現存する多宝塔(江戸前期・宝永以前) |
現存多宝塔(江戸前期・宝永以前)
名称・場所 | 国指定 | 画像 | 備 考 | |
652 | 山城常寂光寺 | 重文 |
図1 図2 図3 図4 図5 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 |
元和6年(1620)8月建立(2世日韶上人代)。一辺3.33m、高さ12.27m。 棟札には、大檀家:辻藤兵衛尉直信、棟梁:藤原岡田仁助宗直、藤原沢村若狭守宗久、当時大工藤原土井中源烝宗次らの名があると云う。 ※辻藤兵衛尉直信は京都町衆であり、日奥上人実家と云う。 基本的には唐様(斗栱、粽、頭貫など)であろうが、和様(長押、蟇股など)も多用する。 蟇股の脚内意匠は、東西は輪宝、南は巾著、北は宝珠を中心飾とし、それに雲を配する彫刻を入れる。 内部は後方に2本の来迎柱を立て、須彌壇を造り、釈迦・多宝如来を安置する。屋根檜皮葺。 正面に掲げる扁額は「並尊閣」と揮毫する勅額で、正徳5年(1715)<正徳2年とも云う>霊元天皇より下賜されると云う。 常寂光寺多宝塔:常寂光寺発行リーフレット(1970〜80年年代か)より ◎図1〜5は2001/02/10撮影、11〜28は2012/12/25撮影 ○寺伝では、文禄5年 (1596) 日ワ辮lが、当地に隠居所を立て隠棲する。後に寺院に改め、常寂光寺と号する。日ワ辮lにこの地を提供したのは、京都の豪商角倉家と云う。 慶長11年(1606)角倉了以が大堰川浚鑿を開始する際に、上人は備前伊部妙国寺末檀家の来住一族(瀬戸内水軍の長)に書状を送り、舟夫の一団を招じ、了以の事業に資すると云う。 ○常寂光寺伽藍現況 2世日韶上人、本堂を造営(小早川秀秋が桃山城客殿の一部を移築)、元和2年 (1616)には本圀寺客殿南門を移し仁王門となし、仁王像は運慶作で「若狭小浜長源寺」より移座すると伝える。 常寂光寺山門 常寂光寺題目碑 常寂光寺仁王門1 常寂光寺仁王門2 常寂光寺仁王門3 常寂光寺参道石階 常寂光寺本堂1 常寂光寺本堂2 常寂光寺鐘楼:鐘楼は、寛永十八年 (1642) の建立。 常寂光寺開山堂:平成16年(2004)明石本立寺野口僧正と夫人により常寂光寺に開山堂が建立され、新たに発見された日ワ辮l坐像が安置される。同年、日法上人墓も開山堂傍らに建立される。 常寂光寺歌遷祠:藤原定家の神像を祀る祠か? 、平成5年改築。 常寂光寺妙見大菩薩:享和年中 (1801-03)22世日報上人代、境内に妙見菩薩が遷される。本妙見菩薩は元々慶長年中の保津川洪水のとき、上流から流れ着いたと伝え、船頭が拾い上げ、祀っていたものと云う。以降、江戸後期から昭和初期まで、「酉の妙見菩薩」・「小倉の妙見」として広く信仰を集めると伝える。 なお、妙見堂内には鬼子母神、十羅刹女、大黒天も祀ると云う。 →洛陽十二支妙見 常寂光寺妙見大菩薩1 常寂光寺妙見大菩薩2 常寂光寺妙見最菩薩3 ●関係するページ; →究竟院日ワ辮l →備前浦伊部妙圀寺 →六条本圀寺 |
653 | 山城善峰寺 | 重文 | 図1 図2 図3 図4 図5 図6 図7 |
