【4-3】その2: 神仏分離・廃仏毀釈の思想背景
2004/11/19版

近世後期の廃仏思想とその意味(水戸学・後期国学の影響)

荻生徂徠:
幕藩権力の宗教制度・政策は、形式主義であり、人々の内面に立入らない欠陥を批判。
政治権力が「天・命・鬼・神」を祭祀することの重要性を説く。「天祖(天照大神)」を祀る祭政一致が政治の要諦であるとの前提であった。

太宰春台:
国家が祭祀を行っていないことが「国家の闕典(けってん)」であり、この世の事象は根源的に神の力によるものとし、国家が神を祀ることが重要とした。この国にはそうした制度がすっかり廃滅している。国家にとって重要な神は天子国君が自ら祭るべきで、その意味の一つは民衆が惑わされている淫祀・鬼神に対抗し、民衆を国家が収攬する意味でもあった。

そのほか江戸前期の朱子学者:藤原惺窩、林羅山、山崎闇斎など、陽明学者:中江藤樹、熊沢蕃山など、古学学者:伊藤仁斎などが封建的倫理観あるいは素朴な民族感情で、佛教の世界観・超越性(非倫理性・非民族性)などを批判する。

冨永仲基、服部天游などは、仏典成立を論じ、近代的実証批判主義(大乗非仏説)に基ずく批判があった。
特に冨永の「出定後語」は近代の科学的佛教研究の先駆として高い評価を受けていると云われる。

中井竹山・中井履軒・神惟孝・正司考祺:
「仏法は天下古今大害たる事云ふを待たず・・・・」(竹山「草茅危言」)とし、佛教を始めとする宗教に内在する危険性即ち民衆を捉える魔力に反秩序性を見る。特に一向宗・日蓮宗などにその反権力性の潜在を直感して攻撃する。
また彼等、経世家の批判には、ほぼ幕藩体制の支配機構化した、佛教の非生産性・浪費などの観点からの批判もなされる。

会沢正志斉:「新論」
背景には緊迫する外国関係があり、国体論による人心統合の必要を強調し、その具体的方策として国家祭祀による、祭・政・教の一体化を主張した。この人心統合を妨げる「邪説」が佛教・キリスト教・淫祀などであ る。外国からの脅威に対抗する海防や経済のことはさておき、人心統合術として、「典礼教化」つまり村々の産土社を底辺に置き、「天社・国社」を頂点に置いた国家祭祀体系の整備の必要を説 く。「邪教」は来世と魂の行方について妄誕を教えている、それに対抗するために、魂の行方について明らかにし、国家祭祀が行われなければならないとする。
おそらくこの後期水戸学の説は、明治維新直後及びその後の近代化を至上命題とした明治国家のイデオロギーに大きな影響を与えたものと思われる。

平田篤胤:「出定笑語」
通俗・卑俗な批判・罵倒・嘲笑に終始しているとされる。
例えば真宗及び法華宗批判として「伊勢の大御神を祭り奉らず、また余神をも奉らず」など。
・2011/08/16追加:「明治維新の東本願寺」奈良本辰也、百瀬明治、河出書房新社、1987 より
復古神道の目指すところはわが国上代の純粋な信仰を再現し、惟神道(かんながらのみち)を確立することである。
その意味で、仏教とは外国から流入しわが神国を汚した邪教に他ならない。
当然のことながら、篤胤は本地垂迹説を否定する。神と仏は同じであるはずがないと云うものであり、当時の常識を覆す新鮮な響きをもつものであった。

