河内名所圖會および河内関連の文献に表れた塔婆情報

河内名所圖會:享和元年(1801)刊 秋里籬島著・丹羽桃蹊画

巻之1
天野山金剛寺
金剛寺多宝塔(部分図)・・・現存塔婆
記事:「・・・多宝塔大日如来(春日仏師の作。塔中四面の鏡板、雲竜の画は、狩野大炊助益信筆なり)」

西国三十三所名所圖會:巻之4の天野山金剛寺
金剛寺全図  金剛寺部分図

 →河内天野山金剛寺

光瀧寺(滝畑村にあり。福玉山と号す。天台宗)
記事:「本尊不動明王。多宝塔(五知如来を安ず)、光滝(本堂の前にあり・・・云々)」
とありますが、挿絵中には多宝塔の姿はない。
 (下記の西国三十三所名所圖會では初重のみ残存している状態で描かれる。)
なお当寺は葛城山修験の霊地で、法華経28品の経塚の14品安楽品経塚は光滝寺杉本下の自然石(善女竜王・不動明王)とされる。

西国三十三所名所圖會:巻之3
福王山光瀧寺(瀧畑村にあり。この地は河内の国なり。槙尾山の奥院と云ふ。天台宗なり。・・)
多宝塔(五智如来を安ず。今廃して一重わづかに存し、杉皮を以って屋根を覆ふ。寺僧云ふ。この宝塔は淀君の御建立なり。)
光瀧寺全図  光瀧寺部分図  福玉山光瀧寺(推奨画像)
この頃既に多宝塔は「塔跡」と認識され、下重しか残っていなかったと思われる。

 →河内光滝寺

観心寺
観心寺塔婆残欠(部分図)
建掛塔の図が見える。

 →河内観心寺

巻の2
妙見寺前「塔ノ石ツエ」(部分図)
妙見寺(春日村艮の山中にあり。禅宗。天白山と号す。)
開基は蘇我馬子と伝える。この寺に向かう参道に「塔の礎」の絵があり、塔心礎のように見える。
圖會中には「塔の石ツエ」に関して何も記述は見られないため、不詳。
 2005/07/18追加:
心礎とすると、現在知られている心礎であれば、河内飛鳥寺心礎(現在は名古屋市に移転)の可能性があると思われるが、以下の情報だけでは判断は不可もしくは この可能性は低いとも思われる。
・河内飛鳥寺心礎は駒ヶ谷(旧南河内村)飛鳥西の寺の小池の畦から昭和初期に発掘されたとされる。
駒ヶ谷飛鳥は妙見寺(太子町春日)北方約1km強の地点にある。
だとすれば、方位的に、図会の「塔の石ツエ」は「河内飛鳥寺」 心礎を描いたと解釈するのは無理とも思われる。
 春日村妙見寺全図

叡福寺
叡福寺多宝塔(部分図)・・・現存
記事:「多宝塔(金堂の西南にあり。東面、釈迦三尊佛。西面、金剛界大日如来。四柱に四天王の像を安んず。)」

 →河内叡福寺

巻の3
西淋寺
記事:「塔礎(とうのいしずえ):本堂の東にあり。真柱の古礎に刹の字を鐫す。そのめぐりに16礎あり。」とあり
この頃には心礎とその他の礎石も現存し、元位置にあったと推定される。

巻の4
推定河内西郡廃寺塔跡図
若江鏡神社中の塔跡(部分図)
鏡神社図中の右側に「塔址」が描かれる。・・・・左図拡  大 図
圖會中にはこの「塔跡」に関して何の文言もないため、詳細は不詳。
 2005/07/18追加:
若江鏡神社(若江南町2)のほぼ南方500mに若江天神社(泉町2)があり、ここに河内西郡廃寺心礎(移動)が現存する。
圖會のこの塔阯は西郡廃寺の塔阯を描いたものであろうか。鏡神社が東を正面とするならば、との塔阯は北(もしくは北東)にあり、西郡廃寺は鏡神社のほぼ南に位置する。位置関係から云えば、この「塔阯」は西郡廃寺 ではないということになる。
 →攝津・河内・和泉の塔跡のページの河内西郡廃寺の項を参照。

葛井寺
葛井寺伽藍図(部分図)
記事:「・・・ここに明応2年・・、兵火に罹りて、楼門・中門・三重大塔・鎮守・・・等焼亡し・・・」とあり
かっては三重塔が存在した。
図中に基壇跡が2ヶ所みえる。楼門を入り右手、池の後方の基壇が東塔跡と思われる。
現在心礎上の石塔は撤去され、心礎が現存する。

 →攝津・河内・和泉の塔跡のページの河内葛井寺の項を参照。

野中寺
野中寺塔跡(部分図)
山門の左に塔跡・右に金堂跡が描かれる。礎石も認識される。

 →河内野中寺

巻之6
獅子窟寺
役小角の創建とされ、聖武天皇勅願で行基が伽藍を整備。本堂他諸堂宇・・二層の塔婆・・・を建てる とある。

参考:星田妙見
 但し、塔婆情報の記載はなし。


2006年以前作成:2008/10/04更新:ホームページ日本の塔婆