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林泉忠
『「辺境東アジア」のアイデンティティ・ポリティクス
          ――沖縄・台湾・香港』
(明石書店2005.2)

 本年初頭に上梓され話題を呼んだ著作である。沖縄に関連する部分にのみ言及したが、以下に目次を示そう。

序章 本書の視角
第1部「帰属変更」の遺産としての沖縄ナショナリズム
 第1章「琉球抗日復国運動」の性格
 第2章 戦後初期沖縄諸政党の独立論――失敗した沖縄主体性回復の試み
 第3章「祖国復帰」と「反復帰」――沖縄アイデンティティの十字路
第2部「帰属変更」の遺産としての台湾エスノポリティクス
 第4章「省籍矛盾」と蒋経済国の「『本土化』政策」
 第5章「新中国文化」から「新台湾文化」への転轍の政治的文脈
第3部「帰属変更」の遺産としての香港アイデンティティ
 第6章「香港共同体」の確立と「香港人」の想像・創造
 第7章「一国」VS「二制度」の力学と香港住民のアイデンティティ
終章「辺境東アジア」アイデンティティ・ポリティクスのダイナミズム

 「序章 本書の視角」で、“本書は、沖縄・台湾・香港を包括して「辺境東アジア」という新しい地域概念を提起し、そのもっとも重要な特徴である「帰属変更」によってもたらされたこの三つの地域のダイナミックなアイデンティティ・ポリティクスを比較するものである。/……既存の「東アジア」といった地域概念では同地域の諸現象を分析するに当たり、不十分で処理しきれないところがあるからである。/加えて、「辺境東アジア」という新たな地域概念の提起は、近年の国際関係や地域秩序の変化をも意識したものである。”

 そして、第一に“台湾・香港・沖縄を包括する「辺境東アジア」のもっとも基本的特徴は、この三つの地域が前近代ないし近代において東アジアの「中心」である中国・日本にたいして、「辺境」として位置づけられてきたことである。/……「中華世界システム」(「華夷秩序」)のセンターに位置する中国を指す。ただし、とりわけ近代の「中心東アジア」を考える場合、中国のほかに、明の後半から「中華世界システム」から離脱すると同時に、自ら「小中華」を形成し、そして近代に入ると東アジアの「中心」である中国にたいし直接的な挑戦を行なっていた日本をも視野に入れることは妥当であろう。”
 第二に“「辺境東アジア」のもっとも重要なキーワードは、「帰属変更」と言ってよい。近代以来、「辺境東アジア」地域は、二度ないし三度にわたりその主権もしくは政治的帰属が変更されたり、「異民族」の植民地的支配を受けたりした経験をもっている。……/「辺境東アジア」の「帰属変更」の形態には、二つのパターンが含まれている。ひとつは、割譲や併合によってもたらされたいわゆる「外国」「異民族」支配であり、もうひとつは、いわゆる「祖国復帰」という、方向としては正反対なものである。”
 第三に“構造的問題としての「帰属変更」が、「祖国」に復帰した「辺境東アジア」にもたらした新たな問題とは、「祖国」との国民統合問題に直結する「辺境東アジア」住民のアイデンティティ問題の顕在化である。そして、この現象は「辺境東アジア」の一種の「脱辺境化」の動きとして捉えられよう。”

こうした視角を踏まえて、沖縄をめぐる論究についてのみ触れる。

 「第1章」において、“沖縄住民の「アイデンティティ問題」はけっして戦後のアメリカ統治や1972年の日本復帰に始まったのではなく、沖縄の「近代の幕開け」とされる1879年の琉球併合(「琉球処分」)にまで遡ることができる。”と指摘し、“しかし、近現代史の流れを見れば、日本への統合・同化および「日本人アイデンティティ」の確立・努力は主流的存在であり、「沖縄人」アイデンティティを強調し政治的自立まで鼓吹する動きは傍流にすぎないとも言える。”
(1)もっとも筆者は“歴史は勝者によって書かれる。”とし、“琉球の「処分」に成功した明治政府の論理に符合した事大主義史観は、長い間、主流的論調として、「日本民族の統一」や「国民国家形成の欠かせない作業」、そして「沖縄社会近代化の契機」といった言説で暴力的性格をもった本来の琉球併合を正当化してきた。また、このような史観の延長線で、政治性ないし差別性に満ちた当時「処分」側である明治日本が使用した用語は、括弧さえつけずに平然とそのまま用いられてきた。「琉球が重大な過ちを犯したための懲罰」の意味を含んだ「琉球処分」という言葉や、琉球国の回復をめざす運動を「脱清運動」、運動活動家を「脱清人」と称した用語のこれまでの使い方は、その好例であろう。”
(2)「琉球処分」以降の「琉球併合への反対運動の捉え方」の従来の定説に対して、“筆者はこの運動を「琉球抗日復国運動」と規定する(林泉忠2003)。狭義的には琉球国の回復をめざした陳情運動を指し、広義的には、日本の「琉球処分」にたいしさまざまな形態で展開された内外の琉球エリート・民衆による反対抵抗運動を指す。ただし、事実上の併合容認でその性格が併合反対と異なったと思われる「公同会運動」も、日本の直接支配に反対する点から一種の抵抗運動であると捉えられるため、広義としての「琉球抗日復国運動」の範疇に入れてもよい。以上の定義から、他の関連用語に関しては、「琉球処分」を「琉球併合」とし、また「脱清人」や「脱清派」を具体的人・参加形態を考慮し「陳情歎願者」「復国運動活動家」「復国運動指導者」「清国亡命者」「復国抵抗派」「主流抵抗派」などとして使用する。”
(3)さてそうした「復国運動」だが、筆者は次の三点をその特徴として挙げている。「1大規模な運動と形態の多様性・国際性・非暴力性/2エリート層主導の運動/3運動参加における農民側の環境的制約」
 第一に“前近代社会の琉球王国末期にいたるまで、民族・国家意識を比較的もちうるのは、やはり士族たちを実体とする琉球エリート層である。近代社会においてさえ見られる一般下層市民の民族意識の希薄が、当時の琉球農民層に顕著に存在したことは、言わば自然なことであろう。したがって、前近代社会において、エリート層の有効な動員がないかぎり、また動員の原因は生活にかかわる死活の問題でないかぎり、一般下層農民による自発的大規模な大衆運動がありえないと言えよう。”
 “第二に、そもそもエリート層が動員できる資源は制約されていた。……日本の新しい支配は武力を背景に遂行しているうえに、元来琉球の行政機関はすでに日本の新しい行政システムに更迭されたため、生活を継続するかぎり「新政」にたいする長期的ボイコットは不可能である。一般農民の非暴力的不服従運動への参加は運動の最初から限界性に満ちた非現実的対応にしかならなかったのであろう。”
 第三に、“一般農民の恨みの対象は首里王府・士族のみならず、薩摩・大和でもあったはずであるため、一方に王府・士族に恨みをもち、一方に親しみのない「薩摩・大和人」の支配を歓迎する構図は論理的にも成立しえないだろう。また、圧迫されてきた琉球農民への「解放」措置は、実際、日本の「新政」下で具現化されていなかったため、「支配」は農民の普遍的歓声を得られたとも考えがたい。ただし、農民たちの重視している生活の面で考えれば、日本の新しい支配システムは旧来の首里王府による統治体制と大きな変化はないということが、一般農民の併合にたいする長期的抵抗意識を効果的に抑える働きを有したと言える。言うなれば、民族・国家レベルの精神的信念よりも生活を優先する琉球の農民たちにとっては、生活が顕著に悪化しないかぎり、統治者が誰であるかを大げさに問うことをしなかったのであろう。これは、農民たちが長期的に抗日復国運動に参加する意欲が希薄であった一因として考えられよう。”

以下、本書の沖縄に関わる部分のみの抜き書き。



第1章 「琉球抗日復国運動」の性格

第4節 復国運動の反日感情

第5節 「琉球アイデンティティ」の凝集


……
 「琉球アイデンティティ」は、けっして琉球併合のあとで現われ始めたのではない。琉球併合の前にすでにこの琉球為政者・エリートらのあいだに存在していた。挙例すれば、1872年の琉球国使節の伊江王子(尚健、正使)・宜野湾親方朝保(向有恒、副使)・喜屋武親雲上(向維新、参議官)らは日本の副島外務卿との会見において、大島諸島は「固より我琉球隷属なりしに、昔し慶長年間、薩人の為に押領せら」れたので「我に返戻」してもらいたいと明治新政府に要求した(喜舎場朝賢『琉球見聞録』1977)それは、267年前の1609年に薩摩の琉球侵攻とそれ以来の詐取への不満を間接的に示していると同時に、琉球側が認識している自らの国土の範囲は、当時薩摩の奪取によって失った奄美諸島までカバーしていることを意味する。興味深いことに、一般に見られる近代ナショナリズムの構成要素に欠かせない国土への愛着は、当時の琉球エリートたちももっていた「琉球アイデンティティ」にはすでに内包されていたのである。そして、このように、琉球為政者やエリートたちのあいだに存在した「琉球アイデンティティ」の維持と表出は、薩摩・日本にたいする怨嗟によって裏づけられていたことも見逃してはならないだろう。
……
 他方、このように琉球併合という激動のなかで「琉球アイデンティティ」が凝集され強化された現象は、けっして首里にある旧琉球指導部・エリートたちのあいだの狭い範囲のみにとどまらず、沖縄本島以外の先島地域にも、ある程度拡大していった。紙幅の関係でこの辺についての詳述を省略するが、琉球併合期に起きた宮古の「サンシー事件」は、血判書署名運動の波及・拡大などを通して沖縄本島で起きた併合反対・日本支配へのボイコット運動が、周辺地域まで広がっていたことを示したと同時に、琉球国の滅亡という激動のなかで、先島も「琉球」という運命共同体の一員を意識した一例と言えよう。