 儒学・経世家・国学者などから、佛教は江戸期を通じて批判され、特に後期国学者からは、彼等の復古主義・神道とは相容れない代表として、排撃されるべきものとされ る。
本来であれば、彼等の復古主義は時代錯誤なもので、現実の勢力とはならないはずのものであった。
 しかし時代の漠然とした不安(迫り来る諸外国の勢力・キリスト教の恐怖)を背景に、浮薄な批判は別にして、来るべき新しい時代の人心収攬(人心統合)方法(つまりは、尊王・天皇を中心とした国家の形成・そのための神々の体系化など)を提示したのは、佛教側ではなくて、後期水戸学・後期国学の側であった。彼等の説は、幕藩体制を打破する維新勢力にとってのイデオロギー・人心統合術(方法)と成りえたのであった。佛教側は余りに「惰眠」「惰性」の世界に安住をしてしまっていたというべきであろう。
 明治維新を目指す現実政治家の冷徹な眼で見て、彼等の時代認識及び今後の新国家建設のビジョンとして、後期国学者の時代認識とその方法は「利用できる」と判断されたのであろう。その意味で、水戸学を含め後期国学は明治維新で大きな役割を果たすことになる。
 但し、その祭政一致とか神武の御世に帰るなどの復古主義は、西洋に伍していく近代国家造りを志向した維新政府の政治家とは相容れるはずも無く、現実政治からは勿論・その宗教政策からも没落していくことになる。
しかし一方では、皇室中心主義・天皇絶対化は臣民統合の手法として、維新政府に継承され、臣民の教化方法として踏襲され、この意味では、21世紀の今日までその影響は残っているものと云わざるを得ない。

