比   叡   山

比叡山延暦寺(近江東塔・山城西塔・近江横川・坂本)・比叡山東照宮・比叡山日吉社(山王権現)・坂本西教寺

比叡山近江東塔

比叡山東塔古図・沿革

2020/10/06追加:
「特別展 聖域の美ー中世寺社境内の風景-」大和文華館、2019
 比叡山東塔図:京都国立博物館蔵、99×75cm、鎌倉期
「作品解説」
本図は大きく傷み、剥落して判読不明となっている個所も多い。
中央部は「■持院」(惣持院)であり、方形二重の塔に回廊が付される。向かって右には「着衣堂」「戒壇院」(判読しずらい)とあり、上部には「観音堂」とある。
さらに右には「四王院」「講堂」「常行堂」とあり、中央の建物には「■■法花堂」の色紙形が付される。
「惣持院」に向かって左下には「山王院」「千手堂」とあり、下部には「千手井」と記される水舎がある。「惣持院」の左隣は「阿闍梨房」、上部の建物は「浄土院」であろう。左下には「弥勒堂」、上部には「■迦堂」がある。画面左下の僧侶は「慈覚大師」と注記される。
 本図の景観年代は中央の方形二重塔の解釈を巡って論争がある。即ち、円仁によって改築された「惣持院」は本図に示される方形二重塔が「葺檜皮多宝塔一基」であり実景であるというものであるが、一方「天台座主記」に元亨3年(1323)「惣持院三重塔」の焼失記事があり、実際は「惣持院塔」は三重塔であったというもので実景ではないというものである。元亨3年に焼失した塔は建保6年(1218)に再建されたものであるから、本図は当時の景観ではないという。
しかし、景観年代は別にして、技法・材質などを仔細に観察すれば、本図は鎌倉中期の作成と推定される。

○現地案内板 より
比叡山東塔絵図(鎌倉初期):
下層方5間、上層方3間、檜皮葺、相輪を載せる。仏舎利・胎蔵界5仏を安置。
天台大塔の最古の絵図とされる。
2004/11/03撮影:
 近江比叡山東塔古図:比叡山東塔絵図:左図拡大図 :鎌倉中期
なお、
本図は上に掲載の比叡山東塔図の惣持院部分の模写である。

天台大塔、安総:近江・宝塔院

・創建法華惣持院(東塔):
弘仁12年(821)心柱立(典拠:東塔縁起、叡山大師伝)、多宝塔:後、惣持院 と称する。多宝塔と記載されるも、形式は不明。しかし天台大塔形式の可能性が高いと思われる。
・2代法華惣持院(東塔):
仁寿3年(853)〜貞観4年(862)、多宝塔、本尊胎蔵界五仏、典拠:東塔縁起。
・3代法華惣持院(東塔):
天禄2年(971)供養(典拠:日本紀略)、大治年中(1126〜)焼亡。
・4代法華惣持院(東塔):
大治5年、多宝塔、典拠:中右記、百錬抄。

天台大塔形式:
下重は方5間の方形、上重は方3間の二重塔である。
(参考)天台大塔形式の唯一の現存例として摂津住吉社西塔)現阿波切幡寺大塔がある。
 → 摂津住吉社東西塔・阿波切幡寺大塔

なお、創建時の惣持院多宝塔形式については以下の見解もある。
「平安時代仏教建築史の研究」清水擴 では以下の見解を採る。
「山門堂舎記」では
「捴持院、在戒壇院西壇上、法名法華仏頂捴持院、
葺檜皮多宝塔、院安置体胎蔵五仏、
同五間堂一宇、(灌頂堂也、塔東)、安置胎蔵金剛曼荼羅一禎、
同方五間堂一宇、(真言堂也、塔西)、安置熾盛光大曼荼羅一禎、・・・以下略・・・
 とされ、創建時の多宝塔であると考えられる。
  「惣持院指図(葛川明王院資料)」寛喜元年(1229))では
惣持院多宝塔の平面は方5間の外観で、内部に方3間・12本、さらに内部に1間・4本の四天柱を持つ平面で著されている。
このことから、創建時惣持院多宝塔は「方5間」の大規模多宝塔であったと推定される。
また承徳2年(1098)供養の祇園感神院多宝塔では「中右記」記事より、塔下層は天台系の求心形の方5間であったことは確実であろう。

昭和再興天台大塔
法華総持院東塔:
元亀2年(1571)焼失。昭和55年約400年ぶりに再興。佐川急便はじめ信徒の寄付で法華総持院として復興。
総高約30m、総檜造り。
上層:仏舎利と法華経千部、般若心経50万巻、千万遍の念仏名号を安置、下層:胎蔵界大日如来五仏を安置と云う。
2001/04/28撮影:
 比叡山東塔1     比叡山東塔2     比叡山東塔3
2004/11/03撮影:
 近江比叡山東塔
2010/05/23追加;
 近江比叡山東塔空撮:朝日新聞報道写真
2013/08/30追加:
 比叡山東塔絵葉書:東塔竣工直後頃の絵葉書と推定される。(s_minaga蔵、入手経路は失念)

2021/03/31撮影:
法華惣持院東塔
東塔(昭和55年再興)を中心に、北側に阿弥陀堂(昭和12年再興)と寂光堂、南側に灌頂堂が配され、回廊でつながる。
東塔:昭和55年再興、木造、高さ約30m。
本尊は五智如来(大日如来、阿閦尿来、宝生如来、観自在王如来、不空成就如来)。
塔の上層部には仏舎利と法華経を安置。
塔は元亀2年(1571)織田信長による焼き討ちで焼失、昭和55年、約400年振りに再建される。
法華惣持院東塔11
法華惣持院東塔12
法華惣持院東塔13
法華惣持院東塔14:左図拡大図
法華惣持院東塔15
法華惣持院東塔16
法華惣持院東塔17
法華惣持院東塔18
法華惣持院東塔19
法華惣持院東塔20
法華惣持院東塔21
法華惣持院東塔22
法華惣持院東塔23
法華惣持院東塔24
法華惣持院東塔25
法華惣持院東塔26

 法華惣持院阿弥陀堂1     法華惣持院阿弥陀堂2
 法華惣持院寂光堂:推定
 法華惣持院灌頂堂:灌頂堂は右端中央に写る屋根の建物と推定される。手前朱塗りの建物ではないと思われる。
 法華惣持院廻廊・廻廊門     法華惣持院寺務所

◆六所宝塔:
 安東:上野:宝塔院:在上野国緑野郡(緑野寺)、江戸期の再興塔現存 上野緑野寺跡
 安南:豊前:宝塔院:在豊前国宇佐郡(宇佐神宮)→筥崎神宮寺宝塔に変更 八幡宇佐宮 筥崎神宮寺
 安西:筑前:宝塔院:在筑前国:(竈門山)太宰府市内山、竈門神社下宮に礎石残存というも、
                     近年本谷礎石群が発掘され、この遺構の可能性が取りざたされる。竈門山
 安北:下野;宝塔院:在下野国都賀郡(大慈寺) 下野大慈寺塔跡
 安中:山城:宝塔院:在比叡山西塔院
 安総:近江:宝塔院:在比叡山東塔院

筥崎神宮寺宝塔造立の事情は以下に詳細がある。
承平7年(937)「大宰府牒」:(「石清水八幡宮文書之二」所収)
「府牒 筥崎宮 応令造立神宮寺多宝塔一基事
 牒 得千部寺僧兼祐申状偁、謹案天台伝教大師去弘仁八年遺記云、為六道衆生直至仏道発願、於日本国書写六千部法華経、建立六箇所宝塔、一一(?)塔上層安置千部経王、下壇令修法華三昧、其安置建立之処、叡山東西塔、上野下野国、筑前竈門山、豊前宇佐弥勒寺者、而大師在世及滅後僅所成五処塔也、就中竈門山分塔、沙弥証覚在俗之日、以去承平3年造立已成。
上安千部経、下修三昧法、宛如大師本願、未成一処塔者、謂字弥勒寺分也、伝聞弥勒寺未究千部、書写二百部之間、去寛平年中悉焼亡乎、爰末葉弟子兼祐、添歎大師遺書之未遂、寸心発企念、弥勒寺分経火滅之替、於筥崎神宮寺、新書備千部、造一基宝塔、於上層安置千部、下間令修三昧、以可果件願、然則始自承平5年、且唱於知識令写経王、且運材木捜於彼宮辺巳了、彼宮此宮雖其地異、早欲造件塔、仏事之功徳、凡為鎮国利民也者、府判依謂、宮祭之状、早造立将令遂本願、故牒、
       承平7年10月4日 大典惟宗朝臣(花押) 参議師橘朝臣『公頼』」

比叡山東塔諸伽藍

◇比叡山根本中堂:
天正17年豊臣氏によって再興、寛永19年(1642)<寛永7年とも>家光により大改造。国宝。
桁行11間梁間6間・単層・入母屋造・銅板葺・前面左右に回廊を付設。
2001/04/28撮影
 比叡山根本中堂1     比叡山根本中堂2     比叡山根本中堂3

◇東塔文殊楼:
3間×2間、重層、入母屋造、屋根銅板葺き。建築時期は寛永まで遡らずと云う。
2021/03/31撮影:
 東塔文殊楼1     東塔文殊楼2     東塔文殊楼3     東塔文殊楼4     東塔文殊楼5

◇東塔大講堂
2007/08/12追加:
昭和31年焼失大講堂
天正17年(1589)頃、根本中堂と同一時期の建立(寛永10年再興とも云う)。重層・入母屋造。丹塗。
昭和31年10月焼失。
 東塔焼失大講堂1:「滋賀県写真帖」、滋賀県、明43年 より
 東塔焼失大講堂2    東塔焼失大講堂内部:「特別保護建造物及国宝帖」内務省宗教局編、東京:審美書院、明43年 より
 東塔焼失大講堂3:「比叡山写真帖」赤松円麟、坂本村:延暦寺事務所、明治45年 より :2008/12/31写真入替
現大講堂(重文)
梁間11間梁間9間、入母屋造屋根銅板葺、寛永11年(1634)の建築。
現大講堂は山下坂本にある東照宮の本地堂(讃仏堂)を移築する。昭和36年移築竣工。
本尊は大日如来。本尊の両脇には向かって左から日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍の像を安置。これ等の像はいずれも 関係各宗派から寄進されたものと云う。
 坂本東照宮讃仏堂:「比叡山写真帖」赤松円麟、坂本村:延暦寺事務所、明治45年 より
   :東照大権現本地堂:山上東塔大講堂として移築前の現地にある讃仏堂写真である。
   讃仏堂は東照宮社殿に向い右側(北)にあった。現在は比叡山高校グランドの位置と思れる。
   (参道を挟み、讃仏堂南には戒蔵院、観樹院、中道庵がある。)

賛佛堂の旧位置は「坂本里坊の図」で確認できる。東照宮本地堂(薬師堂)であったという。
2021/03/31撮影:
 東塔大講堂1     東塔大講堂2     東塔大講堂3     東塔大講堂4
 東塔大講堂5     東塔大講堂6     東塔大講堂7     東塔大講堂鐘楼

◇東塔戒壇院
重文、3間×3間、一重、宝形造、屋根栩葺き。裳階付き。石積基壇の上に建ち、正面に軒唐破風を付設。延宝6年(1678)に建立と云われる。
内部は石敷、中央3間に石檀を築き、釈迦如来・文殊菩薩・弥勒菩薩を安置する。
「比叡山」昭和29年では慶長5年(1604)の建築という。
2021/03/31撮影:
 東塔戒壇院1     東塔戒壇院2     東塔戒壇院3     東塔戒壇院4
 東塔戒壇院5     東塔戒壇院6     東塔戒壇院7     東塔戒壇院鐘楼

◇東塔山王院
叡山第六祖智証大師(圓珍)の住坊であった。後唐院、千手院とも称する。
後世、慈覚大師(圓仁)派と圓珍派の学僧間で紛争が起こり、圓珍派はこの山王院から智証大師の木像を背負い、園城寺に移住したと伝える。
境内に山王権現を祀るともいうが、よくわからない。
2021/03/31撮影:
 東塔山王院1     東塔山王院2     東塔山王院3

◇東塔浄土院
伝教大師廟所は、正面3間(8m)、側面3間(8m)、宝形造、屋根銅板葺。外観は礎盤・台輪・火頭窓が備わった禅宗様建築である。
内部中央は1間(3m45cm)四方の堂内堂であり、中央四天柱間を桟唐戸で閉ざして周囲に高欄を廻らす。
つまり、外部から堂内に入っても、さらなる密閉空間を形成する。
外陣の床は瓦敷。御廟所の建立年代は、表門・拝殿と同じく寛文元年(1661)頃の建立と推定される。
なお、廟所は重文指定されていると思われる。
2021/03/31撮影:
 東塔浄土院
 浄土院山門拝所:山門の奥が廟所拝所、拝所の後に宝形造の宝珠が見えるが、その堂宇が伝教大師廟所である。
 ※拝所を廟所と思い込み廟所は実見せず、帰宅して初めて拝所の後に廟所があることに気づく。迂闊であった。
  ※西塔浄土院廟所:某サイトから転載
 東塔浄土院山門     東塔浄土院拝所1     東塔浄土院拝所2     東塔浄土院拝所3
 東塔浄土院政所1     東塔浄土院政所2

