比   叡   山

比叡山・近江東塔・山城西塔・近江横川・比叡山日吉(山王)権現

比叡山近江東塔

比叡山東塔古図・沿革

2020/10/06追加:
「特別展 聖域の美ー中世寺社境内の風景-」大和文華館、2019
 比叡山東塔図:京都国立博物館蔵、99×75cm、鎌倉期
「作品解説」
本図は大きく傷み、剥落して判読不明となっている個所も多い。
中央部は「■持院」(惣持院)であり、方形二重の塔に回廊が付される。向かって右には「着衣堂」「戒壇院」(判読しずらい)とあり、上部には「観音堂」とある。
さらに右には「四王院」「講堂」「常行堂」とあり、中央の建物には「■■法花堂」の色紙形が付される。
「惣持院」に向かって左下には「山王院」「千手堂」とあり、下部には「千手井」と記される水舎がある。「惣持院」の左隣は「阿闍梨房」、上部の建物は「浄土院」であろう。左下には「弥勒堂」、上部には「■迦堂」がある。画面左下の僧侶は「慈覚大師」と注記される。
 本図の景観年代は中央の方形二重塔の解釈を巡って論争がある。即ち、円仁によって改築された「惣持院」は本図に示される方形二重塔が「葺檜皮多宝塔一基」であり実景であるというものであるが、一方「天台座主記」に元亨3年(1323)「惣持院三重塔」の焼失記事があり、実際は「惣持院塔」は三重塔であったというもので実景ではないというものである。元亨3年に焼失した塔は建保6年(1218)に再建されたものであるから、本図は当時の景観ではないという。
しかし、景観年代は別にして、技法・材質などを仔細に観察すれば、本図は鎌倉中期の作成と推定される。

○現地案内板 より
比叡山東塔絵図(鎌倉初期):
下層方5間、上層方3間、檜皮葺、相輪を載せる。仏舎利・胎蔵界5仏を安置。
天台大塔の最古の絵図とされる。
2004/11/03撮影:
 近江比叡山東塔古図:比叡山東塔絵図:左図拡大図 :鎌倉中期
なお、
本図は上に掲載の比叡山東塔図の惣持院部分の模写である。

◆天台大塔、安総:近江・宝塔院

・創建法華惣持院(東塔):
弘仁12年(821)心柱立(典拠:東塔縁起、叡山大師伝)、多宝塔:後、惣持院 と称する。多宝塔と記載されるも、形式は不明。しかし天台大塔形式の可能性が高いと思われる。
・2代法華惣持院(東塔):
仁寿3年(853)〜貞観4年(862)、多宝塔、本尊胎蔵界五仏、典拠:東塔縁起。
・3代法華惣持院(東塔):
天禄2年(971)供養(典拠:日本紀略)、大治年中(1126〜)焼亡。
・4代法華惣持院(東塔):
大治5年、多宝塔、典拠:中右記、百錬抄。

天台大塔形式:
下重は方5間の方形、上重は方3間の二重塔である。
(参考)天台大塔形式の唯一の現存例として摂津住吉社西塔)現阿波切幡寺大塔がある。
 → 摂津住吉社東西塔・阿波切幡寺大塔

なお、創建時の惣持院多宝塔形式については以下の見解もある。
「平安時代仏教建築史の研究」清水擴 では以下の見解を採る。
「山門堂舎記」では
「捴持院、在戒壇院西壇上、法名法華仏頂捴持院、
葺檜皮多宝塔、院安置体胎蔵五仏、
同五間堂一宇、(灌頂堂也、塔東)、安置胎蔵金剛曼荼羅一禎、
同方五間堂一宇、(真言堂也、塔西)、安置熾盛光大曼荼羅一禎、・・・以下略・・・
 とされ、創建時の多宝塔であると考えられる。
  「惣持院指図(葛川明王院資料)」寛喜元年(1229))では
惣持院多宝塔の平面は方5間の外観で、内部に方3間・12本、さらに内部に1間・4本の四天柱を持つ平面で著されている。
このことから、創建時惣持院多宝塔は「方5間」の大規模多宝塔であったと推定される。
また承徳2年(1098)供養の祇園感神院多宝塔では「中右記」記事より、塔下層は天台系の求心形の方5間であったことは確実であろう。

