(『霊界の星々』より抜粋)
生い立ち
 ─ 乳児時代〜東大時代 ─

豊葦原の瑞穂の国の
米に因〔ちな〕める米壽を迎え、
この害〔そこな〕はれたる天体地球の
時空を越えて私は今何処に来たのか。
身は地上にありながらわが魂之霊〔たましひ〕は
聖霊のみ力で霊界に翔んで来た。
此処は十字架上のキリストの
両脇に十字架されていた悪人共の
一方の者が今はの極〔きわ〕に魂〔たま〕砕け、
「イエスよ、私を覚えて下さい、
あなたの国にお入りになるとき!」
この嘆願にイエスは即答!
「本当に〔アーメン〕お前に言う、
今日、私はお前を天国〔パラダイス〕に伴れて往く!」
この天国、パラダイスに私はやって来た。
わが魂之霊〔たましひ〕は幽霊ならんや、
わが肉体も霊的な生命に満たされている。
これが私の詩の世界の現実なのだ。
私は夢の中でも屡々〔しばしば〕そのような境涯に入る。
さてこの霊界から時空を越えて
わが生れし時代を鳥瞰〔ちょうかん〕しよう。
…………(中略)…………
かかる国家の命運に関はる
日露戦争開戦直前
明治は三七年二月七日
日曜の午刻、日本の国旗たる
太陽の光を私は始めて浴びた。
大詩人ゲーテの生誕時刻に類似したとは!
かかる風雲急なる甲辰の年なので
辰雄と命名、龍は東洋の霊獣、
風雲に乗じて天に昇るという。
しかもキリスト復活の聖日の真昼時
陽を浴びたとは! 霊的摂理! み前に平伏す。
既往八十有余年を顧〔おも〕うと、
わが国は三度び歴史的大変動に遭遇。
日露戦争、第一次、第二次世界大戦。
かかる劇的戦雲にめぐり遭ったこの身は
魂の遍歴に於ても霊的な風雲兒。
…………(中略)…………
私には兄三人姉一人妹一人、
兄三郎は乳母の乳悪しく生後三ヶ月で他界。
母は第四兒三郎からは母乳の不足であったから。
人生は奇運、私は牛乳で育てられた。

さて、わが生〔あ〕れ出でし東京は本郷の
弓町の上空から八十八年前を瞰下〔かんか〕する。
一九〇四(明治三十七)年如月〔きさらぎ〕七日
正に聖日の陽光燦〔さん〕たる真午〔まひる〕どき、
太陽は黄道の水瓶座と出会っている。
時正に日露開戦直前、弓町の一角に
孤々の声をあげたのは政吉、光子の四男、
甲辰の年ゆえに辰雄と命名された。
長兄政美、次兄龍二、姉は富士子、
三男三郎は生後間もなく他界。
私より三年〔みとせ〕の後に妹愛子。
我らの家は同じ丘陵の妻恋に移転。
私はその二階の欄干〔おばしま〕から庭に転落、
鎖骨を折ったが頸骨はまぬかれた。
ある夏のこと大磯で海岸生活、
あの大浪小波は今も眼前に砕け散る。
母は程近きお茶の水女学校教員となる。
それゆえ私はお茶の水幼稚園の
園兒として通園、担任は雨の森先生、
先生の笑顔は今もなほ眼前に髣髴〔ほうふつ〕。
あの藤棚の下で手に手を執って
輪舞したのも昨日のようにあざやかだ。
幼少時代の印象の何と深きや。
編袋に円筒形の弁当箱、
おかずはしばしば鶯豆、あの昔の味が蘇る。
同期の友に作曲家となった諸井三郎君がいた。

さてここで両親のことにちょっと触れよう。
父政吉は佐渡が島相川生れ、家紋は巴藤〔ともえふじ〕、
家系は藤原末流、生活〔くらし〕は佐渡の金山勤務、
三井系なる鉱山技師、語学の才あり、
南米アンデスの金鉱探索に出張している。
わが語学愛好は父の素質に由っている。
「佐渡の金山〔かなやま〕、此の世の地獄」と詠はれた
徳川封建時代の悪代官らの残虐の
昔を審判〔さば〕かんと
地下の金鉱採掘の様相をつぶさに再現、
人形に地獄的状景を現前させている。
現実は更に酷烈人道反逆のものだったろう。
明治末年の頃金鉱は枯れて来た。
佐渡の人情はあたたかい。
佐渡おけさ躍〔おど〕りは優雅なものだ。
さて父は洞察力深く、天籍するに尚十年を以てせば、
技師として大いに業績を遺したに相違なしと
その死を惜しまれた由である。
即ち父は東京の本社勤めのとき、
病のために他界した、私の五歳〔いつつ〕のときに。
雨のそぼ降る中を母に抱かれ人力車で
染井の墓地にゆき、土葬の際に、
埋められた寝棺の上に小さな手でひと握りの土を
投げ入れて手を合せたことが
八十余年後の今日もなほ
わが脳裏の写真版に遺っている。

母光子は信州松代、明治二年の生れ。
明治維新時の先覚者佐久間象山〔ぞうざん〕と
明治末期から大正初葉にかけての
大女優松井須磨子と同郷の人。
ともあれ私にとり母の恩は山より高く海より深い。
母は意志の強靱〔きょうじん〕な女性、
「精神一到何事か成らざらん」の実証者。
この一句は我らに対する母の訓育のモットーであった。
母は善意を以て敢〔あ〕えて重荷を負い、
此の世的にはまこと不幸な生涯〔いのち〕であった。
母は太田家八人姉妹の第五女で、十七歳のとき、
江戸へ出て勉強したいと父母に願い出た。
「若い女性が独りでそんなことはいけません。」
すでに決意の光子、夜陰に乗じ、
家を抜け出し、東へ東へと歩徒の旅。
それと知った両親は二人力〔りき〕の力車で
使者をして追跡させた。小諸で追いつく。
「御両親がお帰りなさい、とのことです」と。
「そうですか、どうしても帰れと言はれるのなら、
私の首をもっていって下さい!」 断乎たる光子の返答。
これには追手も降参。言に窮した揚句、
「そんなにお志が堅いのなら、お江戸へどうぞ!」
とむしろ励まして持ち合はせの路銀をくれた。
このことはわが青年時に母から直〔ぢ〕かに聴いた。
その時私の腹の中に熱湯が湧いた。
女子高等師範校をトップで卒業。
父亡きあと、母は我ら五人をよくぞ育ててくれた。
生徒はあのバンドに袴すがたの
お茶の水女学校の教員生活二十年、
勤務の他に家庭教師もしていた。
ついに過労のため胃腸のアトニー、
ためにお粥やパン食。
母の労苦の容易ならざる相〔すがた〕を
今もありありと想い出す。
本郷の弓町生れの私は弓が好き、
竹ぎれで弓を作って金魚を狙う猫を狙った。
それに因んだわけでもないが、天弓(虹霓〔こうげい〕)が最後の雅号。
弓町から同じ丘陵地帯の妻恋に転居。
程近きお茶の水幼稚園の園兒となった。
担任の女の雨の森先生の笑顔は
今もハッキリ想い出す。
母に伴れられて幼稚園に通ったが、
毛糸編袋に入れた円筒形の弁当箱、
鶯豆のおかずが大好き。
ある時どうした原因〔わけ〕か藤棚の角〔すみ〕で泣いていた。
A先生が駈け寄って私を抱きあげて「どうしたの!」
こんな愛のなぐさめが忘れられない。
もし私が画〔え〕書きなら今でも描〔か〕ける。
園兒の中には後に東大文学部で
イスラエル宗教史を共に聴講の
作曲家諸井三郎君がいた。

