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●天保元年(1830)
●天保2年(1831)
●天保6年(1835)
●天保8年(1837)
●天保9年(1838)
●天保10年(1839)
●天保11年(1840)
●天保12年(1841)
●天保14年(1843)
8月4日−吉田松陰、萩藩士・無給通(むきゅうどおり)26石・杉百合之助の次男として生まれる。
7月−藩の専売制に対する怒りに端を発した百姓一揆が11月までに、東は大島郡から西は厚狭郡、北は大津郡・阿武郡まで藩内全域に及ぶ。防長100ケ村、13万人以上の農民が参加したと報告されている。[天保の大一揆]
萩藩、奥田頼杖を招いて農民に心学を講話させる。
毛利敬親(たかちか)、第十三代萩藩主となる。
萩藩、負債額9万貫以上に達し、江戸家老手元役・村田清風を江戸・国元両方の財政改革係に登用し、藩政改革に着手。
8月20日−高杉晋作、萩藩士高杉小忠太の長男として生まれる。
7月−村田清風は藩主敬親に7ケ条からなる改革の方針を述べ、長州藩の天保の改革が始まる。
萩藩、下関越荷方を拡充し、下関物産総会所を開設。
宇部村亀浦の農民九十郎と兄七右衛門は石炭採掘の際に坑内の水を汲み出す南蛮(なんば)車を発明。
萩藩、蘭学者青木周弼の進言で医学所を設立。
吉田松陰(11歳)、兵学教授見習として、明倫館で山鹿流兵学を講じる。また、藩主の前で講じる親試の機会が与えられる。
萩藩、近藤芳樹に命じて「防長風土注進案」の編集を始める。
4月−羽賀台(はがのだい=福栄村)で1万数千人を動員し大軍事演習を展開。
村田清風の借金37ケ年賦返済令への反発を契機に、清風辞任、郷里の三隅村(三隅町)に引退。