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●文久元年(1861)
4月19日− 長井雅楽が「航海遠略策」を唱えて公武周旋のため上京
7月10日−晋作、番手として江戸差遣を命じられ江戸へ発つ。
●文久2年(1862)
1月14日−坂本竜馬、萩に久坂玄瑞を訪ね、武市半平太の書状を届け、会談。23日、萩を去る。
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1月3日−[晋作、上海行きのため幕府蒸気船千歳丸で江戸湾を出航]
4月−坂本竜馬、下関の白石正一郎を訪れる。
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7月6日-航海遠略策を廃し、尊攘の方針を採用する。
8月12日−晋作、上海から帰国。15日、江戸へ発つ。
●文久3年(1863)
2月− 長井雅楽、切腹。
3月15日−[京都で、高杉晋作の賜暇願が許される。晋作、このとき剃髪。]
4月−藩主毛利敬親、萩城から山口・中河原の御茶屋に移る。
4月下旬−晋作、帰国。
5月10日-長州藩、下関海峡を通航するアメリカ商船ペンブローク号を砲撃。
5月12日−[伊藤博文・井上馨ら長州藩士5人がイギリス留学のため横浜から密出国する。]
5月23日-フランス軍艦キャンシャン号に砲撃。
5月26日-オランダ軍艦メジューサ号に砲撃。
6月1日−アメリカ艦ワイオミング号が長州藩砲台を報復攻撃する。5日、フランス軍艦セミラミス、タンクレードが攻撃、
300人のフランス陸戦隊が前田に上陸、前田砲台を一時的に占領。
6月7日−長州藩が晋作に、奇兵隊の創設を命じる。
8月16日−奇兵隊と正規兵で編成された先鋒隊が下関の教法寺で衝突。(教法寺事件)この後、奇兵隊は
小郡に本拠を移す。
9月−晋作、奇兵隊総督を免ぜられた後、10月1日付で奥番頭役に任じ、家禄とは別に新規160石を給せられる。
●元治元年(1864)
1月下旬−晋作、奇兵隊を率い京へ上ろうとする来島又兵衛に思い留まるよう説得に向かうが失敗し、そのまま脱藩、
京へ向かう。
3月25日−晋作、帰国。脱藩の罪で捕らえられ野山獄に入獄。
6月15日−来島又兵衛、遊撃隊を率いて京都に進発、翌16日、福原越後が諸隊300を率いて出発。
6月21日−晋作、野山獄を出され、父小忠太預けとして座敷牢に謹慎。
6月23日−英国留学をきりあげた伊藤俊輔、井上聞多、英国軍艦に乗船し密かに帰藩。25日、英国との和解を藩に訴える。
7月5日-伊藤俊輔、英国軍艦を訪れ、伊藤、井上の説得が不調に終わり藩の政策が変わらないことを告げる。英国軍艦、翌朝横浜へ向けて出航。
7月19日-[禁門の変。久坂玄瑞自刃。]
7月23日-長州藩追討の朝命下る。
7月25日-禁門の変後、京を逃れた長州藩家老・福原越後、給領地の宇部村床波(とこなみ=宇部市)へ帰着。
8月 5日-英仏米蘭4国連合艦隊17隻が、下関砲台を攻撃。
8月8日−晋作、長州藩家老・宍戸刑馬として連合艦隊旗艦ユーリアス号で第1回講和談判。
8月10日−家老毛利出雲(登人)らがキューパー提督と第2回講和談判。
8月14日-家老・宍戸刑馬(高杉晋作)が再び使者として第3回談判が行われ、四国艦隊との間に講和成立。
10月25日−晋作、九州へ亡命するため萩を出奔。
11月10日-禁門の変で幕府に謝罪恭順のため、三家老(益田右衛門介、福原越後、国司信濃)に切腹、正義派の四参謀(中村九郎、竹内正兵衛、佐久間佐兵衛、宍戸左馬介)
七幹部斬首。 三条実美ら五卿を九州太宰府に移す。
12月 5日-藩主服罪。
12月15日-高杉晋作が九州から戻り、遊撃隊、力士隊約80人を率いて長府功山寺に挙兵。16日、下関の藩会所を襲う。