信仰史


 小池辰雄信仰史

1.母の恩

小池辰雄は1904年2月7日、東京本郷弥生ヶ丘(弓町。現在の文京区本郷一、二丁目)に父小池政吉、母光子の四男として生まれた。五歳のとき父親を病気で亡くし 、ほとんど母によって育てられた。辰雄は泣き虫弱虫の「ずくなき」子であった。母光子は女学校の教員をしながら苦労して五人の子供を育てた。「精神一到何事か成らざらん」の言葉をモットーとするような一面厳しい母であった。
光子は十七歳のとき、江戸に出て勉学をしたいという志を親に打ち明けたが、その望みがかなわぬと知ると、ある夜、夜陰に乗じて出奔した。故郷の信州松代を出て小諸まで来たとき、家から二人力の人力車で追ってきた使いに、「どうしても帰れというなら、私の首を持って帰ってください」と言い放った。光子の意志が堅いのをみて、追手は逆に江戸までの路銀を渡して引き返した。

2.父親代わりの兄政美の存在
一番上の兄政美は頼もしい兄だった。兄は身体強健、学力優等で、一高東大で特に英語がよくできた。八歳年下の辰雄の面倒を何かとみてくれた。辰雄は中学生のとき、病気で学校を休んだ際、兄から英語を教えてもらい、そのおかげで英語の実力がクラスで一番になるほどだった。
兄は内村鑑三の影響を受けて、キリストに入信する。それを境に母の言いつけに対しては、どんなことでも「はい。はい」と言って必ず聞き従っていた。兄弟は小石川同心町の借家の一室で机を並べて暮らした。毎晩九時になると、兄は窓辺に寄って沈黙で祈っていた。机上の聖書の頁が毎日くられていく。半年で創世記から黙示録まで読みすすみ、それを繰り返していた。兄はキリストのことを特に語らなかったが、その姿が、「耶蘇教なんか」と思っていた辰雄にとってはもの言わぬ伝道であった。

3.兄政美の死と母の失明
その兄は東京大学法学部を卒業後、1920年11月、東京を旅立ち、北京日本公使館財務官補(書記官)として赴任する。北京で1921年9月22日、悪性チフスで病死する(二六歳一ヶ月)。危篤の病床のなかで、白衣を着たキリストの霊幻にあう。「キリストさまがお迎えに来られたので、お母さん、お先に失礼いたします。おゆるし下さい」が最期の言葉となった。北京まで見舞いに行った母光子は過労と悲嘆のため帰途黄海の船上で失明する。「東京駅で兄の遺骨を抱いた失明の母を迎えて、私は悲痛のどん底につきおとされた」。小石川の家をたたみ、親類宅に世話になる。

4.内村鑑三との出会いと入信(大手町時代)
辰雄は1922年4月、旧制水戸高校文乙(第一外国語ドイツ語)に入学する。その年の初夏、急性腸カタルで入院し、死生の間をさまよう。一ヶ月後、退院する。一年休学。秋、兄の書架から内村鑑三著『宗教と現世』を採って読み、特に「青年に告ぐ」の一文にとらえられ感動する。新約聖書に初めてくらいつく。これが入信の端緒となる。翌23年2月、内村鑑三の丸の内大手町の大集会へ初めて参会する。会場の垂紙は「幸福なるかな、心の貧しき者。天国は汝らのものなり」(この聖句は後年、はからずも聖書の扉を開ける鍵の言葉となる)。それ以降、土日を利して水戸から上京し、大手町集会に列席する。「内村先生の迫力ある聖書講義を聴くのが何よりの楽しみであった」。東京水戸間の汽車の中で宗教書を耽読し感激する。愛読書は旧新約聖書、ヒルティ『幸福論』(ドイツ語原書)。

5.藤井武との出会い(新町時代)
1924年、小池政美翻訳遺稿出版のため藤井武(三七歳)宅を初めて訪ねる。翌25年春から、水戸から帰京した日曜に藤井武の家庭集会に出席した。1925年晩秋、武蔵野市吉祥寺に転居する。1926年3月、駒沢新町の藤井武の家庭集会に参加する。この日以来、五年間無欠席で出席する。「先生の召天までの五年間は私の信仰に決定的な要素が植えつけられた特別な恩寵の期であった」。
1926年4月、東京大学ドイツ文学科に入学。1929年3月卒業。