◇東塔その他の堂宇
2021/03/31撮影:
 東塔大黒堂     東塔萬拝堂     東塔星峰稲荷:本尊は吒枳尼天
 東塔総持坊     東塔蓮如堂

無動寺谷

貞観7年(865)相応は叡南(えなみ)に明王堂(無動寺)を建立し、自刻の不動明王像を本尊として安置した。(『天台南山無動寺建立和尚伝』)。
これが無動寺谷の始りである。以後、千日回峯修験の中心地となる。
 ※無動寺谷は、回峯行者の拠点であり不動信仰の谷である。「無動」とは、不動、不動明王を意味する。
 ※無動寺谷は東塔に属する。また、叡南(えなみ)、南山とも呼ばれ、天台別院とも呼ばる。
 ※無動寺谷大乗院は親鸞の旧跡である。
  親鸞は最初に無動寺谷大乗院に入り、ここで晩学するという。
  大乗院には持仏と言われる鉈作の阿弥陀像と、親鸞身代りの蕎麦喰いの木像があるという。
   →西谷聖光院(親鸞旧跡)を参照
 ※相応和尚は葛川明王院、朽木神宮寺を開くと伝える。

2021/03/31撮影:
 無動寺谷閼伽井     無動寺谷建立院:入口の写真であり、その先は未見。
 無動寺谷明王堂1     無動寺谷明王堂2     無動寺谷明王堂3     明王堂鐘楼
 無動寺谷法曼院1     無動寺谷法曼院2     無動寺谷法曼院3
 無動寺谷護摩堂1:背後向かって左の建物は法曼院     無動寺谷護摩堂2:向かって右の建物は寶珠院
 無動寺谷寶珠院1     無動寺谷寶珠院2
 親鸞旧跡大乗院
  無動寺谷大乗院1     無動寺谷大乗院2     無動寺谷大乗院3
 相應和上入寂地      無動寺谷穴太衆積石垣
 無動寺谷玉照院1     無動寺谷玉照院2     無動寺谷玉照院3     無動寺谷玉照院4
 無動寺谷松林院1     無動寺谷松林院2     無動寺谷松林院3
 無動寺谷弁財天1     無動寺谷弁財天2     無動寺谷弁財天3     無動寺谷弁財天4     無動寺谷弁財天5


比叡山山城西塔

相輪橖(トウ):
安中:山城:宝塔院:
延長2年(924)露盤造、宝塔形式、本尊五仏、典拠:日本高僧伝要文抄

現在は明治28年改修という相輪橖(トウ)(重文)がある。
高さ約10m(35尺)、<高さ13,5mとも云うが、これは台座?を含む総高とも思われる?)、青銅製。
明治28年大改修・殆ど改鋳され旧観を一新すると云う。
※今の橖は明治28年に全部改鋳され、古い部分は一つもない。弘仁11年(820)の文字ある銘板もこの時の改鋳らしく新しい。
山麓の「叡山文庫」に以前の銘板が取り付けられたが、これも江戸中期のものと思われる。
古記録や古図から見て、現在の相輪橖(トウ)は古い形式が失われていると思われる。
 (「比叡山」比叡山執行部編集、昭和29年初版・昭和49年再改版)
橖(トウ)内には法華経、大日経などを安置という。
○「比叡山写真帖」赤松円麟、坂本村:延暦寺事務所、明治45年 より
 西塔相輪橖(トウ)

2021/03/31撮影:
◇相輪橖
明治25年に改鋳が検討され、明治28年頃に完成する。青銅製、高さ11.65m。重文。
礎石の上に木製の心柱を建て、擦菅・受花・九輪・火焔付宝珠を順に被せた構造である。
要するに、木造塔婆の相輪と同じ構造である。
 比叡山西塔相輪橖11     比叡山西塔相輪橖12     比叡山西塔相輪橖13     比叡山西塔相輪橖14
 比叡山西塔相輪橖15     比叡山西塔相輪橖16     比叡山西塔相輪橖17     比叡山西塔相輪橖18
 比叡山西塔相輪橖19     比叡山西塔相輪橖20

◇西塔釈迦堂:
南北朝期の建立・重文。転法輪堂。桁行7間梁間8間・単層・入母屋造・銅板葺で西塔の中心をなす堂である。
元園城寺の金堂で秀吉の命により山麓園城寺より移築する。
2001/04/28撮影:
 比叡山西塔釈迦堂
2021/03/31撮影:
 西塔釈迦堂1     西塔釈迦堂2     西塔釈迦堂3     西塔釈迦堂4     西塔釈迦堂5
 西塔釈迦堂6     西塔釈迦堂7     西塔釈迦堂鐘楼1     西塔釈迦堂鐘楼2

◇西塔常行堂・法華堂(にない堂)
◇西塔法華堂:重文、文禄4年(1595)建立。本尊普賢菩薩。
五間×五間、一重、宝形造、屋根栩葺、正面に一間の向拝付設。外観は蔀戸と板唐戸を用いる。
隣の常行堂も同形式で、桁行四間、梁間一間、唐破風造の廊下で結ぶ。
◇西塔常行堂:重文、文禄4年(1595)建立。本尊阿弥陀如来。
五間×五間、一重、宝形造、屋根栩葺、正面に一間の向拝付設。外観は蔀戸と板唐戸を用いる。
◇親鸞旧跡:西塔聖光院跡
 親鸞は叡山で20年間修行するという。
 親鸞は最初に無動寺谷大乗院(無動寺谷大乗院を参照)に入り、ここで晩学するという。
大乗院には持仏と言われる鉈作の阿弥陀像と、親鸞身代りの蕎麦喰いの木像があるという。
 その後親鸞は、西塔聖光院において修行すると伝える。
おそらくは常行堂の堂僧であったのであろう。常行堂は阿弥陀如来を祀り、不断念仏が執行される。
 そして親鸞は、主に慈円が検校であった横川の楞厳三昧院の常行堂において、不断念仏を修する堂僧として勉学に精励したと推測される。これは恵信尼公の消息より推察されることである。
 にない堂の前方(南)が西塔聖光院である。箕淵弁財天の附近に聖光院跡の石碑が残り、新しい親鸞上人修行の地の石碑も建つ。
 なお、箕淵弁財天は、無動寺弁天堂と横川箸塚弁財天を合わせ、比叡山三弁天の一つとされる。
◇西塔椿堂
聖徳太子が比叡山に登り、その時使用した椿の杖をこの地に挿しておいたところ、その杖が芽を出し大きく育ったという。
その因縁からこの堂が椿堂と名づけられたという。本尊は千手観音。
◇西塔恵亮堂
江戸初期の建築という。恵亮和尚を祀る。
2021/03/31撮影:
 西塔にない堂1     西塔にない堂2     西塔にない堂3     西塔にない堂4     西塔にない堂5
 西塔にない堂6     西塔にない堂7
 西塔法華堂1      西塔法華堂2      西塔法華堂3      西塔法華堂4      西塔法華堂5
 西塔常行堂1      西塔常行堂2      西塔常行堂3      西塔常行堂4
 親鸞旧跡聖光院
  西塔聖光院跡
 西塔椿堂1     西塔椿堂2     西塔椿堂鐘楼
 西塔恵亮堂1     西塔恵亮堂2
 西塔政所      西塔居士林:確証はない
 比叡山山中玉体杉

西塔北谷瑠璃堂
重文、本尊は薬師瑠璃光如来であり、それ故瑠璃堂と称する。
様式から室町後期の建築とされ、叡山では信長の焼討から逃れた唯一の建物とされる。
「山門堂社由緒記」では、本来の号は「放光院」という。
叡山では釈迦堂(転法輪堂が、文禄4年(1596)年の建築で現存する最古の建物とされるが、園城寺からの移築であり、この瑠璃堂が叡山固有の建築では最古のものであろう。
但し、以上の通説とは別の見解もあるようである。
 ※別見解は「瑠璃堂」 (http://www.kagemarukun.fromc.jp/page005e.html) を参照。
2021/03/31撮影:
 西塔北谷瑠璃堂1     西塔北谷瑠璃堂2     西塔北谷瑠璃堂3     西塔北谷瑠璃堂4     西塔北谷瑠璃堂5
 西塔北谷瑠璃堂6     西塔北谷瑠璃堂7     西塔北谷瑠璃堂8     西塔北谷瑠璃堂9
 西塔北谷正教坊1     西塔北谷正教坊2


比叡山近江横川

比叡山延暦寺横川根本如法塔
大正14年建立。根本如法塔と称する。山口玄洞氏寄進。再建された横川中堂のすぐ北方尾根上の中腹にある。
天長年間、円仁が三昧を行い、如法写経を始めたところと伝え、長元4年(1031)円仁書写の如法経を埋葬した地と伝える。
2001/04/28撮影:
 横川根本如法塔1    横川根本如法塔2    横川根本如法塔3
2012/12/25撮影:
 横川根本如法塔4:京阪電鉄出町柳駅掲示パネル写真

天長6年(819)円仁、横川にて草庵を結び、天台法華懺法を読誦し、四種三昧を練行す、天長8年妙法蓮華経を写経す。(「門葉記」引用「沙門壱道記」)
天長10年円仁、横川に草庵を結び、練行に励み、法華経1部を写経、この写経を小塔に納め、堂中に安置し首楞厳院と号す。(「門葉記」引用「如法経揺籃類聚記」)・・・後に如法堂と称す。
円仁創建の堂(如法堂)はその後荒廃もしくは退転し、恵心僧都源信により新たに小塔収納の銅製多宝塔が造られ、堂内に安置された。根本如法堂 葺檜皮方5間堂 安置多宝塔(高5尺) 又旧白木小塔(奉納如法経) ・・・(新造堂塔記」)
如法堂破滅の事態に備え、如法経収納小塔は銅筒に納め、末法の時、地中に埋め、慈尊の出生(弥勒菩薩)を待つ処置をとることにいたる。(如法堂銅筒記)
○「平安時代仏教建築史の研究」:大正12年
如法堂跡より、銅筒を発掘、轆轤塔はその残片のみの状態であったが、銅筒の形態から、宝塔形式であったであろう。
なお発掘状況の詳細は「考古学雑誌 第14巻5号」(大正12年)にあり、銅筒は昭和17年夏雷火によって消失。
現在の根本如法塔の場所が如法堂跡で塔建立の工事中に銅筒を発見したという。
 ○如法堂跡出土経筒

2021/03/31撮影:
根本如法塔
現在の塔は大正14年山口玄洞の寄進により建立されたものである。
慈覚大師円仁が自ら書写した法華経一部八巻を納める宝塔を建立したのが起源である。
横川発祥の聖跡であるんで根本如法塔と称する。釋迦・多宝の二佛を本尊とする。
塔前の小詞には法華経守護の三十番神を祀る。
 横川根本如意宝塔11     横川根本如意宝塔12     横川根本如意宝塔13     横川根本如意宝塔14
 横川根本如意宝塔15     横川根本如意宝塔16     横川根本如意宝塔17     横川根本如意宝塔18
 横川根本如意宝塔19     横川根本如意宝塔20     横川根本如意宝塔21     横川根本如意宝塔22
 横川根本如意宝塔23     横川根本如意宝塔24     横川根本如意宝塔25     横川根本如意宝塔26
 横川根本如意宝塔27     横川根本如意宝塔相輪
 根本如意宝塔三十番神堂

◇横川(首楞厳院)中堂
横川の中心をなす堂で、昭和17年夏雷火で焼失。昭和46年再建。RC造。
2001/04/28撮影:
 比叡山横川中堂
2007/08/12追加:
昭和17年焼失横川中堂
嘉承元年(848)慈覚大師円仁の開創。
慶長年間豊臣秀頼・淀君の寄進により再興された堂、堂の規模は9間に7間。入母屋造杮葺。
昭和17年夏雷火によって焼失。
○「滋賀県写真帖」、滋賀県、明43年 より
 横川焼失中堂1
○「比叡山写真帖」赤松円麟、坂本村:延暦寺事務所、明治45年 より
 横川焼失中堂2:2008/12/31写真入替
2021/03/31撮影:
◇横川中堂
首楞厳院と称し、横川中堂である。舞台造、お堂の中央部が2m程下がっていて、そこに本尊として慈覚大師作と伝えられる聖観音菩薩像〔重文〕が安置される。
嘉祥元年(848)慈覚大師円仁が創建。旧堂は昭和17年落雷で焼失、現在の堂は昭和46年の再建。
  比叡山横川中堂1     比叡山横川中堂2     比叡山横川中堂3     比叡山横川中堂4
◇赤山新羅明神
新羅明神は中国の赤山に鎮座していた仏教の守護神であり、円仁が中国唐に留学した際、分霊を現在地に勧請する。以来、新羅明神は地蔵菩薩の本地とされ、天台宗の守護神とし全国の天台寺院に祀られる。
 横川赤山新羅明神
 龍ヶ池八大龍王     比叡山横川鐘楼
 元三大師御廟は未見

2007/08/12追加:
◇四季講堂(元三大師堂)
慈恵大師(元三大師)良源の住坊定心房であったとされる。建保4年(967)村上天皇の勅により、年四回、四季に法華経論議が行われるようになる。
本尊は弥勒菩薩であったが、現在は元三大師を本尊にするゆえに「元三大師堂」とも称する。
○「比叡山写真帖」赤松円麟、坂本村:延暦寺事務所、明治45年 より
 横川四季講堂
2021/03/31撮影:
四季講堂(元三大師堂)
第18代天台座主・慈恵大師良源(元三大師)の住坊であった定心房の後身の堂である。
春夏秋冬に四季に法華経の論議が行われたので四季講堂の名がある。
現在は元三大師画像を本尊とし、大師信仰の根本道場である。
四季講堂の両側には道場である恵雲院と鶏足院灌室が対面して並ぶ。
 横川四季講堂     横川元三大師堂1     横川元三大師堂2     横川元三大師堂3
 四季講堂舊恵雲院     四季講堂鶏足院灌室
 横川比叡山行院
◇秘宝館
かつては比叡山の寺宝を展示するも、平成四年(1992)機能は東塔の国宝殿に移管される。この場所が恵心院の場所という。
◇恵心院
恵心僧都の旧跡である。僧都はここに籠り、修行と著述に専念する。「往生要集」など多くを著わし、浄土教の基礎を築く。
2021/03/31撮影:
 横川恵心院跡:現秘宝館     横川秘宝館     横川恵心堂1     横川恵心堂2