昭和再興天台大塔
法華総持院東塔:
元亀2年(1571)焼失。昭和55年約400年ぶりに再興。佐川急便はじめ信徒の寄付で法華総持院として復興。
総高約30m、総檜造り。
上層:仏舎利と法華経千部、般若心経50万巻、千万遍の念仏名号を安置、下層:胎蔵界大日如来五仏を安置と云う。
2001/04/28撮影:
 比叡山東塔1     比叡山東塔2     比叡山東塔3
2004/11/03撮影:
 近江比叡山東塔
2010/05/23追加;
 近江比叡山東塔空撮:朝日新聞報道写真
2013/08/30追加:
 比叡山東塔絵葉書:東塔竣工直後頃の絵葉書と推定される。(s_minaga蔵、入手経路は失念)

◆六所宝塔:
 安東:上野:宝塔院:在上野国緑野郡(緑野寺)、江戸期の再興塔現存 上野緑野寺跡
 安南:豊前:宝塔院:在豊前国宇佐郡(宇佐神宮)→筥崎神宮寺宝塔に変更 八幡宇佐宮 筥崎神宮寺
 安西:筑前:宝塔院:在筑前国:(竈門山)太宰府市内山、竈門神社下宮に礎石残存というも、
                     近年本谷礎石群が発掘され、この遺構の可能性が取りざたされる。竈門山
 安北:下野;宝塔院:在下野国都賀郡(大慈寺) 下野大慈寺塔跡
 安中:山城:宝塔院:在比叡山西塔院
 安総:近江:宝塔院:在比叡山東塔院

筥崎神宮寺宝塔造立の事情は以下に詳細がある。
承平7年(937)「大宰府牒」:(「石清水八幡宮文書之二」所収)
「府牒 筥崎宮 応令造立神宮寺多宝塔一基事
 牒 得千部寺僧兼祐申状偁、謹案天台伝教大師去弘仁八年遺記云、為六道衆生直至仏道発願、於日本国書写六千部法華経、建立六箇所宝塔、一一(?)塔上層安置千部経王、下壇令修法華三昧、其安置建立之処、叡山東西塔、上野下野国、筑前竈門山、豊前宇佐弥勒寺者、而大師在世及滅後僅所成五処塔也、就中竈門山分塔、沙弥証覚在俗之日、以去承平3年造立已成。
上安千部経、下修三昧法、宛如大師本願、未成一処塔者、謂字弥勒寺分也、伝聞弥勒寺未究千部、書写二百部之間、去寛平年中悉焼亡乎、爰末葉弟子兼祐、添歎大師遺書之未遂、寸心発企念、弥勒寺分経火滅之替、於筥崎神宮寺、新書備千部、造一基宝塔、於上層安置千部、下間令修三昧、以可果件願、然則始自承平5年、且唱於知識令写経王、且運材木捜於彼宮辺巳了、彼宮此宮雖其地異、早欲造件塔、仏事之功徳、凡為鎮国利民也者、府判依謂、宮祭之状、早造立将令遂本願、故牒、
       承平7年10月4日 大典惟宗朝臣(花押) 参議師橘朝臣『公頼』」

比叡山諸伽藍

比叡山根本中堂:
天正17年豊臣氏によって再興、寛永19年(1642)<寛永7年とも>家光により大改造。国宝。
桁行11間梁間6間・単層・入母屋造・銅板葺・前面左右に回廊を付設。
2001/04/28撮影
 比叡山根本中堂1     比叡山根本中堂2     比叡山根本中堂3

2007/08/12追加:
昭和31年焼失大講堂
天正17年(1589)頃、根本中堂と同一時期の建立(寛永10年再興とも云う)。重層・入母屋造。丹塗。
昭和31年10月焼失。
 東塔焼失大講堂1:「滋賀県写真帖」、滋賀県、明43年 より
 東塔焼失大講堂2    東塔焼失大講堂内部:「特別保護建造物及国宝帖」内務省宗教局編、東京:審美書院、明43年 より
 東塔焼失大講堂3:「比叡山写真帖」赤松円麟、坂本村:延暦寺事務所、明治45年 より :2008/12/31写真入替
現大講堂(重文)
梁間11間梁間9間、入母屋造屋根銅板葺、寛永11年(1634)の建築。
現大講堂は山下坂本にある東照宮の本地堂(讃仏堂)を移築する。昭和36年竣工。
本尊は大日如来。本尊の両脇には向かって左から日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍の像を安置。これ等の像はいずれも 関係各宗派から寄進されたものと云う。
 坂本東照宮讃仏堂:「比叡山写真帖」赤松円麟、坂本村:延暦寺事務所、明治45年 より
   :東照大権現本地堂:山上東塔大講堂として移築前の現地にある讃仏堂写真である。
   讃仏堂は東照宮社殿に向い右側(北)にあった。現在は比叡山高校グランドの位置と思れる。
   (参道を挟み、讃仏堂南には戒蔵院、観樹院、中道庵がある。)


