初期多宝塔

参考文献
「日本仏塔集成」浜島正士、中央公論美術出版、2001年 所収「第2章 多宝塔の形式、構造と比例」
    (初期多宝塔の形態/形式と構造/枝割と各部の比例)」

「平安時代仏教建築史の研究」清水擴、中央公論美術出版、平成4年
「塔における両界曼荼羅空間の展開−平安時代の層塔を中心に−」冨島義幸、佛教藝術238、1998年
「日本建築史基礎資料集成 十二 塔婆U」太田博太郎責任編集、中央公論美術出版、平成11年 (概説(多宝塔))
「根来寺大塔」山岸常人(「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 所収)

初期多宝塔の形態/形式と構造

「日本仏塔集成」浜島正士、中央公論美術出版、2001年 所収「第2章 多宝塔の形式、構造と比例 」
   (初期多宝塔の形態/形式と構造/枝割と各部の比例)」:より


1)現存する多宝塔の例は河内金剛寺多宝塔を最古とするが、近世初頭に大改変を受け、当初の姿が失われている。従って
当初の形を伝える最古の例は石山寺(建久5年・1194)、高野山金剛三昧院(貞応2年・1223)の鎌倉期のものしか遺例がない。
このため、多宝塔・真言大塔・天台大塔などの発生期の多宝塔・ニ重塔の形式については文献で復元していくしかない方法はない。

2)最澄(天台)の塔は法華経1000部の納入・安置を目的(※六所宝塔)としたのに対し、空海(真言)の塔は大日如来そのものの表現(毘盧遮那宝塔などの名称)を目指したものと思われる。
その形式は天台大塔については初重方5間・上重方3間のニ重層塔形式であり、真言大塔では初重5間・上重は宝塔とする混合形式であった可能性が高いと思われる。
天台大塔の姿は昭和再興の比叡山惣持院塔、近世の遺構である旧住吉神宮寺塔で見ることができ、また真言大塔は室町期の紀伊根来寺大塔、昭和再興の高野山大塔 、明治の神仏分離で失われた鶴岡八幡宮大塔で見ることが出来る。

3)天暦元年(947)落慶した「山科勧修寺多宝塔」は「一重多宝塔四面有層庇」(「勧修寺旧記」)とあり、多宝塔形式であろうと思われる。
この前後から「毘盧遮那宝塔」や「法華経安置目的の塔」は文献から姿を消し、「多宝塔」という名称が一般化し、特に特別な断りのない限り、
現存する遺構のような「多宝塔」の建立が一般化したものと思われる。
とくに寛仁3年(1019)建立の「山城行願寺多宝塔」は「等身多宝塔(上層8戸・下層4戸)本尊:釈迦・多宝」(小 右記)とその様式の記録があり、要するに、上層は12本の柱を円形に建て、扉を8間、窓・壁を4間とし、下層は3間で、中央間を扉口とした現在の多宝塔形式で建立されたものとされる。
この時期になると、多くの寺院に「多宝塔」が建立されるが、その塔は最初期に最澄が構想した宝塔あるいは大規模二層塔や空海の構想した「下重5間」と思われる「大塔」では なく、現在遺構として現存している下重3間上重円形の「多宝塔」が主流となる。また文献上でも多宝塔と呼ばれるのが一般的になる。
おそらく下重5間の塔は大型であり、技術的にも経済的にも困難が付き纏ったものと推測される。
 

安祥寺
次の一覧表は「日本仏塔集成」の「平安期における多宝塔および宝塔等の建立記録」を転記 (要旨)し、項目の追加をしたものである。

寺  院

宗派

建立時期・典拠

塔名称・本尊

参 考 事 項
上野緑野寺
<天台六所宝塔「安東:上野宝塔院」>
天台 弘仁7年(816)〜8年頃
典拠:叡山大師伝。
一級宝塔

 
一級宝塔とは形式不明である。その形式は後世の「相輪橖(トウ) 」とも解釈されるが、何がしの建築であるとするならば、現存する中世の木造宝塔遺構である慈光寺宝塔(開山塔)に似た構造と推定される。
※慈光寺宝塔は天文25年(1556)の建立で、現存塔と同規模の前身塔の存在が確認されていると云う。
緑野寺は天台六所宝塔「安東:上野:宝塔院」とされ、江戸期の相輪橖(トウ)が現存する。上野緑野寺跡 武蔵慈光寺開山塔(宝塔)
下野大慈寺
<天台六所宝塔「安北:下野宝塔院」>
天台 弘仁7年(816)〜8年頃
典拠:叡山大師伝。
一級宝塔
安置;法華経千部
一級宝塔とは形式不明。緑野寺の項参照。
天台六所宝塔「安北:下野:宝塔院」とされ、江戸期の相輪橖が現存する。下野大慈寺塔跡 武蔵慈光寺開山塔(宝塔)
なお大慈寺には塔跡と云われる土壇・礎石が残るが、礎石・土壇の状況から近世のものと思われる。従って下野宝塔院とは直接の関係はないものと思われる。
紀伊高野山大塔
  (初代)
真言 弘仁10年心柱伐
典拠:高野春秋、造仏塔知識書。
注)貞観18年(876)頃完成か。
毘盧遮那法界体性塔(大日如来塔の意)
本尊:胎蔵界五仏
正暦5年(994)焼亡。康和5(1103)年再興。
この塔の形式は不明であるが、大塔形式であった可能性が高いと思われる。
注)「日本歴史地名大系 和歌山県の地名」平凡社 より
 
建立年代であるが、弘仁10年(819)心柱伐採年代であり、大塔は空海存命中には完成しなかったという説が大勢を占める。
空海在世中に大塔は講堂・僧坊とともに完成というのは「金剛峰寺建立修行縁起」であるが、承和元年(834)空海は毘盧遮那法界体性塔二基の勧請を行って(「性霊集」)おり、「続風土記」では空海の没後50年を経過して完成という。「堂塔建立由来記」では「根本大塔(高16丈180尺)・・・此塔、嵯峨天皇御願、仁明天皇御宇、起立御供養、此塔者、実恵大徳真然僧正被下、宣旨造立之」といい、貞観(859-877)の末に一応の完成を見たものとするのが妥当であろう。
高野山
近江宝塔院
  (創建)
<天台六所宝塔「安総:近江宝塔院」>
天台 弘仁12年心柱立