そのうちに父が病気で他界し、立派な門扉の屋敷から
千駄ヶ谷の借家に移った、幼稚園は中退。
向いの家に関西生れで「坊〔ぼ〕んちゃん」呼ばはれの
幼兒がいたのでこれが唯一の友となる。
直ぐ仲好しと相なって、朝から夕方〔ばん〕まで、遊び暮した。
中断はお午〔ひる〕どきだけ。
「春の小川は さらさら流る。
 岸のすみれや れんげの花に、……
 …………
 蝦〔えび〕やめだかや 小鮒〔こぶな〕の群に……」
あの唄そっくりの田園風景だ。
蓮華の花が野原一面のパラダイス。
小川には小蝦が潜行艇のように泳いでいた。
小川には狭い橋や丸太が渡してあった。
丸太はこれに股がっていざり渡った。
初夏の夕には螢が水べにちらほら、
東京といっても田園情緒まことにゆたか。
のちにこの「春の小川」の唄の発生地が
正〔まさ〕しく昔の千駄ヶ谷代々木だと知って
なつかしさがこみあげた。
七月のある日、ぼんちゃんと二人で
代々木練兵場への大通りを歩いてた。
道の真中に向って這ってる虫を彼が見つけて、
「兜虫!」と言うが早いか、走り寄った。
とその時米俵満載の台八車がさしかかった。
ぼんちゃんはこれにぶつかって倒れた。
彼の首が、前輪後輪の間に位置した
その瞬間、悲鳴一声!
噫、彼は敢〔あ〕え無くこの世を去った。
と、その時奇しく長兄政美が帰宅に来合はせ、
驚いて直ぐ彼を担ぎ、交番に届け出た。
私はおどおど泣きの涙で帰った。
あの衝撃的な一瞬は
生涯忘れられないのだが、
遠き昔をまざまざと想い出し
「ああぼんちゃんに会いたいなあ!」
すると見よ、彼が何処〔いずこ〕ともなく現はれた。
「ああ、辰ちゃんか、嬉しいな!
耳の恰好が昔の通りだよ、
よく忘れないで呼んでくれたね」
「忘れないどころでないよ!
初夏の頃千駄ヶ谷のあたりを
電車で通ると君のことを
想い出すこと幾度か知らないね、
君が兜虫をさきにみつけたので
あんなことになって、何とも……!
もし僕が先にみつけたら
僕があのようになったかも知れないよ、
君は僕の代りに霊界に先立ったのだ、
君に対して言う言葉がないね」
「そんなことはないよ、僕が狼〔あわ〕てたまでさ」
「ああ、あれからもう八十余年が経〔た〕った、
僕の地上での仕事が終ったら再会するから、
もうしばらく待ってね、すまないね。」
「ああ、楽しみにしているよ」
彼と握手をして「ではサヨナラ!」
霊体の彼の手は若々しい生命に満ちていた。
「人その友のために生命を棄つる、
これより大いなる愛はなし」
この聖言を念〔おも〕いながら
彼の後〔うしろ〕姿に合掌!

幼稚園を中退したことが、
私に二つの深い印象を与えた。
即ち田園情緒ゆたかな環境と、
文字通り刎頸〔ふんけい〕の友が与えられ、奪はれたこと。
私は自然の光と美をおのづから体感し、
心魂は自然に対する愛と情感を喚起された。
先きに父を失い、今や唯一の友を失った。
これはわがたましひの世界に哀感と
知られざる神佛への合掌の心情を誘致した。
父と友を失った寂しさは、母への甘えを増した、
夕方母が帰ってくる姿を門べで待つ自分の姿が
今でも、夕陽への憧憬と共に浮びでる。

やがて東京は小石川林町九十四番地に転住、
小学四年生までは林町時代、
よく学びよく遊べの後半時代だ。
私は高師附属小学第二部に入学、
正帽は烏帽子〔えぼし〕横折りの帽子に下級生は赤総〔ふさ〕
一学年一学級男女十二名づつ机は隣り合せ、
まことに人間味ゆたかなものだった。
一・二学年、三・四学年、五・六学年、夫々が
同一教室で同一先生から異なる学科を学ぶ。
先生は一時限を巧みに教壇を右往左往して
夫々の学年に夫々の学科を教へる。
かくて六年間、総半時間数で所定の学業を修得。
先生は実にヴェテラン先生たちだった。
担任は二学年づつ同一、即ち担任三人で
六学年の教科内容を見事に修得させた。
修身、唱歌、手工、地理、歴史、理科は
一学年づつ夫々の特別教室で学んだ。
私は修身が好きで、相島、加藤、蘆田の
三担任が語る史的実例談に感激。
三・四年時の加藤先生の習字の時間に、
先生はわが右手を上から握み、
魂〔たま〕こめた迫力で、習字のこつを教えて下さった。
習字も単なる技術ではない、たましひの力だ。
何ごとも全身是れ眼是れ耳の体感体得体現が本道。
蘆田惠之助先生は今想うと禅的な魂の人、
「作文はどんな課題にも、自分との関はりを以て書け」と。
五年生の夏休みあけの作文時間に、
「この夏の面白かったこと」という出題。
私は或る温泉地で誰にも教はらず自分の工夫で
泳ぎ得た体験をつぶさに書いた。
それは美に三重丸をつけた評価を戴いた。
高師附属小・中学では甲乙丙でなく美良可。
あの作文は何処へ往ったか。
小、中学校の少年少女よ、いろいろな作品や
教科書なども大切に保存せよ。
日記を必ず書けよ。日記は人生の歴史。
非常に大切なことだ。その素材から、
後年に何か役立つことが生れてくるからだ。

同級生に宮下眞一君という異常な頭形の
画〔え〕の天才が居た。正直、先生も顔負けだ。
何であれ、ちらっと見れば、それを苦もなく描くのだ。
チャップリンの活動写真を見て来た或るとき
私の眼前でいろいろな場面を描いてみせた。
静物、動物、人物、風景、何でもござれだ。
彼は中学二年生のとき夭折〔ようせつ〕した。
彼の死は日本画界の損失といって可〔い〕い。
弁舌も巧みで、物語の画を何枚も描き、
それを綴〔と〕じてめくりながら、
活弁(活動写真弁師)然と、
語り聴かせ、同級生を涙させたり笑はせたり。
「噫、宮下眞一君!」 私の強い念波を
無電の如く体受した彼が
翼もないのに飛んで来た。
「おどろいたよ、小池辰雄君!
君は霊的な人だね、昔は心の友だった、
嬉しいな、ところで地上はどうだね。」
「今は人情の薄れた世の中よ、
昔がなつかしいよ。大正四、五年、
君と親しく語り合ったあの頃が
昨日今日のように感ずるよ。
何しろ君は画の天才だから、
今でもあのチャップリンの画などは
眼前髣髴〔ほうふつ〕だ、君の名画を
幾枚ももらっておくべきだった、
後悔先に立たず、残念千万だ」
「好〔い〕いよ、今に地上の歴史が終ったら
神さまが新天新地を創造〔つく〕って下さる。
そこは昔の地球よりすばらしい天地で
そこでは不思議な筆や画の具や画紙で
自由に描けるようになろう。
東西古今の大画家たちが
昔に優るすばらしい創造力で
奇想天外の画を描くにちがいないね。
僕もそのときを楽しみにしている!
では君との再会を待っているよ!」
「ではサヨナラ、宮下君!」
中学初年の宮下君は、霊界では壮年の相〔すがた〕。