比叡山山城西塔

相輪橖(トウ):
安中:山城:宝塔院:
延長2年(924)露盤造、宝塔形式、本尊五仏、典拠:日本高僧伝要文抄

現在は明治28年改修という相輪橖(トウ)(重文)がある。
高さ約10m(35尺)、<高さ13,5mとも云うが、これは台座?を含む総高とも思われる?)、青銅製。
明治28年大改修・殆ど改鋳され旧観を一新すると云う。
※今の橖は明治28年に全部改鋳され、古い部分は一つもない。弘仁11年(820)の文字ある銘板もこの時の改鋳らしく新しい。
山麓の「叡山文庫」に以前の銘板が取り付けられたが、これも江戸中期のものと思われる。
古記録や古図から見て、現在の相輪橖(トウ)は古い形式が失われていると思われる。
 (「比叡山」比叡山執行部編集、昭和29年初版・昭和49年再改版)
橖(トウ)内には法華経、大日経などを安置という。
○「比叡山写真帖」赤松円麟、坂本村:延暦寺事務所、明治45年 より
 西塔相輪橖(トウ)

西塔釈迦堂:
南北朝期・重文。転法輪堂。桁行7間梁間8間・単層・入母屋造・銅板葺で西塔の中心をなす堂である。
元園城寺の金堂で秀吉の命により山麓より移築する。
2001/04/28撮影:
 比叡山西塔釈迦堂


比叡山近江横川

比叡山延暦寺横川根本如法塔
大正14年建立。根本如法塔と称する。山口玄洞氏寄進。再建された横川中堂のすぐ北方尾根上の中腹にある。
天長年間、円仁が三昧を行い、如法写経を始めたところと伝え、長元4年(1031)円仁書写の如法経を埋葬した地と伝える。
2001/04/28撮影:
 横川根本如法塔1    横川根本如法塔2    横川根本如法塔3
2012/12/25撮影:
 横川根本如法塔4:京阪電鉄出町柳駅掲示パネル写真

天長6年(819)円仁、横川にて草庵を結び、天台法華懺法を読誦し、四種三昧を練行す、天長8年妙法蓮華経を写経す。(「門葉記」引用「沙門壱道記」)
天長10年円仁、横川に草庵を結び、練行に励み、法華経1部を写経、この写経を小塔に納め、堂中に安置し首楞厳院と号す。(「門葉記」引用「如法経揺籃類聚記」)・・・後に如法堂と称す。
円仁創建の堂(如法堂)はその後荒廃もしくは退転し、恵心僧都源信により新たに小塔収納の銅製多宝塔が造られ、堂内に安置された。根本如法堂 葺檜皮方5間堂 安置多宝塔(高5尺) 又旧白木小塔(奉納如法経) ・・・(新造堂塔記」)
如法堂破滅の事態に備え、如法経収納小塔は銅筒に納め、末法の時、地中に埋め、慈尊の出生(弥勒菩薩)を待つ処置をとることにいたる。(如法堂銅筒記)
○「平安時代仏教建築史の研究」:大正12年
如法堂跡より、銅筒を発掘、轆轤塔はその残片のみの状態であったが、銅筒の形態から、宝塔形式であったであろう。
なお発掘状況の詳細は「考古学雑誌 第14巻5号」(大正12年)にあり、銅筒は昭和17年夏雷火によって消失。
現在の根本如法塔の場所が如法堂跡で塔建立の工事中に銅筒を発見したという。
 ○如法堂跡出土経筒

横川(首楞厳院)中堂:横川の中心をなす堂で、昭和17年夏雷火で焼失。昭和46年再建。RC造。
2001/04/28撮影:
 比叡山横川中堂

2007/08/12追加:
昭和17年焼失横川中堂
嘉承元年(848)慈覚大師円仁の開創。
慶長年間豊臣秀頼・淀君の寄進により再興堂、堂の規模は9間に7間。入母屋造杮葺。
昭和17年夏雷火によって焼失。
○「滋賀県写真帖」、滋賀県、明43年 より
 横川焼失中堂1
○「比叡山写真帖」赤松円麟、坂本村:延暦寺事務所、明治45年 より
 横川焼失中堂2:2008/12/31写真入替