典拠:東塔縁起、叡山大師伝

多宝塔
安置;法華経千部
後に、惣持院と称する。多宝塔と記載されるも、形式は不明。但し天台大塔形式の可能性が高いと思われる。
2代・3代も形式不明。
鎌倉期復興の東塔については「比叡山東塔絵図」では下層方5間・上層方3間の天台大塔形式に描かれている。また「惣持院指図(葛川明王院資料)推定鎌倉期」も方5間となっているという。
比叡山
天台大塔形式の唯一の現存例として摂津住吉社西塔)現阿波切幡寺大塔がある。摂津住吉社東西塔・阿波切幡寺大塔
山城神護寺 真言 承和2年(835)〜嘉承3年(850)
典拠:三代実録、神護寺実録帳
一重毘盧遮那宝塔
本尊:五大虚空蔵
塔は仁明天皇御願・空海弟子真済建立と云う。
三代実録は「一重宝塔」、神護寺実録帳は「一重檜皮葺毘盧遮那宝塔」とあり、裳階については不詳のため、多宝塔形式か宝塔形式かは不明。
なお寛喜2年(1230)「神護寺寺領牓示絵図」では下層5間の大塔が描かれている 。<絵は簡略ですが、真言大塔形式と思われる。>
高尾神護寺
昭和再興塔は「明治以降の多宝塔」「神護寺」の項を参照。
近江惣持院
  (2代)
天台 仁寿3年(853)〜貞観4年(862)
典拠:東塔縁起
多宝塔
本尊:胎蔵界五仏
比叡山
山城安祥寺 真言 貞観9年以前
典拠:安祥寺資材帳
毘盧遮那五輪卒都婆
本尊:五智如来
創建当初の「毘盧遮那五輪卒都婆」の形式は不明、但し本尊が現存 する五智如来であれば、その大きさから見て、大型の塔であったと思われる。
明治39年まで多宝塔(宝暦9年(1759)再建)は存在し、塔跡はほぼ完存する。近世再興塔跡の実測では方3間の多宝塔で、一辺26尺の大型塔であったと思われる。
山城安祥寺
山城貞観寺 真言 貞観
典拠:三代実録
毘盧遮那之宝塔
本尊;尊勝如来
嘉祥3年(850)仁明天皇が崩御、深草に葬られ、その追善のため嘉祥寺が造営された。その後、摂政藤原良房は嘉祥寺に西院を建立し、
貞観4年(862)西院を独立させて貞観寺と改号。
この「宝塔」の形式は不明。
貞観寺
紀伊高野山西塔
  (初代)
真言 仁和2年(886)建立
典拠:東寺長者補任、高野春秋
九丈多宝塔
本尊:金剛界五仏
正暦5年(994)焼失。
大治2年(1127)再興。
<なお現在の天保5年(1834)再興大塔の外観は真言大塔であるが、入側柱は方3間の方形となっている。>
高野山
近江竹生島 真言 延喜16年(916)建立
典拠:竹生縁起
多宝塔 竹生島
山城比叡山西塔
  (初代)
<天台六所宝塔「安中:山城宝塔院」>
天台 延長2年(924)露盤造
典拠:日本高僧伝要文抄
宝塔
本尊:五仏
宝塔の形式は不明。
比叡山・・・比叡山西塔には現在、相輪橖(トウ)がある。(明治期)
山城神護寺 真言