さて五年生の春の遠足、
中野から井の頭までの片道徒歩である。
私は扁桃腺が張れているので
母が「遠足をすると病気になる」と諌止〔かんし〕した。
それを聴かずに出かけたところ大変疲れた。
一夜にして顔が腫んだ、急性腎臓炎。
ために一学期を棒にした。
何とも申し訳なき次第であった。
しかしその間〔かん〕病床で(旧制)一高生なる
長兄政美から英語をABCから学んだ。
小池政美と言へば、その当時一高文科では
英語の代名詞とされたほど抜群だった、
そんなヴェテランの兄から学んだので
私もすっかり英語が好きになり、
二学期に登校したら、英語は一番、
「英語の先生」などと綽名〔あだな〕された。
病気のマイナスが英語のプラスになったとは。
人生にはふしぎな導きがあるものだ。
このわが病中に、妹愛子が入院、
可哀相に、法定伝染病たる猩紅〔しょうこう〕熱罹病〔りびょう〕。
小学二年生にして彼女は天界に去った。
そのことを母は病中の私には黙秘。
噫、快活だった愛ちゃん!
あとで知った私の寂しみは何とも。
六月五日の命日にはお花とお菓子で供養する。
「小池愛子ちゃん!
お兄ちゃんだよ!」
「ああ驚いた、お兄ちゃん、
どうしたのこんなところへ!」
「何十年経〔た〕ったかね、でも此処〔ここ〕は
年数なんか問題でないだろう」
「そうなのよ、時間なんかないのよ、
地上のような時計は要らないの!」
「好いね、自由自在、永遠を今としてだね、
お兄ちゃんは地上でも永遠を今としてるよ、
地上で十二年かかる詩を今書いている最中よ、
もうしばらく待っていてね、
そしたらこの霊界のパラダイスで
たのしく遊ぶからね」
「ええ、待っているわ、たやすい御用よ、
でも兄ちゃんは偉いのね
こんなところへやってくるとは」
「偉くもないんだよ、
全くキリストさまのおかげなのよ、
いづれゆっくり話すとしよう、
ではさようなら、愛ちゃん!」
「さようなら、お兄ちゃん!」
彼女は元気な美しい乙女に見えた、
しかも昔の面影がハッキリ現はれている。

その秋には一高の名投手内村祐之の投球振りを
兄に伴れられて見に行った。
あのあざやかなカーブやドロップ、
あの左腕投球のフォームそのものが
今でも眼前髣髴だ。
五大学を零〔ゼロ〕敗させた一高全盛時代は
正にこの内村左腕名投手のときに現じた。
『野球界』誌の「一高全盛」特輯〔とくしゅう〕号が
今でも眼に映る、保存すべかりし。
後年内村祐之先生(精神病学の泰斗)を訪ね、
「先生は何故〔なぜ〕獨協(中学)に入られたのですか」
「父が "How I became a christian" の
独訳("Wie ich ein Christ werde")が
よく売れたので、ドイツ人は私をわかってくれる、
だからお前は獨協に入れ、と言はれたからです」
私は笑って「そうだったのですか!」
獨協中学五年間を内村は一番で通した。
野球のために三番以下に落ちたら、ゆるさぬ、
日曜は聖書集会だから仕合参加も相成らぬ、
これが内村鑑三先生の厳命だった由。
ともあれ、日曜を特に魂の日としない
日本の民主主義一般の在り方は嘆かはしい。

わが小学時代は明治四十三年春(一九一〇)から
大正五年春(一九一六)まで。その日常生活を垣間見れば、
市内電車の往復切符が七銭、藁納豆が一銭五厘、
大福餅が二銭、理髪屋が十銭、銭湯が五銭、
子供の一ヶ月のお小遣いが五十銭銀貨一枚
といったところが庶民の水準。
暮、正月は凧上げ独楽〔こま〕まわし、羽子つき、
いろは加留多、双六〔すごろく〕あそび、百人一首等、
素朴なあの賑わいはなつかしい。
長兄政美は何でもござれの万能男兒、
百人一首は全部諳〔そら〕んじ、抜群の巧〔うま〕さ。
凧あげもヴェテラン、あの大凧赤龍に
すごい「唸〔うな〕り」と長い尾をつける。
相当の風の日に天高く揚げる兄の面影。
赤龍のあの雄姿、あの唸り、今もありありと。

さて小学時代にわが魂をゆり動かしたもの、
そのことを最後に記さねばならぬ。
それはものでもことでもない、一人の人物。
後学年時の校長佐々木吉三郎先生だ。
校長は月曜の朝、高学年、低学年交互に
全校生徒に対して半時限ほど
講堂修身なる講話を実施、
内容はメモしてないが
わが心魂が震撼〔しんかん〕したのは事実だ。
この校長は正に附属小学教育の柱であった。
小学卒業後七十余年も経ったある日
私は高師附属小学校を訪ねた。
若い校長さんに、私は斯〔か〕く斯くの者で、
今日は突然思い起ち、昔々の佐々木校長の
御恩忘れがたく、何か先生の遺著あらんかと
お訪ねした旨を語ると、校長さんはある先生に
図書館への案内を命じた。
果せる哉、『教育研究』誌のバックナンバーの中に、
佐々木先生の論説が幾種も連載されてあった。
そのある部分をコピーしていただいて辞去した。
わが小学在学当時、一学年上と下に
校長の令嬢淑子、徳子の二人が在学。
名簿により氏家徳子さんの家が
登校当時の途上近くに在るを知り、
電話をかけた。彼女は驚き歓んだ、
未だかつてこんなことを言う人はなかったと。
その後両嬢(老婆だが)を訪ねて、懐旧の談に花咲いた。
さて徳子氏に『青年と人生観』という
校長の遺著が唯一冊あったので、それを借りた。
この一冊の本に先生の本質が凝集している。
茲にこの希代の教育者の人生観、世界観を簡潔に紹介しよう。
先生は大正十三年元日、伊豆の長岡へ出向き、
そこの大和館六畳間で一尺七寸四方の
チャブ台を机にしてこの本の原稿を書いた。
何の参考書もなく、多年の読書と体験に基づき
自由自在に書いた。哲学的精神の先生は言う、
「万人は哲学すべきである、
権兵衛、太郎作、お鍋どんの果てまで、
自分自身の人生観を以て生きるべし。
特に青年たちは人生のスタートを切る前に、
即ち二十代に人生観を堅持して実社会に立ち出でよ。」
先生は極めて積極的な心魂の人、
万物は生く、鉱物に到るまで、と物活論を説く。
先生はギリシヤ人の如き議論過多ではなく、
ヘブライ人の如く実践の裏付けを以てものを言う人。
先生は万有の差別相の奥に万有帰一の相を洞察、
多即一、一即多という西田哲学と相通ずる
哲理を告白、宗教哲学的性格が見られる。

これに因〔ちな〕んで私見を述ぶれば、各民族各国家も
夫々天与の本質と使命がある。
何を好んで争うか、互いに特質を認識し尊重し、
相助け相補って、世界の多民族、多国家が
大交響楽の如く大調和を成すべし、
それが帰一せんためには、人間として
超人間の絶対者に――それを何と名称すとも――
平伏すたましひの在り方こそが大要〔だいかなめ〕。
眞の帰一はこれなくしては不可能だ。
平和をいかほど唱えても平和来たらず。
絶対者との縦の絆〔きづな〕こそ平安なるぞ。
平安あってこそ横の連〔つら〕なり、平和が成るぞ。
人類何ぞ愚かなる、「剣を変えよ鍬鎌に」
かく叫んだ預言者イザヤが天界で歎いているぞ。
核文明の元素プルトニウムは人類をも
動植物をも害いつつある。
況んや核兵器全廃こそ急課題。
人間が神のみ前に平伏さざる限り、
何をどう議論しようと虚空に消える。
大西郷の「敬天愛人」は世界的な眞理だ。
リンカンが喝破した如く
デモクラシーがアンダー・ゴッドでない限り、
人間は高慢と慾と殺人の親玉サタンの配下だ。
二十一世紀は一体どうなるか。