横川華芳谷定光院

○「比叡山横川定光院」ルーフレット より
横川定光院は日蓮上人旧跡であるが、天台宗寺院である。但し、管理は協定により日蓮宗が行う。
寛元元年(1243)から建長6年(1254)頃まで、日蓮の比叡山における修行拠点であった。
文政5年(1822)圓海が洛中の満願寺住職日進と日蓮550遠忌を営み、堂宇を改修、日蓮筆の題目碑を建立。
明治16年洛中の七本山が堂宇の修築を行い、日蓮600遠忌を厳修。
大正2年「霊蹟保存会」を組織、洛中の本山が輪番で法要を営むこととする。
大正14年日蓮生誕700年を期して立正安国像が完成。
昭和56年(1981)日蓮聖人700遠忌であるが、「定光院奉賛会」が結成される。
平成4年(1992)日蓮御遊学750年慶讃法要が執行される。
平成5年(1993)日蓮宗と比叡山延暦寺との間で定光院護持運営に関する協定が締結され、「横川定光院護持顕彰会」が発足する。これにより、日蓮宗による組織的な護持管理体制となる。
平成7年(1995)「日蓮聖人御遊学 比叡山横川定光院の聖地」として、日蓮宗宗門史跡となる。
平成7年日蓮立教開宗750周年、本堂(祖師堂)・庫裡・山門が一新され、落慶する。現在は日蓮宗比叡山研修道場として機能する。
2021/03/31撮影:
 華芳谷定光院道1     華芳谷定光院道2     定光院山門1     定光院山門2     門前日蓮上人碑
 境内題目碑     定光院本堂庫裡1     定光院本堂庫裡2     定光院本堂1     定光院本堂2
 日蓮上人立像1     日蓮上人立像2
 定光院多宝小塔1     定光院多宝小塔2     定光院多宝小塔3

横川飯室谷・飯室谷別所安楽谷

◇飯室谷:
“延暦寺五大堂”の一つである飯室谷長壽院不動堂があり、その飯室谷不動堂、松禪院、慈忍和尚廟が現存する。
 ※延暦寺五大堂は根本中堂、釈迦堂、横川中堂、無動寺明王堂、飯室谷不動堂をいう。
 ※慈忍和尚廟は比叡山三大魔所の一つであり、三大魔所は「天梯権現祠(てんだいごんげんほこら)」、「元三大師御廟(がんざんだいしみみょう)」、「慈忍和尚廟(じにんかしょうびょう)」である。なお、これら三箇所を凌ぐ最大の魔所が「狩籠の丘(かりごめのおか)」で、それを加えて比叡山四大魔所と称する。
 ※慈忍和尚:僧名を尋禅という。天慶6年(943)〜正暦元年(990)、第19代天台座主。諡号は慈忍。藤原師輔(右大臣。兼家・道兼の父、道長の祖父)の十男。母は雅子内親王(醍醐天皇皇女)。父の縁で良源(元三大師)の弟子となり、良源の死後に天台座主となる。
2021/05/03撮影:
 飯室谷長壽院     長壽院不動堂1     長壽院不動堂2     長壽院赤山大明神
 長壽院庫裡1     長壽院庫裡2     長壽院鐘楼     長壽院三昧堂
 長壽院護摩堂1     長壽院護摩堂2     長壽院護摩堂3     護摩堂御供所
 長壽院千手堂1     長壽院千手堂2
 飯室谷松禪院前
 松禪院山門     松禪院本堂1     松禪院本堂2     松禪院本堂3     松禪院庫裡     松禪院堂宇
 慈忍和尚廟1     慈忍和尚廟2     慈忍和尚廟3     慈忍和尚廟4

2007/08/12追加:
◇安楽律院
横川の飯室谷にある。平安中期、叡桓によって開かれる。
現在の安楽律寺は江戸中期、妙立・霊空などにより安楽律宗の本寺として再興される。
昭和24年放火により焼失、現在は本堂・護摩堂・山門のみが残り、無住のようで廃寺同様となる。(20〜30年前の状況)
2021/10/13追加:
安楽律院は延暦寺横川飯室谷の別所である安楽谷にある。
寛和元年(985)叡桓によって創建。
「高山寺文書」中、長徳2年(996)の「僧範好等連署起請文」では、藤原師輔一門の僧、叡(睿)桓、範好、忠正、延久、惟慶ら5人の僧により念仏道場として建立されたという。
寛和2年(986)恵心僧都(942-1017、源信)が念仏結縁の行法を行う。恵心僧都も隠棲していたともいう。
江戸期、公辨法親王により四分律兼学の律院となり、妙立や霊空らが厳しい戒律主義を唱導し、その一門を安楽律と呼びここに住する。
昭和24年12月22日の夜に放火により正殿天井から出火、本堂、庫裏、鐘楼など六棟を焼く。
国宝の本尊は焼失を免れるも、古仏書約150箱などの寺宝も焼失する。
 なお、坂本泰門庵は院明細帳滋賀郡・泰門庵によれば、泰門庵の本寺は近江國安楽院末とあるので、末寺として泰門庵があった。

○「比叡山写真帖」赤松円麟、坂本村:延暦寺事務所、明治45年 より
 飯室谷安楽律院:焼失前の安楽律院の写真は殆どなく、貴重なものである。
2016/10/13追加:
○「寺院明細帳滋賀郡」明治6年〜敗戦直後 より
 寺院明細帳・安楽律院
堂宇として
堂宇:方三間:これが本堂であろうか
庫裡:奥行6間、横8間
正殿:奥行6間、横10間、半鐘の間・佛間・居間・書籍間が付属していたのであろうか。
その他に鐘楼・経蔵・板木藏・上の衆徒寮・下の衆寮・玄関・唐風呂・浴室があった。
所属佛堂として、祖師堂(本尊;霊空和尚、元禄5年創建、2間×1間半)、護摩堂(本尊;五大尊、3間半×3間)の二宇があった。
2021/10/13追加:
 飯室谷堂宇配置図
2021/05/03撮影:
仮庫裡、客殿跡、護摩堂、庫裡跡、仮本堂は全て推定である。
 安楽律院入口1     安楽律院入口2     安楽律院山門1     安楽律院山門2     安楽律院仮庫裡
 仮庫裡から本堂への石階:石階上には門があったとも思われるも不明、客殿・本堂の壇に至る。
 安楽律院正殿跡1     安楽律院正殿跡2     安楽律院正殿跡3     安楽律院正殿跡4     安楽律院正殿跡5
 安楽律院正殿跡6
 安楽律院本堂跡1     安楽律院本堂跡2     安楽律院本堂跡3     安楽律院本堂跡4     安楽律院本堂跡5
 本堂裏石仏など     本堂裏宝篋印塔1     本堂裏宝篋印塔2
 安楽律院護摩堂1     安楽律院護摩堂2
 安楽律院庫裡跡1     安楽律院庫裡跡2     安楽律院庫裡跡3     庫裡跡及仮本堂1     庫裡跡及仮本堂1
 安楽律院仮本堂1     安楽律院仮本堂2     安楽律院仮本堂3
 安楽律院不明堂宇1     安楽律院不明堂宇2     安楽律院不明堂宇3
 安楽律院境内奥1     安楽律院境内奥2     安楽律院収蔵庫?


比叡山近江坂本

無印は2021/03/31撮影、◇は2021/05/03撮影

○「比叡山の歴史散歩 上」より転載
 坂本里坊の図


2021/05/03撮影:
◇里坊泰門庵
天台宗叡山に属する。
「寺院明細帳滋賀郡」明治6年〜敗戦直後 では
本寺安楽院末天台宗泰門庵(坂本村大字坂本字上野田)とある。
因みに、坂本西教寺も「寺院明細帳滋賀郡」では坂本村大字坂本字上野田とある。
本寺同国安楽院、寛延2年(1749)の創建、開祖は古雲律師とある。
 ※安楽院とは現在の安楽律院(安楽院は明治19年安楽律院と改号)であるので、安楽谷別所安楽律院末寺と知れる。
 ◇里坊泰門庵1     ◇里坊泰門庵2
2021/10/13追加:
○「寺院明細帳滋賀郡」明治6年〜敗戦直後 より
 寺院明細帳滋賀郡・泰門庵

2021/05/03撮影:
◇八講堂千躰地蔵
山門堂舎記では「八講堂は叡麓、日吉社の北に建立」とあり、叡山に八講堂という谷があり、寺屋敷が残る。附近には無数の地蔵尊が散在する。耕作で地蔵尊が出土のたび、ここに集められたという。
 ◇八講堂千躰地蔵

 ◇近江富士遠望:八講堂跡-山王権現間より

◇里坊圓乗院
 ◇里坊圓乗院1      ◇里坊圓乗院2

◇里坊大慈院
 ◇里坊大慈院

市殿社:最澄の母・藤原藤子(妙徳)を祀る:写真なし。

百枝社:最澄の父・百枝(三津首百枝)を祀る、昭和30年天神社に百枝社が合祀されたともいうが、不明。
 ◇坂本百枝社

 ◇百枝社・大慈院石垣     ◇戒光院・大慈院石垣

◇里坊延命院
 ◇里坊延命院1     ◇里坊延命院2

◇里坊戒光院
 ◇里坊戒光院1     ◇里坊戒光院2

◇里坊厳王院
 ◇里坊厳王院1     ◇里坊厳王院2

◇里坊大林院
 ◇里坊大林院1     ◇里坊大林院2

2021/03/31撮影:☆印中の寺社で無印は2021/03/31撮影
☆坂本石占井社(いしらいのやしろ)
祭神は石占井大明神。
 「古事記」には「大山咋は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるという。
古来より、日枝の山(比叡山)には大山咋が宿っているとされてきたようである。
また牛尾山(八王子山)にある金大巌(こがねのおおいわ)は古代信仰の磐座であったと思われる。
つまり、日吉社はもともとは大山咋(小比叡)を祀る地主神であったが、
天智天皇2年(669)大和三輪明神から大己貴(大比叡)を勧請するという。今の西本宮である。
 ※大津京鎮護のため、大和三輪明神から大己貴(大比叡)を勧請するという。
 伝教大師(最澄)はこの山を仰ぎ見て育ち、後には、比叡山に籠って修行を重ね、延暦7年(788)一乗止観院を創建する。
日吉社は別名「山王」とも呼ばれるが、これは中国の天台山国清寺に守護神として祀られている山王祠(山王元弼真君)に因むといわれる。
伝教大師が入唐求法の旅から戻ってきた時、天台山にならって名付けたと云われる。
こうして日吉社は、延暦寺を守護する神として位置づけられ、延暦寺のともに発展を遂げる。
滋賀県神社庁HPの御由緒では、
 石占井社は天智天皇の御代、日吉大比叡神が此の地に降臨された際奉祀したと伝えている。
即ち大和の三輪山より降臨の大比叡神(大己貴神)を石に座した占いの女神が、日吉大社西本宮の聖地に案内し、又井戸で御足をお洗い申し上げたと伝えられる。
 坂本石占井社

☆坂本大神門社
日吉社の門を守る神で、明治初期に大鳥井社を現在の大神門神社と改名。
 坂本大神門社1     坂本大神門社2

☆坂本日吉御田社
日吉御田社(ひよしみた)の祭神は、水葉女神(みずはのめのかみ)で、本殿は、一間社流造、石造の明神鳥居が建つ。
 ※どのような意味かは追及していない。
 坂本日吉御田社

☆里坊金臺院
東塔北谷に属する。
 里坊金臺院1     里坊金臺院2     ◇里坊金臺院3

☆西塔総里坊生源寺
傳教大師生誕地。
近世の比叡山三塔は分治され、各々の行政を担う総里坊は坂本に置かれる。東塔総里坊は止観院出納所(しのじょ)、西塔は生源寺に置かれ、両者の長は「執行代」と称する。
一方、横川総里坊は弘法寺に置かれ、長を「別当代」と呼ぶ。弘法寺門前には横川別当代と刻んだ石碑がある。
 総里坊生源寺全景     総里坊生源寺本堂:向かって左の建物が別當大師堂である。
 総里坊生源寺鐘楼     総里坊生源寺写経塔

坂本大将軍社
祭神:大山祗、岩長姫
創祀年代不詳、日吉社境外百八社の一社である。伝教大師の産土神であり、坂本中の総社という(胡散臭い)。本殿:一間社流造。
 坂本大将軍社:背後の建物が別當大師堂。

☆里坊別當大師堂
傳教大師の高弟の一人・光定(こうじょう)を祀る。光定は傳教大師の最も身近に使え、大師亡き後叡山の経営に当たる。後年比叡山僧別當に任ぜられ、ゆえに光定を別當大師と尊称する。没後、生源寺境内に別當大師堂が建立される。
 ※生源寺本堂西に隣接する建物が別當大師堂。

横川・西教寺道標:大将軍北辻

☆無動寺総里坊金藏院
 無動寺総里坊金藏院

☆里坊壽量院
東塔東谷に属する。
 里坊壽量院1     里坊壽量院2

☆白髭大明神
詳細は不明、實蔵院西にある、地図には白髭明神堂とあり、石灯篭には本地不動明王とある。
 ※近江白髭大明神( 志賀郡鵜川・高嶋郡打下二村の間にあり)の本地は不動明王とされる。近江白髭大明神を勧請か。
 坂本白髭大明神