承平元年(931)以前
典拠:神護寺実録帳

一重小塔(法華堂安置)
本尊:胎蔵界九仏
高尾神護寺

山城勧修寺

真言 承平3年以前、延長年間?
典拠:勧修寺旧記
一重多宝塔(四面在層庇)
本尊:金剛界五仏
天暦元年(947)落慶:六条斎宮柔子内親王の「願文」
「勧修寺旧記」:「一重多宝塔四面有層庇」とあり、多宝塔形式であろう。
あるいは「起多宝塔於勧修寺」とある。
※この頃真言密教の塔も、本来は法華天台系の呼び名とされる「多宝塔」と呼んでいたようです。但し、その名称にも関わらず、本尊は金剛界五仏であり、真言の塔 である本質は変わらない。
勧修寺
筑前竈門山
<天台六所宝塔「安西:筑前宝塔院」>
天台 承平3年造立
典拠:承平7年大宰府牓
多宝塔
法華経千安置
最澄六所宝塔の一つで、多宝塔一基造立、上安千部経、下修三昧。
多宝塔といわれ、上下ニ重であることは間違いないが、形式(宝塔・天台大塔・多宝塔なのか)は不明。 但し天台系であることや建立目的などから判断して天台大塔形式であった可能性が高いと思われる。
竈門山
2009/02/04追加:
近年、本谷礎石群が発見され、2008年発掘調査調査、一辺25mの基壇上に一辺7.8mの1間四面堂形式の礎石建物跡が発見される。この遺跡は「安西:筑前宝塔院」の遺構 とほぼ断定される。
この遺構が当初の安西宝塔院であるならば、この「宝塔」は平面5間の天台大塔形式や平面円形の一重塔の宝塔ではなくて、平面3間・上重円形の多宝塔か上重も方形の二重塔形式であったことになる。
筑前筥崎神宮寺
<天台六所宝塔「安南:豊前宝塔院」>
天台 承平7年造立
典拠:承平7年大宰府牒
多宝塔
法華経千安置
最澄六所宝塔の一つで、多宝塔一基造立、上層は千部経王安置、下壇は法華三昧を修す。豊前宇佐神宮寺(弥勒寺)の代替。
多宝塔といわれ、上下ニ重であることは間違いないが、形式(宝塔・天台大塔・多宝塔なのか)は不明。 但し天台系であることや建立目的などから判断して天台大塔形式であった可能性が高いと思われる。
筥崎神宮寺
13/03/03追加:
陸奥堂庭廃寺宝塔遺構
出土土器から10世紀頃の遺構と云う。 宝塔:
発掘遺構図による
昭和43年の発掘調査により、瓦積みの基壇と円形に廻る礎石が発見され、宝塔跡と判定される。
本廃寺の性格は不明(多賀城の西域鎮護の寺という説もある)ながら、宝塔遺構の最初期のものであろう。
陸奥堂庭廃寺      堂庭廃寺宝塔跡実測平面図
近江日吉社 天台 天慶5年(942)供養
典拠:天台座主記
根本塔 延慶元年(1308)塔下彼岸所から出火し、根本大塔、七重塔、七社社殿・社務所、彼岸所、仏堂、不断経所などを焼失。
元徳元年(1329)塔供養。
創建時の根本塔の形式は不明であるが、中世の再興根本大塔は一重二層の「宝塔」形式であったと思われ、おそらくこれは創建時の形式を遵守しているものとも思われる。詳細は近江日吉社を参照。
山城法性寺 天台 天慶8年供養
典拠:日本紀略、扶桑略記
多宝塔
本尊:普賢・観音
法性寺
山城雲林院 天台 応和3年(963)供養
典拠:扶桑略紀、本朝文粋
多宝塔
本尊:五仏
雲林院
近江惣持院
  (3代)
天台 天禄2年(971)供養
典拠:日本紀略。大治年中焼亡。
. 比叡山
山城慈徳寺 天台 長保元年(999)供養
典拠:小祐記
惣持院体 東三条院詮子の御願、金堂・講堂・塔を備えるとされるが、規模などは不詳。 長保元年(999)供養。:「平安時代仏教建築史の研究」
「惣持院体」とあり、天台大塔形式と思われる。
○2013/02/21追加:「院家建築の研究」:
この塔については、「中右記」永久2年(1114)の条で、日野に行った帰途、この塔を実見し、「晩頭帰洛之次、見慈徳寺塔作様、頗不似他塔、是山上惣持院体云々」とすると云う。
慈徳寺
山城浄妙寺 天台 寛弘4年(1007)供養
典拠:日本紀略、本朝文粋
多宝塔
本尊:釈迦・多宝
藤原道長創建。本尊:釈迦・多宝 とする多宝塔の初例。以降天台系多宝塔本尊は釈迦・多宝の二尊となっていく。これは円仁・円珍によって密教化した天台が良源・恵心僧都源信により再び顕教化することに軌を同じくするものと考えられる。「平安時代仏教建築史の研究」
浄妙寺:推定多宝塔跡が検出され る。
山城浄妙寺 天台 寛仁元年(1017)
典拠:左経記
厚朴木多宝塔
舎利安置
浄妙寺
山城行願寺 天台 寛仁3年
典拠:小祐記
等身多宝塔(上層8戸・下層4戸)
本尊:釈迦・多宝
この多宝塔は上層は12本の柱を円形に建て、扉を8間、窓・壁を4間とし、下層は3間で、中央間を扉口とした現在の多宝塔形式と思われる。
 この時期になると、最初期の最澄の構想した宝塔あるいは大規模二層塔や空海の構想した「下重5間」と思われる「大塔」ではない現在遺構として現存している「多宝塔」形式が、文献上でも多宝塔と呼ばれるのが一般的になったように、形式としても一般化したものと思われる。
行願寺
山城行願寺 天台 万寿元年(1024)供養
典拠:小祐記、栄華物語
七宝小塔・多宝塔
本尊:釈迦・多宝
堂内安置の小塔を「七宝塔」と呼ぶ場合が多いと思われる。
行願寺
大和多武峰 天台 万寿2年建立
典拠:多武峰略記
多宝塔
本尊:釈迦・多宝
延久元年(1069)改造、天仁焼亡。
多武峯妙楽寺(十三重塔の概要)、多武峰妙楽寺(大和の塔跡)
山城法成寺 . 万寿3年
典拠:栄華物語
多宝塔(三昧堂安置) 法成寺
山城石清水
 護国寺宝塔院
天台 万寿
典拠:石清水八幡宮末社記
宝塔院
本尊:胎蔵界大日
創建時の形式は不明。
「一遍上人絵伝(正安元年<1299>)」<宝塔院部分>では、多宝塔形式で描かれるも、根津美術館蔵「石清水八幡宮曼荼羅」その他の絵図に見られるように おそらく天台大塔形式であったと思われる。
※近世では(琴塔)と俗称する。
詳細は石清水八幡宮の「宝塔院多宝塔(護国寺)」の項 ・各図を参照。
上野弘輪寺 . 長元3年(1030)以降
典拠:上野国交替実録帳:長元3年(1030)
ニ重多宝塔(長2丈4尺、広2丈4尺、高1丈1尺) 上野国定額寺として以下の4寺が知られる。放光寺・法林寺・弘輪寺・慈廣寺を云う。.詳細不詳。
弘輪寺
近江横川如法堂 天台 長元4年(1031)
典拠:五通記
多宝塔 [根本如法堂、安置多宝塔一基(高さ5尺)、又旧白木小塔(奉納如法経)]:「平安時代仏教建築史の研究」
比叡山
豊前宇佐弥勒寺 天台 後一条院代(長和5年〜長元8年)
(1016−36)
西宝塔 八幡宇佐宮
後一条天皇代、新三昧堂、西常行堂、西宝塔創建。
 ※西宝塔は平面3間の大規模多宝塔
豊前宇佐弥勒寺 天台 後朱雀院代(長元9年〜寛徳2年)
(1036−45)
東宝塔 八幡宇佐宮
後朱雀天皇代、西三重塔、東宝塔創建。(西三重塔は初期弥勒寺伽藍とは別の北伽藍塔)
 ※東宝塔は平面3間の大規模多宝塔
山城平等院 天台 康平4年(1061)供養
典拠:扶桑略記、定家記
多宝塔
本尊:金剛界五仏
平等院:推定多宝塔跡が検出され 、現地では基壇が復元されています。(基壇は推定)、なおこの多宝塔はその推定基壇規模などから「宇治市教育委員会」では「宝塔」形式と推定。
近江延暦寺
 実相院
天台 康平6年供養
典拠:扶桑略記
七宝塔(三昧堂安置)
法華経一部安置
延暦寺実相院は不詳。
山城円宗寺 . 延久2年(1070)供養
典拠:扶桑略記
三尺金銅塔(法華堂安置)
法華経一部安置
円宗寺
山城法勝寺 . 承暦元年(1077)供養
典拠:扶桑略記
七宝多宝塔(法華堂安置)
法華経一部安置
法勝寺
豊前宇佐弥勒寺 天台 永保元年(1081)供養
典拠:百錬抄、榊葉集、御託宣集
新宝塔 法華経を心柱に納む。
八幡宇佐宮
永保元年(1081)後白河天皇御願の新宝塔創建。
 ※東宝塔の北東に位置、東西宝塔と比べ多少小規模と推定。方3間多宝塔。
豊前宇佐弥勒寺 天台 時期不詳 大塔
創建時期不詳ながら、大鳥居東に方5間の大塔があったとされる。
