紀  伊  高  野  山  の  諸  塔

紀伊高野山大塔・西塔・東塔・金剛三昧院・金輪塔・瑜祇塔・光台院・成福院・その他

高野山古塔婆の概要

2015/02/20追加:
高野山水屏風絵:(重文):国立京都博物館蔵、13世紀末
 

本屏風は描かれた伽藍から、13世紀末頃の景観であると推定され、様式からもその時期のものと肯定される。
 (高野山を描く全図の最も古い絵図と云われる。)
 2015/03/20追加:「根来寺を解く」中川委紀子、朝日新聞出版、2014 より
  図中に弘安8年(1285)供養の町石が描かれるも、建武元年(1334)建立の愛染堂が描かれないため、
  製作年は弘安8年〜建武元年の間とする。(「高野山古絵図集成」)
  山陰加春夫氏はこの当時の高野山は東寺一長者を座主に頂く本寺方、御室仁和寺が座主補任権を持つ大伝法院(別院、末院)方、
  そして鎌倉源実朝の菩提寺である金剛三昧院(関東祈願所)の三勢力が鼎立し、
  これらの周辺にはこれらの三方とは係りあいを持たない聖たちが集団をなして居住する山であったという。(新編中世高野山史の研究」)
右隻には向って左から大門、西塔、金堂、大塔、勧学院、大伝法院が描かれ、左隻には左から金剛三昧院、真別所、奥の院が描かれる。
そして、この右隻には10基の多宝塔(内2基は大塔)が描かれる。
 高野山水屏風右隻:全図 、上図拡大図
 高野山水屏風右隻部分図1:中央は根本大塔で、下重平面は方5間、上重平面は平面円形である。屋根瓦葺。右端は東塔(多宝塔)。
 高野山水屏風右隻部分図2:大伝法院及び真然廟所、真然廟所はこの時期は 聖霊塔(多宝塔)であった。中央下の二層堂が大伝法院。
 高野山水屏風右隻部分図3:根本大塔の西側部分であるが、中央やや下は大治2年(1127)再興の西塔である。
               この西塔は下重平面方5間、上重辺面は円形と思われ、大塔形式である。
               西塔上方谷上谷に多宝塔が見えるも不詳(谷上谷多宝塔)。
               更に西塔東(根本大塔西)に多宝塔が見えるも不詳(金堂西多宝塔)。
 高野山水屏風右隻部分図4:左端は大門、西院谷を東に進むと北側に多宝塔がある。(詳細不詳:西院谷多宝塔)
 高野山水屏風右隻部分図5:右端は根本大塔、左端は(金堂西多宝塔)。下左の六角堂は荒川経蔵で平面六角である。
 高野山水屏風右隻部分図6:左下は根本大塔、根本大塔の上部(北)にある多宝塔は一心院谷の金輪塔であろうか。
               更に根本大塔東やや北に多宝塔が見えるが不詳(仮に本中院谷にあるとして本中院谷多宝塔としておこう)。
 高野山水屏風右隻部分図7:右側は勧学院伽藍で勧学院多宝塔がある。左下は東塔でその上・左上は「本中院谷多宝塔」。
  ※解説に「右隻には向って左から大門、西塔、金堂、大塔、勧学院、大伝法院が描かれ」とあるので、右側は勧学院伽藍と推定する。
  丁度位置は廃興山寺付近と思われるが、かって勧学院は興山寺付近にあったのであろうか。

 高野山水屏風左隻:全図
 高野山水屏風左隻部分図:合計4基の多宝塔が描かれる。
  左下は小田原谷金剛三昧院多宝塔、金剛三昧院北東すぐの寺院に多宝塔があるも不詳(小田原谷多宝塔)。
  さらにどの谷に属するのか不明であるが、右上端と右下に各々1基の多宝塔が描かれる。

※鎌倉末期のこの2隻の屏風絵には大塔2基と多宝塔12基の合計14基が描かれる。
つまり、空海が密教の世界感を建築で表そうと構想した「毘盧遮那法界体性塔」は大塔やいわゆる多宝塔形式の塔として、平安・鎌倉期に多く建立され、この高野山に花開いたということなのであろうか。

一遍上人絵伝:鎌倉後期
 一遍上人絵伝(巻2)・・・中世の壇上伽藍 が描かれる。
高野山壇上伽藍を描いたものと推定され、描かれる大塔は保元元年(1156)<久寿3年>に再興された根本大塔であろう。
この塔は下重は方5間に描かれ、上重の平面は円形である。屋根は瓦葺。(保元元年再興大塔は屋根瓦葺とされる。)

2008/03/12追加:
高野惣山之絵図:正保二乙酉年(1645)十一月廿一日(1645)より
 高野惣山之絵図(壇上伽藍部分):中央に大塔の絵、中央左端に西塔、中央右端に東塔を配置

2008/03/12追加:
高野山古地図:製作年代不詳:江戸中期と推定される。
 高野山壇上伽藍古図:中央は大塔、中央左端に西塔、中央右端に東塔、大塔の右上に瑜祇塔
  同 壇上伽藍古図2:中央左に大塔、大塔右上に瑜祇塔、下部右に東塔
 高野山金輪塔古図:中央が金輪塔、今輪塔右に不動堂(現存・国宝)
 高野山光薹院多宝塔古図:上部中央に光台院多宝塔
 高野山金剛三昧院古図:下部やや右に金剛三昧院多宝塔
 高野山高祖院古図:中央やや右に高祖院多宝塔(退転)
 高野山無量寿院古図:中央に無量寿院多宝塔、中央は壇上伽藍西塔、現在は退転
 高野山往生院谷多宝塔古図:塔の名称不詳、現在は退転

2011/07/19追加:
高野山細見大繪圖:
「于時文化10癸酉載7月吉辰」、「浪華 橘保春行年64歳筆」:文化10年(1813)
版本者: 山本平六(高野山)、經師八左右衛門(高野山)、名倉市場 寄屋喜兵衛(板元)、国際日本文化研究センター蔵本
 高野山壇上伽藍151:西から西塔・大塔・東塔が並ぶ、西上は無量寿院多宝塔、大塔背後に瑜祇塔が描かれる。
 中院谷無量壽院多宝塔152:多宝塔に関する情報は皆無。
 高祖院多宝塔・光臺院多宝塔153     五之室谷高祖院多宝塔154     一心院谷金輪塔155:不動堂が並んで描かれる。
 小田原谷金剛三昧院多宝塔156
 往生院谷多宝塔157     往生院谷多宝塔158:多宝塔に関する情報は皆無。
2017/09/02追加:
○高野山細見繪圖:和歌山大学付属図書館蔵本:文化10年(1814)
 ※上記と同一の繪圖であるが、より鮮明な画像が入手できたので掲載する。
 高野山細見大繪圖:全図
○壇上伽藍・谷上部分図
 壇上伽藍・谷上部分図:壇上伽藍の東塔、大塔、西塔、瑜祇塔及び谷上の無量壽院多宝塔、大日堂(かって東西2塔があったという)が描かれる。
○一心院谷・千手院谷部分部
 一心院谷・千手院谷部分部:一心院谷金輪塔、千手院谷高祖院多宝塔が描かれる。
○千手院谷・五ノ室谷部分図
 千手院谷・五ノ室谷部分図:千手院谷高祖院多宝塔・五之室谷光臺院多宝塔が描かれる。
○小田原谷部分部図
 小田原谷部分部図:小田原谷金剛三昧院多宝塔
○往生院谷部分図
 往生院谷部分図:往生院谷道の南限附近に多宝塔が建つ。多宝塔の周囲には萱屋堂、上池院、如来蔵院、蜜厳院、八幡、福生院、壽量院、千蔵院などがある。 依然として、多宝塔の名称など不明のままである。