☆里坊實藏院
 里坊實藏院:左は白髭明神堂     里坊實藏院付近石垣

☆里坊律院・横川里坊松禅院故地
山王権現参道である日吉馬場に穴太衆積みの石垣に囲まれてある。
元々は比叡山横川の総里坊であった松禅院があった場所であり、明治以降松禅院は荒廃する。
昭和24年、戦後初の千日回峰行者叡南祖賢(えなみそけん)師が律院(叡南祖賢は安楽律院管領であった)として、再興する。
本堂は秀吉の側室、淀殿が早世した鶴松の菩提を弔って建てた桃山期の遺構であり、大阪高槻から移建される。
祖師堂には叡南祖賢を祀る。護摩堂は平成5年の竣工。
 里坊律院山門      里坊律院庫裡     里坊律院本堂1     里坊律院本堂2     里坊律院祖師堂
 里坊律院鐘楼

☆里坊恵光院
東塔北谷に属する、妙法院門跡の本坊。
 里坊恵光院1     里坊恵光院2

☆里坊旧寶乗院:推定
 里坊旧寶乗院1     里坊旧寶乗院2

☆早尾地蔵尊(六角寺地蔵堂)
伝教大師自作と伝える、この地蔵尊は変じて真盛(西教寺開山)として現れ、入寂の後再び地蔵尊に復されてたという。
 早尾地蔵尊

☆横川総里坊求法寺(走井元三大師堂)
慈恵大師良源が初登山の時ここで入山修行の決意を固めたという。
近世の比叡山三塔は分治され、各々の行政を担う総里坊は坂本に置かれる。東塔総里坊は止観院出納所(しのじょ)、西塔は生源寺に置かれ、両者の長は「執行代」と称する。
一方、横川総里坊は弘法寺に置かれ、長を「別当代」と呼ぶ。弘法寺門前には横川別当代と刻んだ石碑がある。
元三大師堂は正徳4年(1714)上棟。
 横川総里坊求法寺1     横川総里坊求法寺2     横川総里坊求法寺3
 ◇横川総里坊求法寺1   ◇横川総里坊求法寺2   ◇横川総里坊求法寺3   ◇横川総里坊求法寺4

☆比叡山本坂:入口
 比叡山本坂

☆里坊霊山院
横川兜率谷にあったが廃絶。源信創建。比叡山五別所の一つ。釈迦如来を本尊とする。正確な跡地は不明。
但し、この横川兜率谷の霊山院が本寺であるかどうかは確認が取れない。
 里坊霊山院1     里坊霊山院2     ◇里坊霊山院3

☆里坊戒藏院
毘沙門天王:詳細は不明。
 里坊戒藏院1     里坊戒藏院2     里坊戒藏院3

☆里坊観樹院
西塔北尾谷に属する。
 里坊観樹院1     里坊観樹院2

☆里坊圓頓坊
東塔無動寺谷に属する、尊海の住房。日蓮旧跡。
 里坊圓頓坊1     里坊圓頓坊2

☆滋賀院門跡
比叡山延暦寺の本坊(総里坊)である。
元和元年(1615)天海が、後陽成天皇から京都法勝寺の建物を下賜されてこの地に建立する。
明暦元年(1655)には後水尾天皇から滋賀院の名と寺領千石が下賜される。
滋賀院御殿は明治11年火災焼失し、比叡山無動寺谷法曼院の建物3棟が移されて再建される。
 滋賀院門跡1     滋賀院門跡2     滋賀院門跡3     滋賀院門跡4     滋賀院門跡5
 滋賀院門跡5     滋賀院門跡6     滋賀院門跡7

☆慈眼堂(恵日院)
天海の廟所、慶長12年(1607)から比叡山南光坊に住す。
慈眼堂は重文、正保3年(1646)に建立、正面三間、側面三間、一重、宝形造、桟瓦葺。
堂内には木造慈眼大師坐像(重文)が祀られていた。高島市から当地に移された鵜川四十八体石仏群のうちの13体の阿弥陀如来坐像のほか、歴代天台座主の墓がある。
 慈眼堂(恵日院)1     慈眼堂(恵日院)2     慈眼堂(恵日院)3     慈眼堂(恵日院)4     慈眼堂(恵日院)5
 歴代座主墓所        横川四十八体石仏群



比叡山東照宮

 東照大権現(徳川家康)は没後、駿河久能山東照権現、後に下野日光山東照権現に祀られるが、元和9年(1623)天台僧天海の縁で、坂本にも東照宮が造営される。
 その様式は本殿と拝殿とを石の間で繋ぐ「権現造」という様式であり、日光東照宮における徳川家光の造営はこの様式を基に再建したという。
なお、現在の建築は寛永11年(1634)の再建という。
 明治の神仏分離で、比叡山東照宮は比叡山延暦寺から分離され、同じく分離された比叡山山王権現の管理下に組み入れられる。
現在は山王権現の末社という。
本殿 拝殿 石の間 透塀唐門は重文。
本殿:3×3間、一重、入母屋造、屋根銅板葺き。拝殿:5帰Kる2間、一重、入母屋造、屋根銅板葺き。石の間:3×1間、一重、両下造、屋根銅板葺き。
2021/03/31撮影:
 比叡山東照宮石階
 東照宮透塀唐門1     東照宮透塀唐門2
 比叡山東照宮唐門1     比叡山東照宮唐門2     比叡山東照宮唐門3     比叡山東照宮唐門4
 比叡山東照宮拝殿1     比叡山東照宮拝殿2     比叡山東照宮拝殿3     比叡山東照宮拝殿4
 比叡山東照宮拝殿5
 比叡山東照宮社殿11     比叡山東照宮社殿12     比叡山東照宮社殿13     比叡山東照宮社殿14
 比叡山東照宮社殿15     比叡山東照宮社殿16     比叡山東照宮社殿17     比叡山東照宮社殿18
 比叡山東照宮社殿19     比叡山東照宮社殿20     比叡山東照宮社殿21     比叡山東照宮社殿22
 比叡山東照宮社殿23     比叡山東照宮社殿24     比叡山東照宮社殿25     比叡山東照宮社殿26
 比叡山東照宮社殿27
 東照宮からの景観1      東照宮からの景観2
2021/08/24追加:
 比叡山東照宮左立面図:比叡山東照宮ルーフレット より

2021/05/03撮影:
 比叡山東照宮石灯篭1     比叡山東照宮石灯篭2     比叡山東照宮石灯篭3     比叡山東照宮石灯篭4
 比叡山東照宮唐門
 比叡山東照宮拝殿11     比叡山東照宮拝殿12     比叡山東照宮拝殿13     比叡山東照宮拝殿14
 比叡山東照宮拝殿15     比叡山東照宮拝殿16     比叡山東照宮拝殿17     比叡山東照宮拝殿18
 比叡山東照宮拝殿19     比叡山東照宮拝殿20     比叡山東照宮拝殿21     比叡山東照宮拝殿22
 比叡山東照宮拝殿23     比叡山東照宮拝殿24     比叡山東照宮拝殿25
 東照宮拝殿内部11     東照宮拝殿内部12     東照宮拝殿内部13     東照宮拝殿内部14
 東照宮拝殿内部15     東照宮拝殿内部16     東照宮拝殿内部17     東照宮拝殿内部18
 東照宮拝殿内部19     東照宮拝殿内部20     東照宮拝殿内部21     東照宮拝殿内部22
 東照宮拝殿内部23     東照宮拝殿内部24     東照宮拝殿内部25     東照宮拝殿内部26
 東照宮拝殿内部27     東照宮拝殿内部28     東照宮拝殿内部29     東照宮拝殿内部30
 東照宮拝殿内部31     東照宮拝殿内部32     東照宮拝殿内部33
 比叡山東照宮石の間1     比叡山東照宮石の間2     比叡山東照宮石の間3     比叡山東照宮石の間4
 東照宮石の間内部1      東照宮石の間内部2
 本殿・石の間内部1     本殿・石の間内部2     本殿・石の間内部3     本殿・石の間内部4
 本殿・石の間内部5
 比叡山東照宮本殿1     比叡山東照宮本殿2     比叡山東照宮本殿3     比叡山東照宮本殿4
 比叡山東照宮本殿5     比叡山東照宮本殿6     比叡山東照宮本殿7
 東照宮本殿(石の間)1     東照宮本殿(石の間)2

2022/02/27追加:
○東海道名所圖繪
東海道名所圖繪に比叡山山王宮が描かれ、近世末期の姿を見ることができる。
 日吉山王宮
本図は日吉山王宮の絵であるが、左下隅に大権現宮(東照大権現)が描かれ、その石階参道の中段に本地堂がある。
この本地堂は現在比叡山東塔大講堂として現存する。
 ※東塔大講堂については、上掲の「東塔大講堂」の項を参照。



比叡山日吉社/山王権現(根本大塔、七重塔、新御塔)

参考文献:
「日吉社における習合と廃仏」景山春樹<「廃仏毀釈の行方」藝術新潮、1973.3 所収>
「日吉社の塔について」景山春樹<佛教藝術 44、昭和35年 所収>
「日本史リブレット32:中世の神と仏」末木文美土、山川出版、2003
「古図に見る日本の建築」企画展. 国立歴史民俗博物館編集. 国立歴史民俗博物館, 1987.
「日吉社絵図と中世日吉社の建築群」黒田龍二<「なにが分かるか、社寺境内図」国立歴史民俗博物館、平成12年 所収>
「特別展 聖域の美ー中世寺社境内の風景-」大和文華館、2019

2021/08/15追加:
◆比叡山山王権現の開創
 「古事記」には「大山咋は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるという。
古来より、日枝の山(比叡山)には大山咋が宿っているとされてきたようである。
また牛尾山(八王子山)にある金大巌(こがねのおおいわ)は古代信仰の磐座であったと思われる。
つまり、日吉社はもともとは大山咋(小比叡)を祀る地主神であったが、
天智天皇2年(669)大和三輪明神から大己貴(大比叡)を勧請するという。今の西本宮である。
 ※大津京鎮護のため、大和三輪明神から大己貴(大比叡)を勧請するという。
 伝教大師(最澄)はこの山を仰ぎ見て育ち、後には、比叡山に籠って修行を重ね、延暦7年(788)一乗止観院を創建する。
日吉社は別名「山王」とも呼ばれるが、これは中国の天台山国清寺に守護神として祀られている山王祠(山王元弼真君)に因むといわれる。
伝教大師が入唐求法の旅から戻ってきた時、天台山にならって名付けたと云われる。
こうして日吉社は、延暦寺を守護する神として位置づけられ、延暦寺のともに発展を遂げる。

◆日吉山王権現の概要
 日吉社は、最澄が比叡山寺を営んだ時、まず日吉神宮禅院(神宮寺(*1))に詣で、香炉灰の中から一粒の舎利を得て登ったという ことにも表れているように、仏教と不可分な関係にあった。最澄は神宮禅院で得舎利を安置する場所を求め、大宮川を遡り、虚空蔵尾に至り、比叡山寺の基を作ったという。
東本宮は大山咋(小比叡)を祀り、記紀の時代からある地主神(「大山咋神は近淡国の日枝山に坐す」古事記)とされる。
西本宮は天智天皇7年に、大津京遷都に際し、大和大三輪の大己貴(大比叡)を勧請したとされる。
 *1:神宮寺は西本宮の西北の行者道沿いにその跡を残すという。(未見→2021/05/03実見・下に日吉神宮寺跡として掲載)
 2013/08/04追加:
 ○「日吉神宮寺跡」(「大津市埋蔵文化財調査年報 平成18年度」大津市教育委員会、2007 所収) より
  神宮寺跡の位置:(西本宮の西北の行者道沿い)または八王子山西側の大宮川谷筋から北方に上ったところに位置する。
 なお、八王子山山頂東に八王子社・三宮が鎮座する。
 2006年にこの地は発掘調査され、石組や礎石建物跡が発掘される。
 今回発掘された建物跡は「日吉秘密社参次第記」などの古絵図に描かれる神宮寺と非常に共通項が多いと評価される。

最澄との関係以来、日吉社は山王権現と呼ばれ、比叡山の地主神と崇められ、天台の法儀には、先ずその道場に神祇勧請が行われることとなる。まさにこれが天台の伝統となる。
また本地垂迹説により、山王の諸神には本地仏が定められ、山王本地曼荼羅が作成された。社殿には神像と並んで本地の懸仏(御正体)が礼拝され、経巻や法具が並べられ護摩供などが執り行われていたのが中世や近世の実体であった。

2012/04/03追加:
○サイト「月刊 京都史跡見学会」>「第24号【神・神社とその祭神】《そのXIV》日吉大社(2008/10/19発行) 」では以下のように解説する。
 『日吉社禰宜口伝抄』には、「上代の日吉神社は今の八王子社なり。この峰は比叡山の東尾にあり、一に牛尾といい、また並天塚(あまなみのつか)という。その五百津石村(いほついわむら)は山末之大主神の御陵なり。その妻玉依比売御陵は、奥の御蔭(みかげ)の大岩なり」とある。
つまり、日枝山が神体山であると述る。
 また、『禰宜口伝抄』によると「天智天皇七年(668)三月三日、・・・大和国三輪山に坐す大己貴神(を比叡の山口において祭る」とある。
つまり、天智天皇が近江朝を定めた翌年に、古都の守護神であった三輪明神を勧請して、新都を守護してほしいとの思惑があったと思わる。
後年、地主神の大山咋神が二宮(東本宮)の祭神となり、勧請神の大己貴神は、大宮(西本宮)の祭神となる。
 和銅5年(712)日吉山王社が、藤原武智麻呂によって比叡山の東麓創建される。
そのときに、日枝山(牛尾山)の山頂に八王子(牛尾宮)と三宮を建て、前者に大山咋神の荒魂が、後者に鴨玉依比売神の荒魂が祀られる。これを山宮といい、その後、日枝山麓に里宮を移し、二宮に大山咋神の和魂を祀り、樹下(このもと)神社に鴨玉依比売神の和魂を祀ることになる。こうして、二宮系の4社が成立する。
 一方、大己貴神を祀る本宮の地に、貞観6年(859)聖真子権現(しょうしんじごんげん・宇佐宮・八幡神)が建立され、同じ頃、客人(まろうど・白山宮)も建立され、ここに大宮系の3社が成立する。以上の7社を合わせて「日吉七社」あるいは「山王上七社」と呼称する。

