比   叡   山

比叡山・近江東塔・山城西塔・近江横川・比叡山日吉(山王)権現

比叡山近江東塔

天台大塔、安総:近江・宝塔院

・創建法華惣持院(東塔):
弘仁12年(821)心柱立(典拠:東塔縁起、叡山大師伝)、多宝塔:後、惣持院 と称する。多宝塔と記載されるも、形式は不明。しかし天台大塔形式の可能性が高いと思われる。
・2代法華惣持院(東塔):
仁寿3年(853)〜貞観4年(862)、多宝塔、本尊胎蔵界五仏、典拠:東塔縁起。
・3代法華惣持院(東塔):
天禄2年(971)供養(典拠:日本紀略)、大治年中(1126〜)焼亡。
・4代法華惣持院(東塔):
大治5年、多宝塔、典拠:中右記、百錬抄。

比叡山東塔絵図(鎌倉初期):
下層方5間、上層方3間、檜皮葺、相輪を載せる。仏舎利・胎蔵界5仏を安置。
天台大塔の最古の絵図とされる。
2004/11/03撮影:
 近江比叡山東塔古図:比叡山東塔絵図:左図拡大図 :鎌倉中期

天台大塔形式:
(参考)天台大塔形式の唯一の現存例として摂津住吉社西塔)現阿波切幡寺大塔がある。
摂津住吉社東西塔・阿波切幡寺大塔

なお、創建時の惣持院多宝塔形式については以下の見解もある。
「平安時代仏教建築史の研究」清水擴 では以下の見解を採る。
「山門堂舎記」では
「捴持院、在戒壇院西壇上、法名法華仏頂捴持院、
葺檜皮多宝塔、院安置体胎蔵五仏、
同五間堂一宇、(灌頂堂也、塔東)、安置胎蔵金剛曼荼羅一禎、
同方五間堂一宇、(真言堂也、塔西)、安置熾盛光大曼荼羅一禎、・・・以下略・・・
 とされ、創建時の多宝塔であると考えられる。
 惣持院指図(葛川明王院資料)」寛喜元年(1229))では
惣持院多宝塔の平面は方5間の外観で、内部に方3間・12本、さらに内部に1間・4本の四天柱を持つ平面で著されている。
このことから、創建時惣持院多宝塔は「方5間」の大規模多宝塔であったと推定される。
また承徳2年(1098)供養の祇園感神院多宝塔では「中右記」記事より、塔下層は天台系の求心形の方5間であったことは確実であろう。

再興天台大塔
法華総持院東塔:
元亀2年(1571)焼失。昭和55年約400年ぶりに再興。佐川急便はじめ信徒の寄付で法華総持院として復興。
総高約30m、総檜造り。
上層:仏舎利と法華経千部、般若心経50万巻、千万遍の念仏名号を安置、下層:胎蔵界大日如来五仏を安置と云う。

2001/04/28撮影:
 比叡山東塔1     比叡山東塔2     比叡山東塔3
2004/11/03撮影:
 近江比叡山東塔
2010/05/23追加;
 近江比叡山東塔空撮:朝日新聞報道写真
2013/08/30追加:
 比叡山東塔絵葉書:東塔竣工直後頃の絵葉書と推定される。(s_minaga蔵、入手経路は失念)

六所宝塔:
 安東:上野:宝塔院:在上野国緑野郡(緑野寺)、江戸期の再興塔現存 上野緑野寺跡
 安南:豊前:宝塔院:在豊前国宇佐郡(宇佐神宮)→筥崎神宮寺宝塔に変更 八幡宇佐宮 筥崎神宮寺
 安西:筑前:宝塔院:在筑前国:(竈門山)太宰府市内山、竈門神社下宮に礎石残存というも、
                     近年本谷礎石群が発掘され、この遺構の可能性が取りざたされる。竈門山
 安北:下野;宝塔院:在下野国都賀郡(大慈寺) 下野大慈寺塔跡
 安中:山城:宝塔院:在比叡山西塔院
 安総:近江:宝塔院:在比叡山東塔院