結びに 「琉球抗日復国運動」の歴史的位置づけ

 琉球国は東アジアの一小国として、とりわけ17世紀初頭の薩摩の侵攻を受けるまで貿易を通して前近代東アジア秩序の一翼を担っていたが、近代に入ろうとした時期に、ついに亡国の運命を避けることができなかった。また、琉球国の復活をめざし4半世紀つづいた波瀾万丈の「琉球抗日復国運動」も、結局、目標はまったく果たされないまま、ついに失敗に終わった。
 「琉球抗日復国運動」の敗因を考えるには、運動の方策などさまざまな視点から考察することが可能であるが、琉球併合=琉球亡国とともに「琉球抗日復国運動」を取り巻く時間と空間から検討することもできる。この交錯した時間と空間の射程に入るのは、いわゆる「伝統と近代」「中心と辺境」「国家システムと国際システム」という三つの軸だと言える。
 まず、琉球の国家システムと琉球を取り巻く国際システムを見てみよう。日本による併合までの琉球は、統一した一王国の体裁が整っていた。そのため、琉球国の国家システムは、王権を頂点とする前近代の王政国家の類型に属すると見てよい。また琉球を取り巻く国際システムに目を転じれば、琉球は清朝(明朝も)の冊封体制下で清朝に附庸し、当時の朝鮮・安南(ベトナム)、緬甸(ビルマ)などと並び清の一属国となる一方、17世紀以降薩摩にも帰服し経済的支配と政治的干渉を受けるようになり、いわゆる「両属」という状態に置かれていた。前近代東アジアの国際秩序である「中華世界システム」(「華夷秩序」)は、西欧に起源する近代の主権国家の原則には相容れられないため、人類社会発展の段階論から言えば、東アジアのこの前近代国際システムもいずれ「近代危機」に直面せざるをえなくなる。しかし、冊封・朝貢システムの宗主国である清もその属国らもこの近代の波にいち早く敏感に反応することができず、結局、いっせいに呑まれてしまうという共倒れの結末となった。これまで安泰だった東アジア世界が受けたこの衝撃は、前近代の「中華世界システム」とその近代における変容すなわち「中華世界システム」の「変態」との相克の結果であると考えてよい。具体的に言えば、日本や欧米の列強からの外圧によって、清は属国を次々と喪失していったばかりか、自らは半植民地状態に陥った。他方、その属国も列強に併呑され、独立の選択肢を与えられなかったのである。この意味で、前近代の一王国としての琉球国の滅亡も、「守旧」から脱出できなかった「琉球抗日復国運動」の失敗も、この「伝統と近代」もしくは「前近代」と「近代」の相克の帰結だと言える。たしかに、侵略性を内包する列強のアジア侵出にはけっして正当性があるとは言えないが、同時代の日本が明治維新で近代国家に生まれ変わろうとしていた動きに照らせば、危機感に満ちた琉球併合の時期においても琉球エリートたちの言動に見られる自己改革の意思および近代化感覚の欠如はより顕著である。
 他方、琉球国は近代国家になる前にタイミングよく「処分」されたため、琉球全域を射程に入れる、「琉球国」「琉球民族」を対象とするナショナル・アイデンティティが本格的に確立する機会を失った。また、この点にも関連しているが、「琉球抗日復国運動」は近代的ナショナリズムの性格を十分に帯びていないため、近現代の沖縄ナショナリズムの発展や高揚をもたらす原動力としては不十分だと言える。
 しかし、前述したように、「琉球抗日復国運動」はそれが進行していた四半世紀において、琉球エリート層のあいだに「琉球アイデンティティ」が相当の程度、凝集されたと言える。それは、日本が暴力的・一方的に琉球国を滅ぼした過程によるところが大きい。この国家意識をも帯びている「琉球アイデンティティ」は、運動の中心である首里の士族たちにとどまらず、首里を中心に同心円状に沖縄本島全体や諸周辺属島の地方エリートたちのあいだにも広がっていた。他方、一般民衆側にとっては、日本の琉球併合は名実ともに「大和世」の到来を意味する側面が強いと言えるだろう。また、それによって「支配者」の日本人との接触機会の増加ももたらされた。とくにその後の統治過程や接触過程に生じた諸差別から、沖縄民衆の「沖縄人」という自己意識と「大和人」という他者意識が定着していく。
 「琉球抗日復国運動」は、沖縄歴史上の最大かつ熾烈な政治社会運動であるにとどまらない。たしかに、運動の主要形態は清国における救援請願活動であらざるをえないことから、以上の「中華世界システム」もしくは伝統的「中心−辺境」思想構造を超越していない側面は否定できない。しかし、「琉球抗日復国運動」は、琉球エリートたちが自主的意思で運動を展開している点から、自律性を濃厚にもっている。この自主的行動様式は、他律的なイメージの強い琉球史のなかで格別の意味を有している。「琉球抗日復国運動」は、琉球国を回復する目標を達成できずに失敗で幕を閉じた。しかし、この運動で現れた琉球エリートたちの国家意識と、一般民衆にまで広がりつつあった「琉球アイデンティティ」は、その後、長い歳月をかけて「日本人」の一員になろうという「日本アイデンティティ」の構築を多かれ少なかれ抑制するエネルギーとなりつづけてきた。
 今日も進行している複合的「沖縄問題」の核心は、いぜんとして沖縄のアイデンティティに深くかかわっている。沖縄住民のこのアイデンティティの葛藤の長い歴史的幕開けは、まさに琉球住民の意思を無視した1879年日本の琉球併合によってもたらされたのである。また、この「沖縄アイデンティティ」のいっそうの政治化現象は、それ以降多くの歴史的節目のおりに噴出した沖縄の独立論・独立運動で表現されてきた。この政治的主体性の確立を内包する近現代「沖縄ナショナリズム」の起点は、まさに本章で議論してきた「琉球抗日復国運動」に求めるべきであろう。
……


第2章  戦後初期沖縄諸政党の独立論―― 失敗した沖縄主体性回復の試み

第1節 戦前沖縄アイデンティティの葛藤


1 「下から」の日本への同化運動の限界
……
 引きつづき日本に抵抗するか、それとも日本の一員になるか、それは当時多くの沖縄知識人に迫られた苦悩の選択であった。流れは後者だった。「公同会運動」にも積極的に参加した太田朝敷(1865一1938)は、運動終結後に一転して日本への同化運動に身を投じた。太田の「くしゃみの仕方まで日本化」という提唱は、「下から」の日本への同化の努力を象徴するものであった。そればかりか、太田朝敷のような人物が、沖縄の独自性を護持する立場から沖縄の徹底的な日本化を訴える立場へと変節すること自体、まさに近代以降沖縄住民のアイデンティティ葛藤史初期のシンボリックな出来事である。
 いずれにせよ、太田朝敷を始めとする沖縄の新世代エリートおよび一般大衆がめざした日本への同化の方向は、太平洋戦争終結までつづいた。およそ半世紀に及ぶこの沖縄社会の自主的日本化志向は、日本政府の徹底的同化政策に合致するかたちで、相当の成果を収めたが、沖縄住民全体が完全な「日本人」として自覚するまでにいたらなかった。太田朝敷より十一歳若かったもうひとりのエリート、「沖縄学の父」と称され多くの分野で沖縄研究に多大な貢献を遂げた伊波普猷(1876― 1947)のアイデンティティをめぐる葛藤はその好例であろう。
 琉球併合を「一種の奴隷解放」と謳歌し、半世紀にわたって学問的に沖縄の主体性を矮小化し「日琉同祖論」を証明しようとしていたと言っても過言ではない伊波普猷は、終戦直後に残した最後の論文において、これまでの政治的努力に矛盾した興味深い言葉を述べている。「……地球上で帝国主義が終わりを告げる時、沖縄人は『にが世』から解放されて、『あま世』を楽しみ十分にその個性を生かして世界の文化に貢献することができる」(伊波普猷『沖縄歴史物語』復刻1998)と、かつての「奴隷解放」の時代を結局解放されていない「にが世」とし、自らの史観を覆すのみならず、本当に解放される来るべき「あま世」においては、沖縄文化の貢献すべき対象は日本よりも世界であると一代大学者の晩年の心境を披露している。このような伊波普猷の「沖縄人」と「日本人」とのあいだの徘徊は、まさに「日本人」になろうと努力したが、結局「日本人に成り切れない」(元沖縄県知事・西銘順治)戦前の多くの沖縄エリートと大衆のアイデンティティ葛藤の縮図と言えよう。

2 戦後初期の「沖縄独立論」をめぐる先行研究と課題
 「日本人に成り切れない」心の一部は、終戦にともなって「日本離れ」「沖縄独立」といったかたちで沖縄社会において現われた。この現象は、戦前の半世紀に及ぶ「日本同化」一本化への反発と捉えうるが、琉球併合およびその反発としての復国運動以降「死滅」したはずの沖縄ナショナリズムの「再生」は、近現代沖縄社会に持続的に存在してきたアイデンティティ問題を解く作業にとっては、いかなる意義を有しているのであろうか。
……