さて物活論の校長先生は原子構造に於ても
愛の抱合、極微分子の舞踏、
元素間の親和力といった表現を用いた。
「現象は他観なり、実体は自観なり、
他観は物質にして、自観は生命なり心力なり、
生命心力を併称して心霊といふ、
万物は他観せば物質と見え、
自観せば心霊と見ゆ。
心霊の現象が物質にして、
物質の実体は心霊なり。」
正に物心一如の妙諦を喝破した名言である。
「之を外観し、現象として研究するを科学とし、
之を内観し、実体として研究するを哲学の本願とす。」
と道破し、宇宙の大理法を直観し、
且つ宇宙を目的論的に観じ、進化して歇〔や〕まずとなしている。
この宇宙に生を享〔う〕けたる人生の抱負を語る。
「吾人は、進化の大潮流に投ぜられたる
一小分子なり。此の潮流に幾滴かの貢献をなし、
以て社会進化の助勢をなし、
造物主をして、余あるが為に益する所あって
損する所なかりきといはしめよ。
これ吾人の最終の希望なり、目的なり。
吾人は、之を達して初めて、
莞爾〔かんじ〕として冥目すべきなり。」
先生の気宇まことに雄大にして、
人生に対する烈々たる気魄、
厳粛なる態度の片鱗乃至本質を茲に見た。
先生はその後文部省の重要ポストに就き、
昼夜を別たざる激務に鞅掌〔おうしょう〕して、
流石〔さすが〕頑健な先生も身体を害し、
壮年期に突如世を去った。
量的に未完成なりし先生は、
質的に完全性を以て目的を果した。
愚生の如き小さな一小学生の魂に
不滅の印象を遺された佐々木吉三郎校長先生!
先生のこの悲願になほ残れる生涯を以て応えまつらん。

茲に於て胎兒、乳兒の源始期から
幼兒期、学童時代の育兒教育は
如何にあるべきかに深く想いを致さんと欲う。
この四期は人間形成の第一段階、
その責任と栄光の大半は母親にある。
母親が源泉であるから、源泉そのものの
心身の在り方が先づ問題。
女性の本質は愛、愛の源泉は何処〔いづこ〕に!
新約聖書のキリストは愛の体現者。
釈迦の佛道の極意も慈悲である。
この二大宗教の与えんとするものは慈愛。
人間の魂の本質は宗教的である。
然るに現代人はその本質を自覚していない。
二十一世紀はどうなるかの火急の問題は
現代人よ神に帰れ、である。
第二の国民、民族の産みの親たるべき女性、
母親の責任と栄光を果さんためには
何としても偉大なこの二宗教のいづれかに於て
本ものとなれと、叫ばざるを得ない。
しかも私は自分の体験からは
新約聖書のキリストに来よと
告白せざるを得ない。そこは
愛の生命があふれている源泉だ。
この愛にはまことの光と力がある。
若き新婚の女性よ、新約聖書の
福音書を繙〔ひもと〕いてキリストの愛の
言動の中に胎兒の如く抱かれよ、
その体感が直ちに貴女の胎兒に伝はる。
胎教これに如くものなしである。
胎兒を抱く母親は一般に言はれる如く、
美しき画を見、美しき音楽を聴き、
美しき自然に接し、美しき童話を読む。
更には心魂に愛の情、善の意志を起こし、
よろこばしき知識を与えるものを体受する等、
すべて胎教に不可欠の糧である。
伝記をよむと偉大な人物の母親はなべて
心魂に宗教的な深みある愛の女性。
第二は乳兒期だが、かくの如き愛の母が
乳兒を抱き乳房に顔を寄せて吸はせ、
生命の乳と柔肌〔やわはだ〕を体感させるが大切。
さて第三の幼兒期を迎えたならば、
保育園の保母さんは、同じく愛の心と
楽しい歌心ですべてをなすのみ。
園兒の生れながらの自由の心に
保母さんを通して何か天的な光と愛が
沁み込んで来ることが極めて望ましい。
幼稚園では兄弟姉妹のような
友だち意識が芽生え来て
団隊で楽しく歌を歌いつつ、
お手手をつないで跳び廻る。
男も女もごっちゃごちゃ、
これがこの世のパラダイス。
それに幼稚園の女の先生が
昔がたりの民話を語り、
更には聖書のおはなしや
イソップやグリムやアンデルセンを、
聴かせることが極めて大切。
これらのことを母親と心を合はせて
いとなむときは幼兒の心に天的な幸〔さち〕をもたらす。

かくて第四期学童時代に入りゆく。
さて小学校は昔も今も六年間、
胎兒、乳兒、幼年時代がパラディーソ(楽園)ならば
学童時代はプルガトリオ(煉獄)の初期か。
私自身の小学時代は既に瞥見〔べっけん〕したが、
現下日本の所謂民主主義下の
小学校教育は概して寒心に耐えぬ。
何ゆえか、それは何も学校教育に限らず、
日本の民主主義が「神の下」でないからだ!
アメリカの名大統領リンカンは、
かの南北戦争で gettysburg 〔ゲッティスバーク〕の決定的勝利の際に
有名な三分間演説をしたが、その終句は、
" …… this nation,  under God, shall have
a new birth of freedom, a new goverment
of the people, by the people, for the people,
shall not perish from the earth."  November 19.1863.
「この国民は、神の下に於て、自由の新生を得、
民衆の、民衆による、民衆のための
新政治は地上から滅び去るべからず。」
彼は「神の下に於て」と明言している。
リンカンのデモクラシーは民主主義の上に神があることを
見そこなっているのが日本の民主主義、
これでは決して健全な民主主義ではあり得ない。
十九世紀の三大政治家、米のリンカン、英のグラッドストーン、
独のビスマルクはいづれも敬神の念深く、
聖書を身読してやまざる政治家。
況んや教育者は高次な宗教心を有たずして
どうして本当の教育ができるか
日本の教育が、公私立校いづれにせよ
教育者自身が道徳心の上に宗教心なくしては
兒童にたましひの教育不可能なこと
火を見るより明らかである。
陽光を遮〔さえぎ〕る木蔭の下の
草花はまことにあわれだ。
その如く神の光を身受していない教育者は
小学生の魂を育て得ない。
高慢な自己中心な兒童をつくって何になる。
寒心に耐えぬといったのはそのことだ。
およそいかなる主義にも限界がある。
超主義の世界即ち宗教的絶対界の
霊気をたましひが呼吸していないと
心魂が枯れてゆく。
二十世紀は人間の心魂が枯れて来たので、
文化文明が奇形的になって来た。
先生や親をなぐったりするあさましさ!
マルクス主義の大欠陥が
心の世界の枯死に気がついて
ゴルバチョフはペレストロイカをした。
それでおのづから東西ドイツの
鉄の壁が崩れ落ちた。
世人は平和平和と叫ぶ、
そうではない、神と魂の垂直関係が立ち、
平安が魂の質となるところに
人間関係の本当の平和がくる。
縦の柱なしに家ができるか、
横板を組んでも風で吹き飛ぶ。
何をか言はん、各教員が宗教心をもてば
大いに夫々の教員の特色を発揮して
生徒を指導し、いかに学ばんか
いかに考へんかいかに創造せんかを指示すべし。
眞理に即せる権威を以て教育と、
それに従って眞の自由を生徒は得る。
全体主義的な特色なき教育は
生徒の心魂をも頭脳をも眠らせてしまう。
学校の中心は校長、
校長こそは霊的人格たることを要す。
私がそのような佐々木吉三郎校長に
出会ったことは深い感謝である。
以上が小学校教育の根幹である。

