紀  伊  の  塔  跡

紀伊の塔跡

2021/12/30追加:
○「庭石と水の由来」尼崎博正、昭和堂、2002 より
 紀伊國には7世紀後半から8世紀にかけて建立された10寺院の心礎11基が遺存する。
この内田辺の三栖廃寺を除く10基の心礎は紀ノ川流域に集中する。
 紀ノ川流域の心礎の石材文化圏:紀ノ川流域の心礎の文化とその石材文化圏が図示される。

紀伊の心礎一覧
寺院名 石質 柱座 舎利孔 石蓋孔 排水施設 摘要
1-1 上野廃寺東塔 和泉砂岩 円形凹 円形 心礎以外の塔礎石に蛇紋岩あり
金堂の礎石は全て蛇紋岩
1-2 上野廃寺西塔 和泉砂岩 円形凹 円形 排水溝1
山口廃寺 蛇紋岩 円形凹   円形   不明 地下心礎、欠損
西国分寺廃寺 和泉砂岩 円形凹 円形 円形 排水溝1
紀伊国分寺 点紋緑色変石         心礎以外の礎石に珪石・砂岩あり
最上廃寺 点紋緑色変石 円形凹 円形 排水溝1
佐野廃寺 点紋緑色変石   自然石、原位置移動
名古曽廃寺 緑色変石 円形凹   円形   不明 舎利孔か枘かは不明
神野々廃寺 緑色変石 不明
北山廃寺 不明 不明   不明 不明 不明  
10 三栖廃寺 含礫砂岩 円形凹   円形   排水溝1 「和歌山県史蹟名勝天然記念物調査報告」第11号
 ※心礎の石質は現在所在不明の北山廃寺を除く10基の内、点紋緑色片岩製のもの5基、泉砂岩製が3基、蛇紋岩製1基、含礫砂岩製1基(三栖廃寺)である。
 これらの石質から、貴志川の合流地点より上流の紀ノ川沿岸に結晶片岩文化圏が、また、下流の和泉山脈沿いに和泉砂岩文化圏と蛇紋岩文化圏が複合して存在することが分かる。


◆紀伊浄土寺多宝塔:和歌山市北別所(別所村)

「和歌山県の地名」:紀伊・和泉の葛城山系にある。中世根来寺別院浄土寺が建立され、かなりの規模の伽藍があったとされる。
近世初頭まで多宝塔・鎮守(白山権現)が残っていたと云う。
別所村は天正13年の根来焼亡の後、入植があり別所村が成立したとされる。
 ※その他は不詳。

紀伊上野廃寺(史蹟)

○2001/12/24撮影:
 覚鑁開基の新義真言宗の巨刹・薬師寺跡と云われ、秀吉の根来攻めで焼亡したという。
しかし、出土瓦等から、創建は奈良前期と推定される。
現在東西両塔跡はブッシュに覆われ、全くの未整備である。ブッシュの中に分け入ると東西両塔の土壇が認められる。
その土壇の中央付近に窪みがあり、若干の堆積物や草木を取り除くと、心礎の一部分を観察することが可能である。
心礎の全容が見えないが、両心礎とも舎利孔が穿孔されていることは認識可能。
側柱礎石は東塔跡には2個、また西塔跡には15個あるとされるが、これは東塔を除いて、現状素人では見ることはできない。
また金堂跡も素人では特定は難しいと思われる。なお西塔跡では布目瓦の散乱も観察される。
なお時代は不明ながら、両塔の土壇を廻って2辺の築地の跡がかなり明瞭に残る。
 紀伊上野廃寺跡     同   東塔心礎1    同       2    同       3    同    東塔土壇
  同 西塔心礎1     同        2    同   西塔土壇
西塔跡は、発掘写真によれば、四天柱礎1個を除き、15個の礎石および瓦積基壇・地覆石が残り良好な遺構と思われる。
西塔基壇一辺は12.1m。
東塔基壇は一辺12.6mで、塼積基壇と云う。
○2006/02/18撮影:
金堂跡および薬師堂に至る通路は最近全面的に刈り込みが行われ、金堂土讃・礎石・金堂跡に遺存する小宇を見学することが可能であった。
(以前は金堂跡附近は全くのブッシュで踏み込みも困難な状態であった。)
「祖竹記」(湯橋家蔵):寛永17年(1640)では「・・・うえ野の薬師と申、・・・大成石すえの跡も御座候へ共、堂かたちもなく野山ニて候を、与風此薬師之跡へ参候得ハ、諸病なをる由」云々で病人ども仮屋篭堂を建ち、・・・諸病人の仮屋700家余り、・・同年7月強風化の火事でほぼ全焼する。その後「元の野山となる。」 とある。
金堂跡に残る小宇は、以上のような薬師信仰の近代版とも思われる。(推測)
また塔跡を巡ると思われた土塀跡は、実は金堂跡を囲む土塀跡で近世・近代に何らかの寺堂の施設があり、その残存とも思わる。
 紀伊上野廃寺金堂跡俯瞰    同    金堂跡1    同    金堂跡2    同    金堂跡3    同    金堂跡4
   同    金堂礎石1    同    金堂礎石2    同   中門跡附近
 ○「日本の木造塔跡」:
  東塔心礎:大きさは2.2×1.3m、径89×3cmの柱穴を彫り、径19×22cmの舎利孔がある。
  西塔心礎:大きさは1.4×1.26mで、径88×3cmの柱穴と径22×19cmの舎利孔を持つ。
  更に東塔にはない3×3cmの放射状排水溝を1本持つ。側柱礎5個を残す。(但し現状は露出していない。)
  遺跡のある字は薬師段という。金堂跡に薬師堂がある。
 紀伊上野廃寺東塔土壇   同    東塔心礎1   同    東塔心礎2   同    東塔心礎3
  同     東塔心礎4   同    東塔心礎5   同    東塔心礎6   同    東塔心礎7   同    東塔心礎8