筥崎神宮寺宝塔造立の事情は以下に詳細がある。
承平7年(937)「大宰府牒」:(「石清水八幡宮文書之二」所収)
「府牒 筥崎宮 応令造立神宮寺多宝塔一基事
 牒 得千部寺僧兼祐申状偁、謹案天台伝教大師去弘仁八年遺記云、為六道衆生直至仏道発願、於日本国書写六千部法華経、建立六箇所宝塔、一一(?)塔上層安置千部経王、下壇令修法華三昧、其安置建立之処、叡山東西塔、上野下野国、筑前竈門山、豊前宇佐弥勒寺者、而大師在世及滅後僅所成五処塔也、就中竈門山分塔、沙弥証覚在俗之日、以去承平3年造立已成。
上安千部経、下修三昧法、宛如大師本願、未成一処塔者、謂字弥勒寺分也、伝聞弥勒寺未究千部、書写二百部之間、去寛平年中悉焼亡乎、爰末葉弟子兼祐、添歎大師遺書之未遂、寸心発企念、弥勒寺分経火滅之替、於筥崎神宮寺、新書備千部、造一基宝塔、於上層安置千部、下間令修三昧、以可果件願、然則始自承平5年、且唱於知識令写経王、且運材木捜於彼宮辺巳了、彼宮此宮雖其地異、早欲造件塔、仏事之功徳、凡為鎮国利民也者、府判依謂、宮祭之状、早造立将令遂本願、故牒、
       承平7年10月4日 大典惟宗朝臣(花押) 参議師橘朝臣『公頼』」

比叡山根本中堂:
天正17年豊臣氏によって再興、寛永19年(1642)<寛永7年とも>家光により大改造。国宝。
桁行11間梁間6間・単層・入母屋造・銅板葺・前面左右に回廊を付設。
 ○比叡山根本中堂1  比叡山根本中堂2  比叡山根本中堂3

2007/08/12追加:
昭和31年焼失大講堂
天正17年(1589)頃、根本中堂と同一時期の建立(寛永10年再興とも云う)。重層・入母屋造。丹塗。
昭和31年10月焼失。
 東塔焼失大講堂1:「滋賀県写真帖」、滋賀県、明43年 より
 東塔焼失大講堂2  東塔焼失大講堂内部:「特別保護建造物及国宝帖」内務省宗教局編、東京:審美書院、明43年 より
 東塔焼失大講堂3:「比叡山写真帖」赤松円麟、坂本村:延暦寺事務所、明治45年 より :2008/12/31写真入替
現大講堂(重文)
梁間11間梁間9間、入母屋造屋根銅板葺、寛永11年(1634)の建築。
現大講堂は山下坂本にある東照宮の本地堂(讃仏堂)を移築する。昭和36年竣工。
本尊は大日如来。本尊の両脇には向かって左から日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍の像を安置。これ等の像はいずれも 関係各宗派から寄進されたものと云う。
 坂本東照宮讃仏堂:「比叡山写真帖」赤松円麟、坂本村:延暦寺事務所、明治45年 より
   :東照大権現本地堂:山上東塔大講堂として移築前の現地にある讃仏堂です。
   讃仏堂は東照宮社殿に向い右側(北)にあった。現在は比叡山高校グランドの位置と思れる。
   (参道を挟み、讃仏堂南には戒蔵院、観樹院、中道庵がある。)


比叡山山城西塔

相輪橖(トウ):
安中:山城:宝塔院:
延長2年(924)露盤造、宝塔形式、本尊五仏、典拠:日本高僧伝要文抄

現在は明治28年改修という相輪橖(トウ)(重文)がある。
高さ約10m(35尺)、<高さ13,5mとも云うが、これは台座?を含む総高とも思われる?)、青銅製。
明治28年大改修・殆ど改鋳され旧観を一新すると云う。
※今の橖は明治28年に全部改鋳され、古い部分は一つもない。弘仁11年(820)の文字ある銘板もこの時の改鋳らしく新しい。
山麓の「叡山文庫」に以前の銘板が取り付けられたが、これも江戸中期のものと思われる。
古記録や古図から見て、現在の相輪橖(トウ)は古い形式が失われていると思われる。
 (「比叡山」比叡山執行部編集、昭和29年初版・昭和49年再改版)
橖(トウ)内には法華経、大日経などを安置という。
 西塔相輪橖(トウ):「比叡山写真帖」赤松円麟、坂本村:延暦寺事務所、明治45年 より