2012/04/03追加:
日吉山王権現の塔婆
 中世までの境内を知る手掛りとして多くの「山王宮曼荼羅」(自然景と社殿を俯瞰して描く形式が多い)が伝えられる。
現在までに入手できた「山王宮曼荼羅」の画像から日吉山王権現の塔婆の様子を概観することが出来る。

2022/02/24追加:
○「日吉社絵図と中世日吉社の建築群」黒田龍二<「なにが分かるか、社寺境内図」国立歴史民俗博物館、平成12年 所収> より
◆絵画史料
 中世日吉社に関する絵画史料の主要なものは次の7点がある。
1.「山王宮曼荼羅」奈良国立博物館蔵、文安4年(1447)以前:
  下に画像を掲載。
 付属「旧裱背添付紙」に文安4年(1447)比叡山西塔から相伝されたとある。(大和文華館「聖域の美」)
  ※旧背面貼付紙・墨書:「文安四年甲子卯月書之 自西塔西谷相伝之/天正二年甲戌十月十九日 修理裏付/
  開眼法師長瑜 七十五歳 日輪院/(別筆)寛永三丙寅天求之法印山海内供奉」

2.「日吉神社社頭絵図」延暦寺蔵、享禄元年(1528)

3.「秘密山王曼荼羅」日吉大社蔵、成立年不詳・延暦寺本模写
  下に画像を掲載

4.「日吉山王参社次第」岡田儀一氏蔵、室町期

 ----元亀2年(1571)織田信長による焼討----

5.「日吉社神道秘密記」行丸、天正5年(1577):祝部行丸は当時の下級神官、再建に備えて焼失以前の姿を描くものと評価される。
  ※本史料は国立公文書館>デジタルアーカイブなどで公開されている。

6.「山王二十一社等絵図」叡山文庫蔵、行丸、天正18年(1590)
  ※部分的にしか情報がなく、下に断片的に掲載

7.「日吉山王秘密社参次第記」日吉大社蔵、天和3年(1683)
  ※部分的にしか情報がなく、下に断片的に掲載


山王宮曼荼羅(重文):奈良国立博物館蔵

2022/02/24追加:
○「山王宮曼荼羅」<重文・奈良国立博物館蔵、文安4年(1447)以前>:
  奈良博>収蔵品データベース より転載
比叡山山王権現社殿と根本大塔・新御塔が描かれる。
曼陀羅図中央に描かれるのが新御塔、その右少し上に描かれるのは根本大塔と推定される。
 山王宮曼荼羅・全図:左図拡大図
 山王宮曼荼羅・部分図:八王子山下社殿/部分図
 山王宮曼荼羅・部分図2:根本大塔及び新御塔/部分図

 日吉山王信仰の曼荼羅は、これまでに7件が重要文化財に指定されている。
滋賀・延暦寺本、島根・鰐淵寺本、滋賀・西教寺本、滋賀・浄厳院本は本地仏像または神像を左右相称の基本構図に基づいて整然と配するもの、
東京・霊雲寺本、滋賀・百済寺本は自然景のなかに本地仏像あるいは神像を配するものである。
 これに対して自然景と社殿を描く宮曼荼羅形式の作品として最も制作期の古い奈良・大和文華館本(近畿日本鉄道株式会社所有)があるが、大和文華館本は上七社のみの社殿を実際の配置に配慮しながらも、大きく正面観で描くものである。対して本図の、視点を遠くとり、俯瞰構図によって神体山たる八王子山を中心とする雄大な自然景を細密な描写によって表現する点は、日吉山王曼荼羅図の古い作例には稀な大きな特徴といえる。
基本的構図を本図と同じくする作品に室町期の制作とみられる延暦寺蔵・日吉神社社頭絵図などがあり、本図の構図が以後の日吉山王宮曼荼羅図に継承されていったことがうかがわれる。
 ※奈良・大和文華館本(近畿日本鉄道株式会社所有)
 ○「特別展 聖域の美ー中世寺社境内の風景-」 より
  →大和文華館本・日吉曼荼羅:重文、;鎌倉期
  山王上7社と中7社の3社(聖女・大行事・早尾社)を描く。
  それは各社殿の円相内に描かれた本地仏の姿体から分かる。
  最も大きく描かれるのが大宮(本地釈迦如来)で、右下が聖真子、右上には三宮、
  その隣には八王子が配置される。
  大宮背後には微かに塔婆(おそらく七重塔であろう)が描かれる。
 ※延暦寺蔵・日吉神社社頭絵図とは不詳。
2022/02/27追加:
本図(「山王宮曼荼羅」)には、根本大塔及び新御塔が描かれる。(七重塔は描かれない)
本図より根本大塔及び新御塔部分を切り取ったのが次である。
 山王宮曼荼羅/両塔部分図     山王宮曼荼羅/根本大塔     山王宮曼荼羅/新御塔

2022/02/27追加:
○「比叡山と天台の美術」比叡山開創1200年記念、朝日新聞、1986 より
参考として、上の解説に掲載される重要文化財に指定される「曼荼羅」図を転載する。
 日吉山王曼荼羅・延暦寺本鎌倉
 日吉山王曼荼羅・延暦寺本南北朝
 日吉山王曼荼羅・出雲鰐淵寺本:→出雲鰐淵寺:モノクロ図版
  2022/03/06追加:
  ○「週刊古寺をゆく40 鰐淵寺と山陰路の名刹」小学館、2001 より
  日吉山王曼荼羅・出雲鰐淵寺版
  絹本着色、113×40cm、室町期、重文。
  中央が大宮(本地は釈迦)でその周囲に6神を描き、山王上7社を表す。5男神の内、4神が僧形で表される。
  上下の亀甲形の内部に梵字で、山王中7社・下7社を配す。
   日吉山王曼荼羅・鰐淵寺版2:カラー図版

 日吉山王曼荼羅・坂本西教寺本:→坂本西教寺
 日吉山王曼荼羅・近江浄厳院本

 日吉山王曼荼羅・近江百済寺本:→近江百済寺

2023/06/02追加:
當道会所蔵「日吉山王垂迹神曼荼羅図」及び「日吉山王本地仏曼荼羅図」
この2幅は下に掲載の「◆聖女(ひじりめ)/當道座」の項に解説・画像を掲載する。


※以下は2022/02/24以前に掲載した「山王宮曼荼羅」記事である。

2020/10/06追加:
◇山王宮曼荼羅(重文):奈良国立博物館蔵
 山王宮曼荼羅:奈良国立博物館蔵:「特別展 聖域の美ー中世寺社境内の風景-」大和文華館、2019 より
上記の山王宮曼荼羅と同じものである。図版としては上記のものより明瞭である。
向かって左に大宮(西本宮)、右に二宮(東大宮)、中央に根本大塔、二宮西に新御塔が描かれる。
なお、本作品には旧裱背添付紙が付属し、文安4年(1447)に比叡山西塔から相伝されたことが分かる。

◇山王宮曼荼羅(重文):奈良国立博物館蔵

 山王宮曼荼羅:奈良国立博物館蔵:サイト「月刊 京都史跡見学会」より転載 :左図拡大図
 山王宮曼荼羅部分図:奈良国立博物館蔵:「中世の神と仏」より転載
 山王宮曼荼羅モノクロ:奈良国立博物館蔵:「中世の神と仏」より転載
本図は重文、絹本著色掛幅描表具、法量は120.7×68.1cm(含描表具171.4×77.9cm)
文安4年(1447)銘。
上方には日吉山王21社の本地仏・祭神の画像及び本地仏種字、本地仏名、社名を記す。
 山王曼荼羅には多くの違例が残るが、本図は自然景と社殿を描く宮曼荼羅形式の絵図である。
本図と基本構図を同一とするものには室町期の制作とみられる延暦寺蔵・日吉神社社頭絵図などがある。(いずれも下に掲載)
なお、本図には旧表背貼付紙の墨書が付属、三度にわたる修理銘などが記されているが、最も古い「日輪院長瑜」の文安4年(1447)の裏書には「西塔西谷」(但し西塔に西谷は存在しない)から本図が相伝されたことを述べる。作風から南北朝期を降らない頃の作と思われると評価される。
 ※八王子山下中央に根本大塔と二宮(現東本宮)西に新御塔が描かれるが、
  大宮(現西本宮)西には七重塔は描かれない。

2015/03/05追加:
「日本の美術72 古絵図」難波田徹編、至文堂、昭和47年 より
 山王宮曼荼羅部分図2:奈良国立博物館蔵:山麓中央に根本大塔、二宮に新御塔が描かれる。
 


秘密山王曼陀羅

紙本着色、一幅、延暦寺本は弘治2年(1556)
神体山である八王子山とその山麓の山王21社、末社108社をはじめ、宝塔・七重塔・神宮寺などが克明に描かれる。

全体の構図は「山王宮曼陀羅」と同じであるが、「山王宮曼陀羅」と違うのは、左端中央に七重塔・石造宝塔が描かれることである。
 ※勿論、根本宝塔及び新御塔も描かれ、中央には新御塔と推定される宝塔、そのやや右上には根本大塔と推定される宝塔が描かれる。
 ※なお、本図には下に示す延暦寺本・比叡山山王宮本(延暦寺本複写)がある。

◆秘密山王曼荼羅:延暦寺本;延暦寺蔵

○リーフレット「日吉の神と祭」大津市歴史博物館、2011 より転載
 日吉山王宮曼荼羅図: 延暦寺蔵:紙本着色:室町期成立か:  
 ※大宮(現西本宮)西に七重塔、八王子山下中央に新御塔、二宮(現東本宮)西に根本大塔が描かれる。

2015/03/05追加:
○「日本の美術72 古絵図」難波田徹編、至文堂、昭和47年 より
 日吉山王社絵図:延暦寺蔵:(日吉山王宮曼陀羅図):上記と同一図

◆秘密山王曼荼羅:延暦寺本模写:比叡山日吉社蔵

2021/08/24追加:
○某サイトから転載(忘失)
 日吉山王宮曼陀羅:(秘密山王曼荼羅)
左端中央に七重塔・石造宝塔が描かれ、中央には新御塔と推定される宝塔、そのやや右上には根本大塔と推定される宝塔が描かれる。

○サイト「大津市歴史博物館」「天台を護る神々 -山王曼荼羅の諸相-」平成16年 より転載
 山王宮曼荼羅図:比叡山日吉宮蔵: (秘密山王曼荼羅):室町期成立か:
  
○サイト「月刊 京都史跡見学会」より転載
 秘密山王曼荼羅:比叡山日吉宮蔵:
 ※上記と同じく、大宮の西に七重塔、八王子山下中央に新御塔、二宮(現東本宮)西に根本大塔が描かれる。

2015/03/05追加:
○「日本の美術72 古絵図」難波田徹編、至文堂、昭和47年 より
 日吉山王社絵図:比叡山日吉宮蔵 :(秘密山王曼荼羅):上記と同一図


 ※以上の「山王宮曼荼羅」及び「秘密山王曼荼羅」及び、下に掲載の「日吉山王秘密社参次第絵巻」などで見られるように
日吉山王権現の境内には、佛教的施設の象徴的建物として、中世あるいは近世まで以下の塔婆が存在することが知られる。
即ち、
 根本大塔(*2)(多宝塔、塔下総社がその位置を示すという)、
 七重塔 (*3)(神宮寺)
 新御塔(*4)(神体山上り口)である。
さらに石造の法華塔(*5)(一丈八尺)なども造立される。

*2:根本大塔
天慶5年(942)平将門の調伏のため造立と伝える。
延慶元年(1308)焼失。元徳元年(1329)塔供養と記録される。
その後も度々造替され近世まで存続する。その位置は山王鳥居のすぐ北側で、今の総社の位置という。そばに塔下惣社と呼ばれる末社が建てられ、塔下彼岸所が付属していた。
 秘密山王曼荼羅・根本大塔附近(日吉神社・行広)・・・根本大塔
 日吉社宝塔曼荼羅:京都・神田喜一郎蔵・鎌倉後期):根本大塔を曼荼羅として表現 したものという。
 日吉山王宝塔曼荼羅:大谷大学博物館蔵、絹本着色:同上:2012/04/03追加
 山王二十一社並八十七社絵図多宝塔図(叡山文庫) ・・・多宝塔
   ※この塔(多宝塔)については実態が不詳で良く分からない。あるいはこの図は根本大塔とも思われるが新御塔の可能性もある。
2022/02/27追加:
 →日吉社神道秘密記2:塔ノ下社(下に掲載)を参照。


※創建時(平安期)の根本大塔の形式については以下の考察がある。
 創建時の根本大塔の形式は全く不明であるが、「秘密山王曼荼羅」・「日吉社宝塔曼荼羅」に描かれた「根本大塔」はいずれも中世の根本大塔を著していると考えらる 。即ち「秘密山王曼荼羅」の根本大塔は方形基壇に建ち、円形亀腹(一階塔身)上に高欄を廻し、さらに二階として円形塔身を載せた一重二層の宝塔形式である ように描かれる。屋根は方形で火炎宝珠を載せた相輪を建て、四隅に鎖を垂らす。
「日吉社宝塔曼荼羅」にも極めて酷似した「宝塔」が描かれる。
 以上から判断すれば、この時代(中世・室町期)の多宝塔はいわゆる「多宝塔形式」が一般的となっているのに、わざわざ「宝塔」形式と云う極めて珍しい形式で根本大塔が 描かれるということは、根本大塔は宝塔形式あったものと推定される。
即ち、創建時の根本大塔も宝塔形式であり、そのため中世の再興に於いても、宝塔形式を遵守して再興されたものとの推論が可能と思われる。