  同     西塔土壇1   同    西塔土壇2   同    西塔心礎1   同    西塔心礎2
  同     西塔心礎3   同    西塔心礎4   同    西塔心礎5
2002/11/19追加:
「祈りの造形 紀伊国神々の考古学 1」菅原正明、清文堂出版、2001より転載

「日本霊異記」(弘仁13年<822>下巻第30話:
能応寺は僧観規の先祖が建立した寺で「弥勒寺」と呼ばれていた。僧観規は金堂に丈六の釈迦如来と脇侍を安置し、続けて十一面観音の造立途中で没した。僧観規の遺命で仏師多利丸は観音を完成させ、塔のもとに安置した。云々
この能応寺を上野廃寺と推定する見解がある。(一方能応寺は山口廃寺に比定する見解もある。)
伽藍配置は地形の関係で薬師寺式の変形で講堂は西に置かれる。
  上野廃寺伽藍配置図
2007/05/05追加:
○「上野廃寺発掘調査報告書」和歌山県教育委員会、1986 より
□東塔跡
基壇の損傷が著しく、心礎・側柱礎2個が遺存する。基壇の高さは約1.4mで、基壇南辺の石階の両側は塼積基壇が遺存する。
基壇の平面規模は約12.6mと推定される。柱間は3間とも218cmを測る。基壇南辺に石階を残すも、良好ではない。
 上野廃寺東西心礎実測図  東塔心礎・正面石階  東塔心礎・礎石抜取穴  東塔正面石階(西より)  東塔跡実測図
□西塔跡
北西の四天柱礎1個のみ遺存しない。柱間は3間等間隔の210cm。側柱間には地覆基礎として約50×30cmの板石を横に並べる。
基壇の高さは約1,2mで、一辺は約12.1mと推測される。基壇東面には瓦積基壇が遺存する。
基壇東面には辛うじて石階が遺存し、階段巾は約2.3mと推測される。
 上野廃寺東西心礎実測図  西塔全景(東より)  西塔礎石検出状況(北より)  西塔東石階  西塔跡実測図
□中門跡
乱石積基壇の一部(南辺部15m)を検出するも、後世の開発で全貌は不明。
□金堂跡
桁行5間梁間4間基壇は19×16,1m高さ約1,5mと判明。基壇上には原位置を保つもの6個、動かされているもの7個がある。
いずれも径70〜80cm高さ約6cmの柱座を造り出す。
□講堂跡
地形の制約から、西塔の西方に位置する。桁行7間梁間4間(身舎は5間×2間で四面に庇が付く構造)で東面する。
廻廊は南北の妻に取り付く。また身舎の中央3間部分で須彌壇遺構が検出された。
基壇は29.5×18.1mで高さ約0.7m(南辺)を測る。基壇化粧は乱石積を用いる。
2021/12/30追加:
○「庭石と水の由来」尼崎博正、昭和堂、2002 より
本廃寺の心礎は東西両塔とも和泉砂岩である。
東塔跡には心礎以外の礎石が1基、西塔基壇には四天柱礎2基を除く全ての礎石が残り、それらの石質は西塔四天柱礎1基が蛇紋岩であるほかは全て和泉砂岩である。
一方、金堂跡に散在している10基の礎石には全て円形柱座が造り出されていて、それらも全て蛇紋岩である。