2007/08/12追加:
四季講堂(元三大師堂)
慈恵大師(元三大師)良源の住坊定心房であったとされる。建保4年(967)村上天皇の勅により、年四回、四季に法華経論議が行われるようになる。
本尊は弥勒菩薩であったが、現在は元三大師を本尊にするゆえに「元三大師堂」とも称する。
○「比叡山写真帖」赤松円麟、坂本村:延暦寺事務所、明治45年 より
 横川四季講堂

2007/08/12追加:
安楽律院
横川の飯室谷にある。平安中期、叡桓によって開かれる。現在の安楽律寺は江戸中期、妙立・霊空などにより安楽律宗の本寺として再興される。昭和 24年放火により焼失、現在は本堂・護摩堂・山門のみが残り、無住のようで廃寺同様となる。(20から30年前の状況)
○「比叡山写真帖」赤松円麟、坂本村:延暦寺事務所、明治45年 より
 飯室谷安楽律院


比叡山山王権現(根本大塔、七重塔、新御塔)

参考文献:
「廃仏毀釈の行方」藝術新潮、1973.3:所収「日吉社における習合と廃仏」景山春樹:
「日吉社の塔について」景山春樹、佛教藝術 44、昭和35年:
「日本史リブレット32:中世の神と仏」末木文美土、山川出版、2003

◆日吉山王権現の概要
 日吉社は、最澄が比叡山寺を営んだ時、まず日吉神宮禅院(神宮寺(*1))に詣で、香炉灰の中から一粒の舎利を得て登ったという ことにも表れているように、仏教と不可分な関係にあった。最澄は神宮禅院で得舎利を安置する場所を求め、大宮川を遡り、虚空蔵尾に至り、比叡山寺の基を作ったという。
東本宮は大山咋を祀り、記紀の時代からある地主神(「大山咋神は近淡国の日枝山に坐す」古事記)とされる。
西本宮は天智天皇7年に、大津京遷都に際し、大和大三輪の日吉社を勧請したとされる。
 *1:神宮寺は西本宮の西北の行者道沿いにその跡を残すという。(未見)
 2013/08/04追加:
 ○「日吉神宮寺跡」(「大津市埋蔵文化財調査年報 平成18年度」大津市教育委員会、2007 所収) より
  神宮寺跡の位置:(西本宮の西北の行者道沿い)または八王子山西側の大宮川谷筋から北方に上ったところに位置する。
 なお、八王子山山頂東に八王子社・三宮が鎮座する。
 2006年にこの地は発掘調査され、石組や礎石建物跡が発掘される。
 今回発掘された建物跡は「日吉秘密社参次第記」などの古絵図に描かれる神宮寺と非常に共通項が多いと評価される。

最澄との関係以来、日吉社は山王権現と呼ばれ、比叡山の地主神と崇められ、天台の法儀には、先ずその道場に神祇勧請が行われることとなる。まさにこれが天台の伝統となる。
また本地垂迹説により、山王の諸神には本地仏が定められ、山王本地曼荼羅が作成された。社殿には神像と並んで本地の懸仏(御正体)が礼拝され、経巻や法具が並べられ護摩供などが執り行われていたのが中世や近世の実体であった。

2012/04/03追加:
サイト「月刊 京都史跡見学会」の「第24号【神・神社とその祭神】《そのXIV》日吉大社(2008/10/19発行) 」では以下のように解説する。
 『日吉社禰宜口伝抄』には、「上代の日吉神社は今の八王子社なり。この峰は比叡山の東尾にあり、一に牛尾といい、また並天塚(あまなみのつか)という。その五百津石村(いほついわむら)は山末之大主神の御陵なり。その妻玉依比売御陵は、奥の御蔭(みかげ)の大岩なり」とある。
つまり、日枝山が神体山であると述る。
 また、『禰宜口伝抄』によると「天智天皇七年(668)三月三日、・・・大和国三輪山に坐す大己貴神(を比叡の山口において祭る」とある。
つまり、天智天皇が近江朝を定めた翌年に、古都の守護神であった三輪明神を勧請して、新都を守護してほしいとの思惑があったと思わる。
後年、地主神の大山咋神が二宮(東本宮)の祭神となり、勧請神の大己貴神は、大宮(西本宮)の祭神となる。
 和銅5年(712)日吉山王社が、藤原武智麻呂によって比叡山の東麓創建される。
そのときに、日枝山(牛尾山)の山頂に八王子(牛尾宮)と三宮を建て、前者に大山咋神の荒魂が、後者に鴨玉依比売神の荒魂が祀られる。これを山宮といい、その後、日枝山麓に里宮を移し、二宮に大山咋神の和魂を祀り、樹下(このもと)神社に鴨玉依比売神の和魂を祀ることになる。こうして、二宮系の4社が成立する。
 一方、大己貴神を祀る本宮の地に、貞観6年(859)聖真子権現(しょうしんじごんげん・宇佐宮・八幡神)が建立され、同じ頃、客人(まろうど・白山宮)も建立され、ここに大宮系の3社が成立する。以上の7社を合わせて「日吉七社」とか「山王上七社」とかと呼称する。