八幡宇佐宮
康和4年(1102)大弐堂(池中の法華三昧堂・前大宰権帥大江匡房願)創建御願。
 ※大塔については不詳。但し応永指図(応永30年)によれば、入側柱は方3間に並び。これから類推して、天台系の方形大塔であったと推定される。(真言系大塔は内側柱は円形に並ぶ。)
山城祇園感神院 天台 承徳2年(1098)供養
典拠:中右記
多宝塔 久安4年(1148)焼亡。
詳細は祇園感神院を参照。
創建時大塔の形式は不明ながら、祇園感神院が天台系であることを勘案すれば、天台大塔形式であった蓋然性は高いと思われる。
但し元徳元年(1331)の「祇園社境内絵図」では下方5間・上円形平面を持つ真言大塔形式に描かれている。何れにしろ大塔であったと思われる。
山城鳥羽殿 . 康和3年(1101)供養
典拠:殿歴
七宝塔
本尊:五仏
天永2年(1111)にも供養の記事あり。
参考:安楽寿院
紀伊高野山大塔
  (2代)
真言 康和5(1103)年供養
典拠:高野春秋、再建記録
多宝塔(高16丈、広8丈、裳層付・・・)
本尊;胎蔵界五仏
久安5年焼亡。保元元年(1156)再興。
「多宝塔1基、高16丈、下壇広8丈、土壇9丈6尺、・・・母屋内柱12本円形、次仏壇柱12本八角、次水輪柱12本円形・・・」とあり規模・母屋柱12本などより、大塔形式であったと思われる。
高野山
山城醍醐大智院 真言 康和6年供養
典拠:醍醐雑事記
多宝塔
本尊:不詳
「平安時代仏教建築史の研究」 :寛治7年(1093)左大臣藤原俊房が越智の地に創建、康和4年(1102)無量光院西の池の下に移転。
醍醐寺
山城鳥羽殿 . 天仁2年(1109)供養
典拠:殿歴、百錬抄
三尺木造多宝塔
舎利安置
参考:安楽寿院
小野曼荼羅寺 真言 天永元年(1110)
典拠:東寺王代記、江都督納言願文集
多宝塔
本尊:大日如来
小野曼荼羅寺
山城鳥羽泉殿
 成菩提院
. 天永2年(1111)供養
典拠:殿暦、江都督納言願文集
多宝塔
本尊:三尺釈迦・多宝
法華経等を刹柱に納む。
参考:安楽寿院
山城仁和寺
 宝塔院
真言 天永2年供養
典拠:仁和寺諸院家記
五丈宝塔
本尊:金剛界五仏
仁和寺(京洛平安期の塔婆)、仁和寺(江戸期以前の五重塔)
宝塔院については不詳。
参考:大和久米寺多宝塔
山城石清水
 護国寺(大塔)
  :西谷大塔
天台 天永3年供養
典拠:中右記、石清水八幡宮記録
多宝塔
本尊:釈迦・多宝
正治元年(1199)焼亡。 形式は不明であるが、天台大塔形式であった可能性が高いと思われる。
詳細は石清水八幡宮の「大塔、小塔」の 関連項目を参照。
山城鳥羽泉殿
 成菩提院
. 天永3年供養
典拠:中右記、殿記
多宝塔 参考:安楽寿院
山城勧修寺
 宝山院
真言 永久3年(1115)供養
典拠:勧修寺旧記
多宝塔
本尊;釈迦・多宝
勧修寺
山城賀茂神宮寺 . 永久4年供養
典拠:百錬抄、殿暦
多宝塔 上賀茂
仁和寺 真言 元永2年(1119)供養
典拠:長秋記
七宝塔 仁和寺(京洛平安期の塔婆)、仁和寺(江戸期以前の五重塔)
参考:大和久米寺多宝塔
山城法界寺 天台 保安元年(1120)供養 . 釈迦・多宝 典拠:中右記。
山城醍醐北尾 真言 保安4年葺始
典拠:醍醐雑事記(巻7)。
多宝塔(檜皮葺)
本尊:宝篋印塔八万四千基
「平安時代仏教建築史の研究」 :遍照院本所は「北尾塔下」とあり、塔は遍照院に附属と云う。遍照院は朽損の後、花台院に修理を加えて遍照院と号したと云う。醍醐北尾
山城醍醐大谷 真言 保安5年供養
典拠:醍醐雑事記
多宝塔(檜皮葺) 醍醐大谷
山城仁和寺
 観音院
真言 天治元年(1124)
典拠:百錬抄、本要記
多宝塔(下層3間)
本尊:大日如来
元暦元年(1184)の指図あり。
元暦元年(1184)の寺蔵古図によると方3間で四天柱の建つ平面図が描かれていると云う。
仁和寺(京洛平安期の塔婆)、仁和寺(江戸期以前の五重塔)
参考:大和久米寺多宝塔
紀伊?熊野山 . 天治2年供養 一尺六寸の七宝塔 法華経 典拠:中右記目録、本朝続文粋。大治2年(1127)にも七宝塔供養あり。
紀伊高野山西塔
  (2代)
真言 大治2年
典拠:中右記、本朝続文粋
本尊:五仏 応永8年(1401)炎上。
高野山
山城賀茂神宮寺(東塔) . 大治3年供養
典拠:百錬抄、中右記
多宝塔 保安元年(1130)木造始。
上賀茂
近江
東坂本円徳院
天台 大治3年供養 . 本尊不詳。典拠:百錬抄。
白河天皇御願、中宮賢子追善のため応徳3年(1086)建立。
近江惣持院
  (4代)
天台 大治5年 多宝塔 典拠:中右記、百錬抄。
比叡山
山城賀茂神宮寺(西塔) . 天慶元年(1131)供養
典拠:百錬抄
. 保延4年(1138)焼亡。
上賀茂
山城石清水
 護国寺(小塔)
天台 長承元年(1132)供養
典拠:石清水末社記
本尊;釈迦・多宝 元治元年(1190)焼亡。
西谷小塔を指す。  創建時の形式は不明。
但し西谷で大塔・小塔と並列する位置関係から、天台大塔(であったと思われる)の大塔に対して、多宝塔(小塔)であったと推測される。
詳細は石清水八幡宮の「大塔、小塔」の 関連項目を参照。
「一遍上人絵伝(正安元年<1299>)」<西谷大塔の向かって左が小塔>
17/08/28追加:
紀伊高野山大伝法院宝塔
真言 長承元年(1132)落慶
典拠:建久2年(1191)「大伝法院事」
. 長承元年(1132)紀伊高野山大伝法院大塔落慶。覚鑁建立。
この大塔については、建久2年(1191)「大伝法院事」では「塔三間四面、中間1丈3尺、次左右間1丈、次終間8尺5寸、内陳八角四面各二本、已上14本也 、八角柱相去各一丈三尺、中央四本柱各相去一丈一尺八寸、母屋柱十二本、内四本口径二尺四寸、八本口径二尺一寸、庇柱二十本口径一尺六寸」とある。総柱間は50尺(15.15m)となり、現在の大塔の総柱間の49.24尺とほぼ同じ大きさである。
平面規模は三間四面であるから方五間で、内部は円形ではなく八角に8本の柱が並んでいたものと解釈される。
 →紀伊根来寺大伝法院、紀伊高野山大伝法院
山城宇治平等院 天台 長承2年
典拠:中右記
本尊:釈迦・多宝 平等院
大和内山永久寺 真言 保延3年(1137)供養
典拠:内山置文
多宝塔
本尊:四方四仏
内山永久寺
13/03/03追加:
土佐長徳寺塔遺構
真言か 久安5年(1149)頃か
(年代の確証はない)
「長徳寺址発掘調査報告書」では「多宝塔跡」と断定するも、実態は「真言大塔」の遺構であろう。 昭和52年塔遺構が発掘される。地方では初出の真言大塔と断定可能と思われる。
塔遺構の外側は一辺5間の方形平面で、その内側に二重の円形平面を持つ。中央には根石群のかたまりがあり、これは四天柱の礎石の根石と思われるが、一方に偏ったものである。
長徳寺多宝塔跡実測図   長徳寺多宝塔跡発掘写真
  → 土佐長徳寺塔遺構
山城白河東殿 . 仁平元年(1151)供養 多宝塔(八角) . 典拠:本朝世紀、百錬抄。
山城賀茂神宮寺(西塔) . 仁平2年供養
典拠:兵範記
七宝塔
本尊:三尺釈迦・多宝
上賀茂
紀伊高野山大塔
  (3代)
真言 保元元年(1156)
典拠:御室相承記、高野春秋
多宝塔 久安5年(1149)造始。大永元年(1521)焼失。
※弘安8年(1285)「高野山曼荼羅供図」では「大塔は方5間、内部に12本の円形柱列、8本の八角柱列、4本の仏壇柱」が描かれているという。
高野山
山城普成仏院 . 安元2年(1176)供養
典拠:百錬抄
. のち天王寺。
「左京七条一坊一町」にあったと思われるも、詳細不詳。
普成仏院
興福寺
 禅定院
. 治承4年(1180)以前
典拠:諸寺縁起集、内山之記
多宝塔 本尊:釈迦・多宝
大和興福寺の「興福寺大乗院→勧学院八角多宝塔」
なお、内山永久寺多宝塔も参照
筑紫安楽寺 . 寿永2年(1183)上棟
典拠:安楽寺草創日記
多宝塔(八角) 安楽寺天満宮