紀伊山口廃寺

○「幻の塔を求めて西東」:180×126cm、110×2,5/3cmの円穴と18×19cmの円孔を持つ。かなり破損。白鳳前期。
○「山口県史」:寺域は南方紀ノ川に向かう緩傾斜地(標高30〜35m)に位置し現状は耕作地となる。古代は「山口駅」跡に否定される。附近に「堂垣内」「門口」の小字を残す。心礎は蛇紋岩で、柱座径120cmで中央に径18×深21.5cmの舎利孔を穿つ。遺物は軒丸瓦数点が採取されているにすぎない。
○「日本の木造塔跡」:心礎大きさは2×1.3m、径110cmの柱座を彫り凹め、中央に蓋受孔付舎利孔を持つ。蓋受孔は径22×0.9cm、舎利孔は径18×19cm。心礎及び柱穴の破損に比べ、蓋受孔は鮮明に残存する。すぐ脇に四天柱礎と思われる礎石が残存する。 (写真心礎2に礎石は写る。)なお心礎破損の原因を紀ノ川の氾濫に求めるも、欠損は後世の人為的な破壊であろう。
 紀伊山口廃寺塔跡遠望     紀伊山口廃寺心礎1     紀伊山口廃寺心礎2     紀伊山口廃寺心礎3
   紀伊山口廃寺心礎4     紀伊山口廃寺心礎5     紀伊山口廃寺心礎6     紀伊山口廃寺心礎7

紀伊神野々廃寺

一辺約13mと推定される基壇状の土壇が残る。土壇上に緑泥片岩製の心礎のみ残る。
心礎の大きさは2.8m×13.5mで、径84cm・深さ10cmの大きな円孔を持つ。
塔の以外の伽藍は確認されていない。出土瓦から奈良期前期の建立とされる。
「紀伊続風土記」では観音寺三重塔跡であると云う。
塔跡の外には何の案内もなく土地の人にもほとんど知られていない遺跡のようである。
○2003/01/12撮影撮影:
 紀伊神野々廃寺1:神野々廃寺社叢       同       2:心礎の左右に祠があり、祠の台石は礎石の転用と思われる。
 神野々廃寺心礎1      神野々廃寺心礎2      神野々廃寺心礎3
○「幻の塔を求めて西東」:286×135cm、86×9.3cmの円穴。緑泥片岩。白鳳。
○2016/08/21追加:
「神野々廃寺跡緊急発掘調査報告書」橋本市教育委員会、1977 より
 塔跡礎石実測図:心礎の他に3個の礎石が残存するようである。但し石仏の置かれる礎石は未見。
2019/02/14撮影:
 神野々廃寺塔土壇
 神野々廃寺心礎11     神野々廃寺心礎12     神野々廃寺心礎13     神野々廃寺心礎14
 神野々廃寺心礎15     神野々廃寺心礎16     神野々廃寺心礎17
 神野々廃寺推定塔礎石1     神野々廃寺推定塔礎石2:上記「神野々廃寺跡緊急発掘調査報告書」で云う3個の礎石である。

紀伊名古曽廃寺

心礎は、今なお信仰の対象とされ、護摩堂と称する小宇の中にある。
心礎は護摩石と呼ばれ、これは長徳4年(998)に祈親上人定誉が心礎上で護摩を修したことに由来すると伝える。
堂内には弘法大師像を安置する。
塔基壇は瓦積み基壇で一辺10mとされ、現在は復元整備される。その復元基壇上に護摩堂と塔礎石がある。
心礎の大きさは2.3m×1.3mで、径60cm深さ10cmの孔とさらにその孔の中央に径22cm深さ5cmの孔を持つ2段式である。
なお発掘調査により当寺は法隆寺式伽藍配置と確認され、金堂基壇の東側の一部(15m×12m)もきれいに(アスファルト舗装によって)復元整備される。
2003/01/12撮影:
 紀伊名曽廃寺1     紀伊名曽廃寺2     紀伊名曽廃寺3     紀伊名曽廃寺4     紀伊名曽廃寺5
 紀伊名曽廃寺6     紀伊名曽廃寺金堂跡
2019/02/14撮影:
白鳳期のいわゆる法起寺式伽藍配置をとる寺院跡である。
塔基壇一辺は約10m、金堂基壇は東西約15m、南北約12mを測る。
塔礎石は護摩石と呼ばれ、その由来は長徳4年(998)に高野山再興を志す祈親上人定誉が心礎上で護摩を修したことに由来すると伝える。
 名古曽廃寺塔跡11     名古曽廃寺塔跡12     名古曽廃寺塔跡13     名古曽廃寺塔跡14     名古曽廃寺塔跡15
 名古曽廃寺塔跡16     名古曽廃寺塔跡17     名古曽廃寺塔跡18     名古曽廃寺塔跡19
 名古曽廃寺心礎1      名古曽廃寺心礎2      名古曽廃寺心礎3      名古曽廃寺心礎4
 護摩堂内部
 名古曽廃寺金堂跡1     名古曽廃寺金堂跡2     名古曽廃寺金堂跡3