紀伊國名所圖繪
2017/09/02画像更新・追加:
○「三編巻之4高野山之部上」天保9年(1838) より:
 高野山
 高野山惣図 ・・・高野山を北から描いた図。
 ※右より、丹生四所明神(天野社)多宝塔、慈尊院多宝塔、(大門)、壇上伽藍(東塔、(金堂)、大塔、瑜祇塔、西塔)、
 小田原谷金剛三昧院多宝塔、一心院谷金輪塔、千手院谷高祖院多宝塔、左端に(大師御廟)が描かれる。
壇上伽藍(東塔、大塔、西塔、瑜祇塔)
 奥院より大門口までの図の其十二と其十三(部分図):壇上伽藍の堂塔部分図
無量壽院多宝塔
 谷上其二(部分図):無量寿院多宝塔:左下隅にある。
 なお、無量寿院右側が大日堂である。
光臺院多宝塔
 以下千手院谷五之室谷一心院谷惣図(部分図):五之室谷光臺院多宝塔:右上にある。
高祖院多宝塔
 以下千手院谷五之室谷一心院谷惣図(部分図):千手院谷高祖院多宝塔:右上にある。
金輪塔
 以下千手院谷五之室谷一心院谷惣図(部分図):一心院谷金輪塔:中央やや右にある。
山下慈尊院多宝塔
 高野山慈尊院
山下丹生四所明神多宝塔
 高野山鎮守天野社

○「三編巻之5高野山之部中」 より:
壇場惣図
 壇場惣図:東塔、瑜祇塔、大塔、西塔が描かれる。
壇場
 記事:「大塔(高さ16丈。往年畢方の災ありといへども、皇帝将軍崇信の厚命ありて、しばしば旧観に復せり。
 今の塔は寛永8年献廟の特命によりて、小出大和守・戸川土佐守奉行して、同19年に落成する所なり)中尊胎蔵界大日如来・金剛界四仏。
 「明王院如法上人は・・・」の図に見る「大塔」(推定)の図。
谷上
 大日堂(金剛心院といふ)
 記事:「東西二基塔(礎石あり)」
 長元年間後一条院の創建。天養元年宇治入道忠実再興を企画。久安4年(1148)内大臣頼長落慶供養。
 東西2塔が存在したと云う。・・・大日堂は現在は廃絶。
  ※上に掲載の谷上其二(部分図):無量寿院多宝塔に大日堂は描かれる。無量寿院は左下隅にあるが、その右側が大日堂である。

○「三編巻之6高野山之部下」 より
金剛三昧院多宝塔
 小田原谷の奥湯屋の谷:小田原谷金剛三昧院多宝塔
髑髏峠
 轆轤峠(部分図)・・・大塔・東塔が見える。
 記事:「高野山より熊野への往還で、この峠から壇場の諸伽藍が眼下に見える。」

2006/04/07追加:
高野山略図
 高野山略圖:江戸後期:「慶応義塾図書館所蔵江戸時代の寺社境内絵図」より<画像容量大 >
図の中央やや左は壇上伽藍:西から西塔・大塔・東塔がある。
大塔の北方に龍光院瑜祇塔、更に北方に金輪塔があり、さらにその東(五の室谷)に光(高)台院多宝塔・高祖院多宝塔がある。
図中央下(小田原谷)には金剛三昧院多宝塔がある。
図最左端の中央やや上に天野多宝塔が見える。
2006/12/03追加:「Y」氏ご提供
「高野山略圖」
 下図は良く出回っている「高野山略圖」(江戸期・詳細時期不詳)の一種と思われる。
高野山略圖」:左図拡大図

以下は「高野山略圖」の部分図です。
九度山慈尊院多宝塔(原図から180度回転)
 :高野山表参道180町の出発点で、高野山大塔に至る最初の180町目の町石が多宝塔横から七社明神(現丹生官省符神社)に登る石段途中(右手)にある。
天野社多宝塔
 :慈尊院からの表参道の約50町附近で分岐し、分岐から約20町の所に鎮座する。参考:天野社
西塔・大塔・東塔・瑜祇塔
 ;壇上伽藍
瑜祇塔(竜光院)・金輪塔
 :本中院谷瑜祇塔、一心院谷金輪塔
高祖院・光台院多宝塔
 :五の室谷高祖院塔は退転、五の室谷光台院
金剛三昧院多宝塔
 :小田原谷金剛三昧院

2006/12/03追加:「Y」氏ご提供
高野山絵図
 
※状況から江戸期のものと推定されるも、詳細は不詳
 九度山慈尊院・天野社多宝塔:慈尊院左、天野社右、参考:天野社
 西塔・大塔・東塔:壇上伽藍
 金輪塔・瑜祇塔:一心院谷金輪塔、本中院谷瑜祇塔
 光台院多宝塔:五の室谷光台院
 金剛三昧院并往生院谷多宝塔:中央やや下左に小田原谷金剛三昧院、中央やや上右に往生院谷多宝塔(名称不明)がある。
 (小田原谷の東「往生院谷」に多宝塔があったものと思われるが、不詳。
 れんげ三昧院、丈六堂、千ぞう<蔵>院、上ち(池)院、不どう院などが附近にある。)

2008/01/26追加:
高野山参詣案内図:推定江戸期:高野山大学図書館蔵
 高野山参詣案内図
  ※中段右は天野社(四社明神、多宝塔、さんのうどう、太皷橋・・)、下段中央は慈尊院(多宝塔、七社明神・・・)、
   上段中央は高野山伽藍が描かれる。


高野山大塔

高野山大塔の興亡

弘仁10年(819)大塔心柱用材を伐採。
承和元年(834)弘法大師、「勧進奉造仏塔知識書」を著作。
  ※この塔は「毘盧遮那法界体性塔」といい、毘盧遮那仏(大日如来)を具現する塔で、東塔に胎蔵界五仏、西塔に金剛界五仏を祀り、
   両塔をあわせ両界不二の密教根本教理を表そうと構想したという。
貞観18年(876)あるいは貞観17年、大塔完成といわれる。(「毘盧遮那法界体性塔」)     ・・・・・・・・・初代大塔
正暦5年(994)大塔に落雷焼失、伽藍御影堂を残し全焼し、一山寺院類焼。     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・初代大塔焼失
康和5年(1103)大塔落慶供養。(多宝塔・高16丈、広8丈、裳層付)。     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2代大塔
 ※この塔は「多宝塔1基、高16丈、下壇広8丈、土壇9丈6尺、・・・母屋内柱12本円形、次仏壇柱12本八角、
  次水輪柱12本円形・・・」とあり規模・母屋柱12本などより、大塔形式であったと思われる。
  また創建塔の規模・構造を引継ぐとされる。
久安5年(1149)大塔に落雷炎上。五仏中尊の御首、脇侍三躰、仏具等を搬出。     ・・・・・・・・・・・・・・・・2代大塔焼失
保元元年(1156)<久寿3年>大塔落慶供養。                         ・・・・・・・・・・・・・・・・・3代大塔
 ※弘安8年(1285)「高野山曼荼羅供図」では「大塔は方5間、内部に12本の円形柱列、8本の八角柱列
  4本の仏壇柱」が描かれているという。
永正18年(1521)大塔焼失。寺院より出火、伽藍諸堂悉く焼失し、全山ほぼ壊滅する。     ・・・・・・・・・・・3代大塔焼失
慶長2年(1597)大塔落慶供養。                            ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4代大塔
寛永7年(1630)大塔に落雷、焼失。伽藍諸堂宇・多数の一山寺院が焼失。         ・・・・・・・・・・・・・・・4代大塔焼失
寛永20年(1643)大塔落慶供養。                            ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5代大塔
天保14年(1843)壇上宝蔵の軒先から出火し大塔焼失。五仏の内、何躰かが搬出される。  ・・・・・・・・・・・・・5代大塔焼失
 その後、久しく再興されず、長く基壇を残すのみであった。
昭和12年、大塔落慶供養。                            ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6代大塔
 ※高さ16丈(48.5m)で、一辺約22mの大建築である。
  中央は胎蔵界大日如来、四方の金剛界四仏、周囲16本の柱に16大菩薩像を描く(堂本印象画)。
  壁には真言八祖大師像を描く。後陣には中門の2天像を仮安置する。
  
