伊 賀 ・ 大 和 の 日 蓮 宗 諸 寺

伊賀・大和の日蓮宗諸寺

伊賀の諸寺

伊賀上野法運寺(小田法運結社):伊賀市小田町

小田法運結社とも称する。(結社と山号寺号との関係は良く分からない。)
妙啓山と号する。本寺は不明。
この地は明治の神仏分離の処置で廃寺となった平井天神宮別当浄瑠璃寺の跡という。
法運寺も他所からこの地に移転ともいうも、不詳。
伊賀上野開化寺の西隣に位置する。
 →伊賀浄瑠璃寺/伊賀開化寺/長谷川邸三重塔
2000/05/13撮影:
 法運寺本堂
2002/10/13撮影:
左の写真、向かって左が法運寺、墓地を挟み右は開化寺(三重塔がある)。
現在の法運寺の位置に浄瑠璃寺があったという。
 法運寺全景


大和の諸寺

大和奈良油坂蓮長寺

○草創は奈良末期で、東大寺勤操の建立した千ヶ寺の一つ喜見城院であったと伝える。
日蓮上人は嘉禎3年(1237)得度、是聖房蓮長と名乗る。仁治3年(1242)叡山に登る。
寛元4年(1246)三井及び南都研学、泉涌寺にて道隆に謁す。
宝治元年(1247)南都薬師寺に一切経を閲す。
宝治2年(1248)南都の諸山に歴参、紀州高野ならびに東寺・仁和寺に研学。
宝治3年(1249)叡山に帰り定光院に住す。
(※蓮長寺略歴では以下のように云う。
寛元4年(1246)から宝治元年(1247)南都六宗研鑽の為奈良に来りて、元輿寺(倶舎宗)、東大寺(華厳宗)、興福寺(法相宗)、法隆寺(三論宗)、唐招提寺・西大寺(律宗)を研鑽攻学、薬師寺経蔵で一切経を閲読すると伝える。
この間、喜見城院を拠点する。)
 →しかし、以上の具体論の当否は留保せざるをえない。
例えば「日蓮」田村芳朗、昭和50年では「叡山留学中・・・の事跡・・・については、後世の伝記では、色々紹介しているが、確かな日蓮遺文を通して見る限り、詳しいことは不明といわざるをえない。」と云う。
また「日蓮宗の歴史」中尾尭、昭和55年では「(南都北嶺で)どういう遊学を経験したかということは別に確証はない」が、遊学中に書いたとされる断章が幾つか残り、これ等と日蓮の思想とを照らしあわせると、叡山・京都奈良の諸大寺を廻り、「高野山に足を伸ばしたものと考えられる。」と云う。
○改宗:応仁2年(1468)住持即俊、宗祖の霊夢を見て日蓮宗に改宗、寺号を喜見院と改め、六条本国寺11世大聖院日尭を開山とし、自らは第2世と称する。
戦国期に火災焼失、退廃す。
○中興開山:寛永期、六条本国寺喜見院日便中興開山する。承応2年(1653)本堂・庫裡・山門等を再建、寺号光映山蓮長寺と改め、六条本国寺末頭となる。
 →六条本国寺喜見院日便上人は山城大住法華寺開山である。
なお、本堂は寛文5年(1669)大和郡山城主豊臣秀長建立の「真言宗西岸寺」本堂を移築したと伝える。
 ※承応2年(1653)本堂再建との関係は良く分からない。
 (本堂/入母屋造本瓦葺/昭和62年重文指定)
享保11年鐘楼、寛政3年妙見堂、昭和六年客殿「法悦荘」建立、昭和54年に山門再建。
平成元年妙見堂再建、番神堂を復元、平成2年書見院日便建立書院「要法庵」再興、平成10年鐘楼再建。
 (再建妙見堂は鵠工舎設計施工、棟梁は西岡常一・小川三夫と云う。)
2013/02/21撮影:
 大和蓮長寺山門
 大和蓮長寺本堂1     大和蓮長寺本堂2     大和蓮長寺本堂3     大和蓮長寺本堂4
 大和蓮長寺本堂5     大和蓮長寺本堂6     大和蓮長寺本堂7
 蓮長寺番神堂・妙見堂    大和蓮長寺番神堂    大和蓮長寺妙見堂    大和蓮長寺鐘楼
2015/11/21撮影:
 門前石碑     蓮長寺山門2
 蓮長寺本堂11     蓮長寺本堂12     蓮長寺本堂13     蓮長寺本堂14
 蓮長寺本堂15     蓮長寺本堂16     蓮長寺本堂17
 蓮長寺鐘楼2      蓮長寺妙見堂2     蓮長寺番神堂2     蓮長寺庫裡
 蓮長寺客殿       蓮長寺客殿庭園     蓮長寺茶室       蓮長寺書院
2016/09/25:KG氏情報:
本末関係では、高畑感徳寺(当時は蓮長寺布教所妙法感徳結社などと称する)が末寺である。