第2節 沖縄の独自政党の成立と運営

第3節 初期政党の性格と独立論

第4節 独立論の実像

第5節 独立風潮の形成と消滅の背景


 戦後初期における沖縄独立論生成の背景について、まず第一に指摘できるのは、太平洋戦争における日本の敗北とアメリカ軍の沖縄上陸、実効支配である。沖縄は日本の一部から切り離され、行政的には日本と別個に置かれた。この現実は、独立風潮の形成に絶好の環境を提供したのである。
 第二に、この時期、沖縄の法的地位の不明瞭性は独立論の有利な理論的根拠となった。まず、1943年のカイロ宣言には沖縄の地位について明言されていないが、「日本国はまた暴力及び貪慾により日本国が略取したる他のいっさいの地域より駆逐せらるべし」と書かれており、沖縄では、日本が略奪した地域のうちに沖縄も含まれるとする見方もあった。また、ポツダム宣言の第8条には「カイロ宣言の条項は履行せらるべく、また日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我等の決定する諸小島に局限せられるべし」と、日本の国の範囲をはっきりと「主権」という言葉で示しており、日本のそれが沖縄に及ばないとも解釈されている。また、「沖縄の最終的帰属は戦勝国による講和会議によって決定される」という棚上げの方針は、「沖縄地位未定論」とつながり、独立論者には有利であった。
 第三に、戦後初期において、直接の支配者であるアメリカの沖縄地位の処理にたいする政策は鮮明ではなかった。中野好夫と新崎盛暉が指摘しているように、アメリカは「『沖縄人は日本人ではない』などと言いながらも、沖縄を独立させようというような政策もとられなかった」(中野好夫・新崎盛暉『沖縄問題二十年』1965)。このようなアメリカの対沖縄軍政基本方針の不明確さによって、独立論の展開が可能となった。
 第四に、本土政党の沖縄復帰への消極的な態度である。なかでも、時の日本共産党書記長徳田球一の提案で(松田清『奄美社会運動史』1979)、1946年2月24日に第5回党大会で「満場一致」で可決し沖縄人連盟に送った「沖縄民族の独立を祝うメッセージ」はよく知られている。日本共産党のこの初期の考えは、沖縄人民党や奄美共産党の独立志向に大きな影響を与えたであろう。また、日本社会党も初期には沖縄復帰政策を打ち出さず(中野好夫・新崎盛暉前掲1965)、自民党も「復帰尚早論」に傾斜していた。
 第五に、国際関係における情勢の変化である。第二次世界大戦の終焉によって、沖縄に隣接する東アジア、東南アジアを含むアジア地域、アフリカ地域の旧植民地は次々と植民地から解放され独立している。沖縄も日本「帝国主義」の「植民地的支配」を受けたという見方をとれば、それにあったと位置づけることが可能となる。独立論はこうした脱植民地主義の流れに多かれ少なかれ影響されていた。
 以上の時流に乗じた沖縄独立気運の高まりの根本的原因を探るために、独立論者の論拠を例にして、次の三つの歴史の構造的要因をさらに指摘したい。
 まず、かって沖縄が「独立国」(この点に関する林自身の注“1609年薩摩の琉球侵攻までの「琉球は独立国だった」という言説は、日本との関係を意識し、かつて日本から独立していたことを意味すべきだが、冊封―朝貢を通して「中華世界システム」に包摂された琉球は中国から独立したわけではなく、宗主国中国の属国だったので、琉球は終始「半独立国」と規定すべきであろう。ただし、薩摩の侵攻以降は、琉球の「独立性」はいっそう低下したと言える。”)であったという歴史への郷愁である。沖縄は、1429年に「三山時代」に別れを告げ琉球国が誕生して以降、1609年の薩摩侵攻まで日本との政治的関係は薄かった一方、中国を中心とした「中華世界システム」へ組み込まれることで東アジア、東南アジアと積極的な貿易・文化交流を通して繁栄の時代を築いた。薩摩に服属した後も、琉球は一国の体裁を維持し、1879年明治政府に強制的に併合されるまで存続した。
……
 次に、日本への憎悪感である。「独立琉球王国」は日本によって滅ぼされたのみならず、薩摩の270年におよぶ経済的搾取および政治的干渉、とりわけ強制的同化を含む明治日本による圧迫、差別政策から生まれた日本への怨嗟は、琉球併合以来の沖縄ナショナリズムを支える大きな役割を果たした。
……
 戦後沖縄独立指向の歴史の構造的要因をさらに考えるには、沖縄と日本のあいだに存在する民族文化のよく指摘されてきた「相違」が挙げられる。日本との異なった歩みから、沖縄は中国などの文化の影響を受けながら独自の沖縄文化を形成してきた。
……
 以上の時代背景や歴史的要因が戦後初期の動きを支えたと考えられる。ところが、なぜこの時期顕著に見られた沖縄社会の独立志向は、1950年代に入るとともに次第に退潮し復帰運動に代替されていったのだろうか。
 まず第一に、沖縄をめぐる国際政治の変化である。その境目は、1949年後半から1950年にかけて、講和会議を控えたアメリカは沖縄を反共基地として引きつづき無期限に統治するという方針が決定されたと沖縄にも伝えられ始めたころである。また、このころ、中国大陸においては共産党政権が誕生し、「土地接収」を進めるアメリカが沖縄を恒久的に軍事基地化しようとしたことにたいし、沖縄では一般的に警戒心が増し、強い勢力をもつ沖縄の革新陣営が敏感に反応した。一方、日本本土では、軍国主義思想は一掃され、国民は平和憲法と民主主義を享受するようになった。他方、沖縄の民主化は進まないばかりか、アメリカ軍政府の言論への弾圧はますます強まった。その結果、アメリカへの不信感が高まり、アメリカのもとで平和な独立国を創るとの可能性は幻想と意識されるようになり、平和的「祖国」日本への傾斜が強まったのである。
 第二に、明白な民族アイデンティティの形成の失敗である。琉球併合以来、明治政府の統治がもたらしたのは、言語を含む沖縄文化の徹底的同化であり、沖縄の人々への「日本人意識」の植えつけであった。また、伊波普猷などの「日琉同祖論」の効果で、日本を、「祖国」とする認識はいぜんとして根強く残っていた。仲宗根源和のような「頑固な独立理論家」すら、日本人と沖縄人は「親子関係」であるとの考えを否定しながらも、「共同の祖先をもつ兄弟の間柄とも言うべき関係」だと述べている(仲宗根源和「沖縄独立論」『琉球経済』1951)。「沖縄民族」の意識が人々に根づかせられていなかったことは、戦後初期のおける独立論の敗北の致命的原因であろう。第三に、大衆運動の欠如がある。初期諸政党の独立論は、1950年代の復帰運動のように、大規模な署名活動を行なったり、組織的な大衆運動の発展したりするにはいたらなかった。当時の沖縄では、生活問題や「民政府の独裁」などの方が具体的な政治問題として断然重要であった。こうして政党を始めとするエリートたちが率いる初期の独立的思潮は、「独立運動」ではなく独立論にとどまったのである。

結びに「凧型ナショナリズム」の宿命?
……
 しかし、1世紀以上にわたる沖縄ナショナリズムのこの連続性は、結局「政治的自立」も、それを内包しうる沖縄の主体性の回復ももたらなかった。それは、「沖縄民族」意識が希薄であり、強い民族意識に支えられていない民族独立運動は政治的影響が持続できないからであろう。ナショナリズムは近代国家の誕生とともに出現したという議論からすれば、この「沖縄民族意識」の脆弱性は、近代国家になる前にタイミングよく「処分」された琉球・沖縄が、その民族意識の生成の機会を奪われたことに由来すると考えることができる。他方、自主性のある民族意識の希薄性は、歴史的に見れば、沖縄が内包している他律的「大国依存主義」がもたらしたものと言えるだろう。中国に付庸したり、薩摩に帰順したりする小国琉球の「上手な生き方」は、近代以来の沖縄独立論・独立運動にも投影されている。時の現実性と必然性は否定できないが、清朝を始め欧米諸国に救援嘆願活動を展開していた「琉球抗日復国運動」や、アメリカの民主主義統治と経済力に依存しながら独立してきたいとする戦後初期における諸政党の独立指向、あるいはその後の琉球共和党、琉球国民党の独立論のいずれも相当程度この性格を帯びていた。強固な自主性が欠落しているこの沖縄ナショナリズムを「凧型ナショナリズム」と表現してよいだろう。なぜなら、その性格は、鳥の自主的飛翔ではなく、人の操作に頼りながら時の風向きにしたがって飛ぶ凧の姿に似ているからである。
 たしかに、「近代」は琉球を朝鮮やベトナムのような同じ東アジアのかつての「辺境」のように近代国家に成長する機会を与えなかった。しかし、沖縄社会に日本人アイデンティティや日本ナショナリズムばかりではなく、併合後沖縄社会の一体化は前近代には普遍化しなかった「沖縄人」意識や沖縄ナショナリズムの生成環境をも提供してきた。この点は、本論の用いる仮説のひとつである、エスニシティの「近代化の逆説」仮説の妥当性を改めて支えていると言えよう。
 ところで、沖縄の「大国依存」という「凧型ナショナリズム」の性格は、じつに「前近代」の「辺境的宿命」の影を濃厚に宿している。言い換えれば、今日の沖縄も、いぜんとして「前近代」と「近代」、そして「民族」と「国家」に翻弄された歴史的空間に置かれつづけているのである。
……