◆多宝塔 元和7年(1621)賢弘法師再建塔。(元和7年は棟札による。)一辺3.03m、総高12m。 内部には愛染明王を安置。 ○2001/04/15撮影:図1〜7 ○2016/03/31撮影: 善峯寺多宝塔11 善峯寺多宝塔12 善峯寺多宝塔13 善峯寺多宝塔14 善峯寺多宝塔15 善峯寺多宝塔16 善峯寺多宝塔17 善峯寺多宝塔18 善峯寺多宝塔19 善峯寺多宝塔20 善峯寺多宝塔21 善峯寺多宝塔22 善峯寺多宝塔23 善峯寺多宝塔24 善峯寺多宝塔25:手前から釈迦堂、経蔵、多宝塔、護摩堂、護摩堂右は鐘楼の屋根である。 善峯寺多宝塔26 善峯寺多宝塔27 善峯寺多宝塔28 善峯寺多宝塔29 善峯寺多宝塔30 善峯寺多宝塔31 善峯寺多宝塔32 善峯寺多宝塔33 善峯寺多宝塔34 善峯寺多宝塔35 善峯寺多宝塔36 善峯寺多宝塔37 善峯寺多宝塔38 善峯寺多宝塔39 善峯寺多宝塔40 善峯寺多宝塔41 善峯寺多宝塔42 善峯寺多宝塔43 善峯寺多宝塔44 善峯寺多宝塔45 善峯寺多宝塔46 善峯寺多宝塔47 善峯寺多宝塔相輪 善峯寺多宝塔露盤 善峯寺多宝塔宝珠 ◆善峯寺現況 観音堂は西国観音弟20番札所。 西山の山腹にある。長元3年(1030)年源算上人の開創と伝える。法親王が歴代入山し、また浄土宗西山派の道場として隆盛を極め る。この盛時の善峯寺は三尾からなる。南尾は現在の観音堂附近で法華院と号し、中尾は現在の薬師堂附近で蓮華寿院と号し、北尾は現在の三鈷寺の境内地で往生院と号し、坊舎は合わせて52坊を数えたという。しかし、応仁の乱で焼亡す。 近世、桂昌院によってほぼ現在の堂宇が再建され、7坊も再興され、やや旧観に復す。 明治維新で、7坊は1坊に減ずる。現在は比叡山延暦寺に属する。 ・阿智坂明神:開山源算上人(叡山横川恵心僧都源信に師事)に法華院(現在の善峯寺)の霊地を示現し、鎮守となる。 善峯寺領碑 阿智坂明神 善峯寺東門 ・山門:正徳6年(1716)建立。 善峯寺山門1 善峯寺山門2 善峯寺山門3 善峯寺山門4 ・観音堂:西国33ヶ所20番札所、元禄5年(1692)建立。 善峯寺観音堂1 善峯寺観音堂2 ・鐘楼:貞享3年(1688)建立。 善峯寺鐘楼 ・護摩堂:元禄5年(1692)建立。 善峯寺護摩堂 ・経堂:宝永2年(1705)建立。 善峯寺経蔵1 善峯寺経蔵2 善峯寺経蔵3 ・開山堂:貞享2年(1687)建立。 善峯寺開山堂1 善峯寺開山堂2 善峯寺開山堂3 善峯寺開山堂4 善峯寺開山堂5 ・桂昌院廟:宝永2年(1705)建立、桂昌院の遺髪を納める。 桂昌院廟所門 桂昌院廟 ・宝篋印塔:法華経を納める。如法経塚。 宝篋印塔 ・鎮守4社:十三佛堂、弁財天社(明治維新前までは善神竜王社であった)、毘沙門堂、護法堂の4棟ですべて元禄5年(1692)建立。 鎮守各社 護法堂・毘沙門天堂 弁財天社 十三仏堂 ・釈迦堂:明治18年建立。 善峯寺釈迦堂 石造釈迦如来坐像1 石造釈迦如来坐像2 ・薬師堂:中尾の蓮華壽院跡である。以前は釈迦堂の西に並んであったが、昭和63年現在地に移建。元禄14年(1701)建立。 善峯寺けいしよう殿 善峯寺薬師堂1 善峯寺薬師堂2 薬師如来立像1 薬師如来立像2 薬師堂多宝小塔1 薬師堂多宝小塔2 蓮華寿院跡 法親王墓碑1 法親王墓碑2 歴代祖師墓碑 本庄氏一族墓碑 ・阿弥陀堂(常行堂):寛文13年(1673)建立。 