以上の出典:「神々の明治維新」安丸良夫、岩波新書、1979、「講座日蓮3 日蓮信仰の歴史」春秋社、1972 など

近世後期国学の系譜・明治維新の神学の動向・宗教政策をめぐる政治闘争

「<出雲>という思想」原武史、講談社学術文庫、1518、2001 より<要約>
 
本居宣長
享保15年(1730)-
貞和元年(1801)
宣長は国学者の中で、最初に「日本書記」一書第二の「顕」と「幽」に着目し、言及した。
「顕」とは「現人の顕に行うこと」で、具体的には「朝廷の方の御政」のことであり、「幽」とは「目に見えず、・・神の為し給う政」で、大国主が「幽事」を統治するとした。また「幽」は「顕」を包含する とも解釈した。但し「古事記」の絶対的優位は変わらないとする。
千家俊信
明和元年(1767)-
天保2年(1831)
第76代出雲国造千家俊秀の実弟、宣長門下。宣長の「顕幽」論を受け継ぎ、大国主は「幽界」を治める神としての立場を堅持する。
平田篤胤
安永5年(1776)-
天保14年(1843)
宣長死後門人(自称)。宣長の「顕幽」論を引継ぎ、「幽」は「幽界」と解釈され、それは「死後に霊魂が赴く世界」とする。霊魂は死後全て「幽界」に集められ、「幽界」を主催する大国主によって「裁き」を受け、善なる霊魂は「天津国」へ、悪き霊魂は「夜見国」へ送られると する。これは「幽界」の存在を認めなかった宣長の批判であり、宣長の説を越える視点であった。 この視点は大国主への絶対性に繋がるものでもあった、さらに大国主の親神である素盞嗚を善神として(天照が善神であるのに対して、素盞嗚は悪神であるとの従来説をひっくり返し) 評価し、伊耶那岐から国土の統治を任された神であると解釈した。以上などから、素盞嗚の子神である大国主の支配の正統性を導きだ す。
即ち、篤胤によって、宣長流や古典的な神話解釈である、天照−瓊瓊杵−天皇に繋がる系統ではなく、素盞嗚−大国主の系統を重視する「地」及び「幽」を中心(出雲中心)の神学が確立され る。要するに篤胤の神学は天照−瓊瓊杵−天皇の系統が一貫したこの国の支配者であるという国文学の常識を覆すものであった。
なおいわゆる造化三神(天御中主、神産巣日、高御産巣日)の天地創造(造化)は「幽界」の神事とは別のこととして区別される。
後期水戸学 会沢正志斎:天明2年(1782)-文久3年(1863)、祖といわれる藤田幽谷:安永3年(1774)-文政9年(1826)、その息藤田東湖:文化3年(1809)−安政2年(1855)など がその代表とされる。
水戸学を前期・後期と区分する一つの特徴は、前期水戸学が国史の起源を神武以降の人代に求め、それ以降を研究対象するのに対して、後期のそれは天孫降臨以降の神代も対象としたことに ある。しかし、後期といえども、それ以前の歴史である天地創造は対象とはしていなかった。
その基本的立場は皇室の祖先である天照を重視し、建国の基礎は「天祖」天照大神から「天孫」瓊瓊杵への三種の神器の伝授によるものとする。大国主は邪神であり、天照大神の詔を奉じて、大国主に「国譲り」を迫り、その結果の大国主の屈服を受けて、国の安定がもたらされたというような史観であった。この史観は尊王攘夷運動の理論的支柱となり、吉田松陰などの勤皇の志士たちは争って、後期水戸学者の書を読んだといわれる。そのためなどもあり、結果として後期水戸学の神話解釈は多くの人々に浸透していくこととな る。
篤胤神学への
対抗・・・1
佐藤信淵(篤胤門下):明和6年(1769)-嘉永3年(1850)、鈴木雅之:天保8年(1837)-明治4年
伝統的な国学解釈を覆した篤胤に対し、彼等は造化3神(就中、天御中主)による神道の1神教化を図ろうと企図する。天御中主は造化の太祖であり、神祇の中に於いて最上無類の神と する。しかし最も重要であるこの神は「古典の太初を説る所に聊か名を出すだけであり、国中でこの神を祭祀するものも無かった。天御中主は至高にして眼には見えないという訳で ある。その天御中主は「虚宙」にいて、人の霊は神産巣日、高御産巣日を介して、「天」から「地」へ送られ、死後、大国主支配の「幽界」を経て、再び「天」に還るとされる。
鈴木雅之に至っては、天御中主が「造化」と「幽事」の双方を主宰するとされ、ほとんど1神教に近い主張がなされる。
篤胤神学への
対抗・・・2
大国隆正(篤胤門人):寛政4年(1792)-明治4年)
大国主重視の篤胤神学に対して、大国主を無視・軽視し、天照を「幽界」主宰神とした。篤胤の「顕」に対する「幽」の優位を認めた上で、「幽」の多様性を主張し、高天原=「天」は最上位の「幽界」で天照が主宰し、「地の幽界」を支配する大国主をも差配するとの解釈をした。さらに「顕」を主宰するのは天皇(国の天御中主)であり、 「地」の「幽界」を大国主は主宰すれども、それは「顕」の政治の遺漏を輔弼するものとされた。また天御中主は永久ではなくて、天照の出現の後は造化の機能は天照が完全に代行することとなったと云う。
篤胤は後期水戸学者には、(おそらくその思想ゆえに)受け入れられなかったが、隆正は水戸家に評価され、斉昭・東湖らとの間で頻繁に学問的付き合いがあったと云う。
黒住教・本多応之助:
黒住教は文化11年(1814)黒住宗忠が開教、当初は素朴な太陽信仰であったとされる。本田応之助は篤胤門人ではないが、篤胤の思想の影響を受けているとされ、黒住教の中に「顕幽」論を持ち込み、(中略)天照を唯一絶対神と する。 彼の著作では大国主には全く言及しないと云う。
篤胤神学の
後継
六人部是香(山城向日神社社家・篤胤門人):寛政10年(1798)-文久3年(1863)
「幽冥」には「造化」が含まれ、大国主の「国造り」は全地球に及び、その功で「産巣日」より、「造化」の権能も譲りうけたとする。また「幽冥」は「産須那社」にあることを主張した。大国主の絶対性は天皇をも裁くと する。
矢野玄道(伊予大洲出身・篤胤没後門人):文政6年(1823)-明治20年)
「顕幽」については是香の説を継承し、大国主の絶対性は不変とする。その著である政治論「献芹・語」では王政復古の成就は根本的には「顕幽」(主宰は大国主)の賛助の賜物とし、天下の政務は天神地祇の祭祀とし、祭政一致が述べられる。天つ神(造化3神、伊邪那岐・伊邪那美、伊勢両大神宮)と地祇(杵築大神などの国つ神)とを祭祀対象とすべきことが強調され る。後期水戸学の天照編重とははっきりと区別されるものであった。なお「献芹・語」は王政復古直後の慶応3年12月に岩倉具視に提出される。
慶応4年2月3日
神祇事務局設置
神祇官再興の方針は、神祇科の改組として実現する。
その陣容は以下であった。(明治初期主要官職一覧による
神祇事務局督 有栖川宮幟仁親王 慶応4年2月20日〜慶応4年2月27日
  白川資訓 慶応4年2月27日〜慶応4年閏4月21日
神祇事務局輔 白川資訓 慶応4年2月20日〜慶応4年2月27日
  吉田良義 慶応4年2月20日〜慶応4年4月21日
  亀井茲監 慶応4年2月27日〜慶応4年閏4月21日
神祇事務局判事 亀井茲監 慶応4年2月20日〜慶応4年閏4月27日
  平田銕胤(篤胤養子) 慶応4年2月20日〜慶応4年3月4日
  矢野玄道 慶応4年2月20日〜慶応4年3月4日
  谷森善臣 慶応4年2月22日〜慶応4年3月4日