第3章 「祖国復帰」と「反復帰」――沖縄アイデンティティの十字路

第1節 沖縄アイデンティティの史的反復性

……
 「国民統合」の論理による日本政府の「同化政策」=「日本化政策」の強制的遂行によって、近代以来、沖縄の知識人や民衆は自らのアイデンティティをめぐって苦悩を抱え、また分裂しつづけてきた。この葛藤するアイデンティティの基本的構図は、「日本人」か「沖縄人」か、というものである。前者は、「日琉同祖論」で沖縄と日本のエスニック起源の共通性を鼓吹したり、近代的日本社会への合流による現実的利益を強調する。これは、エスニシティ理論から見れば、本源的絆を主張する原初主義と利益を強調する道具主義の混合体である。一方、後者は、沖縄社会の歴史的始動時期である12世紀以降とりわけ琉球国時代の日本との異なった史的歩みや独自性を重視すると同時に、薩摩の経済的搾取という「暗黒の時代」や、近代以来日本社会に組み込まれた過程における「大和人」との接触によって受けた差別の経験、そして「沖縄戦」で受けた壊滅的苦痛を強調している。また、後者は、日本からの離脱が苦難の歴史の終焉を意味することを主張している。これもまた、じつは前者と同様、本源論と利益論の合体である。換言すれば、このアイデンティティ争奪戦における二つの立場に共通しているのは、いずれも歴史的記憶と利益の選択である。では、方法や着眼点が一致しているにもかかわらず、なぜ帰属意識において対立的構図が生じてきたのか。それは、自らの集団の「過去」に関する記憶の選択方法、また精神的尊厳や実質的メリットを含めた利益の選択方法の相違に由来するのであろう。
……

第2節 イデオロギーとしての「祖国復帰運動」
……

2「『革新』的反対制大衆運動」としての「復帰運動」
 以上のように、「復帰運動」はほぼ四半世紀という長い歳月で進行した、多様な内容を包含する運動である。したがって、その性格の検討はけっして容易な作業ではない。とはいえ、運動に現われたもっとも鮮明な特徴は、大量の住民が運動に巻き込まれるという「大衆性」である。そこに、その絶大な動員力を発揮し大量の住民に長い歳月にわたりそのエネルギーを運動に投入させたもっと重要な原動力は、イデオロギー的な要因以外には考えられないであろう。であるならば、「復帰運動」を動かす最大の原動力としてのイデオロギーとはなんだろうか。仮説として結論を先に述べれば、それは、「社会主義的『革新』思想」と「日本ナショナリズム運動」という二つの顔は、沖縄「復帰運動」の性格を表すものとしてもっとも的確なものと考えられるということである。
 まず、「復帰運動」のひとつ目の顔である「『革新』的反体制大衆運動」とはいかなるものであろうか。もちろん、帰属問題において、「日本復帰を望んでいた」沖縄の住民は、かならずしもいわゆる「革新」派に属していたとは限らない。しかし、大衆運動としての「復帰運動」の主体は、「革新」の性格を鮮明に帯びていることは否定できない。次に、そもそも運動がどのような政党や組織によってリードされ展開されたか、運動が各時期に抱える課題や、大衆を動員するに当たって掲げていたスローガンはいかなる政治的イデオロギー性を含んでいたか、以下からその「革新性」を考察してみる。
 まず、「復帰運動」の指導者格に当たる組織を概観してみよう。前述したように、初期段階の「復帰運動」第一弾に当たるものは、1951年の署名運動であった。この署名運動を始動させたのは、ほぼその直前に組織された「日本復帰促進期成会」と「日本復帰促進青年同志会」である。前者は、左傾化前の社会大衆党(以下、「社大党」と称す)や前衛党である沖縄人民党(以下、「人民党」と称す)を中心に発足したもので、後者は沖縄青年連合会を中心としたものである。要するに、「復帰運動」は最初からすでに「革新色」を有しているのである。
 その後、「復帰運動」の第二段階に入った1953年に、沖縄青年連合会や沖縄婦人連合会など5団体の協力で「沖縄諸島祖国復帰期成会」(期成会)が結成され、「復帰運動」の推進を担うようになった。この組織の筆頭格は、その前年に設立された「革新色」濃厚な沖縄教職員会である。この時期の期成会は「復帰運動」を推進しながらも、「米軍基地に反対する立場にはない」と弁明し(中野好夫『戦後資料・沖縄』1969)、米民政府反対の組織としてのイメージ定着を極力避けようとしていた。とはいえ、米民政府からは、やはり「共産主義的なもの」や「民政府反対」の団体と見られていたようである(同上)。実際、この時期の期成会が担った「一括払い」反対の「土地闘争」や「復帰運動」弾圧への反発闘争などからみれば、期成会の「反体制色」と「革新色」はむしろますます濃厚になったと言える。
 1960年代に入って期成会は、他の計17団体の協力で発足した最大の復帰推進組織である「沖縄県祖国復帰協議会」(復帰協)と合併した。この復帰協に参加した他の主な団体は、党として直接に加わった野党の社大党、人民党、沖縄社会党(以下、「社会党」と称す)、そして沖縄官庁労働組合などである。当初、復帰協は与党の自民党に参加を呼びかけたが、自民党は「従来、祖国復帰運動なるものは、一部の反米主義者に利用されたうらみがあり」としてそれをボイコットする方針を採った。そして、自民党および他の保守系勢力は、いぜんとして1956年に自民党沖縄特別委員会の鼓動で結成された「南方同胞援護会」などのもとで活動を展開することに固執した(沖縄協会『南援17年の歩み』1973)。しかし、この組織は、しばしば「県民大会」を開き、デモ行進を行なっていた復帰協と異なり、大衆運動のイメージを確立できず、「復帰運動」の傍流的存在にすぎなかった。いずれにせよ、保守系抜きの復帰協メンバーの顔振れは、実質的「革新一色」が定着していく。
 むろん、「革新」各派の共闘は、「復帰運動」の推進のみに限らず、他の政治的協力も多く見られる。たとえば、「復帰運動」のひとつの成果である主席公選が認められ、1968年11月の立法院議員とともに初の主席公選が行われるに当たり、教職員会と野党各党のもとに「革新共闘会議」が組織され、統一綱領も採択された。「革新」陣営のこのような多角的政治協力は、「復帰運動」=「革新闘争」というイメージに錯覚を与えてしまったのである。
 いずれにせよ、このようにして、左傾化がいっそう進んでいく復帰協のもとで、1960年に入ってからの「復帰運動」は「革新性」「反体制性」「大衆性」が名実ともに鮮明に現れていった。このような性格から、「復帰運動」は一種の「『革新』的反体制大衆運動」と規定することができるのである。
 しかしながら、「復帰運動」の社会主義的「革新性」も先天的限界を有していた。というのは「祖国復帰」を前提としてこの運動は、のちに詳述するが、最初からナショナリズムというもうひとつのイデオロギーをも内包していたからである。「労働者は祖国をもたない」とレーニンが指摘しているように、社会主義反体制運動は、国家を超克する階級性に着眼した国際的視野をもたなければならない。したがって、「民族・国家」の利益を対象とするナショナリズムとは根本的に相容れないはずである。たしかに、戦後多くの植民地における社会主義革命も、民族主義とも絡んで展開され矛盾した要素を含んでいる。ただし、民族主義を手段としたこれらの植民地で行なわれる社会主義革命より、それと逆に「祖国復帰」というナショナリズムから出発し社会主義のイデオロギーを手段とする沖縄における「『革新』的反体制大衆運動」の包含する矛盾は本来的かつ強烈なものである。そもそも「復帰運動」が有している体質は、その本来的矛盾を解消できないものであると言ってよい。
 このような体質のもとで手段として利用される「復帰運動」の社会主義的イデオロギーは、「選択的イデオロギー」と位置づけられよう

3 「日本ナショナリズム運動」としての「復帰運動」
 いずれにせよ、「復帰運動」はその担い手の政治的属性やその掲げるイデオロギー思想からみれば、「『革新』的反体制大衆運動」の性格を有していることは否定できない。しかし、他の政治的課題やイデオロギーを複雑に絡めた「復帰運動」を進めた主流派と違って、非主流として比較的単純に沖縄の日本復帰を唱える個人や組織も存在していた。したがって、唯一、「復帰運動」の主流派と非主流派とのあいだで共有できるものは、本来の基本理念である「沖縄は祖国日本へ帰るべきだ」という「日本ナショナリズム」の性格のみである。
……
 実際、「日本復帰」を提唱するほとんどの者の立脚点は、やはり「沖縄人=日本人」や「沖縄は日本の一部である」という言説にある。沖縄の日本復帰をいち早く終戦直後の1945年8月4日に沖縄の米軍司令官宛の復帰嘆願書において示した仲吉良光は、復帰の理由をまず「沖縄人は日本人ですから」(仲吉良光『沖縄祖国復帰運動記』1964)と述べている。また、1951年に時の社大党書記長の兼次佐一も「沖縄人は大和民族である」と、琉球国時代の羽地朝秀(向象賢1617―1675)の「日琉同祖論」を解釈し、したがって「日本復帰は人情の自然」と主張している(兼次佐一「日本復帰は人情の自然」『琉球経済・10』1951)。要するに、「沖縄人・日本人一体化」の名実ともなる回復は、「復帰」提唱者および運動者がともにめざした基本的理念なのである。……

