河  内  星  田  妙  見

河内星田妙見

「密教占星法」全2巻、森田龍僊、昭和16年刊(昭和49年複製版、臨川書房)

上下2巻からなる真言密教の占星法の大著である。
内容については、佛教の専門書であり、門外漢は到底理解し得ない内容を含む。
しかしながら、第11章では「妙見大菩薩」の項が立てられ、この章のみは比較的容易に「理解」することができる。
以下、この章に従って、日本に於ける妙見信仰の展開の一端を紹介させて頂くこととする。

(1)「序」より:
「河州北河内郡星田村の東南隅にあたり、鬱乎として蒼々たる妙見山というのがある。こは弘仁7年・・・弘法大師が・・・親しく尊星王妙見大菩薩の降臨を感得し給ひし霊蹟にして・・・即ち私が始めて呱々の声をあげたりし故郷である。・・私が小学校に通っているとき・・・・この山をよぢて祠前に跪礼するを殆ど日課の一つとなしてゐた。・・十六歳以降高野山に登って修学せしが、二十八歳の夏、偶然にも但州養父郡八鹿村石原における日光院関係者より住職として招かれ、・・・料らざりきこの寺の本尊は、名にしおふ日本三妙見随一の尊像であった・・・・」
まさしく奇しき因縁というべきであろう。
 注※森田龍僊師は多年に渡り高野山大学の教職を務め、高野山釈迦文院に住し、但馬妙見日光院先々住であった。

(2)「密教占星法」:第11章「妙見大菩薩」:第4節「古来信仰の一端」より:
推古天皇19年(611)百済聖明王大三王子琳聖が肥後八代郡白木山に来り、妙見信仰を伝える。
これが本朝に於ける妙見尊最初の霊跡である。
延暦14年、桓武天皇この地に神宮寺を造営、建仁2年土御門帝がこれを再興、後深草、亀山、後二条帝これを修復し、上中下の三宮結構の美を極める。(注:現在の八代妙見を云う。)
平安遷都に際し、妙見尊を京洛の四方に安置してその守護となす。
【霊符縁起】には
「昔平安城北斗堂と号す。都の四方に妙見菩薩を安置。その寺名霊巖寺は王城鎮守と云い、東山階大屋家村に妙見菩薩あり、西郊奥海印寺村寂照院の西北名見山に尊星を鎮 め奉り、西九条長見寺に妙見石あり、北岩倉東巽妙見山有。皆是尊星王を祭る所也」
 ※北山霊厳寺、大屋家妙見菩薩以外は不詳。
【白宝抄】には
「妙見王城四方に之を安置す、北山霊巖妙見供灯御祭等之有り、西丹波路之有り、東山階之有り、南八幡辺り之有り・・・」
【公事根源】の註本には
「妙見寺王城四方に有り、霊巖寺と号す、今西賀茂に古跡あり、舟形炬焼く山是なり」

注:
※霊巖寺については今は退転し、その跡は明瞭ではないと云う。
例えば、「新撰京都名所圖會 巻2」では以下のように説明される。
 霊巖寺跡:今は明らかでない。正伝寺の背後より船山の南山麓と思われる。
平安前期より妙見菩薩を祀った名刹であった。承和年中(834−47)に釈円行(入唐僧)が住し、3月3日と9月3日に御灯を献じて北辰を祀る行事を執行する寺院として有名であった。
(※)この寺の前3町ほどに大巖があり、三条天皇の行幸に支障をきたした。これを聞いた住僧がこの大巖を砕いたことがあり、以後寺は衰微したと云う。
今は全く退転しているが、中世まで妙見堂があったとされる。江戸期の地誌の多くは鷹ヶ峯の北約2町の釈迦谷山山中の大巖を霊巖寺石門としているが、「政治要略巻70」(弘仁5年814)、「年中行事秘抄」に霊巖寺に登り、御灯を奉り供うとあり、船山に求めるべきであろう。
(※)「新撰京都名所圖會 巻1」月林寺跡(比叡山3000坊の一、今廃絶)
毎年3月3日は宮中にて北斗星に御灯を奉る行事が行われた。これは高い峯に火を点じて北辰に供せられるもので、この御灯を清涼殿にて御拝される。
初めは北山霊巖寺で行われたが、寛平年中より比叡山山麓の月林寺で行われるようになり、その後は鹿ケ谷円成寺で行われるに至る。しかしいつしか、この行事は廃止されてしまったという。