平田派の祭政一致は神祇事務局設置で実現するが、その代表である平田銕胤、矢野玄道は僅か1ケ月で解任される。事務局の実権は津和野藩主従(津和野派)亀井茲監・福羽美静が握る。おそらく神学上の対立と地域的に近い長州閥を利用した津和野派による政治的な追い落としがあったと云われる。
要するに平田派神学は神祇官再興の実現直後に維新政府から追放される結末となる。
この時期、津和野派主導の「神祇事務局」から、相次いで、事務局から神仏分離の布告が出され、神仏分離(廃仏毀釈)が強行される。

慶応4年閏4月21日
神祇事務局は
神祇官に改組
神祇官に改組(明治初期主要官職一覧による
 
神祇官知事 鷹司輔煕 慶応4年閏4月21日〜明治元年9月12日
  近衛忠房 明治元年9月12日〜明治2年5月15日
  中山忠能 明治2年5月15日〜明治2年7月8日
神祇官副知事 亀井茲監 慶応4年閏4月21日〜明治2年5月15日
  福羽美静 明治2年5月15日〜明治2年7月8日
神祇官判事 福羽美静 慶応4年5月12日〜明治2年4月12日

津和野藩主従(津和野派)亀井茲監・福羽美静が実権を握ったことが露骨に示される。

明治2年7月8日
神祇官は太政官の上に立つ
明治初期主要官職一覧による
神祇伯 中山忠能 明治2年7月8日〜明治4年6月25日
  三条実美 明治4年6月27日〜明治4年8月10日
神祇大副 白川資訓 明治2年7月8日〜明治3年12月26日
  近衛忠房 明治3年12月26日〜明治4年6月25日
  福羽美静 明治4年8月5日〜明治4年8月8日
神祇少副 福羽美静 明治2年7月8日〜明治4年8月5日
  梅溪通善(元公卿) 明治3年3月30日〜明治4年1月15日
神祇大祐 北小路随光(元公卿) 明治2年7月8日〜不明
  門脇重綾(国学者) 明治3年5月20日〜明治4年8月5日

津和野派福羽美静が実質の権力を握っていたものと云われる。
門脇重綾については不詳であるが、勤皇志士、長州閥、国学者、維新政府から地方への派遣神官、明治3年8月の邪教徒処分方法に関する建白書提出などの断片的情報が 見られる。