紀伊佐野廃寺:伊都郡かつらぎ町大字佐野

昭和51年の発掘調査は「塔の壇」と呼ばれる地点を中心に実施され、以下が確認された。
塔跡は一辺約12m(北辺)で後世の著しい削平を受け、基壇残存高は約40cmくらいであった。そのため礎石の痕跡の確認は不能であった。
さらに中心部は心礎抜取り後の井戸掘削で損壊していた。塔跡の南半分は宅地化する。
また塔跡の西方約11mで、基壇の東辺と塔基壇北辺の延長線上に北辺を検出した。金堂もしくは西塔が想定される。
○「幻の塔を求めて西東」:
心礎の大きさは240×170×50cm。表面の荒廃が顕著。白鳳。
2006/03/11追加:
○「和歌山県史 考古資料」より:
 佐野廃寺伽藍推定図
「寺域は南北540尺、東西270尺と推定、金堂基壇は15×13.5mと推定、塔は金堂基壇東9mにあり、一辺約12mで金堂講堂と同様の版築であった、礎石は「失われていたが、心礎と見られる緑泥片岩の大石が東方に見られる。」
講堂は中軸線のやや西に振れる、六角経蔵と推定される遺構なども発掘される。
2015/03/16追加;
○「佐屋廃寺発掘調査概報V」かつらぎ町教育委員会、1980 より
 佐屋廃寺主要堂発掘図
金堂の6m南に木製灯籠の据え付け遺構がある。また講堂北東に六角経蔵がある。本遺構の中心柱はやや細い柱のため、回転式の輪蔵とも考えられる。
○「佐屋廃寺発掘調査概報」和歌山県教育委員会、1977 より
 佐屋廃寺塔跡発掘図:塼仏及び風招が出土しているようである。本図の塔基壇の東側に心礎と思われる大石があると思われる。
2015/03/17撮影:
 佐野廃寺木標;木標背後が推定心礎及び礎石
 佐野廃寺塔跡1:北東から撮影、写真中央付近が塔跡、木標も写る。
 佐野廃寺塔跡2:北西から撮影、中央から右部分が塔跡、木標及び推定心礎が写る。
 佐野廃寺推定心礎1;推定心礎の左手前に写るには塔礎石か。
 佐野廃寺推定心礎2     佐野廃寺推定心礎3     佐野廃寺推定心礎4     佐野廃寺推定心礎5
 佐野廃寺講堂跡:写真中央付近が講堂跡と思われる。
 一般的に緑泥石片岩は、板状に割れやすいので、中世に流行した板碑などに利用されたほか、石材として利用されることは少ないと云われる。であるから、もしこの大石が心礎であるならば、緑泥石片岩が心礎に使用された少数の例であろう。
 ※少数ではあるが、以下のような心礎に緑泥石片岩が使用されている。
  伊予旧宝蔵寺塔心礎(片岩、未見であるが写真から見て、緑泥石片岩と判断できる。)、伊予法安寺跡礎石(多くが緑泥石片岩)、
  阿波国分寺心礎、紀伊神野々廃寺、紀伊西国分廃寺(結晶片岩、緑泥石片岩?)、
  紀伊北山廃寺(緑泥石片岩と云われるも埋め戻され実見不能)、紀伊最上廃寺
 ※心礎に関しては、紀ノ川流域、四国での使用例が多いが、これに関連するのであろうか和歌山城や徳島城石垣では緑泥石片岩の使用例があるという。
 ※この大石が心礎であるならば、その材質から出枘ではなく、枘孔か柱穴の円孔が穿たれていたと思われるが、表面のその部分は板状に割られたかあるいは割れたかで、円孔などを全く残さないのであろうと推測される。
 円孔などが欠落し、しかもこの大石の由来が全く分からず、心礎とは断定できないが、2.4×1.7mの大きさや塔跡の側に存在することからいえば、心礎である可能性は大きいと云ってよい。
 なお、「日本霊異記」中巻第十一 「紀伊の国伊刀の郡桑原狭屋寺 ・・・」とは当廃寺に比定されるという。
2021/12/30追加:
○「庭石と水の由来」尼崎博正、昭和堂、2002 より
 自然石心礎である。「日本霊異記」にある「紀伊國伊刀郡桑原狭屋寺」に比定される。
この心礎は昭和11年3月に塔の壇と呼ばれていた塚を崩した際、古瓦とともに掘り出されたもので、その時の現在の場所に移される。
また昭和51年からの発掘調査で塔跡・金堂跡・講堂跡が確認される。
○史跡整備後の佐野廃寺
2018/11/18「X」氏撮影画像
 佐野廃寺復元塔基壇:基壇は木製であったということで、木製で基壇が復元されるという。手前に写るのが心礎(推定)である。
2019/02/14撮影:
〇現地説明板 より
 佐野寺跡:伊都郡かつらぎ町佐野に所在。飛鳥後期の寺院跡である。
「日本霊異記」中巻第11話には「紀伊國伊刀郡桑原之狭屋寺」の名が見えるが、本廃寺跡はこの「狭屋寺」ではないかと推定される。
また、塼仏、風招、佐波理椀蓋が出土する。
 金堂跡:調査の結果、基壇と雨落溝が発見され、基壇規模は東西15m、南北13.5mであることから5間×4間の建物が想定される。基壇化粧は良く分からない。また付近から鴟尾が出土する。
 塔跡:発掘調査で基壇、心礎抜取穴、基壇化粧の痕跡が発見される。基壇規模は一辺11.9m。
基壇化粧は詳細な調査の結果、木製の基壇化粧の痕跡が発見される。木製の基壇化粧は難波宮跡、近江国庁跡、三河国分寺などに限られ、珍しい例である。
 佐野廃寺復元イメージ     佐野廃寺発掘図1     佐野廃寺発掘図2
 佐野廃寺金堂跡     佐野廃寺出土鴟尾片     出土六尊連立塼仏     佐野廃寺出土瓦
 佐野廃寺塔跡基壇     木製基壇化粧痕跡1     木製基壇化粧痕跡2     推定六角経蔵跡
〇撮影画像
平成30年佐野寺跡整備事業が竣工する。
 佐野廃寺復元塔基壇1     佐野廃寺復元塔基壇2     佐野廃寺復元塔基壇3     佐野廃寺復元塔基壇4
 佐野廃寺推定心礎11      佐野廃寺推定心礎12     佐野廃寺推定心礎13      佐野廃寺推定心礎14
 佐野廃寺復元金堂基壇1     佐野廃寺復元金堂基壇2