一九一六年の春、高師附属中学入学、
この附属も固有名詞の如く通用。
小学校第五、六年は正直猛勉強、
それはしかし所謂受験勉強に非ず、
入試第一日は国、数、習字、
習字課題は「りんきおうへん」を漢字で書け、
当時は略字なく、「臨機應變」。
数学四問中一問失敗、夕刻の発表を
見に行く気なけれど、恐る懼るでかける。
禿頭の小使さんが梯子に乗って校舎壁に
大巻紙を繰り展げつつ貼る。
受験番号60がちらっと裏から見えた!
あの瞬間は生涯忘れられぬ。
失敗の数学一問の正解者四人のみの由。
第一日に落とされた受験生は
一八〇名の半数、第二日は英語の試験、
英文和訳、和文英訳、書きとり、朗読。
きびしい試験だ。友人曰く「小池君は大丈夫だよ」。
長兄政美のおかげで英語の自信はあった。
合格者は三〇名のみ、中学一学年は六〇名。
他の三〇名は附属小学第一部から無試験入学。
一学年二クラス六十名、全校五学年で三百名。
先生たちは優秀だった、楽しく学んだ。
英語には生粋のロンドン子、スキート先生、
マクミラン・リーダーによる充実した内容のものだった。
中学時代に私の心の糧となったのは、
英詩と漢詩。例えば次の如きもの。
Longfellow : A Psalm of life, Rainy day,
Village Biaue Smith, Exellsior.
Tennyson : The charge of the light brigade,
Crossing the bar, out of "In memoriam"
Wordsworth : Rainbow, We are seven
Whittier : The Mayflowers
詩ではなく小説では、
Washington Irving : Sketch-Book,  
Dien Fallar : The three homes,  ……
Shalock Holmes : Adventures
茲に二つの詩の和訳をかかげて当時を偲ばんと欲う。

ロングフェローの「人生の絃歌」一、二、九節
1 言う勿れ悲しき調べに、
  人生は菫花一朝の夢と。
  魂魄〔たま〕まどろみて死に似たるとも、
  見ゆるところは真相〔まこと〕に非ざれば。
2 人生〔いくる〕は真実〔まこと〕なり、人生は厳粛〔おごそか〕なり。
  塋穴〔おくつき〕いかで終結〔おはり〕ならんや。
  塵より出でて塵に還る、
  そは霊魂〔たましひ〕の謂〔いひ〕にはあらず。
9 いざ我ら起ちて為〔な〕さむ、
  万難に耐ふる心根をもて。
  愈々達しては愈々追求〔もと〕め、
  働くを学び、待つを学ばん。

ウォーヅウォース(イギリス)の「虹」
  わが胸は欣び躍る、
  大空に虹をし見れば。
  人生の曙〔あけ〕に然かりき、
  成人の今も然かあり、
  老年の暮〔くれ〕にも然かあれ。
  然らずばわれ死なまほし!
  幼兒〔おさなご〕は成人〔おとな〕の父ぞ。
  魂極〔たまきわ〕る生涯〔いのち〕の日々を
  結びてよ生来〔うまれ〕の虚心〔こころ〕。

漢詩では、藤田東湖の「天地正大の気」、
杜甫の「春望」その他、
頼山陽の「歎聲粛々」、
乃木希典の「山川草木」、「王師百万」、
白居易の「長恨歌」、
詩的散文では蘇東坡の赤壁賦、
論語や孟子や老子等の名句、
中学時代のテクスト今は影もなし。
勿論これらの原書はあるが。
要するに詩が好きなのだ。
私は詩魂の人間だ。                                   中学時代の運動は一年から五年まで、
夏は房州富浦で先輩たちの指導によって
水泳(水府流)を修得した。
頑強な身体で、私はスポンジ・ボールでピッチャーかショートをやった。
隅田川ではボートを漕いだ。
フォアにもエイトにも漕者のメンバーに入った。
和船も漕いだ。要するに水泳、野球、ボートが私のスポーツ。

さてこれより先、世界第一次大戦勃発、
一九一四年の夏、私が小学三年生のときだった。
新聞に連合国元首とドイツのカイゼルの写真が大きく載っていた。
タンネンベルクの戦に於けるヒンデンブルク将軍の名作戦のこと、
ツエッペリン飛行船のロンドン空襲のこと、
ドイツ潜水艦の変現出没のこと等
少年の心をゆり動かしたが、ドイツは終に
一九一八年に敗戦を喫した。時に私は中学三年生。

正にこの戦中、日本の演劇界に
彗星の如く現はれた大女優があった。
松井須磨子その人で、トルストイの
「復活」の一場面カチューシャの離別の前後を背景として
カチューシャに扮した須磨子が劇中で
歌った「カチューシャ可愛や別れのつらさ」の
名歌名曲が日本全土を風靡すること三、四年、
私は今でもなつかしく、時折口吟〔づさ〕む。
かくてわが中学時代は、小石川同心町の
門もない、いきなり格子扉の
借家の二階の室に長兄政美と
机を並べて五年間暮したのだが、
この五年間が私にとっては
人間形成のなつかしい楽園で、
何年経っても忘れられない印象だ。
それは長兄政美の行きざまが
あまりにも印象深く遺っているからだ。
一高後半と東大三年を彼はすごした。
書架には英文の詩書、小説類と法政の専門書、
内村鑑三の著書と「聖書之研究」誌等。
机の右に部厚な旧新約聖書、
これを半年で創世記から黙示録まで読破、
それを繰り返していた。
夜の九時には必ず廊下の欄干に両手を置いて
祈っていた。私には宗教のことは何も語らない、
尚早と思ってだろう。ただその在り方が無言の伝道。
性格は明朗快活、智は抜群、情は深く意志強固、
どうみても私より数段上だ。
読書力は例えばあの大作「ミゼラブル」の英訳を
一週間で読破するほどの実力、
一高文科の同期生間で小池は英語の代名詞。
運動は水泳、野球、ボート、和船の棹〔さお〕さし、何でもござれ。
東大二年間の前期で、三学年間の内容を修め
行李にぎっしり本とノートをつめこんで
夏休暇中、戸隠の民家で準備をなして、
秋、高等文官試験にトップ級でパス
民法九十八点で鳩山試験官が驚嘆した由。
一緒に銭湯で入浴したあと、ある地点から
ランニングで帰宅のバカげたこともした。
彼は大学卒直ちに大蔵省に採用、
その秋ロンドン大使館への内定あり。
ところがサタンの横槍で北京公使館へ急変、
晩秋彼を東京駅プラットホームに見送る。
昇降口に立っていた彼の姿は今も眼にある。
これがこの世の生きわかれになったとは!
私は翌大正十年春中学を卒業。
受験勉強手おくれで水戸高校入試失敗、
直ちに神田の日土講習会通いで涵養
藤森良蔵の代数幾何、坂本哲三の国語漢文
いづれも教え方ヴェテラン、学び方考え方の名講、
所謂受験のためでなく実力涵養に大いに益あり、
英語は既に自信あり。
その夏、北京同仁病院から電報、
母と次兄龍二が急遽〔きゅうきょ〕北京への旅。
朝鮮半島縦断、南満州横断、
山海関を越え天津から北京へ、
長兄政美悪性チフスのため高熱、
しかしキリストの愛は更に熱く
終に白衣のキリストが現はれ給う。
「キリストが迎えに来られましたので、
お母さんお先に失礼いたします。
おゆるし下さい。」 これは今生最後の言。
眠るが如く九月二十二日終に召天。
地上の生涯二十六年一ヶ月、噫!
上司公森太郎氏の弔辞の一節に曰く、
「君天資穎敏〔えいびん〕頭脳明晰……
其ノ研鑽ノ蹟ヲ見ルニ其ノ方法
理路整然トシテ一糸乱レズ……
支那財界ノ諸問題モ
之ヲ俎上〔そじょう〕ニ陳〔の〕ベテ利刀ヲ以テ
料理スルノ慨アリキ
加フルニ君ハ非凡ノ英文読書ノ能力ヲ備ヘ
赴任以来欧米人ノ手ニ成レル支那ニ関スル
名著数十冊ヲ読破シ
碌々〔ろくろく〕タル儕輩〔さいはい〕数年の造詣〔ぞうけい〕ヲ
一年ナラズシテ贏〔か〕チ得タルノ想アラシメタリ……」
メイフラワーに乗って再び帰国を想はなかった
清教徒夫妻の如き悲願が、彼は遂げられなかったので
彼は銀製の十字架を秘かに携えていた
それには一九一九秋と英語で浮き刻りが施されていた。
伝道の地図すら既に準備していた。
即ち生涯独身で貫きハドソンテーラーの如く
中国伝道に献身せんと地図を準備していた。
荼毘に付し遺骨を携えて
母と次兄龍二は船路黄海を渡った。
その船上で母は多年の過労と
政美の急死の悲嘆のために
噫失明の憂き目に遭うとは!
失明の母が遺骨を抱える次兄に
手をひかれて東京駅頭に降り立った。
これを迎えた私の全身は涙か火か。
母は井上眼科病院に直行。
緑内障はその頃の医術では
ほどこしようがなかったらしい。
眠られぬ夜に襲はれた。
やがて、同心町の家を去り、
西大久保の武田叔父叔母の
世話になる身と相成った。
受験勉強に更に全身をうちこんだ。