六所宝塔:
 安東:上野:宝塔院:在上野国緑野郡(緑野寺)、江戸期の再興塔現存 → 上野緑野寺跡
 安南:豊前:宝塔院:在豊前国宇佐郡(宇佐神宮)→筥崎神宮寺宝塔に変更 → 八幡宇佐宮 → 筥崎神宮寺
 安西:筑前:宝塔院:在筑前国:(竈門山)太宰府市内山、近年本谷礎石群が発掘され、この遺構が宝塔跡とほぼ断定される。 → 竈門山
 安北:下野;宝塔院:在下野国都賀郡(大慈寺) → 下野大慈寺塔跡
 安中:山城:宝塔院:在比叡山西塔院 → 比叡山
 安総:近江:宝塔院:在比叡山東塔院 → 比叡山

2015/02/20追加:
河内神感寺(推定)多宝塔跡
昭和39年の発掘調査で「三間四面の柱間とその中に環状の7個の礎石が配置される」遺構が発掘される。
基壇は一辺約7m高さ70cmの乱石積基壇である。
礎石配列から判断して、多宝塔跡であることは間違いないと判断される。
 礎石配列:3間四方の側柱礎石の中に7個の礎石を円形に配置する。
これは、創建高野山大塔あるいは根来寺大塔と同様な、宝塔に裳層をつけた発生期の多宝塔形式を示す貴重な遺構 である可能性があり、この意味で大変貴重な遺構であろう。
 → 河内神感寺跡

2015/02/20追加:
「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
 空海が高野山上で構想した「毘盧遮那法界体性塔」は空海入定後「大塔」として実現された。そしてこの塔の形式は、金剛界曼荼羅中、大日如来の象徴である「宝塔」を基としたといわれる。しかし大塔は4次の焼失を経ており、創建大塔の姿はいまだ明確ではない。
 康和5年(1103)再建時の記録である「高野山根本大塔興廃日記」には創建大塔の記録・基壇跡の調査に基づき2代目の大塔を再建していく過程が記される。中には創建及び2代目大塔の総高や柱、相輪の寸法があり、規模や構造の概要を知ることができる。
また近年、久寿3年(1156)再建の3代目大塔を示す「石町卒塔婆供養曼荼羅供指図」(「金沢文庫蔵」)が紹介され、初期の平面構造により迫ることが可能になった。
以上などの資料に基づき復元を試みたのが次の図である。
 高野山創建大塔復元図
一見した印象は後世の多宝塔や根来寺大塔と比べて亀腹が非常に大きいことである。
この姿から、大塔の起源は単層の宝塔にあったじちが強く印象つけられる。
なお、鎌倉期の3代目大塔は瓦葺であるが、2代目大塔は檜皮葺で、創建大塔も檜皮葺の可能性が高いと思われる。
 ※鎌倉期の3代目大塔は上掲の「高野山水屏風右隻」に描かれる。
  高野山水屏風右隻部分図1:中央は根本大塔、下重平面は方5間、上重平面は平面円形である。屋根瓦葺。右端は東塔(多宝塔)。