*3:七重塔
貞元2年(977)の建立と伝え、度々造替されるが、元亀の兵乱で姿を消しその後再興に至らずと推定される。
日吉社根本神宮寺附近にあったと伝承される。
 秘密山王曼荼羅・七重塔附近(日吉神社・行広)・・・ 七重塔前に「石塔」が描かれる。
2022/02/27追加:
 →「日吉社神道秘密記」聖真子 客人付近(下に掲載)を参照。

 →日吉社神道秘密記1:神宮寺・客人・聖真子・大宮(下に掲載)を参照。


 ※近江利生塔については通常「芦浦観音寺」(芦浦観音寺は近江安国寺であるとされる近江八幡金剛寺の堂を残すと云う。)とされるが、資料の裏づけがある訳ではない 。
日吉山王権現七重塔に「後醍醐天皇御願利生七重塔」とあるも、資料がなく、判然とはせず、日吉山王権現七重塔が「利生塔」との認識があった可能性があるのかとも思われる。

*4:新御塔
嘉禄元年(1225)美福門院・後鳥羽院の発願という。
神体山上り口附近に建立というが、位置ははっきりしないと云う。
2022/02/27追加:
 →日吉社神道秘密記3:新御塔・美福門院御願(下に掲載)を参照。
  →美福門院については、紀伊最上廃寺の項 及び紀伊高野山の六角(荒川)経蔵・山城安楽寿院の項を参照。  


*5:石造大塔婆
嘉禎2年(1236)大宮と二宮の間に建立されたという。
この石塔の塔身は昭和25年頃まで、推定当初位置に残存していた。
現在(昭和35年)京都嵯峨井上博道氏植木畑にあるという。おそらく明治の神仏分離で相輪、屋覆、台座などは散逸し、塔身のみ現地に打ち捨てられたものと思われる。
この宝塔屋覆は下坂本比叡辻観福寺にある。(土地の伝承)井上氏所有塔身とは釣り合うという。
なお井上氏植木畑には境内大宮川の渓から発見された石造宝塔(身・屋覆)も買い取られ現存するという。
2022/02/27追加:
上記の情報について、現在その出所を含め確認が取れないので、上記情報は保留する。
あるいは、石造大塔婆とは次の「神宮寺跡石造宝塔」が相応しいのかも知れない。

◆神宮寺跡石造宝塔:
西本宮楼門前の左手山林中に石造宝塔(現桓武天皇記念碑)が現存する。
昔はこの石塔前に拝殿があり、常住の供僧が12人もいて、昼夜勤行がなされていたと伝える。
2022/02/27追加:
 →日吉社神道秘密記5:石塔(下に掲載)を参照。
2022/02/27追加:
神宮寺跡石造宝塔については以下が知られる。
日吉大社/西本宮・参詣記 より
◎石造宝塔(未見)
西本宮楼門左手、やや小高い疎林中に残る。
明治初年の神仏分離の処置を免れた唯一の仏教的遺物という。
この付近は神宮寺跡といい、金堂・七重塔・多宝塔などが存在したことが知られる。
なお、神仏分離の処置の後も本区画は山門(比叡山)の所有という。
坂本神社記(元禄16年・1703)には「石塔 旧蹟 中に仏舎利を置く 桓武天皇御願」、「日吉社神道秘密記」にも「桓武天皇御願」とあるが、桓武天皇(781-806)御願とは疑問で、後白河上皇の御願との伝承もある。
天正3年(1575)石塔損壊との記録があり(「日吉社神道秘密記」)、その形状からみて鎌倉期と推定される。なお、最上部の双輪は後世のものという。
なお、次の遺物(未見)もあるという。
◎霊石
西本宮楼門の少し前に、赤い木柵に囲まれて霊石2基が鎮座する。
 *大威徳石
説明には、「仏法守護の五大明王である大威徳明王が宿る霊石と伝う」とある。
 大威徳明王とは、六面六臂六足・憤怒形の尊格で、水牛に乗ることから“六足尊”とも呼ばれる。怨敵調伏を目的として礼拝されることが多く、平安以降、この尊の前で戦勝祈願の修法がおこなわれたという。
 *祇園石
説明には、「古来より祇園の神である牛頭天王が宿る磐座として崇められている。この石にたまる水で眼を洗うと良いとされ、別名・眼洗石ともいわれる」とある。牛頭天王が宿るということは、古く、当社にも防疫神としての牛頭天王信仰(祇園信仰)が入っていたことを示唆する。


 その後、
延慶元年(1308)塔下彼岸所から出火し、根本大塔、七重塔、七社社殿・社務所、彼岸所、仏堂、不断経所などを焼失。
元徳元年(1329)塔供養。
元亀2年(1571)信長の叡山焼き討ちで全焼。「社頭108社・拝殿・・塔門瑞垣、諸彼岸所以下、七重塔婆放火・・・」
 という、経過を辿る。


2022/02/27追加:
「日吉社神道秘密記」行丸、天正5年(1577):祝部行丸は当時の下級神官、再建に備えて焼失以前の姿を描くものと評価される。
  ※本史料は国立公文書館>デジタルアーカイブなどで公開されている。
○「日吉社絵図と中世日吉社の建築群」黒田龍二(「なにが分かるか、社寺境内図」国立歴史民俗博物館、平成12 所収) より
「日吉社神道秘密記」の部分図として次の『「日吉社神道秘密記」聖真子 客人付近』の掲載がある。
 「日吉社神道秘密記」聖真子 客人付近
後醍醐天皇御願の七重塔の絵が唐突(塔の位置関係が不自然)に描かれ、良く分からない。
 しかし、原本を見ると、「後醍醐天皇御願の七重塔」と「聖真子 客人付近」は別々に描かれたものと判明する。
著者の意図は「聖真子 客人付近」を表すつもりが隣のページの七重塔の図をも巻き込んで抜粋した為、唐突な図となったものであろう。
 ※原本は直下に掲載。→日吉社神道秘密記1

○国立公文書館>デジタルアーカイブ より転載
「日吉社神道秘密記」
 日吉社神道秘密記1:神宮寺・客人・聖真子・大宮
金堂:本尊阿弥陀、昔ハ一切経奉納所也・・・
多宝石塔アリ、後白河院御願之事
多宝塔婆:昔建立、炎上畢久壽ニ有、焼ク
 七重塔アリ、第85代後醍醐天皇御願、慈威和尚建立所
※右側の山王鳥居の北側である二宮エリアに、塔下惣社とその北に塔婆(文字)が表されている。
※左端(大宮の西)には神宮寺があり、七重塔・多宝塔・石塔・金堂がある。

 日吉社神道秘密記2:塔ノ下社
イカキ(井垣)
塔下ノ宮 日本の惣社是也、依宣下也
 塔婆北ニアリ、今ハ断絶也
 二十一社御身體安置處 彼岸処(「示偏+勿」の漢字:不明)是也
  (略)
此地ハ北尾ノ谷、明達律師之里房也、・・・朱雀天皇朝敵・・悪人将門・・調伏之法明達ニ対シ勅定アリ、即、将門親王滅亡畢テ(終て)、明達法成就之砌、多宝塔建立アリ、故ニ塔ノ下ノ社ト号ス、日本惣社者(ハ)・・・・・・
此塔炎上以後七重ニ再造事アリ、社頭塔婆ノ(「示偏+勿」の漢字)是也、根本塔ト号、・・・
※惣社附近の塔下社北に多宝塔が建立される。本塔は根本塔と号する。
平将門の調伏の為、朱雀天皇の御願にて建立される。後に炎上し、七重塔に再造される。

 日吉社神道秘密記3:新御塔・美福門院御願
多宝塔婆:中路北ニアリ、美福門院建立、是ハ白河院國母御建立

 日吉社神道秘密記4:二宮付近
※二宮西側に直ぐに惣社があるように描かれるが、位置関係として、これは良く分からない。

 日吉社神道秘密記5:石塔
石塔:桓武天皇勅願御建立、塔前ニ5間廣サノ拝殿アリ、上リ道石壇ノ道有、下ニ供僧堂12人昼夜勤行・・・天正三乙亥年此塔引倒事上坂本悪人等ノ業也・・・九輪ハ打折、笠木派打倒・・・

 日吉社神道秘密記6:八王子山上西の神宮寺
神宮寺ハ傳教大師御住山始之所也・・・


「日吉山王秘密社参次第絵巻」
祝部行丸らにより、制作されたもので、元亀2年(1571)織田信長の叡山焼討で悉く焼失した日吉社の復興の為に描かれる。
日吉社社内末社108社・社外末社108社に巡拝する「秘密社参」の順路とその由来を1巻に纏めたものである。
中世の原本を基にしたようであるが、一部建物に書き足しがある。
※「日吉山王秘密社参次第絵巻」は1巻、天正7年(1579)南光坊祐能法印絵、天和3年(1683)模写(巻末の記)、元亀の兵火で焼失した日吉社山王権現の復興と布教のため制作される。
2022/02/27追加。
日吉社藏本と河野省三記念文庫追加本とがある。両者とも天正7年(1579)の南光坊祐能の書写本に基ずく。
河野省三記念文庫追加本は、奥書によれば、天和3年(1683)に法曼院前大僧正慶算によって寛永寺留滞中に同寺の所蔵本から書写されたとある。
日吉社神道秘密記と同系列とされる。
絵図は唐崎宮からはじまり、琵琶湖上の顕現から叡山山麓西本宮への大己貴神の鎮座過程の再現を順路の基本線として、山王社の社内末社百八社、社外末社百八社の巡拝次第が描かれている。
【所収本】日吉大社蔵本は、難波田徹・岩鼻通明編『神社古図集続編』(臨川書店)所収、平成二年

2008/02/27追加:
○「古図にみる日本の建築」より
 日吉山王秘密社参次第絵巻・1:比叡山日吉社蔵、2基の宝塔並びに、聖女社・八王子三宮拝所、塔ノ下惣社が描かれる。
 絵の右の宝塔が根本大塔、左の宝塔が新御塔と推定される。

 日吉山王秘密社参次第絵巻・2:比叡山日吉社蔵、
 「大宮」、「後醍醐天皇御願利生七重塔」及び「白河院御願多宝塔(石造)」が描かれる。

2022/02/24追加:
○「なにが分かるか、社寺境内図」国立歴史民俗博物館、平成12 より
 日吉山王秘密社参次第絵巻・3:比叡山日吉社蔵、客人社、聖女社、新御塔、鐘楼、八王子三宮拝所などが描かれる。
 日吉山王秘密社参次第絵巻・4:比叡山日吉社蔵、聖真子社の部分図。
 日吉山王秘密社参次第絵巻・5:比叡山日吉社蔵、後醍醐天皇七重塔、白河院石造宝塔、大宮などの部分図。


2022/02/24追加:
山王二十一社並八十七社絵図
○「なにが分かるか、社寺境内図」国立歴史民俗博物館、平成12 より
紙本着色、一幅、二舗、天正年中(1573-91)、叡山文庫蔵
元亀2年(1571)織田信長の叡山焼討で悉く焼失した日吉社は天正年中に復興が図られる。
本図は再興を目指し、元亀以前の盛観や配置を復元的に描いたもので、祝部行丸によって制作される。
絵図は18枚あり、大宮・東大宮など山王21社とその付属建物が描かれ、由緒などが墨書される。
ただ、一部中世には無かった建物の書き足しがある。享保5年(1720)に修復される。
 山王二十一社並八十七社絵図・1:大宮部分図
 山王二十一社並八十七社絵図・2:客人部分図、護摩堂
 山王二十一社並八十七社絵図・3:聖真子部分図、念仏堂・鐘楼

◆山王二十一社並八十七社絵図神宮寺図:叡山文庫
但し、本図の全体像は、資料がなく、現在不明である。
上に掲載の「山王二十一社並八十七社絵図」の一部で、神宮寺関係として、本図があるのだろうか?
 山王二十一社並八十七社絵図神宮寺図 ・・・七重塔・多宝塔(根本大塔)・石塔が描かれる。



比叡山山王権現の組織

〇「中世の神と仏」末木文美土、日本史リブレット2、山川出版社、2003
日吉山王社は
大宮(西本宮・釈迦)、二宮(東本宮・本地薬師)、聖真子権現(宇佐宮・阿弥陀)、八王子権現(牛尾宮・千手観音)、客人権現(白山宮・十一面観音)、十禅師権現(樹下宮・地蔵)、三宮(三宮・普賢)を上7社とし、中7社・下7社を合わせ山王21社といい、その末社を合わせ108社の組織であった。

2008/02/07追加:
山王21社の概要は以下の通り。
現社名・現祭神は現在の名称を示す。なお東本宮境内の各社は、「大山咋神の家族および生活を導く神々」と云われる。
明治の神仏分離で、本来の形に戻すとして、大宮と二宮の祭神を入れ替え、大宮の大山咋神を主祭神とし、大物主神を祀る二宮は摂社・大神神社に格下げするも、昭和初年に元の形に復すると云う。
 ※由緒を無視した支離滅裂というか復古神道の歴史破壊というべきなのであろう。