参考:初期多宝塔を参照

○「伸和建設資料集」より
竣工記念写真
正  面 図
大     塔(左図拡大図)
天沼俊一設計、
構造は鉄骨造(大林組施工)で内外の木工作は伸和建設施工。

昭和12年再興、設計監修:天沼俊一、武田五一、大浦徳太郎
当初は総木造の計画であったが、昭和元年金堂焼失や大塔の過去の経緯から、骨格はRCS・外装は木材朱塗りとして再建される。

○2001/07/21撮影:
高野山大塔1
高野山大塔2
高野山大塔3
○2006/12/02撮影
高野山根本大塔1
  同      2
  同      3
  同      4
  同      5
  同      6
  同      7

2015/02/27追加:
 高野山壇上伽藍空撮:2015/01/01朝日新聞掲載、根本大塔・金堂が写る。

2007/02/24追加:
 建設中の根本大塔:昭和7年天沼俊一撮影、「大日本建築全史」佐藤佐、文翫堂、昭和8年
2013/07/13追加
 高野山根本大塔工事中2:絵葉書
2012/06/06追加:「Y」氏ご提供画像
 高野山根本大塔工事中:絵葉書:弘法大師1100年御遠年忌(昭和9年)を記念して発行された絵葉書の1枚と云う。

2015/02/20追加:
○「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
高野山大塔模型:大正13年製作、昭和7年大塔は再建されるが、それに先立ち製作されたものと推定される。
但し、再建塔と比して、椽廻り、組物、屋根葺材料など多くの相違がある。
 高野山大塔模型:京都大学工学部建築学科蔵

○「塔における両界曼荼羅空間の展開」より:
初期真言宗では多宝塔は大日如来を象徴するものとされ、それ故、後には密教の多宝塔が多く建立されるようになる。
「金剛峰寺建立修行縁起」康保5年(968):
多宝塔1基、高18丈、一層之勢是勝数重塔、奉安置1丈8尺6寸大日、1丈4尺4佛、胎蔵
(西塔の記事)
9丈多宝塔1基、奉安置8尺大日、5尺4佛、金剛 とされる。
なお、高野山創建大塔については各氏の復元図がある。

○「塔における両界曼荼羅空間の展開−平安時代の層塔を中心に−」より:
 ◆高野山大塔各氏復元図
「金剛峯寺建立修行縁起」(康保5年・968)、「紀伊国金剛峯寺解案」(寛弘3年・1006)、「高野山根本大塔興廃日記」(嘉保2年・1095、康和2年・1100)などに大塔資料があり、特に「高野山根本大塔興廃日記」に基づき 「各氏の復元」がなされていると思われる。
 詳しい解説は表記「論文」を参照いただくとして、各氏に共通するのは、高野山根本大塔は下層平面5間、入側柱は円形に12本、と中心に4本の柱で母屋を形成することは共通する。下層の心柱の有無、仏壇の構成などに見解の相異がある。

2015/02/20追加:
○「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
 空海が高野山上で構想した「毘盧遮那法界体性塔」は空海入定後「大塔」として実現された。そしてこの塔の形式は、金剛界曼荼羅中、大日如来の象徴である「宝塔」を基としたといわれる。しかし大塔は4次の焼失を経ており、創建大塔の姿はいまだ明確ではない。
 康和5年(1103)再建時の記録である「高野山根本大塔興廃日記」には創建大塔の記録・基壇跡の調査に基づき2代目の大塔を再建していく過程が記される。中には創建及び2代目大塔の総高や柱、相輪の寸法があり、規模や構造の概要を知ることができる。
また近年、久寿3年(1156)再建の3代目大塔を示す「石町卒塔婆供養曼荼羅供指図」(「金沢文庫蔵」)が紹介され、初期の平面構造により迫ることが可能になった。
以上などの資料に基づき復元を試みたのが次の図である。
 高野山創建大塔復元図
一見した印象は後世の多宝塔や根来寺大塔と比べて亀腹が非常に大きいことである。
この姿から、大塔の起源は単層の宝塔にあったことが強く印象つけられる。
なお、鎌倉期の3代目大塔は瓦葺であるが、2代目大塔は檜皮葺で、創建大塔も檜皮葺の可能性が高いと思われる。
 ※鎌倉期の3代目大塔は上掲の「高野山水屏風右隻」に描かれる。
  高野山水屏風右隻部分図1:中央は根本大塔、下重平面は方5間、上重平面は平面円形である。屋根瓦葺。右端は東塔(多宝塔)。

2015/02/24追加:
○「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
 密教を特徴づけ、その教学の根本となるのが、胎蔵界・金剛界からなる両界曼荼羅である。
これを平面の画像として現したのが「両界曼荼羅図」である。
胎蔵界・金剛界いずれも中心は大日如来で、その四方の四体の如来からなる五仏が中核をなす。
 空海はこの両界曼荼羅を建築空間として表現することを構想する。山城教王護国寺(東寺)の伽藍では講堂で立体的に表現した。
一方高野山では2基の「毘盧遮那法界体性塔」の建立を構想し、これは空海入定後に胎蔵界五仏を安置する東塔(根本大塔)と
金剛界五仏を安置する西塔として実現する。これらの塔は今までの伝統的な五重塔・三重塔とは違った全く新しい形式であったのである。
 一方空海は東寺で五重塔の建立も企図し、この五重塔も空海入定後完成する。
「東宝記」には永仁年中(1293-99)の再建五重塔の指図が載っている。
これによれば、東は阿閦、南は宝生、西に阿弥陀、北に不空成就の金剛界四仏を配していたことが分かる。
中心の大日如来は安置せず、心柱もしくは塔そのものを大日如来に見立てているのである。

2015/03/05追加:
○「日本の美術72 古絵図」難波田徹編、至文堂、昭和47年 より
 高野山結界絵図:「御手印縁起 1巻」として重文指定、「金剛峰寺根本縁起」とも云う。
「御手印縁起」は弘仁7年(818)の高野山四至を点定する太政官符と承和元年(824)の弘法大師筆という山上四至点定の文書を持って1巻とする。承和元年の文書に描かれている絵図が「高野山結界絵図」である。
なお本図の巻末に建武2年(1336)の奥書があり、それは後醍醐天皇の宸筆であり、門外不出とされ、そこの所に後醍醐天皇の御手印が加えられている。奥書の内容やその筆跡からして、この1巻は建武2年の書写本と判断される。
残念ながら、太政官符も大師文章も原本とは認めがたいのである。
 高野山結界絵図:中央に根本大塔、その他、金堂、御廟宝塔、大門、天野羽生・高野明神、慈尊院政所まどの初期伽藍が描かれる。
特に特筆すべきは初期と推定される根本大塔の姿が描かれていることである。
但し、承和元年(824)の弘法大師筆と伝える文書と貞観18年(876)ころに大塔完成というと事実との間に時代の齟齬があるが、
文書(絵図)に描かれた根本大塔は初代の大塔の姿である可能性を捨てきれない。
 もし、本図に描く根本大塔が初代の姿であるならば、絵図はひどく摩傷しているが、宝塔(平面円形で方形屋根を架した一重塔)に裳階を付けた様に描かれる。そして現在でいう亀腹は異様に大きく描かれるが、これは亀腹というより、宝塔の塔身の肩の部分がそのまま残っているといった方が正確であろう。まさに単層の宝塔に裳階を付けた形式であったことを強く示唆する姿であろう。
 ※弘法大師御手印縁起について次の「解説」がある。
弘法大師御手印縁起とは、弘仁7(816)年太政官符・同年紀伊国符・高野山四至注文・高野山絵図・承和元(834)年空海遺告・同3年紀伊国判からなる
古文書集で、太政官符と遺告に空海の手印が捺されていることから、御手印縁起と呼ばれているものである。  
本資料では、さらに「遺告真然大徳等」が附属しており、末尾には天正17年(1589)4月21日の木食応其(1536〜1608)の修理銘が記されている。また、高野山絵図(古戸後期の作?)はその後に着色して描かれているが、文字情報はまったく含まれていない。

