播 磨 無 量 寿 院 ・ よ み う り ラ ン ド 多 宝 塔

播磨無量寿院→原六郎邸→藤原銀次郎邸→よみうりランド多宝塔

以下の骨子は「よみうりランド多宝塔−流転の記録」吉田実、史迹と美術・631、1003.01 から要約・転載 (無断)

播磨無量寿院

弘法大師開基、覚鑁上人中興という。高野山真言宗。江戸期30石。本尊:阿弥陀如来 。
「播磨鑑」平野傭脩、宝暦13年(1762)では
 「本堂十間四面、御影堂四間四面、護摩堂三間四面、多宝塔二重、鐘楼堂、十王堂、門表裏、鎮守堂、弁財天」があったと云う。
明治維新後、多宝塔・山門・鐘楼堂・弁天堂・十王堂が次々と流出したという。
「岩光(播磨町野添土地区画整理事業完工誌)」播磨町野添土地区画整理組合・40、昭和59年 より
 には「無量寿院旧伽藍配置想定図」がある。→次項
また檀徒が寄進した100/1の伽藍模型図が存在すると云う。→次項
多宝塔流失の年次・経緯は資料の散逸・あるいは代替りなどで今では殆ど不明とされる。

2004/10/15追加:
「岩光(播磨町野添土地区画整理事業完工誌)」播磨町野添土地区画整理組合・40、昭和59年
第3節「お寺とお宮」藤原年春(播磨中学校長)著 より

光明遍照山高禅寺無量寿院と号す。「大寺」と呼ばれ、末寺53箇寺を持つ。
明治26年「御願」(兵庫県知事周布公平宛 第29世兼帯中川見勇、檀徒総代、法類総代)では
 本堂7間半四方、祖師堂4間四方、位牌堂桁行2間梁行1間半、護摩堂3間四方、経蔵桁行3間桁行2間、
 多宝塔9尺四方、薬師堂2間四方、十王堂1間3尺四方、弁天堂3尺四方 とある。
 無量寿院旧伽藍配置想定図:第33世快淳師による再中興の趣意書
 大  寺 伽 藍 模 型(故佐伯松三氏製作寄進)・・・ただし、上図・現状に照らしてこの伽藍配置はいつのものか良く分からない。

明治19年所有田畑が公売処分、経済的苦境に立つ。
明治8年慈眼寺吸収、明治10年:常光坊合併、明治43年東円寺合併、願満寺も合わせ、檀家を吸収。
 ※東円寺:大寺山門前東、慈眼寺:東円寺南にあり。
加古川真宗寺鐘楼:「明治7年?加古郡野添大寺より買受改築」(「神吉雑嚢録」大正3年)
「無量寿院本堂庫裏改築願」:「朱印地上地・・・屋宇脱漏、床壁朽敗・・・本堂庫裏一切取壊?・・・旧材を相用ひ、別紙部面の通り改造・・・・」旧本堂の解体・売却と現本堂(御影堂)や庫裏の改修が目論まれる。
多宝塔は東京藤原銀次郎東京邸へ売却(第33世快淳師)
伽藍の一部は摩耶山忉利天上寺本堂へ引き取られ る。(昭和51年焼失)
弁天堂・十王堂も解体・他社寺へ売却。

◎現伽藍
現在伽藍は縮小され、本堂は旧御影堂(大師堂・祖師堂)を転用していると思われ、旧本堂位置が庫裏と思われる。
なお、本堂・庫裏は近年改修もしくは建替が行われたようで、境内は現在整備中のようである。
 播磨無量寿院本堂
 播磨無量寿院塔跡想定地:石塔などがある位置辺りに多宝塔があったと思われるも不詳。
 


原邸多宝塔

原六郎氏が御殿山の西郷従道所有地を明治25年に取得。

原邸多宝塔を証する資料は以下がある。
・明治43年頃の撮影とされる原邸庭園写真(明治44年「兵庫県人物誌」)には相輪が写ると云う。
・昭和7年報告書「東京府下に於ける仏塔建築」には原邸多宝塔は無量寿院とから移建との明記がある。
・北品川参謀本部1/10000地図(明治42年)には塔記号があると云う。<しかし昭和12年の地図には塔記号が消える。(移転のためか) >

原六郎昭和8年逝去:おそらくその後まもなく藤原銀次郎氏に多宝塔が譲渡されたものと推定される。
昭和13年原邸新館を建築→現在は原美術館、多宝塔のあった位置は御殿山ガーデンとなっていると云う。

  ●「東京府下に於ける仏塔建築」よりの転載画像:原邸多宝塔(下の掲載画像と同一)