山王21社 社 名 所 在 本地 現 社 名 現 祭 神
上七社(山王七社) 大宮(大比叡)   釋迦 西本宮 大己貴神
二宮(小比叡)   薬師 東本宮 大山咋神
聖真子   阿弥陀 宇佐宮 田心姫神
八王子 八王子山頂 千手観音 牛尾神社 大山咋神荒魂
客人   十一面観音 白山姫神社 白山姫神
十禅師 東本宮境内(妃) 地蔵 樹下神社 鴨玉依姫神
三宮 八王子山頂 普賢 三宮神社 鴨玉依姫神荒魂
中七社 大行事 東本宮境内(父)   大物忌神社 大年神
牛御子 牛尾神社拝殿内   牛御子社 山末之大主神荒魂
新行事 東本宮境内(母)   新物忌神社 天知迦流水姫神
下八王子 東本宮参道   八柱社 五男三女神
早尾 境内入口附近   早尾神社 素盞嗚神
王子 境外・止観院の附近   産屋神社 鴨別雷神
聖女(ひじりめ)
 →直下に掲載
宇佐宮境内 (如意輪観音) 宇佐若宮 下照姫神
下七社 小禅師 東本宮境内(子)   樹下若宮 玉依彦神
大宮竈殿 西本宮境内   竈殿社 奥津彦神・奥津姫神
二宮竈殿 東本宮境内   竈殿社 奥津彦神・奥津姫神
山末 東本宮参道   氏神神社 鴨建角身命・琴御館宇志麿
岩滝 東本宮参道   巌滝社 市杵島姫命・湍津島姫命
剣宮 白山姫神社境内   剣宮社 瓊々杵命
気比 宇佐宮境内   気比社 仲哀天皇

なお、牛尾山(八王子山)山頂に磐座があり、元来これが元々の信仰形態と云われる。その磐座を挟み2社の奥宮(八王子・三宮)がある。
二宮は崇神天皇7年、牛尾神社の里宮として勧請され、三宮に対する里宮は十禅師とされる。

◆聖女(ひじりめ)/當道座
○2023/06/01朝日新聞・夕刊
「「守り神」の曼陀羅 輝き復活」 より
 當道会所蔵「日吉山王垂迹神曼荼羅図」及び「日吉山王本地仏曼荼羅図」2幅の修理が終了する。
いうまでもなく、本図は、神は「人々の救済」のため、仏が本来の姿(本地仏)ではなく、神という仮の姿(垂迹伸)で現れたものであるという神仏習合の思想に基づき、描かれたものである。
2幅とも、100cm×40cm程の図(軸装)である。
 「日吉山王垂迹神曼荼羅図」は23の神々が並び、鎌倉末期〜南北朝期の製作、「日吉山王本地仏曼荼羅図」は10の仏を描き、その数十年後の製作と推定される。数百年間、眼の不自由な人々の守護神として、當道検校(総検校、一老)の居室に安置され伝世され、現在は京都當道会に伝わる。
 日吉山王垂迹神曼荼羅図     日吉山王本地仏曼荼羅図
「當道」は中世、近世を通じて継承された目の不自由な人びとの組織の名称であり、鎌倉期に「平家物語」を語る目の不自由な琵琶法師たちが権利確保のために形成した座が母体となったという。
南北朝期には、のちに初代総検校とみなされた明石覚一(下掲)などにより、その基礎が成立したと考えられている。
 その後、江戸期には徳川幕府に庇護され、當道職屋敷は運営されるも、明治4年、盲官廃止令により、當道という組織は終了する。これにより多くの多くの眼の不自由な人々は生活の糧を失い、困窮し、亡くなる人も多かったという。
後には「當道会」として復興される。
 日吉山王権現社の「中七社」には聖女社(ひじりめ・現在は宇佐若宮)があり、琵琶法師から崇拝されるという。
聖女社の本地仏は如意輪観音で弁才天とも同体とされる。
「日吉山王本地仏曼荼羅図」の最下段の中央には如意輪観音が描かれ、このことから「當道」の守護神とされたのであろうと推測される。
 ※聖女社(現・宇佐若宮):聖真子(現・宇佐)の東に蔵があり、更にその東に接してある。聖真子と客人(現・白山宮)の間にある。現・気比社が南にある。下に掲載の東海道名所圖繪の日吉山王宮では聖真子の東に描かれる(社名剥落)ので、近世には現在の形になったのであろう。
 聖女社(現・宇佐若宮):自前の写真が無いので、GoogleMap より転載
 ※明石覚一(明石検校):正安元年(1200)〜応安四年(1372)
Wikipediaでは次のように云う。
 足利尊氏の従弟で明石を領し、中年まで播磨書写山の僧であったが、急に失明し琵琶法師となる。
覚一は自分の屋敷に當道座を設立して、みずから惣検校となる。この座は江戸期まで続き、當道座は現在洛央小学校となっている。
琵琶以外にも按摩・鍼灸の達人でもあったともいう。
洛央小学校は東洞院仏光寺東入、現在、當道屋敷跡の石碑が建つ。


近世の日吉社(山王権現)

2022/02/24追加:
○東海道名所圖繪
東海道名所圖繪に比叡山山王宮が描かれ、近世末期の姿を見ることができる。



日吉山王宮:上図拡大図

上図によれば、近世末期には塔婆は全て姿を消す。
唯一、本宮西の神宮寺跡に、石造の「多宝塔」が描かれるのみである。
なお、左下隅は大権現宮(東照大権現)である。石階参道の中段に本地堂がある。この本地堂は現在比叡山東塔大講堂として現存する。
 ※東塔大講堂については、上掲の「東塔大講堂」の項を参照。

明治の神仏分離と破壊

明治の神仏分離で激しい破壊を受ける。
破壊焼却された什宝の明細は「神仏分離資料」の「日吉社焼捨御道具並社司之持運品覚」に数千点が列挙される。
例えば以下である。
 大宮御本地仏(厨子共)、二宮権現御神体(厨子共)、二宮権現御本地仏(厨子共)、聖真子権現御神体(厨子共)、
 聖真子権現仏体(下殿安置)・弁財天・不動明王、聖真子社本地堂仏体(厨子共)、客人宮本地仏・如法塔、
 十禅師権現本地仏(厨子共)・地蔵尊(厨子共)、三宮本地仏(厨子共)・・・・・・・膨大な軸物・御正体・経典・香炉・棟札・机
 など、あらゆる仏器・仏具が破壊・焼却される。

首謀者は日吉権現祠官樹下茂国(当時は神祇事務局権判事)および日吉権現祠官生源寺義胤で、武装した神威隊(諸国の神官出身の志士 と称する愚連隊)50人と人足50人が乱入し、神体の仏像・仏器・経典など を土足で踏みにじり、破壊・焼却をなす。
樹下は、仏像の顔を矢で射ぬき、快哉したという。(その様子は「神仏分離資料」に詳しく報告される。)
この破壊は慶応4年3月28日の布告がまだ山門に届いてない段階のこととされる。
明治2年12月樹下茂国および生源寺義胤はこの件の責任で処罰される。

「慶応4年4月朔日社司樹下茂国及び生源寺等より、延暦寺執行代に対し、七社社殿の鍵の引渡しを申し入れ。
(略)
社司側はもはや猶予ならず、この上は、武力を以って決行せんとて、樹下茂国は生源寺社司及び部下の祝部に、同士の壮士340名、並びに坂本村の人夫数十名を加えて、一隊となし、槍棒などの兵器を携えて、山王権現の神域内に乱入し,直ちに神殿に昇り、殿扉の鍵を捻じあけて殿内に入り、神体なる仏像及び僧像始め経巻法器等、苟やしくも仏臭い物件は悉く之を階下に投げ捨てた。七社ともに此れと同様であった。其取除いた数多の仏像法器は、此れを二宮社前に集積し、土足をもて蹴り、或は槍の石突や棒をもて突き砕く抔、乱暴狼藉のうえ、終に火を放ちて焼き捨てたのであった。」(「明治維新神仏分離資料」 )

2006/11/05追加:「神仏分離の動乱」より
比叡山延暦寺山王権現
山王権現祠官などに主導され、本地仏をはじめ膨大な員数の仏教的什宝が破壊・焼却される。
また社僧の多くはこの騒動のなかで復飾した。
その後は山門側の巻き返しもあり、また明治2年頃には神官に対するテロが横行すると云う。
無秩序の中で、結局は「強制的に」日吉権現は山門と分離する。
山門(延暦寺)と日吉権現との分離時の財産目録は以下の通り
・山門
  東塔 根本中堂、大講堂をはじめとして65坊
  西塔 常行堂、法華堂をはじめとして39坊
  横川 中堂、御廟をはじめとして22坊
・日吉神社
  大宮・ニ宮ほか 上七社、中七社、下七社をはじめとして本末合わせて社内百八社

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現 社 殿

西本宮本殿(国宝):天正14年(1586)建立。檜皮葺き、屋根形式は「日吉造」と云う。
東本宮本殿(国宝):文禄4年(1595)建立。
 重文建築は以下の通り。東照宮も明治の神仏分離の処置で今は日吉社の末社となる。
西本宮拝殿(桃山)、西本宮楼門(桃山)、東本宮拝殿(桃山)、東本宮楼門(桃山)、日吉三橋(大宮橋、走井橋、二宮橋)(桃山)、摂社宇佐宮本殿(桃山)、摂社宇佐宮拝殿(桃山)、摂社樹下神社本殿(桃山)、摂社樹下神社拝殿(桃山)、摂社白山姫神社本殿(桃山)、摂社白山姫神社拝殿(桃山)、摂社牛尾神社本殿(桃山)、摂社牛尾神社拝殿(桃山)、摂社三宮神社本殿(桃山)、摂社三宮神社拝殿(桃山)
2004/11/06撮影:
 大宮(西本宮)社殿1      大宮(西本宮)社殿2・・・・・国宝・天正14年(1586)再興堂
 聖真子権現(宇佐宮)      ・・・・・重文・慶長3年(1598)再興
 二宮(東本宮)社殿          ・・・・・国宝
 十禅師権現(樹下宮)本殿・・・・・重文         など国宝2棟、重文17棟の建築を残す。

2021/05/03撮影:
◇日吉三橋
大宮橋、走井橋、二宮橋を云う。何れも重文、花崗岩製。
 なお、昭和10年まで権現川に架けられた東照宮橋があった。旧国宝<大正6年指定>で、寛永11年(1634)天海が東照宮を勧請した時に架けられる。昭和10年の第一室戸台風で流出し、現存せず。
◇大宮橋は橋脚部もすべて石造で、格狭間を彫った石造高欄を付設する。幅5.0m、長さ13.9m。12本の円柱の橋脚を建て、貫でつなぎ、その上に三列の桁を置き、桁上に継ぎ材を並べ橋板を渡す構造である。天正年中豊臣秀吉が寄進と伝えるも、木橋が現在の石橋にかけ替えられたのは寛文9年(1669)という。
 山王権現大宮橋1     山王権現大宮橋2     山王権現大宮橋3
 山王権現大宮橋4     山王権現大宮橋5     山王権現大宮橋6:手前は走井橋
◇二宮橋も高欄(但し大宮橋より簡略で、高欄は板石と擬宝珠付親柱で構成)を付設する。構造は大宮橋と同一で、12本の円柱の橋脚を建て、その上に三列の桁を置き、桁上に継ぎ材を並べ橋板を渡す構造であるが、貫は用いない。規模も大宮橋と同一で幅5.0m、長さ13.9mである。天正年中豊臣秀吉が寄進と伝えるも、木橋が現在の石橋にかけ替えられたのは寛文9年(1669)という。
 山王権現二宮橋1     山王権現二宮橋2
◇走井橋には高欄は付設しない。幅4.6m、長さ13.8mを測る。方形の角柱の橋脚を6本建て、桁は省かれ、橋脚の頭に継ぎ材を置いて、橋板を架ける。橋板には反りを付ける。同じく、天正年中豊臣秀吉が寄進と伝えるも、木橋が現在の石橋にかけ替えられたのは寛文9年(1669)という。
 山王権現走井橋1     山王権現走井橋2     山王権現走井橋3
 石造三橋部材?

 山王権現山王鳥居
◇山王権現大宮楼門:重文、天正14年(1586)頃の造営と推定、三間一戸入母屋造、屋根檜皮葺、二宮楼門と比して規模が大きい。
 山王権現大宮楼門1     山王権現大宮楼門2     山王権現大宮楼門3     山王権現大宮楼門4
 山王権現大宮楼門5
 石造仏塔 - 西本宮楼門の西にある。(未見)
◇山王権現大宮拝殿:重文、天正14年(1586)本宮本殿と同時に建立。方三間、入母屋造、屋根檜皮葺、妻入り
 山王権現大宮拝殿1     山王権現大宮拝殿2     山王権現大宮拝殿3     山王権現大宮拝殿4
◇山王権現大宮本殿:国宝、天正14年(1586)再建、慶長2年(1597)に改造。桁行5間梁間3間、日吉造、屋根檜皮葺。日吉造は3間2間の身舎に、正面・両側面の3方に廂を廻らせたものである。また正面には1間の向拝と浜床を付設し、椽には勾欄を廻らす。
 山王権現大宮本殿1     山王権現大宮本殿2     山王権現大宮本殿3     山王権現大宮本殿4
 山王権現大宮本殿5     山王権現大宮本殿6
◇山王権現聖真子拝殿:重文、慶長3年(1598)建立の本殿と同じ時期に建立と推測。方3間、入母屋造妻入り、屋根檜皮葺である。
 山王権現聖真子拝殿1     山王権現聖真子拝殿2     山王権現聖真子拝殿3
◇山王権現聖真子本殿:重文、慶長3年(1598)建立。桁行5間梁間3間、日吉造、屋根檜皮葺。高い床下には大岩が露出する。
 山王権現聖真子本殿1     山王権現聖真子本殿2     山王権現聖真子本殿3     山王権現聖真子本殿4
 山王権現聖真子本殿5     山王権現聖真子本殿6
◇山王権現客人拝殿:重文、慶長3年(1598)建立の本殿と同じ時期に建立と推測。方3間、入母屋造妻入り、屋根檜皮葺で天井は小組格天井。
 山王権現客人拝殿1     山王権現客人拝殿2     山王権現客人拝殿3
◇山王権現客人本殿:重文、慶長3年(1598)建立。三間社流造、屋根檜皮葺。3間・2間が身舎、前方が庇である。一間の向拝付設。この本殿は十禅師本殿と同形式である。
 山王権現客人本殿1     山王権現客人本殿2     山王権現客人本殿3
◇三宮・八王子遥拝所:八王子山下(登山口)に三宮及び八王子遥拝所がある。
 三宮・八王子遥拝所     山王権現三宮遥拝所     山王権現八王子遥拝所     八王子山登山道展望