一高受験の自信が着〔つ〕いた。
明けて二二年春のこと、一高受験票を手にしたが、
「叔父の世話の受身〔うけみ〕で落ちもせば申しわけなし」と
母の諌止〔かんし〕にやむを得ず、水高受験に切り替えた。
その諌止には蔭の理由があったので、母も私も涙を呑んだ。
柏葉徽章の白線帽子を断念したる
わが胸中〔みぬち〕には火が燃えていた!
水高文乙にトップ級で合格、一高に入れた筈〔はづ〕よ。
白線とは布の白線二本が丸帽に巻いてあるから。
兄の墓前で「一高を受けそこねました」と涙の報告。
残念無念、遺恨百年、憧憬の一高を逸したことは。
嬉しからざる水高入学、それかあらぬか、
その初夏に腸カタルに襲はれて
水戸の常盤病院生活一ヶ月、
生死の瀬戸際をさ誘うた頃
吉原知子叔母看護に来院、
懇ろに重湯お粥を手造り給う。
おかげで癒〔なお〕り帰京はしたが、骨皮髓衛門。
百米も歩けぬ惨めな体力、遂に休学。
秋も更けたるある日、読書せんとて兄の書架から、
内村鑑三著『宗教と現世』なる書を
< Tolle, lege > (採りて読め!)と促される如く、採り出して
読むや直ちにわが魂は捕へられた。
政美の引いたサイド・ラインの個所はとりわけ
感謝感激を以て、全巻読破。
月刊誌『聖書之研究』も繙き始め、
新約聖書に初めて喰いついた。
明けて二三年の春を迎へ、体力も増して来たので、
内村先生の日曜集会を聴きに行こう、
そう決意して大手町の日本衛生会館講堂へ。
「幸福なるかな心の貧しき者、天国はその人の有なり」
「幸福なるかな柔和なる者、その人は地を嗣がん」
幟の如き垂紙に二行の墨書、
原稿紙を手にしながら、力ある聖書の講義。
直ちに心が打たれ感涙に咽〔むせ〕んだ。
讃美歌「わが魂を愛するイエスよ」
数百名の男女の合唱、
何か知ら、新しき心境となった。
一高に入らず、身体は病弱。
このマイナスの自乗の中で、
私は藁〔わら〕をつかんだのではなく、
キリストにしがみつくことと相成った。
一高生だったら、亡き兄の如く
内村先生のこの大集会に毎日曜
参じたに相違ない、噫!
政美は日曜の午後、独りで
校外を散歩していた。
五万分の一の地図に歩みし跡が
赤い線で遺されていたのを
今だになつかしく想い出す。
ともあれ、福音の世界に
このようにして踏み入ったことは
わが生涯の一大転機!
同心町時代の政美の生きざまが
福音への預言的道しるべ。
兄の北京での召天が
死を以てした決定的道案内。
二三年四月一日は復活節、
そのとき「美はしの白百合」の讃美歌を
内村先生は女性だけに合唱させた。
聴き惚れたあの時の気持も甦る。
水高第一年をダブル、創立第四期生となった。
水高寮生活にわかれを告げて
高師附属中学同窓の若干名の桐寮に入る。
林不二雄、平山嵩、芳賀檀、近藤駿四郎
従兄の青木四郎等と同居した。
特色ある人物揃いでいつまでも心に遺る。
私だけが病弱でなさけなき存在。
ある放課後、柔道場を会場にして
ルター研究の権威佐藤繁彦先生の講演、
先生の真正面最前列で聴講した。
感激して、不日〔ふじつ〕ルター聖書を買いにゆく。
水戸の一番大きな本屋の書架の上段に
黒光りの立派な本が目についた。
あな嬉し、それが正〔まさ〕しくルター聖書、
早速買って、扉に日付を書いた、二三年十一月十日と。
あとになって正にこの日がルターの誕生の月日と知って
冥合の奇〔くす〕しさに感謝の合掌。
その翌年、同じ本屋で中山昌樹著「詩聖ダンテ」を買った。
年月日を記すのは私の習慣、二四年九月十三日。
この本も感謝して読み、
ダンテに強く心を惹かれた。
しかもまたこの日がダンテ帰天の月日とは。
私はどうもそういう霊しき星の下の人間だ。
単なる偶然でない、天の配剤だ。
水高のドイツ語の教授陣は一流の学者揃い、
小牧、相良、吹田、実吉の諸教授と
日本学の大家グンデルト博士も在職。
法学士政美は英語、軍人龍二は佛語、私はドイツ語、
ふしぎな廻り合はせ、独文の道に使命を感じた。
ゲーテの「ウェルテル」、ヒルティーの「幸福論」
ハイネの「詩集」、グリルパルツェルの「辻音楽師」等
アンデルセンの「絵のない絵本」等が
ドイツ語授業の主なテクストであった。
ゲーテとヒルティーに心を惹かれ、
ヒルティーの「眠られぬ夜のために」の
上下二巻の原本を福本書院に注文、
これが何と九円、一ヶ月の小遣銭が殆ど尽きた。
上巻を読みに読んだ。後日遂に翻訳する。
下巻も別な特色あり、これは友人が訳した。
ヒルティーの「幸福論」の原書もかじった。
これはドイツ語の実力涵養にも役立った。
病弱のため、どの学年も期末試験のどれかを受けず
見込点で及第の綱渡り。
まことに惨憺たる水高時代!
薬に捕はれていることに気づき
卒業するやすっかり薬を投げ棄てて帰京した。
さはれ、水高時代に終生忘れられぬ
一つの想い出がある。しかも単なる想い出ではない。
それを茲に記さざるを得ない。