原六郎:天保13年(1842)生、朝来郡朝来町出身。
生野挙兵に加わり、勤王の志士として各地に転戦。明治維新後米国と英国に留学、帰国後は、財界に身を投じ、第百国立銀行創設、東京貯蓄銀行創設、帝国商業銀行、台湾銀行を創設。横浜正金銀行(後の東京銀行)頭取就任。山陽鉄道など各地の鉄道の創設にかかわる。帝国ホテルの開業など も手がける。
なお近江園城寺日光院客殿を邸宅内に移建(慶長館と称す)し、後に建物は護国寺に寄贈される。
現在この月光殿(鎌倉中期・重文)は護国寺に現存する。

2008/06/27追加:
「府下に於ける佛塔建築」東京府 , 昭和7年(1932) より

原邦造(六郎の養子)氏邸に現存する多宝塔は兵庫県加古郡阿閉村野添の無量寿院にあった。元寺領30石。
原邸に移建されたのは明治31年の秋で、一度相輪の修理を経て、今日に至る。
但し移転の際初重は殆ど修理されたものの如く、初重軸部は全然後補のものとなる。
 

原邸多宝塔全景:左図拡大図
原邸多宝塔初重軒廻
原邸多宝塔初重扉
原邸多宝塔上重腰組

初重一辺は8尺1寸(2.45m)<中央間3尺4寸(1.6m)、両脇間2尺3寸5分(0.71m>、縁高2尺1寸、縁幅3尺1寸。
初重四周に廻縁(宝珠勾欄を付設)を廻らす、正面には3級の木階を置く。
四方中央間は板扉で開口する。
初重軸部:脇柱は面取角柱で、切目長押・内法長押・頭貫を用いるが、腰長押は用いない。
頭貫木鼻には絵様彫刻を施す。斗栱は二手先を使用する。
上重は饅頭形の上に二手先枓栱の腰組を設け、その上に円い廻縁が作られ、組勾欄を廻す。軸部は12本の円柱を円形に配し、内法長押・台輪を置き、四手先の斗栱を組む。
三手先の肘木は肘木端に絵様彫刻を施しいわゆる花肘木とする。
尾垂木は細く凌ぎ、相当程度反り返る。
上重垂木は二重扇垂木とする。屋根本瓦葺(上下とも)。
内部は四天柱は無く、床は板張・天井は紙張となるもこれは後補と考えられる。
要するに全体あるいは細部は移転時に大部が後補され、そのため細部から建築年代を確定することが出来ないが、概ね桃山期もしくは江戸初期の製作と思われる。


藤原邸多宝塔

港区白金今里町にあった。
戦災を受けるが、多宝塔などは無事に残ると云う。
昭和35年藤原氏逝去。邸宅地は東南部分のみを残し、住宅公団に譲渡、昭和38年公団芝白金団地となる。
昭和39年多宝塔はよみうりランドへ移建。

藤原銀次郎:長野県出身。製紙王といわれる。王子製紙の社長に就任。商工大臣、軍需大臣などを歴任。 戦後公職追放。


よみうりランド多宝塔

昭和34年藤原氏は藤原科学財団を設立、読売新聞社長正力松太郎氏を初代理事長に迎える。
 ※読売新聞の拡大に新聞紙供給面で王子製紙藤原社長が貢献し、正力社長と親交があった。
当時多摩丘陵で、読売新聞は「よみうりランド」などの開発を手がけ、「よみうりランド」の中の「聖地公園」の計画に賛同して
藤原氏は多宝塔を正力氏に譲渡したと推測される。
昭和39年移転完了。(以上「よみうりランド多宝塔−流転の記録」要約)
 

播磨無量寿院多宝塔(よみうりランド多宝塔):左図拡大図:「X]氏ご提供画像

新材が目立つとはいえ、桃山期初頭の様式を備えるとされる。
高さ約10m、一辺2.43m
四天柱、来迎壁、須弥壇を構え、聖観音を安置。

明治26年の建造物状況報告書:多宝塔9尺四方(2.72m)
原邸での調査:8.1尺(2.455m)
現在初重一辺(芯芯):2.43mという。
現状2.43m28枝(中間12枝・脇間8枝)を、一辺9尺に復元すると、初重32枝(中間12枝・脇間10枝)と復元(推測)され
現状より、どっしりとした姿に復元されると思われる。
初重は一部の禅宗様木鼻・拳鼻以外は新材に取り替えられ、腰長押は省略されてる。
上重は古材を残すと云う。
・よみうりランド様からの情報:
この多宝堂の現在の安置仏は鎌倉時代初期に桧材一本から彫り上げられ、高野山本願寺の本尊であった十一面観音像(別名苅萱観音)である。また、これ以外にも「妙見菩薩像」「聖観世音菩薩像」(塔内安置仏かどうかは判然と はしない)などの重要文化財や、600年前の建築である「聖門」なども所有している。
なお「日本の塔総観」では「聖観音(山城楊谷寺旧蔵、重文)」安置とする。