善峯寺阿弥陀堂・書院 善峯寺阿弥陀堂 阿弥陀如来坐像 善峯寺書院 善峯寺本坊山門 善峯寺本坊俯瞰 ・文殊寺宝館:平成11年建立。 善峯寺文殊寺宝館 ・往生院旧跡は西山上人善恵証空が入寺し、三鈷寺と改号、浄土宗西山三派の信仰地となる。 三鈷寺山門 善恵上人廟拝所 善恵上人廟 三鈷寺本堂 三鈷寺客殿・庫裡 ◆善峯寺参詣曼荼羅 ○「描かれた日本の中世」下坂守、法蔵館、2003 善峰寺参詣曼荼羅(善峰寺蔵): 善峰寺には2幅の参詣曼荼羅が伝来する。しかしこの2幅は全く別の構図であり、堂塔も共通するものが全くないとい云ってもよい程の異本である。 この2幅のうち、 参詣曼荼羅A本は、「想定図」で示されるように、確かに善峰寺およびその参詣道を描いたものであるとされる。 善峰寺参詣曼荼羅A本 善峰寺参詣曼荼羅A本(塔婆部分) :「図説 日本の仏教6 神仏習合と修験」より、善峰寺蔵 善峰寺A本想定図:「描かれた日本の中世」より ※以上A本想定図のように、A本は「善峰寺の景観」を映したものであるとされる。 但し、本堂右手(北)の広場に三重塔(大日如来)が描かれているのは、どういう事情かは不明。 なお図の右上の伽藍は三鈷寺伽藍で多宝塔(大日如来)は三鈷寺多宝塔とされる。 善峰寺参詣曼荼羅B本: 善峰寺蔵 B本も善峰寺に伝来したものであるが、子細に検討すると、A本とは全く異にし、善峰寺を描いたものとは思われない。ではどこの霊場が描かれているのか。第1の候補は隠居所であった三鈷寺であり、その本堂及び附属堂宇は古の三鈷寺のそれに極めて類似している。しかしながら三鈷寺とすると、絵の下部の景観は全く説明がつかないものとなる。 谷直樹氏はこの絵の景観の下部は伊勢内宮と外宮であり、寺院は朝熊山金剛證寺であるとの説を提唱した。その根拠は伊勢参詣曼荼羅の図柄と一致するというものであった。確かに神社の社殿、五十鈴川に架かる宇治橋(反橋)などほぼそっくりといってよい。だとすると、このB本は「朝熊山参詣曼荼羅」と言って良いであろう。但し、なぜ「朝熊山参詣曼荼羅」が善峰寺に伝来したのかは良く分からない。 参考:伊勢金剛證寺 2010/10/06追加:「社寺参詣曼荼羅」(目録)大阪市立博物館、1987では上記B本は善峰寺とする。というよりB本が「朝熊山参詣曼荼羅」であるとの視点は全くない。 |
654 | 大和久米寺 | 重文 | 大和久米寺多宝塔・塔跡 | |
655 | 武蔵喜多院 | . | 寛永16年(1639)再興塔。武蔵喜多院多宝塔 | |
656 | 播磨伽耶院 | 重文 | 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 |
多宝塔(重文):正保4年(1647)に小倉城主・小笠原忠真が寄進したと伝える。本尊は弥勒菩薩。初層は和様二手先斗(中央蟇股)、上層は和様四手先斗(扇垂木)。以前、相輪は無く宝珠で代用