6.塚本虎二との出会い(丸の内時代)
1931年、塚本虎二集会の聴講生となる。1934年、『旧約知識』(塚本、植木編輯)誌、『キリスト教常識』誌の同人となる。『藤井武全集』編集の手伝いをする。塚本虎二の丸の内集会の会員として司会を承る一人となり、ヘブライ語クラスを三年間担当する。「塚本先生の弾力性のある信仰とドイツ系学問の織りなす独特の味を学んだことも私のその後の成長に大切な恩恵であった」。

7.自宅で独立の聖書集会を開く(武蔵野独立伝道第一期)
1940年9月22日、小池政美召天の日を期して東京武蔵野の自宅で独立の聖書集会を 開く。その直接の理由は、老齢により外出が困難になった母のために自宅で日曜聖書集会を守るためであった。「聖書を大体啓示史的に跡づけつつ研究し、ほぼ十年間で大半をまなんだ」。
1950年11月、熊本県阿蘇垂玉温泉瀧見荘で手島郁郎と聖書集会をもち、祈祷会で聖霊のバプテスマを体験する。「十字架のキリストを瞑想した全身的祈入において、天から直接、聖霊のバプテスマにあずかり、おのずから異言が迸った」。

8.聖霊体験以降の歩み、出無教会(武蔵野独立伝道第二期)
1951年1月、『曠野の愛』誌を創刊する。この頃から熊本の手島郁郎氏との交友が始まった。これよりさき自分の無教会的集会を「武蔵野幕屋」と名づけた。しかし、聖霊の体験による著しい展開のため、無教会の諸先生、先輩、友人等から誤解、異端視され、やむなく無教会陣営から出ることになる。聖霊の導きによって、独自で自由な路を歩みはじめる。
1955年4月、東京大学(教養学部)教授。1957年1月、母光子召天(1869〜1957、享年八八歳)。「母は失明時代三八年間、一度も失明をかこつことがなかった」。告別式 司式を自ら行う。

9.キリスト召団の歩み(武蔵野独立伝道第三期)
手島氏のグループ「神の幕屋」と区別するため、「武蔵野キリスト召団」(後に「東京キリスト召団」)と改称する。[「召団」とは一般に「教会」と邦訳されるギリシャ語の原語「エクレシア」(英語の「チャーチ」。召しだされた者の集まり、団体の意)を直訳した言葉]。
1961年4月、ハンブルク大学へ一年間、日本学専任講師として赴任する。「日本の精神史概説」を講義する。自分の福音伝道の使命をいよいよ再確認する。
「わが神よ なほ藉し給へ三十年を 三つの使命貫徹すべし 伝道と神学論文、大詩篇 三相一如のわが使命なり」。
1964年2月、東京大学教授停年退職。同年4月、獨協大学ドイツ語科教授となる。
1970年4月、獨協中学・高等学校の第14第校長を兼務する。
1975年、小池辰雄著作刊行会が組織され、第1巻『無者キリスト』を出版する。
1979年3月、獨協学園を退職する(獨協大学教授十五年、獨協中学高校校長十年、 教職満五十年)。
1980年3月1日、西ドイツ大使館のディール大使から第一級功労十字章を授与される。
1980年、季刊誌『エン・クリスト』(「キリストに在りて」の意)を創刊する。
1982年10月、NHK第二ラジオ放送の「宗教の時間」で「我が信ずる無者キリスト」と題して放送。
1988年、第十巻『聖書は大ドラマである』を出版。これをもって小池辰雄著作集全十巻が完成する(第一巻『無者キリスト』、第三巻『無の神学』と第十巻『聖書は大ドラマである』は重要な三部作)。これ以降、畢生の課題である一大詩篇の原稿執筆に専念する。
1996年8月18日夜、腹痛を訴える。20日、東京歯科大学市川総合病院に入院。急性腎不全、腸閉塞を起こし、8月29日夜、静かに召天する。31日、東京多摩葬祭場にて前夜式、9月1日に告別式が京都キリスト召団代表の奥田昌道司式により行われる。9月29日、西多摩霊園にて家族・親類により埋葬される。墓碑名「PARADISO(楽園)」[「今日、汝我と偕にパラダイスにあり!」の意]。
1998年8月、遺稿の長編詩『霊界の星々』(神の幕屋人物詩伝)が出版される。

 ページのトップへ