2012/04/03追加:
◆日吉山王権現の塔婆
 中世までの境内を知る手掛りとして多くの「山王宮曼荼羅」(自然景と社殿を俯瞰して描く形式)が伝えられる。
現在までに入手できた「山王宮曼荼羅」の画像から日吉山王権現の塔婆の様子を概観することが出来る。

○山王宮曼荼羅

 山王宮曼荼羅:奈良国立博物館蔵:サイト「月刊 京都史跡見学会」より転載 :左図拡大図
 山王宮曼荼羅部分図:奈良国立博物館蔵:「中世の神と仏」より転載
 山王宮曼荼羅モノクロ:奈良国立博物館蔵:「中世の神と仏」より転載
本図は重文、絹本著色掛幅描表具、法量は120.7×68.1cm(含描表具171.4×77.9cm)
文安4年(1447)銘。
上方には日吉山王21社の本地仏・祭神の画像及び本地仏種字、本地仏名、社名を記す。
 山王曼荼羅には多くの違例が残るが、本図は自然景と社殿を描く宮曼荼羅形式の絵図である。
本図と基本構図を同一とするものには室町期の制作とみられる延暦寺蔵・日吉神社社頭絵図などがある。(いずれも下に掲載)
なお、本図には旧表背貼付紙の墨書が付属、三度にわたる修理銘などが記されているが、最も古い「日輪院長瑜」の文安4年(1447)の裏書には「西塔西谷」(但し西塔に西谷は存在しない)から本図が相伝されたことを述べる。作風から南北朝期を降らない頃の作と思われると評価される。
 ※八王子山下中央に根本大塔と二宮(現東本宮)西に新御塔が描かれるが、
  大宮(現西本宮)西には七重塔は描かれない。
2015/03/05追加:
「日本の美術72 古絵図」難波田徹編、至文堂、昭和47年 より
 山王宮曼荼羅部分図2:山麓中央に根本大塔、二宮に新御塔が描かれる。
 

2020/10/06追加:
山王宮曼荼羅:奈良国立博物館蔵:「特別展 聖域の美ー中世寺社境内の風景-」大和文華館、2019 より
上記の山王宮曼荼羅と同じものである。図版としては上記のものより明瞭である。
向かって左に大宮(西本宮)、右に二宮(東大宮)、中央に根本大塔、二宮西に新御塔が描かれる。
なお、本作品には旧裱背添付紙が付属し、文安4年(1447)に比叡山西塔から相伝されたことが分かる。

紙本着色日吉山王宮曼荼羅図: 延暦寺蔵:室町期成立か:
  リーフレット「日吉の神と祭」大津市歴史博物館、2011 より転載
 ※大宮(現西本宮)西に七重塔、八王子山下中央に根本大塔、二宮(現東本宮)西に新御塔が描かれる。
2015/03/05追加:
「日本の美術72 古絵図」難波田徹編、至文堂、昭和47年 より
 日吉山王社絵図・延暦寺蔵:上記と同一図

山王宮曼荼羅図:近江日吉山王権現蔵: 室町期成立か:
  サイト「大津市歴史博物館」「天台を護る神々 -山王曼荼羅の諸相-」平成16年 より転載
秘密山王曼荼羅:近江日吉山王権現蔵:サイト「月刊 京都史跡見学会」より転載
 ※上記と同じく、大宮の西に七重塔、八王子山下中央に根本大塔、二宮の西に新御塔が描かれる。
2015/03/05追加:
「日本の美術72 古絵図」難波田徹編、至文堂、昭和47年 より
 日吉山王社絵図・山王権現蔵:上記と同一図

以上のように、日吉山王権現の境内には、佛教的施設の象徴的建物として、中世まで以下の塔婆が存在することが知られる。
即ち、
根本大塔(*2)(多宝塔、塔下総社がその位置を示すという)、神宮寺には七重塔 (*3)があり、新御塔(*4)(神体山上り口)である。
さらに石造の法華塔(*5)(一丈八尺)なども造立される。