していたが、昭和60年復元。宝珠が塔脇に2組放置されるが、その内の一つが塔に載せられていたそれと思われる。 伽耶院残置露盤・宝珠 当寺は、大化元年(645)、法道上人を開基とし、孝徳天皇の勅願により建立されたとする。大谷山大谿寺東一坊と称した。平安中期には数十の堂宇と坊舎130余があったとされる。その後羽柴秀吉による三木城攻略の兵火および慶長14年(1609)の失火により、全山焼失する。天和元年(1615)後西上皇(在位1654-63)から伽耶院の称号を賜う。中世以降、聖護院の五院家の1つとして大いに権勢を振るう。 現在の諸堂はそれ以後の再建で、東から多宝塔、鎮守三坂明神社(重文、慶長15年<1610>)、木堂(重文、慶長15年再建、方五間、寄棟造瓦葺)と江戸初期の建築が南面して並ぶ。さらに南に仁王門、本堂西に開山堂、行者堂、本坊、総門としての仁王門が並ぶ。(撮影時は雪が舞う。) 本 堂 1 同 2 同 3 三坂明神1 同 2 同 3 当寺の立地は紀伊根来の立地を思い出させる。勿論根来の数十分の一の規模であるが、西向きに長く入り込んだ浅い谷筋に立地し、あたりはかって坊舎が存在した様相を見せ、一筋の谷川が流れ、 そこにはいくつかの堂塔門が点在する風景が広がる。 2010/11/01追加:「重要文化財伽耶院本堂・多宝塔・三坂明神社本殿保存修理工事報告書」昭和60年 相輪・風鐸を復旧整備する。 伽耶院多宝塔修理前 伽耶院多宝塔解体中 伽耶院多宝塔竣工 伽耶院多宝塔立面図 伽耶院多宝塔断面図 伽耶院多宝塔初重平面 伽耶院本堂竣工 伽耶院本堂竣工内部1 伽耶院本堂竣工内部2 |
657 | 播磨酒見寺 | 重文 | 図1 図2 図3 図4 図5 図6 |
江戸寛文2年(1662)建立。一辺4.9m、高さ15.4m。酒見寺実相院・隆恵僧都と鉄屋与三兵衛尉氏之と共に建立、大工は住人神田宗左衛門とされる。(相輪の露盤刻銘) 平地伽藍中に立つ、大型塔に属する塔婆で昭和51-53年の解体修理で彩色も鮮やかに復元される。 下層は本瓦葺・上層は桧皮葺に変更され、また上層を支えていた支柱は撤去される。 酒見寺は古代酒部の酒見氏の氏寺として建立され、天平17年(745)行基の開基とする。その後天正年間兵火によって焼失。姫路城主本多氏により現在の伽藍が再建され る。 現伽藍(南面)はいずれも正規の建築になる堂宇を備え、仁王門の右に地蔵堂・多宝塔・新観音堂、正面に本堂・鐘楼(本堂右)、左に引聲堂(常行堂)、さらに本堂左奥に御影堂を配置する。本坊は本堂右奥に数棟の建物を 具備する。 境内左 (西)には酒見大明神境内が展開するも、社殿配置や酒見寺伽藍との関係から酒見明神は酒見寺に附属していたと推測される。おそらく明治の神仏分離で、住吉神社などと意味不明な社号に付会され、無理に酒見寺より分離されたものと思われ る。 2006/04/07追加:「社寺境内図資料集成」より 酒見寺酒見大明神境内図:江戸期:酒見寺蔵 酒見寺境内図会:江戸期、寛文4年(1664)御改めの写し;酒見寺蔵 播州三重北条泉生山酒見寺記并図:寛文年中;酒見寺蔵 2011/05/19撮影: 左図11〜30は多宝塔 仁王門(楼門):文政8年(1825)再建。三間一戸、入母屋造、本瓦葺。 酒見寺仁王門1 酒見寺仁王門2 引聲堂(常行堂・阿弥陀堂):建立年代不明(新しいものと思われる) 酒見寺引聲堂1 酒見寺引聲堂2 地藏堂:建築年代不明。 酒見寺地蔵堂 新観音堂:建築年代不明。 酒見寺新観音堂 本堂(根本堂):元禄2年(1689)再建。重層入母屋造、裳階付、本瓦葺。 酒見寺本堂1 酒見寺本堂2 鐘楼:寛文4年(1664)再建。彩色を復原。 酒見寺鐘楼1 酒見寺鐘楼2 酒見寺鐘楼3 酒見寺鐘楼4 御影堂:建立年代不明、本尊弘法大師。 酒見寺御影堂 本坊: 酒見寺本坊全景 酒見寺本坊護摩堂 酒見寺本坊客殿 弁天堂: 酒見寺弁天堂:写真中央やや右の小宇が弁天堂 酒見大明神: 酒見寺酒見大明神社遠望 |
