  同           5
  同           6

◇拝殿(重文):
正面5間、側面3間、入母屋造、屋根茅葺。本殿造営の記録によれば天文18年(1549)に再興されたと推定される。
この拝殿は西よりの江戸期再興の社殿3棟の前に位置する。
 甲斐塩山熊野権現拝殿1   甲斐塩山熊野権現拝殿2   甲斐塩山熊野権現拝殿3


法蓋山東光寺:甲府市

◇仏殿(重文・薬師堂):1993/09/05撮影

建築年代は不詳、様式から室町期とされる。 
桁行3間、梁間3間、入母屋造、屋根檜皮葺、裳階付き。昭和32年解体修理。
甲斐東光寺仏殿1:左図拡大図
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6

臨済宗妙心寺派。本尊薬師如来。甲府五山(長禅寺、能成寺、大泉寺、円光院、東光寺)のひとつ。
保安2年(1121)新羅三郎義光、諸堂を再興、寺号を興国院とする。
弘長2年(1262)蘭渓道隆、禅宗寺院として再興し、寺号を東光寺と改号する。
天文年間、武田信玄による保護を受けて再興される。


福田山塩沢寺:甲府市

◇地蔵堂(重文):1993/09/05撮影

様式上、室町末期と推定される。この堂は、岩造台座(基岩から造出す)上に安置される石造地蔵菩薩座像の周囲に墓壇を築き、本尊を覆 う形式の建築である。
甲斐塩沢寺地蔵堂1:左図拡大図
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5

大同3年(808)弘法大師の開創と伝える。
天暦9年(955)あるいは承平3年(933)空也上人の中興(開基)と云う。


2007/10/15作成:2010/06/13更新:ホームページ日本の塔婆