4「復帰運動」のイデオロギー化
 一方、注目すべきことに、「沖縄の日本復帰」は本来沖縄の帰属問題に関するひとつの選択肢で政党のひとつの政治的主張にすぎなかったはずであるが、「復帰運動」の担い手としての諸革新政党は、それを他の具体的政治政策と同列にはせず格別な地位として扱っていた。「沖縄県民としては現実の政治の善悪にかかわらず祖国に復帰することがいっさいの施策の指向すべき政治目標でなければならない」という1964年時点における「復帰政党」である社大党の主張からも一目瞭然であろう。換言すれば、ひとつの政治的目標であるはずの「祖国復帰」は、次第に政党のほかの政治的課題に優先させる方向に進んだ。否それにとどまらず、すべての行動を律するひとつのイデオロギーまで昇格させられるようになったのである。
 この、諸革新政党の基本的政治的属性である「社会主義的『革新』思想」と鮮明なナショナル・アイデンティティとしての「日本ナショナリズム」という二つのイデオロギーの微妙な組み合わせのうえで成立したイデオロギーは、その運動のもっとも基本的方法である「大衆の動員」によって、1960年代に入り、とくに60年代の半ばごろから絶大なパワーをもつようになった。そして、この「復帰運動」のイデオロギー化は、沖縄の帰属をめぐって「日本復帰」以外の異なった思想と指向を封じ込むようになった。言い換えれば、「日本復帰論」に反対する帰属論は長い間一種のタブーとなり、次第にその存在できる空間も大幅に縮小されていたのである。
 しかし、沖縄地位の将来をめぐって、「復帰論」と対置する「非復帰論」あるいは「反復帰論」は底流化されていたとはいえ、けっして完全に消えていたわけではない。1960年代半ば以降、とくに日米合意による基地存続が決定され、長年の「基地闘争」は敗色が濃厚になった1968年ごろから、「復帰運動」は動揺を見せ始め、あらゆる挑戦も許さない不可侵なイデオロギー性へと発展していた「復帰思想」が、ようやく初めて反省の段階に入った。このような情勢変化のなかで、底流であった「非復帰論」あるいは「反復帰論」が急速に浮上し、その唱導の空間も運動可能な範囲まで一気に拡大できるようになったのである。琉球併合以来三度目の「沖縄ナショナリズム」の出現である。

第3節「反復帰運動」I−「復帰反省論」の思想構造

1「反復帰論」の定義
 従来、1960年代末から現れた、「復帰運動」に対処し「復帰」に反対する動きは、「反復帰論」とされ、戦後沖縄のひとつの思想的潮流として位置づけられてきた。むろん、「反復帰」の動きは、ほぼ沖縄全域を席巻する「復帰運動」の大衆運動としてのパワーとは比較にならない。しかし、「反復帰」の動きは、けっして純粋な思想的「反省論」という思潮レベルのみに存在したものではない。「復帰」に反対する組織の結成や街頭宣伝、署名活動、そして国政選挙拒否の呼びかけとその呼応まで、運動のレベルは拡大したのである。したがって、この動きを「反復帰論」よりも「反復帰運動」と呼称した方がより適切ではなかろうか。
 さて、他の政治的運動と連動しイデオロギー的にも複雑性をもつ「復帰運動」ほどではないが、「反復帰運動」の定義もけっして簡単な作業ではない。それもまた、狭義と広義の両方から検討することができる。まず、狭義としての「反復帰運動」は「復帰運動」に着目し、「反戦復帰」の敗北で一気に浮上した、文字通り「復帰論」や「復帰運動」への反省としての動きである。しかし、この定義は、「復帰運動」の主役である「革新」陣営内部のみに注目し、これと連動する経済界や保守勢力の「復帰尚早論」、そして「復帰運動」の高揚で底流化を余儀なくされた従来の独立・自立志向の「沖縄ナショナリズム」の動きを見落としている。したがって、広義としての「反復帰運動」は、@「復帰」賛同者ないし「復帰運動」参加者の自己反省からの「復帰反省論」、A早い時期から存在し経済的利益の守護より出発した保守派の「復帰尚早論」、そしてB再噴出した従来の「琉球・沖縄独立論」、という三つの流れは、「沖縄アイデンティティ」の強調という共通の手段を通して一定の程度相互的に呼応し合った、これまでの「復帰運動」と相反する離日指向の動きであり、ひとつの「離日的『沖縄ナショナリズム』」の波である。

2「復帰反省論」の内実
……
 この「反復帰」の論陣を提供していたのは、当時沖縄の唯一の総合誌である『新沖縄文学』である。同誌の第18号(1970年12月)と19号(1971年3月)は連続して「反復帰論」の特集を組んで「反復帰論」を展開していた。そもそも「反復帰」という言葉の初出は、この特集にある(新川明2000)。
 この特集のほか、「反復帰論」の筆頭格と目され当時の『新沖縄文学』の編集長であり、詩人・ジャーナリスト・思想家でもあった新川明は1970年1月1日から『沖縄タイムス』の連載企画である「沖縄と70年代」で合計21回執筆を行なっていた。この執筆を通して新川は「反復帰思想」を醸成していき、その集大成と言うべき論集が『反国家の兇区』(1972)に収められた。「沖縄自立の経典」とも称される彼のこの画期的な著作は、彼自身の言葉によれば、「……(復帰運動が)沸騰する情況の中で、『復帰』思想=日本国への同化志向が内在させる思想の病理を私なりに考えつめながら、病巣の切除を志し」たものであった。同著は、「復帰思想」病理の根源である「国家絶対主義」とその産物である沖縄人の「自己卑下・事大主義」に躊躇なしの批判を行なったうえで、「沖縄アイデンティティ」の回復と反権力的自立精神を有した沖縄の確立を提唱している。
 一方、同じ詩人から出発した川満信一は1969年に「転換期に立つ沖縄闘争――復帰のスローガンを捨てよ!」(『情況』8号)、そして「沖縄――<非国民>の思想」(『映画批評』7月号、1971年)といった論文を発表し、「祖国復帰」や「国民」思想への痛烈な批判を通して「沖縄自立精神」の確立を訴えている。氏の思想的歩みは、のちに出版した『沖縄・自立と共生の思想――「未来の縄文」への架ける橋』(1987)にまとめられた。他方、新川明や川満信一よりやや若い世代に属するが、「反復帰論」においては先鋭な論客として知られているのは、仲宗根勇である。「沖縄少数派」を自称する氏は、「沖縄の遺書」(1972)などで、「『祖国復帰運動』が、安易な民衆意識を立脚点に、国家論を欠落させたうえに民衆の本土日本への屈折した怨念を未整理のまま掛け込んでいた」(仲宗根勇1972)とまず「復帰運動」の歪みにたいし、躊躇なく批判を展開していた。その後、仲宗根勇ほかの「復帰反省派」と同様、「復帰思想」への批判にとどまらず、「ヤマト」と対応する「さまよへる琉球人」の提唱に結びついていく。自作である『沖縄少数派』(1981)は仲宗根勇の60年代以来の思想を集約している。
 「復帰反省論」は、その思想的実践として、1970年11月5日に行なわれた国政参加選挙ボイコットを訴えて反対運動を展開し、反日共系の諸組織も呼応して反響を呼んでいたが、「沖縄返還」はすでに決定されたとのことで、諸「革新」組織内部の抵抗があり、そしてそもそもいぜんとして「覚醒していない」大衆が多く存在していたため、大規模な「反復帰大衆運動」を動員できないまま、「返還」を迎えることになった。

3「復帰反省論」の思想構造
 しかし、新川明を始め、川満信一、仲宗根勇など「復帰反省論」の代表者たちの躊躇ない「反復帰思想」は、「反復帰運動」に依拠しうる理論を提供したことで、相当な影響を及ぼしたのみならず、1972年の復帰後も現在にいたるまで影響力を発揮しつづけていると言えよう。「復帰反省派」に属するべき新川明らの基本的思想基盤は、主に四つの柱から成り立っている。すなわち@諸悪の根源を国家・国民・権力・帝国主義に求めるべき、A「復帰運動」の直接の病毒は、@の範疇に入る他律的というよりも自律的「同化主義」である。B日本人にたいする「異質感・差意識」が自己卑下や事大主義を生成する一方、日本国の国家権力を相対化するプラスのパワーをも有している、C沖縄アイデンティティ存在の正当性は、それ自体の主体性回復に使用するよりも、国家・国民・権力・帝国主義に反対する武器としての意義が大きい、ということであろう。
 この4つの柱からも理解しうるように、「復帰反省論」の他の「復帰反対派」にない主な特徴は、まずいぜんとして「帝国主義」に反対する「革新性」が挙げられる。次に、「復帰運動」を留保なしに痛烈に批判しているが、「沖縄の政治的独立」に関する明白な提唱を回避している。換言すれば、「復帰反省論」は「復帰運動」への反省・反対とそれに代わる方向指針を提示しているが、具体的政治政策の提言まで必ずしも行かず、基本的に思想のレベルにとどまったのである。それは、「国家」という最強の政治的装置までに反対する以上、沖縄の政治的主体性確立の最終的指標である「琉球共和国」という新たな「国家」の建設に矛盾が生じるからである。「社会主義的『革新』思想」と「日本ナショナリズム」との矛盾で「暴走した」「復帰運動」から教訓を得た「復帰反省論」が、「琉球共和国」ではなく、曖昧で非現実的な「琉球共和社会」を提唱せざるをえなかった所以である。これは「復帰反省論」の進歩性であり、限界でもあった。
 しかし「復帰反省論」者は「国家・国民・権力・帝国主義」という「革新思想」から「日本国」という「国家」に猛反発しているにとどまらず、「ヤマト(人)」との対決姿勢もはっきりしている。後者を支えているのは「日本ナショナリズム」と相反する「沖縄アイデンティティ」である。したがって、「復帰反省論」の強烈な反「ヤマト(人)」精神から考えれば、それが論理的に独立論へつながってもけっして不自然ではない。加えて、「復帰反省論」(「反復帰論」)と独立論との関係について、新川明は近著で次のように述べている。「『反復帰』論は、世間でしばしば言われているように『独立』論の同義語ではないが、両者が密接に重なり合う部分を共有していることは否めない。いわゆる『独立』論は、『反復帰』論が主張する日本国を相対化する視点を取り込んで、その運動論の足場にするだろうし、『反復帰』論を主張する人は、現実の政治的選択において『独立』論に共鳴する関係を持ち得るからである」と(新川明『沖縄・統合と反逆』2000)。
 たしかに、「復帰反省論」が思想的に独立論を補強する役割を果たしてきたことは否定できない。しかし、沖縄の独立論は、1960年代末に「復帰反省論」が登場するまでの近現代の長い歴史の大河にすでに存在し、60年代末に広義の「反復帰運動」のひとつの流れとして再噴出したのである。沖縄返還前の「復帰反省論」と独立論との関係は、思想的ビジョンを示す側面と政治的目標の具現化を訴える側面との柔軟な補完関係にあると言うべきであろう。