 □山王二十一社並八十七社絵図神宮寺図(叡山文庫) ・・・七重塔・多宝塔(根本大塔)・石塔が描かれる。

*2:根本大塔
天慶5年(942)平将門の調伏のため造立と伝える。
延慶元年(1308)焼失。元徳元年(1329)塔供養と記録される。
その後も度々造替され近世まで存続する。その位置は山王鳥居のすぐ北側で、今の総社の位置という。そばに塔下惣社と呼ばれる末社が建てられ、塔下彼岸所が付属していた。
 ※塔下惣社という小祠が存在するとも思われるも未確認。
 □秘密山王曼荼羅・根本大塔附近(日吉神社・行広)・・・根本大塔
 □日吉社宝塔曼荼羅:京都・神田喜一郎蔵・鎌倉後期):根本大塔を曼荼羅として表現 したものという。
 日吉山王宝塔曼荼羅:大谷大学博物館蔵、絹本着色:同上:2012/04/03追加
 □山王二十一社並八十七社絵図多宝塔図(叡山文庫) ・・・多宝塔
   ※この塔(多宝塔)については実態が不詳で良く分からない。あるいはこの図は根本大塔とも思われるが新御塔の可能性もある。
2008/02/27追加:「古図にみる日本の建築」より
 日吉山王秘密社参次第絵巻・1:絵の右の宝塔が根本大塔と推定される。(左の宝塔は新御塔と推定される。):日吉大社蔵

※創建時(平安期)の根本大塔の形式については以下の考察がある。
 創建時の根本大塔の形式は全く不明であるが、「秘密山王曼荼羅」・「日吉社宝塔曼荼羅」に描かれた「根本大塔」はいずれも中世の根本大塔を著していると考えらる 。即ち「秘密山王曼荼羅」の根本大塔は方形基壇に建ち、円形亀腹(一階塔身)上に高欄を廻し、さらに二階として円形塔身を載せた一重二層の宝塔形式である ように描かれる。屋根は方形で火炎宝珠を載せた相輪を建て、四隅に鎖を垂らす。
「日吉社宝塔曼荼羅」にも極めて酷似した「宝塔」が描かれる。
 以上から判断すれば、この時代(中世・室町期)の多宝塔はいわゆる「多宝塔形式」が一般的となっているのに、わざわざ「宝塔」形式と云う極めて珍しい形式で根本大塔が 描かれるということは、根本大塔は宝塔形式あったものと推定される。
即ち、創建時の根本大塔も宝塔形式であり、そのため中世の再興に於いても、宝塔形式を遵守して再興されたものとの推論が可能と思われる。

*3:七重塔
貞元2年(977)の建立と伝え、度々造替されるが、元亀の兵乱で姿を消しその後再興に至らずと推定される。
日吉社根本神宮寺附近にあったと伝承される。
 □秘密山王曼荼羅・七重塔附近(日吉神社・行広)・・・ 七重塔前に「石塔」が描かれる。
2008/02/27追加:「古図にみる日本の建築」より
 日吉山王秘密社参次第絵巻・2:絵の左に「後醍醐天皇御願利生七重塔」とある。右は大宮。
   大宮・七重塔間に「白河院御願多宝塔(石造)」がある。:日吉大社蔵

 ※近江利生塔については通常「芦浦観音寺」(芦浦観音寺は近江安国寺であるとされる近江八幡金剛寺の堂を残すと云う。)とされるが、資料の裏づけがある訳ではない 。
日吉山王権現七重塔に「後醍醐天皇御願利生七重塔」とあり、良くは分からないが、日吉山王権現七重塔が「利生塔」との認識があった可能性があるのであろうか。

*4:新御塔
嘉禄元年(1225)美福門院・後鳥羽院の発願という。
神体山上り口附近に建立というが、位置ははっきりしないと云う。
2008/02/27追加:「古図にみる日本の建築」より
 日吉山王秘密社参次第絵巻・1:絵の左の宝塔が新御塔と推定される。(右の宝塔は根本大塔と推定される。) :日吉大社蔵
なお
 山王曼荼羅(奈良国立博物館):文安4年(1447)の銘、右端は東本宮で、その社頭左に多宝塔(美福門院建立)があった。
また左端が西本宮で、東本宮から西本宮に至る中間に根本塔(宝塔形式のようです)があったようである。

  ※「山王二十一社並八十七社絵図」・「秘密山王曼荼羅」は元亀焼亡の後の復興期・天正年中に描かれたものとされる。
  ※「日吉山王秘密社参次第絵巻」は1巻、天正7年(1579)南光坊祐能法印絵、天和3年(1683)模写(巻末の記)、
    元亀の兵火で焼失した日吉権現の復興と布教のために描かれたとされる。日吉大社蔵