紀伊西国分廃寺(史蹟)

○紀伊國名所圖會 三編巻之1より:
塔の芝:
記事:「田畝の間に在りて、方1町ばかりの芝生なり。・・国分金光光明寺の廃跡なり。今は弥勒堂・大門・鎮守拝殿等の址のみ僅かに残れり。中にも大塔の礎石依然としてあり。・・・このあたり布目ある瓦礫の散乱するを見て・・・。元慶3年2月22日。紀伊国金剛明寺火あり。堂塔坊悉く灰燼となる。」
 国分寺・塔の芝(部分図):「塔の芝」に塔の心礎らしきものが描かれる。左の伽藍は医王院国分寺。
ただしこの塔址は国分寺塔址ではなく、現在西国分廃寺跡と称する塔跡である。
 国分寺は元慶3年炎上後の沿革は明らかでなく、近世初頭には堂宇があり、根来寺末であったという。
 塔跡の現状は、かって「塔の芝」と呼ばれた面影は全くなく、周辺は開発が進み、道路脇に心礎のみが放置され、ほとんどゴミ捨て場の状態と化す。
2001/12/24撮影:
心礎は長辺1.7 m、短辺1m余を測り、中央に88.4cmの円柱孔がある。また中央に舎利孔があり、1筋の水抜き溝が彫られる。石材は紀ノ川産「青石」結晶片岩。
 発掘調査されているが、塔跡以外はっきりしない。塔基壇(一辺 13 .8m)は渡来系寺院でよく見られる瓦積化粧。心礎はもとの位置にもどされているということであるので、心礎の置かれている場所が基壇ということになる。
 紀伊西国分塔心礎1       同        2       同        3
2006/02/25撮影;
 紀伊西国分廃寺塔跡       同    心礎1       同       2       同       3       同       4
   同         5       同       6       同       7       同      礎石
2009/09/20追加:
「国分寺址之研究」堀井三友、堀井三友遺著刊行委員会編、昭和31年 より
心礎は6尺×3尺6寸の大きさで、削平した表面の中央に径2尺9寸深さ2寸3分の円柱座を穿ち、その中心に径4寸2分深さ5寸の舎利奉納孔を穿つ。なお円柱座より外方に1個の小溝を穿つ。白鳳期のものであろう。
2011/05/29追加:「佛教考古學論攷」 より
 紀伊西國分廃寺心礎実測図
2016/08/21追加:
「紀伊国分寺-紀伊国分寺跡・西国分廃寺の調査」和歌山県教育委員会、1979
 西国分廃寺心礎実測図他