2006/11/26追加:
「日本建築史要」天沼俊一、奈良飛鳥園、1927 より
 高野山根本大塔復原立面図       根本大塔復原初重平面及び見上図       根本大塔復原第ニ重平面及び見上図

2007/03/05追加:
「日本建築史基礎資料集成 十二 塔婆U」:
「大塔」と呼ばれる形式は基本的には「多宝塔」形式と同一と思われるが、規模は大きく、下重は方5間とする。
(紀伊根来寺大塔は一辺49尺2寸5分、下重は方5間、内部に12本の柱を円形に建て、その中に四天柱を立てる。高野山東塔(大塔)は一辺80尺、下重は方5間で、内部には12本の円形柱が2重に並び、その中に四天柱を立てる。高野山西塔は一辺46尺9寸、下重は方5間で、内部は入側柱(12本)が立ち、その中に四天柱が立つ。要するに内部は円形ではなくて、下重は方5間総柱の形式であるが、何時からこの形式なのかは不明。)
    →高野山大塔・西塔指図:「高野春秋」所載

2007/08/30追加:
「日本名勝旧蹟産業写真帖」西田繁造編、横浜:西田耕雲堂、明治45年
 万延元年再興金堂136:写真下方は根本大塔土壇・礎石、右は御影堂


高野山西塔

高野山西塔の興亡

仁和3年(887)創建(九丈多宝塔)。
 ※西塔は、真然大徳によって建立されたと伝えられる。
  大塔と西塔は、当初、「毘盧遮那法界体性塔」として二基一対として企画されるも、大規模建築であること、経済的な理由などで、必ずしも同時期・同規模での並立な無かった と云われる。また創建塔は五層五丈であったと伝え、五層とは五重塔を意味する可能性があるも云う。
正暦5年(994)焼失。
大治2年(1127)再興。
応永8年(1401)炎上。
天文16年(1547)再建。
寛永7年(1630)焼失。
天保5年(1834)再興・現存。覚道を中心とした正智院住職三代にわたって再興したと伝える。
 ※近世末期の塔であるが、維新前の大塔遺構は根来寺大塔しかなく、貴重な遺構であろう。
高さ27.3m、一辺12m。中央仏は創建時の金剛界大日如来(平安初期・重文)で四仏は胎蔵界四仏を安置する。
 参考:初期多宝塔

○紀伊国名所図会 三編巻之5より:壇場
記事:「西塔(高さ9丈)本尊金剛界五仏。光孝天皇勅で真然僧正の創建とする。数百年後破壊するも、
鳥羽院の院宣で大治2年行幸ありて落慶供養と伝える。」
 大塔・西塔図(部分図)

○2001/07/21撮影:
高野山西塔1
 :(左図拡大図)

高野山西塔2
 

高野山西塔3

 

○2006/12/02撮影
高野山西塔(大塔)1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12

「塔における両界曼荼羅空間の展開」より:
(大塔の記事)
多宝塔1基、高18丈、一層之勢是勝数重塔、奉安置1丈8尺6寸大日、1丈4尺4佛、胎蔵
(西塔の記事)
9丈多宝塔1基、奉安置8尺大日、5尺4佛、金剛 とされる。

2007/03/05追加:<上掲と重複記事>
「日本建築史基礎資料集成 十二 塔婆U」:
「大塔」と呼ばれる形式は基本的には「多宝塔」形式と同一と思われるが、規模は大きく、下重は方5間とする。
(紀伊根来寺大塔は一辺49尺2寸5分、下重は方5間、内部に12本の柱を円形に建て、その中に四天柱を立てる。高野山東塔(大塔)は一辺80尺、下重は方5間で、内部には12本の円形柱が2重に並び、その中に四天柱を立てる。高野山西塔は一辺46尺9寸、下重は方5間で、内部は入側柱(12本)が立ち、その中に四天柱が立つ。要するに内部は円形ではなくて、下重は方5間総柱の形式であるが、何時からこの形式なのかは不明。)
    →高野山大塔・西塔指図:「高野春秋」所載

2007/08/30追加:
「日本名勝写真帖」大阪:玉鳴館、明治31年 より
 万年元年再興金堂134   万延元年再興金堂135:写真右端の大塔は高野山西塔


高野山東塔

高野山東塔
白河上皇の御願により大治2年(1127)に創建。東塔も焼失再建を繰返し、現在は6代目の再建塔と云う。
5代目が天保14年(1643)に焼失し、長期間礎石のみ残すも、昭和59年再建される。
 (なお東塔は元来大塔ではなく多宝塔として企画される。)尊勝仏頂尊と不動明王・隆三世明王を安置。

「紀伊国名所図会」等に見る東塔の様子は「高野山塔婆の概要」(既出)の項を参照。
轆轤峠
(部分図)・・・大塔・東塔が見える。
記事:「高野山より熊野への往還で、この峠から壇場の諸伽藍が眼下に見える。」
○2001/07/21撮影:
 高野山東塔1  高野山東塔2  高野山東塔3  高野山東塔と大塔:東塔から大塔を見る。
○2006/12/02撮影:
 高野山東塔1  高野山東塔2  高野山東塔3  高野山東塔4  高野山東塔5  高野山東塔6  高野山東塔7


高野山小田原谷金剛三昧院多宝塔

高野山金剛三昧院多宝塔(国宝)

貞応2年(1223)建立[「金剛三昧院紀年誌」]。現存する多宝塔では(河内金剛寺)石山寺塔に次ぐ古塔である。
一辺5.5mの大型塔で、多宝塔の原型とも言うべき姿を今に伝える。
自然環境の厳しい、また火災の多かった高野山で、幾多の塔婆が廃亡した訳であるが、その形の秀麗さとともに、良く今日まで伝えられる。
金剛三昧院は北条(平)政子が源頼朝の菩提を弔うために建立(禅定院)と伝え、そのため鎌倉幕府によって手厚い保護を受け、大いにその規模を拡大する。多宝塔もこのとき建立される。
その後鎌倉期・室町期を通じ、当院は高野山の政治及び教学の中心寺院としての地位にあった。
多宝塔本尊は創建時の五智如来坐像(重文)で、内部には極彩色の菩薩像等が鮮やかに残されていると云う。

○紀伊国名所図会 三編巻之6より:小田原谷
 金剛三昧院(部分図)・・・現存塔婆

○高野山金剛三昧院多宝塔

○2001/07/21撮影:
高野山金剛三昧院多宝塔1

高野山金剛三昧院多宝塔2

高野山金剛三昧院多宝塔3

高野山金剛三昧院多宝塔4
         :(左図拡大図)

高野山金剛三昧院多宝塔5

○2006/12/02撮影:
金剛三昧院多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10

2014/07/25追加
「高野山霊寳帖」藤村密憧編、金剛峯寺、大正14年 より
 大正14年頃金剛三昧院多宝塔

2007/03/05「日本建築史基礎資料集成 十二 塔婆U」:
明治39〜40年大修理。
下重総間18尺3寸5分、中央間6尺8寸5分、両脇間5尺7寸5分。上重軸部径7尺3寸7分。
 金剛三昧院多宝塔立面図
 金剛三昧院多宝塔亀腹下地:亀腹は漆喰塗りで、下地は厚板から亀腹曲線を造出した巾広の縦板材(当初材)と云う。
2015/02/24追加:
○「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
金剛界五仏の仏像を安置し、四天柱の月輪内に尊像を描く。
 多宝塔初重内部