 山王権現三宮・八王子1     山王権現三宮・八王子2     山王権現三宮・八王子3      八王子山磐座
◇山王権現三宮本殿并拝殿:重文、慶長4年(1599)建立。本殿は三間社流造、屋根檜皮葺。拝殿は桁行4間・梁間5間、入母屋造、屋根檜皮葺、背部の本殿庇を取込ような構造で、崖造である。正面は妻であるが、入口は左に設置され軒唐破風が設けられる。
 山王権現三宮拝殿1     山王権現三宮拝殿2     山王権現三宮拝殿3     山王権現三宮拝殿4
 山王権現三宮拝殿5     山王権現三宮拝殿6     山王権現三宮本殿1     山王権現三宮本殿2
◇山王権現八王子本殿并拝殿:重文、文禄4年(1595)建立。本殿は三間社流造、屋根檜皮葺。拝殿は桁行3間・梁間5間、入母屋造、屋根檜皮葺、崖造である。背部の本殿庇を取込ような構造である。妻側が正面であるが、入口は右に設置され軒唐破風が設けられる。
 山王権現八王子拝殿1     山王権現八王子拝殿2     山王権現八王子拝殿3     山王権現八王子拝殿4
 山王権現八王子拝殿5     山王権現八王子拝殿6     山王権現八王子拝殿7     山王権現八王子拝殿8
 山王権現八王子本殿      坂本遠望・八王子より

 二宮拝殿及び十禅師:中央は二宮拝殿・左右十禅師拝殿・本殿
 二宮・楼門及び大行事:手前から大行事、二宮本殿、二宮拝殿、二宮楼門
 十禅師拝殿・本殿・二宮拝殿:中央向かって左から十禅師拝殿・本殿・二宮拝殿
◇山王権現二宮楼門:重文、天正年中から文禄2年(1573〜1593)間の再建。三間一戸入母屋造、屋根檜皮葺、2重垂木、三手先。
 山王権現二宮楼門1     山王権現二宮楼門2     山王権現二宮楼門3     山王権現二宮楼門4
 山王権現二宮楼門5
◇山王権現十禅師拝殿:重文、文禄4年(1595)建立。方三間、入母屋造、屋根檜皮葺、妻入り。他の拝殿と違うのは柱間が四方とも全て格子や格子戸を用いる。
 山王権現十禅師拝殿1     山王権現十禅師拝殿2
◇山王権現十禪師本殿:重文、文禄4年(1595)建立<墨書>。三間社流造、屋根檜皮葺、後方3間・2間が身舎、その前方一間通が庇で前室となる。
 山王権現十禅師本殿1     山王権現十禅師本殿2     山王権現十禅師本殿3     山王権現十禅師本殿4
 山王権現十禅師本殿5     山王権現十禅師本殿6     山王権現十禅師本殿7
◇山王権現二宮拝殿:重文、文禄5年(1596)頃の建立。方三間、四方の柱間は吹放ち、入母屋造、屋根檜皮葺、妻入り。
 山王権現二宮拝殿1     山王権現二宮拝殿2     山王権現二宮拝殿3     山王権現二宮拝殿4
 山王権現二宮拝殿5
◇山王権現二宮本殿:国宝、文禄4年(1595)再建。桁行5間梁間3間、日吉造、屋根檜皮葺。日吉造は3間2間の身舎に、正面・両側面の3方に廂を廻らせたものである。
 山王権現二宮本殿1     山王権現二宮本殿2     山王権現二宮本殿3     山王権現二宮本殿4
 山王権現二宮本殿5     山王権現二宮本殿6     山王権現二宮本殿7
◇大行事社:大津市文、元和5年(1619)建立。三間社流造、屋根檜皮葺、桁行3間、梁間2間(正面1間分は前室)、正面1間向拝付き、外壁は真壁造下部板張、上部白漆喰仕上。
 山王権現大行事1     山王権現大行事2
◇山王権現早尾社:中七社の1つで、比叡山への登山口を司る神として勧請されたと思われる。現在の祭神はスサノオであるが、以前は道を司る神であるサルタヒコであったという。三間社流造、檜皮葺、桁行3間、梁間2間、正面1間向拝付。
山王権現早尾社
○近江神宮から山王権現社付近にかけての山手地域には、1,000基を超えるともいわれる古墳が群集する。
山王権現境内では約70基の古墳が確認されているという。
 山王権現境内古墳1     山王権現境内古墳2     山王権現境内古墳3

日吉神宮寺遺跡
2006年10月大津市教委プレス発表
 2006年大津市教委は山中にある「日吉神宮寺遺跡」から、石垣で囲まれた室町期の建物跡の礎石などを確認したと発表する。
この地は「日吉神宮寺旧跡」と伝承され、室町期の古図に描かれている建物の位置関係とも一致するため、「古図に描かれた同寺の遺構である可能性が高い」という。
 遺跡は八王子山(381m)から横川に至る間にある。
今回見つかった建物跡は、三方を石垣で囲まれ、広さは南北約20m、東西16m。その内側に大小の礎石が多数あり、南北12m、東西9m規模の建物があったと推定される。建物跡の遺物から、室町時代の建物跡と断定される。
 市教委の調査では、室町期の「日吉山王社古図」(延暦寺蔵)には、織田信長による焼き打ち以前の建物が描かれ、遺跡に該当する場所に建物があったことが分かる。礎石の配置と古図に描かれた建物の形状から、この2つが一致する可能性が高いとみている。
 今回の調査ではまた、建物跡の約20cm下の地層で平安期の遺構面も確認される。この下層には1m以上の土の堆積があり、さらに古い遺構が存在する可能性もあるという。(中日新聞)
 ※平成17・18年度にも発掘調査が行われ、この地が伝承の通り神宮寺(根本神宮寺・神宮禅院)跡という確証が得られたという。

「叡山大師伝」では、最澄の父・三津首百枝が子供を授かる為祈願した場所(「叡岳左脚神宮右脇」)といい、後には神宮禅院となり、最澄が叡山に入り前にここで祈願し仏舎利を得たという。
「日吉山王社古図」及びその写しである「秘密山王曼荼羅」には元亀2年(1571)以前の当地と推定される場所に建物が描かれている。
「日吉山王秘密社参次第記」ではその建物に神宮寺と記されている。
江戸期には奥総社と呼ばれる小祠が建てられ、大正14年には当地に「神宮寺旧跡」と刻まれた石碑が建てられる。
さらに、近年の発掘調査の結果、北西東の三方が石積によって囲まれた方形の敷地内に室町期の礎石建物跡が発掘され、更にはその下層に平安期の遺構面があることが確認される。
敷地は南北20m、東西16mで、南以外は三方を石積が囲む。建物規模は南北12m(四間)東西9m(三間)と推定され、南側もは1mを越える大型礎石が使われている。
○近江の平安時代 - 滋賀県埋蔵文化財センター より
 日吉神宮寺遺蹟出土遺構
2022/02/27追加:
 →日吉社神道秘密記6:八王子山上西の神宮寺
2021/05/03撮影
現地案内板より
 秘密山王曼荼羅:赤○が神宮寺     神宮寺部分拡大図      日吉山王秘密社参次第記
 山王権現・神宮寺案内図     神宮寺遺構発掘調査     神宮寺遺構発掘調査図
 以上、現地案内板より
 神宮寺舊趾・石碑     神宮寺奥宮1     神宮寺奥宮2     神宮寺奥宮3
 神宮寺遺構1     神宮寺遺構2     神宮寺遺構3     神宮寺石塔残欠     神宮寺石仏類


近江坂本西教寺

草創
「西教寺縁起」などでは、推古天皇26年(618)聖徳太子が師である高麗の僧慧慈、慧聡のために建立したとするが、史実の裏付けはない。
「真盛上人往生伝記」:<明応4年(1495)、真盛の弟子の真生著> では、
平安中期に良源(慈恵大師、元三大師)が建てた草庵が草創で、その弟子・源信(恵心僧都)が伽藍を整えるという。
正中2年(1325)円観(恵鎮、慈威和尚)が西教寺を再興する。
文明18年(1486)真盛が入寺、天台念仏と戒律の道場として栄える。
 真盛は嘉吉3年(1443)伊勢一志郡に生まれ、19歳で比叡山に上り、その後20年以上も下山せず修行と学業に専念する。
 文明15年(1483)黒谷青龍寺に隠棲。文明17年(1485)真盛は下山し、翌年西教寺に入寺する。
 明応4年(1495)旅先の伊賀西蓮寺で寂する。53歳。
元亀2年(1571)織田信長による比叡山焼き討ちので西教寺も焼失する。
比叡山焼き討ちの後、滋賀郡は明智光秀に与えられ、光秀はこの地に坂本城を築く。光秀は西教寺との関係が深く、西教寺復興に助力したものと推定される。
それ故、境内には光秀の供養塔や光秀一族の墓がある。
天正18年(1590)後陽成天皇は綸旨し、荒廃した岡崎法勝寺をその末寺である西教寺に合併させる。
法勝寺の寺籍は西教寺に引き継がれ、法勝寺伝来の仏像、仏具等も西教寺に移され、それ故、西教寺の正式名を「兼法勝西教寺」という。現在、西教寺客殿の仏間に安置される秘仏・薬師如来坐像は、法勝寺の遺佛とされる。
 西教寺は、天台宗の中にあって念仏と戒律を重視する独自の一派をなすが、近世には日光輪王寺の支配下にあった。
明治11年天台宗真盛派を称する。
 ※叡山や園城寺は密教色が強いが、真盛派は念仏と戒律を重視する。
昭和16年国策により天台宗、天台宗寺門派、天台宗真盛派の三派は合同するも、昭和21年天台宗真盛派は天台真盛宗として独立する。
現在、全国に400余寺の末寺を有する。

総門を入ると参道左右に寺中6院が並ぶ。
参道の面突き当たりには勅使門があり、その左に宗祖大師殿、更に奥に本堂、客殿、書院などが建つ。諸堂は回廊で結ばれる。本堂右の高台に真盛上人廟がある。境内には他に明智光秀の供養塔、阿弥陀二十五菩薩石仏などがある。
現在以下のような堂宇を有する。
 総門:坂本城城門を移築という。
 勅使門
 本堂:重文、 元文4年(1739)再建。桁行七間、梁間六間、総欅入母屋造。
 本坊:昭和33年建立
 書院(国登録有形文化財)
 客殿:重文、慶長2年(1597)再建。桁行十二間、梁間八間、杮葺入母屋造、北面切妻、大谷吉継の母らの寄進と伝える。
 鐘楼;天保2年(1831)建立
 正教蔵(国登録有形文化財)
 宗祖大師殿(国登録有形文化財)
 真盛上人廟(国登録有形文化財):天保13年(1843)建立
 真盛学院西教寺文庫
などがある。
2021/05/03撮影:
 西教寺境内図:境内に掲示
 西教寺総門:写真なし     西教寺勅使門
 西教寺本堂1     西教寺本堂2     西教寺本堂3     西教寺本堂4     西教寺本堂5     西教寺本堂6
 西教寺大本坊1     西教寺大本坊2     西教寺書院
 西教寺客殿1     西教寺客殿2     西教寺客殿3     西教寺客殿4     西教寺客殿5     西教寺客殿6
 西教寺客殿7
 西教寺鐘楼      西教寺観音堂     西教寺正教藏
 宗祖大師殿石階     宗祖大師殿向唐門     宗祖大師殿1     宗祖大師殿2     宗祖大師殿平唐門
 宗祖大師殿手水舎     宗祖大師殿北面     真盛学院西教寺文庫
 真盛上人廟石階     真盛上人廟1     真盛上人廟2     真盛上人廟3     真盛上人廟4     真盛上人廟5
以下の寺中を有する。
 安養院:聖天堂、忠霊堂(本堂・阿弥陀堂、全国末寺の8000余の英霊を安置)、地蔵堂、弁天堂がある。
 禅智坊:大津市滋賀郡高島郡伊賀国伊勢国真盛=西組
 禅明坊:
 聞証坊:近江国野洲組蒲生組
 徳乗坊:近江国神愛組
 禅林坊:現存。伊勢国
 実成坊:
廃寺となった寺中
 蓮心坊:阿弥陀堂と称する小宇があり、蓮心坊の名を留める。
 禅教坊、常禅坊、実相坊
2021/05/03撮影:
安養院:表門・阿弥陀堂・辨天堂・地蔵堂・聖天堂・礼拝堂・蔵・庫裡・書院を具備し、何れも「国登録有形文化財」である。
 寺中安養院表門     寺中安養院本堂1     寺中安養院本堂2     寺中安養院本堂3
 寺中安養院庭園1     寺中安養院庭園2
 寺中安養院辨天堂1     寺中安養院辨天堂2     寺中安養院辨天堂3
 寺中安養院聖天堂1     寺中安養院聖天堂2     寺中安養院聖天堂3     安養院聖天堂拝殿
 寺中安養院地蔵堂     寺中安養院玄関     寺中安養院庫裡1     寺中安養院庫裡2
 禅林・聞證・禅智坊俯瞰
 寺中禅智坊1     寺中禅智坊2     寺中禅智坊3     寺中禅明坊
 寺中蓮心庵小宇:聞證坊と禅智坊の間に蓮心坊小宇が残る。既に蓮心坊は廃寺という。
 寺中聞證坊1     寺中聞證坊2     寺中聞證坊3     寺中聞證坊4
 寺中徳乗坊1     寺中徳乗坊2     寺中徳乗坊3
 寺中禅林坊1     寺中禅林坊2     寺中実成坊1     寺中実成坊2     寺中実成坊3


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