658 | 尾張笠覆寺 (笠寺) |
. | 図1 図2 |
正保年間(1644-7)建立。軸部・組物は唐様を用いる。但し軒は平行垂木。 たびたび焼失・再興を繰り返すと云う、今は尾張4観音の一つとして隆盛と思われる。他の尾張流行観音霊場と同様に醜悪な本堂を持つ。 東海道名所圖會 巻之3:「東海道名所圖會・巻の三」笠寺(部分)より 尾張名所図会 巻之5より 宝塔に関する記事はなし。 尾張名所図会(全図) 2007/06/22追加: 尾張名所図会 巻之5 笠寺西門・多宝塔:明治期の撮影と云う:「写真に見る明治の名古屋」より 2010/07/06追加: 昭和27年笠寺観音:毎日新聞報道写真 |
659 | 播磨荘厳寺 正徳5年(1715)建立。心柱墨書と棟札によって、正徳元年(1711)に起工し、同3年に棟札をあげ、同5年に完成していることが知られる。塔の創建は建久年間(1190年代)佐々木嵩綱によると伝える。 多宝塔は本堂に向かって右(南)にあり、やや規模の大きな塔である。一辺 5.0m。技法はほぼ和様に統一され、落ち着いた雰囲気である。支割は中央間をやや広く14支分、両脇間は12支に割る。屋根檜皮葺。 内部には背面寄りに二本の柱を立てて来迎柱とし、その前に禅宗様の仏壇を据えて釈迦如来坐像を安置する。上重は円柱12本を内法長押と台輪で繋ぎ、尾垂木付四手先の組物を組む。 大工は氷上郡久下谷川村清水七郎左衛門清光と清水武右衛門真信である。平成13年度兵庫県県文に指定される。 荘厳寺は白雉年間、法道仙人の開基と伝え、加東郡の西光寺を行場とする修験の寺院であり、現在高野山真言宗に属する。現在の伽藍は姫路城主本多氏の寄進による。播磨のはずれの辺鄙な山里にある。山裾に本坊があり、坊舎跡と思われる地形を左にみて、山中を登っていくと杉・楓の木立の中の鐘楼・本堂(慶長11年)・多宝塔に達する。 ○「黒田庄町史」黒田庄町史編纂委員会編、 黒田庄町、1972 より 荘厳寺は真言宗、粧林山と号す。本堂から下の方へ僧坊の跡が残り、建物の一部が現存する。文献上、西之坊、北之坊、南之坊、岩本坊、実相坊、一乗坊、長円坊、阿弥陀坊、成就坊、中藏坊等が知られるが、現存のものがそのどれであるのかは不明である。 荘厳寺現存僧坊:但し2001年4月及び2018年正月の訪問時には既に退転していたものと思われる。写真左端の白塀は法音院と思われ、そうだとすれば、この写真の残存僧坊は法音院の西側参道を挟んだ西側にあったものと思われる。 また荘厳寺は社の朝光寺とともに社鴨川の西光寺を行場とする修験の寺であった。 塔頭には法音院、蓮華院、宝樹院があったが、現在は法音院のみとなる。 近世初め本多政勝による寺領寄進があり、さらに境内・伽藍が整備される。慶安2年本多氏より梵鐘の寄進があり、宝永5年(1708)八幡宮を建立、正徳元年(1711)多宝塔が再興される。延宝5年の検地では境内地56町歩、観音堂・塔・鐘楼・坊舎8ヶ寺3反4畝、田畑2町5反余が除地とされる。 播磨荘厳寺付近図 2001/09/01撮影: 夕暮 ・逆光のため不首尾である。 