2015/03/05追加:
○「日本の美術72 古絵図」難波田徹編、至文堂、昭和47年 より
 高野山結界絵図:「御手印縁起 1巻」として重文指定、「金剛峰寺根本縁起」とも云う。
「御手印縁起」は弘仁7年(818)の高野山四至を点定する太政官符と承和元年(824)の弘法大師筆という山上四至点定の文書を持って1巻とする。承和元年の文書に描かれている絵図が「高野山結界絵図」である。
なお本図の巻末に建武2年(1336)の奥書があり、それは後醍醐天皇の宸筆であり、門外不出とされ、そこの所に後醍醐天皇の御手印が加えられている。奥書の内容やその筆跡からして、この1巻は建武2年の書写本と判断される。
残念ながら、太政官符も大師文章も原本とは認めがたいのである。
 高野山結界絵図:中央に根本大塔、その他、金堂、御廟宝塔、大門、天野羽生・高野明神、慈尊院政所まどの初期伽藍が描かれる。
特に特筆すべきは初期と推定される根本大塔の姿が描かれていることである。
但し、承和元年(824)の弘法大師筆と伝える文書と貞観18年(876)ころに大塔完成というと事実との間に時代の齟齬があるが、
文書(絵図)に描かれた根本大塔は初代の大塔の姿である可能性を捨てきれない。
 もし、本図に描く根本大塔が初代の姿であるならば、絵図はひどく摩傷しているが、宝塔(平面円形で方形屋根を架した一重塔)に裳階を付けた様に描かれる。そして現在でいう亀腹は異様に大きく描かれるが、これは亀腹というより、宝塔の塔身の肩の部分がそのまま残っているといった方が正確であろう。まさに単層の宝塔に裳階を付けた形式であったことを強く示唆する姿であろう。
 ※弘法大師御手印縁起について次の「解説」がある。
弘法大師御手印縁起とは、弘仁7(816)年太政官符・同年紀伊国符・高野山四至注文・高野山絵図・承和元(834)年空海遺告・同3年紀伊国判からなる
古文書集で、太政官符と遺告に空海の手印が捺されていることから、御手印縁起と呼ばれているものである。  
本資料では、さらに「遺告真然大徳等」が附属しており、末尾には天正17年(1589)4月21日の木食応其(1536〜1608)の修理銘が記されている。また、高野山絵図(古戸後期の作?)はその後に着色して描かれているが、文字情報はまったく含まれていない。


多宝塔の性格と形態

○「平安時代仏教建築史の研究」清水擴、中央公論美術出版、平成4年、  「第4部 法華経と建築」:「第2章 多宝塔の性格と形態」より

1)多宝塔のわが国に於ける流布は平安期まで待たねばならない。(遺構は鎌倉から)
多宝塔の始源は天台(最澄)の「六所宝塔」であり、それは文献上、明らかに「多宝塔」と呼ばれていた。
その性格は「法華経塔」(法華経による鎮護国家)であり、またその安置仏は多宝仏が想定され、「多宝塔」の名称はこの安置仏に由来すると思われる。

2)一方、空海による新方式の塔は高野山、神護寺、安祥寺、貞観寺などに建立され、いずれも「毘盧遮那」(大日如来)安置で、大日如来を象徴する塔であり「毘盧遮那」の名称を付している。
しかし、この「毘盧遮那」塔は承平元年(931)の「神護寺実録帳」を最後に文献上には表れなくなる。例えば勧修寺塔<天暦元年(947)安置仏(金剛界五仏が供養>では「多宝塔」の名称が使われ、その後の高野山大塔・西塔も文献上は「多宝塔」と表記されるように変化する。
その理由は、おそらく、10世紀中葉までに、真言の塔と天台の塔との間に、内容・形式での近似化という現象が生じたものと考えられる。
天台の塔が密教化(円仁による台蜜化)していく一環で、大日如来を安置する塔へと変化したものと思われる。(叡山の東西塔も大日を安置)
但し、その後天台の多宝塔は、寛弘4年(1007)の木幡浄妙寺多宝塔を初例に、釈迦・多宝の安置に主流は変っていく。
※釈迦・多宝の二尊を主尊とするその初期の例は、恵心僧都源信再興の比叡山横川如意堂(永延2年・988)がある。比叡山参照。

3)創建時高野山根本大塔の復元:
平面方5間で、内部に水輪柱12本(円形に12本)、さらにその内部に母屋柱12本(円形に12本)、一番尾内部に4本の四天柱を持ついわゆる「大塔」形式と復元できる。
なお
高野山創建大塔については各氏の復元図がある。
「塔における両界曼荼羅空間の展開−平安時代の層塔を中心に−」より:
 高野山大塔各氏復元図
「金剛峯寺建立修行縁起」(康保5年・968)、「紀伊国金剛峯寺解案」(寛弘3年・1006)、「高野山根本大塔興廃日記」(嘉保2年・1095、康和2年・1100)などにあり、特に「高野山根本大塔興廃日記」 などに基づき復元がなされているようです。
詳しい解説は表記「論文」を参照いただくとして、各氏に共通するのは、高野山根本大塔は下層平面5間、入側柱は円形に12本、と中心に4本の柱で母屋を形成することは共通しているようで ある。下層の心柱の有無、仏壇の構成などに見解の相異がある。

4)創建時惣持院多宝塔の復元:
「山門堂舎記」では
「捴持院、在戒壇院西壇上、法名法華仏頂捴持院、
葺檜皮多宝塔、院安置体胎蔵五仏、
同五間堂一宇、(灌頂堂也、塔東)、安置胎蔵金剛曼荼羅一禎、
同方五間堂一宇、(真言堂也、塔西)、安置熾盛光大曼荼羅一禎、・・・以下略・・・
 とされ、創建時の多宝塔であると考えられる。
 惣持院指図(葛川明王院資料)」寛喜元年(1229))では
惣持院多宝塔の平面は方5間の外観で、内部に方3間・12本、さらに内部に1間・4本の四天柱を持つ平面で著されている。
このことから、創建時惣持院多宝塔は「方5間」の大規模多宝塔であったと推定される。
また承徳2年(1098)供養の祇園感神院多宝塔では「中右記」記事より、塔下層は天台系の求心形の方5間であったことは確実であろう。

5)一方、比叡山・高野山などは別格として、大規模な大塔形式の塔が企画・建立されたが、特別な寺院以外は、おそらく大塔の建立 は技術面・経済面で困難さが付き纏い、一般的には小規模なあるいは「簡略な」塔として、下層方3間・上層円形平面の「多宝塔」が数多く建立されていったものと推測される。この形式は現在遺構として残る多宝塔とほぼ同一のものであった。
なお当初真言の大塔は独自の名称で呼ばれたが、真言大塔と天台大塔は規模・形式・内容の面でほぼ共通化し、真言の塔も天台系の多宝塔の名称を受け入れていく ことになる。