第4節 「反復帰運動」U−「復帰尚早論」と独立論の文脈

1「復帰尚早論」出現の文脈
 1960年代の末に現れた「反復帰運動」の三つの流れのなかで、比較的主流であるのは、「復帰運動」のパワーの一部を吸い込んだ「復帰反省論」であると言える。たしかに「復帰反省論」(「反復帰論」)は、国家への合一化反対として日本復帰拒否を主張する点で、他の「復帰反対論」と共通しているが、その性格は多くの互いに相異した側面を有している。
 「復帰反省論」と他の復帰反対運動の流派とのもっとも重要な相異点は、前者が「革新」陣営から再出発したものであるが、「革新思想」をいぜんとして濃厚に帯びていることである。この意味では、他の「反復帰」の流れは、その基本的政治イデオロギーの性格から考えれば「非革新系」ないし「保守系」に分類されることになる。
 さて、この「非革新系」の「反復帰」の動きは、その本質からさらに分ければ、2つの支流になる。ひとつは、返還が決まってから、急浮上した経済界や一部の保守系政治家による「復帰尚早論」である。もうひとつは、性格的に、確固たる「沖縄アイデンティティ」から出発した戦後初期の独立論と時系的垂直なつながりを有する1950年代以来の諸独立の動きである。
……

2 1950―60年代独立論の推移
 「非革新系」で「反復帰運動」のもう一角を占めたのは、沖縄ナショナリズムの射程に入る政治的目標としての独立論で再現である。
……

結びに 「祖国」をめぐる「復帰」・「反復帰」の記憶・想像構造と沖縄アイデンティティの特徴

1 沖縄における記憶の創造
 エステニシティ論の原初主義アプローチが主張する、すなわちエスニック・アイデンティティは、体や文化の特徴、血縁関係といった「客観的」「歴史事実」によって形成されたというよりも、いくつか真実もしくは虚構されたエスニック起源・歴史や現在の社会的体験などによって構成された「集合的記憶」に左右されるものである、という「記憶論」が一九八〇年代以来注目されつつある。これは本書が保持するエスニック・アイデンティティ生成の要因に関する立場でもある。この「集合的記憶」はけっして生まれつきで不変なものではなく操作ないし創造可能なものである。とりわけ沖縄において現われた形態多岐なアイデンティティは、この「記憶」の選択、操作、創造によるところが多いと言える。では、なぜアイデンティティを創生する力を有している「集合的記憶」において、必ずしも真実ではない「エスニック起源」や「エスニック集団の歴史」が重要となるのであろうか。それは、人間のあいだに存在するもっとも強固な絆は、血縁で結ばれた人間関係であるため、「共通のエスニック起源」や「歴史的経験」を強調することで、一種の擬似的「同胞愛」を想像しうる空間を与えることができるからである。
 さて、沖縄の状況に目を転じてみよう。「復帰運動」参加者のもつ「日本人アイデンティティ」の前提は、「沖縄人は日本人であり、沖縄は日本の一部である」ということである。それは、「日本国」が誕生する前の先史時代において、「沖縄人は日本人の一分で支である」こと、それから羽地朝秀(向象賢)の「日琉同祖論」的記述や、伊波普猷らが生涯をかけて「証明した」「言語をはじめ沖縄文化は日本文化を原型としている」ことをそのまま信じているからと言える。一方、「反復帰論」者や独立論者は、逆に「日本人」と「沖縄人」の違いを強調し、琉球独立活動家である野底土南や山里永吉などは、「琉球人は日本人ではない」や「日本は祖国に非ず」を唱えている。その根拠は、「沖縄は歴史が始まってから長い間独自の社会そして王国を有していた」こと、そしてそこから日本と異なった独自の文化をもつようになったことなどに求められている。
 両者が強調している、まったく相反する「歴史的根拠」は、このように異なったアイデンティティをもつ双方の提唱者によって選択され、自らのエスニック起源の正統性を主張してきたのである。これは、エスニックの起源が、人間集団のアイデンティティにとっていかに重要であるかということを物語っていると同時に、人間集団の「歴史」は、いかに自らのもつ目的によって操作し創造されたかということも示している。実際、とりわけ近現代の沖縄における「日本人」アイデンティティの形成に欠かせない「沖縄人」と「日本人」は「共通した人間集団」であるということを沖縄大衆に「記憶」させるために、日本語教育および皇民化による、エスニックマークである「琉球色」の消去作業が、琉球併合以来行なわれてきた。沖縄におけるこのエスニシティの消去作業(「脱琉球化」)と新たなアイデンティティの植えつけ作業(日本人意識の形成)の特徴は、国家権力を背景とした上からの強制にとどまらず、沖縄エリートによる提唱と住民の協力という下からの努力もあった、ということである。
 このような強力な一体化作業の結果、沖縄社会において「日本人」アイデンティティが強固な基盤をもって定着してきた。戦後の「復帰運動」という沖縄民間における日本ナショナリズム指向の社会現象の出現と絶大な大衆動員の力は、戦前の「日本人」という「集合的記憶」植えつけの成功を物語っている。一方、「反復帰論」者や独立論者の強調する「沖縄アイデンティティ」は再生産できる空間は与えられなかったため、それの政治化を意味する沖縄ナショナリズムの普遍化作業は成功できないまま今日にきている、ということも言えよう。

2 「復帰」と「反復帰」から見たアイデンティティの諸特徴
(1)利益の選択
 むろん、「復帰」ないし「反復帰」の両立場が、それぞれの理念を主張するさいに、おおいに用いられたのは、「歴史的集団記憶」であるが、現実的利益追求指向は見られなかったわけではない。「復帰運動」における土地闘争、人権闘争、自治権闘争、そして日本国憲法回復闘争といった闘争の内容から、「日本に復帰したら、これらの問題はすべて解決できる」という信念をもった人もたしかに多かった。他方、「反復帰論」や独立論を主張する者は、たとえば、国民党党首である大宜味朝徳が「日本復帰は悲劇の再現」という議論から、その利益追求の姿も見られる。また、経済界・保守系中心の「沖縄人の沖縄を作る会」の「復帰尚早論」も、主に経営者たちの利益を固守する立場から提唱ものである。この意味で、エスニシティ理論のもうひとつの流派である、アイデンティティは利益のために凝集されたと主張する道具主義のアプローチの妥当性も「復帰」と「反復帰」現象から検証できると言えるのである。
(2)エスニック境界の役割
 「祖国復帰」主張者のもうひとつの論理は、日本人を自民族とすると同時に、アメリカ人を異民族視するということである。一方、「反復帰論」や独立論者にとって、日本人もアメリカ人も自分たちとは同じ民族ではないと主張している。それぞれの主張の妥当性はともかく、「民族」の「異」か「同」かということを区別するエスニック境界はアイデンティティの形成に大きな役割を果たしていることは、沖縄のケースからも理解できる。
(3)アイデンティティの流動性
 沖縄におけるアイデンティティの形成のもっとも重要な特徴のひとつは、やはりその「流動性」である。戦後初期に独立論を主張したこともあるが、その後一転して「復帰運動」の主役になり、「復帰政党」と称される社大党初期の書記長のポストにも就いた兼次佐一や、逆に、かつて「復帰運動」の先頭に立っていたが、1997年になって『沖縄独立宣言』を執筆し日本からの離脱を提唱する、元沖縄市長の大山朝常などは、まさにアイデンティティ変容の好例であろう。そして、とくに本章において議論している沖縄におけるアイデンティティの反復現象も、まさにこの「流動性」をみごとに表現していると言えよう。
 むろん、このアイデンティティの「流動性」は、程度の差はあるが、沖縄に限らず、本書の第2、3部において取り上げているほかの「辺境東アジア」地域である台湾や香港のケースからも見られる。換言すれば、エスニック境界の「流動性」は、「辺境」地域のアイデンティティ形成において顕著に見られる特徴である。