紀伊高野山金剛峰寺金輪塔

紀伊高野山金剛峰寺金輪塔
天保5年(1834)再建塔。
一心院谷女人堂を下ったところ、西室院の向かい側あたりにポツンと残る。
本尊として一字金輪を安置する。明算上人(高野山中興に尽力)の廟所で嘉承元年(1160)創建と伝える。
現在は少々荒廃しているようで、相輪が後方に傾く。一辺4.95mの中型塔。
○紀伊国名所図会 三編巻之4より:高野山
 高野山惣図 ・・・高野山を北から描く。
  上記の東塔・金輪塔・瑜祇塔・大塔・西塔・天野社多宝塔の部分図
   (図左端中央:金剛三昧院多宝塔、左端上:金輪塔、中央部分:東塔・瑜祇塔・大塔・西塔、右端下:天野社多宝塔)
:一心院谷
記事:「金輪塔(不動堂の西にあり、菩提院といふ)本尊金輪仏頂。寛治年間明算大徳遷化の後、
その遺骨をこの塔下に納め、名づけて菩提院といふとぞ。」
○2006/12/09追加:
 一心院谷不動堂金輪塔1  一心院谷不動堂金輪塔2:古写真
○2010/10/26追加:
 昭和3年高野山多宝塔:金輪塔であろう。
○2001/07/21撮影:
 高野山金剛峰寺金輪塔1  高野山金剛峰寺金輪塔2
○2006/12/02撮影:
 金輪塔1    金輪塔2    金輪塔3    金輪塔4    金輪塔5    金輪塔6


高野山本中院谷瑜祇塔(龍光院瑜祇塔)

高野山本中院谷瑜祇塔
本中院谷にある。弘法大師の住坊であったと伝え、平安時代には高野山の中心寺院であったと云う。
本中院谷龍光院背後の山上に弘法大師建立と伝える瑜祇塔がある。現存塔は昭和6年の再建である。
 ※創建は貞覿12年(870)真然大徳による、三度の火災で焼失、現塔婆は昭和6年の再興。
なお、高野山霊宝館の年表では瑜祇塔は昭和4年上棟式とある。

○紀伊国名所図会 三編巻之4より:高野山
 高野山惣図 ・・・高野山を北から描 く。
  上記の東塔・金輪塔・瑜祇塔・大塔・西塔・天野社多宝塔の部分図
   (図左端中央:金剛三昧院多宝塔、左端上:金輪塔、中央部分:東塔・瑜祇塔・大塔・西塔、右端下:天野社多宝塔)
 高野山全図の其十二と其十三
  上図の西塔・大塔・瑜祇塔・東塔の部分図
 東塔(部分図)・・・瑜祇塔も 見える。
本中院谷
記事:「瑜祇塔(龍光院境内にあり、金剛峯宝楼閣瑜祇塔と称す。また大塔に対して小塔と云ふ)」 本尊金剛界大日・阿しゅく・宝生観音・虚空蔵」 この塔は貞観年中の創建とされる。爾後数度の興亡があり、寛永3年直江山城守の後室が再興。文化6年炎上。今の住持これを造営。
○2001/07/21撮影:
 高野山竜光院瑜祇塔:一般は近寄ることは出来ない(寺院側説明)とのことで、竜光院前庭から遠望。
  写真中央に微かに瑜祇塔が見える。
 ○高野山竜光院瑜祇塔2「X」氏ご提供画像:1980年後半撮影と思われる。
○2006/12/02撮影:
 竜光院瑜祇塔1  竜光院瑜祇塔2  竜光院瑜祇塔3  竜光院瑜祇塔4  竜光院瑜祇塔5
  竜光院瑜祇塔6  竜光院瑜祇塔7

○2006/11/26追加:
「日本建築史要」天沼俊一、奈良飛鳥園、1927 より
 瑜祇大師図:絹本着色、高野山龍光院蔵  高野山根本瑜祇塔復原立面図

○2007/02/24追加:
 高野山瑜祇塔:龍光院御貸下、大正9年地鎮祭執行、「大日本建築全史」佐藤佐、文翫堂、昭和8年
 発行年代から、完工後、余り時間を置かない頃の写真と推定される。

○2007/03/14追加:「Y」氏ご提供:絵葉書
 ・・・瑜祇塔自体の絵葉書も珍しいものであるが、ましてや断面図や鉄骨骨組の絵葉書があるとは貴重な一枚と思われる。
 高野山瑜祇塔断面図(絵葉書)      高野山瑜祇塔鉄骨骨組(絵葉書)


高野山五之室谷光台院多宝塔

旧光台院多宝塔は藤田男爵が購入し、大正5年に大阪藤田邸に移建・現存する。
 旧藤田男爵邸・藤田美術館旧光台寺多宝塔
従って現在残る塔は移建に際し、藤田男爵が大正5年頃同型に建造・寄進した塔といわれる。

光台院は白河天皇皇子覚法親王あるいは道助親王(後鳥羽天皇皇子)の開基といわれ、高野御室と称する。
 ※他にも諸伝がある。
覚法親王あるいは道助親王は院内に五つの庵室を作り、このことが「五之室谷」の名称となる。
本尊は弥陀如来は快慶作で重文。

多宝塔は道助親王の供養塔として元禄年中(1688-1704)に建立されたと伝える。
塔は書院の庭の小池の上の丘の斜面中腹の潅木中に立つ。このため写真は若干撮り難い。
移建にあたり、藤田美術館塔は銅板葺に改められるが、この塔は桧皮葺き。
藤田男爵への所有権移転の経緯は不明なるも、藤田男爵が同型の塔婆を現地に寄進したという行為は一つの見識というべきか。
一辺2.45mの小型塔。

高野山光台院多宝塔1

  同         2

  同         3

  同         4
2006/12/02撮影:
 光台院多宝塔1
   同     2
   同     3
   同     4:左図拡大図
   同     5
   同     6
   同     7
   同     8
   同     9
※近年の台風で屋根破損、葺替が行われる。

高野山蓮華谷成福院八角三層塔

高野山成福院八角三層塔
昭和59年建立。高さ15.6m。鉄筋コンクリート製と思われる。但し内外装の一部は木の造作と思われる。銅板葺き。
伝統的な三重塔のシルエットとは遠く離れた代物と云うべきか。八角三重塔に分類するのは疑問と思われる。
 ※高野山摩尼宝塔(あるいはビルマ戦没者供養塔とも)と称する。内部は展示館を兼ねる。
一層は極端に大きく、三重塔の建立を意識したというより、ビルマのパゴダを意識して、八角形を採り、初重平面を大きくしたと思われる。
○2001/07/21撮影:
 高野山成福院三重塔:写真 に写っているシートは門が建立(改築)中?である、その覆いである。
○2006/12/02撮影:
 成福院特殊三層塔1  成福院特殊三層塔2  成福院特殊三層塔3


紀伊高野山六角経蔵(荒川経蔵)

紀伊高野山六角経蔵
六角ニ層(裳階付一重塔なのか二層塔であるのかは不明)の建築で、相輪を載せ、塔婆の形式を採る経蔵である。
平治元年(1159)美福門院が鳥羽天皇の菩提のため創建し金泥一切経を奉納したと伝える。
この時、紀州荒川庄を伽藍維持を目的として寄進したため、経蔵を荒川経蔵、金泥一切経を荒川経とも呼ぶという。
 2015/02/30追加:
  「堂塔建立次第」では「美福門院は仁和寺経蔵にならって二蓋八角の経蔵を建立するよう命じたが、完成したものは一蓋六角の経蔵」
  であったという。この時の建物は一面2間半の六角六面であったという。また内陣も六角という。
   ※この経蔵は創建時から平面六角であったのであろう。
天正19年(1591)創建時の建物を建替、文化6年(1800)焼失
文政年中もしくは天保4年(1833)再建、天保14年(1843)に炎上、
明治17年再興、昭和元年金堂とともに炎上、現在の経蔵は昭和8年の再建。木造。金泥一切経は現存。(霊宝館・重文)
○2001/07/21撮影:
  高野山六角経蔵
○2006/12/02撮影:
  高野山荒川経蔵
  美福門院陵:蓮華谷不動院境内?にある。
          但し写真のとおり、明らかに近代の天皇教狂信によって改変された様子が歴然で、興ざめする。
2015/02/20追加:
○明治17年再興昭和元年焼失六角経蔵:
いずれも高野山霊宝館所蔵絵葉書
 昭和元年焼失六角経蔵1     昭和元年焼失六角経蔵2     昭和元年焼失六角経蔵3