播磨荘厳寺多宝塔1 播磨荘厳寺多宝塔2 播磨荘厳寺多宝塔3 播磨荘厳寺多宝塔4 播磨荘厳寺多宝塔5 2018/01/04撮影: 荘厳寺多宝塔11 荘厳寺多宝塔12 荘厳寺多宝塔13 荘厳寺多宝塔14 荘厳寺多宝塔15 荘厳寺多宝塔16 荘厳寺多宝塔17 荘厳寺多宝塔18 荘厳寺多宝塔19 荘厳寺多宝塔20 荘厳寺多宝塔21 荘厳寺多宝塔22 荘厳寺多宝塔23 荘厳寺多宝塔24 荘厳寺多宝塔25 荘厳寺多宝塔26 荘厳寺多宝塔27 荘厳寺多宝塔28 荘厳寺多宝塔29 荘厳寺多宝塔相輪 荘厳寺山内参道 荘厳寺法音院1 荘厳寺法音院2 荘厳寺法音院3 荘厳寺法音院山門1 荘厳寺法音院山門2 荘厳寺法音院玄関 法音院持仏堂1:明治13年再建 法音院持仏堂2 山門・庫裡・玄関 荘厳寺法音院庭 荘厳寺法音院裏門 荘厳寺大師堂:大正9年建立 坊舎跡・参道1 坊舎跡・参道2 坊舎跡・参道3 坊舎跡・参道4 荘厳寺本堂1:慶長16年(1611)再建 荘厳寺本堂2 荘厳寺本堂3 荘厳寺本堂4 荘厳寺本堂5 荘厳寺本堂6 荘厳寺本堂7 荘厳寺本堂8 荘厳寺鐘楼:慶安2年(1649)本多政勝寄進 弁財天・稲荷大明神 鎮守三社八幡1:宝永5年(1708)建立、中央八幡大菩薩、右殿熊野三社権現、左殿高野大明神丹生大明神を祀る。 鎮守三社八幡2 鎮守三社八幡3 鎮守三社八幡4 鎮守三社八幡5 鎮守三社八幡6 鎮守三社八幡7 補足資料: ○「黒田庄町史」黒田庄町史編纂委員会編、 黒田庄町、1972 より 当地黒田庄には神宮寺が多い。岡の兵主神社(兵主五社大明神)に明鏡山神通寺、小苗の古奈為神社(子動明神・伊次三社大明神・齋大明神)に平野山就泉寺、黒田の滝尾神社(五社大明神)に滝尾山圓護寺、石原・田高の春日明神に慈光山圓福寺があり、いずれも真言宗で、中町圓満寺末であった。明治の神仏分離の処置で神宮寺は全て廃寺となる。 ●五社大明神滝尾山圓護寺: 延宝5年(1677)の検地では圓護寺は坊舎があり、滝尾の境内は4町6反8畝で、本殿・舞殿・拝殿などを具備する。 元禄15年(1702)五社大明神再建さる。 五社大明神鐘楼:鐘楼と梵鐘が残る。 五社大明神梵鐘:滝尾五社大明神と銘がある。天和3年(1683)鋳造と云う。 滝尾山圓護寺跡:写真中央付近が寺跡と推定される。上掲の播磨荘厳寺付近図に圓護寺跡が示される。 五社大明神境内 五社大明神神門 五社大明神拝殿 五社大明神舞殿・本殿 |
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660 | 河内叡福寺 | 重文 | → | 上の太子と称する。号は磯長山。承応元年(1652)の建立。 河内叡福寺 |
661 | 紀伊海禅院 | . | → | 承応3年(1654)の建立。 紀伊海禅院多宝塔 |
662 | 備前静円寺 | . | → | 元禄3年(1690)建立。一辺3.3m、高さ12mの小型塔。 備前静円寺 |
663 | 下野鑁阿寺 | . | → | 寛永6年(1529)再建、元禄5年(1692)改修。 鑁阿寺多宝塔 |
664 | 山城嵯峨清涼寺 (嵯峨釈迦堂) |
. | 図1 図2 図3 図4 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 |