 虹
赤倉の夏! というとも
誰にわかろうや。
そのようにどの人にも、
その人でなければ通じない
なつかしい想い出があるものだ。
とかく病弱だった水高時代、
母の教へ娘〔ご〕が嫁〔とつ〕いださきの
高師附属中学の大先輩齋藤力さんが
一夏私を赤倉高原で
保養させてくださった。
あの底ぬけの親心は
わが胸中〔みぬち〕に生きている。
暑い暑い夏の東京から
赤倉高原に登りついたその日から
俄然食欲が盛りあがった。
ある午〔ひる〕さがり、雷雨一過のあと、
陽が背後の妙高山に傾きかけた頃
東のかた野尻湖の上空に
鮮〔あざ〕やかに大半円を描いて
大虹霓〔こうげい〕が現はれた!
漢語では虹は雄の龍、霓は雌の龍、
正に優しき霓が上に逞〔たくま〕しき虹が下に、
淡濃二重の天弓が現じた。
紫、藍、青、緑、黄、橙、赤の主虹の壮美、
その配色をさかしまにした従霓の妙麗。
感歎、魅了、飽かず眺めること小一時間!
こんな虹はわが生涯にまたとあろうか。
「われは始めなり終りなり」の
主の徴なりしかと今にして想う。
超絶の天空を走る陽光は無色の白光、
み空に満つる水滴もまた無色透明の玉、
無色の玉を貫いて反射する
無色の光が七彩に変現する。
七彩に宿る無限の光彩。
過ぎゆく美にこもる永遠の美。
妙えなるかな霊〔く〕しきかな
天地に架する天弓のすがたよ。
虹をし見れば虹となるわが身かな
キリストに祈り入る我れに我無く
キリストのなかに私の生きる如。
無即無限無量! 現象即本体!
須臾〔しゅゆ〕にして消えゆく不滅の相
霊的福音の眞理の象徴
一切の概念、イデオロギーを超絶するもの、
さればこそ一切の概念、一切の現実、
一切のイズム、イデオロギーを包摂する、
それがキリストだ!
いらくさの谷を涙ながらに渉り、
こごしき山路を喘ぎつつよぢ登った人は、
高峰の花園に歓呼の声を放つ。
艱難を突破した勝利の人生。
雷雨天涙のあとに懸かるは虹霓。
ノアの洪水のあとの契約の虹。
雷雨的最後の審判のあとで
霊虹的終末の大希望が成就する。

一九二三年九月一日の正午に何が来た
関東が大地震に襲はれた。
私は母の手をひきよろめきながら戸外に逃げた。
余震のためにしばし茣蓙〔ござ〕の上
やがて大東京が火の海に化す。
あな恐ろしや親戚青木医院も武田邸宅も全焼とは。
神の摂理は此の如きか。借家住まいのわが家が遺る。
畏るべきかな神の命運。
陸軍士官学校の存在のゆえに
火はのぼり来らず加賀町は焼けない。
二四、五年にかけ、従兄青木三弦氏宅に寄寓し
腎臓結石の際は助けられた。
二五年の晩秋、次兄龍二が
武蔵野村吉祥寺に新居を構え、共に移った。
夕靄が垂れると墨絵のような夕景色
縁側から居ながらにして富士を遠望、
コスモスの花が小庭辺に咲きみだれ
地主の桑畠がひろがっている。
感謝の念と想い出をふくみ、
井の頭の池畔を散歩した。
二六年の春、惨憺たりし水高四年の生活をあとにして
東大ドイツ文学科に入学。

東大入試準備の余裕あらなく、
ぶっつけ本番の体当り受験。
志願は何か、ドイツ文学科、
受験科目は独文和訳、和文独訳、
国語は万葉仮名の万葉解釈、
漢文は白文に符号をつけて解釈、
二六年春に角帽大学生。
三月七日、珍しく雪の聖日、駒沢新町なる
藤井武先生の自宅集会に参加した。
『聖書の結婚観』なる著書を賜る。
先生は愛妻喬〔のぶ〕子夫人を数年前に
天界に見送って、五人の遺児との暮らし。
お女中と隣家の小学校の先生がお手つだい。
私はこの聖日以来、三〇年七月十四日、
先生の召天時まで無欠席で参会。
先生の講義は先生の生活から滲〔にじ〕み出る言語的再現。
聖書の研究、思索、体験を通し、
聖書の眞理と渾然融合した心境の告白。
藤井武の月刊誌『旧約と新約』は
所謂聖書註解とは異なり、
聖書学の推移に拘はりなく、
聖書の永遠性を息吹き居〔お〕る
人間藤井、一キリスト者の告白文学である。
桜新町参会五星霜を貫いて
心底に根づいたものは「信頼」の一語であった。
「江戸っ子に宵越しの金はない」
先生はその気合の神信頼、
貯金を思はぬその日暮らし、
執筆、著作の神与の財で
五人の子女を育て貫〔ぬ〕いた。
先生の仆れたときに
財布の中は空気のみ、
借金も貯金も無いあざやかさ。
徹底したこんな神信頼を
身証したのが藤井武。
百千の聖書説教も
この実存の前に黙さざるを得じ。

先生の夕の野べの散歩の相〔すがた〕には、
天界の夫人の影が映っていると
あるとき天使が私に囁いた。
わが眼〔まなこ〕から雫が降ちた、
同じ野べを私が散歩したときに。
見霽るかす丹沢の山波の上に
真白き霊峯富士を仰ぎ
此処武蔵野の丘の上
二本松の並び立つ陰に坐して
深き祈りを祈りしわが師を想った。
寂しさの極みを味はい、五人の子らを愛し、
我らを親しく導きし師であった。

小さき群を愛せし人の
 そのなつかしき忘れな草の
 栞の片影をうつし出ださん。
ある秋のうららかなる一日〔ひとひ〕
 師に伴ひて数なき我ら
 三浦半島を歩き暮した。
一包みの弁当箱をステッキに
 結びつけてやをら肩にかき、
 おのれも必ず荷を負うべしと
弟子らに一歩も譲らざる心、
 眼眸〔ひとみ〕を遠く海と空とに
 指し向けて悠々と歩む姿、
今もなほわがまなかいにある。
 陽は靉靆〔あいたる〕たる雲にかくれて
 我らの歩みは未だ尽きない。
往き尽きて半島の端に
 到りしわれらを月は迎へた。
 やがて三崎の岩頭に立つ。
名にし負う城ケ島なる燈台の
 灯火の明滅は夢か現〔うつつ〕か。
 空ゆく雲は月華に映えて
白鳥の飛び渡るにも似たるかな。
 時しも懸れる天心の星座〔ほし〕
 白鳥〔シグヌス〕と奇しき冥合。
やがてわれらの喉の渇きを
 癒さんと武蔵野の牧人〔まきびと〕は
 大いなる美果をとり出し給う。
これ、さきに途〔みち〕にて購求〔あがな〕いし品〔もの〕、
 師の愛こもる有〔あり〕の果〔み〕の味、
 ネクタールも此の如きか。
夕空に突如流れ渡る声、
 師の心腸〔はらわた〕より湧きたつ讃歌、
 「清き岸辺にやがて着きて
天つ聖〔み〕国についに昇らん……
 やがて会いなん愛〔め〕でにし者と……」
天界を慕う先生の
声に応〔こた〕えて吾らも歌い、
 うたい終りていくばくもなく
 小さき群のため祈り給う。
岸辺の祈りは胸底〔むなぞこ〕に沁〔し〕む!
 三崎の波よ、潮風〔かぜ〕よ忘るな!
 我ら生きて祈りに応えん。
真鶴、蓮光寺、溝〔みぞ〕の口、
 三度びの散歩の想い出は
 いづれ深からざるものやある。

聖日の午前集会は
 我ら三、四の学生が
 交互に司会を承った。
講義の前に聖句の暗誦、
 随意の箇所を各自撰んで。
 不得手の私は私句交りの聖句。
二七年秋は預言者の講義、
 歴史的な順に預言書を大観した
 名講義に魂は満たされた。
聖日の午後は逐年、ミルトン、ダンテ、カントを
 原文または訳文で
 然るべく読み且つ味はった。
更には旧約のヘブライ語
 新約のコイネー・ギリシヤ語を
 学んで帰路は街の灯〔ひ〕よ。