終章 「辺境東アジア」アイデンティティ・ポリティクスのダイナミズム

第1節 「辺境東アジア」アイデンティティ・ポリティクスの要因再考


1「脱辺境化」現象は「前近代」と「近代」の衝突の産物

 序章で提示している第一レベルの仮説は、今日においても起きている「辺境東アジア」アイデンティティの政治化・顕在化を内包する「脱辺境化」現象が、「前近代」と「近代」の衝突によって産出されたものである、ということである。
……
 まず、「中心」側の変化を見れば、従来の「中心」国家が近代化、すなわち「前近代国家」から「近代国家」へ脱皮する方向に向かうには、国境の画定と市民社会の出現にともない、議会民主制の導入と国民文化の創出が不可欠であった。この二つのプロセスが進むと、「中心」が前近代における最重要な存在原理である軍事力をベースとする正当性を失うようになる。東アジアの近代化は、西欧より比較的に遅れており、前近代においてより普遍的だった「中心」の「辺境」にたいする武力主義は、今日台湾にたいする中国の政策からも見られるように、その影がいぜんとして一部残っていると言えよう。言い換えれば、東アジア地域における近代化がさらに進めば、「辺境」への武力主義による「中心」の維持はますます困難になるだろう。近代化の成熟に向かってきた戦後の日本は、前近代(1609年薩摩の琉球侵攻)もしくは近代初期(1879年日本の琉球併合)において琉球・沖縄にたいして行なったような武力行使がほとんど不可能になったばかりか、戦前までの一本化した国民文化の一体化政策も軌道修正せざるをえず、沖縄文化を尊重する方向に進んできた。これは、日本が自らの「中心」への執着を放棄する動きとして捉えられる。また、近代国家建設の最中である今日の中国は、日本ほど「辺境」を尊重しようとしているとは見えないものの、1980年代に入り、国家統一問題への姿勢において従来の「武力解放」から「平和統一」への転換と、そのための「一国二制度」の構想から「辺境」にたいする政策の柔軟化が見られる。総じて、「近代」が進むと、「辺境」にたいする「中心」の優越な地位もだんだん低下していくと考えられよう。
 一方、「辺境」側からは、近代社会がもたらした伝統的「中心←→辺境」の関係変化と「脱辺境化」現象がよりはっきり窺える。それは、少なくとも四つの角度から観察することができる。第一に、近代における「印刷資本主義」とも言うべきマスコミの発達は、本来まとまらなかった「辺境」地域の一体化をもたらした。序章で提示している「近代化逆説」は、本論の実証研究において多くの事象から確認できる。たとえば、もともと普遍性を有していなかった「沖縄人」アイデンティティは、併合後の近代化過程において形成され、普遍化されたのである。また、戦後になって急速に普遍化した「台湾人」意識や、「香港人」意識も同様、近代社会が進むなかで発生した現象である。このような「辺境」の近代化過程に見られる「辺境」地域の土着アイデンティティの普遍化現象は、同「辺境」エスニック・グループの結束力を強化させるとともに、「中心」にたいする自らの劣等感を内包する「辺境」意識を低下させ、必ずしも「中心」に従属しない「脱辺境化」意識の萌芽を促進したのである。
 第二に、前近代において普遍的に見られなかった、近代の国民建設のために、強制をともなった文教政策を通して、事実上の「中心」の文化をベースとする「国民文化」の効果的押しつけは、「辺境」地域住民の「劣等感脱出」のため、自ら「同化」に協力する側面もあるが、一方、「辺境」地域住民の反発を引き起こした側面もある。第2章にも指摘しているように、戦後初期の沖縄独立論表出の一因は、こうした文化上の強制的同化にあるのである。また第5章で考察している台湾ナショナリズムの高揚と密接に関係しているのは、戦後国民党の「祖国化文化運動」への反発にある。さらに第6章で分析している返還後の「香港人」アイデンティティの顕在化もまた「中国化」の刺激を受けた側面が存在したのである。
 そして、第三に、近代社会の普遍的イデオロギーであるリベラリズムは、「辺境東アジア」地域のアイデンティティの政治化に正当性を与えられたのである。「祖国復帰」の前後を問わない戦後の沖縄や、社会の自由化や政治的民主化が高揚した1990年代以降の台湾、そして返還問題が浮上するようになった1980年代以降の香港の「中心」にたいする自らの尊厳・利益を守護するための抗争において、人権や自由の確保は、つねに前面に掲げられてきたスローガンであった。こうした自由主義指向の近代の世界風潮に便乗した抗争を通して、「辺境」地域住民の主張の正当性は一定の程度確保することができたからである。「辺境東アジア」におけるアイデンティティの政治化は、まさにこのように加速されたのである。「辺境東アジア」におけるリベラリズムとアイデンティティとの合体現象は、とくに第7章のポスト返還における「香港人」アイデンティティの構造分析において明らかになっている。
 このようにして、現代における「辺境東アジア」地域のアイデンティティの政治化・顕在化を包摂する「脱辺境化」現象は、「前近代」と「近代」の衝突によって生まれた産物なのである。……

2 「帰属変更」と「辺境アイデンティティ」問題との因果関係
 さて、本書の三つの地域にたいする実証研究により、明らかになったもっとも重要な点は、「帰属変更」と「辺境東アジア」地域のアイデンティティ問題とはきわめて密接な関係にあるということであろう。そして、この密接な関係とは、今日にも進行中の「辺境東アジア」地域の土着アイデンティティの活性化をもたらしたのが、「中心」同士の力関係の帰結としてこれらの「辺境」地域を対象に行なわれてきた「帰属変更」である、という因果関係なのである。強調するまでもなく、「帰属変更」はたんなる「中心」による「辺境」の移譲・併合作業ではなく、それを超えたひとつの構造的問題であるため、この「因果関係説」の妥当性は、本研究で立証された次の四点に支えられている。
(1)「住民不在」の「祖国復帰」と「辺境東アジア」のアイデンティティ問題
 序章においても指摘しているように、戦後「辺境東アジア」における三つの「返還」の政治過程において、「返還」される側の住民の参加は不十分ないし完全に無視されていたことが明らかである。
……
 以上のような「返還」過程における「住民不在」の問題は、今日「辺境東アジア」における「中心」にたいする遠心力の顕在化問題、すなわち「国民統合」問題に直結しているのである。
(2)「祖国復帰」後の差別政策と「辺境」アイデンティティの顕在化・政治化
 「祖国復帰」後の「辺境東アジア」住民のアイデンティティ問題は、「返還」の政治過程における「住民不在」に起因するところが多いが、問題の持続化現象ないしいっそうの顕在化・政治化現象は、「返還」後の差別的なエスニック政策や強制的「同化政策」にも密接にかかわっている。
 まず、沖縄のケースを見てみると、戦前の「同化政策」において、「方言札」に象徴される沖縄文化にたいする抑圧政策が採られていた。戦後になると、アメリカの支配を経て、1972年の「祖国復帰」後、沖縄にたいして行なった「差別政策」はいぜんとして多くの領域で見られる。「返還後の自治は返還前の30%に縮小した」ほかに、もっともよく指摘されているのはいわゆる「基地問題」である。すなわち、「国土の0.6%にすぎない沖縄に、なぜ在日米軍専用施設の75%が集中しているのか。本土復帰時と比較して、本土では米軍基地は60%も減っているのに、なぜ沖縄では15%しか減っていないのか」ということであった(大田昌秀1996)。この「基地差別政策」は、復帰後の沖縄ナショナリズムを刺激するキーワードとなった。
……
(3)植民地支配・複数の「帰属変更」経験と「辺境」アイデンティティの不安定化
 「辺境東アジア」は、近代社会になる前に、もしくはそれに移行し始めようとするときに、パワー・ポリティクス・ゲームによって、不本意にも「帰属変更」が強制的に行なわれ、「異民族」支配の経験をせざるをえなくなった。アヘン戦争末の1842年香港の中国からイギリスへの割譲、1879年日本の一方的琉球併合、1895年日清戦争の勝者である日本の戦利品として台湾の割譲、といった強者の新たな領土の獲得は、「辺境民」にとって「異民族」支配の時代が始まったことを意味する。
……
 アイデンティティを構成するには文化の要素は不可欠である。植民地化にともない異文化が浸透することによって、「辺境」住民がもつ文化と「祖国」のそれとの差異がいっそう大きくなったと同時に、そのアイデンティティの形成は「余計な」混乱を与えるようにもなった。このような「異民族」支配の経験は、「辺境」にとって、返還後の「母国」のナショナル・アイデンティティ要求に適応できず、アイデンティティの問題が起きやすい重要な一因になったのである。しかも、「異民族」の植民地支配から「解放」された「辺境」が、独立を選べずに「祖国」に復帰もしくは返還されたこと自体は、再度の「帰属変更」を意味する。そのため、「辺境」地域は、文化の再構成をもう一度経験しなければならず、またそのアイデンティティ形成の不安定な状態をふたたび克服しなければならないのである。
(4)「辺境東アジア」地域の相違点と「祖国復帰」後アイデンティティ問題の諸変数
 アイデンティティ問題と「帰属変更」との関係をめぐって、「辺境東アジア」地域が共通している点は、以上の通りである。しかし、言うまでもなく、三つの地域には相違している点もけっして少なくない。
 それを主に三つに集約することができよう。まず第一に、「祖国復帰」にさいして、台湾(1945年)と沖縄(1972年)の住民は歓迎ないし熱望していたが、香港(1997年)の方は、むしろ不安を抱きつづけていた。第二に、台湾において新たな宗主国ないし植民統治者であった日本にたいするアイデンティティは、「祖国復帰」してから半世紀経過した今日も一定の程度残っている。一方、香港に関して言えば一世紀半の植民地統治を行ないつづけたイギリスにたいする帰属意識はほとんど起こらなかった。沖縄のアメリカにたいする帰属意識の欠如も類似したケースである。それは、なぜであろうか。第三に、今日この三つの地域のアイデンティティ問題が政治化した程度がかなり異なっているが、それを左右するのは何であろうか。
 まず、第一の点について説明できることは、@「祖国復帰」が実現するまで、台湾は中国を、沖縄は日本を祖国とする意識は比較的に強かったが、香港の中国にたいする「祖国意識」は相対的に希薄だったことである。さらに、Aこの「希薄さ」を支えるもっとも重要な要因は、祖国との経済的格差と社会制度の相異である。前者については、返還の時点において、一人当たりの国民総生産の格差はおよそ30倍に上り、後者については、社会主義一党独裁の中国対自由主義法治社会の香港という対立構図が多くの香港住民の頭のなかに固定化したためである。この二つの側面においては、いずれも香港は、「返還」される「母国」の中国より優位にあった。要するに、住民側は新たな宗主国・統治者を「祖国」として扱うかどうか、また、その「祖国」との経済・社会的格差においては、どの程度のギャップが存在しているのか、それは「祖国」より優位にあるか、それとも劣位にあるか、冷静に判断していたのである。
 第二点については、日本は沖縄と台湾にたいして強制的同化政策を行なっていたが、香港を155年間統治したイギリスも、沖縄を戦後27年間支配したアメリカも、日本に比べると、柔軟な文化政策を採っていたことは、注目すべきであろう。また、香港と沖縄にとっては、イギリスとアメリカは、「明らかに」「異民族」であり、「同文同種」ないし「祖国」として受け入れやすい中国や日本と比較すると、文化的・歴史的連繋は貧弱であった。いわば、同化政策が遂行されたかどうか、支配者が「異民族」であるかどうかは、「辺境東アジア」地域の統治される側の帰属意識に大きな影響を与える重要な変数である。
 ただし、「異民族」から「祖国」になることは、絶対不可能ではない。沖縄のケースは、この命題に興味深い経験を教えてくれた。1879年の琉球併合のさい、併合に反対する琉球政府側や主流のエリートたちはむろんのことであるが(第1章)、一般の琉球民衆の大多数も、「ヤマト」を祖国にしたり、自ら「ヤマト人」になりたがったわけではなかった。しかし、戦後初期の「離日志向」を経て、急速にそれに取って代わったのは、「祖国復帰運動」であった。かつて、自らの国を滅ぼした「敵」であったはずの日本は、一転して「祖国」になったのである。これは、けっして「復帰運動」の戦略だけでは説明できず、興味深い課題として残されるが、日本の同化政策の成功は重要視すべきであろう。(第3章)。いずれにせよ、「異民族」は「祖国」になりうるのである。
 第三点、すなわち「辺境」住民アイデンティティの政治化程度を左右する変数はより多く、複雑であろう。以上の数点とも若干重なっているだろうが、第1部から第3部の実証研究から、次のようにまとめられる。@「辺境」地域の「返還」前における自立度、すなわち「中心」(「母国」)にたいする経済的・政治的依存度は高いか、低いか、A「返還」前に、政治・社会・経済・文化の分野において、「辺境」と「中心」(「母国」)の差はどれほど大きいか、B「返還」にたいする住民の賛否意識の強弱、C「返還」過程において、住民がどの程度「不在」だったか、D「返還」後の差別政策はどれほど遂行されていたか、E「返還」後において、どの程度の自治が保証されているか、Fそもそも、「祖国復帰」は、結局、「返還」された「辺境」に如何なる構造的利益をもたらしたのか、などである。……