(3)「密教占星法」:第11章「妙見大菩薩」:第5節「妙見尊の霊場」より:
妙見尊霊場の第一は肥後八代神宮寺、それに次ぐは琳聖5世茂村が開く周防氷上山であり、長門桂木山も古き霊場の随一といわれる。
【霊符縁起】;「但馬石原山帝釈寺日光院妙見菩薩、北斗七星垂迹、本地薬師如来(但馬旧記)」
【霊符縁起】;鳩嶺足立寺絵図に北辰殿あり、善法寺境内妙見宮並七仏薬師現存す、河内に名見山あり、其の所は星田という、即ち善法寺の領地なり。(*1)
星田とは河内星田村のことであり、著者の故郷でありゆえに詳述がある。
また妙見山龍隆院縁起(星田妙見)の全文が紹介されている。以下要約。
星田妙見が仏閣であったことは明瞭であろう。

【妙見山影向石略縁起】
「抑も当山は・・・弘仁の頃、弘法大師京都を立出で、・・・当国私市村観音寺と申しけるに滞留し玉ひ、虚空蔵菩薩求聞持の法を修行せられしけるに、・・・成就ましましける。其夜の暁に傲然として仏眼仏母の大光明を放ち、・・・その出現の尊を尋ねいたり見玉へば、獅子窟山吉祥院の獅子岩窟の仏眼尊と拝見なされしなり。
大師・・この岩窟に入り、仏眼尊の秘法を修し玉ふに、・・天より七曜星降臨し玉ひ擁護し玉ふ。時にこの星伊宇の三点のごとく当村の三ヶ所に下り玉ふ、故に当村を三宅庄星田村と号して末世に其現瑞を伝ふるなり。
・・・弘仁7年弘法大師高野山を開き玉ひし後、再びこの山に攀じ登り玉ひ、先年星辰影向し玉ひしこの霊石を拝見したまふに、降臨宜なるかな、北辰妙見大悲菩薩独秀の霊岳、神仙の宝宅、諸天善神影向集会の名山にして、山は高きにあらざれども・・・・・・粛拝誦経しこの山を妙見山龍降院と称し、慇懃に勧請し玉ひ、四海泰平・五穀豊饒・国家擁護の霊場と双岩を開眼供養し玉ふ。
・・・・・
                                                 河州交野郡三宅庄星田村
                                                           妙見山龍降院

上記縁起で説かれる降臨した3箇所とは妙見山龍隆院(星田妙見)、光林寺の森、星の森之宮とされる。

注;
※光林寺:山号は降星山。西山浄土宗粟生光明寺末(以前は大念仏宗佐太来迎寺末であった)。本尊阿弥陀如来。
「寛永14年(1637)市橋下総守殿地改帳に星の道場とあるところ、寛文元年(1661)より降臨寺と相改め候」(私部山添家所蔵文書)とあると云い、後同音の光林寺と変わったものと思われる。
境内西に繁があり、降星のあった所と伝える。
  光林寺星の降臨1  光林寺星の降臨2
※星の森之宮:現在は傍示川沿いの一角に碑(近年のもの)を建ててその標とする。
  星 の 森 標
※獅子窟寺:普賢山と号する。高野山真言宗。開基は役小角と云う。また聖武天皇の勅願で行基が堂塔を建立とも云う。
弘仁年中には弘法大師が修法したと伝える。
元和元年(1615)大阪の役で全山消失。吉祥院、松宝院、薬師院、華蔵院、愛染院、溪月院、井上院、杉本院、文殊院、日光院、普賢院、西院の12坊が焼亡。本尊薬師如来座像は弘仁期の像で国宝。

近州三井寺に尊星水といへる閼伽井ありて、当尊映像の霊泉なりと伝へ、古来宮中において尊星王の大法を修するは、この寺独特の秘法と称せられ・・・

下総相馬家には世々当尊を本尊となし、殿堂を城中に建て々奉仕した。
古来八代、相馬、但馬を日本の三妙見と称するは人口に膾炙するところである。

*1:「鳩嶺足立寺絵図に北辰殿あり」とは未見であるが、足立寺は平安期に退転し、現在は塔跡・堂跡(移設)と和気神社の小祠を残すのみである。山城足立寺廃寺
「善法寺境内妙見宮並七仏薬師現存す」の善法寺とは、山城石清水八幡宮検校(社家・社務)であった善法寺家菩提寺と思われるが、未調査につき不明。石清水八幡宮のページの善法寺を参照。
 