大和奈良常徳寺

法性山と号する。京都頂妙寺末。
常徳寺の前身は東大寺塔中の1つである法性房で、東大寺別当の隠居寺であったという。
さらに法性房は日蓮上人が奈良遊学の折には起居したとも伝える。
暦応3年(1340)中山第三祖浄行院日祐上人が四度目の上洛の時、南都に下向し法性房を常徳寺と命名し開山する。
これが日蓮宗常徳寺の創建である。
このことは、本堂正面の扁額には康安元年(1361)の年紀が刻銘され、当時の常徳寺の存在が裏付けられる。
第二祖は中山日祐上人の随身として従った日胤上人であり、第三祖は日叡上人(大塔宮護良親王第二子)と云う。
慶長4年(1599)現在地に移転し、本堂はこの時のものであるという。
あるいは、貞享3年(1686)建立<棟札銘>ともいう。
あるいは、住職談では現本堂は東大寺戒壇院の戒壇を移築したものであるといい、確かにそのような雰囲気の建築ではあるが真偽はどうなのであろうか。
その他、山門、鐘楼(梵鐘はない)、妙見堂、庫裡などを有する。
そのうちの妙見堂妙見大菩薩は朝日妙見大菩薩といい、享保年中柳生藩家老小山田主鈴が奉納すると伝える。また妙見堂には七面大明神像、鬼子母神像を安置する。
◇江戸期には4末寺を有するという。現在は2寺のみ現存。
長久山妙福寺:大宇陀町:現存:近世には宇陀水分社の神宮寺という。
寂而山常照寺:壺阪山:現存
頭塔寺:廃寺:奈良頭塔の南麓にあり、近世には本堂もあり、現在は歴代の二基の墓碑などが現存するという。 →頭塔寺は下に掲載。
2015/11/21撮影:
 常徳寺全容:中央は鐘楼    常徳寺山門     門前題目碑     常徳寺本堂1     常徳寺本堂2     常徳寺本堂扁額
 本堂前題目碑1     本堂前題目碑2:中央は日蓮大菩薩御入学旧跡云々と刻む。      本堂前題目碑3
 本堂前地蔵尊石仏:開基日祐大聖人と刻む。      常徳寺鐘楼     常徳寺庫裡     常徳寺妙見堂

大和頭塔寺:廃寺

山号は不詳、大和奈良常徳寺末。(常徳寺は上の項にあり。)
奈良常徳寺住職談:
 「頭塔寺もかっては末寺であった。今は廃寺である。頭塔寺廃寺にあたり、什宝は当寺に遷すが、頭塔には今に墓を2基残す。何とかしたいが、常徳寺も衰微し、如何ともし難い状況である。」
○「史跡頭塔発掘調査報告」
頭塔寺については殆ど情報がないが、「史跡頭塔発掘調査報告」奈良国立文化財研究所、2001 では近世の頭塔の様子として付随的にかなり詳細に述べられる。よって、本書を要約する。
 中世の頭塔は興福寺大乗院領となり、18世紀初頭の時点では、 興福寺賢聖院の管理下にあった。
  (なお、興福寺賢聖院は菩提院大御堂の南側に立地する。)
ところが、享保15年(1730)頭塔は奥福寺賢聖院から日蓮宗常徳寺に譲渡され、頭塔は「頭塔寺」と称され常徳寺末寺となり、 明治維新まで存続する。しかし、明治初頭の廃仏の時代の流れ、あるいは明治維新の上地令 で、頭塔は国有地となるといった変革で、頭塔寺は廃寺となる。その後、大正11年(1922)頭塔は史跡指定され、以降奈良県の管理となる。

