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10月10日−毛利輝元・秀就(ひでなり)父子、徳川家康から防長2国を安堵される。
〔石高:298,480石、内長門国134,060石・周防国164,420石〕
家老福原広俊を中心に、新知行高、知行地を決める。毛利秀元を長府(36,200石)に、吉川広家を岩国に分封(ぶんぽう)する。
これまで領有していた6ケ国の新領主へ返租問題が生じる。
毛利秀元、長府の雄山(かつやま)城(串崎)を築いてこれに移る。
毛利輝元、城の候補地として三田尻、山口、萩をあげ、幕府より萩指月山に築城の許可がおりる。
6月1日−長州藩主毛利輝元が萩の指月(しづき)山に築城を開始する。
11月11日−築城途中の萩城へ輝元が入り、萩藩が成立する。
防長両国の石高を29万6,374石として幕府に報告する。
毛利輝元、五郎太石事件にたんを発し重臣熊谷元直、天野元信を誅罰する。この事件に関連して家臣
820余人、連署起請文を輝元に提出する。
この年から16年にかけて検地(三井蔵田検地)を行う。
萩藩、山代(やましろ)一揆(検地反対)を鎮圧し、責任者として庄屋ら11人を処刑する。
萩藩、防長両国の検地を完了し、石高52万5400石余を幕府に報告する
雲谷等顔(うんこくとうがん)が法橋(ほっきょう)に叙せられる。
毛利秀就がはじめて入国する。
4月13日−宮本武蔵、佐々木小次郎と舟島で決闘。
幕府取次本多正純の意見により、防長両国の石高36万9,411石3斗1升5合を表高(公認石高)とする。
萩藩、一ノ坂銀山を開発する。
大阪冬の陣に毛利輝元ら参陣する。