*5:石造大塔婆
嘉禎2年(1236)大宮と二宮の間に建立されたという。
この石塔の塔身は昭和25年頃まで、推定当初位置に残存していた。現在(昭和35年)京都嵯峨井上博道氏植木畑にあるという。おそらく明治の神仏分離で相輪、屋覆、台座などは散逸し、塔身のみ現地に打ち捨てられたものと思われる。
この宝塔屋覆は下坂本比叡辻観福寺にある。(土地の伝承)井上氏所有塔身とは釣り合うようです。
なお井上氏植木畑には境内大宮川の渓から発見された石造宝塔(身・屋覆)も買い取られ現存するという。

西本宮楼門前の左手山林中に石造宝塔(現桓武天皇記念碑)が現存する。
昔はこの石塔前に拝殿があり、常住の供僧が12人もいて、昼夜勤行がなされていたと伝える。

延慶元年(1308)塔下彼岸所から出火し、根本大塔、七重塔、七社社殿・社務所、彼岸所、仏堂、不断経所などを焼失。
元徳元年(1329)塔供養。
元亀2年(1571)信長の叡山焼き討ちで全焼。「社頭108社・拝殿・・塔門瑞垣、諸彼岸所以下、七重塔婆放火・・・」

「中世の神と仏」末木文美土、日本史リブレット2、山川出版社、2003
日吉山王社は
大宮(西本宮・釈迦)、二宮(東本宮・本地薬師)、聖真子権現(宇佐宮・阿弥陀)、八王子権現(牛尾宮・千手観音)、客人権現(白山宮・十一面観音)、十禅師権現(樹下宮・地蔵)、三宮(三宮・普賢)を上7社とし、中7社・下7社を合わせ山王21社といい、その末社を合わせ108社の組織であった。

比叡山山王権現の組織:2008/02/07追加

山王21社の概要は以下の通り。
現社名・現祭神は現在の名称を示す。なお東本宮境内の各社は、「大山咋神の家族および生活を導く神々」と云われる。
明治の神仏分離で、本来の形に戻すとして、大宮と二宮の祭神を入れ替え、大宮の大山咋神を主祭神とし、大物主神を祀る二宮は摂社・大神神社に格下げするも、昭和初年に元の形に復すると云う。

山王21社 社 名 所 在 現 社 名 現 祭 神
上七社(山王七社) 大宮(大比叡)   西本宮 大己貴神
二宮(小比叡)   東本宮 大山咋神
聖真子   宇佐宮 田心姫神
八王子 八王子山頂 牛尾神社 大山咋神荒魂
客人   白山姫神社 白山姫神
十禅師 東本宮境内(妃) 樹下神社 鴨玉依姫神
三宮 八王子山頂 三宮神社 鴨玉依姫神荒魂
中七社 大行事 東本宮境内(父) 大物忌神社 大年神
牛御子 牛尾神社拝殿内 牛御子社 山末之大主神荒魂
新行事 東本宮境内(母) 新物忌神社 天知迦流水姫神
下八王子 東本宮参道 八柱社 五男三女神
早尾 境内入口附近 早尾神社 素盞嗚神
王子 境外・止観院の附近 産屋神社 鴨別雷神
聖女 宇佐宮境内 宇佐若宮 下照姫神
下七社 小禅師 東本宮境内(子) 樹下若宮 玉依彦神
大宮竈殿 西本宮境内 竈殿社 奥津彦神・奥津姫神
二宮竈殿 東本宮境内 竈殿社 奥津彦神・奥津姫神
山末 東本宮参道 氏神神社 鴨建角身命・琴御館宇志麿
岩滝 東本宮参道 巌滝社 市杵島姫命・湍津島姫命
剣宮 白山姫神社境内 剣宮社 瓊々杵命
気比 宇佐宮境内 気比社 仲哀天皇

なお、牛尾山(八王子山)山頂に磐座があり、元来これが元々の信仰形態と云われる。磐座を挟み2社の奥宮(八王子・三宮)がある。
二宮は崇神天皇7年、牛尾神社の里宮として勧請され、三宮に対する里宮は十禅師 とされる。