元禄13年(1700)江戸にて建立される。その資金は本尊釈迦如来の江戸音羽護国寺での出開帳で寄進された浄財を充当という。 元禄15年江戸より回漕移建・現在に伝わる。 <この由緒は擬宝珠に刻まれると云う。> 一辺3.96m、高さ約13m。江戸期・関東風な装飾が多く施されているのが目に付く。 ○2003/5/18:洛外洛中図(上杉本) ○本寺は元々は左大臣源融の山荘であったが、没後寺院に改め、棲霞寺と号する。 天慶8年(945)源融と縁戚の源重明が新堂を建立し、釈迦如来像を安置する。 永延元年(987)南都東大寺「然が宋より帰朝し、宋より請来した釈迦如来像(世に清涼寺式釈迦如来と云う。国宝)と一切経を安置する。 長和5年(1016)「然弟子盛算は棲霞寺内に一宇を営み、五台山清涼寺と号する。その後、清涼寺釈迦如来は多くの信仰を集め、次第に隆盛するが、棲霞寺は衰微し、今は釈迦堂東に建つ阿弥陀堂にその名を残すのみとなる。 図1〜4は2001/02/10撮影、11〜26は2012/12/25撮影。 ○嵯峨清涼寺伽藍 応仁の乱、寛永年中に伽藍は焼失するも、元禄年中桂昌院(徳川綱吉生母)により再建される。 本堂は元禄年中の再建で、7×7間の大堂である。 嵯峨清涼寺山門1 嵯峨清涼寺山門2 嵯峨清涼寺釈迦堂1:右端の屋根が阿弥陀堂(棲霞寺) 嵯峨清涼寺釈迦堂2 嵯峨清涼寺釈迦堂3:左から薬師堂(薬師寺)、本堂(釈迦堂)、阿弥陀堂(棲霞寺) 嵯峨清涼寺釈迦堂4:嵐山法輪寺から撮影、中央屋根が本堂、右が棲霞寺、手前薬師寺屋根 清涼寺棲霞寺阿弥陀堂:正面から撮影した写真なし 嵯峨清涼寺薬師堂 嵯峨清涼寺西門 嵯峨清涼寺経蔵 薬師堂(薬師寺)の由来は以下の通りである。 冥土への入口は六道珍皇寺、冥土からの還口は上嵯峨六道町にあった福生寺と云う。 しかし、福生寺は明治初頭に廃寺となる。福生寺には小野篁作と伝える「生六道地蔵尊」と「小野篁像」が祀られていたが、それらの遺仏は、嵯峨釈迦堂(清涼寺)の境内西側にある薬師寺に移されると云う。 2014/08/27追加: ○壬申検査ステレオ写真:国立国会図書館蔵 明治5年清凉寺多宝塔 同清凉寺多宝塔部分図 |
665 | 河内岩湧寺 | 重文 | 図1 図2 図3 図4 図5 図6 |
江戸時代建立と推定されている。(文化庁「国宝・重要文化財大全」では建立を室町後期としている。) 銅板葺き。近世風で小型塔であるが、自然条件 の厳しい山中で退転せず、良く保存されたものと感慨を覚える。他に江戸初期の本堂と本坊が残る。 もとは天台宗であったが、現在はこの地方に多い融通念仏宗(明治22年改宗)。寺伝では役小角の創建と伝え、文武天皇の勅願寺であったとされる。紀伊と河内の国堺の岩湧山(897m)の北東中腹にあり、要するに葛城山系修験の霊場(行場)として維持されたものと推定される。巖湧とは山様が「岩湧く」であり、また法華経15品「湧出」品(山号は湧出山)に由来されると想像される。近年キャンプ場その他余計なものが行政?によって作られ、自然及び文化が破壊されている ことは否めない。蛇足ながら徒歩で参拝するなら、高野線天見から 西に向い5〜6km(徒歩90分)で到達する林道がよいであろう。