河内名所圖會:享和元年刊

 

記事:
妙見山 星田村の東にあり。山跡に明星水といふ霊泉湧出す。
妙見神祠 妙見山にあり。神体巨石三箇、鼎の如く峙て、丘の如し。
前に石の鳥井(ママ)、拝殿、玉垣、石段等あり。
土人、織姫石とも妙見石とも呼ぶ。此神祠の旧名小松明神、灌頂録に見えたり。
抑、妙見尊は神道家には天御中主尊と称じ、陰陽家には北辰星といひ、日蓮宗徒には妙見菩薩と仰て、近年、大いに尊信す。

河内星田妙見:左図拡大図
星田妙見山頂:山頂拡大図(拝殿及び神体意石)
星田妙見鐘楼:中腹鐘楼拡大図(現在は退転・堂基壇が残存という)

※この名所圖會では、既に、神道家の間では妙見尊を天御中主とするとの見解が紹介され、これから類推して、近世後期には、この復古神道の付会がかなり知識人の間には流布していたものと思われ る。

星田懐古誌 下巻」西井長和、昭和55年より:

妙見宮について以下の解説がある(大意)。
妙見宮 ご神体は二個の霊石である。古くから小松大明神と尊称せられる。
縁起または伝承によると弘仁年中に弘法大師がこの霊石に七曜星の影向せられるのを拝されて、七曜星を祀る霊石とされたと伝える。
七曜星とは北斗七星のことであり、北辰とは北極星のことであり、北辰については桓武天皇が延暦15年(796)と同18年に、嵯峨天皇が弘仁2年(811)一般民衆が北辰祭を行うことを禁じている。従って、弘法大師が祀ったのは禁令の北辰ではなくて、北斗七星であることは云うまでもない。

星田村明細帳(享和3年1803):
妙見山龍隆院
  山林境内東西2丁半南北2丁除地 燈明堂桁行1間半梁行4間 鐘楼堂9尺4面釣鐘差渡2尺1寸3分
  石塔 ・・万治2年(1659)・・ 手洗石 ・・万治元年(1658)・・ 
  石灯篭 ・・元禄3年(1690)・・ 石灯篭 ・・明暦3年(1657)・・ 石鳥居
  妙見山龍隆院無住
         (※享和3年の明細帳によれば龍隆院は無住と知れる。)

星田村明細書(天保13年1842)
氏神 神体石妙見宮
灯篭堂梁行2間桁行3間半瓦葺き 釣鐘堂梁行8尺8寸桁行9尺6寸瓦葺
  妙 見 宮 :星田名所記より:山頂付近にいくつかの堂舎、中腹に鐘楼、麓にも堂宇があったようである。

星田妙見の現状

明治の神仏分離で小松神社と改号し、現在は星田神社の境外社となっているようである。
以上概括してきたように、星田妙見は弘法大師が開眼供養した仏閣であった。
しかるに、明治の神仏分離で祭神は造化3神に改められ、その後国家神道の体系・教義に組み込まれ、現在もその陰影を引きずるものと思われる。
例えば、下記の祭神説明板(拝殿にある。)や鏡などを祀った拝殿内部の様子や社務所の「伊勢神宮の大麻(オフダ)と妙見宮のお札を受けよう云々」のポスターなどにその「歴史の歪み」を見ることができる。

星田妙見拝殿1  星田妙見拝殿2  星田妙見神体
星田妙見割門?:近代のものと思わる。下記の奉納額が掲載。
星田妙見参道石段:名所圖會の参道石段は多少誇張があるにせよ、拝殿まで石段が整備されている様が描かれる。
祭神説明板:復古神道・国家神道に染まったままの状態で、神体である「織姫石」あるいは「妙見石」への冒涜であろう。
奉 納 額 1  奉 納 額 2:上記割門?に掲げられているもので、妙見菩薩と織姫を合わせたような独特なスタイルを採る。


2006年以前作成:2012/09/15更新:ホームページ日本の塔婆