紀伊長田観音寺

 紀伊長田観音寺三重塔」:昭和39年台風により三重塔倒壊 、未だ再興に至らず。

紀伊粉河寺:2010/10/06追加

◇「社寺参詣曼荼羅」(目録)大阪市立博物館、1987 より
風猛(かざらき)山と号する。西国33所3番札所。
宝亀元年(770)大伴孔子古によって創建される。鎌倉期には多くの堂塔、550ヶ坊、寺領4万余石を有すると云う。
天正13年(1585)豊臣秀吉の侵攻により、回禄す。
○紀伊粉河寺参詣曼荼羅が2本残る。
何れも本堂向かって左背後に三重塔、本堂向かって右背後のかなり奥に多宝塔、本堂左手前の坊舎(本坊か)の境内に多宝塔、
大門の下かなり離れて粉河寺坊舎か別寺院の多宝塔(もしくは三重塔)が描かれる。
 粉河寺参詣曼荼羅1:室町末期の作で、天正の回禄からの復興伽藍がベースにあるものと推定される。170×176cm、粉河寺蔵。
 粉河寺参詣曼荼羅2:江戸期の作か。紙本着色、150×140cm。
2017/04/13追加:
和歌山県立博物館展示:複製、安土桃山期:2017/03/02撮影:
 上掲載の「粉河寺参詣曼荼羅1:室町末期」と同一のものであろう。
 粉河寺参詣曼荼羅3     粉河寺参詣曼荼羅3文字入
東塔(多宝塔か)と西塔(多宝塔か)があり、右下極楽寺に多宝塔がある。
但し極楽寺とは中津川極楽寺であるのかも知れないが、不明である。

紀伊北山廃寺b:貴志川町

○「幻の塔を求めて西東」:127×108cm、72×3cmの円穴と5×1,6cmの小孔を持つ。緑泥片岩。白鳳。
平成5年から3ヶ年計画で発掘調査。中門・塔・金堂・講堂跡の遺構が確認された。伽藍は南面し四天王寺式伽藍配置であった。廻廊は中門から講堂に取り付く。寺域は方1町。舌状台地上に位置する。
○現況:
廃寺一帯は蜜柑畑(民有地)で廃寺跡を示す1枚の説明板があるのみで、地上には何の痕跡もありません。
附近で農耕する人の談:
廃寺跡は「だいもん」と通称していた。心礎は以前は確かに露出していたが、近年は耕作の邪魔で、土を掛けもう見ることは出来ないだろう。
念のため、蜜柑畑の中を案内してもらい、この辺りに昔はあったはずと言う場所を探してもらった。
しかし、やはり心礎を見ることは叶わず、土中に存在するようです。
写真:遠望1は西から、遠望2は東から廃寺跡を撮影、推定心礎位置はこの辺りに心礎があるはずという場所を撮影。
○「和歌山県史 考古資料」より:
台地上の道路西に心礎がある。1.36×1mの大きさで、径72×5/3cmの柱穴があり、中央に径5×3cmの皿状の舎利孔がある。
心礎は結晶片岩の自然石を利用。
 紀伊北山廃寺遠望1    同     遠望2    同 推定心礎位置
 北山廃寺心礎実測図
2007/05/05追加:
○「北山廃寺発掘調査報告書」和歌山県文化財センター、1996 より
塔基壇は一辺10m前後の規模を有する。かなりの削平を受け、心礎のみ半地下式のため残存と思われる。その他の礎石据付痕跡も検出は出来なかった。石材は紀ノ川産「青石」結晶片岩。
 北山廃寺塔心礎     北山廃寺心礎実測図      塔心礎検出状況(西から)     塔基壇調査(南から)     塔跡北側基壇縁
 北山廃寺トレンチ図:YM−1が塔跡        北山廃寺塔跡実測図
2015/05/11追加:
「古代寺院の成立と展開」泉南市・泉南市教育委員会、1997 より
 北山廃寺心礎2