※六角納経塔として、越前永平寺に平面六角の塔がある。この塔は平面六角の一重宝塔に裳階を付けた構造であると思われるが、
高野山のこの塔が裳階付一重塔なのか二層塔なのかは不明。

参考:紀伊の塔跡・最上廃寺の項を参照:
「続風土記」:尼丘(最上廃寺の地)は「奥氏の免許地なり、方50間の芝地なり、美福門院この地に来り給ひて寺を建て・・・、巽の隅に塔の跡とて真柱を居し礎石今存す、傍に又礎石あり、その西3間許り小高き地あり、経蔵の跡といふ、門院・・紺地金泥の一切経を書写せしめ、・・この経蔵に納め給ふ、遺告により・・・経蔵は高野山に移す、今檀上に荒川経蔵と称する是なり。」


高野山五之室谷南院仏舎利塔(宝塔)

高野山南院仏舎利塔
本堂背後北西の一角に仏舎利塔(宝塔)がある。RC製、垂木は木製。昭和53年建立。高さ11m、径約3,5m。屋根銅板葺。
スリランカのジャワルダナヤ大統領から贈られた仏舎利を奉納するという。
南院本尊は著名な浪切不動明王(重文)を祀る。南院は小嶋寺真興僧都の建立と伝える。
○2001/07/21撮影:
  南院仏舎利塔1  南院仏舎利塔2
○2006/12/02撮影:
  南院宝塔1     南院宝塔2      南院宝塔3


紀伊天野社多宝塔(羽生都比売神社) :

「中世高野山における神仏関係-天野社・御社の造営を通じて-」太田直之(「日本文化と神道 3」国学院大学、平成18年 所収)
「高野明神の導きを得ることで高野の地を知った空海は、弘仁7年高野山に入定処を作り、その際丹生明神の示現を受け、高野山を中心とする紀伊南部の広大な地を譲渡され、」このことによって「丹生・高野両明神は高野山の鎮守として永くその仏法を守護する存在となった」とされる。

  紀伊天野社多宝塔
 


高野山の退転塔

紀伊高野山大伝法院大塔

2017/08/28追加:
高野山大伝法院の草創は大治5年(1130)に覚鑁が、鳥羽上皇の御願寺として、伝法堂を建立したことに始まる。
大治5年の「伝法院供養願文」では「奉建立宝形造一間四面伝法堂一宇」とある。つまり草創期伝法堂は方3間の宝形造の堂であった。
すぐに、鳥羽上皇の御願にて大伝法院が拡充される。
長承元年(1132)鳥羽上皇を迎えて大伝法院の落慶法要が行われる。
建長6年(1254)「伝法院造営間事」では「本堂三間四面、塔三間四面、中門2階、鐘楼」とあり、三間四面(平面五間)の大塔が建立される。
建長8年(1256)「奏上再興事」では「所焼失之堂舎既以数十宇也として、所謂二階本堂、十丈宝塔、鐘楼一宇、経蔵二宇三間二面、神殿七間四面、拝殿三間二面、護摩堂一間四面、二階不動堂、宝蔵、中院僧正(真然大徳)廟堂五間四面、温室」の12棟が記載される。
この第1期大伝法院は仁治3年(1242)伝法院方と高野山衆徒との争いで焼失する。
文永9年(1272)大伝法院は再興されるも、高野山に於いては大伝法院大塔は再興はされず。
 高野山大伝法院大塔の再興はいわば根来寺大伝法院大塔として実現される。

紀伊高野山大伝法院/真然堂塔婆 (聖霊堂/多宝塔)

2015/02/20追加:
真然廟を含む一帯は現在は金剛峰寺の寺域である。
もともと、この地は高野山第二世真然の廟所であった。
しかし、天承元年(1131)には覺鑁上人が鳥羽上皇の勅許を得て伝法院を建立する。
文禄2年(1593)秀吉は母堂の菩提のため、木食応其上人に命じて、後の青巌寺を建立する。
明治元年官の介入によって、青巌寺を金剛峰寺と改称、その後金剛峰寺は隣の興山寺を合併し現在に至る。
「日本歴史地名大系 和歌山県の地名」平凡社 より
真然堂は寛平3年(891)寂した高野山第2世真然の廟所である。
大治5年覚鑁が伝法院を創建したとき、現在地に移設したといわれる。
「続風土記」には青巌寺主殿上室の西二間の真然床の下が廟堂の旧跡であったという。
「高野山大伝法院本願霊瑞並寺家縁起」では真然堂は聖霊堂と名付けられ三間の拝殿があり、当初は多宝塔であったと記す。
・興山寺跡:現金剛峰寺の西半分の地にあった。近世には行人方の中心寺院であった・
明治2年学呂・行人・聖の三派が停止された時、廃寺となる。
・青巌寺:現金剛峰寺の東半分の地にあった。学呂方の寺務を採る中心寺院であった。
明治2年興山寺と合併し、金剛峰寺となる。

「祈りの造形 紀伊国神々の考古学 1」菅原正明、清文堂出版、2001 より転載
 ■真然堂:現在は方形造三間堂(一間の向拝付)が存在する。寛永17年(1640)建立。
昭和63年の真然堂の解体修理及び発掘調査により、基壇下から緑釉四足壷が発見され、これは蔵骨器であり、その様式から推定される製作時代および真然堂基壇直下から発見されたことにより、高野山第2世真然大徳の舎利器と判断される。
また発掘調査により真然堂の基壇は4期に渡ることが判明する。
 紀伊國名所圖會 後編巻之6に見る真然堂:
  紀伊國名所圖會/真然堂:江戸後期には青龍寺の背後の丘に真然堂が描かれる。
                  この真然堂は寛永17年(1640)建立で現存する。
昭和63年の発掘調査の概要は以下の通りである。
1)真然堂最下層遺構:真然大徳墳墓であろうとされる。
2)その上の第2期遺構:塔基壇であり、この地に覚鑁上人が天承元年(1131)、大伝法院を建立したとき、真然墳墓を聖霊塔(多宝塔)として整備したときのものと 判断される。
3)さらにその上の第3期遺構:これも塔基壇であり、真然御廟の塔であり、おそらく高野山の伽藍の大半が焼失した大永元年(1521)の大火で焼失したものと思われる。
4)現基壇で現存する真然堂基壇:
         寛永17年(1640)建立の真然堂が現存する。
 つまり、現在の真然堂はそもそも高野山第2世真然の墳墓(蔵骨器発見)であり、
その後、おそらく覚鑁上人が大伝法院を建立した時、真然墳墓を聖霊塔(多宝塔)として整備したものであろう。(第2期遺構は塔基壇)
さらに、おそらく覚鑁上人建立の多宝塔はいつしか退転したのであろうか、
さらに塔基壇が築き直され(第3期遺構の塔基壇)多宝塔が再建されたものと思われる。
その再建塔も退転したのであろうか、現基壇が築かれ、寛永17年現在の真然堂が建立される。
◆鎌倉期の真然廟所多宝塔及び高野山大伝法院
「祈りの造形 紀伊国神々の考古学 1」 より
 高野山古絵図(鎌倉期)に見る大伝法院:壇上伽藍の東に位置し、大伝法院の北側に聖霊堂(多宝塔)が描かれる。
                     (左上の多宝塔は壇上伽藍の東塔とも思われるが、多少位置がずれているとも思われる。)
                     本図は下の「高野山水屏風」であるが、中央左下に描かれる二層堂が大伝法院本堂である。
2015/02/20追加:
○「朝日百科・国宝と歴史の旅 8 塔」朝日新聞社、2000 より
高野山鎌倉期古絵図:大伝法院/真然多宝塔
 高野山水屏風右隻部分図2:大伝法院及び真然廟所、真然廟所はこの時期は 聖霊塔(多宝塔)であった。
                  中央下の二層堂が大伝法院本堂。
 高野山水屏風右隻:解説は次の通り。
  京都国立博物館蔵、鎌倉期の製作、図の向かって左は壇上伽藍、右は大伝法院伽藍である。
   ※上の「高野山古絵図(鎌倉期)・・」は本「高野山水屏風」である。
 2015/03/20追加:「根来寺を解く」中川委紀子、朝日新聞出版、2014 より
  図中に弘安8年(1285)供養の町石が描かれるも、建武元年(1334)建立の愛染堂が描かれないため、
  製作年は弘安8年〜建武元年の間とする。(「高野山古絵図集成」)
  山陰加春夫氏はこの当時の高野山は東寺一長者を座主に頂く本寺方、御室仁和寺が座主補任権を持つ大伝法院(別院、末院)方、
  そして鎌倉源実朝の菩提寺である金剛三昧院(関東祈願所)の三勢力が鼎立し、
  これらの周辺にはこれらの三方とは係りあいを持たない聖たちが集団をなして居住する山であったという。(新編中世高野山史の研究」)

