常陸久昌寺

略 歴

旧久昌寺絵図(部分図)

水戸光圀生母久昌院は義母養珠院の感化を受け、熱心な法華経信者であったと伝える。
 ※久昌院:俗名谷久子、法号法号久昌院靖定大姉、
 讃岐高松藩祖松平頼重(長男)、徳川光圀(三男)の生母である。
久昌院は、当時幕府の忌諱を受けていた日忠上人のために城下に深大山経王寺を創建する。
 ※当時の経王寺は水戸市向井町(現在は水戸市大工町二丁目)にあり、
 現在は時宗神應寺あるいは別雷大神がある地 というも、良く分からない。
寛文元年(1661)久昌院逝去。初め深大山経王寺に葬られるが、後に水戸徳川家墓所瑞龍山に移される。
延宝元年(1673)光圀は生母追善のため、経王寺を久慈郡稲本に移し、新たに伽藍を造営し、久昌寺を創建。
延宝5年(1677)靖定山久昌寺落慶(法華経寺日忠上人を招聘する。)。
久昌寺は仏殿、法堂、位牌堂、多宝塔、方丈、金堂、鐘楼、鼓楼、垂迹堂、山門など堂塔12宇、塔頭10ヶ院、寺領300石を有したと云う。「桃源遺事」
 ※松平頼重は久昌院の菩提を弔うため、讃岐高松に廣昌寺<讃岐の日蓮宗諸寺中>を建立する。
天和2年(1682)光圀、山内に檀林を開檀する。
元禄5年(1692)以降西山の地に大規模檀林を造営。講堂・方丈・4つの寮などが付設した。
 化主は中村檀林21世日耀上人を迎え、水戸三昧堂檀林と称する。
元禄13年光圀逝去。(義公と謚号)、翌14年綱條が義公廟を建立。
天保14年(1843)三昧堂檀林に廃檀。
 その後、檀林は嘉永年間に再興、明治2年にふたたび廃絶という。
幕末に荒廃し、明治3年北東約1.5kmの蓮華寺(久昌寺末寺、現久昌寺)に什宝を移し移転する。
 ※義公廟は明治3年蓮華寺に合併の時取り壊されるという。
 ※稲本久昌寺跡地には記念碑が建っていると云う。
 ※蓮華寺:
 養珠院は頼宣の水戸藩時代(但し一度も水戸には下向せず)水戸千波に本法寺(玉沢妙法華寺末)を
 創建するが、これとは別に
 慶長19年(1614)頼房が水戸藩主になると同事に、佐竹氏発生の地にあり、佐竹氏の祈願寺である
 大幢山金乘院勝軍寺を改宗し、久慈郡太田村に蓮華寺を開創するという。
 これが、蓮華寺というも、詳細は不明。

2012/04/06追加:平成19年「村松山虚空蔵堂縁起」 より
 旧久昌寺跡:特に顕著な遺構は残らないようである。
なお、Web情報によれば、左の案内板には以下のように記すと云う。
 水戸第二代藩主徳川光圀は生母谷久子に靖定と諡し、法号を久昌院といい、水戸城下経王寺に葬り寺号を久昌寺と改めて菩提寺とした。
延宝五年生母の冥福を祈るため、母が帰依した禅那院日忠上人を開山として、久昌寺を水戸からこの地に移して新築した。
往時の久昌寺は、堂塔12宇、末寺八か寺寺領三百石を有し、付属の三昧堂檀林(僧侶の学校)が建てられ、北関東における日蓮宗の法域であった。
明治維新の際、荒れ果ててしまったため、明治三年わずかに残る久昌寺の宝物と宝塔をもって、末寺の一つ蓮華寺と合併して、これを久昌寺と称することになった。現在の久昌寺はここから北東約1.5キロメートルのところにあり、光圀公が用いた古い能面などが蔵されている。

境内現状

 常陸久昌寺宝塔1       同      2       同      3

義公廟と称する。昭和16年建立。光圀の遺徳顕彰のため建立と云う。
身舎平面は正八角形ではなくて四角の四隅を切り落とした形であり、宝塔ではなく、篋塔に分類すべき ものと思われる。
身舎は石製。上重は木造彩色であるが、簡略化された様式を用いる。
廟内には、宝塔(生母菩提追善の法華経10巻を奉安)や光圀蒐集の明版一切経が収蔵されていると云う。
高さ16.5m、一辺約4.1m。

 常陸久昌寺本堂:昭和6年(宗祖650年遠忌)建立
  同 虚空蔵菩薩堂:霊寶殿、虚空蔵菩薩堂は平成15年(宗祖750年遠忌)建立
  同    庫裏?:客殿(瑞雲閣)、書院、庫裡等は昭和56年(宗祖700年遠忌)建立

久昌寺末寺
長耀山真浄寺(笠間市笠間)
一乗山無二亦寺(ひたちなか市市毛)
開会山常寂光寺(常陸太田市中利員町)
一妙山平等寺(石岡市貝地)
松塚山願成寺(高萩市赤浜)
十行山大乗寺(八王子市加住町)
正寿山慈眼寺(豊島区巣鴨)


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