頭塔上層塔身の西南隅部は、築土を削って造成した平坦面が、近代に盛土をして斜面を形成したとはいえ、現在も残る。近世、この平坦面には小宇があり、この小宇は明治初頭にいつしか撤去されたのであるが、この小宇こそが、頭塔寺の堂舎であったのであろうか。
「奈良坊目拙解 巻7」享保20年(1735)では 「頭塔今在艸室一宇于坂ノ上。興福寺賢聖院支配地也云々」とりあり、艸室とは西南隅部にあったという小宇のことであろう。
 頭塔の東南部の平坦面の南端近く、 古くからの見学者用通路の北側で江戸時代の墓を検出する。
現在、頭塔南面には7基の五輪塔が立つが、その地輪に記された銘文によれば、そのうちの3基は、欠名(没年も欠失)、英誠(享保7年/1722没)、秀英(元文元年/1736没)という三人の賢聖院僧の墓塔である。
繰り返すが、享保15年(1730)に頭塔は賢聖院(当時の院主は秀英)から日蓮宗常徳寺に譲渡され、その末寺となる。そして頭塔寺と称され、このときの常徳寺僧日実が開基となるという。
この日実の墓石が頭塔南面に残る。また、第277次調査出土の石碑は、「南無妙法蓮華経」とみられる刻銘からすれば、日蓮宗常徳寺に関わるものと推定される。
 頭塔古図: 本図について、「史跡頭塔発掘調査報告」は「頭塔山ノ石仏」佐藤小吉 (「奈良県史蹟勝地調査会報告書』第3回、1916 所収)より転載といい、向かって左は江戸期の繪圖、右は明治13年と解説する。
江戸期の古図には「奈良坊目拙解 巻7」でいう艸堂は見当たらないが、明治13年の図には艸堂は描かれる。
また両図とも東から日実墓と7個の五輪塔が描かれる。さらに江戸期の古図には東南に門と思われる建物が描かれる。
しかし、以上の2古図だけでは頭塔寺の実体は良く分からない。本堂とか庫裡とかの建物は無かったのであろうかそれとも艸堂が本堂兼庫裡だったのであろうか。
 石碑石塔類位置図
2015/12/25追加:
○「奈良公園史, [本編]」奈良公園史編集委員会、1982/3 より
 奈良町繪圖・部分図
奈良町繪圖は天理図書館蔵、「奈良公園史 本編」に掲載される図は興福寺及び東大寺を中心とした部分図である。
向かって左上端は眉間寺(多宝塔あり)、左中央付近は興福寺堂塔・北に一乗院門跡・南に大乗院門跡・周囲には子院群が囲み、一乗院門跡東に勧学院(多宝塔あり)があり、左下に元興寺(五重塔あり、極楽院・小塔院)がある。さらに元興寺東方・中央下に頭塔寺が描かれる。
図中央上部は東大寺伽藍及び周囲には子院が配置、東大寺南大門の南東に四恩院がある。
〇2016/09/15撮影:
頭塔南面は頭塔の整備対象外で、今も多くの墓碑類などが残る。多くは興福寺賢聖院関係の墓碑で、その他日蓮宗頭塔寺住僧の墓碑(2基)、題目碑などが残る。年紀は慶長年中から慶応年中迄あり、江戸期をカバーする年数のものである。これらの碑の銘文を総合すれば、頭塔は興福寺寺中賢聖院の支配下にあったが、寛保年中 に日蓮宗常徳寺に譲渡され、常徳寺末頭塔寺と称するようになることが分かる。頭塔寺開基は常徳寺日實上人とする。
 史蹟頭塔石碑:南面の石階を上がった小平坦地にある。大正11年(1922)史蹟に指定される旨を刻する。
 背後には興福寺賢聖院僧侶墓である五輪塔群が写る。
 南面墓碑列:向かって右より、頭塔寺開基日實上人墓碑、大型五輪塔:寛永3年銘/盛兼学乗房墓碑、小型五輪塔:慶長15年銘/光誉宗古墓碑、小型五輪塔:慶長14年銘/妙薫禅定尼墓碑、大型五輪塔:<判読できず>墓碑、大型五輪塔:賢聖院住/享保7年銘/英誠学円房墓碑、大型五輪塔:賢聖院/正面は判読できず/慶■年紀、さらにこの左に 、写真には写らないが、大型五輪塔が1基あり、これは元文元年銘/秀英学真房の墓碑である。