西塔釈迦堂:
南北朝期・重文。転法輪堂。桁行7間梁間8間・単層・入母屋造・銅板葺で西塔の中心をなす堂である。
元園城寺の金堂で秀吉の命により山麓より移築する。
 ○比叡山西塔釈迦堂


比叡山近江横川

比叡山延暦寺横川根本如法塔
大正14年建立。根本如法塔と称する。山口玄洞氏寄進。再建された横川中堂のすぐ北方尾根上の中腹にある。
天長年間、円仁が三昧を行い、如法写経を始めたところと伝え、長元4年(1031)円仁書写の如法経を埋葬した地と伝える。
 ○横川根本如法塔1  横川根本如法塔2  横川根本如法塔3
2012/12/25撮影:京阪電鉄出町柳駅掲示パネル写真
 横川根本如法塔4

天長6年(819)円仁、横川にて草庵を結び、天台法華懺法を読誦し、四種三昧を練行す、天長8年妙法蓮華経を写経す。(「門葉記」引用「沙門壱道記」)
天長10年円仁、横川に草庵を結び、練行に励み、法華経1部を写経、この写経を小塔に納め、堂中に安置し首楞厳院と号す。(「門葉記」引用「如法経揺籃類聚記」)・・・後に如法堂と称す。
円仁創建の堂(如法堂)はその後荒廃もしくは退転し、恵心僧都源信により新たに小塔収納の銅製多宝塔が造られ、堂内に安置された。根本如法堂 葺檜皮方5間堂 安置多宝塔(高5尺) 又旧白木小塔(奉納如法経) ・・・(新造堂塔記」)
如法堂破滅の事態に備え、如法経収納小塔は銅筒に納め、末法の時、地中に埋め、慈尊の出生(弥勒菩薩)を待つ処置をとることにいたる。(如法堂銅筒記)
「平安時代仏教建築史の研究」:大正12年如法堂跡より、銅筒を発掘、轆轤塔はその残片のみの状態であったが、銅筒の形態から、宝塔形式であったであろう。
なお発掘状況の詳細は「考古学雑誌 第14巻5号」(大正12年)にあり、銅筒は昭和17年夏雷火によって消失。
現在の根本如法塔の場所が如法堂跡で塔建立の工事中に銅筒を発見したようです。
 ○如法堂跡出土経筒

横川(首楞厳院)中堂:横川の中心をなす堂で、昭和17年夏雷火で焼失。昭和46年再建。RC造。
 ○比叡山横川中堂

2007/08/12追加:
昭和17年焼失横川中堂
嘉承元年(848)慈覚大師円仁の開創。
慶長年間豊臣秀頼・淀君の寄進により再興堂、堂の規模は9間に7間。入母屋造杮葺。
昭和17年夏雷火によって焼失。
 横川焼失中堂1:「滋賀県写真帖」、滋賀県、明43年 より
 横川焼失中堂2:「比叡山写真帖」赤松円麟、坂本村:延暦寺事務所、明治45年 より :2008/12/31写真入替

2007/08/12追加:
四季講堂(元三大師堂)
慈恵大師(元三大師)良源の住坊定心房であったとされる。建保4年(967)村上天皇の勅により、年四回、四季に法華経論議が行われるようになる。
本尊は弥勒菩薩であったが、現在は元三大師を本尊にするゆえに「元三大師堂」とも称する。
 横川四季講堂:「比叡山写真帖」赤松円麟、坂本村:延暦寺事務所、明治45年 より

2007/08/12追加:
安楽律院
横川の飯室谷にある。平安中期、叡桓によって開かれる。現在の安楽律寺は江戸中期、妙立・霊空などにより安楽律宗の本寺として再興される。昭和 24年放火により焼失、現在は本堂・護摩堂・山門のみが残り、無住のようで廃寺同様となる。(20から30年前の状況)
 飯室谷安楽律院:「比叡山写真帖」赤松円麟、坂本村:延暦寺事務所、明治45年 より


比叡山山王権現

近江比叡山山王権現:「近江山王権現」を参照。


2006年以前作成:2013/08/30更新:ホームページ日本の塔婆