明治の神仏分離と破壊

明治の神仏分離で激しい破壊を受ける。
破壊焼却された什宝の明細は「神仏分離資料」の「日吉社焼捨御道具並社司之持運品覚」に数千点が列挙される。
例えば以下である。
 大宮御本地仏(厨子共)、二宮権現御神体(厨子共)、二宮権現御本地仏(厨子共)、聖真子権現御神体(厨子共)、
 聖真子権現仏体(下殿安置)・弁財天・不動明王、聖真子社本地堂仏体(厨子共)、客人宮本地仏・如法塔、
 十禅師権現本地仏(厨子共)・地蔵尊(厨子共)、三宮本地仏(厨子共)・・・・・・・膨大な軸物・御正体・経典・香炉・棟札・机
 など、あらゆる仏器・仏具が破壊・焼却される。

首謀者は日吉権現祠官樹下茂国(当時は神祇事務局権判事)および日吉権現祠官生源寺義胤で、武装した神威隊(諸国の神官出身の志士 と称する愚連隊)50人と人足50人が乱入し、神体の仏像・仏器・経典など を土足で踏みにじり、破壊・焼却をなす。
樹下は、仏像の顔を矢で射ぬき、快哉したという。(その様子は「神仏分離資料」に詳しく報告される。)
この破壊は慶応4年3月28日の布告がまだ山門に届いてない段階のこととされる。
明治2年12月樹下茂国および生源寺義胤はこの件の責任で処罰される。

「慶応4年4月朔日社司樹下茂国及び生源寺等より、延暦寺執行代に対し、七社社殿の鍵の引渡しを申し入れ。
(略)
社司側はもはや猶予ならず、この上は、武力を以って決行せんとて、樹下茂国は生源寺社司及び部下の祝部に、同士の壮士340名、並びに坂本村の人夫数十名を加えて、一隊となし、槍棒などの兵器を携えて、山王権現の神域内に乱入し,直ちに神殿に昇り、殿扉の鍵を捻じあけて殿内に入り、神体なる仏像及び僧像始め経巻法器等、苟やしくも仏臭い物件は悉く之を階下に投げ捨てた。七社ともに此れと同様であった。其取除いた数多の仏像法器は、此れを二宮社前に集積し、土足をもて蹴り、或は槍の石突や棒をもて突き砕く抔、乱暴狼藉のうえ、終に火を放ちて焼き捨てたのであった。」(「明治維新神仏分離資料」 )

2006/11/05追加:「神仏分離の動乱」より
比叡山延暦寺山王権現
山王権現祠官などに主導され、本地仏をはじめ膨大な員数の仏教的什宝が破壊・焼却される。
また社僧の多くはこの騒動のなかで復飾した。
その後は山門側の巻き返しもあり、また明治2年頃には神官に対するテロが横行すると云う。
無秩序の中で、結局は「強制的に」日吉権現は山門と分離する。
山門(延暦寺)と日吉権現との分離時の財産目録は以下の通り
・山門
  東塔 根本中堂、大講堂をはじめとして65坊
  西塔 常行堂、法華堂をはじめとして39坊
  横川 中堂、御廟をはじめとして22坊
・日吉神社
  大宮・ニ宮ほか 上七社、中七社、下七社をはじめとして本末合わせて社内百八社

現社殿

 大宮(西本宮)社殿1      大宮(西本宮)社殿2・・・・・国宝・天正14年(1586)再興堂
 聖真子権現(宇佐宮)      ・・・・・重文・慶長3年(1598)再興
 二宮(東本宮)社殿          ・・・・・国宝
 十禅師権現(樹下宮)本殿・・・・・重文         など国宝2棟、重文17棟の建築を残す。

西本宮本殿(国宝):天正14年(1586)建立。檜皮葺き、屋根形式は「日吉造」と云う。
東本宮本殿(国宝):文禄4年(1595)建立。
 重文建築は以下の通り。東照宮も今は日吉大社の所属なのであろうか。
西本宮拝殿(桃山)、西本宮楼門(桃山)、東本宮拝殿(桃山)、東本宮楼門(桃山)、日吉三橋(大宮橋、走井橋、二宮橋)(桃山)、摂社宇佐宮本殿(桃山)、摂社宇佐宮拝殿(桃山)、摂社樹下神社本殿(桃山)、摂社樹下神社拝殿(桃山)、摂社白山姫神社本殿(桃山)、摂社白山姫神社拝殿(桃山)、摂社牛尾神社本殿(桃山)、摂社牛尾神社拝殿(桃山)、摂社三宮神社本殿(桃山)、摂社三宮神社拝殿(桃山)、
末社東照宮本殿・石の間・拝殿(江戸)、末社東照宮唐門(江戸)、末社東照宮透塀(江戸)


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