第2節 アイデンティティの理論と「辺境東アジア」

1 文化的・政治的アイデンティティ生成・政治化の再考

2 「辺境東アジア」のケースはアイデンティティ理論に当てはまるか

(1)アイデンティティの生成・活性化と「辺境東アジア」
 A 歴史の所産か、近代の産物か
 まず、先述の仮説に関する考察でも若干触れているが、共同体意識としてのアイデンティティは、歴史的連続性を有するものであるか、または近代的産物であるか、という命題にたいして、本論から、後者が妥当であると判断できる。
 単刀直入に言えば、いわゆる「沖縄人」「台湾人」「香港人」という社会的普遍性をもつ文化的アイデンティティもしくは政治的アイデンティティは、いずれも、遠い昔からすでに存在していたものではなく、近代になってから初めて出現した社会現象である。琉球併合事件が起きるまで、500年に及んだ歴史をもつ琉球国において、首里を中心とする「琉球意識」は、一部の士族エリートのあいだには存在していたが、琉球列島を視野に入れる「琉球人」アイデンティティは普遍的帰属意識として存在してはいなかったのである。むしろ、琉球列島の一体化意識は、併合事件によって生まれた危機感から促進されたのである。そして、その後の近代化への進みおよび「ヤマト支配」・「日本同化政策」などのなかから、「沖縄人意識」がようやく普遍化していったのである。(第1章)
 B 原初的絆か、接触の産物か
 アイデンティティの生成は原初的絆によるものか、それとも「われわれ」と「彼ら」との接触過程で生まれたものか、という「対立」の理論について、本論から、両者は必ずしも矛盾しておらず、両立することが可能である、という結果が出た。
 ……
 アイデンティティは対象の相手を意識したり、接触したりすることによって強化されるが、なぜ「われわれ」が、ひとつのグループに属するかは、いぜんとして組織の原理が必要である。「原初的絆」はそのニーズに応じるものである。ただ、「もともと同じ人間」という意識に象徴される「原初的絆」はさまざまな要素を含んでいる。「沖縄人」をまとめる絆は、主に共有している血縁、歴史文化、歴史的歩みといった共通点から構成される一方、「台湾人」と「香港人」の凝集力は、血縁や伝統文化よりも、同じ歴史的経験およびそこから生まれる集合的記憶によるものであろう。
 C 社会変動の産物か、利益保護の道具か

(2)アイデンティティの本質と「辺境東アジア」
 A 可変か、不変か
 これまでのアイデンティティ研究における、もうひとつの論争は、アイデンティティというものが、可変なものであるか、それとも不変なものか、ということであった。この点については、本論から「可変である」と明確な答えが出ている。
 1879年の琉球併合まで一般の琉球住民にはほとんど存在しえなかった「日本人」という帰属意識は、その後の日本への同化政策によって徐々に生まれ定着してきたことや、近代以降沖縄に存在する「沖縄人」意識と「日本人」意識という二つのアイデンティティは、ときには前者が強く、ときには後者が強いということからも、アイデンティティの可変性が窺える。 
 ……
 B 実在のものか、想像したものか
 エスニック・アイデンティティとナショナル・アイデンティティを含むアイデンティティという帰属意識は、実在した共同体の意識であるか、それとも「想像の共同体」意識であるかは、本論から必ずしも明快な回答を出せていない。しかし、実在のものであるか否かは別として、多くの場合、アイデンティティはたしかに、想像したりする過程を経て生成され、強化されたものであることは、本研究の分析作業からも証明されている。
 ……
 C 自然の所産か、創造したものか
 本書の考察から、近代におけるアイデンティティという帰属意識は、自然に形成されたものというよりも、人為的に構築されたものという側面が濃厚であるということが明らかになった。
……
 総じて言えば、「辺境東アジア」地域の土着アイデンティティは、悠久な歴史のなかで自然に生成され、だんだんに強固たるものになったのではなく、帰属・主権変更や「祖国復帰」にともなった近代社会が進むなかで形成されたものである。換言すれば、この地域のアイデンティティは、社会の激動、増幅した接触・交流、利益の争奪、といった近代性に刺激されて活性化されたのである。また、そのアイデンティティの本質は、変わりうるものであり、創造されたり、また創造されたりした側面を濃厚に有しているものなのである。

第3節 「辺境東アジア」研究の課題と展望
……

3 本書の目的の再考と展望 
……
 要するに、「ボーダレス化」や「グローバル化」が進んでも、「近代国家」を根本的に変容させることはできず、国家はいぜんとして「国益を守る」必要性がある以上、「辺境」地域の利益を犠牲にしない保証はない。言い換えれば、前述していた、今日までつづいている「辺境東アジア」地域にたいする「主権国家」の「国家優先」下の抑圧と差別は、このような21世紀の世界においても当分つづくだろう。したがって、今日の「近代」ないし「ポスト近代」においていぜんとして色濃く残っている前近代東アジアの伝統的「中心←→辺境」観念も、このような新しい世紀においても完全には消滅しないだろう。
 いずれにせよ、「中心」との軋轢によって「辺境」から派生した諸問題を根源から取り除く体制を設けなければ、新しい世紀の地域も世界も、安定しないであろう。そもそも、前近代も近代も「中心」や「大国」という論理で形成されてきた「上から」の国際関係や世界システムをより安定なものにするためには、「ポスト近代」に入ろうとしている現在においては、新たな発想が必要なのではないか。この意味で、本書の提唱しようとしている、「辺境」や地方からなる地域秩序をベースにした「下から」の国際関係や世界システムの構築理念を、今後よりいっそう再考する価値があるのではなかろうか。


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