 ※真然上人:弘法大師の甥で佐伯氏を称する。
弘法大師入寂の後、未完成の高野山の経営にあたり、高野山伽藍の原型を完成させた。高野山第2世。
墳墓は元伝法院(元青巖寺、現金剛峰寺)のあった場所に営まれたと云う。
 ※覚鑁上人:大治4年(1129)伝法会を復興させ、真然墳墓の丘陵地下に伝法院を創建する。
おそらく覚鑁上人が大伝法院建立にあたり、真然墳墓を多宝塔(聖霊堂)として整備したものと推測される。
上人は金剛峰寺座主と大伝法院座主を兼任していたが、高野山衆徒との長い反目の後、高野山反覚鑁派により、保延6年(1140)ついに武力で高野山を追われる。上人は根来の豊福寺山内に円明寺と神宮寺を建立し、この地で入寂する。
その後も高野山との争いは絶えず、正応元年(1288)学頭頼瑜上人は大伝法院の寺籍を根来に移し、新義真言宗が成立する。

2015/03/28追加:
●「真然大徳と覚鑁上人」菅原正明(「根来寺 第3版」根来寺文化研究所、2002 所収) より
 本稿は「根来寺」第3版において「発掘関係の資料を整理していただいた」ものという。
○真然堂は江戸期の宝形造三間堂であるが、堂保存修理工事に先立ち、昭和63年発掘調査が実施される。
発掘調査は真然堂基壇(東西6・3m、南北6,2m)の中央に十文字のトレンチを設定し、掘り下げを行い、この基壇中から、4層にわたって重複している遺構を検出する。下から各造営期をA〜Dとする。

 真然堂基壇発掘:左図拡大図

A期は当初で地山を削り出して造った一辺6.3m、残存高さ0.6mの台状遺構である。
B期は12世紀(含有土器による)頃の一辺5.3m基壇で、西側中央にある木炭に詰まった土壙から舎利器を発見する。この舎利器は緑釉四足壷で猿投窯で焼かれた9世紀の作品と考えられる。
C期は14世紀(含有土器による)頃の基壇でこの基壇には塔が建っていたことが判明。それは基壇上面から塔の風鐸・風招が出土したことと「高野山諸院家帳」文明5年/1473の大伝法院に「同塔」(真然廟所)と記載されていることからわかる。
この塔は何れの時期にか焼亡(大永元年/1521の大火?)、そのまま荒れるに任せていた。
D期は現存の真然堂で棟札から寛永17年(1640)建立と分かる。

○真然大徳の緑釉四足壷
 真然大徳緑釉四足壷
壷の大きさは人頭より一回り大きいものである。色は美麗なオリーブ色でありガラスのような光沢がある。紋様の美しさからも逸品であろう。
「霊瑞縁起」(正応5年/1292)によれば、鎌倉期にはこの地に真然大徳の廟院としての「聖霊堂」(多宝塔)が建っていたことから、この四足壷に納められた御骨は真然大徳(寛平3年/891示寂)その人のものと思われる。
 とするとA期の遺構は「真然墳墓」であり、覚鑁上人が大伝法院を建て、さらにこの墳墓を「聖霊堂」として整備するためA期の墳墓の中から四足壷を取り出し、塔の下に再埋納したものと考えられる。その年は大治6年(1131)であろう。
 真然堂の変遷
当初は真然の墳墓であったが、多宝塔に改葬され、荒廃の後、現在の真然堂が建立される。
○「霊瑞縁起」による大伝法院伽藍

 高野山水屏風大伝法院伽藍

「霊瑞縁起」によれば、大伝法堂を中心にその北の山中に御社と真然僧正の廟所である「聖霊堂」と号する多宝塔であり、その前には拝所を配する。
さらに本堂の西南には不動堂を、その南には護摩堂を、、南面の東南隅には鐘楼を配している。
この伽藍配置は「高野山水屏風」の壇上伽藍東側に描かれている一画の配置に近い。

覚鑁上人は真然大徳の実践した伝法会を再興するために、真然墳墓のある山裾に伝法院を立てる。
覚鑁上人は伝法院を拡大整備したときに真然墳墓を「聖霊堂」と号する多宝塔として整備したのに違いない。
伝法会を復活することこそ高野山の興隆はもとより、国家を鎮め、衆生を救う道であると覚鑁上人は堅い信念を持っていたと思われる。
 高野山正智院文書「覚鑁私日記」(弟子の記したものと思われる)に多くの秘事を書き連ねた最後に「安然御骨ハ覚王院塔下有之云々、秘事雖多、存略如此、他門之人ニ不可開見、秘事々々・・・・」とあり、秘事であるから、 真然は安然に、聖霊堂は覚王院塔下は書き換えていることが分かる。真然大徳の御骨は聖霊堂多宝塔下にありと伝えられているのである。
 16世紀後半の根来寺伽藍を描くと推定される「根来寺伽藍古絵図」があるが、その中枢である七堂伽藍所は金堂大伝法院、大塔、大師堂などとともに真然僧正堂などで構成される。要するに高野山上の大伝法院伽藍構成が基本的に根来寺で再興されているということであろう。
本図中では御開祖(覚鑁)が真然僧正堂(真然)と法話する様が織り込まれている。
 根来寺伽藍古絵図・七堂伽藍所
いかに覚鑁上人は真然大徳を尊敬していたかを示し、伝法会再興の強固な意志を示すものではないだろうか。高野山上で覚鑁上人が真然大徳を丁重に改葬した訳が分かるような構図ではないだろうか。

   → 高野山太伝法院/紀伊根来寺などの概要については 紀伊根来寺 のページに掲載、参照を乞う。

高野山五之室谷高祖院多宝塔

○紀伊国名所図会 三編巻之4より:
 高祖院多宝塔・・・高祖院に多宝塔が存在していたと思われる。 高祖院は五之室谷にありしが、現在多宝塔は廃絶。
2008/03/12追加:
○「高野山古地図」・・・上に掲載画像
 高野山高祖院古図:中央やや右に高祖院多宝塔(退転)
2011/07/19追加:
○文化10年(1813)高野山細見大繪圖・・・上に掲載画像
 高祖院多宝塔・光臺院多宝塔153
 五之室谷高祖院多宝塔154
高祖院は五之室谷にあり、現在の南院がある地かその付近にあったと思われる。
元応年間(1319-)、円雅月寿坊の開創と云う。本院高祖弘法大師を本尊とするが故に高祖院と号する。
火災焼失(年代不明)し、現在は蓮華谷三宝院が高祖院の「名跡」を受け継ぐ。