2006/03/17撮影:  

(よみうりランド多宝塔)
播磨無量寿院多宝塔1
播磨無量寿院多宝塔2:左図拡大図
播磨無量寿院多宝塔3
播磨無量寿院多宝塔4
播磨無量寿院多宝塔5
播磨無量寿院多宝塔6
播磨無量寿院多宝塔7
播磨無量寿院多宝塔8
播磨無量寿院多宝塔9
播磨無量寿院多宝塔10
播磨無量寿院多宝塔11
播磨無量寿院多宝塔12
播磨無量寿院多宝塔13
播磨無量寿院多宝塔14
播磨無量寿院多宝塔15
小型塔の部類と思われる。折中様を用いる。
相輪は多少破損、また写真15のように、露盤と屋根の間は隙間がある。

2022/12/26撮影:
無量壽院多宝塔21:左図拡大図
無量壽院多宝塔22
無量壽院多宝塔23
無量壽院多宝塔24
無量壽院多宝塔25
無量壽院多宝塔26
無量壽院多宝塔27
無量壽院多宝塔28
無量壽院多宝塔29
無量壽院多宝塔30
無量壽院多宝塔31
無量壽院多宝塔32
無量壽院多宝塔33
無量壽院多宝塔34
無量壽院多宝塔35
無量壽院多宝塔36
無量壽院多宝塔37

 無量壽院多宝塔38     無量壽院多宝塔39     無量壽院多宝塔40     無量壽院多宝塔41
 無量壽院多宝塔42     無量壽院多宝塔43     無量壽院多宝塔44
 無量壽院多宝塔相輪1     無量壽院多宝塔相輪2

●その他のよみうりランドの文化財
以下、2022/12/26撮影:
◇妙心寺塔頭高麗門
説明板では京都御所にあった高麗門が妙心寺塔頭に渡り、控え屋根の鬼瓦には妙心寺の寺紋である「菊菱に八つ藤」の紋が見られるとある。
 ※妙心寺とは嵯峨妙心寺であろうが、塔頭名の言及はなく、不明。
 ※経緯は不明であるが、よみうりランドに最終的に移建されたのであろう。
 妙心寺塔頭高麗門

◇大藏経庫
聖観音立像と十一面観音立像を安置。
聖観世音菩薩立像:重文、平安前期、京都西山楊谷寺の旧蔵で、江戸渋谷観音禅寺を経て、よみうりランドに遷されるという。
十一面観音立像:平安後期、高野山刈萱堂の安置仏で、よみうりランドに遷されるという。
 よみうりランド大藏経庫
 聖観世音菩薩立像     十一面観音立像
ガラス越で良く写らないので
 聖観世音菩薩立像2:某サイトから     十一面観音立像2:よみうりランドのサイトから

よみうりランド妙見大菩薩
 妙見堂があり、そこに妙見大菩薩立像(鎌倉期、重文)を安置する。
妙見大菩薩立像は伊勢山田常明寺(外宮渡会氏氏寺)由来の妙見像で複雑な変遷を辿る。
 →伊勢・宇治山田神宮寺>山田常明寺
妙見大菩薩は、木造、正安3年(1301)造立、像高155.7cm、読売新聞東京本社所有。
銘文は次の通り
(梵字)正安三年五月廿□日権僧正法印大和尚位□海  ※梵字は妙見大菩薩
       仏師法印大和尚院命
2022/12/26撮影:
 よみうりランド妙見堂1     よみうりランド妙見堂2    よみうりランド妙見堂3
 伊勢浄明寺妙見菩薩立像1     伊勢浄明寺妙見菩薩立像2


よみうりランドパゴダ
説明板:釈迦如来殿(パゴダ)には仏舎利と聖髪が安置される。
仏舎利は、旧セイロンのマヒンターレ寺院に安置されていたもので、昭和39年に同国政府から贈られ、聖髪は、旧東パキスタンのブディスト・モナスタリー寺院に宝蔵されていたもので、同じく昭和39年に同国政府から贈られる。
2022/12/26撮影:
 よみうりランドパゴダ1     よみうりランドパゴダ2     よみうりランドパゴダ3
 パゴダ安置仏舎利・聖髪1     パゴダ安置仏舎利・聖髪2
  パゴダ安置仏舎利          パゴダ安置聖髪


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