伊勢神宮の改革 明治4年1月:藤波家の祭主職世襲廃止、当時の神祇大副近衛忠房が祭主任官。
明治4年5月14日:神職世襲制廃止の布告。
明治4年7月:伊勢神宮改革の布達。
1.皇太神宮と豊受太神宮の同一性の廃棄、2.荒木田・度会両氏の両神宮区分の廃止、3.御師及び御師の大麻配布の禁止。以上がその要点である。
・・・要するに劣勢であった内宮を至高の地位にする目的であったとされる。
神社祭祀の体系化 明治4年5月14日:神職世襲制禁止の布告と同時に「官社以下定額及神宮職員規則等」の布告。
官・国幣社を制定し、その下に府藩県社、郷社、産土社を置く。
以上の2つの布告により、神社は国家機関となり、官・国幣社は神祇官の、それ以下は地方庁の管轄に置かれる。
つまりは伊勢神宮・宮中神殿を頂点とする祭祀体系が制定され、この祭祀体系以外のものは無価値なもの・廃棄すべきものと見做されるのは自明のことであろう。
あるいは、明治4年の東本願寺上奏文案:「・・・本尊は阿弥陀如来と申す、恐れながら皇国天祖の尊と一心同体にして、・・・天ノ御中主尊と称し奉り・・・」ということで、明治の神仏分離に最も抵抗した真宗でさえ、国家の差出す神々の 体系に擦り寄るしかなかった。(B)ということも自明のことであろう。
明治4年3月:神武天皇祭の遵行と地方官の遥拝式励行の神祇官布達。
明治4年8月
神祇官は神祇省に改組

福羽美静に実権があったといわれる。同年6月大国隆正が逝去し、福羽が津和野派の主導者となる。
明治初期主要官職一覧による

神祇卿 不設置  
神祇大輔 福羽美静 明治4年8月9日〜明治5年3月14日

福羽は小野述信(長州)・浦田長民(伊勢)とともに「神祇省の基本的方針」を岩倉具視・大久保利通に宣言。
ここでは「天照は高天原を主宰」し、「天地造化を掌し」、「今上天皇の遠祖神」に故に、「今上天皇は現ツ神」であるとの理論に立つことが宣言される。
伊勢神宮改革・神社祭祀の体系化などが進められる。

明治5年3月13日
神祇省廃止
教部省設置
以上の津和野派の立場に対し、西郷隆盛などの薩摩閥は、天照ではなくて造化3神を「開元造化の主神」と捉えていた 模様である。 その薩摩閥での神学・宗教政策の中心は
八田知紀(寛政10年-明治6年、歌人・宮内庁)、伊地知正治(文政12年-明治12年)であった。
当然津和野派の神祇方針には反対で、薩摩閥の力を背景に神祇省は廃止され、教部省が設置される。
薩摩派の宗教政策クーデターというべきか。
初代の卿に嵯峨実愛(さねなる),大輔に福羽美静が任命されるも、5月には解任される。
ここに於いて、薩摩派が実権を掌握し、平田派及び大国派の神学はほぼ完全に排除される。

明治6年1月:大教院開院・・三条教則による国民教化・大教宣布運動が展開され る。
神祇省に鎮座の天神地祇・八神を宮中に遷座する。また祭事・祀典の事務を式部寮へ移管 する。
教部省が実施した主要政策として、神社仏閣の女人結界の廃止、無届の社寺創立の禁止、修験宗の廃止、切支丹禁制解除、官国幣社経営、小規模の神祠・仏堂の廃止などがある。