紀伊最上廃寺b:桃山町

最上廃寺は白鳳期の寺院跡とされ、古は50間四方と云われたが、現在は13×4間の跡地のみを残し共同墓地になる。楠の大木があり目印となる。またこの地は後世の美福門院御所跡とされる。
昭和55年からの発掘調査で、塔基壇は一辺15mと測定された。金堂などのその他の遺構は削平のため未検出。
○「和歌山県史 考古学資料編」1983:心礎は緑泥岩製、250×180cm、径93×7cmの円形柱座を穿ち、その中心よりやや一方に偏って舎利孔を持つ。舎利孔は上縁で径18 cm・深さ3cm、底部径は17,4cmで深さ17cm、底部は皿状を呈す。
○「幻の塔を求めて西東」:心礎の大きさは240×180cm、86×4/6cmの円穴と16×17cmの円孔を持つ。白鳳。
○「尼岡と美福門院」のページより最上廃寺関係を要約:
  ⇒「調月の歴史」の「尼岡と美福門院
尼岡は、美福門院(1117〜60年、藤原得子・鳥羽上皇后・近衛天皇生母)が当地に下野、仏門に帰依し16才で早折した近衛天皇と鳥羽法皇を偲んで写経に勤めたという尼岡御所跡から南西の一円を云う。尼岡御所跡は最上小林の墓地、通称「あぶか三昧」として残る。
「那賀郡誌」:「安楽川村大字上野の南西、調月村との境界に尼が岡と名づくる所あり。其の中に方五十間余の面積を有する一地区内に大塔の心柱の礎石と覚しきもの、今尚存す。尼岡山美福門院尼寺旧記によれば、天平神護(765〜769年)の昔、称徳天皇の御建立にして南都西大寺派なり、云々。当時、既に尼寺の建設ありしものと思はるるなりと。また、美福門院は鳥羽帝の時、荒川庄を女院湯沐の邑に賜る・・。保元の違豫に臨みて、奥近江守盛弘を召具、忍びて此の荘園に下り、修禅尼寺を建てて隠棲。大伽藍を営み、尼衆を多数置き大塔を建設した。」
おそらく、称徳天皇建立の尼寺の場所に、美福門院も修禅尼寺を建てたと推測される。
尼岡御所跡から、白鳳期の瓦や摶仏が出土し、ここに塔心礎が残る。
美福門院建立の修禅尼寺大塔や伽藍は、延徳2年(1490)由良興国寺の僧徒らに放火、烏有に帰す。なお尼寺は後に奥氏の末裔が私領、鳥休山の麓に再建したという。
同御所跡の東、数百mの山麓に再興修禅尼寺跡が残る。
古い土塀と小舎、放火のときに待避させた念持仏の入った厨子、石碑(「美福門院遺跡」)が残存し、美福門院の墳墓も残存すると云う。(柘榴川堤防北の平坦地)
さらに延宝年間、高野山がここに五輪塔を建立し、石灯篭を奉納すという。(これは残存すると云う。)
 ※参考:「山城安楽寿院」のページ、及び「紀伊高野山」の六角経蔵の項を参照。
○「続風土記」:
尼丘は「奥氏の免許地なり、方50間の芝地なり、美福門院この地に来り給ひて寺を建て・・・、巽の隅に塔の跡とて真柱を居し礎石今存す、傍に又礎石あり、その西3間許り小高き地あり、経蔵の跡といふ、門院・・紺地金泥の一切経を書写せしめ、・・この経蔵に納め給ふ、遺告により・・・経蔵は高野山に移す、今檀上に荒川経蔵と称する是なり。」
 紀伊最上廃寺遠望    紀伊最上廃寺跡現況    紀伊最上廃寺塔基壇     紀伊最上廃寺心礎1     紀伊最上廃寺心礎2
 紀伊最上廃寺心礎3   紀伊最上廃寺心礎4     紀伊最上廃寺心礎5     紀伊最上廃寺心礎6     紀伊最上廃寺心礎6
2007/05/05追加:
○「那賀郡桃山町最上所在最上廃寺発掘調査報告書」和歌山県教育委員会、1983 より
石材は紀ノ川産「青石」結晶片岩。基壇上には結晶片岩の巨石が4〜5個あるが原位置を保たない。心礎の厚さは約60cmを測る。
その他の仕様については明確にするには至らない。また伽藍配置なども明確にはするに至っていない。
 最上廃寺心礎実測図

紀伊岡崎荘満願寺:和歌山市岡崎

2015/03/24追加:
天治2年(1125)鳥羽上皇の熊野御幸に供奉した僧頼広が此地で霊佛を見、奏上する。
鳥羽上皇は、大いに喜び、伽藍を草創するという。
◆「根来寺を解く」中川委紀子、朝日新聞出版、2014 より
 満願寺は鳥羽上皇画像を蔵する。
 承和3年(1347)満願寺鳥羽上皇画像の供養が行われる。
 この時の供養願文には、本尊十一面観音像と二重宝塔、大門が新造されたことが記されるという。
  ※平安末期には多宝塔があったと思われる。
満願寺は真言律宗古義京都勧修寺末。鎮守に熊野権現を祀る。
各種Web情報を参照すれば、満願寺は小高い丘下に山門を構え、石階があり、丘の中腹に本堂、庫裡などを配する。本堂西側すぐに熊野権現拝殿、瑞垣、本殿がある配置と思われる。
また満願寺本堂は正面3間(推定)入母屋造屋根本瓦葺と思われる。
 なお、残念なことに、次のニュース記事がある。
きょう(2012/12/20)午前4時40分ごろ、和歌山市寺内の満願寺が燃えていると、消防に通報があった。火は、およそ1時間半後に消し止められ るも、木造平屋建ての本堂およそ300平方メートルが全焼したほか、84歳の女性の住職が住んでいた庫裏の一部も焼ける。火事の後、寺に1人で住んでいた住職とは、連絡がとれなくなってい る。
この記事によれば、満願寺本堂は全焼と思われる。別記事では住職焼死とある。
 ※平安末期にはここに二重宝塔(多宝塔)があったものと思われる。
◆鳥羽院の勅願所であった。
天治2年(1125)鳥羽上皇熊野御幸に供奉した僧頼広が此地で霊佛を見、かくも光明を放つ佛の由を奏上し、伽藍を草創したという。
鳥羽上皇は熊野本宮証誠殿の夢告を信じて、熊野権現を勧請する。その後、熊野詣での際、必ず駕をよせ杖を止める地域となったという。
「紀伊續風土記 巻之十六 名草郡 岡崎荘 寺内村」
○満願寺から
鎮守七社明神
 祀 神 熊野三所権現 一 社      白山蔵王両権現 一 社      稲荷天神二神 一 社
 本堂の乾にあり、岡崎四箇村の産土神なり、後生住吉八幡宮を合わせ祀るといふ、 熊野権現は鳥羽上皇霊夢に成して勧請し給ふ、左右の両社も各奇異の事ありて祀る所なりと縁起に見えたり
 鎮守社  拝殿 鳥居 反橋