◇日實上人墓碑
 日實上人墓碑正面:当山開基弘法院日實上人
 日實上人墓碑左面:頭塔寺者法華霊場常徳寺末寺定置也/寛保三癸亥蔵八月十八日行年七十二歳寂
 日實上人墓碑右面:宝永七庚寅年二月十四日/慈父 一公院元真日隆居士/慈母 清涼院妙瑛日生信女/延宝六年牛年六月十四日
 なお、背面は「菊池肥後守隆恭裔隆真也、宣説三千座、護国寺玄講、於当所宗祖之旧跡、常徳寺鐘鋳鐘楼堂建立、加庫裡修復也、賜紫玄ム頭塔寺感得元文五申秋移、摂州久々知村広済寺而庫裡再建印之 」と刻す。
 日耀上人墓碑正面:體妙院日耀聖人      日耀上人墓碑左面:明和六年・・・/法性山常徳寺十(?)四世、右面の解読は未済
 賢聖院住持秀英墓碑:興福寺僧秀英は頭塔を常徳寺に譲渡したときの住僧である。
◇石段下題目碑
 石段下題目碑正面:頭塔寺永 于常徳寺感得主日實也/南無妙法蓮華経日蓮大士隆真(台石正面)日實/京頂妙寺遂聖為開会祖焉弘法院
 石段下題目碑左面     石段下題目碑右面
◇艸堂跡
 艸堂跡/玄ム千歳記念石碑:頭塔の西南隅で、艸堂と称する小宇があった平坦地と思われる。
 但し、近代に土盛がなされ、平坦地の面影は失われているという。ここに「玄ム1000年記念碑」が建つが、
 この碑は大正年中までは頂上の五輪塔の脇にあったというので、大正年中に現在地に移設されたのであろう。
◇玄ム千歳記念石碑
 玄ム千歳記念石碑正面:南無妙法蓮華経 賜紫僧正玄ム御頭塔
 玄ム千歳記念石碑左面:自天平十八丙戌至寛保三癸亥一千歳建吊之也
 玄ム千歳記念石碑右面:従賢聖院主法眼秀英学士永代于常徳寺譲賜也
 なお背面には「・・・・感得開基/日實聖誌」とあるという。
※墓碑などの銘文については、上に掲載「石碑石塔類位置図」に記載があるので参照を願う。
2017/02/10追加:
上記の石碑類の意味するところであるが、
 玄ム千歳記念石碑:
正面には題目が刻まれ、それ故日蓮宗にて建立した石碑であり、
寛保3年(1743)に玄ム千歳記念石碑を建立、玄ムの頭塔は賢聖院法眼秀英が永代にわたり常徳寺に譲賜したことが分かる。
 日實上人墓碑:
正面には頭塔寺開基は弘法院日實上人であると刻み、その頭塔寺は常徳寺末寺と定められ、日實上人は環保3年72歳で寂したことが分かる。さらに背面の銘文で日實上人は菊池氏の末裔で、 三千座を宣説し、護国寺(山科檀林)玄講であり(?)、 当所の於いて宗祖の旧跡である常徳寺梵鐘を鋳て、鐘楼堂建立し、庫裡を修復する。元文5年(1740)申、摂津久々知村広済寺庫裡を再建する。
 石段下題目碑:
この石碑については正確に意味が把握できず、後日を期す。
※隆真は弘法院日真の俗名。(「菊池肥後守隆恭裔隆真也」)
※「京頂妙寺云々」:
頭塔寺の本寺である常徳寺の創建は、常徳寺の項で述べたように、暦応3年(1340)中山第三祖浄行院日祐上人が四度目の上洛の時、南都に下向し東大寺の寺中であった法性房を常徳寺と命名し開山したことによる。
さらに、中山法華経寺は、文禄3年(1594)堺妙国寺日bが中山法華経寺住持を兼帯、以降京頂妙寺・京本法寺・堺妙国寺の輪番制となる。
おそらく、以上のような経緯で常徳寺は京頂妙寺末である。
※享保15年庚戌(1730)6月より、賢聖院譲賜訖(おわんぬ):享保15年興福寺寺中賢聖院、頭塔譲渡する。
 20番石碑(上に掲載「石碑石塔類位置図」中にあり):
正面には題目を刻むので、題目碑であろう。左右の刻銘から、この題目碑は玄ムの旧跡にある頭塔寺の題目碑であり、頭塔寺に三十番神を祀る堂宇があったかどうかは不明であるが、三十番神が鎮座していたようである。

