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●慶応2年(1866)
1月10日−竜馬、高杉から護衛として付けられた長府藩士・三吉慎蔵と共に下関を発つ。→
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1月21日-薩長同盟成る。
2月−宍戸備後助(前名山県半蔵)が起草した「長防臣民合議書」を公称36万部印刷、全領に配布。
6月15日−竜馬、下関着。桂に会い米の返還を申し出るが受け取らず、改めて亀山社中が貰い受ける。
桜島丸を乙丑丸に改め、長州海軍局に所属させる。社中も海軍総督・高杉晋作の指揮下に入る。
6月16日−石州口征長軍(地元浜田藩松平家、津和野藩亀井家、紀州藩、福山藩阿部家など)と戦闘開始。長州軍指揮は大村益次郎。
6月17日−小倉口征長軍(小倉藩小笠原家、肥後藩細川家、久留米藩有馬家、柳川藩立花家など)
兵約2万と戦闘開始。長州軍指揮は高杉晋作。
6月17日−竜馬は長州海軍と連携し、ユニオン号を旗艦とし庚申丸を率いて、小倉藩・門司一帯の砲台に
艦砲射撃を行ない、長州奇兵隊の敵前上陸を援護する。
6月24日-パークス、ロッシュ、下関において、個別に長州藩首脳と会見。
7月2日−高杉の要請で竜馬は夜半、ユニオン号で出港し、長州陸軍の門司上陸を援護するため幕府の
富士山丸と戦闘、その後も長州を側面から援護し小倉口勝利に大きく寄与する。→
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7月18日−長州軍、浜田藩領を占領、浜田藩は自ら城に火を放ち撤退。
8月21日−征長休戦の勅命が下る。
12月17日−山口で土佐藩探索方・溝淵広之丞を桂に紹介、長土二藩の復交を図る。この頃、下関
阿弥陀寺町の伊藤助大夫方に居住。この間、長崎で後藤象二郎と会談。→
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●慶応3年(1867)
1月−小倉藩との講和締結。
4月14日-高杉晋作、午前2時、林算九郎宅にて死去。
9月18日−薩摩藩大久保利通、萩藩主と会談、討幕挙兵の盟約を結ぶ。同日、広島藩とも協議し薩長芸3藩の出兵がまとまる。
9月20日−竜馬、下関着。伊藤俊輔と会い京都の切迫情勢を聞き、菅野、陸奥に銃200丁を分与し
大坂に先行させる。竜馬は土佐に向かう。→
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