紀伊隅田八幡宮三重塔

2015/02/20追加:
○「紀伊国名所圖繪 巻之二」
記事:・・・鐘楼・僧座・・・本社の両脇にあり。・・・
三重塔跡・三昧堂・経蔵・護摩堂 已上往年烏有す。今廃址あり。
別當大高能寺 境内にあり。(現存)
 ※隅田八幡宮に三重塔があった。情報は皆無である。
 「紀伊国名所圖繪」に隅田八幡宮の絵図が掲載されるも、三重塔廃址などの位置の明示がなく、絵図の掲載はしないこととする。

紀伊高野寺三重塔(覺樹院)

 紀伊高野寺三重塔

紀伊万精院多宝塔

 紀伊萬精院多宝塔跡

紀伊東照宮三重塔

 紀伊東照宮三重塔

紀伊高野山高祖院多宝塔/高野山新別所三重塔/高野山本中院谷無量寿院多宝塔/高野山往生院谷多宝塔
 
 高野山高祖院多宝塔以下に記載する。

紀伊高野山大伝法院・真然堂/真然廟所多宝塔

 高野山大伝法院/真然廟所多宝塔

紀伊天野社多宝塔(羽生都比売神社)

 紀伊天野社多宝塔

紀伊日光社(日光神社):有田郡清水町清水上湯川

 紀伊日光社多宝塔跡

紀伊野上八幡宮・大和東南院多宝塔

 紀伊野上八幡宮・大和東南院多宝塔

紀伊広八幡宮・法蔵寺多宝塔

 紀伊広八幡宮・法蔵寺・安芸三瀧寺多宝塔

紀伊三栖廃寺(史蹟)

白鳳期の創建とされる。寺域は方1町と推定。
現弥勒堂の位置が塔基壇と思われ、発掘調査の結果、基壇は一辺9mの瓦積基壇で南中央には自然石の石段が残存するという。
心礎はほぼ三角形で、1.7m×1,6m、中央に径67cm深さ6/4cmの円孔と円孔中央に径20cm深さ9cmの小孔を持つ。また不自然な形状の排水溝が1本ある。
以前この心礎は弥勒堂の縁下にあったと思われるも、現在は僧坊跡と推定される復元基壇のところに移動する。付近からは石製相輪の一部などが出土しているという。
 紀伊三栖廃寺心礎1     紀伊三栖廃寺心礎2     紀伊三栖廃寺心礎3     紀伊三栖廃寺心礎4
 紀伊三栖廃寺僧坊跡?     同      弥勒堂
2011/07/24追加:
○昭和11年紹介文:「字寺田ナル彌勒堂ノ前面ニ徑約六尺四寸ノ塔心礎アリ其表面中央ニハ直徑約二尺三寸深サ約二寸二分ノ圓柱孔ヲ刻シ更ニ其底面ノ中央ニ直徑約六寸深サ約三寸二分ノ舍利奉安孔ヲ刻セリ附近ヨリ奈良朝ノ様式ヲ示セル古瓦並ニ石造相輪ノ破片ヲ發見セリ 」
○石製九輪の一部、青銅製風招、石製天蓋の一部などの遺物が出土と云う。出土遺物は「田辺市立歴史民俗資料館」に展示と思われる。
○「田辺市史 巻4」に下記の写真の掲載があると云う。
 紀伊三栖廃寺発掘写真:瓦積基壇・石階が写る。
 紀伊三栖廃寺復原拓本:この天蓋が塔に使用されたかどうかは不明。石製と云う。

紀伊東光寺多宝塔

 紀伊東光寺多宝塔

 


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