高野山新別所三重塔

2008/03/09追加:「大仏再建」講談社選書文庫メチエ56
重源「南無阿弥陀佛作善集」では
専修往生院と称する新別所には、一間四面の堂や三重塔があったと云う。(詳細は不明)

高野山本中院谷無量寿院多宝塔

2008/03/12追加:「高野山古地図」・・・上に掲載画像
 高野山無量寿院古図:中央に無量寿院多宝塔、中央は壇上伽藍西塔、現在は退転 。
2011/07/19追加:文化10年(1813)高野山細見大繪圖・・・上に掲載画像
 中院谷無量壽院多宝塔152:多宝塔に関する情報は皆無。
中院谷無量壽院については僅かに以下の情報がある。
大正2年、高野山教学の中心であった二大門主寺院の宝性院(宝門)と無量寿院(寿門)が合併し、寳壽院が発足する。
寳壽院は無量寿院の境内に置かれ、僧侶の教育指導機関である専修学院が設置される。
なお、宝性院跡は現在大師教会となる。

高野山往生院谷多宝塔

往生院谷は小田原谷の東、蓮華谷の西にある。
「高野山絵図」・・・上に掲載画像
 金剛三昧院并往生院谷多宝塔:中央やや下左に小田原谷金剛三昧院、中央やや上右に 往生院谷多宝塔(名称不明)がある。
(れんげ三昧院、丈六堂、千ぞう<蔵>院、上ち(池)院、不どう院などが附近にあり、小田原谷の東「往生院谷」に多宝塔があったものと思われるが、不詳。)
2008/03/12追加:「高野山古地図」・・・上に掲載画像
 高野山往生院谷多宝塔古図:塔の名称不詳、現在は退転
2011/07/19追加:文化10年(1813)高野山細見大繪圖・・・上に掲載画像
 往生院谷多宝塔157
 往生院谷多宝塔158
上池院、如来蔵院、密厳院、八幡社、千蔵院、寿量院、福生院、蓮寿院などが付近にある。
以上のうち上池院、密厳院などは多少場所は替っているとも思われるが、現地に現存する。

谷上大日堂東西二塔
「紀伊國名所圖繪 三編巻之5高野山之部中」 より:
 大日堂(金剛心院といふ)
 記事:「東西二基塔(礎石あり)」
 長元年間後一条院の創建。天養元年宇治入道忠実再興を企画。久安4年(1148)内大臣頼長落慶供養。
 東西2塔が存在したと云う。・・・大日堂は現在は廃絶。
  ※上に掲載した「紀伊國名所圖繪」中の谷上其二(部分図):無量寿院多宝塔の図に大日堂は描かれる。
   無量寿院は左下隅にあるが、その右側が大日堂である。
 


高野山のその他伽藍

高野山の歴史・文化財については多岐に渡り、詳細に述べるには、膨大な枚数が必要であろう。
紀伊高野山壇上伽藍図(高野山発行パンフレット):
  ただし西塔は多宝塔形式で描かれるも、西塔は初重平面方5間の大塔である。
○高野山伽藍
 不動堂1    不動堂2:建久9年(1196)頃一心院谷に建立され、明治 41年一心院谷から現在地に移建。
  高野山に現存する最古の建築といわれる。国宝。
 2006/12/02追加:
  一心院谷不動堂金輪塔1    一心院谷不動堂金輪塔2:明治期頃は錐揉不動との名称で呼ばれたと思われる。
   ※写真手前は不動堂、多宝塔写真は金輪塔である。
    特に2の写真の撮影された頃は、金輪塔附近に多少の伽藍が残っていたと思われる。
 2006/12/02撮影:
  高野山不動堂1    高野山不動堂2    高野山不動堂3    高野山不動堂4    高野山不動堂5    高野山不動堂6

 御影堂:大師御影を祀り、信仰の中心の一つとなる。現在の堂は江戸末期の建築。
 金   堂:昭和再建堂。残念ながら鉄筋コンクリート製と思われる。
 

金堂略歴:
弘仁10年(819)創建、承和5年(838)造営
その後、正暦5年(994)、久安5年(1149)、永正18年(1521)、寛永7年(1630)、天保14年(1843)焼失、本尊・諸尊像はその都度、持ち出されたと云われる。
天保年中焼失堂は 万延元年(1860)再建、14間四面、重層、銅瓦葺、欅材・装飾(彫刻)を多用。
万延再興堂は昭和元年火災焼失、本尊x秘仏薬師如来像(弘仁期)・諸尊も焼失。
現在の金堂は、昭和3年起工、昭和7年竣工。
2007/08/30追加:
「近畿名所」高木秀太郎、神戸:関西写真製版印刷、明36年 より
 万延元年再興金堂131
「高野山霊宝絵端書帖」、平田永吉編、高野村:宝玉堂、明41年 より
 万延元年再興金堂132   高野山壇上伽藍
「日本名勝写真帖」大阪:玉鳴館、明治31年 より
 万年元年再興金堂134   万延元年再興金堂135:写真右端の大塔は高野山西塔
「日本名勝旧蹟産業写真帖」西田繁造編、横浜:西田耕雲堂、明治45年
 万延元年再興金堂136:写真下方は根本大塔土壇・礎石、右は御影堂

2006/12/02撮影:
○徳川家霊台:重文。家康・秀忠霊屋のほぼ同形の2棟が並ぶ。寛永20年(1643)落慶。
3間四方の宝形造り、屋根銅瓦葺き、正面は唐破風の向拝を付設、勾欄付きの縁を廻らす、内部は金銀蒔絵などで荘厳される。
一辺は6.7m。元は大徳院(聖方本寺であった)の境内であったが、明治維新後、大徳院は廃寺合併。
 徳川家霊台1   徳川家霊台(家康)1   徳川家霊台(家康)2   徳川家霊台(家康)3   徳川家霊台(家康)4
 徳川家霊台(家康)5  徳川家霊台(家康)6  徳川家霊台(家康)7  徳川家霊台(秀忠)8  徳川家霊台(秀忠)9
 金剛峰寺パンフレットより:
  徳川家霊台絵図  徳川家霊台内部1  徳川家霊台内部2
 2011/07/19追加:
 高野山聖方本寺大徳院は元々蓮華院と称し、弘法大師もしくは快仙僧都の開基と云い、五の室谷に位置した。
 天文4年(1535)松平清康(徳川家康祖父)の遺骨が納められ蓮花院から光徳院に改号、
 文禄3年(1594)徳川家康から大徳院の院号が与えられ再び改号する。
 慶長12年(1607)家康から朱印200石を受ける。幕藩体制下で聖方總触頭となり、聖方百余ヶ寺を統括する。
 寛永20年(1643)大徳院裏方に東照宮が落慶、徳川家の菩提所となる。
  ※大徳院は東照宮別当
  ※現在は家康廟(神仏分離で薬師堂)・秀忠廟(神仏分離で位牌堂)と称する。
 一方、大徳院宥雅法印、寛永年中(1624〜44)神田紺屋町に屋敷を拝領、高野山聖方総触頭大徳院在番所を開設。
 寛文6年(1666)在番所、本所猿江へ移転、貞享元年(1684)には再度、両国の現在地に移転。
 明治維新後、五の室谷大徳院は他寺院と合併、蓮華院に復号し、千手院谷の現在地に移転する。
 あるいは、五の室谷大徳院の”寺籍”は両国大徳院に移されたとも云われる。
 五の室谷大徳院跡地には南谷の行人方南院が移転され現在に至る。
  ※明治維新後のこの処置は行人方の反発や徳川家に鞭打つなどの機運があったものと推測されるが、その理由は良く分からない。
   五之室谷高祖院多宝塔154:上に掲載、高野山東照宮・大徳院が描かれる。
○大門
 高野山大門:重文、寛喜2年(1230)五間二階の楼門に改築、天正5年(1577)に焼失、慶長9年(1640)木食応其上人によって再建、元禄元年(1688)に焼失、宝永2年(1705)落慶供養。現在に至る。
 


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