岩湧山取付まで山中を舗装道が1本で通じ、その間数台の車が通行するだけで、快適に歩くことができ 、ほぼ人には出会うことはないと思われる。 なお法華経28品の経塚(葛城二十八宿)の15品湧出品経は岩湧山上の五輪塔とされる。 ※葛城二十八宿とは役行者(小角)が法華経八巻二十八品を埋納した経塚を云う。 著名なところでは、2品譬喩品/紀伊本恵寺<紀伊の日蓮宗寺院中)の前身であるという大福山辨天、 10品法師品/牛滝山大威徳寺、 14品安楽品/河内光滝寺などがある。 2006/05/12追加: 多宝塔は天文年中(1532-55)といわれ、後世の補修もあるが、室町様式を伝え、本尊大日如来坐像(重文・平安末)、愛染明王坐像(鎌倉)を安置する。「葛城の峰と修験の道」 2006/05/06撮影: 岩湧寺多宝塔1 同 2 同 3 同 4 同 5 同 6 同 7 同 8 同 9 同 10 同 11 同 12 同 13 同 14 同 岩湧山系 15品湧出品経塚 今般は滝畑(光瀧寺)から東に向かう林道を使用。徒歩約登り1時間時半、降り45分の位置にある。 写真・岩湧山系:岩湧山そのものではないが、岩湧山よりかなり離れたところに張り出す尾根の一つで「巌湧く」の山容に相応しいものであろう。この写真は おそらく山系の北の遍笠山の北西・一徳防山の北西尾根の見晴岩と思われる。 写真・15品湧出品経塚:岩湧寺のすぐ北側尾根をやや下ったところにある。 |
666 | 播磨奥山寺 | . | 図1 図2 図3 図4 図5 図6 図7 |
宝永6年(1709)建立。本瓦葺。2001年に修理が終わったばかりのようで、丹塗りも鮮やかに当初の姿を取り戻したようです。和様の伝統を踏まえた、標準的な規模の塔です。 内部には禅宗様の須弥壇を置き、五仏を安置する。下層は一辺が4.6mで中央間を14支・両脇間を10支に割り付ける。上層は下層の中央間よりやや大きく、径2.3mとしており、下層に比して上層の立ち上がりが低いため、強い安定感を持つ秀作の塔婆です。平成13年兵庫県県文に指定。なお次のことが判明している。露盤と鬼瓦に宝永6年(1709)の刻銘がある。大工は大工村神田作左衛門である(下層板壁の墨書)。瓦は姫路の河上孫兵衛重次作である(鬼瓦銘)。 当寺は貞享4年(1687)の奥山寺縁起によると、法道仙人の開基で孝徳天皇の時代に伽藍が創建されたと伝える。高野山真言宗。今なお環境抜群の地に立地し、南面する仁王門から参道の両側に塔頭跡及び塔頭が並ぶ。参道の最奥に急な150段の石段が立上り、本堂に至る。多宝塔は、さらに、本堂左の50数段石段上の平坦地に建つ。寛保2年(1742)寺中7、寺中人数23、明治5年寺中3、寺中人数10とされる。 図6:参道及び塔頭、図7:仁王門 |
667 (欠) |
備前弘法寺 昭和42年焼失 |
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備前弘法寺多宝塔 多宝塔は昭和42年本堂・普賢堂・鐘楼・坊舎等の主要伽藍とともに焼失。宝永8年(1711)の再建塔であった。主要伽藍は未だに再建に至らず。多宝塔は一辺 4.9mであった。 |
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現存多宝塔:江戸前期 |