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2009/02/04追加:
注:近年、竈門山宝満山遺跡で本谷礎石群が発見され、2008年発掘調査調査、一辺25mの基壇上に一辺8mの1間四面堂形式の礎石建物跡が発見される。この遺跡は「安西:筑前宝塔院」の遺構の可能性があるとされる。 (宝塔跡とほぼ断定される。)
もしそうであるならば、この「宝塔」は平面5間の天台大塔形式や平面円形の一重塔の宝塔ではなくて、平面3間・上重円形の多宝塔か上重も方形の二重塔形式であったことになる。
 


創建時惣持院多宝塔の形式についての論争
 

浜島説:
下層:方5間、上層方3間の「方形ニ重塔」形式
清水説:
下層方5間、上層円筒形の「大塔」形
比叡山東塔絵図」 (鎌倉中期と推定):比叡山
創建時の形式を著すものと推定。平安期あるいは創建時大塔の形式を反映している可能性は十分考えられる。
私見)右の疑問はあろうが、「大塔」形式ではなくて、上層方3間の方形ニ重塔形式で表現されていることは重い事実であろう。 この絵図は「方形ニ重塔」であった事実を反映していると考えられる。
比叡山東塔絵図」 については正確性に疑問がある。少なくも寛喜元年(1229)では方5間で、多宝塔と同一規模であった灌頂堂・真言堂が3間で描かれ、また屋根が寄棟( 本来は宝形と推定される)であるのは不審。舞台前方に存在した楼門が無いなど信憑性に疑問がある。
石清水八幡宮曼荼羅」 (推定室町初期):石清水八幡宮
宝塔院多宝塔図:
「下層5間の方形ニ重塔」で描かれている。石清水護国寺は天台系でかつ王城守護の特別な大寺で、天台系の「方形ニ重塔 」を継承している可能性は十分考えられる。
絵は「下層5間の方形ニ重塔」として描かれているが、「石清水八幡宮曼荼羅」 より古い鎌倉期の「一遍上人絵伝」では「多宝塔」形式で描かれている。また「方形ニ重塔」が平安期に遡る根拠はない。
「一遍上人絵伝」:正安元年(1299)の東谷宝塔部分図、参考:石清水八幡宮のページの宝塔院及び大塔の項
上記の「宮曼荼羅図」と同一の宝塔院多宝塔図:
ここでは、下層3間・上層円形の「多宝塔」形式で描かれている。
この「絵伝」より「宮曼荼羅図」の方の写実性が高いとも思われる。
宝塔院多宝塔が下層3間・上層円形の「多宝塔」形式で描かれている。但し正安以降(「絵伝」)室町初頭(「宮曼荼羅」)の間に、多宝塔形式から方形大塔形式に造替されたことは考えられる。
一遍上人絵伝:正安元年(1299)の西谷大塔部分図、参考:石清水八幡宮のページの宝塔院及び大塔の項
「一遍上人絵伝」で描く「大塔」では、その形式は上層が方形屋根で相輪を載せていること以外には何も分かりません。 「一遍上人絵伝」:本殿・多宝塔
「一遍上人絵伝」:西谷:左;小塔、右:大塔
長保元年(999)供養慈徳寺多宝塔
「是山上惣持院体」(中右記・中御門宗忠)とあり、特殊な形態の塔(「方形ニ重塔」)であった。
私見)宗忠の祇園感神院多宝塔への特別な感想が記録に残っていないことと祇園感神院塔が「方形ニ重塔 」であったかどうかは別の事と思われる。
惣持院塔と慈徳寺塔は通常の多宝塔形式ではなかったのは確かであろう。しかし、宗忠が惣持院塔と同じく特殊な塔であろうと思われる祇園感神院「多宝塔」を拝したときに特別な感想を漏らしてないのは不審。
当然なんらかの感想があるべきであるが、宗忠が祇園感神院塔に何の感想も記録していないのは感神院塔は「方形ニ重塔」では無かったのでないか。
祇園感神院多宝塔:祇園社境内絵図:全図 、祇園社境内絵図2部分図、2008/02/27追加:祇園社境内絵図3(部分図) ・・・カラー・高精細
「大塔」形式であるが、再興前も方5間であったこと及び天台寺院であることを考慮すれば、「方形ニ重塔 」であった可能性は高い。
私見)どちらであったのかは分からないが、記録上から下層が方5間の求心形であったのが事実ならば、「方形ニ重塔」であった可能性はかなり高いと思われる。
再興前も下層方5間であったのは間違いないが、「方形ニ重塔 」では無くて「大塔」であろう。絵図では多宝大塔とある。
摂津住吉神宮寺多宝塔:住吉神宮寺西塔写真
近世の例であるが、天台「方形ニ重塔」の唯一の遺構。
私見)住吉神宮寺には「方形ニ重塔」があった写真や遺構が残る。天台の重要寺院では「方形ニ重塔 」の伝統が残り、そしてその伝統は創建惣持院大塔を引継ぐものと考えられる。
「方形ニ重塔」が平安期にまで遡るのかどうかは不明。
創建慈徳寺塔・創建惣持院塔は「大塔」形式と思われる。
鎌倉鶴岡八幡宮大塔:鶴岡大塔  
私見)明治維新の神仏分離で取り壊されたが、残された写真等などから「大塔」の貴重な遺構(但し江戸前期)であったと思われる。
なお近世では鶴岡八幡宮は新義・古義両義の真言であったと思われる。
宇佐八幡宮
康和4年(1102)大弐堂(池中の法華三昧堂・前大宰権帥大江匡房願)創建御願。
 ※大塔については創建時期不詳。 但し応永指図(応永30年)によれば、入側柱は方3間に並び。これから類推して、天台系の方形大塔であったと推定される。(真言系大塔は内側柱は円形に並ぶ。)  □大塔社頭指図:宇佐神宮蔵<応永年中>
なお東西の宝塔、新宝塔の平安期創建3基は応永指図によると方3間の多宝塔と指図されているため多宝塔形式の塔であろう。
創建時法華惣持院多宝塔形式に関する清水説の結論:
下層方5間、上層円筒形の「大塔」形式である。但し真言の「大塔」のように下層に円形平面を残す建築でなく、天台の特徴的な求心形平面5間を下層とするものであった。承徳2年(1098)再興の祇園感神院大塔もこの形式であった。
私見)
「惣持院灌頂指図」(葛川明王院史料・寛喜元年(1229))では、惣持院多宝塔の平面は方5間の外観で、内部に方3間・12本、さらに内部に1間・4本の四天柱を持つ平面で著されている。
あるいは
承徳2年(1098)供養の祇園感神院多宝塔では「中右記」記事より、塔下層は天台系の求心形の方5間であったことは確実であろう。
以上のような史料事実及び天台では一貫して「多宝塔」の表記が用いられる事実から、以上の結論に至ったものと思われる。
確かに、「多宝塔」あるいは「大塔」の構造上、下層は「宝塔」に「裳階」を付設した構造ではなくて、層塔と同じく「多宝塔」「大塔」は「積上げ」で建築されるため、下層は求心形方5間、上層は円形平面という建築は成立するのも事実であろう。
しかしながら、天台の創建大塔(多宝塔)と真言の創建大塔(毘盧遮那仏塔)の形式は、その名称が違っていたように、外観も違っていたのではないかと考えるのが自然であろう。すなわち
天台大塔は法華経安置のため、方5間堂に方3間の二層を載せ・相輪を載せる形式で構想された。
一方真言大塔は大日如来そのもの、もしくは安置のためであり、中世の遺構ではあるが、根来に残るような形式で構想された。
天台の密教化あるいは大規模塔の建立の困難さなどから、現在の真言大塔の形式を残す「多宝塔」(下層方3間)形式に収斂していったのではないかと思われる。
但し、創建時天台大塔形式は全く捨てられたのではなくて、「鎮護国家」に関わるような天台の主要寺院の塔(例えば石清水護国寺宝塔院・西谷大塔、祇園感神院など)では「創建時天台大塔」の形式が伝統として取り入れられたのではないかと思われる。 このことは真言の大寺では「真言大塔形式」の「大塔」が建立されていたということと同じことと思われる。