高畑感徳寺

2016/09/15撮影:
妙教山と号する。本寺は不明。
白石行者祈祷根本道場と称するも白石行者とは不明。
門内に題目碑が1基あるが、為/大善院日正霊位とあり、明治44年2月16日・・の年紀を刻むので、おそらく明治44年寂した大善院日正上人が開基であろう。
 高畑感徳寺山門     山内題目碑     感徳寺本堂/庫裡     高畑感徳寺全容
2016/09/25追加:
〇KG氏情報:
明治14年4月24日創立、創立者は「白石行者」こと辻村長次郎である。遺憾ながら、創立当時の呼称は不明である。
 ※寡聞にして、「白石行者」(辻村長次郎)の具体的事績は不明。
二世代に蓮長寺布教所妙法感徳結社となる。
三世代に感徳教会、そして同じく三世代の昭和49年年10月24日に妙教山感徳寺と寺号公称する。
従って、奈良油坂蓮長寺の末寺(旧末寺)ということになる。

大和奈良啓運寺

法唱山と号する。京都妙覚寺末。
以上の外の情報はなし。
2015/11/21撮影:
 啓運寺全容:山門・本堂・庫裡などを備える。また山門左横に旧山門とも思われる屋根が見える。市中に埋もれた様に存在する。
 啓運寺題目碑     啓運寺本堂1     啓運寺本堂2:本堂は近年造替されたようである。

大和高田妙行寺

2016/08/15追加:
○「大覚大僧正」 より:
真如山と号する。京都妙覚寺末。
元応2年(1320)大覚妙実上人修行の折、創立したという。
和泉堺戎町にあったが、明治3年辻本即貞師が大和高田へ移転再興す。

大和上市日慎院:吉野町上市

山号は妙見山か。
情報はほぼ皆無であるが、「昭和40年、妙法日慎宗日慎院(奈良県吉野郡吉野町)、日蓮宗に改宗」とある。
境内に一基の墓碑があり、正面には「日慎院開基眞穏法尼」と刻み、背面には「第二世修学院日幸/昭和40年2月吉日建之」と刻む。
以上の2つの情報を総合して推測すれば、戦前か戦後に眞穏という女性が法華経の導きで感得し、日慎院を開創する。
おそらく戦後妙法日慎宗を開宗し、信者を獲得する。昭和40年かその少し前に遷化し、日幸上人が2世となる。
そして、その時とほぼ同時、日蓮宗に改宗する。(以上推測)
2017/03/09撮影:
 上市日慎院本堂     上市日慎院庫裡     上市日慎院開基墓碑

大和上市宝塔寺

宝塔寺由緒沿革」と 称するページには次のような沿革(大意)が述べられる。
宝塔寺由緒沿革
昭和30年代後半、吉野・宮滝の日高ハル(妙春法尼)は若くして夫と死別、その上両眼を失明する。
ハルの生家には先祖伝来の仏舎利が祀られており、その御前にて法華経を誦経する修行を積む。その結果、ハルは霊力を得ることとなる。
その後、桜井妙要寺大島鳳静師の弟子となる。
昭和39年師の尽力によって、吉野・志賀に日蓮宗日高結社を設立する。
その頃、吉野・上市の法華経信仰者であった笠山仙治は「胃がん」の宣告を受けるも、日夜結社を訪れ信仰に没頭する。
その結果、再検査の結果「胃ガン」は完治していたのである。(笠山仙治は後に宝塔寺初代日仙上人となる。)
完治の後、笠山仙治は布教活動に専念し同信と共に「題目講」を結成し講頭となる。
昭和40年妙春法尼捧持の仏舎利を景勝の地に奉安することを発願し、妙春法尼の賛同を得て、現在の地に仏舎利塔建立を企図する。
昭和41年パゴダ式仏舎利塔・祖師堂を建立。以来、本堂の建立・鬼子母神堂・水子地蔵尊堂建立。
昭和48年宗教法人「七宝山大和仏舎利塔」を設立し、笠山日仙上人が初代住職となる。
昭和59年妙春法尼の孫、寺島法瑞が第2代住職に就任。
平成17年新本堂建立。
2017/03/09撮影:
 上市宝塔寺仏舎利塔1     上市宝塔寺仏舎利塔2     上市宝塔寺仏舎利塔3     上市宝塔寺仏舎利塔4
仏舎利塔は昭和41年竣工、RC造と思われる。
 上市宝塔寺本堂     上市宝塔寺庫裡     仏舎利塔50周年記念碑
 上市宝塔寺日蓮上人像:昭和53年建立      上市宝塔寺みずこ地蔵


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