出雲派の動向 千家尊福(第80代出雲国造:弘化2年-大正7年)
篤胤−六十部是香−矢野玄道の神学を受け継ぎ、教部省に対し以下の請願を為す。
官幣大社と格付けされた「出雲大社」の伊勢神宮と同列の官社の上に格付けすることと、大・中・小教院の祭神が造化3神と天照であることは不審で大国主を合祀すべきこと。
それは「顕」は天皇の、「幽」は大国主の統治領域であり、それゆえ出雲大社は「幽界」の首府であり、諸神社の総宰であるという思想であった。 しかしながら薩摩派である教部省はこれを却下する。
政治情勢の変化 明治6年太政官内部の分裂と西郷隆盛の参議辞職があり、また薩摩閥の神道一辺倒の宗教政策に長州閥の木戸孝光・伊藤博文が不快感を抱き、 長州閥を背景とした、佛教をも包含した宗教政策に変換が図られる。
以下明治8年の大教院廃止となる。
明治8年 大教院廃止。神道事務局(国民教化を目的とし、大教院廃止に代わる機関)が設置。
同年11月には神道・佛教双方に一応の信教の自由を保障する達が出される。
しかし「神道事務局」では、あくまで「伊勢神宮が神道の根本」とし、「神宮祭主が・・・教務を管理」するという立場であった。このため、国家としての祭神は造化3神と天照であり、大国主は祭神外であった。
この当時の神道事務局を支えたのは、実務面では旧薩摩派の田中頼庸(伊勢神宮大宮司)、教義面では浦田長民(伊勢神宮少宮司・津和野派の影響を受けていたと云われる)であったとされる。以降「伊勢派」とも言うべき「伊勢神宮」「天照」中心の政策が展開される。
当然、天照中心主義に対し、出雲派からの反発は強く、本居豊頴(宣長曾孫)平田派国学者らも出雲派に組した。(中略)「顕幽」「大国主」に関する神学論争は大した理論を持たない伊勢派は劣勢であり、折からの自由民権運動の高まりとあわせ、伊勢派にとっては、出雲派の神学は「国体」に関する「危険な思想」とも判断されるに至る。
ここにいたり、田中頼庸らは権力の中枢に近い立場を利用して、神学論争を「勅裁」という形で決着をつける。
国体神学の成立 明治14年勅命により、全国の主要宮司・教導職が召集され「神道大会議」が開催され、太政大臣三条実美から、以下の「勅裁」が示される。
 宮中斉祭所の神霊 天神地祇、賢所、歴代皇霊
伊勢神宮は賢所と同じことであり、ここに伊勢派は出雲派の抹殺に成功したことになる。
意味することは「顕幽」論の禁止であった。以降、祭祀と宗教との分離が進行し、公の神社神道は祭祀だけに限定する、国家神道が成立してゆくことになる。
大正期 国体イデオロギー(通説)の成立。「国体論史」「国体の本義」では平田派国学が後期水戸学と同様に国体イデオロギー確立に貢献したとされる。ここでは「幽界」論は無視され、「書記」一書は無視される。
第二次大本事件 大本教出口王仁三郎:彼の神学ではニニギの統治の前に、イザナギから委託されたスサノウの統治があったとし、また「幽界」論を復活させたという。平田派神学の復活であった。
内務省警保局はこの思想を「国体変革」を企てるものと断定、神殿爆破と一斉検挙がなされる。
国体イデオロギーから逸脱したためであった。

八神:神産巣日神、高御産巣日神、玉積産日神、生産日神、足産日神、大宮売神、御食津神、事代主神 であると云う。
神産巣日神、高御産巣日神:「生産霊(むすび)」で、「かむ」「たか・み」は美称という。天地万物の生成神とされる。
いわゆる造化3神のうちの2神。
玉積産日神、生産日神、足産日神:「生産霊」の現れ方あるいは機能をいうようで、要するに、以上5神は「生産霊」の異称でもあると云う。
大宮売神、御食津神、事代主神については「大宮」とは宮中のことで、「御食(みけ)」とは食物の意で、「事代」とは「言知(ことしる)」の意であると云う。(式内社調査報告 第1巻」「序並びに解題」による)

再び国学の系譜と宗教政策の遷移

「<出雲 >という思想」原武史、講談社学術文庫1516、2001より

・維新前後の国学の系譜:「黒→」は思想系譜を示す。

・維新の神祇政策の主導権は「青→」で遷移する。
神祇官・神祇省時代は 1)平田派復古神道から 2)津和野の大国派に移り 神祇省廃止→教部省設置の段階で
3)薩摩派が実権(大教院教化)を握り、次で 4)伊勢派が実権を握る。
以降、宮中神霊、伊勢神宮を頂点とする神々が体系づけられ、国家神道として近世国家のイデオロギーとなる。
結果は、大国主命などの出雲系の神々は排除され、皇室の祖神とされる天照大神・皇霊・造化3神などが国家祭神となることで決着する。

※上図は、モナ丼というページの[#152: 04.04.25]の図表を参考にさせて頂く。
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