さて東大ドイツ文学科では、
わが心魂にいかなる視野が拓〔ひら〕けてきたか。
ゲーテ研究の権威木村謹治教授の
「若きゲーテ」なる名講を初めて聴いた瞬間
春風駘蕩〔たいとう〕たる原野がわが眼前に
突然繰り拡げられてゆく想いであった。
木村教授はゲーテの心境環境に
おのれを置いてその現実から
告白する如き態勢を以て講ずる、
単に客観的な研究、説明ではない。
そんなことでゲーテが把めるものではない。
さて私は言はう。所謂道学者、一般のキリスト者は
ゲーテの恋愛の事態に躓いている。
そんな眼でゲーテの偉大さが見えるか。
無相の相なる神の相〔すがた〕に即して創造〔つく〕られた
人間であるとの根源意識をゲーテは有っていた。
だから愛は神からのもの、恋愛も夫婦愛も、
親子愛も、師弟愛も、兄弟愛も友愛も、
犠牲愛も自然界、動植物への愛も、
動物の親子愛も、いかなる愛も本来神からのもの、
これがゲーテの愛観であったに相違ない。
ゲーテはそれゆえ、アガペー、フィロス、エロースなどと
神学者の如き愛の区分を次元低きものとする。
換言すれば、謂はばカントの先験哲学の如く、
ゲーテの愛も先験的に彼自身
神の愛を根源的に体感していた。
そのことの美しい告白を知りたい人は
先づ『ウェルテル』の五月十日のくだりを読むが好い。
「ウェルテル」たる魂は原野に身を投じて、そこに
我々をそのみ姿に即して創造〔つく〕り給うた
全能者の現在を体感し、
一切を愛する者の息吹を感じている。
また自然の中に恋人の姿を観じ、
またおのが魂を神の鏡と内観し、
神の中に投身している。
神、大自然、女性、我というものが
神の愛と光と生命に貫かれている。
そういうヨハネ福音書的なのが
ゲーテの内なる本質であった。
ゲーテの母が正にそのような本質の女性であった。
実にゲーテは生涯、聖書を身読し、
その文学作品に於て自由に活用、変用している。
観念的、教条的な読み方では断じてなく、
聖書の中の民族的制約を乗り越えて、
真に神的なるもの、真に人間的なるものを
確かと捉え、そこに生きまた生きんとした。
彼は、アレオパゴスに於けるパウロの引用句
「我らは神の中に生き動きまた在るなり」を
特愛の聖句としていたことは瞭かである。
勿論、情熱豊かなゲーテに
躓きはあろうと、磁鉄の如く
彼は神極を指して生涯を生きた。
彼は成りゆく魂であった。
成りしものは殻を破って
新生せぬ限り死と見なした。
無限なるもの永遠なるものを
追求してやまぬ魂であった。
分析、総合、定義づけでなく、
本質、焦点を直視し、
全的にものを捉え
全的に生きてゆく気魄に
生命の世界ありとなした。
例えばメフィストーフェレスをして
次の如く言はしめている。
「これまであなたは仰山らしく、神はどうだ、世界や
その中に動いてゐる物はどうだ、人間やその心の中で
考へてゐることはどうだと、定義をお下しになる。
しかもしやぁしやぁとして大胆にお下しになる。
好く胸に手を置いて考へて御覧なさいよ。
正直のところ、そんな事をシュエルトラインといふ男の
死んだ事より確かに知ってお出〔いで〕になったのですか。」
        (「ファウスト」三〇四三〜四九、鴎外訳)
「定義づけ」〔デフィニツィオーネン〕はゲーテにとって笑止の沙汰だ。
聖書の解釈づけも彼は御免だ。
信条的神学も条文的法学も魂を干涸らびさせる。
ゲーテは観察、研究はしても
ものやことの本質を内観、共感、体感する。
ものやことを全的に把握せんとする。
ゲーテの認識はそういう性〔さが〕のものだ。
全的、生命的、活物的把握、認識は
完全性ではなく、無限無量性を底に有っている。
ゲーテは正に宇宙的人物である。
瞬間に於て永遠を生きていた人間だ。
ドイツ的にして超ドイツ的世界人だ。
私が大学時代にどれほどゲーテを
把んだかは別問題だが、ゲーテに驚いた。

ゲーテは周知の如く女性を恋愛して生きた。
彼にとって女性は魂の生成の道しるべであった。
だから大詩篇の最終句は
「永遠に女性的なるもの
 我等を引きて往かしむ」
     (一二一一一〜二 鴎外訳)
を以て結んでいる。
どこへ往かしめるのか。
 Mit Lieb' und Wonne   愛と歓びをもて
 Zur heiligen Sonne !  神聖なる太陽へ!
そう私はゲーテ論の中で後年
霊感を以てつけ加えた。
「ファウスト」の天上の序曲は
「太陽」を以て書き起こしている、
だから「太陽」を以て終らしめたい。
ゲーテは余韻をもたせたのだろうが、
この二句を天界のゲーテは見て
「その通り」と応えているようだ。
「神聖なる太陽」は神のことである。
ゲーテは太陽に於て神の栄光を見ていた。
キリストと太陽には無条件に拝跪〔はいき〕するといった。

彼は人生の夫々の時機に
然るべき女性に廻り会っている。
純情のフリーデリケ
美徳的なロッテ
ギリシヤ美女のようなリリー
幻想的なベッティーナ
詩情豊かなマリアンネ
叡智的なフォン・シュタイン夫人
天真な肉体的クリスティアーネ・ヴルピウス
憧憬的哀歌的なウルリーケ
これらの女性をその特質に於て
いつわりなく恋愛し詩の世界の現実とした。
それぞれが永遠に女性なるものの
玉の緒につらなる珠玉であった。
彼を天界に導く虹彩の天橋であった。
しかも彼の愛の源泉は正に母マーヤであった。

ダンテは反之、唯一人の女性ベアトリーチェを
詩の現実で愛し抜いて『神曲』を書いた。
その詩道は流浪十九年の難路であった。
ゲーテの女性愛は多即一、一即多であった。
ダンテの恋愛は一即一であったが、
ダンテには妻あり男女四人の子らがいた。
その何れもが神への道ゆきであった。
愛の相は異なるが、愛の本質は同然。
神に帰一する恋愛は神から出ていたからである。
そこではエロースとアガペーが融合している。
宗教哲学者ティリッヒも言っている。
「エロースとアガペーの融合一致なき愛は
真実の愛ではない。」
勿論人間ダンテ、人間ゲーテも恋愛の現実に於て
劇的な明闇の相をくぐり抜けた。
霊生も理性も悟性も意志も感情も
両者ともに豊かに有っていた詩人である。
これらの諸性を神からのものとして
渾然と融合してもっていたが、
ダンテは性格上、劇的な戦の相を主流とした。
ゲーテは性格上、自然的調和の相を主流とした。
キリストの弟子で言うなら、
ダンテはパウロに近く、
ゲーテはヨハネに近い。
ともあれ両者とも人間性〔メンシュリッヒカイト〕が豊かにして深い。
ダンテは『神曲』の地獄〔インフェルノー〕、煉獄〔プルガトリオ〕、天国〔パラディーソ〕
ゲーテは『ファウスト』の小宇宙、大宇宙
いかにも両者らしい大詩篇、
イタリヤの第一人者、ドイツ第一人者だ。

大学三年生の学年末の
試験は青木主任教授の「ファウスト」講読。
その詩句三問の訳文、
詩の好きな私は素速く書き終え、
答案を真先きに提出。
これが学生生活の試験からの解放、
何たる快感、あの瞬間が甦る。
而も最後が「ファウスト」であったことは
わが生涯の課題と冥合。
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