 

大塔概説

◎「日本建築史基礎資料集成 十二 塔婆U」太田博太郎責任編集、中央公論美術出版、平成11年 に 所収
 概説(多宝塔): より

現在では、軸部平面が円形の一重二階の塔(屋根は方形)を「宝塔」形式、軸部下重方形、上重円形の二重塔を「多宝塔」形式と定義する。
本来「多宝塔」とは形式を表す名称ではなくて、法華経の見宝塔品に基づき釈迦・多宝二仏を本尊とした塔に対する名称であったと思われる。
 ※一般の「多宝塔」は下重が方3間、上重は12本の柱で円形の軸部を造る。軒・屋根は上下とも方形とする。
  下屋根と上縁との間は亀腹を造る。心柱は基本的に下重梁の上から建つ。
 なお
「大塔」と呼ばれる形式は基本的には「多宝塔」形式と同一と思われるが、規模は大きく、下重は方5間とする。
(紀伊根来寺大塔は一辺49尺2寸5分、下重は方5間、内部に12本の柱を円形に建て、その中に四天柱を立てる。
高野山東塔(大塔)は一辺80尺、下重は方5間で、内部には12本の円形柱が2重に並び、その中に四天柱を立てる。
高野山西塔は一辺46尺9寸、下重は方5間で、内部は入側柱(12本)が立ち、その中に四天柱が立つ。要するに内部は円形ではなくて、下重は方5間総柱の形式であるが、何時からこの形式なのかは不明。)
    →高野山大塔・西塔指図:「高野春秋」所載
 私見)※下重方5間、上重方3間の二重塔は「天台大塔」と呼称すべきであろう。唯一の遺例として住吉神宮寺西塔(切幡寺大塔)があり、
  比叡山惣持院もこの形式で再興された。
 私見)※近年、一部地方で、平面が方形(あるいは多角形)の一重二階の塔の建立がある。平面が円形でない以上、この形式は「宝塔」
  では無くて「篋塔」とでも呼称すべきであろう。・・・「篋塔の概念について」を参照

 空海は高野山で「毘盧遮那法界体性塔」の建立に着手し、その後も高弟たちによって、貞観年中頃、神護寺・貞観寺・安祥寺などで同じ名称同じ構造(「大塔」形式と推定される)と思われる塔が建立された。
  ※弘法大師、「勧進奉造仏塔知識書」では、
   この塔は「毘盧遮那法界体性塔」といい、毘盧遮那仏(大日如来)を具現する塔で、東塔に胎蔵界五仏、西塔に金剛界五仏を祀り、
   両塔をあわせ両界不二の密教根本教理を表そうと構想したという。
しかしこの塔は大規模で構造が難しく、普及するには至らず、(一応は)これを小型化した下重は方3間で内部は四天王柱しかない構造の「多宝塔」形式の塔が広く建てられるようになった。
一方、元来この塔の形式は両界曼荼羅のうちの金剛界の三昧耶形によるものとされ、この三昧耶形は一種の宝塔形式であるが、この形式を屋外の大規模建築として建築すると構造上からも機能上からも不都合であり、裳階を付けて二重の「多宝塔」形式にしたものと(一応は)考えられる。

 一方、最澄は比叡山で新しい塔の建築に取り組んでいた。六所宝塔のうち、最初期に完成した上野緑野寺と下野大慈寺塔は「一級宝塔」と「朱書」するも、形式は不明。但し完成時期などから大規模塔ではないと推測される。
近江宝塔院(後の東塔院・円仁の時代は惣持院)の形式も不明であるが、後世の資料(「比叡山東塔絵図」「惣持院灌頂指図」)などから、概ね下重方5間・上重方3間の大規模二重塔と考えられる。
筑前宝塔院は承平3年(933)に竈門山寺に建立され、豊前宝塔院は筥崎神宮寺に計画された。この形式は「大宰府牒」(承平7年)では二重塔で下重は法花三昧堂(方5間)形式で上重には千部経王安置とされる。

塔の形式としての「宝塔」「多宝塔」という「現在」の区分は、古くからの区分ではなく、近世初頭からのことであり、中世までは一重宝塔も二重多宝塔も多宝塔と呼ばれていたと思われる。また宝塔は広く多層塔の美称として使われていたのは広く知られているところである。
ところで、「真言大塔」とも言うべき空海の構想した「毘盧遮那法界体性塔」が多宝塔と呼ばれ、さらには「大日如来の三昧耶形を具現」した真言密教の塔を、法華天台系に由来すると思われる「多宝塔」と云われるようになった時期・理由などは良く分からない。


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